shin-1さんの日記

○合併で市町村名がグチャグチャ

 私のパソコンには筆王なる住所録ソフトが入っており、幾つかのジャンルに分けて知人友人、それにお世話になっている方々の住所や氏名が登録されていますが、この2~3年で氏名こそ変わらないものの、その人たちの住所は大きく様変わりをしました。特に愛媛県内は昭和30年前後の市町村合併以来半世紀、殆ど変わらず70市町村を数えていました。ところが今回の平成の大合併でその数は20市町となり、愛媛県内から村という自治体は姿を消しました。

 多分移行期間で郵便局では旧の市町村名でも届けてくれるでしょうが、そうもいかず住所録の変更と相成りました。しかし県内はそれなりに変更出来るのですが、県外の住所はいちいち覚えているわけでもなく、年間をかけて直さないと対応出来ないことに気づき、今年は旧市町村名で出すことに決定をしました。

 それにしてもまあ凄い変化です。約千名の住所録の変更がこんなにも時間がかかるものなのかと思うとつい手も進まず、結局昨日は夜遅くまでかかってしまいました。それでも住所録を変更しながらその人の顔を思い出し「ああ、あの人はついぞご無沙汰だが、元気なのだろうか」とか、様々な記憶の人と巡り会って良かったです。とりわけ今年亡くなった人の思い出は鮮明で、喪中のハガキを頼りにその人の名前を消してゆく作業は身につまされました。

 退職を機に年賀状の整理をしようと思って始めたものの、その人の名前は捨て難くついつい残す決断をすると、結局はそんなに減ることもなくその作業は来年に持ち越しとなりました。

 遅ればせながら今日は年賀状の印刷です。昨年までは馴染みの印刷屋さんに印刷を依頼しましたが、今年は自分で私恒例の10大ニュースを書いて印字しようと試みましたが、あいにく上手くいかず、結局は長男の所へ届けて印字をしてもいました。

 私は自分の優柔不断さから、毎年このように年末押し迫らないと年賀状が出来ません。住所録を作った時の「来年こそは」の意思も腰砕けでした。でも来年こそは郵便局に迷惑がかからないようにしたいと思います。

  「あの人のまちの地名は何だっけ慣れぬ名前は辞書にも載らず」

  「俺の町郡を市にするだけでよい合併騒ぎ昨日のようだ」

  「合併し9ヶ月程経ったけど俺の暮らしは殆ど変わらず」

  「えーとえーとと首をかしげて思い出す思い出せない新し地名は」

  

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shin-1さんの日記

○表彰状をいただきました

 役場の職員という職業は表彰など殆ど無縁なものなのですが、私は何故か表彰とよくよく縁があるようです。青年の船の班長として建国200年のアメリカへ行った経験を、総理府30周年記念論文に応募したところ、何と総務庁長官賞を東京赤坂プリンスホテルで受賞しました。その後まちづくりでは町や団体が総務庁長官賞2回、自治大臣賞、愛媛地域づくり創造賞、愛媛アメニティ賞、テレビ愛媛賞など名だたる賞を総なめにしましたし、自身もPTA功労者全国表彰や知事表彰を受けています。でもそれは過去のことで退職した私には関係ない世界だと思っていましたら、先日県庁から金融広報功績者として表彰すると通知がありました。耳を疑ったのですが、30年も続けている金融広報委員として、今までは公務員だったので表彰できなかったそうで、思わぬ表彰通知にびっくりしました。

 今日はその表彰日で県議会の立派な会場でうやうやしく表彰状をいただきました。県知事さんの代理ながら県の部長さんが祝辞を読み、日本銀行松山支店長さん自らも出席して祝辞を述べられました。そして謝辞や記念撮影まであり、格式のある表彰を実感しました。記念品は桐の箱に入った砥部焼の立派な花瓶でした。謝辞など聞いていなかったので即興で感想を述べました。

 「昭和51年に当時は日本で一番若い貯蓄推進員に任命されました。以来31年間生活設計と金銭教育という自分の得意の分野で県下各地を回って指導をしてきました。今年は雪が沢山降って寒いですが、この仕事のお陰で心も財布も温かく感じます。表彰は終わりではなく出発点、恩に報いるために更なる精進を誓います」と本音を述べました。帰りに日本銀行に立ち寄り来春で切れる任期後も言葉に甘えて続ける旨の返事を言って銀行を出ました。

