shin-1さんの日記

○見方が違う見方

 昨日は町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬式に出かけました。幾つになっても人の死に年齢の不足はないと思うのですが、葬儀に参列した人の見方は人によって違うように思いました。「おばあちゃんの年齢は幾つ?」「101歳だそうです」「うんそりゃあ大往生じゃな」と年齢から考えて長生きし寿命だと割り切る人がいます。一方で親類の人は目を真赤に腫らし、「もう少し生きて欲しかった」とお別れを辛そうにお話しされました。確かに肉親との別れは幾つになっても辛いもので、私の母も80歳、祖母は88歳であの世に旅立ちましたが、肉親の私にとっては「もう少し長生きして欲しかった」というのが本音で、母が死んで8年余り、祖母が死んで20年余りになるというのに、未だに私の心の中に行き続けているのです。

 お葬式は滅多に会うことのない人に会います。私は若い頃教育委員会に務めこの地域に度々足を運んで自治公民館活動の手助けをしていました。したがって当時はどの家にどんな家族がいて、犬が何匹まで殆ど知り尽くしていました。当然殆どの住民が顔見知りでそれは楽しい日々でした。しかしあれから三十年近くが経つと、いつの間にか若かった人たちはみんな30歳歳を取り、膝腰肩に不調を訴え、何らかの病気を持っていると訴えていました。

 「若松さん、えらい痩せたがどがいしたん」?とは、長い間であっていない人の弁です。「はい少し病気をしまして痩せました」「どこの病気ぞな?」「胆のうを患いまして」「ほうそりゃ気をつけないけませんよ」「はい有難うございます」「○○さんも胆のうを取ったそうじゃが、あの人は昔以上に肥えとりますよ」「そうですか、私は痩せる方なんでしょうかねえ」「胆のうを取った人はなんぼでもおりますから、心配することはありませんよ」「はい私もそう思って頑張ります」、てな調子で会話が弾みました。

 ところが時々出会う人は、「若松さん元気そうになったねえ。顔色もいいし毎日講演などで忙しそうですね」「はいはいお陰様です」「こないだ新聞に載っているのを見ましたが、あれはどこでの講演だったのですか」「はい金融広報委員会から頼まれての講演でした」「ほう、また偉い所ですが、どんなお話ですか」「はい人生の生活設計についてでした」「ほうまた難しいお話ですね」「いえいえ、大したことはありません」「まあ忙しいのはいいことですが、余り無理をしないように、お互い歳ですから、このおばあちゃんのように長生きがしたいですね」「はい」、てな調子でした。

 久しぶりに出会った人の見方と、時々会う人の見方はこのように同じものを見ても随分と違います。どちらも正しい見方なのですが、さて私は土地rを信じましょうか。「えらい痩せた」という話しを考えると私は明らかに病後を引きずっています。「元気になったねえ、顔色もいいし」だと嬉しい見方です。体重計に乗った時思う「もう少し肥えたい」という不安な思いと、毎日鏡を見て日々の暮しや初夏の日差しで日焼けした精かんな?顔つきを思えば「うん大丈夫」とも思うのです。

 人間は言葉一つでこうも心が動くものなのです。「少し痩せたね」といえば、それを喜ぶ人もいれば皮肉と取る人もいます。言葉は魔物です。

  「何処悪い? 痩せた体を 見て言われ はて大丈夫? 少し心配」

  「顔の色 いいじゃないかと 見て言われ 俺は元気だ 少し安心」

  「裏表 見方によって 違うもの いいよう思い いいよう生きる」

  「告別の 席でお互い 消息を 語り合うのも 変な話だ」


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○梅干しと梅酒づくり

 人間牧場の梅も今年は裏作で梅の実の収穫が昨年の半分以下なのです。それでも天の恵みとでもいうのでしょうか、11本の梅の木から今年はキャリー4箱、計80キロの梅の実が採れました。普通の家庭だと「えっそんなに多い梅をどうするの?」と鳴るのでしょうが、わが家では梅干し40キロ、梅酒30キロ、残り10キロをおすそ分けに回しました。普通だと梅の処理をかいがいしくやる妻が、このところ風邪気味で体調が優れないため、今年は初めて私が挑戦しました。妻が「お父さん、梅の処理は手間とお金がかかるのよ」と言う通り、塩と砂糖それに梅酒用の瓶とホワイトリカーなど必需品を買い求めることから始めました。昨日生協の理事会が終り、帰りにスーパーとホームセンターに立ち寄りましたが、お目当てのものが全て揃わず四苦八苦しました。昨日は梅を選別して水洗いし水気を取り梅干しの漬け込みです。私の作業を遠目で見ていた妻はぎこちない私の作業についつい手を出し共同作業となりました。倉庫から取り出して洗っておいた梅干用のプラスチック樽三つに分けて塩20%で漬け込みましたが、梅酒の作業が全て残って日没終了です。

