shin-1さんの日記

○親父の背中

 親父の背中におんぶして 海を泳いだ小学生の時 初めて親父の背中の存在を意識した

 親父の背中にしがみつき 沖に浮かんだ船まで浮き輪につかまるように泳いだ

 親父の逞しい腕が船のスクリューのように 勢いよく水をかき分けて進んだ

 親父は強い人間だと思った

 親父の背中が とてつもなく大きいと感じたのは 高校生の頃だった

 水産高校の実習船で遠洋航海に旅立った時 伊豆諸島辺りを通った

 大きなうねりにもまれる実習船のデッキで 親父が小さな漁船を操りながら生きた海を見た

 親父は凄い人間だと思った 

 親父の背中が危ないと感じたのは青年の頃だった

 ガンに侵されベットの上に寝かされた親父の背中を おふくろは湯気の出るタオルで拭いていた

 長くはないかも知れないと医者から聞かされた時 親父の背中に生きていてくれと心の中で叫んだ

 親父は偉大だと思った


 親父の背中が厳しいと感じたのはやはり青年の頃だった

 他愛のない親子喧嘩をして 家を出ると言い放ち家を出た

 行く当てもなく街中をさまよい 泣き付いた叔父に説得されて親父に詫びを入れた

 親父は冷たいと距離を感じた

 親父の背中が自分と同じだと感じたのは息子が誕生した時だった

 名前をつけ這えば立てと成長する息子を 諭しながら育てる時

 はじめて親父の願いが自分の願いと一緒であることを知った

 親父はこんなものかと同じを知った 

   

 親父の背中が小さくなったと感じるのは今朝だった

 親父は漁師の家に生まれ 漁師になるべくしてなり 漁師として海に生きた

 その間様々な難関に立ち向かいながら乗り切り 家族の大黒柱となって生きてきた

 親父はまだまだ生きていて欲しいと感じた 


 自分で見えない自分の背中の小さきを背中に感じながら 親父の背中と比較する

 親父は強いし凄いし偉大な背中を今も持ち続けている

  「親父とは 親父になって 自問する 親父の背中 やはり目標」

  「名も無きに 等しき親父 見習って 名もなく消える それもまたよし」

  「今日の朝 親父の背中 サロンパス 張りつつ思う ・・・・・・・・・」

  「ああ俺も いつかは息子 同じ目で 見られる定め 世のならわしか」

  

 

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shin-1さんの日記

○バナナが品薄

 最近はメタボリック症候群という肥満が何かと話題になって、様々なダイエットがブームを呼んでいます。新聞や雑誌には「私はこうして痩せた」とか、「こんなものを食べて痩せました」と体験談が載るし、テレビも毎日のようにダイエットに関する話題を面白おかしく紹介しているのです。ダイエットといえば食べない苦痛が通り相場なのですが、今の社会は「苦労をせず食べながら楽しく痩せられる」がテーマで、「そんなに簡単に痩せられるのだったら」と口車や宣伝に飛びつきダイエットに挑戦したものの、結局は体を壊して元の木阿弥といった話をよく聞くのです。

 先日泉ピン子さんのダイエットの番組を見ました。一念発起して10キロ以上も痩せた泉ピン子さんの涙ぐましい努力に敬意を払いながら、「太るのは容易いが痩せるのは難しい」ということを実感しました。泉さんが取り組んだのはメモダイエットのようで食べた物をすべて記録することから始めたようです。メモをするうちに食べるものの内容、食べる物のバランスとカロリー量、食べる時間などが明らかになり、太った原因が分かるのです。そして太らない食べ方の原則を発見して、その方法を守れば結構楽しい食事もできるようです。

 私のように昭和19年に生まれ小さい頃は食べるものにも事欠く貧乏暮しで、特に甘いものなど日常的には殆ど口にしませんでした。しかし今考えてみるとそうした質素な日本食は理にかなったダイエットで健康的な食事だったのです。加えて歩くことしか移動手段がなかったためとにかく歩いたことも健康には欠かせない運動量だったのです。昔は食べたくても食べるものがありませんでした。しかし豊かになった今は食べたくないのに食べるものがたくさんあるのですから皮肉な話です。また人間は便利になって歩くための二本の足を持っているのに、高い車乗って足を退化させているのです。

 今世の中で騒いでいて品薄になっているバナナなどは、病気にでもならなければ食べられない贅沢品でした。

昨日妻がどこかのお店でバナナを半房買ってきました。黄色いバナナは食べてみたい食欲をそそるので滅多に食べませんが、バナナダイエットにあやかって一本食べてみました。こんな味だったのかと久しぶりの食感を楽しみましたが、確かにバナナを食べるとお通じが良いようで、整腸作用や食物繊維が多いのもダイエットに適しているのかも知れません。