 私が金融教育に携わってきたこの30年、日本の金融をめぐる社会環境は大きく様変わりしました。高度成長は低経済成長へ、ペイオフや金融業会の再編、低金利時代、振り込め詐欺など県民の暮らしにかかわる出来事が次々と起こっています。金銭教育元年と定めてスタートした背景も社会の乱れの原因が金銭であることを物語っているようです。小さな草の根のような私たちの活動は、取るに足らないことかも知れませんが、今こそ次なる世代へしっかりとした金銭教育や生活設計の重要性を教えてゆくべきであると思うのです。

  「表彰状知事の名前が書いてある成果も挙げぬ自分恥ずかし」

  「表彰状貰うは辞めよのシグナルか妻の警告有難く聞く」

  「副賞に貰った花瓶高そうね値踏みの妻は早速花活け」

  「日銀はわれら庶民に縁遠いなのに私は30年も」

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shin-1さんの日記

○このゴミ誰が出すの

 毎日毎日とどめなく出るゴミの量を見て「このゴミほど金が貯まったら大金持ちになるのになあ」と、ため息をついていらっしゃる方も多いことでしょう。ゴミの量は普通の場合家族の数と比例しますから、家族の多い家はゴミの量も多いようで、私の家もご多分に漏れず毎ゴミの日には両手で抱えきれないほどのゴミを近くのゴミ置き場まで持って行きます。特に年末のこの頃は多かれ少なかれお歳暮が届き、その包装類や掃除で出たゴミでいっぱいになっています。

 何年か前私の町ではごみ減量作戦としてコンポストと燃えるゴミは自家焼却処分にしていました。ところが最近になってダイオキシンによる大気汚染が問題になってから自家焼却処分は自粛されたものですから、明らかに自然ゴミと分かる落ち葉などもビニール袋に入れて出さなければならず、当然ゴミの量も増えています。わが家のように敷地内に畑があり、落ち葉を埋めて堆肥にしたり出来る家は良いのですが、市街では殆どの人がゴミにしているのです。

 コンポストも当時は鳴り物入りで補助金を出し、多くの人がコンポストに生ゴミを入れてEM菌の籾殻をふりまき、堆肥にして再利用していました。しかし今は合併の影響もあるのでしょうが、そうした取り組みを指導してくれる人もいませんのでなし崩し、打つ手なしの状態です。

 ゴミは住民自らが持てる力を発揮しないと減らないし、マナーも資源再利用の意識も向上しませんが、行政の流行り病のような指導ではこれまた長続きしないのも実情です。

 「このゴミ誰が出すの」という言葉には四つの意味が込められています。一つはこのゴミを出すのは家族の中の誰でしょう。家の中ではみんながゴミを出すのです。二つ目は、さて出したゴミは誰が出すのでしょう。家から出たゴミをゴミ置き場まで運ぶのは妻ですか、私ですかと出す人を問うています。三つ目は出し方のマナーを守るべきゴミ置き場周辺の群衆です。そして最後はみんなの税金を使ってゴミ処理を担当する行政と出す住民の関係になるのです。

 ゴミ問題は結局は私ひとりから始まり自分の所へ帰ってくるのです。いい市民でありましょう。

  「持てぬほど提げてゴミ出すお父さん今は見慣れた朝の風景」

  「弾みますゴミ端会議の延々とパジャマ姿のおばちゃんもおり」

  「透明の袋でゴミの中身見え賞味期限の過ぎた手付かずお肉」

  「誰もまだ出してないけどゴミ置きて走り去り行く見知らぬ女性」

 

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shin-1さんの日記

○面の収集

 私は面の収集をしています。面といえば能面を思い出しますが、日本全国には沢山の面があってその表情が中々面白いので、若い頃から旅のついでになけなしの財布をはたいて小遣い銭で買い求めてきました。面はお土産屋と骨董屋に行けば色々な面を見ることが出来ます。特に骨董屋には掘り出し物の面があって、ご主人を相手にした値切りの駆け引きが実に面白いのです。ある時など旅先で2万円もする面を購入して旅行の途中ずっと持ち歩いていましたし、自宅に持って帰って面を見た子どもが泣きじゃくったり、妻と「こんな面を買うなんて呆れて物が言えない」と夫婦喧嘩のネタになったりしたこともありました。

 しかし今では妻も面収集のよき理解者で、旅行に行くと珍しい面をお土産に買ってきて「高かったのよ」と恩を着せるのです。

 中国出雲地方には伝統的神楽が沢山残っていて、珍しい神楽面を見ることが出来ますし、魔除けとして売られています。島根県へは軒並みの市町村へ講演に出掛けていますので、神楽面に出会うのも楽しみの一つです。先日も島根県益田市の面々が双海町へ大勢で視察に来られた時、神楽面をお土産にいただきました。

