shin-1さんの日記

○愛媛県町村会研修会に参加して

 3年前愛媛県の市町村が合併して、70の市町村が20市町になりました。それまでは市に比べ圧倒的に多かった町村ですが、市が13に増えたのに比べ、町の数は松前町・砥部町・久万高原町・内子町・上島町・鬼北町・松野町・愛南町の8つに激減してしまったのです。これではどう頑張っても町村会の馬力はつきにくく、当分は苦悩の日々が続くことでしょう。

 昨日はその町村会の招きで、中級職員16名と係長職員15名合同の研修会に招かれ、「合併後の地域づくり」について、えひめ青少年ふれあいセンターで講義を行いました。少し早めに出かけたため昼食までご馳走になり、午後1時から1時間50分にわたりお話をしましたが、私の紹介を研修生として参加していた愛南町の脇田さんが担当するなど、端々で知人友人にも出会い旧交を温めましたし、講義が終了すると次の講義を担当している町村会の会長である松前町長の白石さんにもお会いすることが出来ました。

 このところ毎年のように講義を担当している私がこの研修で最も強調したかったことは、合併しなかった町が何処か置いてけぼりのような錯覚にとらわれがちですが、大きいことはいいことという風潮より、むしろスモールモアビゥティフルの考えを持つべきという考え方です。確かに愛媛県内はまるで遺伝子組み換えのように、大きな市が周辺の弱小町村を飲み込んで誕生しましたが、合併して早くも3年、合併して誕生した新しい市では早くも中央優先あるいは中央横並び、中央軸足の傾向が出始めており、端々では限界集落や学校統合などの問題が徐々に出始め、住民は将来への募る不安におののいているようです。

 そこへ行くと小さな町は小さな政府を目指してそれなりの血の通った行政が出来ているようで、既に様々な新しい取り組みや斬新な企画が打ち出され実行に移されているのです。役場職員は時代の流れと住民のニーズを的確にとらえ、住民が将来への夢や希望を持って暮らしてゆけるようしなければなりません。風通しのよい血の通った行政が出来る職員の存在こそいい町をつくる大きな力なのです。

 職員も町長も議員も、町を愛する、町のためにする、町を正しい方向に導くという共通の意識さえ持てばいい町は必ず出来るのです。

 私は講義のために壇上に立ち、私の話を聞く研修生を見渡しながら話しましたが、確かに眠ることもなく熱心に話を聞いてくれましたが、どこか迫力がないような気もしました。多分それは問題意識が弱いのかも知れません。また日頃の仕事に熱が入っていないのかも知れません。かつて私がそうであったように、研修会に何かを求め、研修会で得た成果を仕事や人生に生かせるような職員になって欲しいものです。

 講義が終わって3人の研修生が控え室に私を訪ねて来ました。二人は顔見知りでしたがこんな小さな出会いだってこれからの大きな一歩になるのです。

 「人は人によりて人となる」はある人の本の題名ですが、今までも今も、ひょっとしたらこれからも人は人によりて人となります。いい人に巡り会い感化を受ける、このくらい素敵な学びはないのです。私のような凡人に会うだけでも少しは前進の糸口になるかもしれないのです。「小さな町よ頑張れ、小さな町の職員よ頑張れ」と私はこれからもエールを送り続けます。

  「小さいと 心の通う 行政が 出来るはずです あなた次第で」

  「もう少し 元気を出して 歩こうよ さすれば明日は いいことあるよ」

  「職員が やる気を出すと 住民も 元気になって 町も元気に」

  「冷房の 効いたお部屋で 涼しいな 眠っていても 給料もらえる」


 

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shin-1さんの日記

○使わなくなった風呂敷

 先日ある会合に貰った有名なお酒を持って行きました。わが家では長家を貰うともっぱら親父が寝酒程度にたしなむ程度なので、いつの間にか古くなって料理酒として使う程度になってしまうのです。私が酒豪?だった頃は知人・友人・親類からのお中元やお歳暮はもっぱらビールだったし、講演で招かれていただくお土産も地酒でした。しかし身体の都合で8年前に酒を断ったことを知っている人は、酒を私にくれなくなったのです。でも初対面で知らない人も相変わらずお酒をくれるのです。

 先日いただいたお酒は木箱に納められ、いかにも高そうなお酒です。私は思案した挙句その酒を風呂敷に包んで持参したのです。

 一枚の布でどんな形の物も包め、何度も繰り返し使える風呂敷は近年エコアイテムとして注目されるようになっていますが、その起源は定かではないようです。奈良時代に立てられた正倉院には、所蔵品が収納専用の布で包まれており、これが現存する最古の風呂敷とされています。こうした包み布は平安時代には「ころもつつみ」、室町時代には「ひらつつみ」と呼ばれました。包み布が風呂敷と呼ばれるようになったのは江戸時代で、もともと日本古来の風呂は蒸し風呂で、座る板場に布を敷いたり、布の上で着替えたりしていました。徳川家康の形見分けの記録「駿府御分物御道具帳」は初めて風呂敷という言葉を見ることが出来る文献だそうです。ここに記されている風呂敷は風呂の敷物のことで、徳川泰平が進むようになると庶民が銭湯にに通うようになると風呂道具や着替えを包むようになって風呂敷包みとなり、包み布全てを風呂敷と呼ぶようになりました。

