shin-1さんの日記

○私はエッセイスト?

 リタイアし自由人になって早いもので3年が過ぎました。新聞紙上に人事異動の記事が載る季節になると、華やかなご栄転の顔写真入りとは対照的に、最後の欄に虫眼鏡で見ないと見えないほど小さく、印象的に退職者の名前が掲載されているのです。部長で辞めた人も係長で辞めた人も人それぞれですが、多分この記事にさえも載らない多くの人たちが第一線から退く事を思うと、仕事の値打ちとは、人間の値打ちとは一体何なのかと、しみじみ思うのです。多分公務員だと職責上えらかったであろう人たちは、天下って多少の不自由はあっても、力を誇示し続けるのでしょうが、平で辞めた人たちにはそんな恩恵も無く社会の荒波に放り出される運命にあるのです。でもご安心下さい。社会は心さえしっかりしていれば、4月1日が再スタートで誰からも文句を言われる自由人としての暮らしが待っているのですから・・・・・・。私のように・・・・・。

 私は今自分の役職を調べて見ましたら、退職と同時にかなぐり捨てたはずなのに、人間牧場主、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、愛媛大学法文学部非常勤講師、夕日のミュージアム名誉館長、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ、地域活性化伝道師などなど十指余る役職があるのです。最も嫌いなひどい時は先生とか元教育長などの名前でも紹介されたりして、「私は先生ではない」と打ち消すのに懸命なのです。

 そんな折、私の友人が会社員なのに名刺に「エッセイスト」と刷り込んで配っているのを見て、悪くはないなと思いながら、いっそ私「もessayist」という名前でデビューしようかとも思ったりしています。エッセイストとは、エッセイを書く人、随筆家のことで、形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文や、意の趣くままに感想・見聞などのまとめた文章を、新聞や雑誌あるいは単行本などに執筆する人のことをいい、エッセイストだけではなく、エッセイスト以外の肩書きを持つ場合が殆どなので、私もそんな概念にピッタリなような気がしているのです。

今のところ頼まれて雑誌やインターネットサイトに定期的に記事を書いているし、ブログもある意味エッセイなので使ってみたいと思っています。しかし仮にもエッセイストと名乗るからにはそれ相応の勉強や努力が必要で、納得のいく文章が書けるようにならないと軽はずみに使うことは出来ないと思っています。

 最近、私のブログも相当認知されて、読者が少しずつ増えてきました。エッセイを書くには、まず知識を習得するため読まなければなりません。暇さえあれば読書を欠かさないことがまず絶対条件でしょう。次に書くことです。自分でいいと思った文章でも人の批判に晒さなければ何の価値も無く成長だってないのです。その点だけでは私は合格点だと思っています。本もそれなりに読むし、書くことだってそれなりの量をそれなりのスピードで書いてます。問題はそこからです。文章には天性のようなものがあって、幾ら努力しても一定のレベル以上へは進むことができないのです。私は子どもの頃から国語が好きで、文集を沢山書いてきました。また役場に入ってからも町の広報を10年間担当して書いてきました。しかし残念ながら凡人の私はそこから上達しないのです。これまで5冊もの自著本を出し、共著本にも名前を連ねましたが、どうも満足がゆかないのです。多分それこそが天分の無さだと自負するところです。

 ある意味で格好いいエッセイストになれるかどうか、今後の精進でしょうが多分縁のない社会かも知れません。

  「エッセイを 頼まれ書くが 上手くなく エッセイストには なれぬ落胆」

  「将来は エッセイストの 肩書きを 名刺に刷って 配ってみたい」

  「また俺の 心でうずく 夢一つ エッセイストを 目指す野望が」

  「原稿を 頼まれ送る これエッセー 原稿料まで いただき嬉し」 

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shin-1さんの日記

○中学校の卒業式

 私はこれまでどれ程の数の卒業式に参加したのだろう。自分の小・中・高等学校、子どもの小・中・高等学校、PTA会長としての高等学校、教育長としての小・中学校、三男の警察学校と、まあ両手では数え切れないほどの卒業式に出席しました。その度に時には涙し、時には凛とした新たな旅立ちを感じたものでした。子どもが巣立ち、自分も第一線を退いた今は、卒業式などテレビのニュースで見る程度となっていました。ところが最近になって学校評議員なるお役をいただいて、学校に意見を述べる機会があるようになって、学校から卒業式や入学式の案内が届くようになりました。でも忙しい日々の暮しでどうしても日程が合わず、ついつい欠席していました。

 今年も案内があったものの、日程が合わず欠席を決め込んでいましたが、偶然にも会議の予定が変更となり思い切って出席する事にしたのです。合併前は町会議員さんたちも大勢参加していたため来賓の数も多かったのですが、合併後はやたら寂しくなったと参加した人から聞いていたのですが、子どもの数が年々減少している現状では、卒業式の在り方も随分変わっているようでした。

