shin-1さんの日記

○久しぶりの宇和島②(雑感)

 昨日の会議は組織改変による文字通り南予の中心となった県庁南予地方局の7階会議室で行われました。会議に先立ち地域政策課に八十島補佐さんを訪ねました。この春から県庁から赴任した旧友です。大森課長さんや宮川補佐さんなど知り人が多く、かつて宇和島地方局時代に訪ねた地方局とは打って変わって、何か元気ややる気のようなはつらつとした空気を地域政策課の室内に感じました。まさに南予活性化の最前線といった感じです。

 全国大会実行委員会の会議は実行委員長である私が議長を務め、特に15分科会のプログラム内容について吟味を重ねました。既に原案は出来ているのですが、全国の人に情報発信する大切なメッセージなので、少し長めの時間をかけました。多分私の執拗なコメントを聞いてカチンときた部分もあると思うのですが、これから微調整をして来月には正式な要綱が出来上がり全国に発信する予定です。

 会終了後前夜祭と全体会の会場を歩いて視察しました。実行委員会のメンバーに土地勘と士気を高めるためのデモストレーションのつもりでしたが、少し暑く感じる1時間の散歩は堪えたようでした。全体会場となる南予文化会館ではこの春市役所を退職した佐々木さんが館長に就任していて、思わぬ旧友との再会を果たしました。

(散閑とした商店街はシャッターの閉まっているお店も目につきました)

 夕闇迫る頃、一通りの会議を終え袋町商店街を通りました。平日のためか商店街は道行く客も少なく、全国ありきたりな中心市街地の活性化という重い荷物をしょってるような姿に心が痛みました。宇和島の人に「若松さん妙案は」と聞かれましたが、妙案浮かばず「商店主と市民の意識改革をしないと難しいですね」と、とんちんかんな話をしてしまいました。昭和レトロで復活した大分県豊後高田の商店街を思い出しました。常に一番を走るか一周遅れに甘んじるか、どちらかでないと二番三番では見向きもされないのです。私の町は一周遅れの発想でした。故に目立ったように思うのです。発想はいっぱいありますが、どんな思いで誰がするのかとなると、一歩前に進めないし、振り子時計の原理で終わるのです。はずみ車の原理にするには反対も失敗も痛みも伴います。


 この夜の宴会はほづみ橋のたもとにあるほづみ亭という粋な料理屋で行われました。実行委員会結成以来始めての会費制懇親会なので心配と楽しみが交錯しましたが、いい雰囲気で交友を温めました。

 この夜は私たち双海町三人組にとってもう一つの楽しみがありました。それは三年間双海町翠小学校の校長としてご厚誼のあった鹿島先生との出会いです。既に高野さんが連絡を取り合っていたらしく、ほづみ亭近くの小料理屋で先生と落合い、懐かしい話や近況を飲みながら食べながら旧交を温めました。縁とは不思議なものでえひめ地域政策研究センターのまちづくり部門に旧津島町から出向していた森田さんの在所にある小学校の校長に赴任している陽で、校長先生の近況は時々入ってくるのです。

 翠小学校はご存知愛媛県内では最も古い現役木造校舎なので、鹿島校長先生は在職中かなり注目を集めた校長先生でした。私も当時は町の教育長だったこともあって懐かしさ一入です。途中センターの谷本さんも合流し賑やかな二次会となりました。

 午後9時半ごろ私の運転で先生を自宅のある旧吉田町で別れを告げて下し、内子経由、河野さん宅経由、米湊さん宅経由でわが家へ11時半に帰りました。「お帰りなさい」という妻の声に幸せを感じながら、昨日歩いた道筋をたどるようにデジカメの写真を取り込みながら長くも充実した一日を終わったのです。「明日は大事な会があるから」と自分に言い聞かせて・・・・・。

  「宇和島も ご多分漏れず 商店街 シャッター通り 何か妙案」

  「校長の 顔が紅潮 絶好調 久しぶりだね 旧交熱く」

  「わがブログ 読んでいるから 俺のこと 手に取るようで 嬉し恥かし」

  「この写真 二人ハンガー 吊るされて 知らぬが仏 思わずウフフ」


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shin-1さんの日記

○久しぶりの宇和島①(宇和島城)

 私にとって宇和島は第二のふるさとです。というのも16歳から18歳までの勇猛果敢な高校時代の3年間を、この宇和島で過ごしているのです。時は高度成長の始まる昭和36年ころですから、戦後復興を遂げた宇和島の町が南予の中心都市として最も賑やかな時代だったのかも知れません。もう半世紀にも及ぶ45年も前の出来事だし、年齢的にも過去を覚えている限界に近いことや、その後の発展で記憶の殆どを消し去っているから、久しぶりに訪ねてもそこここに見覚えがある程度なのです。