 今朝は妻が仕事で留守なので、私一人が8リットル10本の梅酒専用ガラス瓶に洗って水切りした梅を3キロずつ軽量して入れて行きます。本来ならホワイトリカーと氷砂糖を使うのですが、私がアルコールを飲まないのと、人間牧場にやって来る子どもたちのためにアルコールゼロの梅ジュース主体で仕込んで行きました。それでも人間牧場へは大勢の呑み助がやって来るので、その仲間たちのリクエストに答えてホワイトリカー入りの梅酒も4本仕込みました。

 一人の作業は中々はかどらず作業が終わったのは12時近くになってしまいました。今日は午後1時から町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬儀があるため、急いで跡片付けをして帰ってきた妻と昼食を済ませ出かけて行きました。今日は梅雨の晴れ間ながら天気がよく外は汗ばむほどの陽気でした。

 昨年はこの瓶を人間牧場の押入れに保管しましたが、今年は鯉が死んで使わなくなった池を地下室に改造したため、そこへ入れる事にしました。この地下室だと温度も余り上がらず、しかも暗室のため梅酒の熟成には最適だと思ったのです。今朝その入口の蓋を開けて中に風を通していたため地下室はかび臭くもなく、10本の梅酒の瓶を丁寧に中へ入れ、瓶の上にナイロンの袋を被せて一通りの作業を終わりました。昨年の経験からいうと9月には新酒が試飲できるようですが、昨年仕込んだ2年物の梅酒もまだ残っているので、ゆっくり一年をかけて熟成したいと思っています。

 本当は仲間を集めて梅酒を造る作業もワイワイガヤガヤやりたいのですが、いかんせん私の予定が立ちにくく、明日は泊り込みで岡山県笠岡市へ出掛けなければなりません。多分来年は梅が表作なので、梅酒を造るプログラムを人間牧場のメニューに入れてみたいと思っています。

 急がず慌てず、それでも今年の仕事はきっちり片付けて、来年につなげる、これが人間牧場の仕事なのです。

  「梅干しと 梅酒を造る 中腰の 作業で腰が 少々変だ」

  「今晩は 梅酒で祝い せにゃならぬ 畑の恵み 神々感謝」

  「醸造の 瓶から取り出す 梅酒梅 煮詰めてジャムを 作ってみよう」

  「今年こそ 梅酒を瓶に 入れ替えて 手づくりラベル 張って中元」 


  

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shin-1さんの日記

○豊作かジャガイモとタマネギ

 わが家の菜園にも夏がやって来て、春先に植えた夏野菜の収穫が早くも始まり、毎朝起きると家の横にある菜園に行って野菜を朝採りするのが楽しみになってきました。といえばいかにも自分が小まめに育てたような顔をしていますが、野菜の世話はもっぱら90歳になる親父の世話に追う所が多く、私は朝採りならぬ横取りてな感じで、少々心がいたものです。でもそこは親子ですし、親父も毎日キューリやトマトを食べれる訳ではないので、時には近所の非農家へおすそ分けしているのです。

 それにしても親父は偉いもので、元漁師ながら野菜を作るのが上手く、几帳面な正確から畑はいつ見ても草の生えない、しかもまるで絵になる幾何学的な垣が畑のいたる所で見かけられるのです。わが家に来たお客さんは、私設公民館煙会所や海の資料館海舟館、それによく打ち合わせ場所に使う東屋を見学したついでに菜園を見て、時には野菜を土産に持ち帰るのですが、一応に美辞麗句を並べて菜園の立派さを褒めてくれるのです。

 一週間前からピーマンとキューリが出来始めました。多分夏の暑さでキューリのツルが駄目になる8月までの2ヶ月間、キューリは買わずに済むし、ピーマンにいたっては肥培管理さえすれば秋までその収穫を楽しむことが出来るのですから大助かりです。ただし消毒を極力避けているため、これから梅雨の時期に病気が発生するとアウトになるので要注意です。

(種芋10キロも植えたジャカイモ畑)

 梅雨に入って雨が長引くようになってきました。親父の心配はジャガイモとタマネギの収穫をいつにするかという算段です。ジャガイモもタマネギも4~5日の晴れの日を選ばなければなりません。というのも濡れたままで収穫するとその後の日持ちがしにくいのです。

 ジャガイモもタマネギも地上部の茎は食べずに捨ててしまいます。つまり土中のものを収穫するのです。タマネギは浅植えでどれくらい太っているか一目瞭然で分りますが豊作のようです。ジャガイモは上の茎がかなり青々茂り、その茎が黄色くなり始めたので掘る適期を迎えているようですが、土中の出来は肉眼では見れないため知る由もありません。でも数日前ためしに掘ってみましたがかなり豊作のようです。

(首をかしげ始めたタマネギ畑。今年は大豊作の予感です)

