shin-1さんの日記

○刀の手入れ

私の親父は若い頃から骨董に興味があって、やたらと色々な物を集めていて、家の敷地内にそれらを展示する海の資料館「海舟館」という個人の資料館を開設しています。資料館といっても家の倉庫を改造した簡単な建物なのですが、多分公立でもないような珍しい物を展示していて、我が家を訪れた殆どの人はその珍しさとこだわりに目を見張って驚くのです。

(わが家秘蔵の刀剣類です)

 親父の偉さはそこら辺に落ちているガラクタ同然のものでもしっかりと手入れをして磨きこみ、しっかりと展示に耐えるようにしているセンスのよさです。例えば親父は元漁師ですが、自分が底引き網の操業中網にかかって引き上げられた戦闘機の機銃を根気良く磨いて展示をしているし、ナウマン象の化石だってきちんと塩抜きをして展示しています。また自分の乗ったり見たりしたことのある瀬戸内海で活躍した木造船の模型を自分で手づくりし20隻も展示しています。

 そんな展示に混じって、刀や槍、火縄銃といった日本古来の美術品も展示をしています。多い時には刀など10振りも持っていましたが、息子や親類に剣道をやる人間が多く、譲ったため今は刀が5振り、槍や薙刀、火縄銃などが所狭しと並べられています。

(刀の手入れをする親父)

 今朝親父の隠居に行くと、刀箱から刀や槍を取り出して時代劇映画で見るような姿で刀の手入れをしていました。そして「お前も長男だし、これらを大事に孫子の代まで伝えるためには、手入れの仕方をもうそろそろ習わなければなるまい」と神妙に言うのです。「まだまだ親父の仕事だ」と思いつつ、「そうじゃねえ」と同調しました。親父の話によると刀や槍は2~3ヶ月に一度は箱から取り出し、刀を保存鞘から抜いて打ち粉を打ち、それを拭き取ること二度三度、その後刀用の油を引いてもとの鞘に収める、次に柄をを抜いて手元の手入れも怠らないようにと、指導を受けました。打ち粉を振り過ぎるといけないし、油をつけ過ぎると光が鈍くなるなど、刀の手入れは細心の注意が必要だと厳しく注意され、手ほどきを受けました。親父のいうのにはそれらの作業はわが息子にも既に伝授しているそうで、知らないし出来ないのはどうも私だけだったようなのです。

(親父自慢の一振りです)

 親父が一番自慢にしている刀は昭和41年に打った現代刀ながら「肥前国住兼元」作の一振りです。これはかなりの金をつぎ込んで手に入れたもので、鑑定書では「重要貴重刀剣」にランクされているのです。親父は元々古刀が趣味ですが、この分厚くて長い優れものを大切に保存してきました。「わしが死んでもこの刀と機関銃だけはこの家の宝物として孫子に伝えて欲しい」というのが口癖なのです。

 刀箱に入れ大切にしまっているこれらを私は長男としてしっかり受け継ぐ決意をした朝でした。それにしても3ヶ月に一度手入れが出来るか心配です。

  「長男の お前が受け継げ そういって 刀の手入れ 仕方教える」

  「値打ち物 売れば値打ちを 感じるが ただあるだけで 値打ち分らぬ」

  「そういえば 二人の弟 嬉しげに 刀貰って はしゃいでいたっけ」

  「三ヶ月 一度は刀に 向き合って 打ち粉油で 手入れする羽目」 




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shin-1さんの日記

○「ふなや」にて

 最近はホテルでの会議が主流になって、公民館や市民会館などのような公共施設利用の会合が少なくなる傾向があるようです。公共説を運営する地方自治体の財政が厳しくなって、「公共施設は無料」という神話が崩れたため、同じ使用料を払うなら少々高くても快適でサービスの行き届いた会場がいいと思うのは無理からぬことなのです。

 昨夕は愛媛県建材同業会総会の記念講演を頼まれて道後温泉の「ふなや」というホテルへ行きました。「ふなや」といえば皇室関係の宿泊場所となる愛媛県随一の呼び声高い由緒のあるホテルです。このホテルを会場に選んだ建材同業会のレベルが推し量れる感じがして、内心恐る恐るの出かけました。車止めから手配が行き届いていて全てかゆい所に手が届く気配りを感じながら玄関ロビーへ入りました。30分前に到着したので総会の真っ最中とかで私は応接室へ案内されました。この応接室は古い建物の一部を復元したもので、壁には昭和天皇以来多くの皇室関係者が、名だたる全国大会が愛媛県内で開催される度に訪れていて、壁にはその写真が幾枚も飾られ、さしずめ資料館という感じです。随所に見られる洋風建築の調度はまさに超一級の感じがしました。また窓の外に目をやるとこれが道後温泉?と思わせる静寂で広大な庭が見え隠れして、何ともいいようのない至福のひと時を過ごさせてもらいました。
(案内された格調高い応接室、壁には宿泊された皇室の方々の写真が数多く飾られていました)
(窓のガラスもアーチ型の入口も、更には窓越しに見える庭の風景も素敵でした)
(大理石でできた暖炉とステンドグラスの調和も何ともいえないレトロな雰囲気です)
(天井の明かりは明治・大正・昭和初期の趣きです)
(四方の窓にはさりげなくステンドグラスがちりばめられていました)

