人間牧場

〇岡山県久米南町に招かれて(その2)

 この歳になっても、話を聞きたいという依頼が相変わらず私の元へ舞い込んでいます。その殆どはリピーターで、「何年か前〇〇であなたの話を聞いたので」とか、「もう一度聞きたい」という嬉しいオファーですが、はて私はその時どんな話をしたのか?、場所やどんな集会だったかくらいは、おぼろげながら思い出すことが出来るのですが、話の内容となるとまったく覚えていないのです。多分相手も私の話の全てを覚えている訳ではないので、その都度気楽な気持ちで出かけて行き、相変わらず低レベルなお話をしてお茶を濁しています。

 私が招かれる集会は、「お金がないので・・・」という言い訳がまず相手からもじもじ口をつぐむように言われれることが多いようです。また「人が何人集まるか分りませんが・・・」という言葉もよく耳にします。私はその都度「いいですよ」と、電話の向うの相手の心情を思いやり、快く引き受けるのですが、それでも予算がどうであれ人数がどうであれ、気を抜くことも出来ず、毎回全力投球で普通90分の話を参加者にして帰るのです。昨日招かれた岡山県久米南からの講演依頼も、久米南町婦人協議会会長米戸さんのそんな電話連絡から始まりました。

講演会のために作成されたチラシ
講演会のために作成されたチラシ

 何度か今回の講演会の進捗状況経過を会長さんからの電話で聞きましたが、安心と不安の入り混じる中、昨日は列車を乗り継いで最寄の弓削駅へ下車しました。久米南町といえば河童伝説と川柳の町であることは知っていましたが、平成の大合併もせず人口僅か6千人弱ながら単独で残っている町だということや、目だった企業もない純農村地帯であること、町の年間予算規模が30億程度だということは、講師派遣申請とともに送られて来た町政要覧で始めて知りました。でも浄土宗の開祖法然上人誕生の聖地であったり、社会主義の思想家片山潜の出身地であったり、文化的に深い土壌を持っている町なのです。

 講演会場となっていた文化センターや図書館も立派で、講師控室へ通されてからの私に対する接待も、人を思いやる温かい空気に包まれていました。講演は80分、質疑20分程度でしたが、集まった人たちの私の話を聞きたいという熱意が会場に満ち溢れていました。講演後には花束までいただき、また直原先生がかつて津山教育事務所社会教育課に勤めていた折、講演に招かれ知り合った直原先生の娘さんが、手土産を持って地域おこし協力隊の3人とともに控え室まで訪ねて来てくれました。
 駅まで迎えに来てくれた会長さんに講演が終わって再び弓削駅まで見送ってもらいましたが、どこかほのぼのとした満ち足りた気持ちで来た道を引き返し、10時ころ自宅へ無事帰ることが出来ました。

  「金がない 人も何人 集まるか そんな悩みの 講演会に」

  「会場も 集まる人も 100点の 講演終えて ほのぼの帰る」

  「10年も 前に出会った こと覚え 手土産まで持ち 楽屋訪ねる」

  「また来るね また来てください 言いながら 列車の窓に 手を振る二人」

久米南町での講演
久米南町での講演
見送りを受けました
見送りを受けました
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人間牧場

〇今日はこれから岡山県久米南町へ出かけます

 11月も半ばとなり、朝晩は寒さを感じるようになりました。このところは季節の替わり目を知らせるように、3~4日おきに雨が降り、その都度風が吹くのです。家庭菜園の大根や白菜も日増しに大きくなって、特に少し早めにセル苗を買って植えた白菜も今年は大豊作で、連日鍋物や煮物に料理されて食卓を賑わせています。そろそろ大好物の大根も食べごろのようです。

 昨日の菜園は少しじゅるかったものの、今日から岡山へ出張するので寸暇を惜しみ、タマネギの苗を植えました。1束100本の苗を5束と1箱200本のセル苗1箱合計700本の、もみじという晩生苗を三ヶ所に分けて植えました。昨年までは大根も白菜もタマネギもまとめて一区画に植えていましたが、今年から分散して色々な育て方を試みています。お陰で大根などは一ヶ所大風と虫に食べられて早くも不作のレッテルを貼りましたが、別の場所の大根は何とか助かったようです。