 今日卒業式に出席した上灘中学校は自宅の目と鼻の先なので、少し早いと思いつつ歩いて出かけました。卒業式には花がよく似合うと思いながら一歩外に出ると、道端に綺麗なさくらんぼの花が満開を迎えていました。

 やがて運動場を通って正面玄関から校舎内校長室に入りましたが、来賓の方々はもう殆どお見えで、私は遅い方で、近い人ほど遅いというジンクスは当っていると思い、校長室を通り越して応接室でお茶の接待を受けました。応接室には歴代の校長さんやPTA会長さんの写真が壁の両面掛けてあり、一種独特な雰囲気です。

 やがて校長先生の案内で式場となる体育館に案内されましたが、入口には入場を待つ卒業するであろう生徒さんがにこやかに出迎えてくれ、顔見知りの子どもたちも沢山いて、「おめでとう」と声を掛けさせてもらいました。

 やがて式典は始まりました。今年の卒業生は26人だそうで、今更ながら生徒数の少なさを実感しました。それでも卒業式は工夫を凝らしていて、卒業証書授与、式辞、祝辞、来賓紹介、記念品贈呈、送辞、答辞、合唱など、どれをとっても何の文句もつけようが無いほど無駄が無くシンプルで、それでいて主役の子どもたちの動作がきびきびとした、100点満点の卒業式でした。子どもは訓練によって変わるものなのですが、訓練を繰り返すとそれが習慣になります。普通だと先生が起立、礼などと号令を掛けるのですが、それもなく身についた習慣が一際目立った式典でした。

 卒業式にはシンプルなピアノの音色がよく似合います。三年生の合唱「旅立ちの日に」、在校生の「そのままの君で」、全員の「校歌」斉唱を歌い、聞きながら涙を流す生徒の爽やかな姿に遠い昔日の思い出をダブらせながら私も涙を流してしまいました。今日卒業した子どもの中には、何人かハガキのやり取りをした子どももいて、まるでわが子のように感動が伝わってきたのです。

 校門を入った職員室の直ぐ横に早咲きの桜が、卒業生の旅立ちを祝福するよう印象的に咲いていました。満開です。この桜もやがては散り行く運命にあり、遅咲きの桜にその座を奪われるのでしょうが、卒業する生徒も人それぞれです。早咲きもあれば遅咲きもある、長い人生ですから、しっかりと自分を見据えて生きて欲しいと願っています。今日卒業した子どもと同じように3年前赴任して来られ、子どもとともに3年間を過ごされた校長先生のはなむけの言葉も印象的でしたが、子どもとともに熱い涙を流して顔をくしゃくしゃにしていた校長先生の姿はもっと印象的で素敵でした。

  「早咲きの 花に送られ 旅立つ子 明日は合格 通知願って」

  「三年間 ともに過ごした 校長の 顔がくしゃくしゃ 素敵でしたね」

  「式場に どこか寂しい ピアノの音 心に響き 涙止らず」

  「私宛 ハガキをくれた 顔見つけ 祝福会釈 思わずにこり」



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shin-1さんの日記

○タイムカードの思い出

 先週の金曜日、所用で市役所支所へ行きました。普通の住民は玄関から入るのですが、途中新しい庁舎に変わったといいながら、35年間もこの役場で働いてきた私は、どういう訳か脇にある通用門の裏口から入る癖がついていて、いつの間にやら足が自然とそちらへ向くのです。ふとその事に気がつき、「そうだ、次回からは内間の人間ではでないのだから正面玄関から堂々と入ろう」と、決意を新たにしたのです。それにしても長年の習慣は恐ろしいもので、役場=裏入口だったのです。

 通用門の入った所にタイムカードが置かれています。このタイムカードも今となっては笑い話のようですが随分物議を醸したものです。タイムカードが導入される前の役場は「出勤簿」と称する台帳がありました。例えば今日だと3月17日の欄に印鑑を押すのです。それはアバウトなもので、遅れて来ても早く帰っても押せますから、ハンコ一つでその日の出勤を証明する唯一の手がかりとなるのです。ずるい人は前日休んでもそこに休みのハンコを押さず、何日かしてそっとハンコを押せば出勤もどきになったりしていました。ところが逆に私のように社会教育などで夜遅くまで働いてもそんなものは自己申告ですから、超勤簿という別冊を見ない限り出勤簿には何ら証拠として残らなかったのです。また役場に立ち寄らずに直接現場に向う場合も、どこか後ろめたいような気持ちで出勤した時押していました。この出勤簿は何故か普通はいかにも重々しく助役室の机の上にあって、助役の顔色を伺うようになっていたのです。役場職員の中には出勤簿にハンコを10日間も押さず助役からきついお叱りを受ける自堕落な職員もいたのです。