 面は我が家の海の資料館「海舟館」の壁に吊るして保存していますが、今ではその数ざっと40面近くあり中々の風情です。

 面は魔除けといわれるだけあって般若や天狗など想像架空の世界が多いようですが、般若や天狗の面も地方によって随分表情が違うようで比べて見ると面白いものです。

 私が一番気に入っているのは天狗の面で、昔から「天狗にならぬように」と戒めの言葉があるように、自分の戒めとして面と向かい合ってきました。天狗の面を骨董屋で買い求めた時、鼻の折れた天狗面を見つけました。ご主人が「これは天狗の象徴といえる鼻が折れていますので売り物になりません」と引っ込めましたが、私はそれをタダ同然で譲り受けました。ご主人は「面白いお客もいるものです」と不思議がりました。私は帰ってから父にその修理を頼みました。見事に復元して鼻が折れたことなど感じませんが、私はこれを自分の戒めとしています。

 面はこれからも凝ってみようと思っています。昨年地元の銀行がロビー展で私の面を飾りたいと申し出がありました。結果は好評でした。

  「面汚しそんな言葉を思い出す面の表情見れば見るほど」

  「鼻折れた面を譲れという私主傾げてタダも同然」

  「お土産に面を提げ来る視察人俺の喜ぶ顔が見たいと」

  「面を取れそういわれてもこれ真顔怒るに怒れぬジョーク聞きつつ」

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shin-1さんの日記

○私の10大ニュース・その3

 8月14日  結婚してこの方、忙しさと私のわがままで新婚旅行以来二人で旅行に行った事がなかったのですが、思い切って退職記念の海外旅行に行きました。カナディアンロッキーとナイアガラの滝を組み合わせた共済の旅行でしたが、妻は私のサービスに大感激で10日間の旅は二人にとって忘れられない旅となりました。ナイアガラの滝のスケールの大きさやカナディアンロッキーの氷河を見て、人間の小さいのに驚きながら地球の広さを実感しました。

 また行きましょうと同行して出来た仲間と約束しましたが、何時のことやら・・・・・。

10月1日  三男が就職試験に合格し念願の警察官になり警察学校に入校しました。三男は大学卒業後会社員として4年間働きましたが、長年の夢を捨てきれず円満退社し、自宅で自主勉強しながら地元のサッカー倶楽部で身体を鍛え、努力の甲斐あって成果を収めたのです。わが家には3人の息子がいますが、看護士を目指して頑張っている次男ともども転職の経験をしています。回り道かも知れませんがこれも人生でしょう。

 10月8日  長男があゆみさんという女性と結婚しました。跡取りの結婚式だけに親父も大層喜んで式に出席してくれました。当分は松山に住んで新婚生活を楽しむようですが、いずれ私たちとの同居を考えています。30年前船出した私たち夫婦も長女と長男が結婚し家族がどんどん増えています。今度の正月は長男夫婦と一緒に過ごします。

 12月26日  これは10大ニュースのトリを飾る予定の出来事で、本当はまだ公表は出来ないのですが、明日26日愛媛県庁で愛媛県より金融知識普及功績者表彰を受ける予定です。昭和51年より実に30年間の長きにわたって貯蓄推進委員会の推進員として活動してきました。妻曰く、「表彰を受けるといういうことは、むそろそろ幕を引くとき」だそうです。続けるも止めるも自分が決めることですから、しっかりと考えておかなければなりません。

 以上が私の今年の10大ニュースです。来年もよき10大ニュースを作ります。

  「私にも10大ニュースありました指折り数え過ぎし思い出」

  「気がつけば今年も残すは5本指急ぎあれこれ片付けなければ」

  「年賀状今は簡単パソコンで合併住所はてはてはてな」

  「鏡見て若くなったと独り言それは気のせい影声聞こえ」

 

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shin-1さんの日記

○私の10大ニュース・その2

 4月1日  幕を閉じた双海町に変わって1市2町による新生伊予市が誕生しました。4万1千人の小さな市の誕生です。生まれた時下灘村の村民だった私は10歳で双海町民となり、60歳で伊予市民となりました。あと25年余り生きると仮定したらもう一回ふるさとの名前が変わる可能性もありますが、とりあえず私は伊予市民として生きてゆくことになり、名刺もパソコンのメールアドレスも変更しました。勿論講演などで出掛けた先々で「伊予市の若松です」と紹介せねばなりません。

