shin-1さんの日記

○大三島の楠木

 今治北大三島分校での講演を終り帰路に着きましたが、途中大山砥神社の近くの道の駅へ立ち寄りました。かつて道の駅にかかわった仕事をしていたこともあって、道の駅のことが何かと気になるのです。この道の駅は旧友藤原元久さんが関わって出来た場所なので、その後の運営についてお店の人に色々聞いてみました。支配人は私の事を覚えていて、短い立ち話ながら私の誘いに乗ってさまざまな話しをしてくれました。市町村の合併によって道の駅を巡る環境も大きく変化したこと。ここの道の駅は全国超一級といわれる大山砥神社が側にあるため、客足が途絶えないこと。それでもシーズンオフの冬場は観光客が少なく、経営も大変であること。指定管理者などが採用され、ここの道の駅も将来どうなるか不安である等など、どこの道の駅でも共通している悩みを打ち明けてくれました。店の特産品も蜜柑所だけあって、そして蜜柑のシーズンだけあって品揃えも言いようでした。

 久しぶりに大山砥神社へ参拝しました。少人数の県外観光客の一団がガイドさんに連れられて観光していましたが、やはり彼らの驚きは境内にある樹齢三千年といわれる大楠の木でした。自分の年齢や人間の寿命と重ね合わせると、途方もなく長い年月をこの地で生き抜いている楠の大木には、しめ縄を張り巡らしているせいなのか、まるで神の霊が宿っているような錯覚さえ覚えました。境内中央にある大木は二千七百年、境内隅にある大木は三千年ですから驚きです。故事来歴を書いた立て札を読みながら、観光客の一人が「本当に三千年?」と異議を唱え、「誰が年輪を数えての」とひょうきんな笑いを誘っていました。側で聞いていたもう一人の観光客が、「神様が言うのだから間違いない。そんなこと言うたら罰が当る」とたしなめ、大笑いをしていました。看板によると三千年の大木は日本最古の大楠だそうです。

 私は巨木に興味があって、何処へ行った旅先でも、特にブログを書き始めたこの二年ほどは大きな木を見つけるとカメラに納めるようにしています。確かに今まで見た楠木では他に比類を見ない大きさだと実感しました。私がこの楠木を最初に見たのは小学6年生の時でした。私たちの育った時代の漁村では新造船が進水すると讃岐の金毘羅様か安芸の宮島か、伊予の大山砥神社にお参りする慣わしがありました。そんなに旅をする時代でもなかったので、その旅は子どもの私にとってはすこぶる上等な旅でした。船の定員や安全など言われなかった時代でしたから、家族や親類が沢山乗り込み大漁旗をなびかせて夏の海を爽快に走りました。船にはお酒や肴、それにお菓子が一杯積み込まれ、まるで動く豪華客船のようでした。

 宮浦港に着いた私たちは門前町の雰囲気が漂う石畳の参道を、お土産品に目を奪われながら歩いて本殿まで行き、案内された本殿で宮司の祝詞を聞きながら海の神様に敬虔な祈りを捧げました。海路訪れその時見たのがこの楠木の大木でした。子どもの目線は低いためでしょうか、その大きさに度肝を抜かれたのです。



 あれから半世紀五十年もの時を経ていますが、老木ゆえの衰えか、少し元気を失っているようにも思え、また少し小さくなったようにも思えました。

 落伍の高座に使っている150年生の高知産魚梁瀬杉の切り株でさえ驚く私にとって、三千年の楠木はまるで宇宙に輝く星の遠さに似ています。楠木は生きること、星は輝くことを私に教えてくれます。三千年のほんの一瞬に巡りあったのも何かの偶然でしょうが、もう一度「生きることの意味を教えてくれた一日でした。

  「三千年 生きた巨木に 比べれば 俺など僅か 六十路年輪」

  「木霊の 宿る巨木に 手を置いて あやかりたいと 以心伝心」

  「ちょっとそこ 足を伸ばせば いいとこが 何処にでもある ふるさと巡る」

  「手を合わせ 孫三人の 息災を 祈る向こうに 顔々浮かぶ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○若いスキルを持続する