(窓越しに見える庭園の木々もかすかに芽吹いていました)

 やがて案内されて講演会場へ入りました。これまた素敵な会場の設えで、金屏風や吊り下げられた演題が何とも面映い感じです。雰囲気的には多分この一年間で最も素敵な会場の設えではなかったかと思いました。


 話は僅か50分、懇親会の前座といったところでしょうが、それでも与えられた時間をまるでビデオテープを早送りするように早口で喋り続けました。私の場合はその場の雰囲気で話す悪い癖があるので、どんな話をしたのかよく覚えていませんが、それでも反応はあったらしく、その後の懇親会では多くの人と名刺の交換をさせてもらいました。その中には宇和島から駆けつけた橘さんとお話が弾みました。というのも橘さんの奥さんは双海町出身だそうでした。奥さんのお父さんは私の恩師で元下灘中学校の校長をしていた古田竹雄先生なのです。古田先生はも亡くなられましたが、校長時代私が宇和島水産高校の受験の際、わざわざ校長でありながら私一人を連れて宇和島まで受験に連れて行ってくれたのです。忘れもしませんが宇和島城の直ぐ下にある丸重旅館に校長先生と二人で同じ部屋に枕を並べて泊まり、色々な話をしました。運良く合格した時も、昔のことゆえ校長先生が知人に合格発表を見に行くよう頼み、そこから第一報が電報で学校へ届いたのです。

 合格発表のその日、私は構内放送で「三年B組の若松君、至急校長室へ来て下さい」と放送で呼び出されました。不安な気持ちで校長室へ入りました。喜色満面な笑みを浮かべて「合格おめでとう」と校長先生の友人から届いた祝電を、校長先生から渡された嬉しい記憶は今も忘れることが出来ません。もう時効になっているので言っていいでしょが、その当時は車の運転なども緩やかで、福岡先生に許しを得て、先生が通勤に使っていた単車を中学生でありながら無免許で運転し、家までこの合格通知を届けに帰ったのですから、面白い時代でした。

 宇和島での三年間の学業を終えた卒業式の日に、3年間皆勤賞、優等賞、産業教育振興中央会長表彰の三賞を受賞し、お礼に伺った時も、涙を流して喜んでもらいました。晩年は不遇にも火事で奥さんに先立たれましたが、いつも目と声をかけて励ましてくれました。

 飛んだ横道にそれましたが、「ふなや」でのほのぼのとした懇親会を早々においとまして、8時に会う約束の友人と打ち合わせを行なった後、夜遅くわが家へ帰りました。

  「会議など 何処でもいいと 思うけど 雰囲気だけで 話も変わる」

  「何処となく 奥ゆかしさの あるホテル 通され時間 静かに過ぎぬ」

  「道後にも こんな静かな 場所がある 木々は早くも 芽吹きの気配」

  「三級な わが身だけれど この場所に 座れば一級 そんな気がして」

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shin-1さんの日記

○サンプル

 最近都会の街を歩いていると、色々なプレゼントを訳もなく貰うことがあります。例えばプレゼントといえるかどうか分りませんが、ティッシュペーパーなどはその典型で、同じ道を往復すると、「さっき貰ったばかりなのにこの人は渡した人の顔を忘れているのかしら?」と思うほど、同じティッシュペーパーをくれるのです。多分渡すことを依頼した側はできるだけ多くの人に渡して欲しいのでしょうが、渡すことを依頼された側は与えられた時間に与えられた量を配るのがノルマであって、要は誰に渡したかなど問題ではないのです。ティッシュペーパーの出所は主に消費者金融などへのお誘いで、ティッシュに手を出しても、うかつに誘いに乗ってはいけないのです。

 昨日は会合に出席するため松山へ出かけました。出かけるというよりは県庁所在地の松山での会合が多いため、品数豊富なスーパーや本屋など立ち寄る店が多く、見慣れた風景を見ていると、まるで松山からわが家へ通っているような錯覚さえ覚えるのです。立ち寄ったスーパーは夕食の買い物時間だったせいでしょうか、レジは多少混雑していました。食料品売り場の店内を歩くと試食品があちらこちらに置かれていて、主婦たちはつまみ食いしながら買い物を楽しんでいました。勿論手をつないでいた子どもにもそんな試食品を食べさせながらの買い物です。「おひとついかがですか」と勧められましたが、会合へ行く途中なので辞退し、レジで支払いを済ませ店を出ました。

