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〇月の引力の見えるまちでの講演(その1)

私が関わり全国公募して作った私たちの町の、「しずむ夕日が立ちどまるまち」というキャッチフレーズも素敵ですが、佐賀県太良町の「月の引力の見えるまち」も、とても素敵なキャッチフレーズです。夕日や月をテーマにした2つの町のキャッチフレーズは、コスモス(宇宙)を連想させます。

 

干潮時の太良町(港が完全に干上がっている」

その太良町で開かれた全国過疎シンポジウム第5分科会に、パネラーとして招かれたのは、昨年の10月20日でした。その時の私の話が良かったのか、同じ太良町から今度は町の総合計画を策定するので、スタートアップ講演会を開きたいから、是非講演をして欲しいと頼まれ、一も二もなく引き受け出かけました。

太良町は佐賀県でも長崎県に近い場所に位置していて、潮の干満の差の激しい有明海に面しています。ルートは双海~松山~瀬戸内海~広島~関門海峡~博多~肥前鹿島~多良へと、何度も船や列車を乗り継がなければならない、少し遠い場所です。前夜に家を出て最寄りの多良駅に到着したのは、三連休初日の9月15日午前8時58分でした。総合計画作成を請け負っている株ジャパンインターナショナル総合研究所の和宗さんに駅まで迎えに来てもらい、太良町総合福祉センターしおさい館に到着したのは開会前50分でした。

講演会のチラシ

 会場下見とスライドの確認、町長さんはじめ町のお偉方と名刺交換やあいさつを済ませていると、参加者が次々と集まり時間通りの10時に講演会は始まりました。それからたっぷり2時間、「まちづくりの新しい風」と題してお話をさせてもらいました。

「おらが町 しずむ夕日が立ち止まる 何とこの町 月の引力 見えるまちです」

 「干満の 差は最大で 7m 満潮干潮 違う面積」

 「この町へ 来るのは二度目 あれやこれ 覚えていたので 随分助かる」

 「まちづくり 新しい風 吹かそうと 息も切らずに 2時間話す」

 

 

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〇小さな秋

 このところ秋雨前線の影響で、足繁く雨が降ります。私的には「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と、雨降りもポジティブに考えて行動していますが、毎日何かと忙しいため、天気のサイクルと私のサイクル、それに農作業のサイクルが一致せず、多少焦りを感じています。

今朝はパソコンで雨雲の動きを見ると、朝から昼までは雨が降らないようなので、外が未だ開けやらぬ午前5時、朝散歩に出発しました。5時19分に上灘川に架かるJRの長~い鉄橋を一番列車(安全確認列車)が走るのを頭上に見上げながら、伊予銀~老人憩いの家~川向の道~一本橋~双海中学~高村電器~自宅と約7千歩を歩き、汗をかきました。

道端に野生の白いニラの花がいっぱい咲いていました
わが家の下の田んぼも黄金色です
カラスウリも赤く熟れ始めました

 その間ズボンのポケットに入れているデジカメで、思いつくまま小さな秋をカメラに収めました。小さい秋がそこここに見えました。写真を撮っていると、近所の顔見知りのおばさんからミョウガを沢山いただきました。秋ミョウガも早速今夜は夕食に食べます。

「このところ 足繁く降る 秋雨に わがスケジュール 狂わされてる」

 「雨雲の 動きパソコン 画面にて 確認降らぬ 確認散歩」

 「そこここに 小さな秋を 見つけたり 今が一番 いい気候かも」

 「おばさんに 両手いっぱい いただいた ミョウガ食べると 馬鹿になるかも」

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〇行く夏の名残り

 一日に1分程度ながら毎日日没が早くなり、昼の時間と夜の時間が逆転しつつあります。あれほど賑やかに鳴いていたセミの声もいつしか遠のき、時折雨がぱらついたシーサイド公園の砂浜には人影もなく、波が静かに打ち寄せていました。

砂浜に流れ着いた流木もアート

 今年は7月の西日本集中豪雨災害の折、川から流れ出た大量のゴミや流木が砂浜に漂着し、美観を損ねていましたが、そのゴミも沢山の人の努力によってどうにか片付き、元の綺麗な砂浜になりました。その象徴のように恋人岬のすぐ横の砂浜に、かなり大きな流木がそのまま名残のように置かれていました。

 流木は砂浜の波打ち際にあると、まるでアートの作品のようです。島崎藤村の「椰子の実」という歌を思い出しましたが、「この流木は一体どこから流れ着いたのだろう」と思うと愛おしく、流木の上に腰掛けて、遠く近くに見える島影を見つつ、浪打ちの音を聞きました。

