shin-1さんの日記

○隣町の花火

 昨夕は娘が子どもを連れてやって来ました。孫朋樹が夏休みになって週末には必ずといってよいほどやって来るので、わが家は週末になるとかなり賑やかです。特にやっと3~4歩歩き始めた孫尚樹はわがまま盛りで、言葉が言えないため、自分の考えを指先とオットセイのような声で知らせようとするのですが、これが母親以外には伝わりにくく、お茶が欲しいのに外へ連れて行ってみたりまるでチグハグナのです。でもすっかり私たち夫婦の顔も覚えてもらい、お疲れモードの娘に代わって少しの子守援助をしているのです。

 昨日は一昨日人間牧場で開いた年輪塾で夜更かしたせいもあって、昼食後1時間ほど午睡を楽しみましたが、夕方騒々しい集団の襲来でわが家のテンションは次第に高まりました。妻は孫たちのためにコロッケと餃子をたっぷり作ろうと計画してジャガイモを茹でタマネギをミンチにしたりしていよいよ仕上げのところになっての来訪だけに、大忙しの夕暮れとなりました。

 それでも娘が加勢し、わが家の家庭菜園で収穫した素材を使って作った餃子もコロッケも凄く美味しくて最高でした。このところの猛暑で家族の食欲は減退気味ですが、こうして気を配った質素ながらも美味しい料理を毎日食べれるのは有り難い事なのです。

 最近は貧乏人ほど安物に手を出して体を壊し、逆に金持ほど少々お金を出しても体にいいものを食べているそうです。昔は健康は貧乏人の代名詞でした。私たちはその最たるもので、イモや煮干し、麦ご飯などを主食として少年時代を過ごしました。質素な食事ですから体に余分なものが入らず、肥満な子どもなど私たちのみの周りの田舎には殆どいませんでした。大人も同様で今みたいに肥え気味な人は殆どいなかったように思うのです。一方都会の人は白いご飯と肉などをたらふく食べ、羨ましくも幸せそうに見えていましたが、色白の半病人的なひとが目だっていたように思うのです。

 ところが日本中が中流になったとはいいながら格差社会で、都会の裕福に比べると田舎の経済的に低いようで、安いものに手を出す機会も多いようで、都会の人の健康にいいものを高くても食べる暮しとは価値観が違っているのです。

 私は田舎に暮らしていますが、肉などは体調を崩してからは殆ど食べなくなりました。塩分・糖分・脂肪分の少ない、しかも家庭菜園で作る野菜を中心にしているし、玄米食を心がけているので、すこぶる体の調子がよく、腹もよく減るし間食を殆どしない食生活に感謝しているのです。


 昨晩は腹減らしに隣町大洲市長浜町の花火を見に出かけました。8時に家を出て8時20分に到着し、知人のお医者さん宅の駐車場に車を止め、商店街を花火の会場となる赤橋まで歩きました。途中顔見知りの人に声をかけたりかけられたりしながら、ライトアップした赤橋のたもとにある河川敷広場に行きました。孫を伴って私たち夫婦3人の花火見物です。広場には屋台が並んでいてかなりの人が川沿いにゴザを敷いて、8時30分からの花火を待っていました。やがて電気が消され、花火のスタートです。川面に浮かべられた2隻の台船からは仕掛け花火が、通行止めになった赤橋からは打ち上げ花火がそれぞれ見事に打ち上げられました。

 長浜は私たちの町に比べると合併したとはいえ大きな町です。花火も数や質ともにスケールが大きく、久しぶりにいい花火を堪能しました。孫朋樹は夜店で発光体で光ものを買ってもらい、そのことが気になって花火などはそっちのけでした。花火は30分余りで終了し、帰途に付きましたが交通混雑もなく家路を急ぎましたが、孫朋樹は車の中で眠ってしまいました。

 現職の頃は忙しくて他の町の花火など見る時間的余裕や心の余裕もなく働いていました。妻は他の人のように夫婦で花火を見るのが夢だったそうで、今はその夢が叶って嬉しそうでした。

  「手づくりの 餃子コロッケ 食べられる これを至福と いうのでしょうか」

  「安ければ 良かった時代 過ぎ去って 今は体に いいもの食べる」

  「二人して 花火見学 夢だった 妻夢叶い 孫と三人」

  「金の量 これで決まりの 花火かな 俺の町など 質素なものよ」 


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shin-1さんの日記

○社会教育主事講習

 もう30年近くも前の夏、私は社会教育主事の講習を受けるため香川大学に一ヶ月間通いました。通ったといっても当時は高速道路などない時代だったので、愛媛県内から出かけた人たちと安いホテルに一ヶ月間滞在し、そこから毎朝大学に通いました。高校しか出ていない私にとって大学での受講は始めてで、少し緊張気味で受講したことを覚えています。その年は全国的に異常渇水で、特にこれといった川のない香川県では生活水がそこをつき、高松砂漠と悪評を叩かれるほどでした。渇水で干上がった満濃池で死体が上がり、満濃池殺人事件などとまるで火曜サスペンスのような話も話題になりました。

 しかし私にとってこの一ヶ月間は家庭を離れふるさとを離れ、職場をも離れる寂しさはあっても自由を謳歌できる喜びでとてもいい経験をしたものです。あの時一緒に受講した県内の友人たちの殆どは既にリタイアし、時の流れの早さをしみじみと感じるのです。