 気になっていたタマネギの作付けも無事終わり、今日はいい気持ちで岡山県久米南町へ講演に出かけるため、昨晩のうちに手荷物の準備をして床につきました。今日は少し遠方なので車にしようか列車にしようか迷った挙句、天気が下り坂という予報もあって、急いでネットで列車の時刻を調べ、松山駅8時12分発の特急しおかぜに乗り、岡山駅を経由して出かけることにしました。先方にもそのことを伝え、弓削という最寄の駅まで迎えに来てもらうよう手配を終えています。したがって帰りは夜遅くなる予定です。

 公共交通機関にしたのは3年前12月初旬に、大山の麓鳥取県伯耆大山町へ出かけた折、時ならぬ大雪に見舞われ、スリップ事故を起こし新車だった車を、高速道路のガードレールにぶつけてしまった苦い経験を持っているので、「天気を侮ってはいけない」と妻からも公共交通機関を使うよう再三再四言われていることが頭を過ぎったからでした。列車の旅も大好きですが、私の出かける場所は得てして不便な田舎が多いため、止む無く車を選ぶのです。妻も列車なら大丈夫と太鼓判を押して、今朝は少し早く起きて食事の準備をしてくれています。さあ今日も「亭主元気で留守がいい」と言わんばかりの妻に送られて、これから出発します。お急ぎ御用の方は携帯電話でお願いします。

  「タマネギの 作付け終わり ホッとする これも私の 旅支度です」

  「行く先の 交通手段 ネットにて 調べプリント すっかり馴れた」

  「車より 公共交通 安心で 安全ですと 妻の口癖」

  「冬将軍 そこまで近く なりにけり 過去の失敗 脳裏に浮かぶ」 

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人間牧場

〇古希を祝う同級会(その2)

 私たちは昭和35年に旧双海町立下灘中学校を卒業しています。その後平成17年に伊予市・中山町と合併して伊予市立となりましたが、その中学校も生徒数の減少によって4年前に学校統合して伊予市立双海中学校となり、残念ながら下灘中学校は廃校となりました。その後学校の校舎や体育館、運動場は使われることもなくそのままで残っていますが、幾多の変遷を経ているのでかつての木造校舎も既になく、すり鉢の底から見上げるような空や、傍を流れる豊田川など周囲の風景のみが往時を偲ばせてくれるのです。

賑やかな同級会
賑やかな同級会

 私たちも歳をとったものです。若いと思っていたのに既に69歳の老域に達し、体力も気力も下り坂といった感じです。でも中学校時代の思い出は僅か3年間だけだったのに、小学校6年間の思い出も引き継いで、顔々に会えばつい昨日のことのように思い出されるから不思議なものです。勉強の良くできた子、可愛らしかった子、走るのが速かった子などなど、僅か80人そこそこの2クラスほどの、小さな集団でしたがヒーローも何人かいたものの、70年の時の流れは全てを均一化し、同じような宿命を背負って生きているようでした。

 10年前に開いた還暦の同窓会には、忘れることの出来ない思い出があります。私が幹事を務め、私が名簿を調整して往復ハガキを出しました。その時同級生であり組内でもあった豊岡孝さんかから封書が届きました。返信用ハガキを封筒に入れ、少し込み入った文章が書かれていました。「私は中学校を卒業すると直ぐに集団就職列車に乗って就職をしました。あなたに下灘駅まで送ってもらい都会の駅に着いた時、井沢八郎の『ああ上野駅』という曲が流れていて、涙してふるさとを思い出しました。この歌は私の応援歌です。先日NHKの『ラジオ深夜便』と、NHKのテレビ番組『日本列島1万2千キロの旅』という二つの番組で、あなたがハーモニカを吹いているのを見聞きして涙が出ました。今度還暦の同級会に帰りますので、その時は、ハーモニカを持って来て吹いてください」と書かれていました。