 何年か前仕事で下関と門司へ行きました。その時ある人がバナナの叩き売りの口上を語ってくれました。面白いと思い自分のメモ帳に書き写していたものが偶然先日机の引き出しから出てきました。

 春よ三月春雨に 弥生のお空に 桜散る バナちゃん因縁 聞かそうか

 生まれは台湾台中の 阿里山麓の片田舎 現場の娘に見染められ

 ポッと色気のさすうちに 国定忠治じゃないけれど 

 一房二房ともぎ取られ 唐丸籠に詰められて 阿里山麓をあとにして

 ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所が 基隆港(キールン) 基隆 台湾一港

 基隆港を船出して 金波銀波の波を超え 海原遠き船の旅 

 艱難辛苦の暁に ようやく着いたが門司港 門司は九州大都会

 門司の港で検査され 一等二等とある中で 私のバナちゃん一等よ

 門司は九州大都会 中仕の声も勇ましく エンヤラドッコイ 掛け声で

 問屋の室に入れられて 夏は氷で冷やされて 冬はタドンで蒸されて

 八十何度の高熱で ~後略~

 このメモはまだまだ続きますが、若い頃はこの口上をよく覚えて物まねをしましたが、今はもうすっかりそのセリフ口上も忘れてしまいました。バナナが一世を風靡する今、もう一度リバイバルに挑戦したいものです。

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shin-1さんの日記

○町並みゼミに参加しました

 昨日から3日間西予市で町並みゼミ卯之町大会があり、宇和町の米博物館講堂へ出かけました。この会場は「地域遺産としての学校建築の保存と活用」がテーマで、「各地における学校建築の保存事例に学ぶ」がサブテーマでした。この会場の担当者がわがえひめ地域づくり研究会議の岡崎直司事務局長と菊池勝徳運営委員なので、支援も含めて参加しました。

 この会場へは、町並みゼミのプレシンポと位置づけられたミニフォーラムが8月23日に同じ場所で行われ、私もパネラーとして参加していたので、迷うことなく一発で到着です。途中えひめ地域政策研究センターの清水さんと保内町のショッピングセンターで待ち合わせ、私の車に同乗して、積もる話をしながらの参加でした。

 私は前回と同じく米博物館の近くの団地に住む三好勇気さんの家へお邪魔しました。シーサイド公園海水浴場で不慮の死を遂げた息子さんの墓前に線香を手向けるためです。玄関は開いているもののあいにく留守でお参りはできなかったので、用意したお供えを玄関先に置き、名詞とメモを残して立ち去りましたが、帰宅した夜になって三好さんからお礼の電話がかかってきました。三好さんは現在闘病生活をしていて、どことなく弱々しい声でした。

 

 前回は夏まっ盛りでセミの声が賑やかに聞こえていましたが、今回は会場の前の大きな銀杏の葉も少し色づきはじめていて、下には無数の銀杏の実が落ちて悪臭を放っていました。

 受付には保内町の安藤さんの姿も見え、ホッとするようなスマイルで迎えてくれました。手渡された新聞紙を使った手作りのエコバックもどこか温かさが伝わって意気込みを感じました。研修会に先立って宇和町小学校講堂を移築した施設の見学会が行われ、長い階段を上がって天井裏を見せてもらいました。これも前回と同じですが、柱のない講堂の構造をみて改めて人間の知恵の凄さに驚きました。

 今回のゼミには物議をかもした滋賀県豊郷小学校、和歌山県高野口小学校、八幡浜市日土小学校と私の町の翠小学校の事例が発表されるので楽しみにしていました。翠小学校は他の3校に比べ比較的保存が上手く軌道に乗った事例です。発表に立った和田由美子校長さんは独自の論法で翠小学校の実態を発表されましたが、居合わせた私や上田教育長さんにも発言の機会が回ってきて、内心驚きました。

 この会場にはすっかり顔見知りとなっている県内のまちづくり人をはじめ、かがり火の菅原社長や三重県から杉谷さんも来ていて、楽しい再会のおしゃべりをしました。

 分科会は4人のパネラーの発表が少し長引き、議論を深めるところまでは至りませんでしたが、聞きたかった発表が聞けただけでも値打がありました。

 学校を含め歴史的価値があるものを遺すには行政、住民、専門家のそれぞれの思いと言い分があって、翠小学校のように色々あっても進行形で進む事例は少ないようです。翠小学校もいよいよエコ改修が始まります。さらにグレードを高めて次の100年を目指したいものです。

  「学校を 遺し伝える エネルギー 発表聞いて 感心しきり」

  「発表の 後の討議で 指名され ドキドキしつつ 持論を話す」

  