 社会教育主事講習は四国4県の大学が持ち回りで行いまるでオリンピックのように4年に一度愛媛県に担当が回ってくるのです。今年も今週から愛媛大学で講習会が約1ヶ月に渡って始まりました。二ヶ月前に大学から講義依頼がありました。私の担当は生涯学習概論の社会教育主事の役割です。私に与えられた時間は4時間ですが、実際には休憩を挟むので実労時間は少し減るようですが、それでも4時間弱は話す方も聞く方もかなりハードな講義です。

 私はレジメが嫌いなたちで、普通はレジ目を用意しないのです。それでも大学から再三のレジメ提出要請に負けてレジメを提出しました。しかしそのことをすっかり忘れ、また自分が手持ちしている資料をすっかり忘れて行き多少慌てましたが、少し早めに大学へ到着していたので車内でメモを用意して望みました。

 会場は教育学部の教棟で冷房のよく効いた部屋が用意されていました。送られていた資料を忘れたため右往左往していると県の生涯学習課長さんとばったり出会い、わざわざ控え室まで連れて行っていただきました。大学の先生たちとも面談しいよいよ講義が始まりましたが、会場には知り人が沢山いて、面映い感じもしましたがすんなりと話を始めました。

 前段を私の人生を変えた社会教育を巡る出来事、中断を社会教育を巡る時代を読む、後段を社会教育主事の役割くらいな感じで話しました。特に前段は少し力を入れて話しましたが中身は概ね以下の通りでした。

 ①青年団8年間の活動(仲間・主張・ふるさと・感動という四つの道具)(インリーダーとアウトリーダー)

 ②公民館・社会教育13年(日本一の公民館主事を目指す・県公連主事部会長として)

 ③私設公民館設置34年(青年の溜まり場・21世紀えひめニューフロンティアグループの活動・フロンティア塾)

 ④町の広報10年間で240号発行(書く・記録を残す)

 ⑤結婚披露宴司会537組の偉業(司会術・アイディア・プロデュース術・暮らしを守る生活改善運動)

 ⑥人づくり10年計画(日本一体験国内研修事業―後の人づくり10年計画を産む)

 ⑦町名変更問題(地方自治とは何か)

 ⑧青年の船(地図の真ん中に日本がない世界地図)

 ⑨夕日によるまちづくり

 ⑩人間牧場構想の実現

 まあ車の中で僅か10分で考えたストーリーにせよ、自分らしい話だったと納得しながら話しを終りました。結局用意し、大学がコピー配布してくれたレジメは最後まで使うこともなく、また用意したスライドショーをする間もなく終ったことを終った今多少後悔しているのです。

  「租借して 生かして欲しい 願いつつ 生き様語り お茶を濁して」

  「若き頃 どんな気持ちで 聞いたのか 攻守逆転 今は講師で」

  「資料なく 慌てたものの 4時間も アドリブ話す 良いか悪いか」

  「昨夕は 交流会が あったよう でも眠らずに 瞳輝き」 


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shin-1さんの日記

○宮本常一生誕101年の集い・年輪塾

 人間牧場が開設されて3年が経ちました。その間名前の奇抜さや好奇心もあって多くの人が人間牧場に訪ねて来ていますが、愛媛新聞に人間牧場が紹介されて間もなく一人の男が人間牧場への入塾申請書を持参して人間牧場へやって来ました。彼は旅客船会社のに務めていて、その仕事柄双海の夕日の写真をパンフレットに使いたいので借用したいと、申し出があって以来、営業の途中で立ち寄ってくれたりしながら、自分のルーツが双海町と深いつながりがある事を打ち明けたりして旧交を温めていました。そんな細くも長い付き合いもあったので、いずれは考えたいと思ってはいたものの、塾を開く時間的余裕もなく3年が過ぎました。しかし何人かの入塾希望者がいて、余り自信もないまま年輪塾の看板を揚げる事になったのです。故事来歴まではいかなくてもそんな経過があるものですから、塾開講の折には彼を塾生第1号にしようと決めていました。やがて日々の仕事が忙しく準備も整わぬまま、昨日はとりあえず私を含めた10人で第1回の年輪塾を始めました。


 というのも、昨日は8月1日です。年輪塾が目指す志の中に民俗学者宮本常一の生き方があるので、急遽宮本常一生誕の日である、しかも生誕101年目のこの日を選んで開塾となったのです。普通開塾は塾長や塾長がその想いを塾訓や塾是として詳しく述べるのでしょうが、そんな用意も未だ出来てなく、第一回の講師を事もあろうか外部講師でなく、塾生第1号の浜田久男さんにお願いしました。浜田さんはご存知の人は少なかろうと思いますが、宮本常一の研究家です。宮本常一の本を何冊も読んで、既に宮本常一の足跡を訪ねる旅にも出かけ、関係者と旧交を温めながらかなり詳しい資料を収集し、また宮本常一につながる人たちをかなり多く知っているのです。

 塾頭の清水さんや塾生の松本さんと相談をしながら開講の準備をしました。と同時に浜田さんに持ち時間は1時間という約束で講義の準備をお願いしました。彼にとっては宮本常一を人前で講義するのは初めてのようでしたが、僅か10日余りの間に身辺にある宮本常一の関係蔵書を人数分コピーしたり資料を作成したりと、忙しい仕事の合間を縫って準備をしていました。その様子は私に入るメールで気負いと負い目として読み取ることが出来ました。