 でも終着駅ながら始発駅である宇和島駅の線路と、城山に聳える宇和島城だけは変わることなく宇和島のシンボルとして根を張るようにどっしりと構えています。お城のある街はどことなく落ち着いていて、ふもとの枡形町に住んでいた頃が懐かしく思い出されます。

 昨日はまちづくり団体交流全国大会が今年の秋、この宇和島を中心に南予辺りで11月に開催されるため、その実行委員会が催されたのです。中予でありながら分科会の一つを受け持つ伊予市双海町から参加の高野喜由ほたる保存会長さんと伊予市役所主幹米湊誠二さんを伴って、夜の懇親会を見越し、酒を飲まない私の車で出かけました。途中顔見知りである吉田のうどん坊で昼食を取り、宇和島へ12時過ぎに入りました。腹ごなしに宇和島城へ登ろうということになり、「上り立ち門」に車を止め登り始めました。城山の木立は爽やかで、なだらかな中にも急峻な石段を登ると、お昼の散歩を楽しむ人が結構いて、あいさつを交わしながらの登城です。

(上り立ち門)

 やがてお城が見えてきましたが、何時も変わらぬ威風堂々とした姿です。

(初夏の空に清々しく建つ宇和島城)

 私は宇和島に3年間もいながら、また講演などで足繁く通ったりしながら、まだお城の中へ入ったことがないのです。この日は場内拝観が出来るとあって200円の拝観料を払い見学をしました。

(宇和島城の普請の際に作られた模型骨格展示)
(殆どが松材で出来ている城の内部の立派な梁は普請の度の比較が出来ました)
(一階から二階に上がる急な階段)

 格子の窓から手を差し出し、城山の眼下に広がる市街地をカメラに収めました。そこここに懐かしい建物が見えました。

 
(東側、北宇和島方面)
(北側、宇和島湾を望む)
(西側、来村方面)
(南側、丸穂方面)

(宇和島城と石垣)
(お城の前で記念写真を撮りました)

 

 宇和島は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、藤堂高虎創建、天守閣は二代宗利が再建した三重三階総塗籠式、層塔型といわれて、国の重要文化財に指定されています。万延元年と昭和35年に大修理が行われているため、殆ど痛みもなく往時の姿を今もなお伝えています。

 この日は予期せぬお城の見学ができてラッキーな一日でした。

  「久しぶり 訪ねし街の 城山に 上りて天守 拝観嬉し」

  「格子戸に 手を差し出して 遠望を 写真収めつ 記憶たどりぬ」

  「町並みも 人の暮しも 変わったが 城山だけは 今も昔も」

  「終着の 駅は始発の 駅になる 集団就職 ここが始まり」

   

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shin-1さんの日記

○女に生まれなくて良かった

 朝の目覚めは私の方が早いのですが、妻は起きるなり着替えて顔を洗い、洗濯や掃除をしながら台所でせっせと朝食の準備をします。準備が出来ると私を書斎まで呼びに来て、その間に分別したゴミを出したり身の回りの片づけをしています。最近は子どももそれぞれ独立して仕事に赴いているため弁当を作らなくても済むだけ朝の仕事は楽になったようですが、一昨年までの一時は弁当を三つも四つも作る大変な時期がありました。二人で朝食を取り後片付けをします。その後二人で同じ洗面所で先を争うように洗面します。妻はどちらかというと化粧をしない方ですが、それでも薄化粧をし身支度を整えて家を出るのです。

 やがて昼までの3時間半、近所の歯科医院でパートで働き昼ごはんは私と二人で食べますが、昼休み1時間半の間に二人の昼食を作ったり食べたり後片付けと、これまた忙しそうです。やがて1時30分に再び病院へ出かけ5時半まで勤務します。帰ると直ぐに親父の夕食と私たちの夕食を作ル野ですが、その間洗濯物の取り込みやアイロンかけなど細々した仕事に余念がありません。考えてみれば亭主の私は風呂をためること以外は殆ど家事らしい家事はしないのです。自慢ではありませんが亭主関白で、駄目亭主のそしりを免れないのです。

 そんな朝から晩まで働きづめに働いている妻を見てしみじみ思うのは、「女に生まれなくて良かった」ということです。それは何も男の威張りではなく、妻の激務に対する感謝の気持ちから思うのです。でもその感謝の気持ちを態度で表し妻の仕事を少しでも軽くするようなことをしているかどうかとなると、これまた大きな口は叩けないのです。