 江戸時代以降庶民の間で急速に普及した風呂敷は物を持ち運ぶ道具としてだけでなく、屋号や家紋を染め抜き、今でいう包装紙のように利用されたり、婚礼の道具として使われるようになりました。明治になって生活が洋風化されても戦後間もなくまで風呂敷は庶民の暮らしに欠かせない持ち物として使われましたが、昭和の高度成長によって紙袋やレジ袋が登場し風呂敷は片隅に追いやられました。しかし近年環境への関心が高まり、再び何度も使える風呂敷への関心が高まろうとしているのです。

 風呂敷の大きさは横の長さ「幅」で表しますが、一幅は36cmで基本となるサイズは中幅から七幅まで10種類のようです。最近はその包み方や結び方にもデザインが考えられ、随分おしゃれになってきましたが、男の私などは無粋な結び方で、味もそってもないようです。女性が和服で風呂敷包みを持ち、和傘などをさして下駄で石畳を歩く姿は何とも風情のある姿です。

 昔から大言壮語な出来もしない話をする人を称して「大風呂敷な人」と呼ぶようですが、風呂敷は広げるだけでなくに包み込むことも寛容でしょう。

 私は随分前は風呂敷包みを持ってどこへでも出かけていました。しかし風呂敷包みを持ったら田舎物で東京ぼん太に似ているといわれ、木のカバンを手に入れてから、風呂敷包みにおさらばしましたが、今でも風呂敷包みへの郷愁を忘れていません。木になるカバンの中には小さな風呂敷を入れて持ち歩いていましたが、それもいつの間にか机の引き出しにしまわれてしまいました。もう一度風呂敷包み復活といきましょうか。

  「風呂敷に 酒を包んで 会合へ 粋な計らい 感謝されつつ」

  「若い頃 風呂敷包みを 持ち歩く 思い出彼方 そろり復活」

  「風呂敷は 風呂に使うが 語源とは 知らぬことゆえ 酒を包みて」

  「日本人 風呂敷ひとつで 用をなし 暮しの智恵は 今も生きてる」 

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shin-1さんの日記

○ブルーべりーが届く

 わが町に西岡栄一さんという人がいます。この方は昔役場で町長さんの公用車の運転手をしていましたが退職後は奥さんと二人で農業をやっています。在職中から人の面倒見がよく、同じ職場だったこともあって何かと気心の知れた間柄で、時には先輩として、時には同僚として、時には行きがかり上部下として付き合ってきました。西岡さんは私など比べものにならないほど二代の町長さんに同行して様々な地域や場所を運転手ながら訪ねていて、視野の広さは町内随一で、私も一目を置く人なのです。加えて実行力があってよいと思ったことはすべからく直ぐに実行に移すのです。 

 在職中にイチゴの高床式ロックウール栽培を奥さんが主動となってはじめ、苦労の末双海のイチゴ園の先鞭をつけました。言い方は悪いかも知れませんが、後に始めた3軒の農家はいい所取りのような感じもします。でも西岡さんは直ぐにそのことを見越してイチゴとブルーベリーを組み合わせた観光農業をしているのです。今でこそブルーベリーは一般的になりましたが、がまだ珍しい頃から取り組んで、今では立派なブルーベリー園として経営の主要な柱になっているようです。

 西岡さんの凄さはそれを自分だけのものにせず、翠校区で取り組んでいるグリーンツーリズムの主要リーダーとして他の人を引っ張っていることです。既に校区の溜まり場にピザ釜も4つ造って土日には予約を受けて活動しているし、自らも蒟蒻を作るメニューをしっかりとこなしているのです。

 西岡さんは運転手を長らくしました。町長さんとは同級生だったこともあって大変だったと思うのですが、悪びれることもなく立派に勤め上げましたし、辞めてから何が残るか考えたら真の勝者は西岡さんではないかと思ったりするのです。

 私は西岡さんの生き方を見ながら、自分も目的や計画を着実に実行している部類ですがまだまだ西岡さんには適わないと、自らの見本としてこれからもせいぜい見習わせて欲しいと願っています。

 一昨日西岡さんがトラックに何やら大きな植木を積んでわが家にやって来ました。見ると粒をたわわにつけたブルーベリーの鉢植えです。今年から一鉢オーナー制度を考案し、希望者にブルーベリーの鉢をシーズン中貸し与え、自宅で居ながらにして収穫を楽しもうとするものです。「試験的に食べてみてください。収穫が終わったらまた取りに来ます」とあっさりわが家の庭に降ろし置いて帰りました。

 驚いたのは家族です。また娘や息子も一応に驚き、早速熟れた実を試食していました。残念な事にわが家に来た人が「まあ珍しい」と一つ一つ摘み取って口に入れるものですから、熟れるのを楽しみにしていた私などはまだ一個も口にしていないのです。

