shin-1さんの日記

○人間牧場へ相次いでお客様

 夕焼けコンサートの日は、夕焼けコンサートに来る目的の人が、折角だから人間牧場へ来たいと来訪者が相次ぎ、午前二組、午後3組と人間牧場へ上がったり下りたりの対応でぐったりしました。それでもどの人も大事なお客様なので、しっかりと対応させてもらいました。

 最初に来られたのは双海町出身で太陽石油から石油備蓄に移られた佐々木克敏さんの案内で、太陽石油四国事業所長の見元さんと、四国経済産業局資源エネルギー環境部長の石渡さんの三人です。佐々木さんが何かの折に私や双海町の話しをし、その後私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本を読み、夕焼けコンサートと人間牧場をセットにしたのです。

 私の生き方を自著本でしっかり予備学習しているだけあって、かなり期待を持って来られました。話し合いも微細にわたり見学も念入りでした。

(左が見元所長さん、右は石渡部長さん、真ん中は運転手さんです)
(左が佐々木さん、右は見元所長さんです。

 所長さんも部長さんも単身赴任らしく、初秋とはいいながら真夏のような暑さの中、木陰に入って軽く喉を潤しながら積もる話をしました。

 昨日の午前中、昨年度まで宇和島地方局長だった四之宮さんが訪ねて来られました。今は松山観光港に勤務されていますが、海に面したシーサイド公園の経営に携わった私の経歴から学ぼうとやって来たのです。シーサイド公園で待ち合わせをして、人間牧場へ行きました。私が通常通る狭い近道を通ったため驚いた様子でしたが、年代もそれ程変わらないので、積もる話しをしました。この日もガスがかかって沖合いに浮かぶ芸予や周防の島々は望めませんでしたが、初秋の天気は爽やかで最高でした。

(四之宮さん)

 私は役場の職員でありながら第三セクターを立ち上げ、苦労も多かったのですが赤字になることもなく次の人にバトンをタッチした貴重な体験をしていますが、貸借対照表や損益計算書など複式簿記から見えてくる様々な視点を随分学びました。そのことは役場職員や公務員という仕事からは殆ど見えてこないもう一つの世界でした。お陰で随分違った目が肥えて、異業種の経営者に会ってもそれなりにものが言え、それなりに理解が出来るのです。まちづくりは遊び心という視点は大事ですが遊びではありません。損得勘定が働かなければ経済には結びつかないのです。行政は住民の求めがあろうがなかろうが、またそれが経営上どうであろうが見通しも立てずシミュレーションもしないままハードへの投資をします。赤字になれば平気で公的資金を投入し単年度で赤字の上塗りをして連結しないのです。説明責任も結果責任も果たさぬまま大きな負担を結局行き着くところ住民に負わせて平気な顔をしているのです。

 人間牧場を下りながら、わが家と翠地区のグリーンツーリズムを案内しながら求めに応じ雑談の中でそんな話をしました。この日は今治市玉川町公民館の生涯学習講座の一行がバス一台でピザ釜の見学にやって来ていました。渡部妙子さんや森保子さん、山本加代子さんなど懐かしい顔々に、短い時間ではありましたがお会いしました。嬉しい限りです。

 何気なく過ぎて行く日々の中で色々な人と出会い旧交を温め、新しい縁をいただける幸せを、忙しい思いをしましたが実感している最近です。

  「人に会い 人に何かを 学びつつ 自分の気付かぬ 何か発見」

  「現職も リタイア組みも 入り乱れ わが生き様を 覗きに来おり」

  「秋来ぬと 目には見えねど そこここに 気配漂い 少し焦りて」

  「ああ俺も 間もなくひとつ 歳加え 前期高齢 グッと近付く」  


 

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○夕焼けプラットホームコンサート

 何だかんだといいながら、夕日にまつわることについては現場の第一線を離れていても相談があって、それなりに関わっていましたが、意識的に距離を保ち後方支援に回って自立・自律を促してきました。ここにきてやっと皆さんの気持ちもそれなりに高まり、そこそこでそれなりの歩みを始めていて頼もしく思っています。

 先週の土曜日、恒例の夕焼けコンサートがありました。このコンサートは早いものでもう23回目を迎えたのです。さて私は23年前、どんな思いでこのコンサートを立ち上げたのでしょう。あの当時私はまだ40歳でした。若かったせいもあって、下灘駅のプラットホームを舞台にするという奇抜なアイディアを思いつきました。しかし100のうち99人までが反対して「止めた方がいい」といいました。「落ちる・沈む・没する」というマイナスイメージを連想させる夕日など地域資源にはならないと誰もが思いました。でも夕日をテーマに無人駅のプラットホームでコンサートをしたのです。大方の予想を裏切って好天に恵まれた当日は、約千人の人で駅の構内は埋まりました。

