shin-1さんの日記

 人は生きてゆくために色々な情報を手に入れます。私の場合も新聞や雑誌の類から、テレビやラジオまで様々なメディア媒体を通して入る情報はおびただしく、そのほとんどは聞き流し情報として暗黙のうちに処理されて忘れさられてゆきます。私の場合最近は、インターネットからの情報割合が多くなりつつあることも実感しています。

 しかしそんなメディア情報の他に、自らの五感を使いながら双方向に流れる身近な情報の存在も意識しておかなければなりません。むしろそうした身近な情報こそが生きていくためには必要なのかもしれないと情報という文字を見て実感するのです。情報とは書いて字のごとく情けの報、つまり「心と心、顔と顔、手と手の温もりあるものも情報である」との認識です。また情報という字の情を場にする現場の情報という考えも成り立ちます。

 「人間牧場」情報もブログの力や私の情けの報や、それに現場の報の力によって随分あちらこちらで話題になってきました。嬉しいことです。 素晴らしいことです。「人間牧場」の大きな狙いに情報の発信がありますが、これからも情報の発信には特に気を配って行きたいものです。

 「人間牧場」は、私の持論である「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」そのものですから、やがて人が集まってくることでしょう。また私のまちづくりに対する3つのキーワドである「楽しい」「新しい」「美しい」も追求してゆくつもりです。

 「人間牧場」から「新しい風」が起こりつつあります。

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shin-1さんの日記

 早朝7時に早起きした息子と、久しぶりに「人間牧場」へ出来具合を見に出かけました。

 剣道を1キロ弱、国道を9キロ弱、町道(農道的)2キロ、合計12キロ弱の道のりを、妻の愛車(軽四自動車アルト)を運転して約10分余り走ると目的地に到着します。多分始めて訪ねる人は町道約キロの道の狭さに恐怖心を覚えることでしょう。まず入り口の鉄道下をくぐる狭いトンネルで驚きます。その次に待っているのは急な断崖の岩肌を縫うように走る狭い道は思わず体全体に力が入り冷や汗ものです。

 たまに案内する人からは、この道を何とかという言葉をいただきますが、当の本人の私は余りそのことを恥ずかしいとは思っていません。むしろこの道で来訪者の餞別ができる、つまり「33ナンバーの車はご遠慮くださいといわなくても、「人間牧場」に分相応と思える人しかこれないという訳です。軽4、トラック大歓迎の作戦なのです。

 早朝の海や山は朝日に輝いて目にも鮮やかに見えましたし、空気が美味しいと思いました。草刈をした後に伸びたハズの葉っぱには、初秋に見られるハズ虫の大群が群がり、体を震わせながら葉っぱを食べていました。多分都会の人は「気持ち悪い」と思うでしょうが、私としては全然平気な自然の営みと映りました。

 ある人が「畑に草が生えて困る」と言ったのを聞いて、「ここはもともと草むらでした。そこへ人間が入ってきて植物を作るのですから、草が生えるのは当たり前、草が生えないようにしようと思うことは人間のエゴでです」「草の既得権」を主張しました。納得納得です。

 雨宿りのつもりでしょうか、それとも人間が恋しいのでしょうか、家の中にハズ虫が早くも2匹入り込んでいました。キャー」都会から来る人の悲鳴が聞こえそうです。面白い。

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shin-1さんの日記

 まちづくり人は得てして家族や地域と対立するものです。理想に燃えて活動すればするほどその分、家族や地域がおろそかになって、時には反対されたり地域や家庭と不和になります。かく言う私も随分そのことには悩みましたが、幸い家族や地域の深い理解と後押しがあって、むしろ大きな力になりました。

 今回の「人間牧場」構想もそうした危険性をはらんでいました。そりゃあそうでしょう。合併というアクシデントではあっても、失職・無職の男が自分の夢などと戯言を言って我を通すのですから・・・・。でも私の家族は違いました。妻は貧しくも慎ましやかな35年の結婚生活で、世界中で一番の私の良き理解者に変身しているし、息子も設計というかかわりの中で反感・反目の親子関係から、共有・共感・共鳴へと変わってくれました。嬉しいことです。もっと嬉しいことは、息子が「まちづくり人」である私の意思を受け継げることです。

 私は生まれ育った双海町を日本一愛していると自負しています。そのことが息子たちに受け継がれるとしたらこれ以上の喜びはありません。日本人にとって自分のふるさとへの想いは最も大切なことですから・・・・・。