 まあこれも西岡さんの宣伝だと思い、来客に自慢をしながらいただいています。「水は3日に一度たっぷりやって下さい」というご指示通り、今朝は汲み置きした水をバケツにいっぱいたっぷりやりました。孫が次に来る頃には熟したブルーべりーを摘ませることができるかも知れません。

  「見習って 強く生きよと 思う人 身近に住んで 身近お手本」

  「これ食べて いきなり鉢が 降ろされて 嬉し収穫 居ながら自宅」

  「人間の 値打ち一体 何なのか 生き方次第 値打ち高まる」

  「たっぷりと 水やる朝の 爽やかさ この水吸って 美味い果実が」

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shin-1さんの日記

○鯉よさようなら

 わが家の庭にはこの30年余り、親父が手塩にかけて育てたそれは立派な鯉がいましたが、残念ながら昨年死んでしまいました。落胆した親父は一事覇気がなく嘆き悲しんでいました。池を見ただけでも悲しくなると、その池を埋めようとしましたが、せっかくだからとコンクリートで上を塞ぎ、入口を作って立派な地下室が誕生、その上に東屋を建てたりしてまた元気を取り戻しました。

 そんなこんなで鯉を飼うことは止めようと、あれ程高いお金を出して設置した浄化装置も鯉屋さんにタダで引き取ってもらい、完全に甲斐の思い出を消していたのです。ところがどうでしょう。いつの間にか庭の隅に小さな池を掘り始め、あっという間に小さな池を自分で造ってしまったのです。鯉が縁で時折ご機嫌伺いに尋ねてくる鯉屋さんはそれを見て値打ちのない鯉を2~30匹持って来て池に泳がせました。

 あれから1年が過ぎました。親父の鯉好きもさるもので、鯉屋さんが驚くほどその鯉が大きくなって、何匹かは近所の人に差し上げたのですが10匹は残って、すっかりわが家の人気者になっていました。時折訪ねてくる近所の子どもたちや、わが家の外孫たちもわが家へ来る度に鯉の泳ぐ池へやって来て、手を差し伸べ馴れた鯉に手を吸ってもらうほどでした。

 一昨日息子が還って来た時、親父はこの鯉を近所の上灘川に放流すると言い出し、ポリ容器に入れて息子とトラックに積んで川へ放しに行きました。せっかく育てたのにという家族の反対を押し切ってです。聞けば鯉はこれ以上この池で飼うのはこれが限界らしく、せっかくの命なので自然に帰したのです。

 さてこの二日間池は水を抜かれ、梅雨の明けた真夏の太陽に寂しく干されていました。今朝隠居へ行って見ると親父はもぬけの殻で外で池の水を張っていました。どうするのかと尋ねたら、「今度は大きくならないフナ金を飼う」そうで、鯉屋さんにすでに電話で注文したそうです。その理由は「ひ孫たちが来たら喜ぶので」とさりげなく話してくれました。はてさて親父の考えは私には理解できなくもありませんが、妻は「性懲りもなく」と一連の鯉騒動に何時もながら呆れていました。

 私は長男です。故に親父とはもう生まれてから63年間も付き合っている計算になります。子どもの頃はいざ知らず、私が結婚して40年余り経つのに未だに親父は親父として付き合ってきました。反論や反対をしないのが長男の親孝行だと思ってきました。しかし若い頃病気をした頃から我が強くなり、最近ではその我も大分弱りましたが、それでも年寄りの頑固さは今も顕在で、時折私も妻もつまらない苛立ちを隠せない時だってあるのです。

 今年の9月に親父は卒寿を迎えます。これから先何年生きるか分りませんが、母親がそうであったように親父の口癖である「この家の畳の上で死にたい」という願いをかなえてやりたいと思っています。親父の年代はもう同級生も仲間も殆ど死んでしまいました。また例え生きていても特老施設などに入所して余生を過ごしています。私は親父の願いをかなえてやりたいと思っています。それが長男としての私の務めでもあるような気がするのです。妻にはそれなりに苦労をかけますが、その分私がカバーをして天寿をまっとうさせてやりたいのです。

 時折妻が「あなた、ひょっとしたらじいちゃんは100歳まで生きるかも知れない」といい、「私たちより長生きするのでは?」と笑って話します。しかし親父の後姿を見ると心なしか背丈が縮んだような気もするのです。

 今朝も「お早う」といえば「お早う」と返事が返り、朝から池の修理に余念のない元気な親父さんです。

  「懲りずまた フナ金飼うと いい始め 呆れた口が 塞げぬ親父」

  「この家の 畳で死ぬと いう親父 願いどおりに 親子で暮す」

  「鯉を入れ トラック積んで 川放す 慈善事業か 理解苦しむ」

  「曾孫来る 嬉しさのため フナ金を 既に注文 いつまで生きる」

  