 還暦の同級会で私は主催者としてあいさつをしました。しばらくして余興の時間に孝ちゃんがいきなりマイクを持ち、私にハーモニカで「ああ上野駅」という曲を吹いて欲しいと頼みました。私は音楽は苦手だったので楽譜を見て吹くほどではなく、体感音楽の手合いで吹きました。孝ちゃんは涙を流しながら「ああ上野駅」を熱唱しました。
 その後孝ちゃんは体調を崩し、風の噂では天国へ召されたようです。私は今回の古希の同級会に木になるかばんに忍ばせてハーモニカを持参していたので、孝ちゃんへの鎮魂の祈りを込めて「ああ上野駅」を吹かせてもらいました。下手糞な私のハーモニカは天国にいる孝ちゃんの元の届いたでしょうか。

  「10年の 時の流れで 孝ちゃん 天国召され 悲しからずや」

  「孝ちゃん 聞いておくれと ハーモニカ ああ上野駅 下手糞ながら」

  「新聞の 三面記事を 賑わせる 同級会の 写真思いつ」

  「8年後 喜寿を迎える 逢いたいと 約束するが 果たしてどうなる」

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人間牧場

〇人間牧場へ小さなお客様

 10月24日に予定されていた下灘保育園の遠足が雨のため中止になっていました。「今回の遠足の目的地は人間牧場界隈にしたいので、人間牧場のウッドデッキを使って弁当を食べさせて欲しいしトイレを貸して欲しい」と、米井園長先生から電話があり快く引き受け、スケジュールを空けていたので中止は少し残念でした。勿論下見までして準備をしていた園長先生や園児はもっと残念だったようでした。
 ところが2~3日前、園長先生から私の留守中電話が入り、延期していた遠足を11月6日にやるというのです。私のスケジュールは空いておらず、如何なものか思案した挙句、人と会う約束を先方にお願いして午後にしてもらうことにしました。

ウッドデッキでくつろぐ園児たち
ウッドデッキでくつろぐ園児たち

 午前9時にわが家を出て人間牧場へ行き、一人で水平線の家の掃除をしました。また折角園児たちがやって来るのだから、思い出に残るようにしてやりたいと、足湯をサービスするため、お風呂を沸かしました。子ども体験塾に歩いてやって来る子どもたちはコミセンから40分~50分で上がってくるのですが、園児のことだから保育園から2時間はかかるだろうと予測していたので、足湯は少し熱めにしておきましたが、案の定園児たちが賑やかにお喋りしながら到着したのは、11時30分近くになっていました。
 「おじちゃん、私〇〇よ、知っている?」などと園児たちが人懐っこく言い寄ってきますが、私は親類の子どもと西嶋さんの孫の3人しか見覚えがありませんでした。

お弁当を食べる園児たち
お弁当を食べる園児たち

 楽しいお弁当タイムがウッドデッキで賑やかに始まり、トイレの使い方や足湯の仕方を先生たちに教えて、人に会う約束の時間が近づいたため、少し気になりながらも、一旦軽四トラックで下山しました。所用を済ませ3時間ほどして風呂の片付け等をしに再び人間牧場へ行きましたが、園児たちが帰った後は綺麗に片付けられていました。
 人間牧場へは多い年には年間1000人もの人がやって来ますが、殆どは大人や小学生以上の子どもで、親子連れは別としてこれまで9年間で、一番年齢の低い集団の来牧でした。園児たちに北海道佐呂間町の武田温友さんからいただいた観賞用カボチャの中で、最後まで残しておいたUHカボチャをプレゼントしてやりました。
 「人間牧場で一番美味しいのは空気です」と説明して、大きく深呼吸しながら「空気が美味しい」とパフォーマンスしてやると、園児たちも私を見習って「空気が美味しい」と真似てくれました。本当に空気が美味しいと感じた秋の一日でした。

  「9年で 一番若い 園児たち 2時間かけて 人間牧場」

  「風呂沸かし 足湯サービス 準備する 残念ながら 笑顔も見ずに」

  「牧場の 一番ご馳走 空気です 子どもも空気 美味い言いつつ」

  「何げなく 毎日吸って空気だが 言われてみれば ことさら美味い」

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人間牧場

〇停電

 数日前わが家玄関のチャイムが鳴り、書斎直ぐ横の玄関に出てみると、ヘルメットを被った作業服姿の男性が二人立っていました。二人が言うのには「近々あなたの家の敷地内にある電柱にトランス増設をする工事を、四国電力から請け負っているので、邪魔になる自然樹木の伐採、工事のための通行止め、その間停電の三つのことをお願いに来ました」と説明を受けました。外に出て街灯電柱まで行き、詳しい作業手順を聞きましたが、どうやらこの付近に人家が増えて容量が足らなくなったので、トランスを増設するようでした。