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shin-1さんの日記

○セイタカアワダチソウのほろ苦い思い出

 私が公民館主事をしていた頃ですからもう30年も前の出来事です。ある日私は松山へ向かう車の中から、空地に咲いている黄色い花を見つけました。この顔ながら私は若い頃から花に興味を持っていたので、その花の群生する姿を早春に咲く菜の花畑とダブらせていました。秋の頃にこんなに奇麗な黄色い花が群生するとは珍しいと、写真に撮って持ち帰りました。そして公民館の仲間にこの花のことを話し、できれば文化祭のメイン会場にあの花を貰ってきて4m×4mの、制定されて間もない町章モニュメントを造ろうと計画したのです。

 花の咲いている畑の近所の人にその畑の持ち主を聞き出し、「全部刈り取ってもいい」との了解を得てトラックにいっぱい取って帰りました。金網に枠を作ったその中に、これまたミカン畑の防風林から取った杉葉を差し込み、町章を黄色い花で、バックを杉葉で埋め尽くして刈りこみ、自信作のモニュメントを3日間をかけて造り上げました。文化祭の会場となった上灘中学校の校庭は、このモニュメントでいつになく華やいだ雰囲気となり大きな話題となりました。やがて文化祭が終わり杉葉も黄色い花も上灘中学校の校庭の隅にある簡易焼却炉で燃やして処分をしたのです。

 その年も明けた頃、中央公民館に一枚のポスターが送られてきました。そのポスターには「セイタカアワダチソウ撲滅運動」と書かれていて、写真は紛れもなく文化祭の会場を華やかに飾ったあの黄色い花だったのです。知らぬこととはいえ私は、帰化植物である公害雑草を刈りとって大衆の目の前へ展示したのですから、無知もいいところです。とっさに思いました。地主の所に菓子箱を持って行き「花をください」といった時、「何に使うのですか。珍しい人もいるものですね。どうぞどうぞ」笑顔で対応していただきました。今になって思うのですが、あの時地主さんはあの黄色い花がセイタカアワダチソウだということを知っていてくれたのかも知れないのです。

 あれ以来帰化植物であるセイタカアワダチソウやブタグサは全国に生えて広がり、喘息などの病気に悪いと撲滅作戦が展開されたにもかかわらず、一向に減る様子もなく、またあれほど撲滅運動までせよと騒いだのに、今はあの頃の騒動が一体何だったのかと思わせるほど、誰も見向きもしなくなっているのです。

 セイタカアワダチそうが咲く秋のころになりました。国道沿いの空き地には可憐な黄色いセイタカアワダチソウの花が咲き始めていますが、道行く人も車もその花など目もくれず全く無視して通り過ぎて行くのです。

 最近は帰化植物といわれる植物が雑草の中にもあって、タンポポも日本古来の在来種より洋花タンポポの方が多い感じがします。海岸や河川敷きには春になるとキンケイソウもたくさん見られるようになって、草の世界も国際化真っただ中というところです。

 先日人間牧場で見たこともないような草花を見つけました。多分酪農家から貰って畑に入れた牛糞の中に混じった種が発芽したのではないかと思うのです。聞けば乳牛の餌は殆ど外国からの輸入飼料に頼っているようなのです。池は外来種のブラックバスに占拠され、野の花も草も外国産と国産が、また人間の世界や情報の世界でも国際化の波は留まることはないようです。アメリカのサブプライムローンによってはじまった世界同時株安や円高は、これまた国境のない厄介な国際問題に発展しようとしています。アメリカがくしゃみをすると日本が風邪を引くというのは昔の出来事だと思っていましたが、まだまだ日本は本当の力がないのかも知れません。

  「花を見て 昔の無知を 恥ずかしむ セイタカアワダチ 公害花とは」

  「花・人も 情報までも 国際化 外国生まれの 日本育ち」

  「メイドイン ジャパン自負する 私でも 帽子はチャイナ 音笛チャイナ」

  「そういえば チンゲンサイを 播いたっけ これもチャイナだ 中華料理も」

 

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shin-1さんの日記

○サインしてください

 昨日突然わが家に来客が見えられました。聞けば高松の人らしく、以前伊予銀行の雑誌で夕日に関する私の記事を読んだ記憶があって、町を通過する時シーサイド公園でそのことを思い出し、特産品センター受付で聞いたそうです。受付の人は私のことを微細に説明したそうですで、「若松さんなら今日は家におられるようなので連絡してみましょう」と電話の第一報、たまたま電話に出た私は道が不案内ということもあってシーサイド公園へ迎えに行きました。中年3人の品の良いおばさんたちで、わが家へ来るなり私設公民館煙会所や海の資料館海舟館などを見学し、伊予銀行の雑誌で紹介されていた人間牧場も見てみたいというのです。