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shin-1さんの日記

○親父を連れて病院へ

 今朝親父の隠居へ行くと、「昨日から歯の調子が悪く牛乳以外殆ど物を食べてない。すまんが病院へ連れて行ってくれ」と懇願するのです。たまたま今日は午前中日程が空いていたこともあって、それは大変と連れて行く事にしました。親父は若い頃鼻ガンになって、県立中央病院で手術をしています。医者の話ではかなり難しい病気で、手術は成功したが再発の危険性があると告げられていました。私はそのことが原因で大学への進学を諦めふるさとに帰ったのですから、親父の病気は私の宿命として受け入れていました。

 私も親父も家族もガン再発の不安に駆られながら、特に母親は心労が多かったようですが、その母が亡くなり皮肉にもガンになった父が残ろうとは、誰も想像していませんでした。故に母が亡くなったときの父の落胆は相当でしたが、親父は89歳の今日まで今も元気で過ごしているのです。そんなこともあって、歯が痛いと親父本人も、私も「もしや?」と思うのは当然かも知れません。

 松山の県立中央病院までは小一時間かかります。今日は月曜日なので患者さんも予想以上に多く、長い間病院にも行っていない親父は初診扱いで、かなり時間がかかるものと諦めて出かけました。案の定受付を済ませたのは8時半なのに、診察予約は10時10分だと告げられました。何をするでもなく親子が歯科診療の窓口付近の待合椅子で待ちました。前を通り過ぎる患者さん、掃除をする業者さん、背広を着て部屋の中へ入る薬屋さんなどその気になって見れば中々面白い人間模様ですが、歯の具合の悪い親父は診察までの時間が不安な様子で、トイレに立ったり時間を聞いたりしていました。

 やがて10時になったころ受付から「若松進様、大変お待たせいたしました。中へお入り下さい」と呼び出され、私はまるで親が子どもを病院へ連れて行くように、一緒に診察室へ入りました。先生から「どうされましたか」と尋ねられるたびに私が代役として「実は歯の具合が悪くこのところ食べ物を噛めない状態で困っています」と代弁すると、「はい分りました。処置椅子にお座り下さい」と告げ、入れ歯を外し中の具合を診察しました。少し傷があるらしく、慣れた手つきで入れ歯の不具合を修正し始めました。キーンと鳴る歯医者独特の音に苛立ちを感じながら、処置椅子の隣で私はじっと処置の様子を見なければならないのですが、うつろな表情で窓を眺めていました。やがて処置が終り傷薬をいただき、次回は7月15日8時30分に来るよう予約を取って処置室を出ました。10時30分になっていました。お金は要らないのですが会計で次回の予約日の確認をするため少し待って病院を出ました。私も親父も再発でなくホッとしながら車に乗り込んでわが家へ11時20分頃帰ったのです。

 病院とは何と時間がかかるものなのか、高齢な親父は歯の痛みより長い道中に疲れたようでぐったりしていました。薬の塗り方、今度病院へ行く日を大きな声で知らせ、昼飯です。

 夕方親父の部屋に出かけて歯の具合はその後どうか聞きましたが、今朝までの地獄のような苦しみから解放されて天国だと喜んでいました。歯の痛みが取れたこともさることながら、息子に病院へ連れて行ってもらったことがうれしかったようで、いささかなりの親孝行ができたようです。

 親父の姿を見ながら、30年後の自分を想像してしまいました。親父のように長生きできる保証は何処にもありませんが、30年後には必ず私も親父のような姿になるのです。そして息子に世話をかけることでしょうが、極力元気で生きたいと思いました。

  「次々と 後の患者が 中に入る 予約人だが 待つ身はつらい」

  「来週の 予約を取って 病院を 出でて思わず 吐息が混じる」

  「どうしたの 見知りの人に 会う度に 親父が実は 何度も話す」

  「病院に 来て見て思う 不健康 メタボの医者が 意外と多い」

   

 

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shin-1さんの日記

○わが家はまるで蜂の巣をつついたよう

 一ヶ月に一度くらい、わが家へは長女の家族と長男の家族が泊まりにやって来ます。娘や息子はどういうことはないのですが、娘や息子に連れられて3人の孫がやって来ると、わが家はまるで蜂の巣をつついたような賑やかさです。孫朋樹君は5歳ですから随分成長して聞き分けがよく私の相棒と呼ばれるようになっていますが、孫尚樹君は1歳2ヶ月、希心君は10ヶ月なので、まだまだ大人や子どもどおしのコミュニケーションが通じず、泣きたい時に泣き、寝たいときに寝て、食べたい時に食べるといった気ままな年齢なのです。最近はおもちゃで遊び、人に抱かれることの快感も覚えてきましたが、故におもちゃも人間も独り占めしたいようで、少しでも自分が相手より大事に扱われないと、本気で泣いたりするのです。

 娘の家族は娘婿が出張したらしく金曜日に泊まりに来て2泊3日です。息子の家族は土曜日にやって来て1泊2日なのですが、土曜日の夕方から娘が同窓会があるらしく、孫二人を置いて出かけて行きました。私は仕事で留守にしている妻に代わって、北海道から来た視察団の一行が帰ると直ぐに家に帰り、孫の守りです。最初は孫も可愛いなあと思うものの、夕方になると少しぐずって中々言うことを聞いてくれません。そのうち妻が帰り食事の準備をして夕食を食べさせ、夕方やって来た息子の家族と合流したものですからさあ大変です。片方を抱くと今度は自分を抱いて欲しいと泣くし、子トラが泣きたいくらいでした。