夕日によるまちづくりの第一歩でした。以来時ならぬ台風の襲来で一度だけ中止になったことがありました。でもその他は天気に一喜一憂し雨風に翻弄されながらも着実に実績を積み重ねた 夕焼けコンサートは小林真三さんの手助けなどもあって、今日まで続いているのです。

 今では予讃線海岸周りの風物となってすっかり定着し、最初は反対していたJRも夕焼けトロッコ列車を走らせるなどの全面協力で、参加した人に感動を与えているのです。少し当日の模様をカメラで追ってみました。

この日は開会の午後5時前にあいにく夕立が少し激しく降りました。椅子に陣取っていた人たちは一斉に自転車置き場やプラットホームに雨宿りです。運営委員の人は布椅子を濡らさないようにまとめてブルーシートをかけました。やがて15分ほどで雨も上がり、西の空が赤くなり始めいよいよコンサートはスタートしました。

 雨が会場を整理したようで、いつになくきちんと席が埋まり、後のフェンスにはかなりの人が立ち見です。カメラも沢山設置され、参加者は吹き抜ける雨後の心地よい風を受けながら音楽に聞き入っていました。わが妻も孫や友人と連れ立って、楽しいおしゃべりをしながらの鑑賞です。


 孫は近くの売店でジュースやソフトクリームを買ってもらい、目や耳よりも口を動かしているようでした。私が現役の時妻は殆ど姿を見せず、家で留守番をして、コンサートの打ち上げの二次会に沢山の人を連れて帰るための、料理や飲み物を準備するのに追われていたと述懐し、「本当は私も今のようにお父さんと一緒にコンサートを見たかった」そうです。

 この日は私のお客さん、つまり私が講演などで知り合った方々や知人友人を含めると約100人もの人が集まってくれたのです。中には先日職員研修に招かれた東広島からわざわざ来てくれたり、双海町出身の石油備蓄会社の佐々木さんや太陽石油の所長さん、それに資源エネルギー環境部長さんなどが顔を揃えてくれました。何といっても嬉しかったのは先般講演に招かれた高松市三谷地区の皆さんがバス一台でやって来てくれたことです。縁とは不思議なもので感謝せずにはいられないのです。

 

 メインプロゲストのガズルが歌う頃には夕闇が迫り舞台に設えたススキも風に揺れて最高潮で、そこへスーと夕焼けトロッコ列車が入ってきました。会場から大きな拍手が起こりました。ガズルのメンバーの中には愛媛県松野町出身のアーティストもいて、これまた地元の方々が応援に駆けつけ最高に盛り上がり、アンコールの拍手に応えて「♭ギュッとして・・・・♯」を感情を込めて歌ってくれました。

 最後は恒例の下田逸郎作詞作曲である「双海恋歌」を全員で合唱して来年の再会を誓い合いました。運営委員持ち寄りの特産品やガズルのサイン色紙が当る抽選会も大盛況で、列車でやって来た人を見送る頃には頭上に綺麗なお月様が顔をのぞかせ、アーティストの歌に変わって虫の音の大合唱が始まっていました。

  「今年また 元気で聞けた コンサート 来年もまた 会おうねと」

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shin-1さんの日記

○数学は先人の文化の伝承である

 毎日色々な人に出会い、色々な人から色々なことを学ぶのが人間であり、生きている証です。しかし人間は歳を重ねたり様々な役職を経験すると、プライドが許さないのか人の言葉が耳に入らず、ついつい傲慢になるものです。特に相手が自分より目下や役職が下だとその傾向は顕著で、端から相手にしないものなのです。

 私などは学歴もなく、浅学非才なものですから持つべきものや見栄や外聞もないので、吉川栄治の「人みなわが師」という言葉どおり生きていて、むしろ人から生きざまの智恵を学ぼうと心がけているので、案外すんなりその人の何気ない一言が耳に入るのです。

 今日は朝からある採用試験の試験官を頼まれて出かけました。朝から夕方まで拘束された試験官としての仕事は、緊張している受験者に質問をして、その的確性やその人間の特徴を探ろうとするのです。私などは何を質問したらいいのかさえも分らず、思いつくままに質問をしましたが、慣れている私以外の3人は極めてシンプルに、それでいて的を得た質問をしており、受験生よりも私の方が質問の仕方、受け答え方を学んだ一日でした。

 私は理系ではなく文系だと先日もブログに書いたとおり、どちらかというと国語が得意、英語や数学が苦手と自分で思い込んでいある所があるのです。

 ある百戦錬磨の試験官が「数学」について質問しました。受験生は分らず右往左往していましたが、助け舟を出したその試験官は「数学は先人の文化の伝承である」と明快に教えていました。その時私は「えっ」と思ったのです。数学にそんな意味があろうとは凡人の私には分りませんでした。だとしたらある意味で文系も理系も目指す所は一緒ではないかと思われ、今までの心のモヤモヤが晴れたような気がしました。