 4月1日から地元の灘町という集落の区長をすることになりました。長年の不義理とお世話になった感謝を込めて自治会長職をこなしてきました。田舎の自治会長は中々忙しく、やれ防犯灯切れたの下水道が狭いので直すよう取り次いで欲しいだの、様々な要望を取り次ぎます。また公民館の管理や貸し出しまでする有様です。盆踊り、敬老会の主催も大切な仕事です。

 恩返しといいながら、300戸余りの双海町では一番大きな集落だけに少し戸惑い、少し慣れて何とかやっています。

 4月20日  愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤職員としての仕事が始まりました。この仕事は教育長時代からやっていたことなのでもう3年目になります。今年は26人の学生が私のガイダンスを聞いて応募してくれました。ガイダンスで私の人気は高く希望者が沢山ありましたが、私がその希望調査のコメントを読んで決めました。いい学生が揃っています。今年のフィールドワークでは西条市・砥部町・大洲市・伊予市双海町を撰び調査をしたりしました。「教えることは学ぶことなり」といつも考え、それなりの学習をこれからも続けたいと思っています。

 7月29日  人間牧場の「水平線の家」の建前をしました。4間半に2間半の小さな建物ですが、建築士の息子が設計し親子喧嘩をしながらやっとの思いで建てました。4月から瀬戸内海を見下ろす山の上に上がって木を切り草を刈り、土地を造成し、大工さんと土木業者さんの力を借りていよいよ念願の人間牧場建設が始まったのです。海と空の広がりがまさに絶景です。私の新しい人生はここから始まります。何をするのかはブログを読んでください。

  「わが人生村民町民市民へと出世街道昇りつめたり」

  「自治は何宝くじかと思いきや暮らしを守る大事な仕事」

  「高卒の私が何と大学で教壇立って話するとは」

  「あの土地にあのよな家を建てたいとめぐらす夢の叶うやうれし」

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shin-1さんの日記

○私の10大ニュース・その1

 誰にだって一年365日が平等に与えられ、一日24時間を絶え間なく刻んで日々を暮らしているのですから、その年の自分の10大ニュースくらいはあるものです。私は毎年その10大ニュースを「青春の履歴書」と称して年賀状に書いてきました。61歳になって青春なんてと言われますが、私にとっては「今やれる青春」なのです。本当は年賀状を差し上げた人のみが知る私の10大ニュースなのですが、今年から方向転換し、年賀状を極力少なくする決意をしました。何故なら私は毎日3枚のハガキを18年間

毎日書いていますし、少し変化をさせて進化したいと思っているからです。去年は私への年賀状は千枚を越えましたが、そろそろ出会いの整理も必要と思っています。

 そこで一足早い私の10大ニュースをブログで書くことを考えました。私にとってこの一年間はまさに人生の転換を意味する大きなニュースが余りにも多過ぎたことを、自戒の念をこめて書いておきます。

 3月6日  双海町最後のまちづくりフォーラムが開かれました。私がまちづくり担当になって初めて開いたのが「18時間マラソンシンポジウム」でした。あくる年には「コスモス鉄道2001年の旅」を企画し、双海町の名前が少しずつマスコミに取り上げられるようになりました。20年間もまちづくりシンポジウムを連続して開催しているまちはそんなに多く多くありません。このまちづくりシンポは双海町の隠れた功労者です。振り子時計の議論がやがて夕日というかけがえのない地域資源を生み、弾み車となって花開きました。

 この日、教育長になった私が2年間在籍のマニフェストとして掲げた「双海町誌」発刊の記念すべき日となりました。800ページに及ぶこの本は2年間の編纂委員会委員の皆さんが知恵を出し合った成果です。毎月1回の編纂委員会も終盤には校正などで大変な苦労がありましたが、多くの方々の努力で、閉町前の秒読み段階での完成でやきもきしました。でも追録から改定へ大きく舵を切っての作業だったけれど、役割を果たしてホッとしています。

 3月31日  双海町という自治体が日本から消えました。合併による再編という美談とは少し違った町の消滅はやはり寂しいものがありました。特に35年間も役場に在籍しそれぞれの時代の町の歴史に関わってきたのですから寂しさも一入です。最後の2年間は教育長として多くの仕事をこなしました。思い出に残る730日はいつか記録にして残したいと思っています。もう少し早くブログに出会っていたらと思うと残念ですが、まだ私の頭の中は痴呆が進んでいないので大丈夫だと思います。この日は私の人生にとって生涯忘れられない一日であり、退職という考えようによれば重くも軽くもなった一日でした。