 新しい役場庁舎がが出来た少し以前ですが、役場の人事管理がうるさくなって、出勤状況や勤務評定のためにタイムカードが導入されることが検討されました。民間企業では既に導入されていたのに役所では職員組合などの会合で、やれ賛成やれ反対と思い思いの意見をいいあった長閑な時代でした。タイムカードを出勤時毎朝挿入すると、出勤時間が正確に記入されます。私にとってこれは随分不都合なものでした。というのも私は毎朝12年間朝5時から8時まで、まるでフレックスタイムのようにシーサイド公園の海岸清掃や水槽掃除をしていたものですから、時には長引いて8時半に間に合わないことがあるのです。仕方がないので人事管理の担当者と相談し、ペン書きでそのことを記入させてもらいました。

 そんな長閑な経験からふと思ったのは、タイムカードを導入した時、職員の行動がタイムカードに合わせるようになったことでした。ハンコを押すアバウトな役場の暮しがタームカードという機械に支配されたのです。それまで遅れ気味に来ていた人は飛び込みにも似た行動で遅れなくなったことは立派というより当たり前になりましたが、早く来て掃除などをしていた人がタイムカードに合わせるよう遅く来るようになりました。また、タイムカードさえ押せば何をしたかなどはカードに記入されないので、登庁・退庁さえ記入すれば、後はキセルのような仕事ぶりになった人もいました。

 タイムカードという機械の導入によって確かに便利になり一見人を支配したように見えますが、その陰には機械で見えない部分の÷知恵も働くようになるのです。要は自分の生き方をどう戒めて生きるかにかかっているのだと思うのです。出勤簿が懐かしくなりました。

  「出勤簿 なんて帳簿が あったっけ タイムカードに 懐かし日々が」

  「通用門 未だに利用 こりゃいかん 次から堂々 正面玄関」

  「役場から 見ていた外も この頃は 外から役場 見える身分に」

  「出勤簿 押したハンコが 今もある これで仕事の 全て決栽」

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shin-1さんの日記

○若干29歳でも人を動かした教育者

 今の日本は高齢化社会を反映して63歳の私でもまだ若いと自負できるほど高齢者が沢山います。100歳なんて遠い遠い夢物語と思っていたのに、ある統計によると愛媛県内にだけでも650人もの100歳以上の人がいるというから驚きです。長寿社会を揶揄するつもりはさらさらありませんが、高齢化社会になると若者の影が次第に薄くなっていることに気付くのです。社会も人口ピラミッドは逆三角形だし、職場だって管理職の数の方が多いのではと錯覚するほどです。ましてや60歳という定年で退職しても天下って居座り続ける公務員社会などはその典型で、若者はいつまで経ってもその使い走りに甘んじなければならないのです。高齢化の進んだ限界集落などでは、50歳になってもその集落で一番若い?なんて事例はいっぱいあるのです。

 高齢者の社会進出は結構なことなのですが、若者の出番を削いでいる事を思うと、どこかで身を引く事を考えなければいつまでたっても若者の出番は来ないのです。私の親類に父親が若くして亡くなった従兄弟がいます。その時は可哀想に見えて何かと面倒をみてやりましたが、ふと気がつくとその従兄弟はいつの間にかすっかり逞しくなって、90歳になっても親父が生きている私のような人間より、凄い社会人になっているのですから不思議な話です。誤解しないで欲しいのですが、何も親父に「もうそろそろ」と言っているのではありません。上がいなくなると人は成長するという道理なのです。

 私が最も敬愛する歴史上の人物に、松下村塾で80名余りの人を教育し、二人の総理大臣を輩出した吉田松陰がいます。松蔭は長州萩に生まれた武士ですが、私塾松下村塾を開きました。その開塾期間が僅か13ヶ月間であったことや、安政の大獄で処刑されたのが29歳の若さだったことは余り知られていないようです。いくら風雲急を告げる幕末といっても、これほど短い期間に、そしてこれほど若くして名を残した人は後にも先にもいないのではないかと思うのです。折に触れ松蔭に関する書物を読み、松蔭の掛け軸を掛け、その生き方を学ぼうとするのですが、凡人の私にはその偉さを学び体得することは難しいのです。

 ある本に松蔭の教育法六原則が分りやすく解説していました。

 ①自信を持たせる。

 ②使命達成法を教える。

 ③至誠で生きる大切さを教える。

 ④勇気を持たせる。

 ⑤プラス発想。

 ⑥約束を守る。

 松蔭がまず塾生に強く語ったのは「志を立てて万物の源となせ」という志を立てさせることでした。

 時代背景や対象となる人間の純粋さを差し引いても、若干29歳の若者にこんな説得力があるのかどうか、今でも不思議な思いがしてならないのです。わが家の座敷に掛け軸として掛けてある吉田松陰の絵姿を見ると、「これが29歳の姿?」とはとても思えず、凝縮して成熟した人間の姿に深い感動を覚えるのです。

 人の偉さは年齢ではありません。松蔭が語った志を立ててそれを源にして動けば心若く生きれるのです。63歳の私にはもう松蔭のような若さは臨むべきもありませんが、松蔭の倍も生きている年齢を考えれば、もっと思慮深い人間になれるはずだと考えられるのです。