 化粧品、食料品、日用品、飲料品、これが試供品の4大品目といわれるように、テレビでも雑誌でもインターネットでもお目当て新商品をPRするための誘いが行われています。その最たるものは化粧品で、「サンプルを送りますのでお試し下さい」とか、「自信があるのでアンケートにご協力下さい」とかいって、申し込みした人にサンプルを送りつけるのです。「無料でそんなことしたら損をするのでは?」と思いがちですが、サンプルに関するコンサルが綿密に消費者の心理を分析してアドバイスをしているだけあって、しっかりと投資効果をキープしているのです。主婦の場合思い込みが強く、一度使うと「自分に合っている」と思い込み、「綺麗になった」と褒められると有頂天になってアリ地獄の底まで付き合うそうですから、用心しなければなりません。「特にお客様の中からあなただけが選ばれました」となると余計有頂天になってしまうのです。

 この頃ふと気がつくことがあります。お年寄りがテレビを見るのは水戸黄門などの時代劇が多いのだそうですが、その時間帯になるとヒアルロンサンやグルコサミン、コラーゲン、ブルーベリーエキスなどとお年寄りの心情をくすぐるようなサプリメント商品の宣伝がテレビから訳もなく流れているのです。お年寄りにとって元気の減退、足腰の痛み、目のかすみ、頻尿不眠、糖尿病などなど健康への不安は枚挙に暇がなく、さもそれらを飲んだり食べたりすれば、即そうした悩みから開放されると勘違いを起すのです。その結果高いサプリメントに手を出して、かえって健康を害することがあるのです。

 人の事をいえぬ経験を私も持っています。青汁がいいと雑誌に書いてあって、「このハガキを出せば無料サンプル送ります」に釣られて送ったのです。間もなくサンプルは送られてきましたが、その日から電話攻撃に会い青汁どころか青色吐息となってしまいました。美味しい話には必ず裏があります。サンプルにご用心。

  「サンプルや 試供品攻め これでもか 相手の作戦 一枚上だ」

  「東京じゃ ペーパーもない 当たり前 ティッシュ助かり ほっと一息」

  「裏を見りゃ 消費者金融 PR 期待はずれの 人に渡して」

  「ハガキ出し 送られて来た 試供品 電話攻撃 青色吐息」

  


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○イチゴの水耕栽培

 先日孫と二人で翠小学校の近くにある観光イチゴ園に行きました。毎年のことながら5歳にもなると孫はそれなりに私の心を読み取って様々な要求をしてくるし、その要求が私のへそ曲がりでどの程度なら通るのかもう熟知しているのです。そんな孫と私の関係は妻に言わせれば今流行のテレビ番組「相棒」とそっくりなようです。

 「おじいちゃん、今日はイチゴ狩りに行こう」と誘われました。車を走らせれば馴染みの農園へは5分で到着です。孫は毎年何度かイチゴ狩りに来ているためすっかりお馴染みさんで、雑談をしながらハウスの中へ入って行きました。ハウスの中はもう春を通り越して初夏のようなポカポカ陽気です。ミツバチも飛び交い真赤に熟したイチゴがたわわに稔っていました。

 この観光イチゴ園も創業以来もう5年以上も経っているので、さちのか、とよのかなど様々な品種が植えられていて、酸味が合ったり奄美が濃いかったりして味が微妙に違うのです。孫はヘタを入れる小さなバケツを持って当りかまわず歩き回り、良く熟れた鹿も大きい実をどんどんちぎって食べています。私などは大人だというのに孫の半分も食べることができず、今更ながら孫の食欲には驚かされるばかりです。

 「おじいいちゃん、お母さんとおばあちゃんにお土産を買って帰ろう」というので、事務所でパックを受け取り②パック詰め合わせました。これも孫のやさしい心の表れでしょうか、ついつい嬉しくなりました。やがて腹いっぱいになってハウスの中のベンチに座って休憩していると、孫が便ーるパイプを目敏く見つけ、「おじいいちゃんこのパイプは何に使うの」と質問するのです。私は分らぬまま、このパイプからイチゴに水やご飯をあげるのよ」というと、孫は「フーン」とうなずきながら、「じゃあ僕の食べたイチゴはご飯を食べたんだからそのご飯も一緒に食べたの」と逆質問です。「ウーン、困った」でした。

 私たちは植物にとって最も大切なのは土と水と太陽と栄養になる肥料だと子どもの頃から教わってきました。ところがこのイチゴの栽培は全く土を使わない水耕栽培なのです。土が無くても植物は出来るのか最初は戸惑いましたが、このイチゴのようにロックウールといわれる綿のような土に変わる代用品があれば植物は管理さえすれば立派に育つのです。むしろ土だと中に微生物や病原菌があって、発達を阻害することだってあるのです。その点水耕栽培は栄養を根元に散布し、葉面に散布すれば化学的には土と同じ、自然と同じように成長するのです。