 それにしてもこの二家族が来ると、二階と一階はまるでタコ部屋のように布団で埋め尽くされます。妻は食事の後片付けもそこそこに順番に風呂に入れ、寝かせるのですが、日常と勝手が違うためか、孫たちは興奮して中々寝付かないのです。妻は仕方がないので抱いて夕涼みがてら外に出てあやすのですが、ウトウトするものの寝かせると又起きて泣くのです。

 娘の帰りがいつになく遅く、結局は10時近くになって帰りました。私は「子どもをほったらかしてどういうことだ」と少し不満をいって娘を叱りましたが、長男がたしなめて納まりました。

 それにしてもです。妻は偉いと思いました。私など孫の面倒を見たと威張ってもほんの少しの時間です。妻たるや、全員の食事の世話、孫の食事、布団の用意、風呂に入れるなどなど、数えればきりがないくらいの働きです。しかも今は職場の都合で日曜日だけの休日で、そのたまの日曜日も娘・息子の二家族は夕食まで食べて帰るのですから大変なものです。それでも孫や子供が来ることを喜び、自分のことなど二の次です。

 私もそんな妻を偉いとは思うのですが、昔人間であり、駄目亭主のレッテルを貼られている私は、感謝の言葉のひとつもいえず、相変わらず亭主関白の言動なのです。昨日は私も今治市富田自治会に招かれ講演に行き、夕方帰ったため二人とも疲れていたのか、テレビを見ながらついウトウトしてしまい、気がついたら12時を回っていて、テレビをつけ電気をつけたままで、妻も私も慌てて終身と相成りました。忙中閑なし、それでも子どもや孫と泣いたり笑ったりの声を聞く度に、ささやかな幸せを感じています。

  「孫たちの 泣いたり笑う 声聞けば まるで蜂の巣 高周波音」

  「月一度 これも務めか ご苦労さん 妻はせっせと 子孫のために」

  「しみじみと 歳を取ったね 言う妻の 疲労ありあり 日曜の夜」

  「気がつけば テレビ電気を 点けたまま ついウトウトと 時計は回る」 



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shin-1さんの日記

○「知りませんでした」の次は「誠に申し訳ありません」で幕切れ

 世の中は連鎖反応社会と呼ぶべきでしょうか、耐震構造偽装事件が起きると新聞やテレビが連日そのことを、これでもかといわんばかりに取り上げるて報道するため、新たな偽装に発展し、聞く側にしてみればヘキヘキうんざりするような感じがしました。しかし次の新たな問題や事件が起きると、あの事件は一体何だったのかと思われるほどに忘れ去られ、日本人がマスコミの報道という手法によって、否応なしに世論を形成されるような錯覚すらするのです。

 最近はミーとホープから始まって赤福や中国産餃子へと移行し、高級料理店吉兆が廃業に追いやられるなど、食の安全性が大きな社会問題となっているようです。ミートホープも赤福や吉兆も全て長年の気の緩みが産んだ産物でしょうが、中国産餃子は未だ原因が突き止められておらず、日中関係に暗い影を落としているようです。オリンピックという迫り来る国家的イベントを目前に控えている中国としてはこれ以上、問題をこじらせるわけにいかない国家的事情もあって、うやむやになっていますが、食の安全性がテーマの生協が絡んでいるだけに消費者の関心も高く、生協も独自の安全検査をしっかりと行って安全性を主張しているのですから、一日も早い解決が望まれるところです。

 ギョーザ問題は別として、これらの根底には企業が儲けばかりを追求してきたことがあると思います。勿論企業は利益を上げないと存続できない訳ですから、そのためには違法でさえなければどんな手段も許されるというのは、もう通用しない考え方ではないかと思うのです。

 また一方最近は、お客はお金を払うのだから何を要求してもいいのだという消費者万能主義が強過ぎます。日本人の人を思いやる優しい気持ちはすっかり陰を潜め、品位を下げているのも気になるところです。確かに生産者や販売者は消費者の方を向いて仕事をしなければなりませんが、同時に消費者にも、消費者や生産者にもサービスをしてくれたことへの敬意や感謝の気持ちは必要と思います。

 こうした消費者と生産者やサービス提供者が対立という構図になった原因は大量生産、大量消費という生活スタイルが上げられます。作る側も一つ一つ丁寧に心を込めて作らず、より早く、より沢山と薄利多売するから少々不良品が混じっていてもお構いなしで出荷販売するのです。消費者もこんなに安いのだから仕方がないと思い、一つ一つ物を愛しみながら使うことがなくなり、痛めば平気でゴミとして出し新しい物を買い換えるのです。これでは作り手への感謝も忘れがちになるのは当然のことなのです。

 事件が発覚すれば、マスコミの追及を逃れるように「知らない」「私は無関係」「社員のやったこと」と責任逃れを繰り返し、警察の追求が始まり逃れられないと思うや一転して、記者会見の席で深々と薄くなった頭を深々と下げ、時には涙まで浮かべて共感を誘い「全て私の責任です」と謝る姿は、全て共通するストーリーなのです。