 承引の時代からすればはるかに恵まれて豊かな、そして学ぼうと思えば学べる現代に生きる私たちは初心に立ち返りもっと強く生きねばならないのです。

  「松蔭は 僅か二十九 その歳で 人を導き 今も輝き」

  「もめ事の 多き社会を 垣間見る 国会中継 国民不在」

  「昔人の 生き方忍び ブログ書く こんな時代を 誰が予測か」

  「志 立てて生きよと 教えられ 立てたつもりが 見事倒れて」 

 


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shin-1さんの日記

○持続可能な観光と地域づくりを考えるフォーラムin伊予市

 「いーよぐるっと88」という伊予市観光協会が発刊したガイドブックの発刊を記念したフォーラムが昨日、伊予商工会議所3階でありました。出版物の中身は157ページオールカラーの豪華さながら、僅か500円という価格設定もあって、3千部印刷したというのに売れ行きも好調だそうです。昨日はその編集に携わった方々の話、伊予市歴史街道というスライド、伊予市役所の観光行政の話、観光立国と地域観光」と題した基調講演、それにテーマに沿ったパネルディスカッションと中々盛り沢山な話がちりばめられ、短い時間ながら濃密なプログラムでした。

(開会挨拶をする伊予市観光協会副会長の西岡義雄さん)

 松山大学経済学部教授鈴木茂先生の話は、観光を巡る時代背景や日本の観光、愛媛の観光、地域の観光の現状を数字で示し、地域づくりと観光産業のつながりを話されました。伊予市観光の現状や将来像についても、広域観光などについても示唆されました。

 伊予地区を担当した松田建雄さん、中山地区を担当した下岡和夫さん、双海地区を担当した中嶋都貞さんの話は、私たちの視点とはまったく違った長年積み重ねてきた歴史の重みを感じさせるもので、とても参考になる話でしたが、残念かな与えられたそれぞれ10分の持ち時間では語りつくせぬ内容で、いつか深い内容の続きを口述して欲しいものです。

 市役所産業経済課の米湊さんの話は、振興計画における観光についての話でした。広報で読む市長の市政方針演説や議会広報で読む議会でのやり取りから垣間見れる観光についての断片的な話でなく、じかに聞くはなしなので興味をそそりましたが、担当者として突っ込みきれない苦悩も覗かせました。

 えひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんの話はスライドを使って旧市町の珍しいものを様々なジャンルに分けて紹介してくれました。彼は街並みウォッチャーとしての経験も充分で、その腕に磨きを掛けた切り口と話術に引き込まれて行くようでした。

(82人も集まった参加者)

 その後伊予市文化協会長門田眞一さんをコーディネータにしてパネルディスカッションが行われました。私もパネラーとして登壇、請われるまま15分余り「双海町の夕日によるまちづくりの経験」を振り返って話しました。私はアドリブで話すため、場内に集まった参加者の爆笑を誘いましたが、いかんせん時間が押して議論のまでは至りませんでした。

 私は今回の「いーよぐるっと88」のもたらした効果は、①合併はデメリットが多いと言われ閉塞感があるが、行政と民間の協働という最大のメリットが発揮できたこと、②知らないし知ってるつもりの観光資源が発見や再発見できたこと、③発刊にかかわった高齢者の知的エネルギーを活用できたこと、④新しい観光への可能性が出てきたこと、⑤伊予市という地域の観光情報が内外に発信できたことなどの効果についても述べておきました。

 その上で、既存施設や既存イベントの役割の見直しを行い、地域住民が地域づくりという手法で深く関わらなければ観光はうまくいかないのではないと話しました。

 合併して3年が過ぎようとしています。今年は市内に3つある観光協会が合併するそうですが、これが革命なのか改革なのか、方法や手段を間違うとこれまで培ってきたそれぞれの個性ある特徴を消してしまう危険性もはらんでいるようです。

(加藤徹さんがプレゼントしてくれたミニチュア電光掲示板のPRをさせてもらいましたが、何とこれがネクタイにもくっつくという新しい発見をしました。贈った本人も驚き喜んでくれました)

 会議終了後、運営委員会を終えてその夜は楽しい交流会が居酒屋で行われました。伊予市で飲むことの少ない私たちにとってもいい交流の場所となりました。

  「観光は 国の光を 見るという ネクタイ光り まさに観光」

  「先輩の 話を聞いて 俺達も やがてはあんな 喋りを予測」

  「油売る 人が司会を しましたが 私もつられ 油売りつつ」

  「嬉しいね 勉強会に 議員さん 市役所若手 顔を揃えて」 

 