 私は忘れ丈がいいので、小さな付箋にそのことをメモし、ワイシャツの胸ポケットに締まってわが家へ帰りました。家へ帰るんと妻はまだ仕事から帰っていないようでしたが、家に入るなり電話と宅配便が届きバタバタしているうちにそのメモのことをすっかり忘れてしまいました。食事が終って妻が洗濯をするためポケットを点検して、「お父さんはまたワイシャツのポケットの中にメモを入れたのを忘れている」と叱られてしまいました。「このメモ要るの?」というので我に返り「それは今日一番の大事なもんだ」といって、見つけてくれたことを感謝し、早速今晩のブログネタにした次第です。

 若し私がブログを書くことを日課にしていなかったら、この言葉は試験会場で「ああいい言葉だなあ」と感心しただけに留まっていたでしょう。僅か5時間前の気付きもこうしてどんどんと過去という川に流されて行くに違いないのです。メモを取る、そのメモをもう一度考えて文章にして残す、願わくばそのブログを読み返し知識を智恵にして生かすならこれほど大きな効果はないのです。

 「数学は先人の文化の伝承である」という言葉の直ぐ後に、子どもたちが授業を通して新しい発見をしたと感じるような数学授業をすることが必要だとも付け加えられました。なるほどなるほど奥は深くて広いものです。子どもたちの理数科離れというけれど、数学者の秋山仁先生の話しを聞いたことがありますが、先生の話は数学嫌いな私でも分りやすい話だったと、一変に数学のとりこになったことを覚えています。難しいことを分りやすく話す人は奥義を極めた人だと思います。得てして奥義を極めていない人は分りやすい話を難しくしたがるものです。

 さてさて私はさしずめ、分りやすい話を分りやすく話す部類だと自分では思っていますが、人の耳にはどう聞こえるのでしょうか。

  「数学は 文化の伝承 聞いた時 世の中達人 いると感心」

  「ちょっとした 言葉一つも 奥深い 聞く耳持てば 心開いて」

  「ああ俺は あんな言葉は よう吐かぬ も少し修行 心せずんば」

  「数学が 苦手な人は 多いはず どこで階段 間違ったのか」

 


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shin-1さんの日記

○眠れない夜

 昨晩は孫たちが3日間も逗留してその対応に疲れていたため、夫婦が早めに床に着きました。早めといっても妻は台所の片付けや洗濯物もあるので10時半を回っていましたが、私は10時に床に入って寝ながらテレビを見ていたのです。やがて妻が電気を消し夢の世界へ入りましたが、あることが気になって2時頃に目が覚め、疲れているはずなのにどうしても眠れないのです。

 あることとは友人の病気のことです。昨夕知人がやって来て外の夕観所の椅子に座り色々な四方山話をしました。その知人の従兄弟に当る人は私の友人というより、私より三歳年上の先輩なのです。私は若い頃青年団に入団していましたが、その方も青年団で団長を勤め、一歩先行く人として私をリードしてくれました。その後も仕事柄酒を飲んだり交流したりしていましたが、最近健康が優れないというのです。先日会った時にも小柄な体が少し太り気味になったいたので尋ねると、リュウマチの治療で飲んでる薬の副作用だと聞いたのです。妻もよく知っている人なので妻ともその話しを台所で食事をしながら話し案じておりました。

 従兄弟の知人の話によると最近体調が思わしくなく、抗がん剤を打ったというのです。リウマチの治療とばかり思っていたのに抗がん剤とは驚きです。その友人はもともと酒は弱いのですがタバコはめっぽう好きで、私が「陸蒸気」とあだ名をつけたほどヘビースモーカーでした。そんなにタバコを飲んだら今に肺がんになるぞ」と注意しても「タバコを止めるくらいなら死んだ方がましだ」とか、「タバコを吸って死ねるなら本望」と強がっていました。しかし最近「タバコを止めたい」と何度か思い挑戦しているようでした。禁煙パイプを口にくわえ、いらだたしそうにしている姿を見て、「命が惜しくなったの?」と茶化してみたりしました。でも長続きせず、最後の言葉は「タバコを止めれないなんて可笑しい。私はもう7回も止めた」とまるで落語や漫才のネタのような話しを笑ってしていました。

 彼は今農業をやっています。長い間勤めに出て家を留守にしたため、農業はもっぱら奥さんがやっていました。その奥さんも少し健康が優れなくて最近は奥さんに代わって農業をしていて「俺は最強の熟年農業後継者だ」と、すっかり日焼けして逞しくなった腕をまくって酒席で胸を張って豪語していました。その彼が抗がん剤とはと思うと、人毎ながら顔がちらついて眠れなかったのです。

