shin-1さんの日記

○熊野古道を楽しむ④

 早朝7時30分にホテルを出発した私たちは、那智大社を目指しました。メンバーの中の児島女史はひざ腰足に自信がないため、森さん、河野さんと三人で前もって那智大滝の近くまで車を移動するためその車に乗って出かけました。那智大門坂入口付近で降ろされた私たちはいよいよ最後の難関3.1キロの道を歩くのです。

(那智大門坂入口、左の道が古道です)

(少し歩くとなだらかな石段になっていて、まるでどこかの家の庭先に張り込むような錯覚を覚えました)

(途中にあの有名な南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡があり、末光さんや私が南方熊楠について薀蓄を語りました)

(そこからはなだらかな杉木立の道が約600メートル続きましが、まあその杉の立派なこと、源頼朝が寄進植栽したという樹齢800年の大木がこれでもかといわんばかりに100本を越えて立っていました。私もこれまで色々な杉並木をみてきましたが、これ程のスケールは前例がありません)

(杉の一本一本には個性特長があって、色々な名前の立て札が立っていました。ご覧下さい。夫婦杉の一本でも北原、河上両氏が手を伸ばしてもこのような大きさなのです。)このような杉がゴロゴロあるのですから参りました)

(大門坂を抜けると那智大社への坂参道に出ます。坂の途中にはかつて著名な方が休憩した立派なお庭があって、少し汗ばんだ体を一服するためラムネを飲みました)

(那智大社の入口が見えてきました。朱塗りの社が周りの景色にマッチして何ともいえない景観でした)

(那智大社本殿前で若返りの水を飲み、ヤタガラスの曰くをききました)

(那智大社の直ぐ横に西国一番札所の青岸渡寺があり、神仏混合のような錯覚でしたが、みんなでお参りしました。このお寺は本堂へ土足で入れるのです。中央に鰐口という大きな鐘が吊り下げられていて、入り金とばかりに紐を引っ張って思い切り叩きました)

(境内からは宿坊の立派な庭の向こうに、目指す那智大滝が見えてきました。双眼鏡を持参していた北原さんが那智大滝の最上部滝口に人の姿を発見し、みんなで双眼鏡を回して大騒ぎです。森さんの話だと滝口に通じる道がるそうで、毎年滝口にしめ縄を張る恒例行事がテレビのニュースで取り上げられるそうです。

  「樹齢聞き 納得しつつ 杉仰ぐ 八百年もの 年輪刻み」

  「今回の 熊野古道を 歩く旅 大門坂で 充分納得」

  「熊楠も 知らぬ人には ただの熊 薀蓄語る 人もいるのに」

  「神仏が 混合している 聖域を 遠く近くに 滝を眺めつ」 

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○熊野古道寄り道③

 那智勝浦での夜は美味い物を食べようと小粋な郷土料理の居酒屋に繰り出しました。那智勝浦といえばマグロといわれるようにマグロの水揚げの多い港町です。その夜の料理は刺身を始め満足のいく海鮮皿鉢料理に舌鼓を打ちました。特に大きなアワビの刺身やカツオの刺身は絶品で、旅先の寄り道にしては何とも嬉しい誤算でした。


 14人の一行のうち女性を含めると6人までがウーロン茶組とあって多少盛り上がりに欠けるかと思いきや、お店の人まで巻き込んで楽しい宴会となりました。28年もグループを続けていると思い出話も尽きることはなく、和歌山の友人森さんが加わっていたこともあって話が弾みました。





 早朝5時半、私たちは思い思いにそっとホテルを抜け出し、目と鼻の先にある勝浦漁港の魚市場へ散歩のつもりで出かけました。東の空が明るくなる頃には殆どのメンバーが姿を見せ、魚市場に次々と水揚げされるマグロに圧倒されながら市場内を歩きました。ここへ上がるマグロは近海物が多く少し小ぶりなビンナガマグロが多いようでしたが中には100キロを越えるキハダマグロやカジキも水揚げされていて、既に品定めする仲買人がいいマグロを求めていました。



 次々と水揚げされるマグロを見ながらふと私は、愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に出た若き日のことを思い出しました。私は18歳の時愛媛丸に乗ってオーストラリアの近くにある珊瑚海までマグロ延縄実習に出かけているのです。その時の漁獲物は全て基地である神奈川県三浦三崎漁港に水揚げしました。この日と同じような時間にマグロを水揚げしたのです。勝浦漁港には数隻のマグロ延縄漁船が入港していましたが、若い船員の殆どは東南アジア系の人で、たどたどしい日本語で会話しながらマグロを水揚げしていました。


 早朝の足湯をしたり、市場内に出しているお店で買い物したりしながらゆったりと時を過ごし、ホテルで簡単なサービス朝食を取りました。昨夜の料理が美味過ぎて多少食べ過ぎていたためこのくらいで十分な量でした。