 それにしてもジャガイモに比べるとタマネギは何と長い間畑に居座ることでしょう。タマネギの苗を買って植えたのは確か11月の10日前後でした。あれから8ヶ月間も畑でじっと耐えているのですから、他の野菜に比べるとものの比ではありません。ジャガイモの植え付けは3月に入ってからですから僅か3ヶ月余りで収穫できるのです。だのにタマネギは最盛期の今頃は千円も出すと大きな袋いっぱいも買えるほど何故安いのか、農家の苦悩が見えてくるようです。

 親父は今年、近所の人に教えられてタマネギには何ら支障のない除草剤を植えて間もなくタマネギの畑に振り撒いたそうです。こんなものが効くのか半信半疑でしたが、なんとこれが効いたのでしょうか、毎年悩まされ続けていたタマネギ畑の草引きを一度もすることなく、今迄で一番の出来だと自慢するほど成長しているのです。

 梅雨の晴れ間を見ていよいよ収穫です。最近野菜の収穫が楽しみになった私も、老いた親父とともに働きます。一年分の食糧品ですから。

  「見た目には 豊作予感 タマネギが 早く抜いてと ささやくように」

  「タマネギと ジャガイモコラボ コロッケに 想像口に よだれ出てくる」

  「八ヶ月 居座り続ける タマネギも いよいよ抜かれ 軒に吊るされ」

  「俺などは 美味しとこだけ つまみ食い 作ったような 顔して配る」 


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shin-1さんの日記

○美味い物はあ・と・で・・・・・・ 

 今朝出かけはどしゃ降り、帰りは上天気と、激しい天気の変化の中で県庁所在地松山を往復しました。こうして殆ど毎日、自分の住んでいる町よりもはるかに多い時間、松山をフィールドに仕事や遊びで過ごしているのです。ふと親父の時代を考えました。私と36歳も年齢が違う親父の小さい頃は、松山へ行く道も上灘~郡中間は殆どなく、森の海岸を歩いたそうです。故に松山は途方もなく遠く、途方もなく都会で、途方もなく憧れの土地だったのです。それがどうでしょう。私などは今朝も自家用車で家から県庁までたった50分で行けるのですから、隔世の感です。しかもそこで会議や仕事をして午後3時にはわが家に着いて、何食わぬ顔で過ごせるのです。これは何も私と親父の時代変化だけではなく、自分自身にとっても東京という日本の中心地との間にも見られる変化です。私は昭和19年生まれですが、私が26歳で役場に就職したころは、東京へ出張なんて仕事は皆無に近かったのです。それがどうでしょう。今は私のようにリタイアした人間でも一ヶ月に一度くらい東京へ行き、東京で仕事や会議をするのです。しかも上手く行くと一便の飛行機で行き、最終便の飛行機で帰る日帰り旅だって出来るほど東京が時間的に近くなったのです。松山も東京も距離的には今も昔も変わりませんが、人間の英知が時間的な短縮をしたのです。私が仮に長生きして親父の年齢まで生きた36年後にわが息子がこれと同じような感想記事を書くかもしれませんが、時代の便利さにはただただ驚くばかりです。

 今日は月に一度の生協の理事会に出席しました。相変わらず若さ溢れる女性の理事さんの黄色い声を聞いて、元気をいただきましたが、議事の関係で少し遅れて昼食弁当を食べました。何時もながら美味しい弁当に舌鼓を打ちながら、ふと20数年前研修旅行に行った時のことを思い出しました。

 ある人が、「若松さん、弁当の食べ方で生まれた時代が分るよ」と耳打ちしてくれました。私は100人もの婦人会のおばちゃんと一日ハイキングをし、その引率をしたのです。弁当は婦人会が一括購入した幕の内弁当でどれも同じです。早速お昼になってみんな木陰で弁当を食べました。多分その頃はまだプラスチックの容器でなく折り詰めだったような気がします。みんな一斉に弁当を広げましたが、古い時代に生まれた人はみんな折のフタに付着したご飯粒から先に食べるのです。ところが若い人は折箱のフタには目もくれずさっさと食べ始めるのです。「勿体ない」「ご飯粒を粗末にしたら目が不自由になる」とは、亡き母の教えですが、それは日本人の教えでもあったのです。

 今日昼食弁当を食べながら隣の席に座った女性に「あなたは美味しいものから食べる?、それとも美味しいものは後から食べる?」と聞くと、「はい私は美味しいものから食べます」というのです。多分私たち年代の物のない時代を経験した人間は「美味しいものは後口」型が多いのではないでしょうか。今の若者は美味しいものから順番に食べます。そして入らなくなったら食べずに残しゴミとして捨てるのです。