 だとしたら、孫が言うようにまるでストローのようなパイプから送られてくる栄養分を私たち人間は、イチゴという物体を通じて食べているに過ぎないのです。「イチゴが食べた食べ物を人間が食べる」何と不思議な出来事なのです。

 じゃあこのイチゴハウスの栄養分となる液肥は一体どんなものなのか、そこまでは知る必要がないまでも、その液肥が安全な物かどうかは知っておかなければならないのです。

 宇和島地方は鯛やハマチの養殖が盛んですが、ハマチに食べさせた餌がイワシだとしたら本当にイワシににた味がするかもしれないと、真剣に考えた時期がありました。実はハマチを冷蔵庫で長く保存して食べると本当にイワシの味がするという話もまんざら嘘ではないようです。

 イチゴを食べるときは液肥を食べているという感覚で食べると味も素っ気も無いので、やはり余り気にせず食べることが肝心かも知れませんね。

  「水耕の イチゴの食べた 養分を 人間食べて 美味い美味いと」

  「じいちゃんの 好みしっかり 掴んでる 五歳の孫の 人を見る目が」

  「何となく 土の匂いの しない分 物足りなさを 感じるイチゴ」

  「土も無く どうしてイチゴ 出来るのか 不思議な時代 俺は分らぬ」

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shin-1さんの日記

○私はエッセイスト?

 リタイアし自由人になって早いもので3年が過ぎました。新聞紙上に人事異動の記事が載る季節になると、華やかなご栄転の顔写真入りとは対照的に、最後の欄に虫眼鏡で見ないと見えないほど小さく、印象的に退職者の名前が掲載されているのです。部長で辞めた人も係長で辞めた人も人それぞれですが、多分この記事にさえも載らない多くの人たちが第一線から退く事を思うと、仕事の値打ちとは、人間の値打ちとは一体何なのかと、しみじみ思うのです。多分公務員だと職責上えらかったであろう人たちは、天下って多少の不自由はあっても、力を誇示し続けるのでしょうが、平で辞めた人たちにはそんな恩恵も無く社会の荒波に放り出される運命にあるのです。でもご安心下さい。社会は心さえしっかりしていれば、4月1日が再スタートで誰からも文句を言われる自由人としての暮らしが待っているのですから・・・・・・。私のように・・・・・。

 私は今自分の役職を調べて見ましたら、退職と同時にかなぐり捨てたはずなのに、人間牧場主、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、愛媛大学法文学部非常勤講師、夕日のミュージアム名誉館長、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ、地域活性化伝道師などなど十指余る役職があるのです。最も嫌いなひどい時は先生とか元教育長などの名前でも紹介されたりして、「私は先生ではない」と打ち消すのに懸命なのです。

 そんな折、私の友人が会社員なのに名刺に「エッセイスト」と刷り込んで配っているのを見て、悪くはないなと思いながら、いっそ私「もessayist」という名前でデビューしようかとも思ったりしています。エッセイストとは、エッセイを書く人、随筆家のことで、形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文や、意の趣くままに感想・見聞などのまとめた文章を、新聞や雑誌あるいは単行本などに執筆する人のことをいい、エッセイストだけではなく、エッセイスト以外の肩書きを持つ場合が殆どなので、私もそんな概念にピッタリなような気がしているのです。

今のところ頼まれて雑誌やインターネットサイトに定期的に記事を書いているし、ブログもある意味エッセイなので使ってみたいと思っています。しかし仮にもエッセイストと名乗るからにはそれ相応の勉強や努力が必要で、納得のいく文章が書けるようにならないと軽はずみに使うことは出来ないと思っています。

 最近、私のブログも相当認知されて、読者が少しずつ増えてきました。エッセイを書くには、まず知識を習得するため読まなければなりません。暇さえあれば読書を欠かさないことがまず絶対条件でしょう。次に書くことです。自分でいいと思った文章でも人の批判に晒さなければ何の価値も無く成長だってないのです。その点だけでは私は合格点だと思っています。本もそれなりに読むし、書くことだってそれなりの量をそれなりのスピードで書いてます。問題はそこからです。文章には天性のようなものがあって、幾ら努力しても一定のレベル以上へは進むことができないのです。私は子どもの頃から国語が好きで、文集を沢山書いてきました。また役場に入ってからも町の広報を10年間担当して書いてきました。しかし残念ながら凡人の私はそこから上達しないのです。これまで5冊もの自著本を出し、共著本にも名前を連ねましたが、どうも満足がゆかないのです。多分それこそが天分の無さだと自負するところです。