 私はそんな後ろめたさもあって時々「何かしてやろう」と殊勝なことをするのですが、それが案外お節介で後周りになることが多いのです。例えば風呂をためることは退職時に自分の仕事と自分に言い聞かせてやり始めましたが、風呂の蛇口を稗って書斎でパソコンを打ち始めると風呂の事をすっかり忘れ、溢れさせることなど常習で、「もっと真剣にやってください」と叱られたりします。また掃除をして肝心な物を捨ててしまったこともありましたし、布団を干したのを忘れて雨に濡らしたことだって何度かありました。数日前もにわか雨が降って、せっかく干し上がった洗濯物を取り込むすべもなく全部濡らし、外出から帰った妻を落胆させました。

 そんな妻に恩返しをしようと、最近マッサージをしています。妻は職場の同僚だった人の娘さんが若くして急逝して退職したため今は一人で二役の仕事をこなしているらしく、帰ると肩のこりを訴えます。最初は見よう見まねで肩を揉んでいましたが、肩や足や腕などにも広がって、妻は「5分程度」というのですが、私は「20分も揉んでいる」心境で揉み解しているのです。私は幸い肩こりはなくたまにぎっくり腰になるくらいなのですが、整体院で揉んでもらった経験を生かしてマッサージをしてやると、妻は大そう喜び「楽になった」といってくれるのです。

 ふと私たち夫婦ももうそんな年齢になったのかと、お互いがいたわる姿に一人苦笑するのです。私は男に生まれ、まあまあ良き伴侶にも恵まれ、何不自由なく暮らせるのですから、ささやかながら幸せと思わなければなりません。多分今度生まれ変わることがあっても男を選ぶでしょうが、その分これからは罪滅ぼしのつもりで妻をいたわってやりたいとブログ上では思っています。(妻がブログを読まないのが勿怪の幸いです)

  「ああ今日も 男に生まれ よかったと しみじみ思う 妻を見ていて」

  「少しでも 妻のお役に たちたいと 思う矢先に 洗濯濡らす」

  「いい妻に めぐり合ったと 思う日々 一億当たった 同じ心境」

  「又次も 男に生まれ たい思う これぞ男尊 きつく戒め」

  

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shin-1さんの日記

○縁起がよい

 「今日はカラスがやけに鳴くから縁起が悪い」とは親父の言葉。

 「昨晩嫌な夢を見たから縁起が悪い」とは親父の言葉。

 「今日は大安だから縁起がいい」とは親父の言葉。

 「今日は朝から茶柱が立ったから縁起がいい」とは親父の言葉。

 私も時々同じようなことを思うことがある。

 「今日は自動販売機でジュースを買ったらもう一本当ったから縁起がいい。」

 「今日アイスクリームを食べていたら箸にもう一本と焼印が出てきたので縁起がいい。」

 「今日は仏滅だから縁起が悪い。」

 毎日毎日、親父も私もこんなささいな現象や出来事に一喜一憂しながら生きている。妻だって・・・・。

 「縁起って何だろう」と時々思うことがある。

 「縁」と「起」で「縁起」ならば「縁起」は「縁が起きる」のだ。

 「縁起」には悪い「縁起」も、よい「縁起」もある。


 じゃあ心の持ちようで「悪い縁起」は「いい縁起」に変わるのだろうか。

 そう思って昨日の朝、茶柱の立たないお茶を飲んだが縁起は一向に悪くなかった。

 昨日の朝カラスが鳴いたが、何も起こらずむしろ楽しい一日で縁起は悪くなかった。

 明日の日めぐりカレンダーは仏滅だが、縁起が悪いと思ったら仕事にならない。

 そうだ今日から「縁起のいいこと」を見つけて、自分に宿る他力本願な心を打ち破ろう。

 カラスが悪いのではなく悪い夢を見たから縁起が悪いのではない。

 仏滅が悪いのではない。

 縁起はポジティブに考えれば楽しく生きられるのだ。


 今朝起きると親父が元気だった。おう今日は縁起がいいぞ。

 今朝散歩していると、日頃は難しそうな顔をして声をかけない近所のおじさんが「お早うと声をかけてくれた。

 野良犬だって吠えるどころか、尻尾を振って近寄ってくる。

 今日は天気がいいぞ。縁起がいいような予感がする。


 「縁起」ということは縁によって起こることで、物事は他との関係にによって生じ、存続し、変化し、滅します。

 私たちはいつの間にか、ささいな迷信めいたものを信じて「縁起」を担いできました。しかしそれは人間の心が何かにすがって生きていかなければならないほど、弱いことを物語っています。神仏に祈り神仏の力を信じるのもその現われです。「自分が強くなる」「自分に強くなる」。激動を生きた人、逆境を跳ね返して成功した人はみんな自分というもう一人の自分と正面から向き合い、弱い自分に打ち勝とうと努力するのです。