 今朝は午前3時という早めに起きました。そして彼宛にハガキを一枚したためました。病気のことなど書けないので、近況の報告をしてさりげなく近々会おうと書きました。元々人とのコミュニケーションは苦手な方でしたが、私には家族のこと、人生のこと、これからのことなど、何でも話してくれたので、気分を一新すべく会いたいとおもっているのです。

 身近な人が病気になったり、私より若い人が死んだりと、加齢とともに親父が毎日愚痴る気持ちが少しずつわが身に降りかかってくるようになり、どこか気持ちが湿りがちになるのですが、人を思いやる気持ちだけは大事にしたいものの、自分自身は健康に生きるために、常に明るく前向きに生きてゆきたいと思っています。

 知人の健康回復を心より祈っています。

  「抗がんと 聞いてはてさて 困ったな ハガキしたため 一度会おうと」

  「無理をして 農業するな 愚か者 いってやりたい だけどいえぬな」

  「人のこと 言えぬわが身で ありながら 人を気遣い 眠れぬ夜を」

  「これからだ 楽しいはずの 人生を 楽しく生きろ われも生きるぞ」

 

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shin-1さんの日記

○勉強に来ました

 かつてまちづくりセンターに出向していた西予市の三好誠子さんから電話があり、人間牧場で勉強会をしたいので伺いたいと申し出がありました。市役所の女性職員だけで勉強会を立ち上げたらしく土曜日の休みだというのに午前10時に総勢6人でやって来ました。自己紹介をしてから始めましたが、旧城川町や旧三瓶町、旧宇和町などの役場職員として採用され、その後の合併で市役所職員になった人が殆どで、合併後4年が経ちましたが、話のあちこちに合併前と合併後の戸惑いや、ぎこちなさを感じつつ、私が色々な話しを1時間30分ほど話ました。

 この勉強会は差し当たりのテーマが観光とのことでした。観光やまちづくりは私のオハコなのですが、先日まち並みゼミプレシンポで西予市にお邪魔した時もお話したように、西予市の観光資源は正直手では数え切れないほど有り余っているのです。それを共通のテーマでくくるとかなりいびつな観光になるので、昭和30年の町村合併促進法で合併してからどの町も五十年という長きに渡って培った観光資源を点として、点と点を線で結び面的集積を図っていくべきだと助言をしました。昭和の大合併は旧町村の色を混ぜ合わせて混合色を作ろうと努力しましたが、平成の大合併は旧市町村の色を混ぜずに包含する方が得策だとも話しました。

 それにしても、女性だけで勉強会を立ち上げることはかなり勇気のいることです。近代日本になったとはいえ未だに男性優位の社会が多く、特に田舎にはそのことが顕著なようです。これから勉強会や勉強会で出た意見はかなり厳しい抵抗が予定されるでしょうが頑張って続けて欲しいと願っています。

 三好誠子さんは私が「ミレニアム200年その日私は」という限定10冊の手づくり本を出版したとき、ちょうどセンターに出向していて知り合いました。そしてプライベートなお願いをしてその本の校正を一年間に渡って毎月やってもらいました。2000年には毎日A4一枚の原稿をタイトルをつけて書きました。一ヶ月の原稿が溜ると三好さんに送りまとめて校正して送り返してもらい訂正をしました。私の訂正ミスもあって誤字脱字も時折見られますが、お陰様でその本は見事に校了し、私の手づくり綴じで世に出ました。その当時は前年に「昇る夕日でまちづくり、後年に「今やれる青春」いう2冊の本を出していますから、3年間で三冊もの本を出したことになるのです。今は思考も働かずあの頃のように筆は進みませんが、それでも何とか進化は出来なくても退化だけは防ごうとブログに挑戦しているのです。

 人のご縁とは不思議なもので、こうしてあの時の深いご縁がまた縁になるのです。三好さんはこれまで2回人間牧場へ来ていますが、絶えず次なる人を連れてやって来ます。自分の育てたい人を意識して育てないと人づくりは出来ないものです。私がそうであったようにフライと出来るまではしっかりと育てなければなりません。やがてフライと出来るようになったら自律・自立へと導けるのです。

 西予市の綺麗どころの来場で人間牧場は初秋ながらコスモスにも似た花が咲いたような雰囲気になりました。この日の研修をきっかけに、新しい人生や新しい発想で仕事に取り組んで欲しいと思います。

  「コスモスの 花が咲いたよ 牧場に そんな錯覚 するよな女性」

  「ミレニアム 二千年期し 執筆の 本を校正 あの時世話に」

  「早八年 過ぎたか互い 若かった 一昔前 そんなになるか」

  「空青く 白雲ポッカリ 流れ行く 初秋の風が 優しく頬に」  

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shin-1さんの日記

○孫に好かれて

 この週末は孫二人を連れた娘家族がやって来て、賑やかな3日間となりました。5歳になるブログ常連の朋樹はもう完全に自立していて、大人の私と話や行動の波長が随分合うようになり、色々なことに挑戦できるのです。昨晩は妻や妻の友人と一緒に夕やけコンサートに出かけ、最前列で2時間もしっかりコンサートを見学していました。帰り際にはアンコールに応えて歌った「ギュッとして・・・・」という歌を口ずさんで帰る有様です。