 ある意味で格好いいエッセイストになれるかどうか、今後の精進でしょうが多分縁のない社会かも知れません。

  「エッセイを 頼まれ書くが 上手くなく エッセイストには なれぬ落胆」

  「将来は エッセイストの 肩書きを 名刺に刷って 配ってみたい」

  「また俺の 心でうずく 夢一つ エッセイストを 目指す野望が」

  「原稿を 頼まれ送る これエッセー 原稿料まで いただき嬉し」 

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shin-1さんの日記

○中学校の卒業式

 私はこれまでどれ程の数の卒業式に参加したのだろう。自分の小・中・高等学校、子どもの小・中・高等学校、PTA会長としての高等学校、教育長としての小・中学校、三男の警察学校と、まあ両手では数え切れないほどの卒業式に出席しました。その度に時には涙し、時には凛とした新たな旅立ちを感じたものでした。子どもが巣立ち、自分も第一線を退いた今は、卒業式などテレビのニュースで見る程度となっていました。ところが最近になって学校評議員なるお役をいただいて、学校に意見を述べる機会があるようになって、学校から卒業式や入学式の案内が届くようになりました。でも忙しい日々の暮しでどうしても日程が合わず、ついつい欠席していました。

 今年も案内があったものの、日程が合わず欠席を決め込んでいましたが、偶然にも会議の予定が変更となり思い切って出席する事にしたのです。合併前は町会議員さんたちも大勢参加していたため来賓の数も多かったのですが、合併後はやたら寂しくなったと参加した人から聞いていたのですが、子どもの数が年々減少している現状では、卒業式の在り方も随分変わっているようでした。

 今日卒業式に出席した上灘中学校は自宅の目と鼻の先なので、少し早いと思いつつ歩いて出かけました。卒業式には花がよく似合うと思いながら一歩外に出ると、道端に綺麗なさくらんぼの花が満開を迎えていました。

 やがて運動場を通って正面玄関から校舎内校長室に入りましたが、来賓の方々はもう殆どお見えで、私は遅い方で、近い人ほど遅いというジンクスは当っていると思い、校長室を通り越して応接室でお茶の接待を受けました。応接室には歴代の校長さんやPTA会長さんの写真が壁の両面掛けてあり、一種独特な雰囲気です。

 やがて校長先生の案内で式場となる体育館に案内されましたが、入口には入場を待つ卒業するであろう生徒さんがにこやかに出迎えてくれ、顔見知りの子どもたちも沢山いて、「おめでとう」と声を掛けさせてもらいました。

 やがて式典は始まりました。今年の卒業生は26人だそうで、今更ながら生徒数の少なさを実感しました。それでも卒業式は工夫を凝らしていて、卒業証書授与、式辞、祝辞、来賓紹介、記念品贈呈、送辞、答辞、合唱など、どれをとっても何の文句もつけようが無いほど無駄が無くシンプルで、それでいて主役の子どもたちの動作がきびきびとした、100点満点の卒業式でした。子どもは訓練によって変わるものなのですが、訓練を繰り返すとそれが習慣になります。普通だと先生が起立、礼などと号令を掛けるのですが、それもなく身についた習慣が一際目立った式典でした。

 卒業式にはシンプルなピアノの音色がよく似合います。三年生の合唱「旅立ちの日に」、在校生の「そのままの君で」、全員の「校歌」斉唱を歌い、聞きながら涙を流す生徒の爽やかな姿に遠い昔日の思い出をダブらせながら私も涙を流してしまいました。今日卒業した子どもの中には、何人かハガキのやり取りをした子どももいて、まるでわが子のように感動が伝わってきたのです。

 校門を入った職員室の直ぐ横に早咲きの桜が、卒業生の旅立ちを祝福するよう印象的に咲いていました。満開です。この桜もやがては散り行く運命にあり、遅咲きの桜にその座を奪われるのでしょうが、卒業する生徒も人それぞれです。早咲きもあれば遅咲きもある、長い人生ですから、しっかりと自分を見据えて生きて欲しいと願っています。今日卒業した子どもと同じように3年前赴任して来られ、子どもとともに3年間を過ごされた校長先生のはなむけの言葉も印象的でしたが、子どもとともに熱い涙を流して顔をくしゃくしゃにしていた校長先生の姿はもっと印象的で素敵でした。

  「早咲きの 花に送られ 旅立つ子 明日は合格 通知願って」

  「三年間 ともに過ごした 校長の 顔がくしゃくしゃ 素敵でしたね」

  「式場に どこか寂しい ピアノの音 心に響き 涙止らず」

  「私宛 ハガキをくれた 顔見つけ 祝福会釈 思わずにこり」



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shin-1さんの日記

○タイムカードの思い出

 先週の金曜日、所用で市役所支所へ行きました。普通の住民は玄関から入るのですが、途中新しい庁舎に変わったといいながら、35年間もこの役場で働いてきた私は、どういう訳か脇にある通用門の裏口から入る癖がついていて、いつの間にやら足が自然とそちらへ向くのです。ふとその事に気がつき、「そうだ、次回からは内間の人間ではでないのだから正面玄関から堂々と入ろう」と、決意を新たにしたのです。それにしても長年の習慣は恐ろしいもので、役場=裏入口だったのです。