  「おっ今日は 縁起がいいぞ 茶柱だ たったこれだけ いいことありそう」

  「椿宮 縁起笹買い 神棚に 三拝四杯 拝み祈りて」

  「いいことが ありますように 祈るけど 結果実力 それでも祈る」 

  「カラスさえ 縁起のせいで 悪者に 何のことない 今日も一日」

   

 

 

 

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○送別の会

 3月と4月は、私のようなリタイア組でも歓送迎会の案内が結構あり、義理を失してはいけないと全て出席しました。その数や妻も呆れるくらいあったのですが、さすがに5月になるとそんな飲み会も影を潜めていた矢先、えひめ地域づくり研究会議の松本さんから、えひめ地域政策研究センターの丹羽常務理事さんが、大学の教授として転出する旨の情報を入れてくれました。早速送別会の思案をしましたが、丹羽さんはこの四年間愛媛で頑張ってもらった方だし、四年間の間に四国歩き遍路を全て終え、四国をくまなく歩いているような凄い実践の人なので、面白い企画をしようと人間牧場で卓話をセットにすることになりました。こんな場合わが妻の手料理でということになるのですが、今回は松本さんの手腕でやりたいという申し出だったので、お願いしたのです。

 私は午前11時に人間牧場に出かけ、掃除をしたり周囲の草を刈ったりしながら、久しぶりの人間牧場で細々した仕事をしました。人間牧場の管理はもっぱら私一人の手にゆだねられていて、仲間は「草刈りに行く」とか「掃除の手伝いをしたい」とか言っていますが、口ばかりで手伝いをしてくれるような奇特な仲間はまだまだ少ないのです。風呂を洗いボイラーにスイッチを入れてお湯を張りました。窓ガラスを外と内と磨きました。掃除機をかけました。ウッドデッキの落ち葉を拾いました。こうして何時もながらの人を迎える準備をしたのです。

 やがて午後4時前南宇和郡と宇和島の連中の到着です。相次いで伊予方面からの参加者がバスに乗ってやって来ました。清水さんの発案で丹羽さんの卓話は私が何時も利用している高座台に座ってやる事になりました。高座台はウッドデッキに運ばれ、私たち聴衆は海に浮かぶような設えです。

(丹羽さんの卓話、歩いた足跡が一目で分る四国の地図には驚きました)

 「風の人」の独り言。ー日常行動にみる地域の本質ー

 黄色信号であせらない  ⇒ ホントに急がなくていいの?

                   実は○○がない社会だから

 赤信号で絶対に渡らない⇒ 遵法精神が行き渡っているけど・・・

                    実は○○第一主義の現れ

 伊予の早曲がり      ⇒ 伊予人は決してせっかちでは無いのに・・・

                    実は○○されることが嫌い

 座席に詰めて座らない  ⇒ 立っている人がいるのに・・・

                    実は○○○○型社会の現れ

 その他奇異に思うこと

  ニュースで「四国一、四国初」という

  自転車で並走する

  目障りな看板が多い

 これは丹羽さんの伊予と名古屋を比較した気質についての話です。さてあなたは○○の所にどんな言葉を想像して当てはめるでしょう。いやあ実に面白い、そして的を得た卓話でした。

(丹羽さんの話に聞き入る参加者)

 さて、いよいよ丹羽さんの送別会です。松本さんが用意してくれた食べ物に舌鼓を打ちながら、中締めを繰り返し延々10時まで話に花が咲きました。驚いた事に25人ほど集まりましたが、半分以上が人間牧場へ来るのが初めてだそうでした。

 この日は丹羽さんの次の活動拠点である九州辺りを指すように、とびきり上等の夕日を拝むことが出来ました。丹羽さんの前途を祝福しているようでした。前日の雨や雷でこの日の天気が危ぶまれていただけに余計嬉しい天気の味方にみんな満足でした。

(美味しい料理が沢山並んで楽しい送別会でした)

(海の上に金色の道が見えました)

(春霞ながら殆ど最後まで夕日を見ることが出来ました)


 丹羽さん、どうかお元気でご活躍下さい。あなたのことは忘れないでしょう。

  「風誘う 五月瀬戸内 夕まぐれ 送別宴 仲間が集う」

  「この四年 暇を見つけて ひたすらに 歩いた地図の 足跡偉大」

  「行きずりの 風の人から 学ぶこと 土の人ゆえ ハッと気がつく」

  「何処より 何処目指すか 風の人 幸多かれと 夕日とともに」   

 