電気工事する上架車
電気工事する上架車

 数日前近くの電柱に、工事のため市道を通行止めにする旨の予告看板が立ちましたが、忙しさにかまけてそのことをすっかり忘れていました。昨日の朝愛媛新聞カルチャースクールに出かける準備をしていると、急に家中の電気がプツッと低い音を立てて切れました。「そういえば・・・」と停電の予告を思い出し外に出て電柱の近くまで行くと、直立護岸の近くでは電気工事用の上架車が二台横付けして、樹木の伐採をしたり電気工事をしたりしていました。道の両側には交通整理のためのガードマンまで配置され、しっかりした現場管理の下に工事が行われていました。

 出かける前なので小用のためトイレに入ろうとしましたが、いつもだとトイレに入るとセンサーが働き自動的にトイレの蓋が開くものの、この日ばかりは停電で開きませんでした。急いで煙会所の手動トイレで小用を足しましたが、「電気が急に消えた」と困惑している親父の隠居に入って、「停電」のことを耳元で大きな声で説明してやりました。
 私が子どものころの昔は、電力供給の乏しい戦後間もないこともあって、月に一度程度「電気休み」というのがありました。冷蔵庫も洗濯機もテレビもない時代でしたから、停電の影響等昼間は殆どありませんでした。また台風などになるとよく停電し、ローソクの明かりで一夜を過ごしたことも懐かしい思い出です。

 今は停電になって一番困るのは冷蔵庫とトイレです。昨日の様に事前に停電を告知されたり、短い時間だったりすると左程影響は出ませんが、長時間の停電になると冷蔵庫の品物に影響が出るのです。わが家には冷蔵庫が2台と冷凍庫が一台ありますが、昨日は何の影響もなく停電を終えたようです。
 定期検査以来伊方原子力発電所は、津波による東電原発事故の影響で止まったままです。夏場は何とかの乗り切りましたが、冬場の電力はどうなのでしょう。安全か便利か、少し考えさせられた久しぶりの静かで短かった停電騒動でした。

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人間牧場

〇秋深まる

 わが家は寒がりな人間が多いのか、10月の秋祭りになるとコタツとストーブが用意され、まだ火は入れていないものの朝晩の冷え込みは、寒さに強いと思っている私でも、少し暖かみが欲しいと思うほどです。息子は一昨日妻に頼まれ、灯油用のポリタンクを軽四トラックに6個ばかり積んで、伊予市内まで灯油を買いに行き、ストーブやボイラーを全て満杯にして、冬の訪れに備えていました。そういえば今週末にはもう一年収めの九州場所が始まるのですから、それもそのはずです。

黄色く可憐なツワブキの花
黄色く可憐なツワブキの花

 昨日は防火水槽の清掃をして汚れたついでに、今年最後となるであろう裏山の草刈りをしました。裏山にはツワブキが沢山自生していますが、この時期はツワブキの黄色い花が満開で、何処かしこといっぱい咲いているのです。草刈機で草を刈って行くと、ツワブキは花もろとも切れてしまうのです。心の優しい私?なので多少心が痛みますが、まあ仕方がないことだと諦めながら、極力花を残すよう気を配り草を刈りました。この時期可憐な白い花を咲かせる野菊も、他の草花も人間様のご都合主義によって同様に、同じような運命をたどるのです。

 

黄色く色づいた温州ミカン
黄色く色づいた温州ミカン

 わが家はかつて半農半漁でした。ゆえに秋の頃になると、親父は海、母は山という忙しい日々を過ごしていました。特に母は漁の手伝いと畑の収穫で寝る間を惜しんで働きました。私も子どもながらわが家の労働力の一つに組み込まれ、ミカンやサツマイモなどを背負子に背負って、急な山道を何度も通ったものです。黄色く色づいたミカンを見る度に、母の笑顔が思い出されるのです。わが家には母が植えた名残のミカンの木が何本か残っていますが、そのミカンがこのところの冷気ですっかり色づき、取り入れの時期を迎えています。借景の山々も少し紅葉が始まりました。紅葉を見たり楽しんだりする余裕はありませんが、季節は確実に寒い冬に向かって動いているようです。