 昨日は社会教育主事養成講習の講義を頼まれて、午前中愛媛大学に行っていたので、伯父の病院見舞い予定もあって、県立中央病院のロビーで待ち合わせる事にしました。用件が早く済んだので午後1時に病院へ入りましたが、彼は既に何やら重い荷物を持ってロビーの椅子に座って私を待っていました。見舞いを終らせるからと断りを入れてエレベーターを使わず5階西病棟に駆け上がり、病室での見舞いとなりました。伯父は片目にガーゼを張られ、少し弱々しく感じられましたが予想以上に元気で、少し話しておいとまをしました。

 ロビーにいる浜田さんに、「荷物が多いようなので車を駐車場から出しますので、玄関先へ移動して下さい」と促し、注射料金150円を支払って玄関先に車を止め、トランクを開けて荷物を積み込みました。「浜田さん海外旅行にでも行くような凄いお荷物ですね」と皮肉るほどの沢山の荷物はどうやら本らしく、その重さが伝わってきました。世間話をしつつとりあえず我が家へ案内しました。滅多にかけない客間の冷房をかけ、二人で雑談しながら昼下がりの時間を過ごしましたが、やがて浜田さんはやわら本と資料を取り出し、塾長である私への事前講義が始まろうとしていました。私はその様子を察して丁重にお断りをし、夜の飲み会用として、畑へトウモロコシを取りに行き、皮を剥いで茹で始めました。そのうち妻が仕事先から帰り、寸暇を惜しんで肉や野菜の準備をしてくれました。やがて4時になったので二人で人間牧場へ出かけました。到着した牧場の暑さは相当ながら、二人で掃除機をかけたり周辺の草引きをしたり、汗をかきながら労働をしました。浜田さんはランニング姿になって塾生らしくかいがいしく働きましたが、これまで酒を飲んだ勢いで草刈りをすると言った仲間は誰一人働いていませんが、草を引いてくれたのは、少年少女おもしろ教室のスタッフ以外は浜田さん以外にはなく感謝の気持ちでいっぱいです。

 午後6時の待ち合わせに間に合ったのは浜田さんの同級生池内さんと松本さん、米湊さん、高知県四万十市から参加の和田さんでした。清水さんとセンターの武智さん、それに大河内さんは三十分以上遅れての到着、兼頭にいたっては2度も来ている場所なのに40分間も山中で迷ってのたどり着きとなりました。とりあえず夕日が絶妙なタイミングで美しく見えたため、夕やけ鑑賞会をして、約1時間弱遅れの開講となりました。

 浜田さんは用意した資料を私が落伍高座に使っている魚梁瀬杉の切り株の上に並べ講話をし始めました。この日の講義内容は宮本常一の愛媛県の足跡をたどることと宮本常一の生い立ちに焦点が当てられました。少し汗をかいていた口調も次第に滑らかになって、極めて順調な、失礼ながら予想以上の話で、第一回目の重責を見事に果してくれました。さすが宮本常一の追っかけだけのことはあります。

 気が付けば私は朝が早かったため朝は牛乳一本でした。昼は浜田さんとの出会いで昼飯を食いっぱくれていました。腹が減るはずです。交流会はホッとプレートでの焼肉となり、大河内さんがいなり寿司を沢山用意して持参していたので、しっかり5個も食べてしまいました。いやあ美味かったです。私は焼肉は余り得意ではないので、もっぱら野菜を食べました、飲むほどに酔うほどに話は盛り上がり、私と浜田さんと高知の和田さんが人間牧場水平線の家で泊まりました。午前1時ころまで飲みながら話し込みましが、私は少し疲れていてついウトウトし、4時に起床、朝焼けの海を見ながら物思いにふけり、起きてきた浜田さんと起した和田さんと3人で昨日の余韻を片付け、人間牧場を後にしました。今日は仕事という浜田さんを伊予市まで送り、年輪塾は一応終りました。

 追伸

   止む無く欠席した馬路村の木下さんからスーパーごっくんとポン酢が届き、おすそ分けして持ち帰りました。

  「常一を 語る準備で 揃え本 凄い研究 一目瞭然」

  「人前で 思いを語る 難しさ 汗をかきつつ 必死になって」

  「人は皆 経験積んで 強くなる 失敗だって する方がいい」

  「夜を徹し 酒を飲みつつ 夢語る 見上げた空に 天の川あり」

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shin-1さんの日記

○これからの生き方を探る

 昨日は西予市にある愛媛県歴史文化博物館へ出かけました。県が威信をかけて造ったものだけに、施設は立派で金余り時代の遺物のようにも見えました。私も何度か企画展示と常設展示を見に出かけましたが、その度に施設や展示の素晴らしさに驚いたものです。しかし県の財政が逼迫し始めると博物館や美術館といったある意味での贅沢施設は矢面に立たされ、その管理運営の在り方が問われているのです。折から起こった指定管理者制度によって、この施設も見直しが迫られ、間もなく管理運営に手を挙げた会社が決まるのだそうです。

 日本の文化の、いや愛媛県の文化の薄っぺらさを露呈するような今回の見直しには、いささか疑問が残ります。というのも文化や教育施設、それに福祉施設などは損益や効果効率という物差しには馴染まないのです。世の中は今というテーマで考えると損か得か、好きか嫌いかで判断します。しかし長い目で見ると善か悪課の判断になって、この施設の果たす役割が見えてくるのです。確かに民間に管理委託をさせた方がいい場合もあります。行政のぬるま湯的発想では限界が来ているのかもしれません。でも博物館の命である展示による県民への文化的メッセージは、県の使命でもあるのですから、学芸員の数を減らして学術研究や展示を縮小することは何としても避けねばならないのです。