 私は今日、美味しい弁当を紙類を除けば全て平らげ完食しました。私たちへの教えは「物を残すな勿体ない」だったのです。最近食の安全性が問題になり、ここまでやるかと思われるほど消費期限の切れたものはどんどん捨てられゴミになって行くのです。「勿体ない」と思うのは私たち年配の戯言でしょうが、アフリカや中東の飢餓で苦しむ人たちのことを思うと、消費国日本の傲慢さが窺い知れるのです。

 僅かに40パーセントの自給率でしかない日本の将来が心配です。今一度日本人一人一人が食について考え、改めるべきを改めないと大変な事にあるような気がするのです。「勿体ない」「物を残すな」と教えられた古き時代に育ったこと、それを教える親がいたことに感謝する今日この頃です。

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○変なお客さん

 役場に在職中同僚から、「若松さん、あなたを訪ねてくる人は変わった人が多いですね」とよくいわれました。それもそのはず、頭にバンダナを巻いたり、顔中髭面のまるで熊みたいな人だったりするのですから、見た目には「変わった人」と写るのは当然かも知れません。じゃあ一昨年から頻繁に私の所へやって来る兼頭さんはどうでしょう。まるでおぼっちゃんのような色白の男前で、ましては本人は絶対口にしないのですが、友人である山梨県清里の舩木さんからの紹介だと、「東京大学経済学部」を卒業し、難関の松下政経塾をこの春卒塾している超エリートなのに、身だしなみもきっちりして、見た目にはすごく好感の持てる人ながら、目指す方向や考えは相当変わり者とお見受けできるのです。このように、普通の人が普通な目で見ると前者は変わり者、後者は普通の人なのですから、人は見た目だけではないと思うのです。

 そんな中、考えも講堂も変わっていると思われる一人の公務員から電話がかかってきました。えひめ地域政策研究センター主任研究員を介した講演依頼です。その時はそんなに変わった人だとは伺っていませんでしたが、先日届いた講演依頼文章で変わった人だと思い、昨日同僚と人間牧場を訪ねてきた格好を見て「変わり者」の烙印を押さざるを得なくなりました。

(左は協働のまちづくり課主任主事の松浦宏幸さん、右が守屋基範さんです)

 手紙に添えて送られて来たその人の名刺には「NPO法人かさおか島づくり海社 営業部長 守屋基範」と書かれていました。(私)うーん面白い。

 手紙の文面冒頭に「私は市役所の職員で守屋基範と申します。役所に入ってもう25年近くになるでしょうか?。現在44歳です。主に地域振興の仕事をしています。考えるより動くことをモットーにしています」。(私)うーん普通じゃん。

 さらに続いた手紙に「平成13年から笠岡諸島の島おこし海援隊という本当に名前負けしそうな部署を作って、3人希望制で島へ飛び込みました。3年間ぐらいは無我夢中の毎日でしたが、現在8年目となり異動という字が目の前にちらつく中で島おこしに没頭しています」。(私)ええっ、嘘、試薬のノ職員なのか。それにしてもそんな課を作って手を挙げて島おこしをやるなんて、相当変わっているなあ

 まあこんな具合で彼との出会いはある日突然始まりました。しかし、その後に続いた手紙の文面を見て彼が本物でありやる気のある人間であることを確信しました。

 「平成14年に組織した島づくり海社を中心に島民と協働して事業をすすめ、平成18年9月にNPO法人を取得しています。現在、市から離島振興委託料ということでその島づくり海社を運営するための事務局長の給料分の委託料をもらって組織づくりを進めています。

 私は自称この島づくり海社の営業部長ということで企画、事業の実施、営業等を行っています。私は市から給料を貰って島づくり活動を主体的に行っています。島づくり海社は今よくいう「新たな公」ということで私の立場を理由付けながら、毎日現場で過疎高齢化の波を浴びながら、頑張っています。」-後略ー

 まあこんな訳で、人間牧場への顔見せと相なったのです。しかも私が講演に出かける今週の土曜日を3日後に控えた昨日です。私は忙しいと言ったのですが、「ちょっとでも時間を」ということでやって来ました。私はこの日梅雨の晴れ間を選んで人間牧場の梅採り作業中だったので、着替える暇もなく作業着、しかも夜来の雨で濡れネズミのような格好で出会いました。何のことはありません。相手は失礼ながらもっとひどい格好(まるで海水浴に行くような素足にサンダル履きでしたから)で安心しました。

 でも今の時代こんな公務員がいるなんて、にとても嬉しいことです。見栄や格好、それに対面を気にして上ばかりを見て仕事もしない公務員が多いのにです。私はむしろ守屋さんのファンになりたいような気持ちになりました。私だってかつては課長以外まったく部下のいない日本で一番小さな課の課長だったのですから、ちょぼちょぼです。そうだ今週の土曜日は思い切って彼のために働こうと思いました。

  「濡れネズミ サンダル素足の 客迎え お互い心 許して話す」

  「俺だって 課長一人の 課を作り 孤軍奮闘 そんな時代が」

  「本物に 出会ったような 直感が 背筋を走る 車見送る」

  「兼頭に 次ぐよな変わり 者出会い 日本も広い 面白人あり」

  