デイゴの花が咲いています
まるで花火のようです

 モアイ像のある中庭に、奄美大島瀬戸内町から貰って植えたデイゴの木があります。開園当初は小さかった木も20数年の時を超えてすっかり大きくなり、毎年真っ赤な花を咲かせてくれていますが、今は名残花の季節で、気温が下がると葉を落として冬ごもりします。「ああ今年も暑かった。また来年」と言っているようでした。

「砂浜に 人影もなく ひっそりと 波打ち際に 流木ひとつ」

 「川海を 流れ流れて 辿り着く 流木腰掛け 行く夏思う」

 「流木と 白い砂浜 絵になるな 島崎藤村 口ずさみつつ」

 「中庭の 真っ赤に咲いた デイゴ花 夏惜しみつつ 見る人もなく」 

 

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〇荒らされた野菜畑

 秋雨前線の影響で雨が降る前に種を蒔いた大根や葉物野菜の芽が、順調に発芽して喜んでいたのに、今朝畑を見回りに行くと、畑の中が何やらおかしいことに気がつきました。大根畑はまるで鍬で耕したように掘り返され、小松菜やカブ、高菜、春菊類の畑には大きな足跡です。

モグラが掘り返した大根畑

今までの経験から考えると、畝土の掘り返しはモグラ、足跡はイノシシのようでした。地力を高めるため有機肥料である牛糞や豚糞などを入れているため、畑の土の中にはミミズが育って土を粉々に分解し、柔らかくしてくれるのは有難いのですが、ミミズはモグラの格好の餌となるのです。

 

イノシシが歩いた葉物野菜畑

地上ならいざ知らず地中のモグラの行動は防ぎようがなく、お手上げ状態です。イノシシ対策は畑の周りを金網で囲っているため、万全だと思っていましたが、どうやら下の田んぼの畔のミミズを食べた後、私の背丈ほどもある石垣をよじ登って侵入したらしく、家の裏も何ヵ所か掘り返されていました。あ~あです。

今のところ種を蒔き直すほどではないので、祈るような気持ちで見守っています。順調だった冬野菜の準備も、最初からケチがつきました。来週にはブロッコリーやケール、キャベツ、白菜、カリフラワーなどの苗の植え付けを予定していますが、無農薬栽培のため植え付けたら防虫ネットを張って害虫から野菜を守ることもしなければなりません。忙しくなりそうです。

「昨日朝 畑見回り 仰天し やり場もなしに 心沈んで」 

 「地上戦 加えて地中 戦争だ モグラ・イノシシ イタチごっこだ」

「イノシシや モグライラスト 可愛いが 悪戯見ると 憎さ百倍」

 「仕方ない 循環社会と 思いつつ それでも諦め 出来ぬ算段」

 

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〇誕生日の似顔絵プレゼント

 わが家には長男息子家族が同居しています。息子に若嫁、それに3年生と5年生の2人の男の子の孫がいます。わが家における私の存在は、育爺だと自分では認識していますが、孫たちにとっては口うるさい爺さんのようで、時々言うことを聞かないので衝突したりもしますが、孫の存在は私たち夫婦にとって活力となっています。

孫の画いた似顔絵

8=や・30=さいの日と覚えている8月30日、5年生の孫希心が11歳の誕生日を迎えました。孫たちはプレゼントを貰えるからでしょうか、誕生日が来るのを楽しみにしています。年金暮らしをしている私たちにしてみれば、子どもや孫の誕生日が来る度に、誕生日のプレゼントが必要で、ある意味バーズデー貧乏といった感じですが、せいちょうと喜んでもらえる喜びに浸っています。

孫希心の誕生日の前に3年生の孫奏心が、お兄ちゃんの似顔絵をサプライズでプレゼントするらしく、密かに準備を進めていました。その似顔絵に家族のメッセージを書いて欲しいと頼まれたので、みんなが書と名コメントを書きましたが、孫奏心の似顔絵はとてもよくできていて、その出来栄えにみんなが驚きました。

「小さい頃は神童と思っても、大きくなればただの人」という言葉がありますが、手前味噌ながらよくできた似顔絵を家族みんなで褒めてやりました。早速私たちのダイニングの板壁に押しピンで留めて、食事の度に眺めています。子どもも孫も同じように生み育てたつもりでも、性格や能力が微妙に違っていて、残念ながら私たち夫婦に似て、飛びぬけて優秀な子はいませんが、まあそれなりな平凡な子どもに育っています。まずは健康が何よりです。

「同居孫 兄の誕生 サプライズ 似顔絵書いて みなで寄せ書き」

 「将来は 絵描きになれば いいのかも 思えるほどの 出来栄え感心」

 「似顔絵を 板壁貼って 眺めつつ 時折誉めて その気にさせる」

 「将来は 何になりたい 聞いたけど 先は長いと はぐらかされて」

 