 普通だと、対岸に見えるホテル浦島のような大きなホテルに泊まるのでしょうが、温泉地に来ながら安いビジネスホテルを選ぶのも旅の面白さです。市場で5枚千円のスルメイカの一夜干しを買い求め、店のおばちゃんの七輪で焼いてもらって食べている風景はまさに旅行ではなく旅のようでした。少し時間があれば8時まで待ってマグロを買い求め宅配便で送ることも考えましたが、魚所の双海町ですからそんな必要もなく、市場近くのホテルを後にしました。

  「国訛り 聞きつつ箸を 運ぶのも 旅の思い出 居酒屋暖簾」

  「水揚げの マグロ居並ぶ 漁港にて 若き思い出 昨日のように」

  「安上がり 旅ゆえホテル 遠望で 行った気にさせ 早立ち先へ」

  「どちらから 四国愛媛と 名乗りあい 見知らぬ相手 まるで友だと」

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○熊野古道を歩く②

 熊野古道が世界遺産になったこと以外何も知らない人間ばかりが、熊野古道を歩こうとすること自体おかしな話です。それは私自身四国八十八ヵ所の聖地に住みながら、全てのお寺を巡る1400キロの道を歩き遍路していないことが物語っているのです。でもそんな神仏を冒涜するような無神経な私が憧れるほど熊野古道に魅力を感じ、一度は歩いてみたいと思うのは世界遺産という看板かも知れないのです。

 平安時代から鎌倉時代にかけ、上皇・法皇たちは浄土の地である熊野を詣でました。この熊野御幸により聖地熊野は日本中の人々に知られ、上下貴賎男女を問わず大勢が列をなして熊野本宮大社、熊野那智大社を目指したのです。熊野詣でには幾つかのルートがあって、大阪と熊野を結ぶ紀伊路、異説熊野を結ぶ伊勢路、高野山から南下して伯母子岳や果無山脈を越える小経路、吉野から大峰山脈を縦走する行者道の大峰奥駈道などがありますが、中でも現在中辺路と呼ばれる紀伊路は上皇・法皇たちが歩いた唯一の道として知られています。私たちはその中辺路辺りをほんのお触り程度歩くだけなのです。

(バス停口の熊野古道入口)

 和歌山県庁前でナビゲーターを依頼した顔馴染みの森さんを乗せ、和歌山ICから高速道路を走って南紀田辺に着きました。その後川に沿って山道を縫うように走り、大坂本王子~近露王子間にある、道の駅熊野古道中辺路にバスを止め歩き始めました。牛馬童子口バス停からの古道はかなり整備されていて道幅も広く、杉木立の中は春の木漏れ陽がさわやかで、僅か1キロ弱で最初の目的地牛馬童子像に到着です。

(一町毎に建っている一里塚)
(古道をゆっくり歩くメンバー)
(供養塔と牛馬童子石仏の位置を示す看板)
(牛と馬の上に童子が乗った姿の珍しい石仏)
(牛馬童子の説明版板)
(宝経院塔)
(メンバーの記念写真)

 普通であればここから先を目指して歩くのですが、観光バスでないため再び同じ道を歩いてバスを駐車させている元の場所まで引き返しました。道の駅には沢山の観光バスが駐車して、トイレは列が出来るほどの大賑わいでした。

 近露王子・比曽原王子・継桜王子・中川王子・小広王子・熊瀬川王子・岩神王子・湯川王子・発心門王子・猪鼻王子・水呑王子・伏拝王子・祓所王子など、幾つもの関門の看板を横目で見ながら次の目的地である熊野本宮大社に着きました。

(熊野本宮大社の大鳥居)
(熊野本宮大社の参道)
(熊野本宮大社の山門)
(熊野本宮大社の境内)


 この熊野本宮大社は元々大鳥居だけが今も残る別の場所にあったようですが、度重なる水害に見舞われ今の場所に遷宮されたらしく、杉木立も神社もどこか初々しい感じがしました。

 私たち一行はその日の古道めぐりをここで打ち切り、宿泊先である紀伊勝浦まで走りました。新宮からは高規格道路も出来ていて午後6時に勝浦のホテルシャルモントに入りました。

 「勝浦のホテルに泊まる」とだけしか伝えていなかった弟忠行夫婦が既に訪ねてきていて、嬉しい再会でした。弟は既に昨秋定年退職し温暖な串本古座の地を永住の地と定めて、好きな釣り三昧な暮らしをしているようです。