 昨晩遅くに出張先の和歌山県から帰って、今朝は今朝で早い旅立ちです。妻からはそんな無理な日程を組まないようにと言われるのですが、空いた日に予定を入れるとどうしてもこんな強行日程が出来てしまうのです。しかし不思議なもので、どんなに忙しい日程でも気分が乗っている時はそんなに疲れを感じないのですから、やはり心の持ち方は大切なのです。

 今朝は日頃より少し遅めの5時半に起床しました。妻が起きて食事の準備をしてくれました。リンキャベに餅を焼いて黄粉餅を作ってくれました。温かいホットミルクを飲みながら身支度を整え6時に家を出ました。早朝の外気は放射冷却現象で氷点下まで下がっているような肌寒さでしたが、車のヒーターがかかって、三秋の峠に差し掛かる頃には温かくなって、上着を脱いで運転し始めました。

(黎明のしまなみ海道来島大橋)

 男時とでもいうのでしょうか、今朝は信号が殆ど青でスイスイとあっという間に松山、北条、菊間、大西、波方経由で今治北インターチェンジでしまなみ海道へ出ました。来島海峡大橋付近で石鎚山の付近から輝く朝日が出るのを見ました。夕日に思いを寄せているけれど、朝日も同じ太陽なのでことさらにいとおしく見ながら橋を越えて走りました。最近は広島県へ出かけることが多くて、この橋を何度も通るため見慣れた光景ながら、やはり素晴らしい橋だと感心しつつ、来島海峡大橋、大島大橋、大三島大橋など幾つかの橋を渡り、上浦のインターチェンジで下りました。

 早く家を出たのは10年前にしまなみ海道が開通した折、歩いて渡った多々羅大橋を再び歩きたかったからなのです。時計を見れば7時30分、片道30分費やしても往復1時間だから、9時からの講演には間に合うと思い、橋の袂の駐車場に車を止めて、歩道を歩き始めました。いざ歩いてみると、直ぐ側にかかっている橋なのに人間の歩く条件に合わせているため、中々近づくことが出来ず、橋の下をくぐり、小山をぐるりと回りえらく遠いのです。片道30分の制限時間のこともあり少しあせりながら小走りに登って行きました。



(多々羅大橋を眺めながら遊歩道を登る)

 やっと橋にたどり着き橋の片側に設けられた歩道をこれまた小走りに走り、橋の中央の愛媛県と広島県の境であろう場所に到着したので、自分のカメラで自分の証拠写真を撮影して引き返しました。本当は以前に歩いた広島県瀬戸田までゆったりと、自然を親しみながら歩きたかったのですが、残念ながら時間切れで引き返さなければならなくなりました。

(県境をまたいだ橋の上で自分が撮影した記念写真)
(橋の向こうは広島県瀬戸田の島です)
(橋の下は潮流が渦巻き流れていました。足のすくむような高さです)

 橋の上は雨に濡れていてましたが、寒いといいながら早春の凛とした空気が漂い、何ともいえない引き締まった気持ちになって、「やっぱり来てよかった」と思いました。

(ひょっこりひょうたん島のモデルといわれている県境の島)
(橋の上から道の駅多々羅公園を望む)
(遊歩道のの入り口にあるいろはかるたの珍しい石柱が並んで建っていました)

 今日は金融広報委員会から頼まれて今治北高等学校の大三島分校の卒業予定者に講演をしに出かけたのですが、やはり若者の前で話すには自分のスキルを高めておかなければ、聞く相手の心に響かないと思っての行動でしたが、学校ではその余韻があるのか、いい話が出来たと自分では思っています。

 この学校へは毎年この時期に話に来ていますが、今年の卒業生も和気藹々のうちに話しを聞いてくれました。大学や専門学校に進学する人、社会人になる人、生き方は様々ながら、人生の旅立ちであることに変わりはありません。いい人生が待っているよう祈りますが、他力本願ではなく、自力本願でいい人生のスタートを切って欲しいものです。

  「話すには 話す心が 大事にて  若い心を 呼び覚ますよに」

  「広島へ 歩いて一歩 踏み込んだ 県境越えて 風を感じに」

  「十年の 時の流れを 振り返り 元来た橋を 新た旅立ち」

  「他力より 自力で生きろ 説教す どんだけー響く そんなの・・ねー?」    

[ この記事をシェアする ]