 やがてこれらのシナリオも、忘れ易い日本人の記憶から消え、僅かに今回のウナギや飛騨牛のような次の事件が発覚すると、気がついたように少し触れられ忘れ去られてゆくのです。

 経営者にとって責任とは一体何なのか、それは社会的責任と同時に社員や社員の家族を養うという人間的責任も負っているのです。これらの殆どの事件がこれまではなかった内部告発ということで事件が発覚しているところに、経営者と社員の人間関係の微妙なねじれを垣間見るのです。

 武士の本分は腹を切って「責任を取る」だと教えられましたが、最近の社長には武士のような責任を取れるような人が少なくなっているようにも思えるのです。まさに「品格」がなくなったようです。

  「知らないと いってた人が すみません 二重人格 見え見えですね」

  「詫びながら 陰で舌出す したたかさ 演技一流 人間二流」

  「品格が 問われる日本 本屋には 品格つけて 売れる下品さ」

  「責任は 全て俺だと 何故いえぬ いえばさすがと 座布団二枚」

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shin-1さんの日記

○北海道は遠い国から

 日本の国にあって、北海道といえば遠い県、しかしその遠さが故に一度は行って見たいと思う人は多いのではないでしょうか。私もそんな思いもあって過去に何度か北海度を目指しました。最初に北海道へ行ったのは私が23歳の時でしたから実に40年も前の出来事です。当時私は青年団活動に身を投じ活発な活動を展開していました。その際たるものは第14回NHK青年の主張の県代表になったり、双海町の青年団長として理想を掲げて縦横無尽に走り回ったりするほどでした。そんな私を見て町の教育委員会は、愛媛県が実施している国内研修北海道班のメンバーに推薦してくれたのです。幸いにも選ばれる幸運に恵まれ約10日間の長い旅路の人となりました。当時は今と違って陸路が一般的でしたから、私たち一行は大阪から日本海沿いを夜行寝台特急「北斗号」で北海道を目指したのですが、今ならカシオペア号などに匹敵するもので、何とも贅沢な旅なのです。青函連絡船を乗り継ぎ始めて北海道に足を踏み入れた時の感動は今でも忘れられない思い出のひとつです。

 その後札幌オリンピックに愛媛県の青年代表として派遣され皇太子ご夫妻と食事を共にしたり、様々な旅行プランに乗って何度となく北海道へ行きました。最近では北海道の各地から講演の依頼もあって、昨年だけでも2度も講演旅行に出かけているのです。

 しかし昨日は、北海道の人28名がよりにもよって双海町を目的地に選んで視察に来たのです。3年前に道漁婦連、つまり北海道漁業協同組合連合会女性部の皆さんが双海町を視察されました。そのご縁で今回の交流となったのです。その時は私は教育長でしたが愛媛県漁婦連の会長をしていた双海町の富岡部長さんの依頼で視察者にショート講演を行いました。その印象が忘れられずもう一度是非と、リタイアしているのにお声がかかったのです。

 今回の視察者は北海道といってもこれまた北の果て知床半島の付け根羅臼からの来訪なのです。女性部長の田中郁子さんは前回の来町の時にお会いしていたので嬉しい再会です。研修は和気藹々、じゃこ天やたこ焼きを食べたりお喋りしたりしながら旅の疲れを癒しました。




 研修や昼食を終えた一行はシーサイド公園で記念写真を撮ってから、わが家を訪問されました。皆さんからは人間牧場の視察要望が出されていましたが、大型バスなので断念し私設公民館煙会所と海の資料館海舟館の見学となったのです。私費で整備した施設だけに皆さんは一応に驚きの連続でした。せっかく四国に来たのだからと、菜園横の果樹園に案内し甘夏柑の収穫をさせてあげました。まあ喜んだこと、見ていた私もこれほど喜んでいただくとは予想外でした。私たちが北の国でりんごの収穫をして驚くのと同じだったようです。

 この日私は実行委員長をしている少年少女おもしろ教室への参加を予定していましたが、富岡さんのたっての願いによって、北海道のお客様を迎え、皆さんにショート講演をする事になりました。富岡さんの話と私の話で1時間ほどでしたが、皆さんは一応に満足して帰って行きました。梅雨の明けた四国の暑さに汗を拭きながら、汗だくの研修はよき思い出になったことでしょう。帰り際、「羅臼で是非講演を」とのお誘いがあって、実現すれば羅臼も訪ねてみたいと雲を掴むような淡い期待を抱きました。

  「北来たよ 羅臼昆布を 手土産に 漁村の女性 こんな田舎に」

  「梅雨明けの 暑さ汗拭き 北の人 物好きですね こんな田舎に」

  「是非来てと 羅臼の女性 ラブコール 俺も男だ その気になって」

  「甘夏を キャーキャーいいつ 摘み取って 手土産帰る 色白女性」

 