 中年の品の良いおばさんには目がない私ですが、「もう直ぐ来客が来るので」と断ると、「せっかくなのでそのお客さんが帰るまで待ちます」と食い下がるのです。仕方がなく引き受けてしまいました。やがて来客は予定通りやって来て、予定通り公園の打ち合わせをして帰って行きました。その間畑の方をうろちょろしていた3人の品のよいおばさんたちは、秋ナスやピーマン、シシトウ、それに間引きした大根葉を目敏く見つけ、欲しいというのです。品が良いと思っていたおばさんたちがオバタリアンになり下がってしまいましたが、ナイロン袋を3つ用意してお目当ての野菜を入れてあげました。その作業をしながら、「はてさてこのおばさんたちは何の目的で来たのか」と疑いたくなりましたが、約束したので内心仕方なく私の乗用車に乗せて人間牧場へ行きました。

 人間牧場ではやれ「足湯がしたい」だの、カラスウリが欲しいだの「畑の隅にあるシキビを分けてください」とわがまま放題です。もっとわがままは私の落伍を聞きたいというのです。「落伍の演技は有料で木戸銭が要ります」と断る理由を話すと、「あなたの出版している本を人数分全て買いますので」と開き直られました。そこまで言われ、「上げ膳食わぬは男の恥」とばかりに、裂織の羽織を着て切り株高座に座布団を敷き、落伍を演じきりました。何せこのおばさんたちは今晩松山へ泊る予定なので、時間はたっぷりあるのです。そんな奔放なおばさんに甘い顔を見せのこのこお相手をしてしまった私を、自分ながら深く反省しましたが、乗りかかった船ゆえに誠心誠意お相手をさせてもらいました。

 お陰さまで「昇る夕日でまちづくり」1500円、「今やれる青春」(1200円)、「夕日徒然草」(500円)の3冊に、竹で作った赤トンボ(500円)の3700円×3人分=11,100円が私の懐に入りました。その方たちは2万円を差出しましたが、「お釣りがないので1万円でいい」というと、「野菜も含め、足湯代も含め、落伍出演料も含め2万円で」と、断る私をさえぎるように私のポケットへねじ込みました。

 そして「厚かましいお願いですが、この本すべてに全部違った言葉をサインして欲しい」と、これまた無理難題をいいました。これまでにも25冊全部違った言葉を書いた記憶があるので、その場でサインペンを使いスラスラ目の前で書いてあげましたが見ていた3人は目を丸くして感心していました。お金をいただくと私はまるで別人のような念の入れようで、名前の下に友人が作ってくれたてん刻の印まで押してあげました。最初は品のあるおばさんがいつの間にか図々しいオバタリアンになり、再び品のある奥さんに変身した瞬間でした。お陰で私はぼろ儲けしましたが、そのお金は人間牧場の新たな投資に回すため、夕日徒然草貯金に回しました。

 時としてこんなハプニングに会うのも人間牧場あっての物だねと、人間牧場の効果を喜びましたが、このおばさんたちは、「今度はあなたの話を高松で友人に聞かせるため講演会を開きたい」と日程まで決め、願わくば来春その人たちをこの人間牧場へ連れてくるツアーまで計画したいと意気込んでいました。

 あっけにとられた私を尻目に彼女たちは夕闇せまる双海町から次の目的地松山へ消えて行きました。何ともはやい1日でした(笑う)

  「サインして 思わず迫る おばさんに たじろきもせず まるでスターだ」

  「九冊の 本それぞれに 違う文字 書いて手渡す 感心しきり」

  「世の中は 色々な人 いるものだ ポンと二万を ポケット入れて」

  「おばさんが いつの間にやら オバタリアン 帰り際には 品よい奥さん」

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shin-1さんの日記

○農地を購入して農業をやりたい奇特な人

 「若松さん、今日は家にいますか?」と7時ころ電話がかかりました。妻が電話に出て、「お父さん電話ですよ」と呼ぶので、7食事中で口の中に物を入れているため、少し長めのローカをわざとゆっくり玄関先に置いている電話のもとへ行き電話に出ました。松山近郊に住む友人で、3日前にもわが家を訪ね、相談に乗った矢先でしたので、「今日は午後から来客予定があって、昼までならいるよ」というと、「例の件ですが、迎えに行きますので、現地を見てくれませんか」というのです。

 3日前の彼の相談とは土地を買って農業をやりたいという相談でした。私はただでさえ厳しい農業を55歳になって敢えてやろうとする意志は大したものだと思いつつ、つい悲観的な話をしました。儲けなくてもいい農業は楽しいが、飯を食わなければならない農業は難し」というと、彼もそれは百も承知のようでした。彼は「松山平野が一望できる素晴らしい絶景の所に1町2反ほどの土地があって売りに出されている。千載一遇のチャンスなので、この土地を買ってニンニクや野菜を無農薬で育て、それに果樹を植えて果物を販売したい」と熱っぽく語りました。その言葉にまたも私は「農業でモノを作るのに見晴らしが良いことなど何の意味もない。果樹を植えるというが今年植えても収穫できるのは5年後で、それまでどうするのか。野菜は無農薬だと素人では殆どできない」と散々反論していたのです。彼は私の話に納得し帰り際「そりゃあそうですよね、あなたの言うとおりです」と諦めたような顔つきで帰って行きました。