  「長年の 願望だった 熊野路を ほんの少しだけ この足歩く」

  「道すがら 王子王子と 古道古道 こんがらがって どこを走るか」

  「どことなく 南予に似たり 海岸線 風の匂いに ふるさと思う」

  「それぞれに 生き場所求め たどり着く 紀州路遥か 弟暮す」 

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○熊野古道の旅①

 昭和55年に有志数人とセスナ機をチャーターして「ふるさとを空から見る運動」を実施した明くる56年に12名の若者でグループを結成して以来、様々な活動を企画実施してきたわが「21世紀えひめニューフロンティアグループ」ですが、結成してから28年も経つと会員はみんな等しく28歳も加齢し、活動の内容も随分様変わりをしてきました。28年間の中で教育長に就任していた頃を挟んで3年間、嫌がる大野さんに代表の仕事をなすりつけていましたが、私がリタイアしてある程度自由な時間が持てるようになって、再び代表の座に復帰して3年目となりました。その間韓国旅行をやったり、人間牧場にツリーハウスを造ったりと相変わらず元気な活動をしているようには見えても士気の衰えは否めず、むしろ軸足を自分たちの楽しみに移し始めています。もちろんそれで満足しているわけではないので、代表たる私の仕事は仲間のグレードをアップし、グループ結成の時に約束した「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」の三つのテーマに基づき、人間牧場を中心に塾をやったりしながらフロンティア精神を呼び起こそうとしています。

 今年春の総会で「世界遺産に学ぶ」という大きなテーマを掲げました。何のことはありません。「世界遺産を旅したい」という単なる旅行気分なのです。でもせっかく行くのだからせめて日本の身近な世界遺産から何かを学び取ろうと、第一回目を「世界遺産・熊野古道を歩く」から始めたのです。

 4月12日土曜日朝6時30分、松山市駅前を出発ですから、愛南町の北原さんなどは前の日から東温高校に通う息子さんの下宿に前泊し、私も朝5時30分につまの運転する車で自宅を出て、伊予鉄郡中港駅5時59分発の伊予鉄始発電車に乗り込みました。最近は夜明けも随分早くなって、新川辺りでは既に朝日が昇り、幸先良いスタートです。電車の中には私たちと同じような旅をするであろう出で立ちの人が沢山乗って始発とは思えない賑やかさです。電車は予定通り使役に到着、高島屋の前では田宮さんとともに今回のプログラム担当である佐賀山さんが出迎えてくれました。市駅前で日豚殿人を乗せ、久米窪田で豊田さん、東温で北原さん、高速サービスエリア石鎚で河上、日浅さんをそれぞれ乗せ、直前になって尿管結石で行けなくなった大野さんを除いて13人が勢揃いました。河野さんの肝いりで借りたマイクロレンターカーを河野さんが運転して、松山~徳島~和歌山コースを走りました。

 徳島までは意外とスムースに走れたため約1時間も早くフェリー乗り場に着きました。朝が早かったため朝食を食べていない人もいて、それぞれ思い思いの食べ物を注文して時を過ごしました。やがて和歌山からのフェリーが到着し、私たちとまるで反対に四国路を走るであろう和歌山ナンバーの車をまるで口から吐き出すように降ろし、いよいよ乗船です。船の中は意外と込み合っていました。外目にはどんな団体か分らぬ、田舎のおっちゃん、おばちゃんのようなグループです。
(藤本さんと河野さんの奥さん)
(田宮、河上、北原、日浅、児島さん)
(豊田、佐々木さん)
(私、あれっ佐賀山さんと末光さんはどこへ隠れたのでしょう)


 僅か2時間の船旅ですが、船内は久しぶりの出会いに話も弾み、早い人はアルコールを入れて上機嫌です。甲板に上がってみました。4月中旬ですが外の風はまだ冷たく徳島港が段々遠くなって行きます。左手には鳴門と淡路島に架かった大鳴門橋が見えました。

(航跡の向こうに遠くなる徳島港)

(遥か遠くの水線上に大鳴門橋が見えました)
(和歌山港に架かった真赤な橋)

 やがて場内アナウンスが和歌山港に入港する旨を伝え、バスに乗って和歌山の地に第一歩を記しました。さあいよいよ熊野古道の旅が始まります。私たちの車は携帯電話で連絡を取り合って和歌山県庁前へ着きました。ここで今回のナビゲーターである森さんを乗せました。

(威風堂々の和歌山県庁)

(一泊二日熊野古道の旅をナビしてくれた森駿さん)

 森さんは、和歌山県庁に勤めている人です。縁あって無人島キャンプにも何度も訪れ、県外組のフロンティアグループメンバーなのです。森さんの娘さんは二人も愛媛県に住んで働いています。今回の熊野古道の旅には嬉しいことに3名のツアーコンダクターが名乗りを上げてくれました。一人は2月7日に和歌山県庁職員を対象にしたライフプランセミナーの講師として来県した際お世話になった橋口さんです。かゆい所まで手の届く気配りの人なので私のブログで熊野古道を歩く旅の話題を目敏く見つけて「是非ご案内を」と申し出がありました。もう一人は私の弟です。昨秋に定年退職し今は妻に実家がある和歌山古座に住んでいますが、兄貴が来るのなら是非ともと言われました。どちらも余り内容も言わず大変失礼したのですが、事務局の配慮に甘んじて森さんにお願いする事にしたのです。