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shin-1さんの日記

○広がる朋樹ワールド

 木野は金曜日なので久しぶりに5歳になる孫の朋樹がわが家へ泊まりにやって来ました。一昨日の夕方、「おじいちゃん泊まりに行きたい」と電話が入って約束し、幼稚園が終わる午後3時に松山にある幼稚園へ迎えに行きました。娘のお産頃から頻繁に顔を出している幼稚園なので私の顔を覚えていて、迎えの引継ぎも簡単に済ませて車に乗り込みました。最近は国道を走る車の外の様子が飲み込めていて、色々な看板の文字が読めることから、私を盛んに誘導するのです。松山から松前に向う頃になると「おじいちゃん喉が渇いたからジュース」などと話しかけ、暗に近くのマクドナルドドライブスルーへ誘います。私も孫のお陰で今流行のドライブスルーの店をすっかり馴れて、最初の戸惑いを恥かしく思うのです。マクドナルドに立ち寄りました。例によってドライブスルーの店なので「ハッピーセット、チーズバーガー、オレンジジュース、景品5番」などと単語を並べてマイクに向って話しかけると、「お会計は400円です。前に進んでお受け取り下さい」とアナウンスがあるという、まあ待ち時間のない便利さなのです。

 ハンバーガーやジュースなどそっちのけで、孫はお目当ての景品の袋を開けて使い方を考えるのですが、説明書の全てが読めるわけでもないのにせっせと組み立てて、フライドポテトを食べながら鼻歌交じりのご機嫌なのです。

 昼間なので幼稚園からわが家まで、お店に寄ったりガソリンスタンドでガソリンを入れたりしても約50分で到着しました。孫はさっさとおばあちゃんに予約を入れ集めてもらっておいた段ボール箱や菓子箱で耕作開始です。孫が来るとまるでわが家の居間はゴミの山に変身します。ダンボールをハサミやカッターで切り、ガムテープでくっつけて工作をするのですが、私の手伝ってくれるよう頼みながら朋樹ワールドは次第に完成して行くのです。

 昨日のテーマはお城でした。ダンボールの箱で土台を作り、その上に積み上げてゆくのです。最初は下手糞だった作業も今は随分早くなって、夢の世界が段々広がっています。多分自分のマンションだと作業や行動が制限されて、「片付けなさい」といつも母親から文句をいわれ、不完全燃焼しているようで、わが家に来た時の孫の顔は実に生き生きと輝いて見えるのです。

 そのうち妻が仕事先から帰って来ました。居間の広げさがした様子を見て「まあ何、これは」と絶句のような反応です。孫は得意げになって「これはディズニーランドです」と説明していました。大人の目から見れば唯のゴミなのですが、孫にとってはまさにワールドなのでしょう。「おじいちゃん写真を撮って」とせがまれました。

 与えられた遊びしか出来ない現代っ子だと良く聞きますが、子どもにとってはダンボールや折込チラシも大切な遊び道具です。ガムテープとハサミとカッターも怪我することなく上手に使えるようになったし、も少し孫のゴミ世界に踏み込んでみたいと思っています。

 昨晩は風呂に入れた孫を挟んで妻と三人川の字になって寝ました。孫の温かさが心に染みる幸せな一夜でした。

  「来る度に どこか成長 したような 爺の欲目か そんな気がして」

  「爺婆と 言っててくれるも 今のうち そのうち爺婆 金だけ頂戴」

  「ひっさがす ようにも見える 孫遊び お目々細めて 容認しつつ」

  「おもちゃ買う お金要らなく 助かると 妻はせっせと 箱を集めて」 

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shin-1さんの日記

○3つの癖

 私の日課は毎朝4時から始まります。それは宇和島水産高校を卒業して帰郷し、地元で7年間漁師をした経験が早起きという癖をつけさせてくれたのです。「そんなに早起きをして一体何をするのですか」とか、「あなたももう歳だから朝早く目が覚めるのでは?」とか、はたまた「じゃあ夜は早く寝るのでしょう」といった質問がちょくちょく寄せられますが、毎朝することがあるのです。つい最近の社会は子どもや若者を含めて、眠らない社会といわれるように、夜はいつまでも起きている人が多いようです。そのくせ朝はいつまでも寝坊しているのです。昔から「早起きは三文の得」といわれたり、「「差寝坊する人間には金を貸すな」といわれるように、朝起きの効能はすこぶる大きいのです。「毎朝早く起きる」という癖だけでも私にとっては随分多くの「得」と「徳」をもたらしました。

 役場に勤めていた現役の頃は毎朝4時に起床してやるべき仕事をやり、5時から8時まで毎朝3時間、何と12年間もシーサイド公園の掃除ボランティアをしたのです。このことはややもすると反対意見の多かった夕日によるまちづくりに対する理解を産むのに役に立ちましたし、それら諸々の実績が認められて国土交通省の「観光カリスマ百選」に選定されたのですから、私にとって早起きの癖は人生を変えてしまったのです。

 私の早起きは家事仕事の多い妻には残念ながら伝わっていませんが、元漁師だった親から受け継いでいて、90歳になる親父も私と同じように船を下りた今でも早起きで、春の今頃は外が白む6時にはもう散歩に出かけているようです。