 科学博物館や歴史博物館を地方に分散設置したことは悪いことではありません。でも県都松山市に設置した美術館があれ程の善戦をしていることを思うと、やはり人の数をある程度計算できる場所に設置しないと経営が成り立たないことも分りました。歴史博物館を目の当たりにして、これほど素晴らしい施設ですから、必ず生き返らせ守っていって欲しいと思いました。

 さて昨日は歴史博物館が開いている南予コミュニティカレッジの特別コース、暮しの安心・安全講座に講師として招かれました。参加者は平均年齢65歳という私とほぼ同じ世代の20人程度でしたが、「これからの生き方を探る」というテーマで2時間ばかり話しをさせてもらいました。

 人間は過去と今と未来という大まかに分けると三つの時代を生き、これからも生きようとしています。自分が過去にどんな生き方をしてきたのかという過去認識、自分は今どんな状態に置かれているのかという現状認識、そしてこれからどんな目標を持ってどう生きようとしているのかという未来認識についてまず話しました。この認識作業が実は大切で、自分という分っていそうで分らない人間を見つけなければ生き方を探ることはできないのです。そのため生活設計という手法で自分を横軸で考えてもらいました。そしてその横軸を覆う社会の変化や家族の変化などを織り交ぜながら考えてもらいました。

 結局自分が何がしたいのか、何が出来るのかということに答える自分を発見しなければ、これからの生き方を探ることは出来ないのです。つまりこれからな生き方は自分探しなのです。

 幸せなkとに私は人間牧場という手法を通して自分の自分探しだけでなく自分以外の人の自分探しのお手伝いをしながら、他人から受ける感化によってさらなる自分探しをしているのです。お陰様で人間牧場が完成してから三年間で随分その成果が出て、幸福度がアップし少しでずつですが進化しているように思うのです。幸福度と進化度は人間にとって大切な生きがいの根源なのです。

 話が終って帰り際、短い時間の立ち話ながら何人かの参加者と感想も含めた対話をしました。一様にそれなりの自分探しをして、良くも悪くも自分を見つめて生きている人たちなので、意見も前向きで積極的でした。やはりその根源はこの暑い中を学ぼうとする意欲を持って参加したエネルギーにあるようです。人間は学ばなければ退化します。少しでも進化するよう私も頑張りたいと思いました。

  「博物館 人の気配も 落ち気味か 管理者制度 どこか気になる」

  「これからの 人生強く 生きるため 学ぶ人あり 自分を探す」

  「いい話 聞いたといって 去る女 握手求めた 温もり今も」

  「人様に 話するよな ことじゃない だけども俺は しっかり生きる」


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shin-1さんの日記

○住民自治に関する校区別学習会

 昨夕住民自治に関する校区別学習会に参加しました。役所を辞めた後地元灘町区の自治会長を2年間務め、その区長も一昨年に辞職しているのに私の元へ案内状が届いたのです。丁度別の用件への出席を予定していたため、欠席の旨を知らせようと、市役所支所が近いので連絡に行きました。ところがこの日は都合の悪い人が多く、延期になったというのです。次の予定日、つまり昨夜も出張先が遠いため戻れないと思っていたので、その旨も伝えましたが、そこを何とかといわれ、やりくりをして帰って来ました。そもそも私が何故呼ばれたのかの真偽も、「住民自治については詳しいので」としか伝えられませんでした。

 確かに担当者が言う通り住民自治は私たち市民にとっては今後のことを思うと大切なテーマであるは間違いのない事実です。問題は合併によって緊張の糸が切れた住民と市役所の関係修復から始めないと中々住民の盛り上がりは期待できないようです。

 昨日の学習会は学習会というよりは説明会に終始しました。出席人数も今一で、特にこの問題を担当すべきと思われる自治会長さんや公民館長さんすら欠席している人もいるのですから、私のような役職ではなく一市民として参加した者にとっては集まらないのか集めれないのかという疑問が少々感じられ、前途多難を思わせました。

 学習会は説明が殆どで質問しようにも分らない人も多かったようですが、私は敢えて質問しました。かつて役所の同僚だった人たちなので黙っている方が彼らにとっては礼儀かも知れませんが、「いい町をつくりたい」「町をいい方向に導きたい」という想いは一緒なので勇気を出しました。

 私の質問は2点です。まず説明の中で財政が厳しいという説明から始まりました。北海道夕張市の財政破綻が報じられて以来、日本全国の自治体の財政事情の厳しさは目を覆うばかりですが、財政事情が悪いから住民自治をという論法はどうも納得行きません。合併して3年余りが経ちました。色々な問題を抱えながらの合併だけに市政の運営は予想以上に厳しいものであることは察して余りあります。しかし市政運営のツケを市民に言われたって困るのです。一般市民はこの3年間、合併によって暮しがよくなると信じていたのです。というのも合併は暮しがよくなると説明を受けていたからです。行政は住民の不安を取り除かなければならないのに、不安をあおるような説明は少し考えた方がいいのかもしれないと思ったからです。