 ところが今朝は、あれほど私にボロ糞に言われたにもかかわらず、候補地を見てくれというのです。「迎えになど来なくても私の方から行きます」といって9時に家を出ました。今日は天気も良く車の窓を少し開けて走るとさわやかな秋の風が心地よく車内に入ってきました。彼が経営する修理工場に車を置き、彼の運転する車に乗って5分ほどで、雑木と竹と雑草が生い茂る候補地へ到着しました。

 なるほど彼が言うように見晴は抜群のところにありました。候補地には舗装した農道が入っていて、竹林、雑木林、元畑と大まかな分類がされていて、半分はかなり有望な農地に見えました。しかし問題はこの荒れ地をどのように農地に戻すか、私がこの3年間苦労して人間牧場を作った思い出が蘇り、こりゃあ大変だと思いました。

 問題は金額と家族の理解、それに農業経営です。それとはなし家族に伝えているようですが、はてさて55歳の彼の熱い思いを家族が前向きにとらえてくれるかどうかです。また自動車修理工場を息子さんと営んでいるのですが、これから75歳まで20年間農業をした後の農業を誰が継ぐのか、これも大きな問題です。また金額も自分の老後を考えると、これまた大きなチャンスであると同時に大きなリスクも背負わなければならないのです。

 見学後彼の自宅、息子さんの自宅をそれぞれ訪問しましたが、今の幸せに満足せず次なる夢を追いかけている彼の姿に、かつての自分を重ね合わせながら色々と考えさせられました。途中彼の仲間がやっている窯元へ立ち寄り、間もなく開催される青年の船班長会の記念品をみつくろいました。赤トンボをあしらったマグカップの手ごろのがあって、20個ほど注文してお暇しました。

 人には様々な夢があります。人間はやはり夢を食べて大きく成長するのだと思います。外から見れば「何でそこまで」と理解できないことでも、その人にとってみればかけがえのないのが夢なのです。今度会った時は夢の実現に向けて大きな力にはなれなくても、ささやかな後押しをしてあげたいと思い彼と別れ、旧青年の家の森本先生に無理なお願いをしていた16ミリのフイルムを貰い、東京からのお客様を迎えるためわが家へと急ぎました。

  「農業を やりたいのだが 相談に 言われて二の句 継げずもじもじ」

  「儲けない 農業は楽 食うための 農業苦し それを説得」

  「見晴らしが いいので土地を 買いたいと 甘い言葉に 少しお灸を」

  「夢を追い 夢の実現 するために 真剣話す 姿勢活き活き」

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shin-1さんの日記

○小さい秋を見つけました

 昨日は久しぶりに予定が全空きでしたので人間牧場へ行き、草刈り作業をやりました。このところの雨の日が多かったせいか、水分をたっぷり含んだ雑草が勢いよく伸びて、一面緑色に覆われていました。前回の草刈りからかなり日数が経っているので、前回刈り残した所は草がかなり硬くなっていたので、思い切って草刈り機の刃を替えてて望みました。最近の草刈り機の刃は2枚2千円程度の鋸刃型で、我慢して使えば1年間は使え、昔のような2枚刃や3枚刃のように石や草片が飛び散り体に当たることも殆どなく楽に草刈り作業が行われるのですが、使い捨てのためもったいないような気もします。

 この時期の草刈りは主に3つの効果があります。ひとつ目は今年最後の草刈り効果です。春から夏にかけて勢いよく伸びる草を何度刈ったか分かりませんが、いよいよ今年最後の草刈りで、雑草はこれから来春まです深い眠りにつくのです。2つ目はハズムシの発生を防ぎます。この時期蛾の幼虫であるハズムシという尺取り虫が異常に発生して一夜にしてハズの葉っぱを食べつくすのです。黄色味を帯びたハズムシはよく見ると可愛いのですが、慣れない人は気持ちが悪いそうで、人のよく集まる人間牧場では敬遠されるので餌となるハズを刈り取るのです。もうひとつは別名泥棒草と呼ぶ2種類の草の除去です。このころになると泥棒草は結実してその実がズボンや服や軍手にやたらとまとわりついて落ちにくいのです。これは人間牧場の厄介者で、既に早いものは結実していて、昨日も少し作業服に付着して困りました。まあそんなこんなで昨日は新しい草刈り刃と、さわやかな秋の天気に助けられて作業効率がよく、朝9時から夕方4時まで刈ったお陰で殆ど全ての草刈り作業を終えました。