 私は毎日ブログを書いてます。最初はおっくうだったパソコンもどうにか自分なりに使いこなせるようになって、拙文ながら読んでくれる人がいるほどに朝起きて一本、夜寝る前に一本と殆ど毎日2本の記事を書いているのです。これも「よく書くことがあるねえ」とかいわれますが、私のブログは日々の暮しや旅の思い出、自分の想いなどがテーマなので書くことがいっぱいあり過ぎて、「読むのに時間がかかるからもう少し短くしては」とクレームがつくほど書いているのです。私はAmeba(アメーバブログ)という無料のサイトを娘婿の紹介で2年半前に書き始めましたが、ブログとは便利なものでペーパーにプリントアウトしなくてもちゃんと記録に残り、いつでも取り出せるのですから有り難いことです。2年半も続けているともう自分の生活の一部になって、今では遠出の旅に出てブログを書けない日などは、体調に影響するほどモヤモヤして困ってしまいます。幸い今は有り難いことにホテルにインターネットが出来る所が段々増えて来ています。先日も秋田へ行きましたが、駅前の東横インというホテルを選んだのは他ならぬブログを書きたかった理由だけなのです。でもアナログな私は、どこかの商社マンや営業マンのように携帯用のパソコンを持ち歩くことだけはしたくないのです。

 私の友人が私のブログ記事をプリントアウトして愛用しているのに驚いて、私も一応自分のブログ記事をプリントアウトして、書棚の隅にうず高く積んでいますが、かなり分厚い毎月一冊の表紙のついたブログ集はこれまた面白い資料になっています。とりあえず10年間続ける予定の癖になりました。

 私は毎日三枚のハガキを書いてます。小さな癖ですが。もう始めて22年になります。そもそもの始まりは友人から一冊の本をいただき、その中に「一日三枚ハガキを書いたら人生は幸せになれる」と書いていました。最初は「ハガキを三枚書いたぐらいで本当に幸せになれるの?」と思いましたが、22年間も続けていると不思議な事に、本当に幸せになれたのです。夕日によるまちづくりが一応の成果を出せたのも夕日をあしらった絵ハガキを送り続けたお陰かも知れません。毎日ハガキを書くことも私の日課、いわゆる癖になってしまいました。

 こうして自分の暮しや過ぎ越し日々を振り返れば、誰にでも出来るささやかな行動が続ける事によって癖になり、気がつけば大きな成果を生んで行くのです。これからもしっかりとこのよき癖を続けて行きたいと思います。

  「ちょっとした 縁で始めた 癖三つ 今では病みつき 効果抜群」

  「早起きも 掃除続けりゃ カリスマに お陰で私 無料で旅が」

   


 

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shin-1さんの日記

○美しい夢

 先日株式会社S・Yワークスというコンサルタント会社からの依頼で、福岡博多へ講演に行きました。その折代表取締役の佐藤芳直社長さんから「船井幸雄の60の言葉」と「ものづくりへの情熱」という社長さんの自著本2冊をプレゼントされました。前著書には「美しい夢」、後著書には「感謝」という社長さんの座右の銘ともいうべき言葉が墨字達筆に書かれていました。日本列島を縦断するような福岡博多から秋田能代までの道すがら、引き込まれるような気持ちでまず前著書読んでしまいました。社長さんが私に贈ってくれた「美しい夢」とは一体何なのかを考えながら・・・・・・。

 「美しい夢」の意味を考えるためあえて反対語を探すとすれば「汚い夢」でしょう。私流に考えれば「汚い夢」とは相手や地域を省みない自分中心の夢だと思うのです。人間は誰しも幸せになりたいしお金持ちにだってなりたいのです。また成功したいし、健康で長生きもしたいのです。これを私は人間四つの願望と思っていて、それを手に入れるために私自身様々な努力を重ねてきました。結果的にはまだまだ満足がいかなくてもそこそこ幸せに暮らしているし、お金だって自称貧乏人といいながら食うには困らないのです。また成功といわないまでもそれなりの業績を上げ、病気を繰り返しながらも63歳の今日まで生き長らえてきたのです。友人から「お前は幸せ者だ」と羨ましがられるほどに今も楽しい日々を暮らしているのです。しかしその陰には妻をはじめ家族の深い理解と後押し、それに職場や地域の存在があるのです。

 若い頃は自分の力を過信し、業績の全ては自分の実力や努力だと傲慢な振る舞いをしていました。自分の夢をかなえるためには平気で人を土台にしたような言動もあったと深く反省するのです。この時代の私の夢はまさに「美しい夢」の反対語である「汚い夢」でした。

 人間は一人では生きてゆくことはできません。常に他人とともに生きるものなのですが、他人の存在や地域を意識し始めるにはそれ相応の時間と機会が必要なことはいうまでもないのです。今の世の中を見渡すと、「自分自分」と自分中心で世界が回るような錯覚さえ覚える世相に、自分の若い時代を重ね苦笑するこのごろです。前総理の阿部さんが「美しい国」を提唱し話題になりました。それは相反する「汚い国」になりつつある姿に心を痛めた総理の止むに止まれる決意だったのかも知れないのです。