 もう一つの質問は、住民自治組織を作る手法です。まあ第一回目ですから仕方がないのでしょうが、上灘地区のデーターを基に話さないと都会で行っている犬猫テーマの話ではピンと来ないのです。地区住民の置かれている暮しの事情をもっと土台にすえた話しをしないと私のような一般市民は中々理解できないと思いました。

 市役所の言いなりにはならないというわがままな市民が多いため、最初からストーリーやスケジュールを見せることをあえてしなかった担当者の苦渋を思うと、もう少し市民主体という手法に軸足を置いて進めた方がいいような気がします。多分「意見を反映して」と理由を付け次にはそうするのでしょうが、他の事例を参考にし過ぎるとせっかくつくろうとしている自治組織がオンリーワンにはなりにくいのではないかと思うのです。双海町には自治公民館や自治会組織がこれまでの長い努力によって培われています。それらを地域個性として生かしてゆかなければいいものはできないのです。

 余り深入りすると巻き込まれそうなので、この辺にて質問をごまかし帰ってきました。まあ自分たちの住んでる町ですから他の地域に負けないようにみんなで智恵を出し合い、自治組織を作って行きましょう。

  「金がない だから自治だと いわれても それとこれとは 話が違う」

  「このままで ほっておいたら 駄目になる それなら分る つくろう自治を」

  「何となく 燃焼できず 終わる会 やろうと意欲 掻きたて欲しい」

  「本当は 黙って帰る はずだった でもこのままじゃ いけない思い」

 

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shin-1さんの日記

○地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の準備整う

 7月26日、えひめ地域政策研究センターから一通の書籍小包が送られてきました。封筒の左隅が切ってあり、切手は240円分が貼っていました。心待ちに待っていた手紙だけに早速封を切り中の冊子を取り出しました。表紙や中身からから受ける第一印象は愛媛らしさを表現したオレンジ色です。付け書には事務局の谷本さんの走り書きが添えられいましたが、この一年何度も実行委員会などの集会を重ねながら、この募集要項の作成に努力してきた谷本さんはじめ多くの方々の下積みな努力に感謝しながらページをめくりました。


 今年の11月14日と15日の両日、愛媛県で第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会が宇和島を中心に開催される予定です。「きなはいや伊予の国~広げよう地域づくりの輪~」が大会のキャッチフレーズですが、分科会会場は愛媛県下15会場という大きな大会なのです。既に昨年の秋実行委員会が組織され、はからずも私が実行委員長の重責を任されているのですが、実行委員長は一種の飾りであり、やはりこうした大会の切り盛りは事務局の根回しや企画力が大きく左右するものです。事務局はえひめ地域政策研究センターに置かれ、栗田所長さんや小方主任研究員と谷本研究員がタッグを組む強力布陣です。県庁市町振興課の北村課長さんも副委員長としてメンバーに加わるなど全面協力で成功・盛会を期そうとしています。

 さて、このパンフレットはこれから全国に発送され、地域づくり団体に所属する人たちの元へ届くのでしょうが、若しパンフレットが届かない私のブログを読まれている方には、希望すればご案内や説明をいたしますので、下記宛ご連絡下さい。

  愛媛大会事務局  財えひめ地域政策研究センター まちづくり活動部門

              〒790-0003 愛媛県松山市三番町4丁目10番地1

              TEL089-932-7750 E-mail:taikai@ecpr.or.jp

  実行委員長     若松進一

              〒799-3204 愛媛県伊予市双海町上灘甲5391-2

              TEL089-986-1301 E-mail:wakamatsu@yuuhi.jp


さて、愛媛県で開かれる予定の地域づくり団体全国研修交流会に来たいと思うあなたに実行委員長お勧めの参加方法を伝授します。まず基本的には折角愛媛県へ来るのですから、見たい場所や訪ねたい場所から検索する方法と大会の目的に沿って分科会のテーマの中で興味ありそうな会場から検索する方法の2種類があります。私はこれまで沖縄大会と茨城大会に参加しましたが、沖縄大会は石垣島に行きたいという思いで検索し、前回は分科会のテーマ「子どものためのまちづくり」でひたちなか市を選びました。いずれも正解で多くのことを学んで帰りました。

 「折角四国へ行くのだからついでに四国四県を回ろう」なんて甘い考えは捨てた方がいいような気がします。というのも四国は小さな島という印象が強いようですが、どうして松山から公共交通機関を利用して高知・徳島・香川へ行くのには少なくても一泊二日以上の旅プランが必要なのです。

 飛行機で松山入りするか、新幹線と列車を乗り継いで松山入りするかによっても随分と見所が違います。まあ一番いいプランを立てるには、若松進一さん(私のこと)のように、全国を歩き慣れた人間の助言を求めることをお勧めいたします。ただし私は公平公正を貫かなければならない実行委員長という立場なので、分科会のお勧めは相談には乗るものの原則としていたしませんので悪しからずご了承下さい。

 ちなみに11月のこの時期は愛媛では特産のみかんが山をオレンジ色に染めますし、海も空も青い国四国といわれるように澄みきっています。

 最近「愛媛では蛇口からみかんジュースが出るって本当ですか?」という問い合わせが私のメールに入ってきます。全体会の会場では本当にみかんジュースを蛇口から飲めるのです。このアイディアを検証するだけでも面白く、ましてや愛媛の特徴ある地域づくりを志す団体やリーダーと交流できるのですから、楽しみにお越し下さい。待ってます。