  「それぞれの 早立ち旅の 支度にて 懐かし顔々 バスに乗り込む」

  「近況を 笑顔で話す 自由人 ちょっと緊張 現役面々」

  「昔だけ 話していては つまらない 明日を語れば 年金加齢か?」

  「うち揃い 熊野古道の 旅に出る 世界遺産の 名前つられて」 




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○いよ食談会での卓話

「お父さん、新聞に出てるよ」、数日前愛媛新聞の広告欄に出ていた愛媛新聞カルチャースクール特別講座「いよ食談会」の記事を目敏く見つけた娘が、わが家へ電話をかけてきました。新聞を見ると2008年前期(4月~8月)の参加者を募集しているのです。「県内有数の名店で、さまざまな分野からお招きするゲストの卓話と、特別料理をお楽しみいただきます」「今年も『地産池消』をテーマに、愛媛の新鮮食材を盛り込んだ駿の料理をぜひご堪能下さい」という見出し記事が並んで、受講料は税込み22,000円、定員35名、時間は11:30~13:30となっていました。そして月一水曜日のそれぞれのお店では腕自慢の料理長さんの顔写真とともに、献立のテーマとゲストの名前が書かれています。

 そのBコース第一回目が昨日でした。会場は松山ワシントンホテルプラザ・チャイナテーブルで料理人はチャイナテーブル料理長村山正光さん、献立テーマは「美食楽膳」、そしてゲストスピーカーは何と私なのでした。ワシントンホテルは娘の結婚披露宴、諸会議や講演会に招かれ度々利用している会場だし、愛媛新聞も気心の知れた会社なので、今回の申し出を断る理由もなく快く引き受けました。

(メインテーブルを囲んだ楽しい食談)
(私のご指名座席)

 会場には5つのテーブルが並べられ定員満席だそうで、素敵な雰囲気のお客様が居並んで座っていました。やがて愛媛新聞社事業局三瀬さんの開会あいさつに続いて私の卓話です。与えられた時間は12時までの僅か30分です。それを過ぎると「料理を出すタイミングが狂うのでくれぐれも時間厳守」でと釘を刺されての登場です。私のテーマは「新しい発想で生きる」でしたが、何を話しても良いからとにかく楽しく話して欲しいというのが主催者からの注文です。突き詰めれば間を持たせるつなぎと料理を引き立たせる「つまもの役」なのです。そういいつつも食談の話題提供ですから変な話もできませんし、適当な話でお茶を濁しました。

 やがて料理長の「今日の献立」が紹介され、いよいよ昼食開始です。この日は中華料理でしたが、そのお味は抜群で、さすが名店と呼ぶに相応しい味でした。その幾つかを食べながら担当者の了解を得てデジカメで盗み撮りしましたので紹介します。

(鯛の中華サラダ杖の淵の」ていれぎとともに)
(四万十のあおさとフカヒレのスープロワイヤル)
(奥伊予地鶏の唐揚げ油淋ソース)
(海老のチリソース煮空豆のさや蒸し焼き添え)
(牛肉のロースト豆鼓ソース愛媛の春野菜添え)
(宇和町のあまおとめと中華デザート)

 残念ながら(南予のはるかと文旦のジュレ)と(蓮の葉包み蒸しおこわ)は箸が進み過ぎて食べて後で気付き写真を撮るのを忘れてしまいました。

 それにしても美味しいの一言では片付けられないほどの美食でした。写真を見ながらこれが全て私の胃袋に収まったのかと思うほど絵になる料理の数々でした。

 会場のあちこちでは私の話が食事の友となり嬉しい意反応が幾つもありました。また竹で作った赤トンボを2匹紹介しましたが、一応に驚き話題をさらい効果抜群でした。

(思わず話が弾みました)
(三瀬さんも酒も飲まないのに熱弁です)

 「食事を楽しみながら会話する」、この何でもないことがテーマになるほど私たちの日々の暮らしはあくせくしています。せめて月に一度くらいはこんな贅沢なひと時を過ごしてみたいものです。愛媛新聞の瀧宮さん、そして久しぶりにお会いした三瀬さん有難うございました。

