人間牧場

〇古書「大学」との出会いと学び(その2)

 ある日私は北陸福井へ講演に出かるため中継地点である大阪梅田の駅に降り立ちました。梅田駅の近くには古書街があって、時々本を買いに立ち寄りますが、小さな本屋の店先でノジの抜いた見すぼらしい「大学」という本を見つけました。本には無造作に手書きされた1万円の値段札がついていましたが、欲しいものの少し高いと思いつつ店内に入り、店番をしている若い女の子に「私は四国に住んでいて、福井へ行く旅の途中なのであいにく持ち合わせが少ないので、この本を5千円に負けてくれないか?」と話すと、私の姿を田舎者と見たのか、「お客さん、事情はよく分かりますが、何は何でも1万円を半値の5千円に負けてくれという人はいませんよ。大将に叱られますので駄目です」と突っぱねられました。「じゃあお互い折半ということで7千5百円でどうでしょう」と食い下がると、「あなたは中々商売上手ですね。仕方がありません。大負けして7千円にしてあげましょう」と商談が成立し、私は新聞紙にくるんでもらった「大学」という買った本を、行き帰りの列車やバスの中で人目をはばかるように、我を忘れてページをめくりました。

梅田で買った大学

「大学」という本は全て漢字で書かれていて、しかも国を國と書くように古い漢字やレ点返しがいっぱい並び、読むこともましてや意味すら分かりません。唯一読めて分かっているのは二宮金次郎の銅像の左手に持っている本に刻まれた26文字だけで、何とも心もとない限りです。「一家仁一國興仁一家譲一國興譲一人貪戻一國作乱其機如此」(いっかじんなれば いっこくじんにおこり いっかじょうなれば いっこくじょうにおこり いちじんたんれいなれば いっこくらんをおこす そのきかくのごとし)を空で覚え、「大学之道在明明徳在親民在止於至善」(だいがくのみちは めいとくをあいらかにするにあり たみにしたしむのあり せぜんにとどまるのあり)から毎日のように暇さえあればページを開いて読み解きましたが、ふりがなをつけたりしながらどうにか次に進みつつある程度で、なかなか遅々として進みませんでしたが、二宮金次郎を学ぶ年輪塾で清水塾頭が用意してくれた資料のお陰で、その奥行きの深い教えを理解したり注釈できるようになったことはとても嬉しい限りです。

 私たち人間は、生まれてから死ぬまで色々なことを読んだり聞いたり見たりしながら、体と心の基底に知識を蓄積して行きます。字源によると「學」という字の冠は両手で、中の××は交わる(交流)下は覚、學は覚る、覚るは実行だと、年輪塾師範の辻先生から教えてもらいました。小さな小学校の校庭に建っていた二宮金次郎の銅像から始まった私のこれまでの「大学」という本とのとの出会いは、まるでミステリー小説のようです。大学を学び学びから覚り、覚りを実行に移す行動力こそ「処志」なのです。とりあえず10人の「処志」を育て、10人の「処志」が地域にしっかりと根を張って活動すれば、地域は再生するかも知れません。淡い期待を持ちながら、今朝も「大学」を素読しました。

「大阪の 梅田古書街 店頭で 大学見つけ 値切って手元」

 「漢字本 読めぬどころか チンプンカン 年輪塾にて 門前小僧」

 「何の本 読んでいるのか 疑問符が 次から次へ 学びの旅は」

 「処志育て 地域根を張り 頑張れば 少しは良くなる 地域再生」  

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