 

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shin-1さんの日記

○梅の収穫は痛い痛い

 昨年のスケジュール表を見てみると、5月27日と28日の両日、人間牧場の梅採りをしたことが記録されています。梅雨に入ると「ああもうそんな時期か」と思いつつ、忙しいスケジュールの合間と、雨の合間を見計って「梅の収穫日」を設定するのです。今年は芋つるの伸びが思わしくないほど少し季節が遅れ気味に推移しているようなので、一週間遅れの今日を吉日とばかりに梅採りの日に設定しました。

 昨日の雨も上がって天気はまずまずなのですが、無風状態の曇りのため雨の雫が梅の木にやたらとついていて、雨具でもつけなければ、まるで雨降りの中で作業するのと同じようにずぶ濡れになるのです。それでも今日を逃せば時機を逸してしまうので、思い切って決行しました。

 朝8時に家を出て人間牧場につくと直ぐに地下足袋を履き梅採り作業にかかりました。ところが作業を始めると、採り篭も採り袋も持ってくるのを忘れてしまい、さてどうするか思案しました。倉庫に入りそこには空いた肥料袋が置かれていて、それを裏返しにして折込み、穴を2ヶ所開けてビニールの紐を通して、にわか即席の採り袋が出来上がりました。この袋が実は軽くて意外と長持ちし重宝でした。

 今年は昨年200キロも収穫した豊作と違い、わが梅林は裏年です。11本ある梅の木の中には殆ど実をつけていない休眠状態の木もあって、果して自家用に使うほどあるかどうか心配しましたが、終わってみればキャリーに4個、つまり80キロ近くの収穫です。今年も例年通り綺麗な梅が採れました。

 しかしです。体力を使う梅の収穫は予想以上に難儀で、特に梅ノ木のいたるところに刺が出ていて、あちらチクリこちらチクリと体中に突き刺さるのです。我が家の梅林は残念ながら肥培管理が行き届かず、剪定作業もろくにしていないので、木に登るのも一苦労です。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるように、切らない梅はそのうち樹勢が衰えてくるだろうと予測をし、今年から収穫の難しい高い枝は切り詰めながら収穫しました。それでも今日は体中傷だらけで、梅採り作業を終えて家に帰り風呂に入って汗を流すと、あちこちがヒリヒリして痛いことこの上ないのです。妻に薬を塗ってもらいましたが、驚いた様子でした。

 さてこの梅の処理は明日しなければなりません。妻がこのところ風邪気味なので、「お父さん今年は梅の処理はお願いね」と軽く逃げられたため、私がしなければならなくなりそうです。梅酒の瓶も足らないようなので買い求めなければなりません。砂糖も塩も買わなければならないし、臨時的出費がかさみそうですが昨年同様梅酒ならぬ梅ジュースをしっかり漬け込んで、人間牧場用の飲み物を作っておきたいと思っています。

 農家の喜びが分るような気がするといえば少し大げさですが、梅の実を収穫し収穫の喜びが沸いてきました。丹精込めたほどの世話はしていませんが、夏の草刈りなど私にしてみれば十分な世話をしての収穫ですから喜びも一入です。明日は生協の理事会に出席したついでに瓶や砂糖、塩などを買い求め、夜なべにでも処理をする覚悟です。

  「風邪引いた ことを理由に 梅の処理 俺に任せて 妻は見物」

  「塩加減 砂糖加減が 決め手だと 妻の指導で 梅を処理す」

  「収穫は どこか嬉しい 農業を 実感しつつ 作業勢出す」

  「昨年の 四割程度 ありました これで十分 一年乗り切る」 


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shin-1さんの日記

○あじさいキャラバン

 昨日は愛媛県と広島県の境に位置する上島町弓削島で、内閣府主催による「あじさいキャラバン」という、一風変わった行事があり、私も「地域再生伝道師」という変な肩書きで出席を依頼され出かけて行きました。5月末日をもってこの航路のフェリーが廃止され不便なこともあって、午前10時30分今治港発の高速船に乗らなければ間に合わないため、家を出たのは7時30分でした。あいにく梅雨の雨がシトシト降る中、双海~松山~北条~今治を結ぶ海岸国道を走りました。海人を自認すある私としてはやはり海が恋しいのでしょう。

 港の船着場にはこの会に出席するであろう県庁や市役所の人も何人かいて、顔見知りの人たちと談笑しながら船に乗り込みました。弓削島までは丁度1時間、読書をするには最適な時間でしたが、昨晩遅くまで原稿を書いていて多少寝不足だったためか、はたまた船の揺れが快適だったのかついウトウトし、途中寄港の岩城島でふと目が覚め、間違って降りようとするハプニングにまで見舞われました。