  「短めの 卓話を終えて さあ食事 次から次へ まるで竜宮」

  「あらためて これが胃袋 入ったとは 腹をさすりて 愛しい気分」

  「料理人 偉いもんだね しみじみと その見事さは まるで芸術」

  「美しき 女性居並ぶ 食談会 スープもおちょぼ 口してすすり」  


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shin-1さんの日記

○教えられたこと「掃除とお化粧」

 今朝早く、宇和島の友人藤田さんがわが家に見えられました。国の重要歴史的景観に剪定された遊子水荷浦の段々畑で栽培収穫された早堀りジャガイモを毎年届けてくれるのです。彼と知り合ったのはもう20年以上も前のことです。当時彼は遊子で漁業を営み、愛媛県の漁業後継者協議会の会長をしていて、その研修会に招かれて講演したのが出会いの始まりでした。その後彼の暮しは漁業の低迷によって大きく変化をしたのです。それでも彼はふるさと宇和島をこよなく愛しふるさとを離れようとしないところに彼の魅力があるのです。彼は勉強熱心で知識が豊富です。また娘さんが東京の大学に進学する時も、卒業して地元の新聞記者になる時も何かと相談にきて律儀な姿は今も昔のままなのです。その彼も私と同じように年齢を加え、50前後となって将来の事を考えてのことでしょうが、転職をしたようです。先日娘さんに出会って話を聞き薄々は感じていたのですが、どうも清掃の仕事を起すようなのです。既にその研修を都会に出て終えたようで、決断した将来が上手く行くように祈っています。

 「まあお茶でも」と玄関に座り、束の間の話しをしました。どの世界でも生きて行くための仕事はきついようで、第一次産業が厳しいというが都会の雑踏で生きてる人の殆どはもっと厳しいと、肌で触れた研修期間の事を話してくれました。その話の中で特に印象に残ったのは、掃除とお化粧の話です。

 掃除・炊事・洗濯・裁縫・子育ては昔から女性の仕事と位置づけられてきました。結婚が決まると母親は嫁ぐ娘に花嫁修行としてそれらを教え、時には花嫁学校に通わせてそれなりの娘にして嫁がせたものです。ところが最近はそんな修行をさせたくても、親が全ての修行が出来ていないものですから、結局は何の修行も出来ぬまま出来ちゃった結婚で嫁いでしまうのです。

 それでも女性の「美しくありたいという」願望だけは独り歩きして、お化粧だけはし過ぎるほどにするのです。しかし自分のお化粧はするが暮しの中心である自分の家の掃除は殆どせず、ベットになったこともあって万年床で、毎日の掃除さえもままならず、埃の中で暮らしているようなものなのです。掃除の仕方も昔のように新聞紙を濡らしてちぎり、ばら撒くようなことは殆どなくなりましたが、都会では掃除やさんなる仕事がお目見えして、家庭の掃除すら害虫に出す家が多くなったというのです。私たちのような田舎に住んでいる人間には考えられないようなことですが、都会ではもうそれが常識になっているようです。でも私が古い人間なのかも知れませんが、お顔のお化粧も大事かもしれませんが、家の掃除くらいはできる女性を、子どもの嫁には迎えたいと思うのです。

 母から子へ、子から孫へ家庭は女性の力によって伝承されて行くことが殆どですが、そういえば掃除の仕方など妻が娘に教えたかどうか気がかりになりました。妻にその事を聞けば、「娘には教えるというよりは、している姿を見せる教育」とズバリ言われました。その通りだと思います。掃除も、炊事も、洗濯も、裁縫も、子育ても出来ぬ母親からは出来る子どもは育たないのだとしみじみです。

 藤田さんの話しによると、掃除を通して家庭が見えてくるそうです。人の家の事を言える柄ではありませんが、やはりもう一度「家とは何か」、「掃除とは何か」、単純そうで難しいことを考え直してみたいと思いました。

 今晩は藤田さんからいただいた早堀りのジャガイモを食べたいと、頭にジャガイモ料理をイメージしながら、松山へ出かけます。今晩は夕食が楽しみです。

  「掃除さえ できぬ娘が 化粧する 教えるはずの 母さえできぬ」

  「教育は やっているとこ 見せるだけ ただそれだけで 充分ですよ」

  「早掘りの ジャガイモ届き 夕食が 楽しみですね 早く帰ろう」

  「何気ない 会話の中で 考える 今の日本は これで良いのか」

 

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shin-1さんの日記

○知名度アップ

 田舎の町の元役場職員なんて日本全国どこにでもありふれた人間なのでしょうが、私はどういう訳か役場を辞めてから以前にも増して忙しくなったようだと妻がいいます。当の本人はそんなに感じないものの、商工会から毎年いただいて使っているWritingCalendarをめくると、予定がかなり込んで書かれていて、昨日などは午前・午後・夜と予定があって一枡で書けないため、矢印で別欄に書き加えれれているのです。「お父さん、若くはないのだから余り無理をせず程ほどに」と唯一気遣ってくれる妻の言葉を聞きながら、私のカレンダーは埋まって行くのです。