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shin-1さんの日記

○水の教え

 先日私が非常勤講師をしている愛媛大学法文学部の学生を引率してフィールドワークの授業で、松山市の沖合いに浮かぶ旧中島町大浦へ出かけました。中島町にはモーターボート競艇の収益金を管理するBG財団の援助を受けてプールを造っています。この手の類の施設は全国至る所にあって、モータボートと縁もゆかりもないと思われる山奥にまで事業が入っていますが、この総元締めが今は亡き笹川良一氏なのです。彼は自分の考えを普及するためというよりは、一人の人間の生き方のよりどころとして、BG財団支援施設には必ずといっていいほど、自分の名前を刻んだ記念碑を建てています。中島のプールの入口にもその記念碑はありました。もし記念碑文の末尾に笹川良一という名前がなければ、この教えはもっと普及していたかもしれませんが、私はこの水六則という言葉が大好きで、今までも度々引用して話してきた経緯があるので、学生たちにもこの文章を読んで聞かせ、説明してやりました。

     水六則

 1、あらゆる生物に生命力を与えるのは水なり

   動物も植物も生物は水なしで生きていくことはできません。地球は水の星といわれるように水の存在が生物

   を育てているのです。にもかかわらず人間は水を汚し水の価値を忘れているのです。特に日本は水の国と    

   いわれるように、蛇口から飲める美味しい水に恵まれています。生命の源として今一度水の恩恵を見直し感

   謝したいものです。    

 2、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり

   水は人為的なことをしない限り必ず高い所から低い所へと流れます。天から降った一滴の雨水は海を目指

   して果てしなく長い長い旅を続けるのです。僅か1ミリの落差をものともせず低きに向って流れる姿はまさに

   初志貫徹といったとこりでしょう。

 3、如何なる障害も克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性を兼ね備えるは水なり

   水の行く手には沢山の生涯が待ち受けています。ダムで堰き止められたり落差の大きい滝に出会っても、

   むしろ障害に会うほどひるむことなく激流となって流れ落ちるのです。何という強い信念でしょう。失敗や反    

   に会うと直ぐに挫折してしまう人間の脆さを思うとき水から学ぶことは大きいのです。

   水はどんな容器にも直ぐに順応します。丸い器、四角い器、長い器、短い器、それぞれの形に順応するの

   です。

 4、自ら清く他の汚れを洗い、清濁併せ容るの量あるは水なり

   水は絶えず清く汚れたものを洗い落とします。また清と濁ともに同居する度量を持っています。しかも自然

   治癒力を持っていて、濁った水もいつの間にか澄んだ水になるから不思議です。

 5、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い、何ら報いを求めざるは水なり

   水はその量を貯えれば発電のタービンを回して電気を起します。これはクリーンエネルギーとして人々の生  

   産と生活に大きな役割を果たしています。しかしそれとて代償を求めず下流へ流れ再び自然の循環によっ

   て動力となり光となるのです。

6、大洋を充たし、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪に変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり

   水には海水と真水がありますが、地球の殆どが海であるように大洋を満たしています。その海の水が自然

   循環によって水⇒蒸気⇒雲⇒雨⇒雪⇒霰となっても、全て水の性格を変えることはないのです。

  水を心とすることが平和と健康と長寿の妙薬である

   水のような生き方をすれば人間が最も大切な平和や健康、それに長寿を得るのです。水そのものは命の源

   ですが、水のような生き方をすればそれらを手に入れることができるのです。   

 これからも水に学びながら水の恩恵を受け、生きてゆきたいものです。

  「ありふれた 故に人間 水などと 馬鹿にするけど これこそ大事」

  「わが住める 日本はやはり 水の国 至る所に 水の風景」

  「水かけず 水掛け論で 始まった わが町の花 水のお陰で」

  「水利権 理由に水を 独り占め 今に天罰 水は共有」

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shin-1さんの日記

○忍者の里伊賀上野へ

 私は様々な土地を旅しますが、その都度地元の人たちに行く場所についてアンケートのような形で話を聞いて出かけます。私「伊賀上野って知ってる」。知人「伊賀といえば忍者だろう」。私「よくご存知ですが、伊賀は何県かご存知?」。「知人「滋賀県じゃないの?」。私「何で?」。知人「だって、滋賀と伊賀、甲賀はよく似ているもの」。私「ところで、あなたは何で伊賀を知ってるの」。知人「昔映画で忍者の時代劇を見たことがあるし、小説も読んだ」。まあこの程度の人はわが町にも沢山いて、伊賀市=忍者という知名度は全国級のようです。でも伊賀というと忍者の里くらいしか思いつかないし、普通の人は日本地図のどこらにあるのかさえ余り知られていないのが実態のようです。

 私は何年か前、広域市町村圏の仕事出張で全国大会に参加した折、伊賀上野に泊まったことがあるので、伊賀上野がどの辺にあるのか、また伊賀市が三重県であることは承知していますが、いざ自分ひとりで旅に出るとなると、インターネットを水先案内人にしないとおぼつかないのです。