  「蛇口から みかんジュースが 出るという? 嘘か誠か 来なきゃ分らん」

  「きなはいや 土地の言葉で ラブコール 酒・食・人情 てんこ盛りだよ」

  「宇和島は 十万石の 城下町 みかんと真珠 日本一です」

  「ハラハラし ドキドキしつつ 最後には ジーンと来るよ 愛媛においで」

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shin-1さんの日記

○相次いで美味い物が届くわが家

 油が高くなったと嘆くのは全国一斉にストライキをした漁師さんだけではなく、わが町のお百姓さんだってみかんをハウスで作っているので、かなりしんどいようで、高齢化や跡継ぎ不足なのどに悩む農家では原油高が追い討ちをかけて、一気に農業離れが進むのではないかと心配されています。雨が降り過ぎると実った作物が美味しくないし、雨が降らないと木が枯れるし、豊作だと咲くもちの値段が安いし、不作だとお金が取れないしと、いつの時代も第一次産業というのは貧乏くじを引かされる運命にあるのかも知れません。ゆえに農家や漁家の親は勉強をして都会を目指せと向都離村の教育をするのです。

 少しでも農家のそんな窮状を助けようと、この時期としては珍しいハウスみかんを農家に分けてもらい、先日妻の手で全国の友人に発送しました。秋には漁師さんから煮干しを分けてもらいこれまた全国の友人に発送するのですが、リタイア年金暮らしの身ではいつまで続くかこれも心配なのです。

 さて友人から「みかんが届いた。美味しかった。また頼む」などと嬉しいメールや電話や便りが届くのですが、そんなつもりで送ったのではないのに、そこそこの土地から美味しいものが届くのです。

 島根隠岐西ノ島町の角市さんからは見事なアワビとサザエが届きました。北海道鵡川町の菅原さんからはメロンです。また高知県春野の乾さんからは珍しいフルーツトマト、高知県四万十市西土佐の和田さんと高知県馬路村の木下からは送りもしないのにそれぞれウナギとスーパーごっくん馬路村が届きました。送られて来た物は毎年楽しみにしている子どもや孫に殆ど全てを食べ尽くされ、私たち夫婦はほんの少しの味見程度なのです。それでも美味しいといわれる度に友人の名前や住んでいる所、その人の想いで話しを子どもや孫に聞かせてやるのです。

 春野の乾さんから届いたトマトは今まで食べたことがないような小ぶりで鮮やかに赤い甘いトマトでした。そのトマトが届いた頃からわが家の家庭菜園でもミニトマトが出来始めました。乾さんにいただいたような甘さはありませんが、それでも樹上で完熟させた真赤なミニトマトは毎日食卓に上り、夫婦はトマトで生きているというくらい食べているのです。今年はブルーベリー園を営む西岡さんのお陰でブルーベリーも沢山食べて、暑くてたまりませんが贅沢な夏なのです。

 去年もミニトマトは豊作でした。丸い品種から見たこともない長い品種に変えたための豊作だったと、トマトの品種名も分らず、妻と二人で苗屋に出かけ、口頭でドングリのようなトマトとお話したら、今日入荷しただけだともったいぶられ、トマトの苗を5本も買い求めました。最初は太りが悪く、丸いトマトに負けていましたが、その後ぐんぐん成長して、今では脇芽が沢山出て、鈴なりの状態です。トマトは普通脇芽をかいで育てますが、ミニトマトは脇芽にも沢山実を付けるので放任の状態でも十分なのです。最初は3日くらい置かねば収穫できなかったトマトですが、今は2日おきに収穫します。収穫したトマトは水荒らして小袋に分けて冷蔵庫に入れ、冷して食卓に並べられます。この品種は果肉が厚いのが特長で、丸いミニトマトのように表面が割れることも殆どなく、製品率は99%ですから凄く重宝です。

 トマトにどんな栄養や効能があるのか余り知りませんが、わが家では無農薬で安全保証付きです。大好物である完熟のトマトを好きなだけ毎日食べれる幸せは、やはり田舎暮らしの特権だと、都会の人に見せびらかし自慢したくてブログで紹介しているのです。

 まるで太陽の生まれ変わりのようなトマトは真赤な色をしています。地中の何処にそんな色の源があるのでしょうか。神秘的だと思えば思うほどトマトの収穫が楽しみなのです。

 明日からいよいよ8月です。暑中お見舞いがやがて残暑お見舞いに変わるころまでわが家の食卓はトマトが居場所を誇示してくれそうです。

  「菜園で 真赤に熟れた ミニトマト 食卓いつも 賑わせてくれ」

  「この赤は 土の何処から できるのか 野暮な考え 頭を巡る」

  「なくなった トマト送れと 催促が 孫も子どもも トマト大好き」

  「全国の 仲間に送る 送られる 思い出しつつ 相伴あずかり」

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shin-1さんの日記

○息子娘のいなくなった部屋

 現在わが家には応接間と座敷を除けただけでも空き部屋が4つあります。住宅事情の悪い日本では考えられないようなことですが、数年前まで4人の子どもたちがそれぞれ一つずつ部屋を占拠していたのです。そのうち娘が助産婦という仕事柄下宿して家を出、結婚して多分永久に帰らない部屋となっているのです。2階には座敷を入れると4つの部屋がありますが、建築の仕事をしている長男も、看護師をしている次男も、警察官をしている三男もそれぞれ家を出て行きました。時々帰るため部屋はそのままで、まるで抜け殻のようになっているのです。多分次男も三男ももうこの家に帰ることはないであろうと思う時、あの賑やかだった子ども時代が懐かしく思い出されるのです。私の方針で子どもたちは4人とも県内に就職していますが、長女は夫の仕事の都合や先方親との都合でどういう道を選ぶかまだ不明な所があります。でも長男夫婦が近々わが家へ帰る気持ちになっていること以外は不明だし、確実に3人の子どもたちはこの家に住むこともないようです。