 通用門の入った所にタイムカードが置かれています。このタイムカードも今となっては笑い話のようですが随分物議を醸したものです。タイムカードが導入される前の役場は「出勤簿」と称する台帳がありました。例えば今日だと3月17日の欄に印鑑を押すのです。それはアバウトなもので、遅れて来ても早く帰っても押せますから、ハンコ一つでその日の出勤を証明する唯一の手がかりとなるのです。ずるい人は前日休んでもそこに休みのハンコを押さず、何日かしてそっとハンコを押せば出勤もどきになったりしていました。ところが逆に私のように社会教育などで夜遅くまで働いてもそんなものは自己申告ですから、超勤簿という別冊を見ない限り出勤簿には何ら証拠として残らなかったのです。また役場に立ち寄らずに直接現場に向う場合も、どこか後ろめたいような気持ちで出勤した時押していました。この出勤簿は何故か普通はいかにも重々しく助役室の机の上にあって、助役の顔色を伺うようになっていたのです。役場職員の中には出勤簿にハンコを10日間も押さず助役からきついお叱りを受ける自堕落な職員もいたのです。

 新しい役場庁舎がが出来た少し以前ですが、役場の人事管理がうるさくなって、出勤状況や勤務評定のためにタイムカードが導入されることが検討されました。民間企業では既に導入されていたのに役所では職員組合などの会合で、やれ賛成やれ反対と思い思いの意見をいいあった長閑な時代でした。タイムカードを出勤時毎朝挿入すると、出勤時間が正確に記入されます。私にとってこれは随分不都合なものでした。というのも私は毎朝12年間朝5時から8時まで、まるでフレックスタイムのようにシーサイド公園の海岸清掃や水槽掃除をしていたものですから、時には長引いて8時半に間に合わないことがあるのです。仕方がないので人事管理の担当者と相談し、ペン書きでそのことを記入させてもらいました。

 そんな長閑な経験からふと思ったのは、タイムカードを導入した時、職員の行動がタイムカードに合わせるようになったことでした。ハンコを押すアバウトな役場の暮しがタームカードという機械に支配されたのです。それまで遅れ気味に来ていた人は飛び込みにも似た行動で遅れなくなったことは立派というより当たり前になりましたが、早く来て掃除などをしていた人がタイムカードに合わせるよう遅く来るようになりました。また、タイムカードさえ押せば何をしたかなどはカードに記入されないので、登庁・退庁さえ記入すれば、後はキセルのような仕事ぶりになった人もいました。

 タイムカードという機械の導入によって確かに便利になり一見人を支配したように見えますが、その陰には機械で見えない部分の÷知恵も働くようになるのです。要は自分の生き方をどう戒めて生きるかにかかっているのだと思うのです。出勤簿が懐かしくなりました。

  「出勤簿 なんて帳簿が あったっけ タイムカードに 懐かし日々が」

  「通用門 未だに利用 こりゃいかん 次から堂々 正面玄関」

  「役場から 見ていた外も この頃は 外から役場 見える身分に」

  「出勤簿 押したハンコが 今もある これで仕事の 全て決栽」

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shin-1さんの日記

○若干29歳でも人を動かした教育者

 今の日本は高齢化社会を反映して63歳の私でもまだ若いと自負できるほど高齢者が沢山います。100歳なんて遠い遠い夢物語と思っていたのに、ある統計によると愛媛県内にだけでも650人もの100歳以上の人がいるというから驚きです。長寿社会を揶揄するつもりはさらさらありませんが、高齢化社会になると若者の影が次第に薄くなっていることに気付くのです。社会も人口ピラミッドは逆三角形だし、職場だって管理職の数の方が多いのではと錯覚するほどです。ましてや60歳という定年で退職しても天下って居座り続ける公務員社会などはその典型で、若者はいつまで経ってもその使い走りに甘んじなければならないのです。高齢化の進んだ限界集落などでは、50歳になってもその集落で一番若い?なんて事例はいっぱいあるのです。

 高齢者の社会進出は結構なことなのですが、若者の出番を削いでいる事を思うと、どこかで身を引く事を考えなければいつまでたっても若者の出番は来ないのです。私の親類に父親が若くして亡くなった従兄弟がいます。その時は可哀想に見えて何かと面倒をみてやりましたが、ふと気がつくとその従兄弟はいつの間にかすっかり逞しくなって、90歳になっても親父が生きている私のような人間より、凄い社会人になっているのですから不思議な話です。誤解しないで欲しいのですが、何も親父に「もうそろそろ」と言っているのではありません。上がいなくなると人は成長するという道理なのです。