 私はこの日たくさんの人から花束や餞別を貰いましたが、一番の功労者は何と言っても妻です。その妻に心からなる感謝を込めて「退職報奨金」を贈りました。つまり私が妻に贈った後にも先にもない「退職金」です。妻が涙を流して喜んでくれました。

  「今年また10大ニュースの頃となる私の一年激動でした」

  「町閉じる仕事も閉じる寂しさも明日から荷物軽くなりけり」

  「教育長役職取ったらただの人俺には何が残っているのか」

  「本当は妻が支えたわが人生古き封筒感謝を入れて」

  

 

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shin-1さんの日記

○孫が池に落ちた

 それは突如として起こりました。今朝孫を連れてシーサイド公園へ遊びに出掛けました。冬の海岸は通る風も冷たく、人通りもまばらでした。すっかりお馴染みになったじゃこ天のおばちゃんと口相撲を取り、クリスマスのプレゼントにお菓子を貰ったまでは最高でした。孫は顔馴染みの所長さんから鯉の餌を貰い、悦に入って餌を投げていました。「朋君池に落ちないように」と所長さんの警告も聞かず、冬で餌を余り食べない鯉に餌を遠投げしようと身を乗り出した瞬間、ボチャンと池に落ちてしまったのです。驚いたのは私だけではありません。落ちた孫の方がもっと驚き、泣きもせず私が引き上げました。孫は重装備だったのですが、全身ずぶ濡れで寒さに震えました。

 私は抱きかかえ車に乗せて家まで一目散、服を脱がせストーブで暖を取りながらしっかり拭いてやりました。風呂を溜め身体を洗ってゆっくり暖めてやった頃、やっと正気にもどって話し始めました。鯉が餌を食べないので遠くへ投げたこと、自分が落ちてずぶ濡れになったこと、おじいちゃんが助けてくれたことなどを話すのです。そして笑い話のように「ぼく池で鯉と一緒に泳いだよ」と話す姿はやはり子どもの世界です。

 それにしてもラッキーでした。もし私が近くにいなかったらと思うと、帰省して孫が事故にあった話を思い出しながらゾッとしました。孫は何事もなかったようにはしゃいでいますが、孫を預かることの重みを感じた一幕でした。風邪をひかぬか心配していますが、今のところそんな様子もなく一安心です。昼には父親が迎えに来るのですが、平に謝りたいと思っています。

 孫の一生はまだ始まって3年余り、百年生きると仮定したらまだ97年の長き人生があります。多分これからも様々な試練にあうでしょうが、せめて周りの気配り目配りだけはしっかりせねばと思いました。

 私の責任は重いです。過失致死までは行かなかったのですが、一歩手前でした。

 今日はクリスマス、孫の思わぬハプニングに驚かされ動揺の色は隠せません。一寸先は何があるか分からない、今年も残された日々を穏便に過ごしたいものです。

  「冬池に孫が飛び込む水の音血の気引きつつ抱えて家に」

  「鯉に餌やりたかったの震えつつ喋る孫顔青ざめており」

  「妻娘私に冷たい声浴びせ子守りもできぬ歳になったと」

  「風呂の湯気孫と私を包み込む顔に正気の笑みが戻りて」

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shin-1さんの日記

○不燃物磨けば立派なお宝に

 近所に住む妹が何やら古い鉄の塊をおやじの所に持ち込みました。日ごろはこのところの寒さで冬眠暮らしをしているようなおやじですが、生きがい発見とでも言うのでしょうか、その鉄の塊を見てワイヤブラシで磨き始めたのです。妹にとっては古い家を壊して新築した際に出たゴミなのですが、おやじにとっては新しい生きがいの対象物なのです。

 隠居へ呼ばれた私に目利きするよう言われても、おやじの方がはるかに目利きなので同調するしかありませんでした。鉄瓶はさして珍しいものではないのですが、その下の炉は見たこともないような物なので「磨いたら面白いかも知れない」と言い残しその場を去りましたが、昨日は一日中それらをいじくっていました。

 今朝、朝のあいさつにおやじの隠居へ行って驚きました。誰も見向きもしない鉄の塊が錆を落とされ立派なお宝に変身しているではありませんか。おやじも「余りいいものではないが、珍しい道具だ」と満足しきって盛んに磨いていました。まさに「磨かぬ宝光なし」でしょう。