 最近様々なイベントや会合の実行委員会のメンバーになることが多く、旧友や世話になっている人から頼まれると嫌ともいえず、ついついメンバーの末席に名を連ねてしまうのです。そして運がいいのか悪いのか、それらの会議に出れば実行委員長などという思い責任の荷物を、有無を言わさず背中に背負わされ難儀をするのです。

 私はリタイアして4年目を迎えています。年金暮らしも板について、「暇」あり「金」ありと周りから見れば思われるのでしょうが、残念な事に「暇」も「金」も「最後の「知恵」もなく、「気力」「体力」くらいしか役に立てないのです。



 数日前、愛媛大学を体感して放送大学の仕事をしている讃岐先生から電話が入り、今年の秋に「地域教育実践交流集会」をやるので、その世話人になってくれないかと依頼がありました。先生には随分昔から社会教育、とりわけ公民館活動でお世話になっているので、電話一本で中身も分らぬまま引き受けてしまいました。やがて発起人会をするからと言われるその日は私の予定が入っていて欠席すると言ったのですが、恐縮ながら予定が変更されて出席の運びとなりました。

 第一回の発起人会は松山市内の飲み屋さんで夕方6時半から手弁当の会らしく会費制です。行って驚いたのですが、数多くの著名人がいるのにいつの間にか私は5人の世話人の一人に名前が載って、その席に座らされてしまいました。ここで文句を言うと混乱するので飲み込みましたが、一事が万事こんなかかわりが多くなってきました。どこかで身を引かねばと三年前に殆どの公職から身を引いていたのに、いつの間にか十二単の衣を纏ったような心境なのです。

 この歳になると知名度など何の役にもたたず、むしろ煩わしいだけなのですが、私の知名度は勝手に乱高下しながらもまるで株価や為替相場のように確実にアップしているようです。

 マスコミに登場することももう無いだろうと思っていたのに、人間牧場というネーミングが良かったのか悪かったのか、再び地獄の底から這い上がって新聞や雑誌、テレビやラジオに度々登場するようになりました。一日三枚のハガキと年間7200枚の名刺以外情報発信の道具を持たなかった私にインターネットという強い武器が与えられ、俄然情報発信をし始めたのも一因かも知れないと、とりあえず始めたブログの在り方を思案している所です。知名度アップはとんでもない方向に向い、講演依頼も全国に及んでいます。「そろそろ年具の納め時」だとおもうのですが、さてさて何か悪いことでもしない限り、私の円高傾向はもうしばらく続きそうな雲行きです。

  「この顔で? 鏡に映る 顔を見て 知名度アップ 世の中分らん」

  「辞めてから 本領発揮 君らしい 褒められ山椒 木にも登りて」

  「また受けた 妻の皮肉が 聞こえそう 仕方がないと 言い訳探す」

  「知名度は 人が勝手に 決めるもの アップアップの 人生楽し」

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○桜の花の散り染めし道

 人間の目線は水平線より上を見る習性があるようで、特に桜などは昨日まで枯れ木だったような木々に花をつけるものですから、ついつい花に目を奪われるのは当然かも知れません。しかし特に桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちる様はとても風流で大好きなのですが、残念ながらそれをカメラに収めることはなかなか出来ないものです。しかし昨日名残の桜に見とれていると、偶然にも桜の木の足元に綺麗な花びらがそれは見事に歩道一面降り積もっていて、散っている姿ではないにしても思わず写真に収めることが出来たのです。まるでピンクの花のじゅうたんのようでそれは見事でした。歩く人も自転車で通り過ぎる人もそんな花などお構いなしに踏み潰していましたが、私が写真を撮っていると、不思議そうに横目で見やりながら、バツが悪そうに隅の方を通っていました。

 私は少し目線が他の人と変わっているのでしょうか。上の花も綺麗なのですが、無造作に自然が作った造形の美にどことなく惹かれるのです。もしこれを人間が人為的に造るとなると大変な労作です。多分明日にでも雨が降ると流れ、風が吹くと飛ばされ、人に踏まれて消えて行くであろう花びらの道を、一人束の間楽しみました。今年の冬は寒かったせいでしょうか、あるいは花の咲く季節に南風や雨の日が少なかったからでしょうか、例年になく桜の花の寿命が長く、早4月も半ばだというのに桜はまだ充分楽しめるのです。

 桜の花の写真を撮った後、やがて人間牧場へ通じる山道の差し掛かりましたが、ここでも綺麗な椿の散り染めし道を見つけました。桜と同じように今年の椿も例年になく開花が遅れ、今頃になって散り始めています。椿は花が首ごとポロリと落ちるので、縁起が悪いと忌み嫌いますが、それは無粋な言い方で、散り方の潔さや落ちた姿はとても綺麗です。ここでも農作業のために先を急ぐ軽四トラックが無造作に踏み潰して通り去って行きました。