 「人間牧場」づくりは、家族の絆を強くするという、そしてまちづくりに対する想いを確認するという意外な副産物を生みつつあります。

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shin-1さんの日記

 「人間牧場」の眺望について説明します。

 「人間牧場」から見える眺望は大きく分けて10ぐらいの特徴を持っています。

 1、下灘の漁港が一望できる

 下灘漁港は通称「豊田漁港とも呼ばれ、小さな田舎町ながら西日本屈指の漁港規模を誇っています。漁船は底引き網の許可条件である黄色い船で120隻あまりの船がここを拠点に漁業を営んでいます。私はこの漁港近くで生まれました。ここはいわば私の原点です。昔は突堤が一本出ただけの小さな港に過ぎませんでしたが、半世紀を経てこんなに立派になりました。漁船がそろって停泊している姿は絵になる光景です。

 2、日本で一番海に近い下灘駅が見える

 双海町は雄飛の美しい所として知られていますが、それは20年前にこの場所で開いた夕焼けプラットホームコンサートがきっかけでした。今年そのコンサートも20回目を向かえ、9月3日に盛大に行われました。フーテンの寅さんもやってきた下灘駅は夕日によるまちづくりの出発の場所なのです。青春18キップのポスターに3回も登場したロマン溢れる駅です。(昇る夕日でまちづくりという本に詳しく書いてます)

 3、シーサイド公園の突堤が見える

 残念ながらシーサイド公園の全ては見えませんが、公園の突堤が見えます。今や年間55万人の観光客が訪れる県内屈指のスポットに成長したシーサイド公園は、私の出世作とでも言えるもので、夕日の物語がぎっしり詰め込まれています。

 4、双海のシンボル本尊山が見える

 双海町に来てまず目に付くのはこの山です。中世の城郭址なので歴史的に由緒がありますが、その姿は四季を通じて本当に美しく見る人の目を奪います。高さは松山城に匹敵する高さです。

 5、道後平野が一望できる

 愛媛県の中心地である松山の道後平野が一望できます。特に夜景はやけいに綺麗です

 6、ひょうたん型由利島共和国が見える

 20年間にわたってボランティア活動の拠点となった無人島の由利島が一望できます。無人島キャンプは丸木舟を作ったり、竪穴式住居を作ったり実に楽しい活動でした。(今やれる青春という本に詳しく書いてます)

 7、旅する巨人宮本常一のふるさと周防大島(山口県)東和町が眼下に見える

 私の心の師匠である宮本常一さんが生まれた東和町が見えることが一番の財産です。私は今暇を見つけて師匠の本を読み、民俗学なるものを見つけようと、下灘の漁村の出来事を原稿書きをしています。

 8、夕日が見える

 この施設の一番の売りは海と夕日です。

 9、水平線だけが見える

 「水平線の家」の一番奥に座すとウッドデッキの向こうには何のさえぎりもなくただ水平線のみが見えます。息子の設計コンセプトはこのことです。

 10、満天の星空に北斗七星や北極星などの道しるべとなる星が輝きます

 昼の眺望もさることながら夜の眺望も暗闇がゆえに美しいと思います。北斗七星の回転は見ものでしょう。

 こう書いて紹介すると、あー完成が待ち遠しいですね。

 

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shin-1さんの日記

 人間は今という時に生きてます。既に過去になった自分の人生を振り返ってみると、ああ生きればこう生きればよかったと反省するのですが、後の祭りといったところでしょう。

 しかし、私は50歳の時に考えました。「あと10年で60歳の定年を迎えるから、これから60歳までの10年で60歳からどう生きるか考え、生活設計しよう」と思いました。その結果生まれたのが「人間牧場」構想です。「海と夕日の見える小高い丘の上に、暮らしに疲れた人や、夢を抱く人に集まってもらい、草むらに牛がのどかに草を食むような姿で過ごす場所を作ろう」と思いました。そのためには「お金」と「知恵」と「仲間」と「適地」「水・電気」が必要でした。

 「仲間」も「知恵」も長年のまちづくりやボランティア活動で得ていたので、まず「土地」を探すのに苦労しました。町内のあちこちに適地を求めましたが、残念ながら田舎では水と土地は先祖伝来のお宝だから売らない、貸さないの一点張りで挫折しました。しかし幸い我が家のみかん畑が長年の放置によって廃園になっていたので、妻の助言もあって土地を求めることができました。