 昨晩コンサートから帰えり際、私の車で帰るという朋樹と暗い夜道を歩きながら、賑やかな初秋の虫の音を楽しみました。森林組合前に止めていた私の車のフロントガラスに大きなバッタが留まっているのを朋樹が見つけました。ライトを点けて車はそのまま発進しましたが、バッタは必死になってガラスにしがみついていました。朋樹はそのことが気になって車に乗ってからも少し興奮気味で、振り落とされないバッタに「頑張れ、頑張れ」と大きな声援を送りました。結局そのバッタは家へ帰るまでフロントガラスにしがみついていたのです。わが家へ到着するなりそのバッタは余程疲れたのか、あっさり地面へ飛び降り何処かへ去って行きました。

 風呂に入ると風呂場の中にコオロギが一匹迷い込んでいました。朋樹は大騒ぎをして追いかけていましたが、私が捕まえて外に出してやりました。歯を磨き寝る準備が出来ましたが、興奮気味の朋樹と私は妻の用意した

二つの懐中電灯をそれぞれ持って、暗い庭先に出ました。しっとりと夜露の降った草むらを、懐中電灯で照らしていると何やら怪しげな物体が灯りの向こうに見えました。かなり大型のバッタのようで、体や羽根を震わせた鳴き声は、懐中電灯の灯りで一瞬消えたように見えましたが、その後はまた鳴きはじめ、朋樹は感激の様子でした。昼とは違い夜にも楽しみ方はあるものです。

 「僕は男だから男同士でおじいちゃんと寝る」といって私の布団で寝ることにしました。私は朋樹にその日のミスたちとの出会いや出来事を創作話にして話してやりました。朋樹は始めと終わりには必ず拍手をしてくれるのです。おじいちゃんと孫の息もぴったりで楽しい夜となりました。

 一方孫尚樹は5月生まれですから一歳三ヶ月が過ぎ、ヨチヨチ歩きが出来るようになって、盛んに外へ連れて行ってくれとせがむのです。まだ言葉は「ワンワン」しかいえませんが、かなり自己主張が強くなって、「ワンワン」といいながら犬を飼っている近所のお家の方向を指で指すものです。今朝も6時前には起きてスタンバイOKです。ぎっくり腰の癖がある私は用心をして抱っこするのですが、何処で誰に教わったのか今は「好き好き」ポーズといって首に手を回してギュッと抱きしめるのです。このポーズでおじいちゃんはメロメロです。母親の娘はわが家に来るとのんびりゆっくりを決め込み、私と妻がその分疲れます。

 今晩も妻の作ったコロッケや餃子、野菜やお米などを例の如くどっさり車に詰め込んで帰って行きました。まあこれがしあわせというものでしょうか。

 お陰様で昨日は朝から晩まで絶え間ないお客様と孫たちに翻弄されてブログを書くことさえ出来ない空白の日となってしまいました。愛読者の皆さんご免なさい。

  「孫が来る 朝から晩まで 振り回し 疲れはしたが 何処か幸せ」

  「孫朋樹 誰に似たのか アウトドア 暇さえあれば 虫を追いかけ」

  「疲れたね 妻は朝から 休む間も なきに働き 夜はヘトヘト」

  「土日来る 孫に翻弄 わが家では 土日来るのが 少しおっくう」

 

 



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shin-1さんの日記

○エコー検査

 「若松さん、次回はエコー検査をしましょうね。ご飯を食べないで来て下さい」と医者に言われ、9月5日の午前10時をパソコンに入力されました。「ああ、2ヶ月後か、ずっと先の話だなあ」と思っていたら、2ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいました。昨晩自分の予定表と居間にかけてある大きなカレンダーに書いてある「定期健康診断受診日」と言う文字を見つけ、夜9時以降は食べないよう注意をしていました。最近はえひめ地域政策センター清水研究員の食育に関する影響もあって、まず9時以降は余程のことがない限り食べないようにしています。そもそもは舞たうんの食育に関する特集号で、私たちがこれまで信じて疑わなかった常識がいかにあやふやかを思い知らされました。