 今年に入って「希望の島へ」というフォーラムと、弓削商船高等専門学校へ講演に訪れるなど、3度目の来島ということもあって、すっかり馴染みの顔が多くなり、島移住の兼頭君一家や元役場職員村上律子さんご夫妻など、多くの仲間がいて楽しみの多い来島です。前もって電話連絡していたため、昼食時間だったため、前回もご馳走になった島名物のお好み焼き屋さんに連れて行ってもらいました。

 さて、「上の写真は一体誰でしょう」?、とまるでクイズのようですが、訪れたお好み焼き屋さんで、写真を撮りましたが、カメラのセットが発光禁止になっていたのに気付かずに撮ったものです。お店の前の路地だけが写って3人の顔がまるでシルエットなのです。この回答写真はこの文章の末尾にて公開しますので今しばらく待ってください。

 「地域活性化応援隊in愛媛」という会議は予定通り13時30分から始まりました。内閣府事務局と愛媛県の人が分厚い立派な資料を基に事業の経緯や進め方について説明がありましたが、一般参加者には少し難しく感じるような説明だったようです。


 続いて伝道師であるふるさと回帰総合政策研究所代表取締役の玉田樹さんと私が一人50分の持ち時間でショートな話しをしました。玉田さんはスライド+言葉で、私はスライドなし言葉でそれぞれお話をさせてもらいました。会場には馴染みの顔も沢山いるので私はアドリブな話です。だって、2時間も話しを聞かされた後の、しかも終りの時間が気になる時間帯ですから、どんな立派な話をしても眠り薬になるのですから・・・・・・。

 会議が終わると別室で商談会ならぬ相談会です。それぞれのテーマに合わせてブースが三つ用意され、私は地域活性化ブースに行くよう指示がありました。そこで岩城島でブルーレモンファームという農業会社を営む古川泰弘さんと出会いました。古川さんとは希望の島フォーラム以来二度目の出会いですが、短い時間ながらこれまでの経過やこれからの夢など色々な話しをしました。古川さんは凄いパワーの持ち主で縁もゆかりもない岩城島に移り住み、様々な逆境を乗り越えて逞しく生きています。どこか引かれる魅力ある若者でした。兼頭さんといいいい若者が希望を持って生きていることは素晴らしいことで、まさに希望の島のようでした。

 私は子どもに好かれるタイプなのか、恐る恐る抱っこした、生後1歳3ヶ月という兼頭君の一人息子玄(はじめ)君とすっかり仲良しになり、分かれるのが辛くなるほど仲良しになりました。久しぶりに会った奥さんも息子さんもすっかり島の暮しに溶け込んでいるようで、一安心です。

 そうそう冒頭の写真の正解は次の写真で、兼頭君のご家族写真でした。

             

  「俺の顔 安心するのか 抱っこして 笑顔嬉しや そこらを散歩」

  「島人は どこか優しい 人ばかり 住みたい気持ち 分るようです」

  「人前で 話するのは 難しい 奥の深さを 感じて壇上」

  「出番来た お疲れモードの 会場で さてさて私 眠らさないよう」
       
 

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shin-1さんの日記

○婚活ってどういう意味?

 歳をとったのか、あるいはリタイアして社会の情勢に疎くなったのか、はたまた若い人とコミュニケーションがとれなくなったのか、最近分らない言葉に出会うことが多くなりました。昨日は大学の授業日でした。雨が強く降りだし印刷物を沢山持って大学の構内を歩いていると、見覚えのある女性に会いました。その女性は真赤なパラソルを私に差しかけ、まるで相合傘のようにして建物の中へ連れて行ってくれたのです。聞けば彼女はこの春務めていた会社を辞めて大学へ入り直したらしく、今は大学生だと胸を張っていました。それから立ち話のような格好で30分ほどお話をしましたが、「婚活」も上手く行かなくって」というのです。就職先を探す「就活」なら分るけど、「婚活って何」と訪ねたら、「まあ常に時代の最先端を行ってる若松さんでも知らないことがあるのね」と持ち上げられたような気もするが随分馬鹿にされてしまいました。知ったかぶりで「それって結婚相手を探すことでしょう」というと、「さすが若松さん」と再びの持ち上げです。

 彼女の話だと「婚活」が今密かなブームを呼んでいるのだそうです。私たちが若い時代には青年団などの活動が活発で、男女交際の機会も多かったのですが、今の若者の殆どは大学に進学しふるさとを離れるため、男女の出会いの場は大学での学生どうしになっているようです。そんなこともあってか婚期は大幅に遅れて晩婚となり、結婚しない人の数も相当数に上っているようです。

 でも若い人に結婚願望がない訳ではなく、ここにきて特に女性の結婚願望に復活の兆しがあって、お相手探しのイベントなどをすると積極的なのはむしろ女性の方で、男性を集めるのには苦労するそうですが、女性はいつでも直ぐに集まるそうで、激しい競争に晒され戸惑いを隠せないようです。