 途中電話が入り水産高校の先輩である玉井恭介さんが豆腐を持ってやってきました。彼は面白い生き方をしている人で、会う度に違った名刺を持ち歩いているのです。昨日は豆腐の宣伝です。大豆の豆を特殊な機械で超微粒子ノナにして豆腐を作ると、厄介者といわれるおからが出ない豆腐が出来上がるそうです。冷えたままのプリンに似た触感を味わいながら二人で試食してみました。確かに味はよく新製品の目安である発想、値段、健康、環境などをクリアしており売れるかも知れないと思いました。丁度昼時で弁当を忘れていたので、大好物の豆腐一丁をペロリ平らげてしまいました。玉井さんは当分豆腐の普及に力を注ぐようですが、豆腐の角に頭をぶっつけないよう注意をして山を下りて行きました。

 人間牧場もすっかり秋の気配です。山栗は色づいて落ち、ススキも秋の風を受けて涼しげに揺れていました。畑の隅で面白い秋を3つ見つけました。ひとつはキノコです。草刈りをしていて草むらで見つけましたが、何とも奇妙なキノコです。多分毒キノコでしょうが、その姿形の奇妙さに思わず見とれてしまいました。自然とはこんな造形物を作り出す力があるのかと感心しきりで、思わず草刈り機のエンジンを止めて見とれてしまいました。



 二つ目は私の地方ではチチモモという木の実です。多分イチジクの原種でしょうが、真黒に熟すとイチジクと同じ味がして美味しいのです。食べ物の少なかった子どもの頃はよく食べたものです。2~3個摘んで食べましたが昔懐かしい味でした。

 三つ目はカラスウリです。この牧場も昔はミカン畑でしたが、一時放任円園なって野生化したため、カラスウリの球根がやたらとはびこっていました。その名残のカラスウリのツルが夕顔のような花をつけ、結実したのです。カラスウリの実は青い頃は縞模様、稔ると鮮やかなオレンジ色になるのです。木に巻き付き実をつけたカラスウリはもう熟れていました。秋がだんだん深くなる人間牧場です。

  「草刈り機 音もさわやか 山々に 響き渡りて 斜面を進む」

  「見上げれば 空に雲行く 長閑なり 今年最後の 草刈り励む」

  「そこここに 秋の気配の 漂いて 熟れたウリなど 写真に収む」

  「芝栗の はじけて飛んだ 実を拾い ポケットいっぱい 大きく膨れて」

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shin-1さんの日記

○サギの被害に遭いました

 「わが家はサギに遭いました」と書けば、「えっ、ウソ~」とか、「えっ、本当?~」などと問い直され、「もしかして振り込め詐欺では」と言われそうですが、わが家が被害に遭ったのは詐欺ならぬ鳥サギの被害なのです。

 数日前の月曜日、娘たち家族が泊まりにやって来た折、倉庫の屋根に止まっている大きな鳥を見つけ大騒ぎをしていました。羽を広げれば1メートルもあるような娘たちにとっては見たこともない水鳥です。何年か前シーサイド公園の池の鯉がサギの被害に遭ったことを思い出し、どうも家の隅にある池の魚を狙っているようなので、石を投げて追っ払いました。多分この仕打ちに恐れをなしてもう来ないだろうと鷹を食っていたのです。ところが一昨日の朝そのサギが池に降り立ち、親父が朝晩餌をやって大切に育てていたフナ金10匹のうち7匹までが餌食に遭ってしまったのです。親父の落胆は相当なもので、後の3匹を守ろうと昨日は一日がかりで金網で池の蓋を作ったのです。金物屋へ金網と木枠の材料を買いに行き、朝からその作業に追われていました。しかしその作業中もサギは残った3匹のフナ金を狙い、金網の蓋ができる30分前、親父の目を盗んで残りの3匹を食べてしまい、どこかへ去って行きました。

 詐欺なら警察へ被害届を出すのですが、サギなので苦情窓口もなく自然の成り行きとして泣き寝入りするしかないのです。長年大切に育てていた大きな鯉が昨年、原因不明の病気にかかり死んだ時は、池まで潰して嘆き悲しんだ親父ですが、今回は買い始めてまだ1年足らずということもあって、以前ほどではないにしても、やはりショックはあるようです。

 前日やって来た息子に、別府養魚場でまた買い求めて欲しいと頼んでいました。詐欺ならいざ知らず鳥のサギも相当な悪者で、歳老いた親父のささやかな喜びを奪い取る行為は絶対許せないのです。今は主のいなくなった池の上に親父の作った金網の蓋がむなしく置いているのです。