 この週末息子と娘の家族が双海の夏祭りを見るため帰って来ると連絡がありました。暑い時期ゆえ大変だと思いつつ、寝部屋を確保するため三男の部屋を掃除する事にしました。男の子の部屋らしく調度品は殆どなく、本やビデオ、パソコン類などが殆どで、昨晩三男に妻が電話を入れて何処へ片付けたらいいか相談したところ、別に要らないから処分するように言われたそうです。はてさてパソコンの本体などは既に自分の居場所に移動しているのですが、それ以外のものは処分しようにもまったく分らないのです。

 三男の部屋を片付けていて再利用できそうなものがいくつか見つかりました。CDのデッキです。わたしのCDは故障して使えないのでお遊びで使ってみたいと思っています。また三男が体力づくりに愛用していた鉄アレーは、母校である松山工業高校の機械科時代に自分が製作したものなので大事に使ってやりたいものです。整理をしていて処分しそうになったものに、三男の危険物取り扱いや、ガス溶接などの資格免許証がありました。多分居間の職場では無用の長物と思って置いて行ったのでしょうが、発見できて良かったと思いました。後は処分の対象物でゴミ袋に入れてごみに出します。

 4人の子どもの思い出は切りがないほどあります。みんな同じように産んで同じように育てたつもりでもそれぞれ個性が違うし、進むべき道も随分違っているのです。娘は助産婦という職業を選び今もお産と養育で産休していますが、やがて復職する予定です。子ども二人にも恵まれ松山市で今のところは幸せに暮らしています。長男は設計の仕事をしています。結婚し子どもも生まれまあ何とかやっています。次男は適齢期を過ぎつつあるのにまだ結婚の兆しもなく、看護師として三交代の忙しい病院勤めをしています。趣味の演劇も辞めざるを得なくなりました。極楽とんぼの末っ子は警察官として県内で働き、今は寮に入って暮らしています。

 まあそれぞれの生き道を探し当てているので心配はしないのですが、わが家に帰る回数も段々遠のき、妻は寂しいと漏らしています。4人が言い争った兄弟喧嘩も遠い昔の出来事になりつつあります。それだけ私たち夫婦も歳をとったのでしょうが、親とはいささか寂しいものだと、息子の部屋を掃除しながら思った昼下がりでした。

  「家を出て 早幾月か 過ぎたけど いつかは帰る その日のために」

  「ああこれも 手に取り思う 過ぎし日々 今頃何処で 何をしてるか」

  「鉄アレー 手に取り力 出すけれど 十回までが 限界のよう」

  「この家は 夫婦二人の 住処にて 息子の帰り 住む日を待ちつ」


 

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shin-1さんの日記

○親父の気弱り

 このところ腰の具合と歯の調子が悪い以外は体の不調を訴えていなかった親父が、毎日35度を越す猛暑に参ったのか、少し気弱になってきました。今朝6時に親父の隠居へ朝のあいさつと腰にサロンパスを張りに出かけたのですが、呼んでも部屋の中から返事が返らず、散歩にでも行っているのかと思い、20分ほど過ぎて部屋に行って見ると布団の七課に臥せっていました。聞けば暑いため昨晩は気分が優れず余り眠れなかったというのです。今朝は日課にしている朝の散歩にも出ず布団の中で過ごしていました。それでも私の声を聞いて安心したのかやわら起き上がりサロンパスを腰に貼って一時話をしました。

 親父の隠居は一戸建てで2DKとでもいうのでしょうか、座敷と寝室兼居間とダイニングキッチンの三部屋があります。周りには窓も沢山あって戸を開けていれば風が通って涼しいのですが、夕方4時ごろから6時頃までは夕凪とでもいうのでしょうか無風になって暑く感じるのです。今年は梅雨が早く明けた分暑い日が続いて、雨らしい雨は殆ど降らず、このままだと自分で育てている家庭菜園の野菜類も枯れてしまうという思いも、親父の気弱さの原因のようですが、言葉で勢をつける以外にないので、頑張るように話しました。

 このところ親父の体が縮んだように見えることがあります。まあ後一ヶ月もすれば90歳になるのですから、当然といえば当然かも知れませんが、縮んだ親父を見ながら27年後の自分の姿をを見ているようで、何処となく複雑な心境になるのです。親父は若い頃大病を患いましたがその病気を克服しての長命ですから自分ではいつ死んでも納得していると口ではいいますが、ぜも人間は生きれるだけ生きていたいのは当然の願望なのです。私にとっても親父はかけがえのない人間だけに、出来るだけ長生きして欲しいと思っているのです。