 清水さんから教わったことをメモにして暮らしの参考にしています。

  病気知らずの3原則

 第一の原則  「命の水を豊富に含む食べ物」を食べること

 第二の原則  「食べるにふさわしい時間帯」に食べること

 第三の原則  「正しい組み合わせの原則」に従って食べること

  常識破壊の「超健康革命」10ヶ条

 第1条  バランスのとれた食事をとらないようにすること

 第2条  朝食はしっかりとらず果物だけを食べるようにすること

 第3条  果物は毎日たっぷり食べて血糖値を正常に保ち血液をさらさらにする

 第4条  牛乳は骨粗そう症の原因になるので飲まないようにすること

 第5条  肉を食べるときは山盛りの野菜をいっしょに食べること

 第6条  ファーストフードは死に急ぎたい人のための食品なので利用しないこと

 第7条  油はできる限り使わないようにすること

 第8条  白砂糖、薬、サプリメントの摂取には十分注意すること

 第9条  病院にはできるだけ行かないようにすること

 第10条  適度な運動を励行し、必ず十分な睡眠をとること

 この話しを聞いた時、第1条、第2条、第4条は嘘だと思いました。だって日本の常識ではバランスの取れた食事を取りなさい、朝飯はしっかり取りなさい、牛乳はカルシュームだから一日一本飲みなさいと教わったし、そう心がけてきたのです。でも牛乳が本当にいいのであれば、アメリカなどの酪農大国では骨粗そう症など少ないはずだのに、ワースト3は酪農大国だというのです。なるほどと信じがたい話を信じようと努力していますが、未だに信じられないのです。

 さて今日の健康診断は前回の血液検査の結果と、今日のエコー検査結果を元に先生からお話がありました。血液検査の結果は肝機能が前回より少し改善、エコーも問題なしという結果でホッとしました。

 エコー検査の時、検査技師が研修生のような方で、色々いじくっていましたが私の体に異変があるというのです。最初は小声で話すその話しを聞きながら不安になりましたが、それが「胆のうを取ったため」と自己申告して納得のようでした。その後顔見知りの検査技師がもう一度しっかりエコーで検査し、異常がないと結論付けました。やれやれです。

 総合判断で異常なし、「あと2ヶ月は太鼓判」と何時もながらのジョークを飛ばした先生と、次は11月7日午前8時で予約を取り、支払いを済ませて病院を出ました。急に腹が減りましたが、わが家へ一直線、まず名残のスイカで腹を充たしました。「命の水を豊富に含む食べ物」だからです。

  「二ヶ月に 一回必ず 病院で 診察受けて 二ヶ月保証」

  「9時以降 食べない誓い 守りつつ 体の調子 自分で守る」

  「牛乳は ホントに粗しょう 効かぬのか? 未だ凡人 分らぬままに」

  「日本の 常識誰が 言い出した 信じることは 恐ろしいもの」

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shin-1さんの日記

○ニコ・ピン・コロの人生設計

 愛媛県で一番大きな街は何といっても県庁所在地の松山市です。その昔は四国の玄関といえば高松で、様々な国の出先機関や四国支店が軒を連ねていました。しかし宇高連絡船が廃止され、瀬戸大橋が架かってから物流の流れががらっと変わり、今や四国最大級の街は松山市となったのです。平成の大合併で北条と中島を加えて人口も51万人となり、いい街、住みたい街の条件を着々と整えつつあるようにも見えるのです。しかし夏になると瀬戸内海に面した少雨適温が災いし、決まったように水不足に見舞われ、多少の弱点をさらけ出しているようです。渇水対策本部という腕章をつけて記者会見に臨む市長さんからは、「水さえあれば」の嘆き節も聞こえそうですが、やはり国を治めるものは水を治める」の例えどおり、渇水に強いまちづくりをしっかりやって欲しいと思うのです。河辺ダム構想も途中で頓挫した苦い経験もあるだけに、市民も節水意識をしっかり持って欲しいと願っています。昨日訪れた場所のトイレにも「節水を呼びかけるステッカーが「これでもか」といわんばかりに貼ってありました。「節水とは水を使わないのではなく、水を無駄にしないのです」というステッカーは的を得ているようにも思えました。

 さてさて松山市は私にとって、いつの間にか空気のような存在の街になっていることに気がつくのです。殆ど毎日無意識のうちに松山をフィールドに活動し、今では松山から双海へ帰っているような錯覚さえするのです。

 そんな松山市の生涯学習振興財団から講演の依頼が舞い込みました。生涯学習講座の二部(一部は5月~7月)つまり二学期が9月から開講するにあたり、そのトップを切っての講演なのです。会場は男女共同参画推進センター、国際交流センター、新玉公民館が同居するコムズでした。会場は立派で、あらかじめ申し込んでいる人たちが三々五々集まって、会場は満席の状態でした。

(講義前の緊張感漂う会場です。使用前)

(休憩中に写真を一枚撮りました。使用中)

 財団から示された私の話すテーマは、私のホームページで紹介している講演内容一覧表から取った「ニコ・ピン・コロの人生設計」でした。このテーマでは県外などで話した経験は何度もありますが、県内ではそれほど多くの実績はありませんが、要は人生の生き方ですから楽しいお話に終始しました。会場には知人友人も多く、さすがにこの歳になるとステージに上がっても上がることなく参加者の顔が見えるほど落ち着いて話せるのですから、われながら大したものです。(笑い)

