shin-1さんの日記

○書いた原稿が消えた?

 私は昨年の9月から他所へ行っていない限り殆ど毎日アメブロに記事を書いています。したがってその量たるや大変なもので、プリントアウトしているだけでも相当なものなのです。パソコンが苦手な私にとって、娘婿に進められてはじめたブログは、無料ということもあってそれなりに重宝して、今や私の生活の一部になっているのです。昨年の9月までの自分と今の自分を比較してみると一目瞭然、自分の進化状況がよく分るのです。私昭和19年生まれの62歳になりましたが、これまで長続きしなかった日記帳とは違って、これほど夢中になれた自分に、いやアメーバーブログに感謝しなければなりません。その分まだブログをやっていない人に、「おいブログをやってみないか。楽しいよ。やるんだったらアメーバーブログ簡単でがいいよ」なんて、他所のブログも知らないのに、何人もの人を勧誘し、知ったかぶりでその人たちとアメブロを介した交流を楽しんでいるのです。

 私のような年齢の人間がブログをやっていると、「えっブログやってんですか?」と不思議がられます。私はその度に、「年齢が高いのにブログをやるの?」という小馬鹿にした対応と、「その年齢であれだけのブログを書くのだから凄いという敬愛対応に意見が分かれていることに気が付き、「どういう意味ですか」と問い返すのです。まあそのくらいのことで目くじらを立てることもないのですが、まあそれなりに書いています。

 私がこのブログを書き始めて困ったことが二つあります。その一つは書いた文章を保存しようとした途端その文章が突然消えて「アクセス出来ませんでした」という表示が何度も出たことです。「しまった。プリントアウトしておくんだった」と何度も自責の念に駆られたものでした。私も他の人ほどではないにしてもかなりハードなスケジュールをこなしており、朝晩の空いた時間を割いてブログを書いているものですから、やっと出来たと思った瞬間の記事消えは落胆よりも疲労感や自責の念に駆られ、「あー自分のパソコン能力もこんなものか」と思ったりしたものです。ところが今日、パソコンをいじっていると、私と同じ声が沢山書き込まれているのを見て、私の手違いだけではなかったと少し安心した次第です。アメーバーブログは無料サイトであり、「文句を言うんだったら別のに変えなさい」と返されそうなのでこの程度で辞めますが、何とかそうならないよう努力して欲しいものです。

 もう一つの困ったことは、メンテナンスが多いということです。私が書き始める早朝には「メンテナンス中に付きアクセスできません」という表示が何度も出ます。予定の時間が過ぎてもまだメンテナンスが終わらないのか、相変わらずアクセスできず、ついには早起きは三文の損に終わってしまうことが多いのです。込み合っててアクセス出来ないのは諦めますが、メンテナンスの時間が勿体無いとはいつも思っています。ソフトバンクが電話番号を変えないで機種を変えるサービスをしたところつながりにくくなくなったことを思うと、パソコンの限界というのも少し感じ始めたこの頃です。

 パソコン人間でなかったにわかパソコン人間がパソコンに取り付かれ、今やパソコンなしでは夜も昼も明けぬ人間に変身した塾年のおじさんの楽しみをもう少し楽しませてください。

  「えっ消えた 俺の日記が 画面から 慌てた俺は 俺を恨んだ」

  「無料には 無料だからの 値打ちしか なにのでしょうか 寂しいですね」

  「同じ人 沢山ありて 一安心 みんなで渡れば 怖くないもの」

  「ワンランク アップダウンを 繰り返し 未だに同じ 場所に居座り」 

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shin-1さんの日記

○忙しい日々

 昨年4月1日からサンデー毎日になった私にとって、あれ程憧れていた「自由な日々」が遠のいてしまい、今は「自由な日々」どころか「忙しい日々」に変わっているのです。特に10月などは大変なもので、島根県西ノ島町(隠岐の島)はじめ、鳥取県北栄町、高知大学、山梨県笛吹市、高知県四万十市、愛知県名古屋市、群馬県玉村町、熊本県城南町、東京都三宅島、東京都白山と、まあ日本全国を木になるカバンを提げて縦横無尽に動き回りました。その間自治会長として秋祭りの世話をしたり地域づくりの県内のお手伝いなど、目の回るような忙しさでした。一昨日も同じ敷地内に住むおやじが「お前元気か」と一週間ぶりに話すほどですから察して余りあります。