 私が最も敬愛する歴史上の人物に、松下村塾で80名余りの人を教育し、二人の総理大臣を輩出した吉田松陰がいます。松蔭は長州萩に生まれた武士ですが、私塾松下村塾を開きました。その開塾期間が僅か13ヶ月間であったことや、安政の大獄で処刑されたのが29歳の若さだったことは余り知られていないようです。いくら風雲急を告げる幕末といっても、これほど短い期間に、そしてこれほど若くして名を残した人は後にも先にもいないのではないかと思うのです。折に触れ松蔭に関する書物を読み、松蔭の掛け軸を掛け、その生き方を学ぼうとするのですが、凡人の私にはその偉さを学び体得することは難しいのです。

 ある本に松蔭の教育法六原則が分りやすく解説していました。

 ①自信を持たせる。

 ②使命達成法を教える。

 ③至誠で生きる大切さを教える。

 ④勇気を持たせる。

 ⑤プラス発想。

 ⑥約束を守る。

 松蔭がまず塾生に強く語ったのは「志を立てて万物の源となせ」という志を立てさせることでした。

 時代背景や対象となる人間の純粋さを差し引いても、若干29歳の若者にこんな説得力があるのかどうか、今でも不思議な思いがしてならないのです。わが家の座敷に掛け軸として掛けてある吉田松陰の絵姿を見ると、「これが29歳の姿?」とはとても思えず、凝縮して成熟した人間の姿に深い感動を覚えるのです。

 人の偉さは年齢ではありません。松蔭が語った志を立ててそれを源にして動けば心若く生きれるのです。63歳の私にはもう松蔭のような若さは臨むべきもありませんが、松蔭の倍も生きている年齢を考えれば、もっと思慮深い人間になれるはずだと考えられるのです。

 承引の時代からすればはるかに恵まれて豊かな、そして学ぼうと思えば学べる現代に生きる私たちは初心に立ち返りもっと強く生きねばならないのです。

  「松蔭は 僅か二十九 その歳で 人を導き 今も輝き」

  「もめ事の 多き社会を 垣間見る 国会中継 国民不在」

  「昔人の 生き方忍び ブログ書く こんな時代を 誰が予測か」

  「志 立てて生きよと 教えられ 立てたつもりが 見事倒れて」 

 


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○持続可能な観光と地域づくりを考えるフォーラムin伊予市

 「いーよぐるっと88」という伊予市観光協会が発刊したガイドブックの発刊を記念したフォーラムが昨日、伊予商工会議所3階でありました。出版物の中身は157ページオールカラーの豪華さながら、僅か500円という価格設定もあって、3千部印刷したというのに売れ行きも好調だそうです。昨日はその編集に携わった方々の話、伊予市歴史街道というスライド、伊予市役所の観光行政の話、観光立国と地域観光」と題した基調講演、それにテーマに沿ったパネルディスカッションと中々盛り沢山な話がちりばめられ、短い時間ながら濃密なプログラムでした。

(開会挨拶をする伊予市観光協会副会長の西岡義雄さん)

 松山大学経済学部教授鈴木茂先生の話は、観光を巡る時代背景や日本の観光、愛媛の観光、地域の観光の現状を数字で示し、地域づくりと観光産業のつながりを話されました。伊予市観光の現状や将来像についても、広域観光などについても示唆されました。

 伊予地区を担当した松田建雄さん、中山地区を担当した下岡和夫さん、双海地区を担当した中嶋都貞さんの話は、私たちの視点とはまったく違った長年積み重ねてきた歴史の重みを感じさせるもので、とても参考になる話でしたが、残念かな与えられたそれぞれ10分の持ち時間では語りつくせぬ内容で、いつか深い内容の続きを口述して欲しいものです。

 市役所産業経済課の米湊さんの話は、振興計画における観光についての話でした。広報で読む市長の市政方針演説や議会広報で読む議会でのやり取りから垣間見れる観光についての断片的な話でなく、じかに聞くはなしなので興味をそそりましたが、担当者として突っ込みきれない苦悩も覗かせました。

 えひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんの話はスライドを使って旧市町の珍しいものを様々なジャンルに分けて紹介してくれました。彼は街並みウォッチャーとしての経験も充分で、その腕に磨きを掛けた切り口と話術に引き込まれて行くようでした。

(82人も集まった参加者)

 その後伊予市文化協会長門田眞一さんをコーディネータにしてパネルディスカッションが行われました。私もパネラーとして登壇、請われるまま15分余り「双海町の夕日によるまちづくりの経験」を振り返って話しました。私はアドリブで話すため、場内に集まった参加者の爆笑を誘いましたが、いかんせん時間が押して議論のまでは至りませんでした。

 私は今回の「いーよぐるっと88」のもたらした効果は、①合併はデメリットが多いと言われ閉塞感があるが、行政と民間の協働という最大のメリットが発揮できたこと、②知らないし知ってるつもりの観光資源が発見や再発見できたこと、③発刊にかかわった高齢者の知的エネルギーを活用できたこと、④新しい観光への可能性が出てきたこと、⑤伊予市という地域の観光情報が内外に発信できたことなどの効果についても述べておきました。