 講演が終わって友人が私の控え室を訪ねてくれました。「若松さん、久しぶりにお会いし話が聴けて嬉しかったです。あなたの話は何度も聞いていますが、中身が濃くて、しかも新しいねたが沢山詰まっていて、相当進化していますね」とお世辞をいって持ち上げてくれました。ついでに話した二宮金次郎の話しに興味があったらしく、手持ちの大学の一節をコピーしてくれと頼まれ、担当者が一階の事務室へ走りました。

 また帰りのエレベーターを待っていると、帰り支度したおばちゃんたちが何人も集まってきて、楽しいお喋りをしたり、名刺を差し上げたりしました。その折、私の書いている自著本と、二宮金次郎の読んでいる本についての問い合わせがあったので書いておきます。

 二宮金次郎の読んでいる本「大学」には次のような漢字が書かれています。読み方は( )内です。

 一家仁   一國興仁 一家譲 一國興譲 (一家仁なれば 一國仁に興り 一家譲なれば 一國譲に興り)

 一人貧戻 一國作乱 其機如此 (一人たんれいなれば一國乱をなす その機かくの如し)

 意味は「一家のうちが仁の道を行えば、その国じゅうの人々が仁の道を進んで行うようになり、これに反して尊貴の位にある君主が、自分の利益だけをむさぼるならば、その国じゅうの人々は争いを起こすことになる)というのです。味わい深い言葉なので今一度読み返してみて下さい。

  「松山と 言う名の土地で 活動し 今じゃ殆ど ここで暮らして」

  「満席の 松山市民の 集会で 乗せられ話す 私も元気」

  「演題が ニコ・ピン・コロと 面白い 興味津々 寝る人もなく」

  「金次郎 何の本読む 尋ねたら 誰も知らない だから教える」   

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shin-1さんの日記

○子どもたちの遊び

 今の子どもと私たちが子どもの頃の遊びとが大きく違うのは、無と有といった表現がぴったりするのかも知れません。無の世界は何にもない中で遊び道具や遊び方まで子どもが創作したり考えたりしていました。一方有の世界はあるものを使った与えられた遊びのような気がするのです。

 私たちが子どもの頃は野球がしたくてもボールもバットもグローブもありませんでした。ゆえにウエスと称する機械をいじる時に使うボロ布を丸めて凧糸でグルグル巻きにすると立派なボールが出来たのです。バットは竹薮に竹を切りに行き適当な大きさの真竹を見つけて適当に切ると、軽くて立派なバットが一本出来上がるのです。グローブはないから素手でした。放課後の学校の運動場は格好の遊び場でしたが、近くには漁村だったため砂浜が広場でした。砂浜は傾斜があって海に向って打ったり投げたりするとボールの回収が不可能となるため海を背にして野球をやりました。でも時折バックホームのボールが海に落ち、あえなくゲームセットだったことも覚えているのです。

 野球のルールは適当で、人数に合わせて3人だったりすると三塁ベースを作らず、また海にボールを落したらアウト、ボウルを走塁者に当てるとアウトなどの臨機応変でした。たまに女の子後入ると女の子はバットを使わず素手で拳または平手で打ったりして楽しみました。まさに道具も遊びも無の中で生み出していたのですから驚きです。

 子供用の自転車などは皆無で、大人の自転車を借りてきて、乗る練習を転んでも転んでもやりました。怪我も多く擦り傷や生傷は絶え間がなく、余程のことがない限り消毒したり包帯を巻いたりなどはせず、ヨモギを手の平でツバをはきかけて揉み、傷口に当てただけでいつの間にか治っていました。乗り物もないので一日中走ったり歩いたりして、夕方にはヘトヘトになって家に帰っていました。今の子どもは直ぐに疲れたと音を上げますし、学校の朝礼中でもバタバタと倒れるのですから、体力はないのだと思います。

 少子化で子どもの数が減り、子ども社会そのものが存在しなくなりました。ひょっとしたら私たちの世代以降は子どもの自治活動など知らないで育ったのではないかと思うのです。子ども自身が子どもとしてどう生きるか本能的に学んだ私たちが子どもの頃の社会はもう日本には戻って来ないでしょう。

 最近若いおじいちゃん、おばあちゃんが目立ち始めました。五十代でおじいちゃん・おばあちゃんになるのですから、前々期高齢者といっても過言ではない若いおじいちゃんやおばあちゃんが、暇も金もあって孫を甘やかせる時代は終わりにして、孫育てに一役買って欲しいと思うのです。例えば私は現在63歳ですが、妻が私のことを孫の相棒と言うほど孫は私になつき、私も孫と自然派的な遊びを通して様々なチャレンジをしています。幸い人間牧場というフィールドを持っているため、再三再四やって来て、楽しい遊びをしています。それは孫にとっても必要な情操教育だと思っています。残念ながら孫の親は働く事に熱中しなければならない年代です。そのカバーをこれからも後に続く孫二人にも深く関わってやりたいものです。