 私のような四国人が伊賀へ行くのにはまず大阪を目指します。大阪までは新幹線か飛行機、若しくはマイカーかバスという交通手段を考えますが、便利さと速さを考えれば松山~伊丹の空の便でしょう。新幹線で名古屋経由も一考ですが、私は朝10時からの拘束なので、深夜に大阪に入って前泊し大阪からJRを選びました。中継点は京都府加茂です。加茂からは電化されていないため亀山行きのジーゼルカーに乗って山間の路線を走り4駅目の伊賀上野へ到着しました。乗り継ぎ待ち時間を合わせても2時間弱でしたが、長閑な列車の旅を満喫しました。

(伊賀市役所玄関)

 駅に降りると俳聖松尾芭蕉の出生地を示す看板と、伊賀上野城の遠望が目に飛び込んできます。目的地である市役所まで路線バスで2キロ余り、公園前で下りると藤堂高虎入府400年の幟が至る所に立って歴史の重さを感じさせてくれました。藤堂高虎といえば入府前は愛媛県の今治城を築城しており、その前はわが大洲藩にもゆかりのある武将なので、なにか縁の深さを感じました。

 今回は独立行政法人中小企業基盤整備機構が伊賀市と共催する「中心市街地活性化診断・サポート事業」のアドバイザーとしての役割なので、午前中2時間にわたって現地視察とアドバイス、昼食を挟んで午後は2時間、「中心市街地活性化のための人材育成・イベントづくり」についての講演会、夕方は2時間、現地調査発表と「意見交換会」、そして地元の方々との交流会2時間と、まあ凄い過密スケジュールが組まれていました。ここまで徹底すると話し甲斐があるというものですが、人使いも荒いようです(笑い)

 今回は機構中部支部の森田課長さんやお世話いただく仲野さん、浅井さんも同席して賑やかな顔ぶれでした。私たちは市役所商工観光課伊室さん、長岡さん、株式会社まちづくり伊賀上野の秋葉さんとともに市内中心市街地をさっと見学しましたが、戦災を免れた古い町家は趣きがあっていい街の佇まいでしたが、ここにも中心市街地に忍び寄る暗い影を垣間見ました。

(趣のある間口が狭く奥行きの深い独特の区割りの残る町家)
(古い家の外観を残しながらリフォームが進んでいました)
(リフォームすると和と洋が見事にマッチします)
(町家の格子窓越しに見える印象的に見える上野城)

 
(今回の中心市街地活性化計画の主要事業となる老朽ビルの建て替え現場)

 さて私の話は会場となったウェルサンピア伊賀の3階で、人材育成とイベントづくりに主眼を置いて約2時間、休憩もせず一気に話しました。私の来訪を知って事前に私のブログを一読しmコメントを書き込んでくれた人もいて意識は高いと感じられました。

 講演後の意見交換会では、商工観光課の伊室副参事さんの進行で、私の気がついたことを一問一答お話をさせてもらいました。伊賀市には古い町並みが幾つも残っていて、上野城周辺を含めると歴史的景観に優れています。これらは歴史ゆえに変えてはならないゾーンとしてこのまま振興策を考えればいいと思いますが、市民夏のにぎわいフェスタの会場となる銀座通りは区画整理も終わっていて歩行者天国にもなるような通りですが、ここを新しい集客拠点と位置づけることを考えてみるのも一考です。

 銀座通りを若者たちに魅力あるものにすれば面白いと思いました。手始めは忍者ハットリ君のキャラクターを存分に使ったマンガチックな発想です。鳥取県境港のゲゲゲの鬼太郎や、鳥取県北栄町のコナンのまちづくりなどはそのよい事例で、既に銀座通りには忍者ハットリ君のキャラクターがけつまずくような形で無造作に車止めとして置かれていました。これを人間の目の高さまで上げて強調するのです。そして銀座通りの要所にブロンズ像として配置すればたちまち全国の話題をさらうでしょう。

 伊賀は大阪からも名古屋からも近い場所にあります。近畿圏と東海圏が交錯する場所です。これまではその曖昧さが中途半端な、どっちつかずになっていましたが、考えようによっては凄く好条件で羨ましい限りです。

 私たちの街伊予市でもまちづくり会社郡中が、中心市街地活性化を推進していて、かなり似通った町家などの地位資源を生かしてまちづくりを進めていますが、やはりかなりの苦戦を強いられているようです。さて株式会社まちづくり伊賀上野の存在もこれからキーポイントとなるのでしょうが、団体代表のお任せ集団ではいい成果は上がらないばかりか、原資を食いつぶす結果になりはしないかと心配です。はやくワーキンググループを立ち上げて、資金の入力と出力のバランスを考えないと大変な結果になるような気がしてなりません。

 いつの時代もまちづくりは人です。そのことを忘れないようお励み下さい。もし戦争があらば喜んで助太刀をする覚悟です。

  「行く前に 伊賀は何処かと 尋ねれば 忍者の里と 誰も答える」

  「伊賀と伊予 何処か似ている 高虎が 入府の時に 伊予の文化を」

  「古いもの だけで地域は 生きられぬ いかに智恵だし 新しものを」

  「ふと見れば 足元忍者 ハットリ君 これを生かせば 若者来るよ」


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