 最近親父より年下の友人知人が亡くなったり、自分の弟が亡くなったりする度に、盆が越せない、正月が越せないと、自分の寿命が少なくなったことを気にして、弱音を吐くようになりました。また知人友人が特別養護老人ホームに入ったのを聞けば、「わしは老人ホームだけには行きたくない」と予防線を張り、「この家の畳の上で死にたい」というのです。その都度「じいちゃん、心配せんでもいい」と話すのですが、そのことも気がかりのようです。まあこの歳になるまで自分のことは自分で出来たのですからもう十分なのです。

 本当はもうここらで私も本当の意味でのリタイアをして、親父の話し相手や相談相手になって穏やかな日々の暮しをさせてやりたいのですが、セミリタイアの私には、もう少し社会のお役にもたたなければなりません。幸いわが家では親父と妻の親子関係も良好で、母が死んでから10年近くになりますが、毎日夕食は親父の体を気遣って体にいいものを手づくりして食べさせてくれています。また私の子どもたちも孫たちも来れば必ず大じいちゃんといって隠居へ立ち寄って話しをしますし、近所には娘や兄弟が住んでいて時折訪ねてきてくれるのです。特に私の姉は毎日のようにおかずなどを持ってやって来ます。

 「後10年は生きて欲しい」と今朝も話しましたが、「10年なんて生きれるはずがない」と返事が帰って来ました。

「自分が子どもにしてもらいたいことを親にしてあげる」、そんなささやかなことしか出来ませんが、私のルーツだけにこれからも長生きして欲しいと思っています。

  「もう駄目と 諦め続け 四十年 生きているから あと十年は」

  「このところ 親父の背丈 縮んだが どうにか元気 百歳目指せ」

  「二十年 先に私は こうなると 親父の姿 自分ダブらせ」

  「冷房は 嫌だぞ俺は 扇風機 そのくせ夏は 暑くかなわん」 

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shin-1さんの日記

○青春へのメッセージ

 県内にどれ程の数の高校があるのか知りませんが、縁あってこれまで県立高校の殆どへお話に行っているのです。高校生になると小学生や中学生と違って大人の言葉が通じるため、話す方は楽なのですが、その分自己主張が強く、面白くない話しをすると眠りこけたり、私語を話すなどもろに拒否行動を起されるので油断は出来ません。今日は昨年に引き続き鬼北町にある北宇和高校へ出かけました。この学校は毎年夏になると特訓セミナーのような形で3日間学習会が行われており、やる気を起させるために私が特別講師になって話すのです。「学力向上トライアル」と呼んでいますが、私は毎年この集会に招かれ、「青春へのメッセージ」と題して約1時間話すのです。

 北辰館という講堂に集まった学生は普通科2年生37名です。彼らを前にしてふと46年前を思い出しました。私は宇和島市にある愛媛県立宇和島水産高校に在籍していました。窓からは背後に鬼ヶ城という山が聳えていましたが、北辰館からも青い夏空に白い入道雲と一緒にくっきりと鬼ヶ城の山並みが見えました。宇和島湾から見る鬼ヶ城も北辰館から見る鬼ヶ城も同じ山なのに見る場所によって全く異なった山に見えるのです。これを世界地図に例えて話しました。

 私がジョン万次郎に憧れて、青年の船の班長としてアメリカへ渡った時、サンフランシスコの博物館で一枚の世界地図を見ました。その世界地図には日頃日本で見ているように日本が真ん中になかったのです。私はその世界地図を長い時間不思議そうに見つめていると、学芸員の方が英語で質問してきました。残念ながら私には英語の質問を理解できませんでしたが、彼は片言の日本語で「この世界地図の何処が可笑しいのか」と訪ねたのです。「世界地図の真ん中に日本がないのです」と話すと彼は、「あなたはすばらしい発見をした」と褒めてくれました。私にとってこの旅ほどカルチャーショックを得たことは他に例がなく、そのことを人間のものの見方に置き換え、多くの人に話したものです。今日も鬼ヶ城という山の見方と世界地図の見方を同じだと説明し、自分を見失わないようにと話しました。

 さて人間は様々な夢を持って生きています。他の動物と人間の違いは夢を持ち、夢を手に入れるために努力することなのです。しかしその夢も努力が足りないと見果てぬ夢に終ってしまう事だってあるのです。私だって夕日という何処にでもありふれたものに憧れ、雄飛を売る出そうと考えました。しかし100人中99人の人が反対するようなものを手に入れることは殆ど不可能に近いのです。でも私は諦めませんでした。その結果20年という長い年月はかかりましたが、やっと日本でも指折りの夕日の町になったのです。

 運命と宿命の話もそれとはなしにお話しました。人間は生まれながらにして自分の才能が決まっているように思いがちです。でも決してそうではなく、諦めていたものの殆どは自分が努力しなかった結果であることも気がつかなければなりません。宿命と諦めることなく少しずつ努力すれば運命は必ずや開かれてくるのです。

 高校生に話しをする機会が多くなり、今時の高校生について色々な書物を読んだり、話す機会が増えてきました。幸いな事にかつてPTA会長を6年間もやった松山工業高校の学校評議員もしていて、先生たちから色々な話を聞く機会に恵まれています。

 高校生に話した「青春へのメッセージ」は果して届いたでしょうか。

  「往復で 百五十キロの 道程を やる気触発 出来たかどうか」

  「校長の 指差す先に 鬼ヶ城 北から見れば こんな姿で」

  「トライアル 夏の暑さを ものとせず 若者たちの 熱気伝わる」

  「あちこちに 高速道路の 工事あり 道路特定 財源いずこ」  

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