 でも、日本全国あちらこちらを回って思うのは、そこここに人の暮しがあり、住んでいる町を何とかしたいと思って頑張る人の多さです。隠岐の島では伝統的な牧畑農業で島おこしを、北栄町ではコナンという漫画でまちおこしを、高知大学では大学の公開講座で地域支援を、笛吹市では青年会議所の若者が待ちの夢づくりを、四万十市西土佐ではまちづくりの基本である集落づくり

を、名古屋市では3県の知恵者が農業の未来を、玉村町では県下町村の議員さんがおらがまちやむらの政策を、城南町では社会教育委員さんが生涯学習によるまちづくりを、三宅島ではPTAの皆さんが子育てや地域づくりを、白山では地域資源を学問にと、それぞれの思いを胸に議論をしていました。

 「忙しい日々」の裏には、私の持っている論理と知恵に対する期待があるのですが、多分それは主催者が主催者に代わってその思いを参加者に伝えて欲しいという願いがあるのです。いくら高慢な理論でもいつも聞いている人の話しよりは部外者の話に耳を傾ける群集の弱みがあるから、それを私に託しているのでしょう。私もそのことを察知し様々な実践事例を元に熱弁をふるうのです。私はどの会場へ行っても壇上で話しながら、私に視線が釘付けになったり相槌を打って聞いてくれる人を探します。私のような者の話でも会場には手の指の数ほど、そうした意思を示す人がいるのです。私はチャンスとばかりにその人を視線の中心にして話します。するとその人の求めていることが少しずつテレパシーとしてこちらへ跳ね返ってきます。私の話はさしずめシンパシー(進一の意思)ですが、その目に見えないやり取りが続き試合は終了します。終わった時の質問や帰ってからの手紙が届くのは殆どこの人たちであることに気付くには相当時間がかかりましたが、大多数の中の少数を選んで話することは、集会の成功には絶対必要なことなのです。

 この人たちは不思議なものでむしろ成功経験より失敗経験を聞きたがります。私も出来るだけ失敗談をくり返しながら「ああ若松さんも私たちと同じ悩みからスタートしているんだ」と納得させるのです。

 今日はこれから県内の県立高校へ話しに行きます。半世紀も年齢の離れている若い高校生に私のような賞味期限の切れた人間の話など馬事欧風、何の役にも立たないかも知れませんが、「今やれる青春」を標榜する私としては、昨晩愛媛大学の大学生相手に講義したように、彼らの心の扉を開くような話をしたいと思っています。さりとてどんな話をするか、壇上に上がらないとイメージがわかない悲しい癖を持った男ですのでさてどんな話になるか心配です。

  「この会は 眠る人あり 不平言う 眠る話を した人悪い」

  「自由日々 楽しむはずが 忙しく 声がかかりて これも人生」

  「文届く 話を聞いて 感動と 逆に感動 こちらの方が」

  「銭湯で 見覚えある顔 人が言う テレビで見たよ おちおちできぬ」 

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shin-1さんの日記

○叶うという漢字

 島根県の友人からメールが入り色々と考えさせられました。彼は私たちの地域では「潜りさん」といって、海に潜ってサザエやアワビを獲って生活する潜水漁師なのです。子どもの頃から海端で暮し、海を遊び場として育ってきた私にとって、海に潜るという仕事がどんなに苦しいものかは想像がつきますが、それは素潜りの話であって、酸素ボンベや海上の船からホースで空気を送るのとは訳が違うのです。人間は長い人でも余程のことがない限り5分以上自分の息を止めることは不可能です。この文章を書きながら僅か1分息を止めてみましたがもうアップアップでした。ましてや水温の低い海中となるとこれまた話は別で、私などが海に潜ると耳に海水が入ったり足が海中に消えたかと思うとすぐに頭が出るような手合いで中々上手く潜れないのです。