 さらに困ったのは資金調達でした。50歳のとき助産士をしている娘のアドバイスもあって一ヶ月に10日の休肝日を設け、その日は酒を飲んだと思って千円を貯蓄することにしました。たったこれだけでも年間12万円、何と10年間で120万円貯まりました。また55歳で出版した「昇る夕日でまちづくり」の売れ行きが好調で少しばかりの蓄財ができ、何とか何とかです。水・電気も近くの方のご好意や電力さんの力で何とかなりました。ありがたいことです。

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shin-1さんの日記

 人間牧場「水平線の家」に昨日やっと念願の建具類が入りました。

 不思議なもので家は建具が入ると仕切られた空間に人間の営みが感じられるようになります。

 家の中とウッドデッキを仕切ったサッシ戸を開けた時の何ともいえない開放感は、訪れた人でないと分からないものです。

 平屋ながら方屋根の二階部分の6枚の縦長窓からは広い空のみが一望でき、行き交う雲の姿や差し込むよう陽光が優しい感じです。

 トイレの窓も凝っています。角柱のない横長いガラス窓は利用者に至福のときを感じさせるに違いありません。うーん(笑い)、さすが建築家だけあって心憎い演出ですね。

 ところでshin-1さんの日記」を書き始めて、ある人から「人間牧場って何?」とか、「人間牧場は私も行けるの?」など、ブログに書き始めて3日目なのにメールをいただくようになりました。嬉しいことですが、少し怖いような気もします。でも勇気を出して、拙文ながら「shin-1さんの日記」を書きますので、読んでください。

 

 

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shin-1さんの日記

 「人間牧場」に秋風が吹き始めました。瀬戸内海を見下ろす小高い丘の上にある「 水平線の家」のウッドデッキに出て空を見ると、地球が丸いと実感するような空には、いつの間にか入道雲に変わって秋雲が漂っています。虫の声、行き交うトンボ全てが絵になる光景です。肌に触れるそよ風も心地よく、季節の移ろいを感じます。

 「人間牧場」構想に基づいて4月9日に用地に入り、草を刈ったのが5ヶ月前の4月9日でした。母が世話をしていたみかん畑は、母が逝ったり私の仕事がせわしかったりで10年も手入れをしなかったため、分け入るのも困難なほど荒れに荒れて、草刈機やチエンソーなどの文明の利器の力を借りねばならないほどでした。この日のために妻が買ってくれた麦藁帽子と地下足袋といういでたちで草を刈り、木を切り倒す作業は難航しました。若いと思っていた体力も還暦を迎えて落ちており、気力と体力の差を実感しつつ、晴耕雨読の晴耕を心がけ、弁当とお茶持参で悪戦苦闘しました。特に重労働だったのは、切り倒した雑木の枝葉の処分で、消防署に訳を言って現地で焼却処分にしました。地球温暖化など環境を唱える私としては少々心が痛みましたが、目をつぶって天を焦がすほどの焚き火を、噴出す汗をぬぐいながらたった一人でこなしました。大きな木は人間牧場が完成したら、炭や囲炉裏火に使いたいと一箇所に積み上げましたが、この木が後の草刈の邪魔になったことは、後の祭りでした。

 それでも、自然は偉いもので、一週間もすると青草が一面を覆い、美的原風景を演出してくれました。

 

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shin-1さんの日記

 「人間牧場」の建設中ですが、先日やって来た台風14号には正直心配しました。何せ「水平線の家」の家は、窓や入り口には戸やサッシが入っていないものですから、吹く風になすすべもなく飛んでしまいはしないかと、色々思いあぐみましたが、台風一過の早朝現場へ駆けつけてみると、請け負った大工さんが嵐の中で補強をしてくれていたようで、無傷のまま朝を迎えていました。正直な話プロの仕事に感動しました。

 明日はいよいよ注文していたサッシが入る予定です。建築家をしている息子の設計なので、息子のこだわりがまた楽しみです。私のテーマは安い・早い・きれいなのですが、息子は相応金額・ゆっくり・きれいだそうで、私の懐は軽くなるばかりで頭が痛いです。

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shin-1さんの日記

瀬戸内海を一望できる小高い丘の上に「人間牧場」を作る計画を立てました。

手始めに草を刈って敷地を造成し、拠点施設を建てています。

「水平線の家」と名付けた拠点施設が間もなく完成します。

さあsin-1さんの「人間牧場」物語の始まりです。

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