 多分それは女性が持っている女性特有の嫉妬心と優越感のせいだと思われるのです。女性は友人や友だちの存在がとかく気になるそうです。あの人より若く見せたい、あの人より美しくありたい、あの人より幸せな結婚がしたいと絶えずどこかの誰かを意識して生きているのです。

 先日の同級会でも女性は「誰々が来るのだった出席しない」とか、着飾りも常に同級生を対象に意識していることが言動に表れているのです。

 その点男は気楽なもので、頭が剥げたとか白髪になったとか、他愛のない話に終始し、酒を飲めばさらに人のことなんか忘れて妻の悪口を言い合い、賑やかに時を過ごすのです。

 妻が時々子どものことを気にして話します。4人の子どものうち2人までは結婚したのですが、次男と三男は適齢期だのに未だに未婚です。私は差して気ににもしないのですが、妻は気になるらしく「婚活」をした方がいいと子どもの顔を見る度に言っているようです。そうです。「婚活」は何も若い人だけのものでなく、親たる人間にとっても大切な仕事のようなのです。

 私も息子のために「婚活」をするよう妻に勧められますが、私は自分の子どもゆえにそんなことをする気持ちは毛頭ないといい、妻から叱責をかっているのです。嘆かわしいったらありゃしない。

  「婚活に 乗り気の女性 多そうだ 息子そろそろ 妻も婚活」

  「再婚を 目当て婚活 あるという 信じられない 今の私にゃ」

  「後二人 片付けないと わが責任 果たせませんと 二言目には」

  「結婚は 人生墓場 聞いていた いいえ天国 今の自分は」


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shin-1さんの日記

○家の庭でホタルが飛んだ

 昨日は大学の講義日に加え生協の会議があって午後から忙しく過ごしました。梅雨に入っているため昼前からシトシト降りの雨が降る中でしたが、車での移動のため普通だとさして苦にもならないはずなのに、昨日だけはちょっと気が重かったようです。それというのも昨日からガソリンが値上げされて、新聞だと宇和島ではリッター181円とこれえまでの最高値が報じられていて、車のガソリンメーターが底をつきかけていたからです。それでも背に腹は変えれれず仕方がないと割り切ってスタンドへ入りましたが、ここは175円で入れてくれました。それでも6千円を越えて支払うと、油代の高さに悲鳴を上げるのは当然のことなのです。このところ原油の値上げを反映してか、相次いで物価が高騰し政府の場当たり的な無策が見えてくるようです。昨日は官房長官が米の減反政策の見直しを記者会見で話し、農林水産省の次官は減反政策を堅持すると全く逆の発言です。遠くヨーロッパに外遊している総理は、食糧危機の原因は農作物を原料にバイオエネルギーを作ろうとすることが食糧不足を招くので、政策転換をしようと発言していました。どれも正しい発言ですがどれも場渡り的な一貫性のない発言で、日本もいよいよ政治的末期症状だと、素人ながら思ったものです。

 会議が終わって家に帰りました。車を車庫の中に入れてライトを消し庭を歩いていると、目の前を何やら一筋の光が光りながらスーと通り過ぎました。「おっ、ホタルだ」と直感し暗闇に馴れていない自分の目で、必死にその光の行方を追いました。ホタルはまるで訳の分らない文字を書くように、またオーケストラの指揮者が緩やかにタクトを振るように幻想的な光を発しながら飛んでいました。そして「もうそんな時期になったのか」と、改めて梅雨の季節を思いました。普通だと玄関に入り妻を連れ出して一緒に見ようと誘うのですが、妻はこのところ風邪気味なので自分ひとりだけの鑑賞となりました。

 「ほたるこい」というわらべ歌があります。♭ほうほう ほたるこい あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ ほうほう ほたるこい♯と小声で歌いながらホタルのことを思いました。

 まちづくりに深く関わった関係で、翠小学校を中心にしたホタルの保護活動に深く関わりました。お陰で絶滅したかと思われたホタルが、地域の人の手によって見事に復活し、今では県内有数のホタル保護地になり、環境庁のふるさと生きものの里百選に選定され、ホタルを介したグリーンツーリズム活動に発展しているのです。ホタルにまつわる話は書ききれないし、これまでにもブログに書いているのでここでは書きませんが、今もホタルは自分にとって分らないことだらけの小動物のようです。

 ホタルは寿命を終えるに当って命のリレーをするため卵を産み、その卵は孵化して幼虫となり川の中でカワニナを食べながら過ごします。やがて桜が散った雨の日にゲンジボタルの幼虫は一斉に上陸を始めるのです。その時既に発光していて、それは神秘的な光景なのです。私も何度か見ましたが不思議な世界なのです。上陸した幼虫はその夜のうちに土に潜り、さなぎとなるための土まゆをつくり、約40日後土まゆの中でさなぎとなって外に出て羽化し成虫になるのです。