 「潜り」といえば何か悪い意味に取られがちですが、潜りさんは立派な仕事であり、愛媛県の佐田岬の突端にある旧三崎町では沢山の人が口開けなど、漁村独特のルールを守って磯根資源であるアワビ、サザエ、天草、ワカメなどを獲って暮らしています。私たちの町の「潜りさん」はエアーホースで空気を送る方法が殆どで、素潜りのような業師ではありませんが、それでも黒いウエットスーツを身にまとい、腰に鉛の付いたバンドをつけて真冬の海に潜ります。これからは忘年会や新年会に合わせたナマコのシーズンで、赤ナマコは特に珍重され高値で取引されているようです。

 潜水は息を止めねばなりません。海中から上がるとこれまで堪えていた呼吸動作を息早にくり返すのですが、私たち人間はこの空気を吸ったり吐いたりする行動を殆ど何の意識もせず自動的にしています。海に潜って出て海上に出てきた時初めて、「ああ俺は息をしている」と実感するのです。と同時に吐くことと吸うことの意味も分るのです。吸うだけや吐くだけで人間の呼吸は成立しません。吐かなければ吸うことも出来ませんし、吸わなければ吐くことも出来ないのです。

 友人のメールでは、吐くことに言及していました。「吐く」という文字は分解すると口・+・-=吐です。つまり息を吐くことは口から酸素を入れたり出したりするための動作、つまり吸うための入口なのです。健康法に呼吸法という動作があります。吐くことに集中して息の限りに吐くのです。そうすると背筋が伸びて良好な酸素が体内に送り込まれてくるのです。昔の人は漢字一つ作るのにも数学的見地から作ったのでは?としみじみ考えさせられました。ちなみに口のついた漢字を分解すると色々な話題が登場します。口に-で日、口に+で叶、同じく口に+で田、口に食で喰など面白い物語が潜んでいます。

 ちなみに私が彼に送ったメールでは「叶」という文字でした。願い事が叶う時に使われる「叶」は口に+と書きます。さしずめ物事が成就して叶うためには口を+にしなければなりません。つまり自分の願望を口に出して言うことなのです。人間は失敗を人に知られたくないから、得てして願望を自分の胸にしまい込んでこっそりと努力するものです。元論その行動を否定することは出来ませんが、私の場合は出来るだけ自分の願望を人に言うようにして成就してきました。「夕日を日本一にしたい」とか、「人間牧場を作りたい」とかこれまでにもたくさんの目標を公言してきました。特に「アメリカへ行きたい」なんて願望はもう小学校5年生の時に仲間に打ち明けていたのですからしたたかです。でもお陰さまでそれらの殆ど全てを手に入れることが出来たのです。

 言わずにやるより言ってやることは自分にプレッシャーをかけるだけでなく、人からの目に見えない圧力となって大きくのしかかりますが、やった後の評価は抜群のようです。

 さて私の当面の目標であった「人間牧場」も退職後の1年余りで完全に手中に収めることが出来ましたが、次なる目標をそろそろ公言しなければなりません。叶うという漢字を肝に銘じて頑張りたいものです。

  「叶うという 文字に秘めたる 口+(プラス) 言ってやるから 評価は上がる」

  「呼吸する ことがどんなに 大事だか 忘れてました 日々の暮しで」

  「メールから 学ぶことあり 立ち止まり ああそうなんだ 納得しつつ」

  「見えなくも 見えてきたよな 思いです あなたはいつも 俺に知恵つけ」

 

 

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