  「そこここに ツワブキの花 咲き乱れ 秋の深まり 感じながらも」

  「裏山で 今年最後の 草を刈る ツワブキの花 勿体なくも」

  極早生の 色づくミカン 見て思う 10年前に 逝きし母顔」

  「朝夕は 冷気漂い わが家でも ストーブ・コタツ 準備万端」

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人間牧場

〇訳も分らず出かけてお話をしてしまいました

 このところ頻繁に、日銀松山支店内にある愛媛県金融広報委員会から、講師派遣申請がメールにて届いています。30年を越えて金融広報アドバーザをやっているので、県内ではすっかりお馴染みとなっているため、スケジュールさえ合えば、断わる理由もなく気楽な気持ちで引きうけ出かけるようにしています。昨日は松山市立余土中学校からの講演依頼があり、親類の叔父が入院しているお見舞いに、出かけ妻も同乗し出かけました。私が講演に要する約2時間の間に見舞いを終らせるという算段でした。

 私はこのところ忙しくて、先方中学校との電話連絡も留守でままならず、送られて来た手紙も先方の入れ間違いか同じ手書きの地図が2枚と先生の「よろしくお願いします」という私信だけで、まったく意味不明のまま出かけてしまいました。到着してみると学校はどうやら文化祭のようで、運動場には小雨にもかかわらずテントが張られバザーなどが行なわれていました。控室となっているパソコン教室へ案内されましたが、教室内には私と同じような講師を務める人が何人も待機をしていました。

 どうやら学級によってテーマを決め、コース毎に講師を招いて話を聞く算段だとおぼろげながら理解しましたが、私のテーマは「人生のすごし方について」で、講師派遣申請に書いていた「青春へのメッセージ」とはまったくかけ離れたものでした。中学生といえど相手を甘く見てはいけないと、心を引き締め自分の体験を基に30人ほどの生徒と、時折入ってくる父兄を前に中学生としては長過ぎる75分間も喋り続けました。最後は全員に感想を言ってもらい役目を終えましたが、まさに青天の霹靂ならぬ雨天の霹靂でした。

 私はこの手の危機管理能力は発達していて、何処ででも相手が誰であろうととっさにアドリブで、2時間でも3時間でも話せる引き出しを持っていますが、果たし私の話を聞いた中学生たちには、どんな反応があったでしょう。私は丁度持ち合わせていた30枚の似顔絵名刺を、惜しげもなく生徒全員に配ってお話をしました。これが私の投資なので生徒にも一枚50円のハガキを投資するよう頼みました。ハガキが来ると私には更に返信用ハガキ30人×50円の投資と労力が必要になりますが、これも役目柄大切な仕事のような気がしています。はてどんな便りが届くか楽しみです。
 追伸、持って行ったデジカメにメモリーカードを入れ忘れ、結局証拠写真は撮れませんでした。

  「どんな会? 訳も分からず 出かけたが 何とか恥を かかずに済んだ」

  「人生を 中学生に 分るよう 話すは難し 雨天霹靂」

  「似顔絵の 名刺を配り 投資する 投資効果の 期待をしつつ」

  「『若松さん お元気ですか!!}』 女性から 声をかけられ 嬉し恥ずかし」

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人間牧場

〇北から南さんがやって来た

 1ヶ月前、島根県隠岐の島にある西ノ島町の南さんから、11月2日にそちらへ行くので「逢いたい」と電話が入りました。この日私は学校評議員をしている県立松山工業高校の文化祭と、地域教育実践交流集会の実行委員会があって、あいにくスケジュールが詰まっていましたが、折角やって来る32歳の若者のために、「1時から2時まで自宅で」と約束をしました。そのためには松工文化祭には午前中と思い、出かけようと思って出かけた矢先電話が入り、「少し早いが11時に到着するので・・・」と電話が入り、慌ててわが家へ引き返しました。