 最近はシラサギなどの水鳥が沢山増えたような気がします。トラクターで田んぼを中耕している後ろでは、掘り起こされた土中から出たミミズを狙って臆することもなく群がっている光景を何度も見ましたし、アユが遡上するころになると、浅瀬で待ち構えて食べている水鳥をよく見かけます。またこれらの水鳥は淡水魚を食べるものとばかり思っていましたが、近頃は海辺にも集まって、カモメならぬ水鳥が小魚を啄んでいるのです。環境の変化を思わずにはいられないようです。

 人間が人間をだます振り込め詐欺も、日本全国では相当な数に上っていて、警察も強化月間を設けて高齢者が被害に遭わないよう本格的に取り組むようになりました。私も初期のころそのターゲットにされた経験がありますが、幸い未遂に終わりました。息子が交通事故を起こしたという想定で、息子は電話に出れないほど消沈していて、示談で済ませるからお金を振り込んで欲しいという犯人からの電話を聞いた時は、私もお金を用意しなければならないと思った程です。でもお金は妻が管理していて私は直ぐにお金を用意できないとワンクッション置いたお陰で難を逃れたのです。

 わが家は詐欺にも狙われ、今度はサギにまで狙われ人間より知恵が勝ったサギはものの見事に魚を奪って逃走して完全犯罪が成立しました。次回からは詐欺にもサギにも二度と会わぬよう備えを強くしたいと思いました。

  「詐欺ならぬ サギに魚を 食べられて 親父落胆 犯鳥逃走」

  「振り込めは 機転未遂で 良かったが サギの被害は これから先も」

  「このサギは 被害届も 出せぬので 結局最後 完全犯罪」

  「水鳥が 何故か増えてる 可笑しいな これも環境 変化と見るか」

 

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shin-1さんの日記

○生協コープえひめ合併5周年記念講演会・祝賀会

 昨夕コープえひめ合併5周年の記念講演会並びに祝賀会に出席しました。これまでにも結婚式や祝賀会など華やいだ式典や祝賀会には何度も出席し、それなりの席をいただきそれなりの役目を果たしてきましたが、受付で「若松さん、あなたの御席は4番のテーブルです」と知らされたので、広い会場に入りお目当ての席を探しましたが、4番テーブルに私の名前は見当たりませんでした。そのうち次々と列席者が詰めかけ、困ったなあと思いつつウロウロしていると、顔見知りであるコープえひめの白川さんやコープしこくの梶原さんが一緒に探してくれましたが、私の席は4番ならぬ3番のテーブルだったのです。前に5列並んだ1~5番のテーブルは普通は来賓席、しかも3番は主賓席なので、間違いではないのかな?と身分をわきまえて思いましたが、固辞することもできず指定された御席へとりあえず着席しました。しかし同じ席には講演予定の日本生協連の山下会長さん、コープえひめ理事長の大川さん、愛媛県県民環境部長の長野さん、松山市副市長の岡本さん、松山大学長の森本先生、愛媛経済同友会代表幹事の稲葉さんなど、内外の顔ともいえるそうそうたる顔ぶれなのです。こんな高い席をいただく理由もなく、少し沈んだ心になりましたが、それでも「日本の生協の未来について」と題した日本生協連山下会長さんの話に熱心に耳を傾けました。山下会長さんの話は中国ギョーザ事件の真相に触れながら、日本や外国の食に関する様々な問題点をあぶりだして話されました。生協連トップの話など滅多に聞けないので、改正生協法や生協の未来について聞くことができとても参考になりました。ただ惜しむらくは1時間半の講演予定が講師の思い違いか確認ができていなかったのか、2時間に引き延ばされたことです。私は時間延長してでも聞きたい話でしたが、祝賀会も予定されていて少し白けた雰囲気は否めませんでした。

 結局予定されていた松本専務のコープえひめ近況報告はカットされ時間は引き戻されましたが、私は次の会議がセットされていて、僅か30分間祝賀会に参加しただけでやむなく席を立たなければならなくなりました。しかし上席をいただいたご恩には報いなければならないと、メーンテーブルの方々と名刺を交換し少し長めのお話をさせてもらいました。取るに足らない私のイラスト名刺の効果は抜群で、皆さんそれぞれ私のことや夕日でまちづくりをして実績を上げた双海町のことはよくご存じで、むしろ逢いたかったと盛んに会話を求めていただき、観光やまちづくりについて様々な意見を求められました。

 コープえひめの有識者理事に就任して2年4ヶ月が経ちました。その間慣れない役職に翻弄されながら、月に一度の理事会に出席したり、生協がらみの研修会に参加したり、また機関紙にエッセーなどを書いてきましたが、今更ながら生協運動や活動の奥の深さを噛みしめいています。幸い大川理事長さんや松本専務さん、それに理事さんたちの温かい人間性に触れて少しずつ前へ進んでいるようです。その意味で昨日の山下会長さんの話は新居浜出身ということもあってとても参考になりました。