 さて「美しい夢」とは一体どんな夢なのでしょう。それは反対語の「汚い夢」で述べたとおり、相手のことや地域の事を思いやる共感・共鳴・共有・共生の世界が醸すものなのです。

 例えば私の夢であり実現した「人間牧場」について考えてみた場合、これをありきたりの裕福な人間が造るセカンドハウスのようなものにしたら、それこそ見せびらかしの道具にしか過ぎないのです。週末にごっそり食べ物を持ち込んで親しい仲間と大騒ぎをして帰るだけでは、何の意味も持たず、むしろ地域からは煙たい存在として見られることでしょう。

 私はこの施設を利用して更なる「美しい夢」再生産の場所にしようと考えています。子どもたちを集めて「少年少女おもしろ教室」を開いて様々な活動を始めたのもまさに夢の再生産なのです。また様々な心に悩みを持った人に門戸を開いているのも同じような思いがあるからです。

 コンサルタントを悪評して、「人が来ん、人が去るからコンサルという」などと悪評を叩く人もいますが、私にとって「美しい夢」というキーワードを与えてくれた佐藤社長さんは、今年一番の嬉しい出会いだったと思っています。

  「美しい 夢を見ろよと 為書きに 納得しつつ 思いめぐらす」

  「昨日見た 夢も夢だが 俺の夢 見果てぬ夢と 妻は呆れて」

  「ささやかな 夢を抱いて 生きてきた ゲットしたもの 沢山ありて」

  「夢のない 人に会うほど つまらない ことはないなと 夢人探す」

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shin-1さんの日記

○凛として木枯しに立つ寒椿

 昨晩は7時から、地元上灘中学校の学校評議委員会が開かれ出かけました。この時期になると高校受験も終り、あとは結果を待つだけで学校もすっかり落ち着いた様子でした。校長先生もいつになく顔色がよく、校長室へ入るなり一枚の保護者宛の文章を見せていただきました。今日の私のブログのテーマである「凛として木枯しに立つ寒椿」という名句が書いてありました。内容は二人の生徒の絵画の話が紹介されていました。男子生徒の作品が愛媛県代表として全国教育美術展に出品され、見事入選したそうです。また女子生徒の作品は来年度のクロッキー帳にお手本として掲載されることになったようです。

 上灘中学校は小規模校で美術専任の先生がいません。同じような学校を掛け持ちしている先生が時折指導に見えられるのですが、それにしてもそんな片手間でこれだけの快挙ですから凄い指導力だと思いました。

 かつて私は子どもの数が10数人という大洲市柳沢田処小学校を訪問したことがあります。そこで見た絵はこれまで見たどの絵よりも視点が上から下からとまったく違っていて、生き生きと輝いて見えました。それもそのはずその学校の絵は県下の美術展で賞を総なめにするほどの活躍ぶりだったのです。その原因が美術の先生の指導によることは容易に想像できましたが、小規模校などものともしない快挙に、「教育は人なり」と思ったものでした。

 ひととおり先生の説明を聞いてから、評議員の私に発言を求められましたが、私は以上のような事例を紹介しながら、その席にいない美術の先生を褒め讃え、少し意見を述べさせてもらいました。美術以外この学校には小規模校ながら学科ごとに専任の先生がいます。いわばプロの先生がいる訳ですから、美術の先生以上の働きが出来ても可笑しくはないのです。「教師が変わらなければ子どもは変らない」。これは私の持論ですが、今の教師はやれ「小規模校だから積極性がない」とか、「この学校の子どものレベルは低い」とか、現状を否定していつも文句をいいます。「積極性がなくレベルが低いのはあなたです」といいたい気持ちです。

(多分咲いても私以外誰一人気付かないであろう道端の崖っぷちに咲くやぶ椿の花は、まさに世界にひとつだけの花なのです。)

 まさに二人の生徒の快挙は「凛として木枯しに立つ寒椿」そのものと感じましたが、この寒椿を開かせた一番の功労者は美術の先生である事を私たちは見抜かなければならないと思うのです。

 昨日人間牧場へ行きました。人間牧場に至る狭い山道のあちこちにはやぶ椿の花が今を盛りと咲いていました。山奥の道ゆえ見る人もなくただひっそりと咲き誇り、道には椿の花が印象的に赤く散っていました。寒椿の花の一句を思い出しながらデジカメで写した写真を取り出して、校長先生と私の偶然にして一致した椿の花への思いに思わず苦笑してしまいました。

 校長先生は寒椿でしたが、私は雑草の如きやぶ椿であり余命いくばくもない春椿です。でも凛としてがけっぷちに逞しく生きて咲くやぶ椿にもそれなりの意味はあると思うのです。私たちは名花の椿を美しいと思うことに馴れてきました。学校でいえばよく出来る子どもです。子どもの頃から脚光を浴びてきた子どもを愛でるのは簡単ですが、人知れず頑張る子どもに思いを寄せて生きる希望を見出してやることも大切な教師の仕事なのです。やぶ椿の花を愛でてやる、これこそ生きる力を育むことでしょう。