島根県からやって来た三人の若者たち
島根県からやって来た三人の若者たち

 隠岐の島出身の南さんとは、西ノ島町へ講演に出かけた折、今は亡き町会議員だった角市さんを通じて知り合い、西ノ島町役場職員の南さんはその後県庁へ3年間出向し、広域観光の仕事をしながら修行し、3年目を迎えているのです。南さんは生真面目で積極的に生きている好感の持てる青年で、私も何かと気にかけている好青年なのです。南さんは11時に二人の女性県庁職員を連れてやって来ました。早速私のゲストハウスである煙会所へ案内し、火も入れていない囲炉裏を囲むようなかたちで話し込みました。女性二人の内の一人は南さんたちと人間牧場へ来たこともある馴染みの人でした。

 もう一人の女性は福祉関係の仕事をしている人でしたが二人とも若く、ピチピチギャルって感じでした。南さんの話は主に将来の生き方についてでした。かつて私がそうであったように、この歳頃の若者は時折「人生とは?」とか、「何のために仕事をするのか?」などと悩むものです。普通の人が考えれば地方公務員という安定した仕事についているのですから、贅沢な悩みのように思えますが、ゆえに悩みは深いのだろうと、自分の過去を振り返りながら同情もしました。

 お土産にいただいた出雲生姜のお礼に、息子が精製し瓶詰した蜂蜜の小瓶と、妻が見繕ってくれた愛媛ミカンをお土産に渡し、玄関先で記念写真を撮って3人は帰って行きました。
 
(これから出かけるのでこの続きは帰ってから書きます)
 遠いと思っていた島根県も、高速道路のお陰で随分近くなり、日帰りも出来るようになりました。ましてや人の想いは思えば思うほど近くなるものです。これからも心許せる友として、見守って行きたいと思っています。

  「北に住む 南という名の 友人が、はるばる南 愛媛を目指し」

  「瀬戸内海 挟んでいるが 橋架かり 24時間 いつでも行き来」

  「逢いたいと 若い青年 訪ね来て 人生色々 囲炉裏囲んで」

  「さあ今日も 悩める子羊 前にして 論理幾つか 質問答え」

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人間牧場

〇今が過去になる前に

 昨日から11月がスタートし、今年もあと2ヶ月足らずとなりました。昨日は年賀状の発売も始まり、「えっもうそんな時期!!」と毎年のことながら、時の経つ早さに驚いてしまいました。69歳になったというのに妻が驚くほど、私のスケジュール帳は結構充実していて、年末までにまだ九州へ2回、岡山へ2回、山口・広島へ各1回出かける予定が入っているようで、行く先々で広がるご縁を大事にしながら生きて行こうと思っている今日この頃です。

 忙しいと自分の日々の暮らしが疎かになってしまうきらいがありますが、その点をしっかりと埋めてくれるのは毎日書いているブログです。毎日朝1時間、夜1時間をたっぷりとって書斎のパソコンの前に座り、主に前日の出来事と日ごろ感じていることを、徒然なるままにといえば格好はいいのでしょうが、思いつくままに書いています。お陰様で読者も増え、時にはコメントも入って一人悦に入りながら、自己満足をしているのです。まあ他愛のないことながら、私にとってブログはささやかな生きがいのようなものなのです。

 ブログの取り得は記録性と記憶性です。私のような年齢になると昨日今日の出来事でさえ忘れてしまいます。昨日はどんなことをしたのだろう?。きのうは何を食べたのだろう?。昨日は誰と会ってどんな話をしたのだろう?。昨日は何を思って一日を過ごしたのだろう?。この「何」や「?」を思い出し知れを文章に書くことで、老いへのスピードが少しは遅れるだろうと思っていますが、ブログの最大の特徴は頭の中から完全に消えている記憶を蘇らせてくれるのです。

 自分のWriting Calendarに書き込んだ項目を日付で検索すると、いとも簡単にブログを書いてきた少なくとも9年間の出来事は、PC画面に再現され、記憶を辿ることが出来るのです。いやはや便利な世の中になったものだと、つくづく感心するのです。他人から見れば「そんなものにどんな価値があるの?」と言われそうですが、人がどう思おうと私にとってはかけがえのない大きな自分の財産なのです。
 「今」は一瞬にして過去になります。「今を記録する」、これは記憶が定かなゆえに人間が得てして忘れがちな視点だと思うのです。