 このように私のおやじは古いものを大事にする古風さと目利き、それに器用な腕を持っているため色々な人が色々な物体を持ってきてくれるのです。

 3年程前だったでしょうか、ある人が室戸へ仲間と旅した折、海岸に得体の知れぬ鉄の塊を見つけたそうです。次の年に行っても同じように転がっていたので、珍しいと車に積んで拾って帰りました。庭の隅に置いていたのですが赤茶けた鉄の塊は何とも奇妙で、家族も気味悪くなって私の元へ届いたのです。「あなたが気味悪いものは私も気味悪い」と断ったのですが、懇願されてわが家へ運ばれて来ました。

 おやじはそれ以来、ワイヤブラシで床置きにするような鉄本来の黒光りまで磨き上げてしまったのです。私もこの物体の正体を色々調べましたが結局は何なのか分からずじまいでした。私はこの鉄の塊を「くじらの卵」と名付けて大切に保管しています。先日も持ち込んだ彼がやって来て、余りの見事さに「返してくれ」といわんばかりでした。

 おやじは凄いと思います。88歳の老域とは思えないパワーは到底真似の出来ないものです。私は時々知り合いの骨董屋を訪ね、金など出さないガラクタ1点・2点を貰って帰り、父にプレゼントします。父は喜んでそれを磨くのです。妹もそのことを知っての不燃物持込みだったようです。

  「不燃物父の手により光りだす値打ちなくても生きがいの足し」

  「尺取の虫にも似たりコツコツと俺も老後はあんな生き方」

  「機関銃魚雷まである俺が家今度はドデカイ鯨の卵が」

  「親父言う今度は俺が展示品古くなったぞもうそろそろか」

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shin-1さんの日記

○灰が届く

 人間牧場は今朝からあられ交じりの雨で、折角の休日作業を目論んでいましたのに残念ながら行くことが出来ません。今日の作業は囲炉裏の中に灰を入れる予定でした。仲間のAさんが砥部焼きの窯元から釉薬に使う木灰を調達して持参してくれましたので、朝から囲炉裏話に花が咲きました。Aさんは自動車の塗装をする会社の社長さんですが、アウトドアーに長けていて150人もの会員を抱え、様々な活動を長年にわたって手広くやっています。出来た人で痒い所に手が届くような気配りの人です。

 彼から少しショッキングな話を聞きました。50歳を超えた彼には病院に勤める奥さんと車屋の後を継いでる息子さんがいます。普通だと誰もがうらやむ安定した家庭だとお見受けするのですが、息子の自立のために車屋は息子さんにまかせ、奥さんを一日も早く楽にしてあげたいと自立の道を歩み始めました。

 彼が長年温めていた燻製業を生業にしたいというのです。私は正直驚きました。魚や肉の燻製はアウトドアー派なら誰もが憧れるものなのですが、いくら燻製のとりこになったとはいえそれで飯が喰えると思えませんから、他の人と同様私も反対しました。でも彼の決意は固く既に様々な試作品を作って、様々なジャンルの人の意見を聴いているそうです。「人間にはやりたいことがあるしやるべき時期がある」と口角泡を飛ばしてまくし立てるのです。「若松さんあなたの人間牧場への取り組みと同じですよ」とも言われました。

 私は彼に真剣に話しました。私と彼との立場の違いなどを話しましたが結局は固い決意に押されてしまいました。私は「あなたにはあなたのやりたいことがあるでしょう。それも自由です。でも奥さんと息子さんを金銭的に巻き込んで悲劇にならないように」と付け加えました。彼の姿を見ているとかつての自分のような錯覚にとらわれました。彼が試作したアメノウオの燻製を食べてみました。確かに美味しいのですが、これが売れ、これで儲け、これで飯が喰えるようになるためにはそれ相当の覚悟が要るでしょう。彼の想いの強さに大きな拍手を送ります。でも人間って不思議です。今の暮らしで十分満足すればよいのに、敢えて苦しい回り道をするのですから・・・・・・。向こう見ずとも取れる彼の目は輝いていました。

  「この灰の元は一体何なのか思い巡らせ囲炉裏の周りに」

  「止めとけと誰もが忠告する仕事敢えて乗り出す男の頑固」

  「損得で計れぬあんたを見習って言われてみれば俺も大馬鹿」

  「少しだけ俺に似たのか孫仕草喜ぶべきか悲しむべきか」

 

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