 この日は地元密着をPRする四国・九州アイランドリーグの選手の皆さんも会場に来ていて、ロビーや会場で盛んにPRや交流をしていました。また会場には今回の祝賀会の主催団体であるコープえひめ虹の会の皆さんも沢山いて、何年か前虹の会で講演したことがきっかけで、あちらこちらに招かれて話した顔見知りの方もいて、嬉しい再会となりました。全日空松山ホテル南館を後にした私は、その足で仲間の待つ次の会場へ小走りで出かけ、10時過ぎにその会も終わって帰宅の途につきました。

  「東京を 舞台に動く 著名人 話の奥を 探すは自分」

  「高い席 俺に不相応 面映ゆく それでも仕事 交遊温め」

  「ああ夕日 あなたですかと 手を握り 逢いたかったと 追い打ちかける」

  「生協に 入って知らぬ 世界知る 未熟さもろで 赤面しばしば」

  

 

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shin-1さんの日記

○戦争を語った史談会

 私の町の史談会が立ち上がって3年になります。きっかけは町誌編さんでした。私が町の教育長の時マニフェストとして始めた町誌編さんは、合併まで僅か2年というタイムリミットがあったのでかなり切羽詰まり状態での編さん作業となりましたが、多くの方々のご協力をいただき何とか目標通りの成果物を出版することができました。その折集まった方々と少し歴史談義でもしようかと始めたのですが、事務局を担当していた中尾先生がウィーンの日本人学校へ赴任してしまい先行きが危ぶまれましたが、幸い歴史に詳しい元高校校長の磯田先生が事務局を引き継いでもらったため、2ヶ月に一回の例会も15人くらいが集まって勉強会が行われているのです。

 昨日は祠堂調査の進み具合について意見を出し合い、シリーズで行っている「戦争を語る」というテーマで二人の人が宅話をしました。

(戦争を語る梶原先生)

 最初に話したのは開業医の梶原先生です。大分県耶馬渓生まれの先生は学生時代に戦争を経験し、医大の前身である朝鮮の医専で医学の勉強をされ医者になりました。果敢な青春時代は戦争の真っ只中で、かなりの苦労があったようですが帰国後医者として熊本に赴任し、三机を経てわが町へ来られて開業し今に至っています。先生は長らく町の文化協会会長としてボランティア活動をされましたが、高齢になった今も元気で現役医者として活躍しています。

 次に話したのは農業を営む久保進さんでした。久保さんは女学校に通うお姉さんが徴用先の今治で空襲に遭い死んだ話をされました。まさにもう一つの戦争です。当時小学校6年生だった久保さんはお父さんに連れられて、身元すら分からないように焼い弾で黒く焼け焦げたお姉さんの遺体と面会したそうです。焼け残った僅かなリュックの紐にお姉さんの名前が残っていて身元確認ができたそうですが、懇ろに弔ってくれた柳沢という人の思い出話はこれまた涙を誘うような話で、胸が詰まりました。

 私は昭和19年の生まれですから正直戦争の思い出などは全く皆無です。でもそんな時代に生まれたせいか、祖母や父から戦争の思い出は嫌というほど聞かされました。親父が戦地に赴いた銃後の暮らしは子だくさんだった故に祖母にとっても母にとっても筆舌に尽くし難い苦労の連続だったようですが、それでも必死に貧乏と戦いながら生きてきたのです。特に祖母は久保さんと同じように二人の娘を徴用先の大阪で戦火で焼け死なせているので、涙も枯れるほどの辛さだったようです。

 さて、皆さんの話で、来年の春までに自分の戦争体験手記を書くことになりました。400字詰原稿用紙10枚以内にまとめるよう指示がありましたが、戦争体験のない私にとって「戦争」を語ることは残念ながらできませんが、わが家の海の資料館「海舟館」に大切に保存している戦争の遺物について書こうかと今朝ひょっと思いつきました。資料館には特に珍しいとされる紫電改の機銃が展示されています。また魚雷のエンジン部分とプロペラもあります。機銃と魚雷の向こうには戦争相手であるアメリカを意識した敵が存在しており、武器の持つ破壊行動も見え隠れするのです。

 戦争を語り継ぐことは平和への大きな一歩ですし、戦争を知らずに育った人たちが多数を占めるようになった現代ゆえにその重みはあるのですが、武器という目に見える物体を通して戦争の愚かさを伝えることもよりリアルで、心を揺さぶられるのです。

 少し親父の話を聞いてまとめてみたいと思っています。

  「戦争の 話を聞く度 思い出す 涙を流す 祖母の姿を」

  「わが家には 戦争語る 武器ありて 平和を語る 親父健在」

  「戦争を 知らず育った 私だが 耳に残りし 戦争話」

  「過ぎ去りし 六十年の 時を超え 生々しくも 語る戦争」 

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