 去年の昨日11月1日は松前町神崎の晴光院というお寺さんでお話をしています。去年の今日11月2日はスィーサイド公園で漁協女性部に来た来訪者にまちづくりについて話をしています。「さてその時どんな話を誰にして何を感じたか」、検索して呼び出した画面には写真まで添付され、記憶が鮮やかに蘇ってきました。ブログは私の体内にはないもう一つの外なる記憶装置だと思っています。もう一度そのことをしっかり意識して、記憶と記録の関係を考えてみたいものです。今が過去になる前に・・・・。

  「パソコンの 苦手な私 何故でしょう ブログだけには 情熱燃やす」

  「今が過去 なる前せっせ 文字にする 記憶薄れる 年齢ゆえに」

  「去年今日 私は何を してたのか 月日検索 直ち呼び出す」

  「私には 自分の記憶 以外にも 記憶装置を 持っております」

 

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人間牧場

〇珍しいハガキが届く

 昨日まで千葉県にある市町村アカデミーへ出かけていて、夜遅く自宅へ帰って食事をしながら、留守だったこの二日間に届いていた手紙類を見ました。手紙類の中に葉っぱのハガキに、荷札をくくりつけた珍しいものが目に留まりました。この一風変わったハガキを送ってくれた送り主は、先週の土曜日松山市道後のみゆき会館で開かれた、第3回ハガキ祭りを主宰した兵頭淳志さんです。
 兵頭さんとはこのハガキ祭りに講演を依頼するため、人間牧場へやって来てからの出会いですから、そんなに古い付き合いではないのですが、その真摯な態度には好感が持て、私のパトロンの一人であるギノー味噌の田中正志社長をお互いがよく知っていることもあって、ご縁が急速に深まった感じです。

兵頭淳志さんから届いた珍しい葉っぱのハガキ
兵頭淳志さんから届いた珍しい葉っぱのハガキ

 私はハガキ祭りのことを私のブログ「shin-1さんの日記」で紹介しました。その記事の中に「ハガキは紙が不自由だったころは葉っぱだったのでは?」と書いたところ、その通りだと薀蓄ある言葉が電話で寄せられ、ハガキ祭りの日に私は所用でひと足早く帰りましたが、「たらよう」という木の葉っぱに文字を書くイベントもやったようでした。「たらよう」の木の葉っぱに文字を刻んだのが、ハガキの始まりだと私に伝えたくて、兵頭さんはわざわざ送ってくれたのです。
 私は「たらよう」という木は知りませんが、泰山木の葉っぱの小型と匂いのする葉っぱ月桂樹を足して2で割ったようなトゲのある葉っぱでした。早速インターネットで調べてみようと思っています。

 最近私は自分を普通の人間だと思っているのに、普通でないと思うのか、私の身の回りにはこのように普通でない人から色々なハガキが届くのです。それもそのはず20年間続けた無人島に挑む少年の集いでは、無人島に私設郵便局を開設したり、石や流木に手紙を書いて出すことを子どもたちに教えたりしたのです。ゆえに私の所へはうちわのハガキ、杉やヒノキの板ハガキ、スイカの形をしたハガキなどなどが舞い込んで、配達する郵便局員を驚かせています。
 一日に3枚のハガキを毎日書いている私にとって、やはり「ハガキは嬉しい活力素」です。昨日も出張先の千葉県で持って行った10枚のハガキを書いて、海浜幕張駅前の郵便ポストに投函して帰りました。声をかける、あいさつをする、ハガキを書くくらいなら誰でも毎日、その気になればできるのですから、私もしっかりとそのことをささやかながらこれからも、やりたいと思っています。兵頭淳志さんありがとう。

  「珍しい 葉っぱに荷札 つくハガキ 家族みんなが 珍しそうに」

  「世の中にゃ 達人いると 感心し 葉っぱのハガキ 早速ブログ」

  「たらようと 言う植物は 知らなんだ 植木祭りに 出かけて買おうか」

  「人に会い 人に感化の 人生を 今後も続け いい人なりたい」 

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