 昨晩見たホタルは人知れずそのメカニズムを経て私の前に姿を現したのですから凄いものです。ホタルは平均だとメス15.5日、オス13.9日という短い運命であることも余り知られていないため、身勝手な人たちは捕まえて持ち帰りますが、絶対に手で触らないようにして欲しいものです。

 そのホタルは近くの草むらに止ってもなお光を発し続けていました。昨晩は何か得したような気分になり家野中に入りました。

  「目の前を ホタル飛び交い ビックリし 小雨濡れつつ 鑑賞ふける」

  「このホタル 光るまでには 相当の 苦労を経たか いとおしくなり」

  「明日の夜 翠の里の ホタル見に 行こうと妻を 誘って床に」

  「ホタルさえ 女長生き 妻だって 俺より長生き きっとするぞと」


 

 

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shin-1さんの日記

○のんびり温泉気分

 昨日は6月の第一日曜日なので、私の住んでいる灘町地区の一斉清掃がありました。自分の家の周辺の組内の人が一戸に一人出て周辺の側溝などを掃除するのです。年に一度なので周辺の側溝にはゴミや土砂が溜っており、側溝の蓋を外して中の汚物を取り出すのです。近所は他の地区に比べ比較的若い人が多いので、年配の私などは昔のように進んで重労働をしなくても、少し邪魔者扱いのような感じで手伝いました。田舎なので周辺にはまだ田んぼがあちらこちらにあって、側溝も農業用と生活用が共用しているよな物もあるのです。最近は近所づきあいも両隣以外は殆どなく、このような時でないと顔を合わせたり声をかけることもないので、積もる話に花が咲きました。

 一昨年までは区長をしていた関係で灘町区全体の面倒を見なければならず、消毒液の手配や車の借り上げ、ゴミや土砂の運搬など多くの仕事をしていましたが、その仕事もなくなって元に戻ったため、こうして地元の付き合いが出来るのも有り難いことなのです。下水側溝に消毒液を撒いたりしましたが、早朝午前7時からの作業だったため、8時30分にはすべての作業が終り解散しました。

 前日妹の娘が結婚披露宴を挙げたこともあって、姉夫婦、妹夫婦、そして和歌山の弟夫婦で温泉に行く計画を妹が立てていましたが、和歌山の弟夫婦は所用で帰ったため、6人で伊方の亀ヶ池温泉へ骨休めに行く事になりました。夕方会議出席が予定されているため、それまでは日頃疎遠な兄弟でのんびり日帰り温泉小旅行です。昨日は梅雨に入っているのにまずまずの天気で暑いくらいでしたが、それでも佐田岬半島の潮風メロディーラインに吹く風は心地よく、途中の特産品即売所などに車を止めて買い物をしながらのんびり旅です。

 私たちの町から伊方町亀ヶ池までは長いトンネルが貫通したお陰で僅か1時間です。もう10時には到着していました。受付で見慣れた懐かしい顔にお会いしました。一人は元瀬戸町長の井上善一さんご夫婦です。もう一人は元伊方町長の中元清吉さんです。いずれもライオンズクラブの記念行事で韓国の方を招いてのイベントとかで、お客さんを案内しておられました。それぞれ在任中はお世話になった方々なので懐かしくお話をさせてもらいました。井上さんも中元さんも、勿論私も既に過去の人なのですが、かつてはお互いにまちづくりに熱い思いを持っていただけに、こうして元気な姿を見ると嬉しくなるのです。

 温泉は最近出来たため新しくて清潔で温泉の質も上々で、女性たちは岩盤浴を楽しんでいるようでしたが、私はサウナや塩サウナを楽しみのんびりとリラックスすることができました。温泉の後は食事会で、酒は飲めないものの美味しい海の幸を満喫し、思い出話に花を咲かせました。姉夫婦は老域、妹夫婦は商売とそれぞれの伴侶とともに人生を楽しんでいるようです。私たちも前期高齢者の仲間入りを目前に控えお手本と鳴なべき姉夫婦を見習って穏やかな老後の暮しを楽しみたいと思いました。

 リタイアしたといいながら毎日「何でこんなに忙しいのだろう」と妻も自分も思うほど、むしろ現役時代と違った忙しさの中で暮らしていると、目の前の自然や社会に疎くなっている事に気がつくのです。これからは少しずつ荷物を軽くして心豊かに生きて行きたいものです。それにしても昨日はのんびりゆっくりリラックスしていい一日でした。

  「温泉に 浸りのんびり 久しぶり 我に帰りて 五月を思う」

  「兄弟が 一緒温泉 行くなんて 積もる話に 花を咲かせて」

  「偶然に 出会う馴染みと 立ち話 それぞれ生きて それぞれ語る」

  「どうかしら 親父に土産 買う算段 妻の相談 嬉しいもんだ」

  

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