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shin-1さんの日記

○ジャム

 先日、友人の清水さんからイチゴジャムが届きました。近所でイチゴを沢山もらったのでジャムにしたいと、晴美さんという友人に電話をかけてレシピを教えてもらい、ジャムづくりに挑戦したというのです。これまで台所に立ったことも殆どなく、妻の作ったものを文句をいいながら食べてきた私にとって、男性がジャムを作ることなど考えも及ばなかったのですが、リタイアして人間牧場をつくり、田舎暮らしに興味を持ち始めた最近は、妻も驚くほど小まめに(自分ではそう思っている)、苦汁菜やフキの佃煮を作り、先日は生まれて始めてお茶作りにも挑戦したこともあって、清水さんから電話で予約のイチゴジャムが来るのを待ちました。清水さんはその日のうちにコーヒー瓶いっぱいのイチゴジャムを夜遅く届けてくれました。市販のイチゴジャムのような色鮮やかなイチゴ色とは違い少々黒ずんでいましたが、染料も保存料も入れないまさに手づくりのジャムが届いたのです。

 私は殆ど毎朝パンを一切れ食べますが、焦げない程度にトースターで温めて何にもつけずに食べています。今は清水さんからいただいたジャムをつけて食べていますが、市販のものと違い甘さも控え目で、後口がいいと毎朝清水さんの顔を思い出しながら、清水さんを話題にしながら妻と二人リンキャベとともに朝食を楽しんでいます。

 わが家へは全国から様々な人が訪ねてきます。その中には田舎に憧れたりする人もいて、特に都会の人や関東以北の人にとっては、私が実のなっているりんごの木を見て感動するように、この時期甘夏柑の実がなっているのをさも珍しそうに思う人が沢山います。わが家の菜園には10本余りの甘夏柑の木があって、沢山実をつけているのです。勿論無農薬のため見場は多少落ちますが、それでもいかにも食べてみたいような黄金の輝きをしているのです。何個か自分で摘んで持ち帰る人もいますが、後日送って欲しいなどという戯言をいう人もいます。早速昨日は5箱も自前の送り賃で送りました。

 妻は私が余り自分で剥いで食べないので、家族が食べる分を外、内の皮を剥きタッパに入れて冷蔵庫で冷しています。一昨日もその実を食べながら、皮をマーマレードにしたらどうだろうと話しました。妻は早速挑戦し、昨日の夜自宅へ帰ると味見を求めました。皮と少しの実を入れたものでしたが、もう少し果実部分を入れてワインでも入れて仕上げるよう提案したところ、早速今朝実行しました。私も妻もワインなどのアルコールを飲まないため、ワインは家のあちこちに結構ゴロゴロしています。コルクの栓を開けるのに一苦労して、昨日妻が作ったマーマレードに果実部分を加えてワインを入れ、弱火でじっくり煮込みました。妻は出勤の時間なので私にやり方を教え、いつの間にか仕上げが私の仕事になってしまったのです。

 清水さんの顔を思い出しゆっくりシャモジで混ぜながら煮詰めること20分、ついに完成です。味見は昼食に帰宅する妻と味わうべく冷ましています。明日からの食卓は残り少なくなった清水さんからいただいたイチゴジャムと、私と妻の作ったマーマレードが食卓を賑わせてくれそうです。

 私たちの暮しはいつの間にか分業化が進め、人の作ったパンを食べ、ジャム類さえも人の作ったものになっています。せめて甘夏柑の美味しいこの頃だから、少し手を加えてマーマレードくらいは自分で作るようなゆとりを持ちたいものです。それにしても、私にだってこれぐらいのことだったら出来ると、台所に立つことの自信が少しだけ湧いてきました。

  「友人に もらったイチゴ ジャム食べる 今度は自分 手づくりマーマ」

  「手間暇を かけて手作り マーマレード 黄金に輝き さも美味そうに」

  「安心と 安全人に 求めるが 自分傍観 どこか可笑しい」

  「生活を 楽しむ術を 教えられ 妻と二人で 台所立つ」

   


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shin-1さんの日記

○四季録に書かれた私の記事

 昨日は早朝から広島県尾道市へ行っていたため、自宅への帰りが夕方になりました。帰ると「お父さん、玉井さんから電話が入っていたよ。今日の愛媛新聞の18面記事に載せているので読んで欲しいそうです。」というのです。早速新聞を広げて妻と一緒に読みました。仕事を片付けて玉井さんにお礼の電話しました。

 玉井さんが四季録に書かれた記事を紹介します。

 旧双海町役場の当時の若松進一課長とは、あるセミナーで出会った。講演で同じ話しを二度聞いても面白いもので「夕日の本を出さないか」と誘った。「本を出す金が無い。原稿を書く暇が無い。人様に感動を与える知恵が無い」と拒み続けられた。しばらくして、若松さんを訪ね、何も言わず、ある人が書いた色紙額を置いて帰った。

