○旅の友は本なり
私のようにしょっちゅう旅をする人間にとって少し軽めの本は,肩も凝らず目も頭も疲れず結構重宝にしています。旅の途中で本屋さんに立ち寄り立ち読み代金として安い本・軽い本を2~3冊買い込みます。
今日買った本の一冊に司馬遼太郎の「人間というもの」があります。司馬遼太郎自身が書き下ろした小説の名文のくだりが短く列挙してあり、かつて司馬遼太郎の本をむさぼり読んだ時代が懐かしく思い出されました。
「藤兵衛、人間はなんのために生きちょるか死っちょるか」と、龍馬は膳ごしにいった。
「事をなすためじゃあ。ただし、事をなすにあたっては、人の真似をしちゃあいかん」
世の既成概念をやぶる、というのが真の仕事というものであると、龍馬はいう。だから必要とあれば大名に無心をしてもよい。 「龍馬がゆく二」
このくだりを私に置き換えてみました。私はただひたすらまちづくりの仕事を20年間もしてきました。私は国土交通省の観光カリスマ百選に選定されていますが、私のカリスマ称号はいみじくも「真似しない真似できない・・・・」です。常識であれば、沈む夕日より昇る朝日を選ぶでしょう。既成概念では夕日などまちづくりの地域資源にはならぬと誰もが考え反対しました。しかし私は「夕日で飯が喰えるか」という人々の反対を説き伏せ、夕日を地域資源にまちづくりを実行ました。竜馬は大名に無心を言いましたが、私は国や県に無心をしました。似たような考えや似たような行動はこの本の中にいっぱいあると思いました。
人間の才能は大別すればつくる才能と処理する才能のふたつに分けられるに違いない。西郷は処理的才能の巨大なものであり、その処理の原理に哲学と人格を用いた。 「歳月」
このくだりを読む限り私は西郷型の人間ではないことに気付きます。処理する才能もつくる才能も世の中には必要なのです。
人間は人並みでない部分をもつということはすばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるバネになる。 「沢庵のたいまつ」
このくだりを読むと私のような凡人が、掃除なら出来るだろうと朝5時から毎朝12年間も掃除に明け暮れ、誰でも出来る掃除を人並みでない部分にしてしまったこと、そのことをバネに様々なアイディアを考えてきました。熱々のじゃこ天に串を刺して歩きながら食べるアイディアも、夕日の望遠鏡と名付けてちくわを売るヒントも掃除から学びました。
「熊手持ち掃除の度にかき集めアイディアヒント儲け話に」
「気がつけば俺は申年知恵が出る竜馬の二倍生きているんだ」
「UCC空き缶拾って出来ましたわが町特産夕日日コーヒー」
「何でだろう何時も疑問が駆け巡るこれが私の才能なのかも」