(細い一本の道には赤いやぶ椿の花が印象的に散り落ちていました。これも美しいものです。

 校長先生の嬉しそうな顔の原因はもう一つありました。登校できなかった登校拒否の生徒が今年になって登校し始め、県立高校受験にまでこぎつけたというのです。間もなくその結果は合格発表という形になって現れるでしょうが、やぶ椿のように咲けば褒め、道端に落ちてもなお美しさを保つ続けているやぶ椿の花を褒めてやり、新たな旅立ちへ送ってやって欲しいと願っています。

 たった3年しかこの学校に思いを寄せることが出来なかった私ですが、この三年間先生も生徒も、勿論学校も確実に力を付けていい学校に成長させてくれました。その成果に大きな拍手を送りたいと思います。

  「年三回 通っただけの 中学校 椿開いて ほのぼの嬉し」

  「この椿 開いた訳は 先生が 厳し優しい 陰徳結果」

  「教育は 自律自立の ためにある 手助けできぬ 教師は要らぬ」

  「学校に 来れない子ども 根気よく 指導お陰で 始動の気配」

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shin-1さんの日記

○サツマイモの種芋を伏せました

 「命のリレー」なんて格好いいことをテーマにサツマイモをつくり始めて2年が経ちましたが、一年目はイノシシの被害に遭って全滅、昨年は予想以上の収穫だったけれど種芋の確保がほとんど出来ず、今年3年目に突入です。生涯学習の一環として人間牧場で始めた野外活動体験事業ですが、しみじみ「いいことと出来ることは違う」事を実感している今日この頃です。

 昨年の12月から始めた命のリレーのための土作りも一見順調そうに見えて大変な重労働で、子どもたちは結局のところ土作り講習会だけの参加になってしまいました。息子に手伝ってもらって人間牧場の畑の隅に穴を掘り、ベニヤ板で囲い場を作って落ち葉を集め、油粕や米糠を入れる作業もかなり重労働で、腰を痛めぎっくり腰になってしまったり、その後の切り替えしなどの作業は殆ど私一人がやりました。それでも大洲市田処の亀本さんが牛糞や豚糞をわざわざトラックで運んでくれたり、バイオマスペレット事業の県補助金をいただいて牛糞ペレットを貰ったり、そこそこの援助があって、どうにか今日を迎えました。


 外気温度が温かくなり寒さも峠を超えたようなので、先日ビニール掛けを終えたため今日は何が何でも種芋を伏せたいと意気込んで準備を進めました。まず種芋の確保です。子どもたちは種芋を残さず殆どを食べてしまったので、私の分け前である3個をわが家で段ボール箱に籾殻を入れ部屋の中で大切に保管していました。これでけではどうしようもないので、今朝早く田舎のオープンカーで伊予市の青果市場へ行ってサツマイモの種を購入しました。一箱に30個入って2200円ですから、1個73円とかなり高価な芋です。段ボール箱に書かれた銘柄は鳴門金時「里むすめ」だそうで味は見るからによさそうです。

 今日は朝から天気がいいとテレビの天気予報ではいっていましたが、私が人間牧場へ上がった頃には早くも小雨が落ち始めました。急いでハウスのビニールを剥がして中に鍬で筋をつけ、植える場所の目安にしました。そして種芋を外から植え付け予定の場所に投げ入れ、自分も囲い場に入って、一つ一つ丁寧にスコップで穴を掘って植え付け、土を被せて行きました。最後はビニールを元に戻して出来上がりです。


 近所の農家の奥さんがお墓参りに来ていて、私の農作業の様子を見ながら、世間話しをしました。奥さんが「ここはやまぜ(南西の風)が強く吹く所だから、ビニールが飛ばないようにしっかりと固定しなさい」とアドバイスをしてくれました。早速端材を寄せ集めてあちらこちらに釘でこれでもかといわんばかりに打ちつけました。多分この奥さんは農業を生業としているので私のやってることが、お遊びのように感じたのかもしれないのです。

 よくいわれる言葉ですが、儲けなければならない農業はそれなりの苦労が伴います。しかし儲けなくても良い農業は実に楽しいものなのです。もしこの種芋から芽が出なかったら、お百姓さんの場合は死活問題です。ところが私たちのようなえせ百姓はたとえ芽が出なくても、その時期にイモヅル苗を買えばいいのです。2200円の投資は被らなければなりませんが、まあ首をくくるような責任問題にはならず、むしろ失敗の体験として、それなりの評価は残るのです。

 子どもたちが考えた命のリレーは果たして上手く行くのかどうか、今のところ半信半疑、五分五分といったところでしょうか。

  「芋の種 植えはしたもの 芽が出るか 五分五分半疑 自信が持てず」

  「里むすめ 名前がいいね 種芋の 食べたいような いい顔してる」

  「ビニールで まるで封印 苗床を ワクワクしつつ 金槌の音」

  「何しても ひと筋縄では いかぬもの ツルの高さを 今頃実感」 

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