 「のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一だの白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上っていくであろう」。司馬遼太郎「坂の上の雲より」の色紙額を読んだ若松さんは、体内に不思議なパワーが出て、その色紙額を仰ぎ見ながら、原稿用紙四百字詰め原稿用紙で、実に四百八十枚を二週間で書きあげた。本の題は「無料で来る夕日を金にした男」「沈む夕日でまちづくり」などいろいろ考えた。

 ふと、若松さんが「双海町の夕日はどこの国の朝日なんだろう」と言った。「昇る夕日でまちづくり」と本の題は決まった。サブコピーは「日本一を目指した夕焼け課長の奮戦記」と夕日をバックに、木で作った「気になるカバン」を持った若松さんの写真を載せた。表紙帯には、林家木久蔵(当時)に似た、若松さんの写真と、これを読まずしてまちづくりは語れないの文。

 裏帯には「『しずむ夕日が立ちどまる町』/今や、全国に知られる。/まちづくりの名物男(中略)/どこにでもある夕日を/日本一にしたその想い/アイデア、実践の数々・・・・・/夕日のまちづくりは/日本一海に近い下灘駅での/夕日のコンサートから始まった。

 地球のどこでも、夕日は必ず沈む、なんで過疎の町、双海町の夕日が「まちづくり」の資源になったのだろう。

 ▽夕やけこやけライン▽夕日のミュージアム▽夕やけ放送局▽夕日のメッセージポスト▽夕焼けコンサート▽夕焼け音楽祭▽夕焼けソフトクリーム▽夕日丼▽夕焼けフォトコンテスト▽夕日のモニュメントーなど。徹底的に夕日にこだわった。若松進一という夕日にとりつかれ、こだわり続けた一人の男がいたからである。

 この本は、初版三千部は売り切れ、一年半後に再販された。若松さん、伊予市合併とともに退職し、「気になるカバンとハーモニカを持って」全国あちらこちらへ講演の旅をしている。(玉井恭介・考える村代表)

 早速昨晩は大勢の方々から、「新聞を読んだ」「あなたのことが書かれていました」などと電話やメールが届きました。自分で夕日のことを記事に書いたり喋ったりしていますが、人に書かれるとどことはなく面映い感じがするものです。でも玉井さんは別格な鋭いタッチで文章を書いています。玉井さんは宇和島水産高等学校の先輩で、私と同じく愛媛丸に乗って遠洋航海にも行っています。故に私のことは知り尽くしている感じがします。また本作りを通して私の知識を知恵に変えてもらった大恩人なのです。もしあの本を出さなかったらと思うと人間は乗れといわれた船には乗ってみるものだとも思うのです。

 玉井さんの四季録執筆はまだまだ続くので、一週間に一度ですが楽しみに読ませてもらいます。

  「俺のこと 褒めて書かれて 恥かしや でも嬉しくて ブログに心境」

  「若し彼が 本を出すよう 勧めずば 言われた船は 乗ってみるもの」

  「五千部も 売れたお陰で 牧場を 手に入れ今は 三昧暮し」

  「そこここに 恩人いるもの 彼もまた 大恩ありて 忘れ得ぬ人」

  


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shin-1さんの日記

○美味しい水

 もう随分前のことになりますが、長男が大阪の専門学校に入学した数日後、「お母さん、水の匂いが臭くて鼻について飲めない」と電話をかけてきました。妻は「慣れるまではペットボトルの水を買ったら」と話したそうです。それからというもの息子は大阪の暮しを続けた2年間も、ご飯を炊いたりする炊事用の水もペットボトルの水を使い続けたのです。「何でそんなことするの?、勿体ない」妻は叱ったそうですが、田舎から都会に出て最初に気がつくのは水の違いのようです。そのことは私にも経験があり、もう45年も前に宇和島水産高校に入学するためふるさとを離れ、宇和島の地で始めて飲んだカルキ入りの水が何とも鼻についたものでした。それまで私はカルキ入りの水など飲んだことがなかったのです。こうしてみると、上水道が完備した都会の暮しに比べ、まだ今の時代にさえ簡易水道に頼っている私たちの暮らしが「遅れている」と片付けられない部分もあるようです。

 最近、車にポリ容器を沢山積んで山水を汲みに行く人の姿をよく見かけます。こんな田舎の私の町の人でさえ汲みに行くのですから、松山の人が1時間余りもかけて久万の山奥の湧水まで汲みに行くのは分るような気もするのです。しかし私たち古い人間は、水をポリ容器に入れるとポリ容器の匂いがまた鼻に付くような気がして、やはり水道水を飲める幸せを感じるのです。