 木漏れ陽が椿の花びらについた朝露をそっと照らすのもまた趣です。「ああーいとおしい」と思わず思いました。

 田舎に暮らしていると、のんびり時が流れ、のんびりとした人にであうものですから、日頃は余り気付きませんが、時々ハッとすることがあります。それは長旅や都会へ行って帰った折に顕著です。空気水がとてつもなく美味いと思ったりするのです。しsて「俺は生きてる」と実感するのです。

 昨日大洲市田処の亀本さんに人間牧場で会いました。彼らに会っていると私の体内時計の狂いを直してくれるような感じがするのです。

 彼と別れ自宅へ帰って、昼食に帰る妻を外で待っていました。ふと見上げた本尊山の萌えるような姿に思わずハッとしました。昨日と変わらない、そしていつもと変わらない風景なのに、どこか違うのです。「お父さん、何見てるの」と妻に声を掛けられハッと我に帰りました。私「山を見よる」、妻「何を見よるの」、私「綺麗じゃろうが」、妻「そういえば綺麗じゃねえ」、二人「・・・・・・・・・・・」

 ああ、いとおしいふるさとです。

  「落ちた花 見ても綺麗と わが心 加齢のせいか 少し感傷」

  「山の色 にわかに春の 衣変え 空の青さに 一際映える」

  「ふと我に 帰りて田舎 住む意味を しみじみ思う これが幸せ」

  「ホーホケキョ 遠く近くで ウグイスが 私も真似て 口笛応う」 


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○亀本さんからいただいた豆腐が美味い

 「お父さん、最近家で夕食を食べてないね」と、妻が唐突にいいました。木になるカバンの中に入れている予定表を見ると確かにこの一週間余り、夕食からみの会議がやたらと続き、外食に依存しているのです。わが家では最近友人や近所の知人から山菜が届き、楽しみにしているのに何故かそれさえも食べられず、残念至極なのです。外食は確かに美味しいのですが、やはり高カロリーなものが多く、私のような痩せ型タイプにはどこか腹が張ったり、少し味が濃いのか喉が渇くのも大きな特徴といえましょう。そして今晩から今週は日曜日までずっと会議からみの夕食が続くようで、妻は私の体調を壊さないように心配してくれているようです。

 今日は午前中大洲市柳沢田処の亀本耕三さんが他の4人とともに人間牧場へやって来ました。朝方まで残っていた雨も上がり、春霞に煙っていたものの、近くの視界は良好で、名残の桜が沢山咲き、遠望できる山々は燃えるような芽吹きの色で眩しいくらいに見えました。

 亀本さんは10年間で40回を目指し実行したフロンティア塾の強力なメンバーでした。それ以来私的な親交を深めていて、今では人間牧場の運営にはなくてはならない人なのです。人間牧場の農場を耕す耕運機も彼に無償で貰ったものだし、「命のリレー」プロジェクト事業でも、落ち葉を発酵させるために豚ぷんや牛糞をわざわざ持参してくれたのです。お陰で今日の段階で種芋は殆どが芽を出し始めていて、何とか来月の作付けに間に合いそうな雲行きのようです。亀本さんは他の4人が人間牧場の視察研修をしている間、耕運機を引っ張り出して、せっせとオイル交換をしてくれました。これで雨にさえ合わさなければ、一年間は大丈夫のようです。

 亀本さんを含めて5人の方に私の話が聞きたいというので少しお話をしました。人間牧場の理念や建設計画と運営のこと、公民館とまちづくりのこと、最近の社会情勢のこと、人生とは何かなどなど、魚梁瀬杉の高座を囲んでお話しました。亀本さんは若い頃からもう何回となく私の話を聞いているので先日提案した人間牧場の塾生名札に本人がそれを望むのであれば加えたいと思っています。

 今日は亀本さんが美味しそうな湯がいたワラビと硬い木綿豆腐を持って来てくれました。彼は私が豆腐を大好物であることをちゃんと知っているし、その上草の上でも滑らない地下足袋までプレゼントしてくれたのです。彼には以前に白い長靴をプレゼントしてもらい、12年間もの長い間シーサイド公園の掃除用に使わせてもらいました。昼には早速この豆腐を妻に切ってもらい、冷奴にして妻と二人で美味しくいただきました。私はこの頃豆腐に醤油や薬味を加えずに食べる癖が出来てきました。塩分を取り過ぎないようにしようと決めての行動ですが、お陰様で豆腐本来の味が随分分るようになってきました。

