人間牧場

〇密航船天神丸

 昨日は八幡浜市真穴公民館の招きで、真穴公民館へ講演に出かけました。帰り際「公民館長さんからあなたに渡してくださいと頼まれました」と、女性職員から大野芳著「北針」という題名の本を手渡されました。知りたかった密航船天神丸のことが書かれた資料だったのでとても嬉しく、帰りの道沿いにある記念碑を見学しようと思っていると、公民館長さんが「私も一緒に」と軽四トラックで先導して、天神丸が帆を揚げアメリカ目指してて出港したという源造前の浜に案内してくれました。そのうち伊予市の教育長だった黒田さんの奥さんと兄弟というお兄さんも加わって、3人で行き交う車に気をつけながら、記念穂の見学をしました。

北針の記念碑
案内してくれた館長さんたち
アメリカ渡航した打瀬船「天神丸」
源造前の浜から見える大島
大野芳著「北針)

「大正2年5月18日午後10時、密航船『天神丸』は、こうして愛媛県西宇和郡真穴村大字真網代(現・八幡浜市真網代)の源造前の入江を出帆したのであった。この乗組員は15人だった。25歳から50歳7人、以上が真網代出身者、23歳から39歳6人、以上が川上村川名津出身者、他2人は穴井出身となっているが向灘という説もあって不明である。なぜこの時期、15人という大勢の村人たちが、小さな漁船を改造した船で、危険を覚悟でアメリカへの密航を企てなければならなかったのだろうか。また、彼らの未熟な航海技術によって、太平洋を渡ろうとした航海の模様は、どんなものだったのだろう。(北針のプロローグより)

 18歳の時、愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸で南十字星輝く珊瑚海へ遠洋航海に行った経験のある私。50歳の時、僅か5tの若吉丸に乗って潮岬・御前崎を越え伊豆下田から伊豆諸島の三宅島まで県外出漁した親父。30歳の時、23歳で作った生活設計に基づき、昭和の咸臨丸と銘打った、第10回総理府派遣青年の船の班長として太平世を渡り、アメリカ・メキシコ・ハワイを歴訪した私。そんな自分や自分につながる過去の思い出とダブらせながら、昨晩はいただいた大野芳著の「北針」という本を、朝方までかかり一気に読みましたが、アメリカを目指した未熟にして無謀な顛末にはいやはや驚きの連続でした。

4~5年前、人間牧場で開いた私塾年輪塾のテーマ人物がジョン万次郎だったこともあり、3つ4つのの出来事をダブらせながら「北針」を読んだお陰で、消えかけていた私の心の火が再びくすぶり始めたようです。もうそんなに若くはないので太平洋を渡りたいなんてことは考えませんが、少し暇を見つけて自分や海を巡るあれやこれやを、少し書いておかなければならないとも思い始めたようです。家の横に造っている海の資料館「海舟館」にはそのキーワードが幾つもあるようです。

「館長さん 源造前の 浜案内 かつてここから 密航船が」

「海沿いに 立派な記念碑 建っていて 往時を偲び 記念撮影」

「今だから 無謀未熟と 言うけれど それでもアメリカ 打瀬船にて」

「あれやこれ 思い出すたび 血が騒ぐ 海はロマンの 塊だから」

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