 私の親父は浄水器を付けています。妹が農協へ勤めていた頃キャンペーン中とかノルマだとかいって親父につけさせ、年に2回カートリッジを交換しているようですが、その水が「美味いから飲め」といって私に勧めていた親父も、最近は言わなくなりました。確かに浄水器は悪くはないし、何もしていないものよりはましだと思うものの、どこがどう違うか分らぬままの状態なので、手放しでは信じ難いようです。軟水と硬水の違いさえも分らず、また毎日自分の飲んでいる水がどれ程安全か考えることも殆どなく63年間も無意識のうちに飲み続けている水に、ふと思いをめぐらせてみるのです。

 私は生水をよく飲みます。特に寒の水は歯に染みるくらい冷たくて美味しいと思います。多分都会の人なら、「えっ生水を飲むの?」と言うかも知れませんが、アオコも湧くようなダムの水を、カルキで消毒した都会の水よりは余程綺麗で美味しいと思うのです。生水を飲んでいるお陰かどうか分りませんが私の内臓は雑菌に強くなっているのでしょうか、少々な物を食べても腹が痛くなるようなことは殆どないのです。昨年一年だけでも腹はまったく快調で下痢もまったくしませんでした。

 先日旅先で買った水は何と輸入品であるカナダの水でした。メイド・イン・ジャパンのこれほど美味しい水を持った国が、何故メイド・イン・カナダの水を輸入して呑まなければならないのでしょう。これも不思議といえば不思議な話です。わが町に住む長命のある人が人間は自分の生まれた場所に住み、自分の暮らしている町で獲れた魚や野菜を食っていればそんなに病気にはならない」という話も一利あるような気がします。外国産の肉や野菜、外国産の水を飲むことは、千年を超えて進化してきた日本人のDNAに合わないのかも知れないと思いました。ポリ容器で汲みに行く山水も美味しいかも知れませんが、私は自分の町の水を飲み、自分の町の水で調理したものを食べ、自分の町の水で沸かした風呂に入れる幸せをかみ締めて暮らして行こうと思っています。

  「生水を 飲める日本に 暮らしてる 外国出かけ しみじみ実感」

  「今頃に なって実感 水大事 畑荒れるが ある意味安堵」

  「一時間 かけて毎週 水汲みに 出かける人も 水にこだわり」

  「生水で 雑菌対応 出来る腸 お陰で腹は すこぶる快調」


 

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shin-1さんの日記

○尾道老人大学に招かれて

 今日の本当の尾道行きの目的は尾道市社会福祉協議会から頼まれた尾道老人大学の講演です。市役所の横にある公会堂でありました。前日担当者からメールが入り、9時半頃には来て欲しい旨の連絡でしたので、きっかりに到着しました。前触れもなく朝降った雨の影響が心配されましたが、沢山の人が詰め掛けていました。

 少し時間があったのでそこら辺を散歩したりして時間調整、いよいよ10時から「あなたの力が地域力」という演題で90分間お話をさせてもらいました。

(講演が終わった瞬間の司会者がお礼の言葉を言っている時にパチリと一枚会場の様子を撮りました(

 高齢化時代になりましたが、高齢者には色々なタイプがあるようです。年金に甘んじ暇と金を使って遊び三昧をする人たち、少しでも社会のお役に立ちたいとボランティア活動にいそしむ人たち、ただ何もせず病院通いや日向ぼっこしてボサーと一日を過ごすだけの人たち、学習に余念がない人たち、これでもかと一生懸命金儲けをしているひとたちなどなど様々です。どの生き方が理想かは分りませんが、少なくともボサーとただ何となく生きている人だけにはなって欲しくないものです。

 私は日頃から「ニコニコ、ピンピン、コロリンシャン」という生き方を提唱しています。今日もその話をしました。みんな大爆笑でしたが、さて高齢化時代の余命をどう生きるか、これまでは人のことだと思っていましたが、そろそろ私も自分のこととして捉えなければならない年齢になりつつあるようです。

 私は現在63歳です。今日集まっていた高齢者から比べると羨ましい若さなのですが、あと20年余りの仕上げの人生をもっとニコニコ、ピンピン生きたいと思っています。そのためには少し運動が不足しているようです。人に合い、知らない所を旅し、勉学にもそれなりにいそしんでいます。故に頭はボケないのですが、ぎっくり腰になったりして老化の兆しが少しずつ見え隠れしています。体の健康なしに心の健康、頭の健康はないと思い、このところ暇さえあれば体を動かすことをやっています。ぎっくり腰予防のために家の鉄棒にすがることも思いつきました。今はひょっとしたら今年90歳になる親父より持久力などの体力はないのかも知れないと思うのです。

 帰り際、おばあちゃん軍団が入口で待っていて、「今日はええ話を聞いた」「ハガキを出したいので名前を書いて欲しい」「サインをして欲しい」などというのです。何枚か名刺を差し上げましたが、それを見た人たちが群がってきて、名刺が足らなくなってしまい慌てて外へ出ました。えらい反響でした。