 今日は午後大学で今年の授業打ち合わせ会があり、夜は生協の人事委員会とダブルならぬトリプルで忙しい一日でした。昨日まで二日間熊野古道へ出かけていたため、少々お疲れモードですが、それでも久しぶりに充実した一日となったようです。

  「トリプルの 会議をこなし 夜遅く わが家へ帰り 『お帰り』嬉し」

  「好みまで 覚えて豆腐 手土産に 牧場訪ねし 友よありがとう」

  「一丁の 豆腐切り分け 殆どを 食べる姿に 妻呆れ顔」

  「ちょっとした 合間を縫って 手入れする 彼こそ百姓 百をこなせる」

 


  

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shin-1さんの日記

○携帯電話の新しい活用

 私にとって携帯電話は、今や無くてはならない必需品となっていますが、その活用については「電話をかける」「電話がかかる」「電話番号簿の役割」「万歩計」くらいしか使っていませんでした。若い人たちが携帯電話でメールをしながら歩いたりする姿を見ると「格好いいなあ」と思いつつ、逆に「もっとすることがあるだろうに」と相反する考えが過ぎったりしたものでした。

 ところが2~3日前、えひめ地域づくり研究センターの清水研究員さんと出合った折、「若松さん連絡するのに形態の留守が多いので携帯にメールを入れたいので」と提案がありました。「そんな面倒臭いことは嫌」と突っぱねましたが、有無を言わさず谷本研究員さんが私の携帯にメールアドレスを「人間牧場・・・・・」と入力し、早速清水研究員さんが試してくれました。その間私はあっけに取られてただ見ているだけでどうすることも出来ませんでした。センターを出てからもそのことが気になっていたものの、「多分俺にはそんな面倒な事をする暇はない」と鷹を食っていました。

 この二日間、私は21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーと和歌山県の熊野古道の旅に出ました。朝早くに出発して夜遅く帰る道すがら、マイクロバスの車内では久しぶりの仲間との会話に花を咲かせていましたが、自由時間のたっぷりあるバスの中で居眠りをしながら何とはなしに携帯をいじくりました。清水研究員さんの顔を思い出しながら、携帯をいじっていると、前の席の藤本さんが「あなたの携帯電話のメールアドレスを教えて」というのです。気心の知れた仲間ですので私の携帯番号はお互い既に知っているのですが、メールアドレスは知らないのです。結局私のメールアドレスを送り、清水研究員さんについで第2号となったのです。2号なんてまるで愛人のようですが、今朝携帯のメールアドレスを見ると朝フルの大河内さんからメールが入って彼女はさしずめ私の3号となりました。

 昨日私は密かに携帯をいじくりながら、覚えたてのメールを清水研究員さんにメールを使って送ってみました。彼は昨日八幡浜の実家で農作業をしていると聞いていたので、まず「お早うございます」だけを送ったのです。するとどうでしょう、直ぐに返信メールが入りました。「うーん、まだまだ使いこなすまでには中々」と思いつつ、忙しい手を休めて清水研究員さんは3度ほど交信を繰り返してくれました。

 アナログ人間を自認する私なので携帯を使いこなすまでにはまだ少し時間がかかるようですが、小学生以下のような幼稚さながら、それでも少しづつ進化していく自分の姿を肌で感じています。それにしても使えば便利なもので、今までの知らなかった自分は一体何だったのかと思うのです。

 私にとって携帯電話は非常の際の所在の確認と連絡手段くらいにしか思っていませんでしたし、そんな使い方しかしていませんでした。多分これからも携帯で買い物をしたりするようなことはしないと思いますが、少なくともメールが出来るという情報の互換性だけは早くマスターして使いたいと思うようになりました。

 私のような古い、しかも情報メカに弱い人間は「食わず嫌い」が多いのです。その癖私が相であったように平気で人の行動を批判するのです。まあ余り深入りしないよう程ほどに使いこなせるようにだけはしたいものです。

 私の携帯電話はおじいちゃんやおばあちゃんが持っているような、カメラもついていない旧式のものです。草刈りに人間牧場へ持って行き、畑で落として傷がついたような何の変哲もないものですが、やはり文明の利器は凄い能力を持っていました。私が使いのなせなかっただけなのです。この二日間使い続けた携帯電話は昨晩充電器に乗せられ、再び新しいパワーを貯えて今日も私と行動をともにする予定です。

 清水さん、谷本さん、藤本さん、大河内さん有難う。これからも宜しくね。

  「私に 又新たなる 文明の 利器が加わり 日々が楽しく」

  「うーんまだ まだまだ修行 足りないと 頭こんがり メール送りて」

  「結局は 食わず嫌いの 批判だけ そのうち違う 側から批判」

  「あれ?またも 間違い変な 文字が出て どうしていいのか 訳が分らず」  

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