 明日の夕方孫は娘に連れられてやって来ます。さて今度はどんな創作的な遊びを教えてやろうか、今から楽しみです。相棒よ早く来いです。

  「創作の 遊びも知らぬ 孫達に 前々期高齢 手取り足取り」

  「子どもには 走る歩くが 常識だ 楽すりゃ今に 手足動かず」

  「虫の声 賑やか聞こえ 秋の夜 孫と一緒に 鳴き主探す」

  「孫植えた カボチャ収穫 嬉しげに 明日はカボチャの 煮物食べるか」


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shin-1さんの日記

○田舎で猪・鹿・猿は極悪動物

 猪・鹿・蝶といえば花札遊びのヤク札で三枚そろうと特別な加点がされますが、猪・鹿・猿といえば過疎の進んだ田舎では極悪人ならぬ極悪動物として厄介者扱いされ、お尋ね者なのです。一昨年20ヶ所の集落めぐりをした高知県四万十市西土佐では、この三種類動物の農作物被害に悩まされ、人間の存在さえも危ぶむ勢いだという山村の悩みを行く先々で聞きました。

 元々人間と他の動物はそれぞれの住処を持ち、住み分けて長年生きてきました。時折お互いがお互いの領域に侵入すれば人間は動物を威嚇したり殺したりしましたし、動物も人間に必死になって襲いかかったのでしたが、それは余程のことがない限りなくて、山里には平和な暮らしがありました。ところが人間の暮らし方の様子と自動的に餌を生み出していた自然の様子が変わり始めて、人間と動物の関係に微妙な変化が見られるようになったようです。

 動物の言い分は言葉が通じないので聞いたことはありませんが、人間の言い分とはかなりの開きがあることは事実です。人間も動物も生きることと種の保存をしなければならないので、そのせめぎ合いが今の田舎の動物出没騒動だと思うのです。

 猪も鹿も猿も道具を使うことが出来ません。唯一の道具は手と口と足と体です。しかし人間が太陽の出ている昼に活動しているのに比べ、動物たちは人間が寝ている夜の活動が得意なため、滅多に顔を合わせることもなく、猪・鹿・猿はどちらかというと目に見えない敵なのです。

 動物の被害を恐れる人間は、自分の農作物を守ろうと必死に威嚇します。山里に空しく響く爆音はまるで人間の嘆き節のような感じさえするのです。また網や波型トタンで垣根を作り、動物が入らないようにしますが、知恵のある猿にはこんなもの一飛びで越えるのです。最近は国・県・市町村の助成もあって電気柵張り巡らしている地域を見かけますが、敵も猿(笑い)もので入る時と出る時の電気ショックを覚悟で柵内に入り安全地帯になった場所で悠然と収穫物を食べる有様で、これ以上は柵(策)(笑い)がないとぼやいていますが、後はゲリラ戦に強い自衛隊に出動してもらう以外生き延びる道はないのではないかと思われるのです。

 三日ほど前の日曜日、人間牧場の近くに住む人から一本の電話がかかってきました。人間牧場の中を通っている道を通ってお墓参りに行ったそうです。その折何やら黒い物体が目の前の草むらをガサゴソして通り過ぎたらしく、気になって牧場の芋畑へ行って見ると、網囲いを破って猪が侵入して面積の半分も食べているようだというのです。私は出張の予定が立て込んでいて現地へ赴くことが出来ないため、日曜日で連絡が取れなくイライラしながら、共催している教育委員会の職員に電話連絡して、やっとの思いで柵の修復をしてもらいました。少し残念な気もしますが、またも私たち人間は猪との知恵比べに負けてしまったのです。

 猪にインタビューしてみました。(笑い)、開口一番「獲ったどー」と誇らしげに雄たけびを上げました。インタビュアー「猪さん、あなたは何で人の嫌がることをするのですか。これは人間の子どもたちが命のプロジェクトリレーと称して、種芋から芽を出させ、大切に育てているものなんですよ」。猪「私も本当はこんなことしたくはないのです。でも8匹も生まれた瓜坊たち子どもは育ち盛りで、食欲が旺盛なため、自然の食べ物では足りないのです。生きて行くためには止むに止まれることですので、どうかお許し下さい」。インタビュアー「・・・・・・・・」。

  「人間と 猪鹿猿の 知恵比べ 軍配どちら 誰が決めるか」

  「山里に 空しく響く ガス空砲 慣れりゃ怖くも 何ともないよ」

  「入りと出で 都合二回を 我慢すりゃ 中は天国 食べ放題だ」

  「さて次は 毒殺以外 ないかもと ひそひそ話 シシも側耳」

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