 その上で、既存施設や既存イベントの役割の見直しを行い、地域住民が地域づくりという手法で深く関わらなければ観光はうまくいかないのではないと話しました。

 合併して3年が過ぎようとしています。今年は市内に3つある観光協会が合併するそうですが、これが革命なのか改革なのか、方法や手段を間違うとこれまで培ってきたそれぞれの個性ある特徴を消してしまう危険性もはらんでいるようです。

(加藤徹さんがプレゼントしてくれたミニチュア電光掲示板のPRをさせてもらいましたが、何とこれがネクタイにもくっつくという新しい発見をしました。贈った本人も驚き喜んでくれました)

 会議終了後、運営委員会を終えてその夜は楽しい交流会が居酒屋で行われました。伊予市で飲むことの少ない私たちにとってもいい交流の場所となりました。

  「観光は 国の光を 見るという ネクタイ光り まさに観光」

  「先輩の 話を聞いて 俺達も やがてはあんな 喋りを予測」

  「油売る 人が司会を しましたが 私もつられ 油売りつつ」

  「嬉しいね 勉強会に 議員さん 市役所若手 顔を揃えて」 

 

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shin-1さんの日記

○広がる朋樹ワールド

 木野は金曜日なので久しぶりに5歳になる孫の朋樹がわが家へ泊まりにやって来ました。一昨日の夕方、「おじいちゃん泊まりに行きたい」と電話が入って約束し、幼稚園が終わる午後3時に松山にある幼稚園へ迎えに行きました。娘のお産頃から頻繁に顔を出している幼稚園なので私の顔を覚えていて、迎えの引継ぎも簡単に済ませて車に乗り込みました。最近は国道を走る車の外の様子が飲み込めていて、色々な看板の文字が読めることから、私を盛んに誘導するのです。松山から松前に向う頃になると「おじいちゃん喉が渇いたからジュース」などと話しかけ、暗に近くのマクドナルドドライブスルーへ誘います。私も孫のお陰で今流行のドライブスルーの店をすっかり馴れて、最初の戸惑いを恥かしく思うのです。マクドナルドに立ち寄りました。例によってドライブスルーの店なので「ハッピーセット、チーズバーガー、オレンジジュース、景品5番」などと単語を並べてマイクに向って話しかけると、「お会計は400円です。前に進んでお受け取り下さい」とアナウンスがあるという、まあ待ち時間のない便利さなのです。

 ハンバーガーやジュースなどそっちのけで、孫はお目当ての景品の袋を開けて使い方を考えるのですが、説明書の全てが読めるわけでもないのにせっせと組み立てて、フライドポテトを食べながら鼻歌交じりのご機嫌なのです。

 昼間なので幼稚園からわが家まで、お店に寄ったりガソリンスタンドでガソリンを入れたりしても約50分で到着しました。孫はさっさとおばあちゃんに予約を入れ集めてもらっておいた段ボール箱や菓子箱で耕作開始です。孫が来るとまるでわが家の居間はゴミの山に変身します。ダンボールをハサミやカッターで切り、ガムテープでくっつけて工作をするのですが、私の手伝ってくれるよう頼みながら朋樹ワールドは次第に完成して行くのです。

 昨日のテーマはお城でした。ダンボールの箱で土台を作り、その上に積み上げてゆくのです。最初は下手糞だった作業も今は随分早くなって、夢の世界が段々広がっています。多分自分のマンションだと作業や行動が制限されて、「片付けなさい」といつも母親から文句をいわれ、不完全燃焼しているようで、わが家に来た時の孫の顔は実に生き生きと輝いて見えるのです。

 そのうち妻が仕事先から帰って来ました。居間の広げさがした様子を見て「まあ何、これは」と絶句のような反応です。孫は得意げになって「これはディズニーランドです」と説明していました。大人の目から見れば唯のゴミなのですが、孫にとってはまさにワールドなのでしょう。「おじいちゃん写真を撮って」とせがまれました。

 与えられた遊びしか出来ない現代っ子だと良く聞きますが、子どもにとってはダンボールや折込チラシも大切な遊び道具です。ガムテープとハサミとカッターも怪我することなく上手に使えるようになったし、も少し孫のゴミ世界に踏み込んでみたいと思っています。

 昨晩は風呂に入れた孫を挟んで妻と三人川の字になって寝ました。孫の温かさが心に染みる幸せな一夜でした。

  「来る度に どこか成長 したような 爺の欲目か そんな気がして」

  「爺婆と 言っててくれるも 今のうち そのうち爺婆 金だけ頂戴」

  「ひっさがす ようにも見える 孫遊び お目々細めて 容認しつつ」

  「おもちゃ買う お金要らなく 助かると 妻はせっせと 箱を集めて」 

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