 帰る頃尾道中央公民館の旧友金本さんから電話が入り、夏に予定されている私の落伍会の打ち合わせに公会堂までやって来ました。彼は先日人間牧場へやって来ましたが、日本でも数少ないやる気のある公民館人のひとりです。彼に合うとどことなく元気が出ます。若かったころの私を見ているような気持ちになるのです。お盆上がりの8月19日の再会が楽しみです。

  「大学と いいつつ今日は 老人に ゆっくり口調で 楽しい話」

  「行く所 よくもあるもの 感心し 早く帰れと 送り出す妻」

  「入口で まるでアイドル サイン書け 囲まれ名刺 足らなくなりて」

  「人ごとと 笑い転げて いたものの 気が付きゃ俺も そろそろ初老」 




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shin-1さんの日記

○坂の街尾道へ①

 このところお天気が安定せず、まるで春先のように足繁く雨が降ります。旅に出る機会の多い私としては、せっかく訪問するのだから、天気ぐらいには恵まれたいと思うのですが、先週土曜日の香川県高松市も、今日の広島県尾道市もあいにくの雨にたたられてしまいました。雨が降ると道中の車の運転が「熟年暴走族」を自認するする夫のため危ないと妻が心配します。また今日のように出がけに雨が降ると参加者の出鼻を挫かれ人の集まりが今いちという不安もあります。まあ天気がいいに越したことはありませんが、こればかりは幾ら考えてもどうにもならないことなので、あまり考えないようにしているのです。

 今日は天気予報ではまずまずでしたが、降水確率が高いので、早目に出で尾道の街を散策しようと意気込み、妻に頼んで目覚まし時計を午前4時にセットしました。今は夜明けも5時15分頃なので早立ちといってもそんなに早くもなく、予定通り目覚めたので早速出発をしました。こんな時妻は私の好物であるリンゴを一個皮を剥いてタッパに入れて、凍らせたお茶かホットなウコン茶を持たせてくれます。

 朝早いこともあって松山~北条~今治の道を選び、しまなみ海道は今治北インターから乗りました。来島大橋に差し掛かった時、雲を押し上げるようにして朝日が昇り始めました。交通量も殆どないため手元に置いていたカメラでちゃっかり朝日が端の向こうから昇るのを撮りました。まるで夕日のようでした。

(来島海峡大橋)

(来島海峡大橋に昇る朝日)

 久しぶりのしまなみ海道を島伝いに走り、サービスエリアでトイレ休憩をしながらのんびりと一人ドライブを楽しみましたが、家を出てから僅か2時間半足らずで尾道の街に到着しました。早くも小雨がポロポロし始めましたが濡れるほどではないので、千光寺への看板を目印に坂道を登り、駐車場に車を止めて小道を一人歩きました。早朝の散歩を楽しむ人たちも片手に傘を持っていて、雨が近いことを感じさせました。

 やがて根石の側面に刻まれた色々な文字が見えてきました。文学の道、思惑の道とでもいうべき看板も見られ、それらに目をやりながら歩きましたが、残念ながら凡人の私には崩しているうえ難しすぎて解読することもできず、ただカメラに収めるのがやっとの状態でした。

(梵字の刻印)
(頼山陽作の漢詩)
(漢詩の説明書)

 やがて千光寺まで到着しましたが、幾多の文人に愛されてきた尾道海峡の朝の眺めは最高でした。

(尾道の朝の風景)

(本堂付近)
(山門入口の三重岩)

 早朝ゆえに参拝客も殆どいませんでしたが、地元のおばちゃんが背広を着てネクタイを締めている私を見て、千光寺の裏山に最近出来た小石鎚山に登らないか勧めてくれました。私が腕っ節が強く男前に見えたのでしょう。それからが大変です。私は完全にそのおばちゃんのサポーター役に変身です。手を引っ張り足を鎖に乗せてあげたり、それは大変でした。それでも急峻な小石鎚に登って「絶景かな」を連発しました。可愛らしい60がらみのおばちゃんでしたが、後腐れなく別れました。
(鎖も用意されている小石鎚山)

 今日は朝からいい体験をしました。私の朝の万歩計は5235歩も歩いていました。お陰様で少し汗ばみました。

  「千光寺 お参りしたくて 朝早く しまなみ走り 坂を登りぬ」

  「文人が 愛した坂街 尾道を 下界に望み 深呼吸する」

  「頼陽の 漢詩刻みし 石壁を 読むことできず しばし対峙す」

  「安心の 顔と思った おばちゃんと 手に手をとりて 鎖くるなり」 

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