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〇大雨の中の子育て講演会

 サンデー毎日ゆえ曜日など殆ど関係ない、いたって気楽なご隠居さんのはずなのに、人が休む土・日曜日や夜を利用した集会やイベントが、休む間もないほどあります。妻「何でそんなに忙しいの?」、私「分からんけど忙しい」、妻「いつまでするの?」、私「死ぬまで」、妻「いつ死ぬの?」、私「とりあえず85歳まで!!」なんて、まるで夫婦漫才のようなやり取りを交わしながら、相変わらずさも忙しそうに家を留守にしています。


講演会に集まり始めた参加者

 昨日はあいにく一日中雨でした。こんな日は晴耕もできないため、のんびり雨読でもと思いますが、相変わらず昨日は愛媛県の東の端に位置する、四国中央市で開かれた子育て講演会に招かれ、13時30分からの開催だったので、午前10時ころ自宅を出発しました。行きは地道を中心にのんびり走り、30分前に会場である保健センターへ到着しました。30人ほどの小さな集会でしたが、予定された席がすべて埋まり、40人ほどが集まりました。

会場には顔見知りもいたり、伊予市出身で両親の出身が八幡浜という女性に声をかけられたりして、90分間の講演会も持論の楽しい話を行い和気あいあいでした。帰り道、土居から高速に乗った頃から激しい雨が降り出し、松山まではワイパーも効かないほどの土砂降りでした。台風でもないのに秋雨前線が停滞し、カーラジオからは警報や注意報、避難準備、避難勧告などの情報が次々流れ、何でこんな天気になるのだろうと、最近の激しい雨の降り方に首を傾げました。

まだ陽が高いはずの午後5時過ぎだというのにまるで夕暮れ状態の中をライトを点けて、無事自宅へたどり着きました。自分の年齢からすると多少スケジュールが立て込み過ぎているような気がします。健康だから何とかこなしていますが、7月のようにある日突然ぎっくり腰になったりすると、特に講演などは人を集めていることもあって、キャンセルができないため、難儀をしなければなりません。また今年の夏は度重なる大雨や台風の接近で、中止や延期を余儀なくされたりもしました。今は台風のシーズンです。もう暫くは天気予報に一喜一憂の日々が続くようです。

「妻曰く 何でそんなに 忙しい 分からないけど 曖昧返事」

 「いつ死ぬの? 思わずドキリ するような 返事が返る 夫婦漫才」

 「もう既に 健康寿命は 過ぎている 無理せぬ程度 ちょっと頑張る」

 「ワイパーが 効かぬほど降る 大雨の 中を高速 少しノロノロ」

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〇送られてきた「島の写真帖」

 先日親友の豊田渉さんから分厚い「島の写真帖」という一冊の本が送られてきました。先日送ってもらった二神島の豊田造船所にまつわる写真帖にも驚きましたが、今回の写真帖にもA5版250ページにわたり1700枚もの膨大な写真が掲載されていて、二度ビックリの手合いでした。

豊田さんから送られてきた島の写真帖

二冊とも編集・発行は長年二神家の研究に関わっている、旅する巨人と評される民俗学者宮本常一の流れをくむ、神奈川大学日本常民文化研究所ですが、収められた写真は豊田さん個人が撮影保存しているものが殆どで、長年にわたる二神島のかつての島暮らしの様子が一目で分かる貴重なものです。

送ってもらった写真帖の中に「由利島」という小見出しがついているページに付箋が付けられていました。150枚ほどの写真は、私は代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループが20年にわたって無人島キャンプをした思い出の地だけに、懐かしい気持ちでページをめくりましたが、その中には私たちが無人島生活をした懐かしい写真も掲載せていていました。

 中には無人島キャンプの折、ヤギを連れて島に渡りましたが、よ~く目を凝らして見ると、渡回船からヤギを下ろしているのは5年前の2015年7月11日に97歳で亡くなった私の親父の姿でした。記録は時として記憶を蘇らせてくれます。この写真帖に記録された島の暮らしの殆どは時代の流れとともに失われたものが殆どですが、これぞ庶民の生きた証だと、価値ある記録写真に大きな拍手を送りました。

「送られた 写真帖見て こりゃ凄い 庶民文化の 姿ありあり」

 「婦人会 青年団も 学校も 過去の記憶は 写真のみ知る」

 「付箋貼る ページ開けば 懐かしや 死んだ親父が いるではないか」

 「沖合に 浮かぶ二神 過疎の島 友人さえも 島を離れて」 

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〇通学合宿夕焼け村の夜

 昨日の夜は通学合宿夕焼け村の最後の夜なので、折から降り出した雨の中、潮風ふれあいの館のホールで、キャンドルサービスを行いました。夕方の打ち合わせで急遽私が火の神になることになり、私は自宅横の海の資料館海舟館に展示してあるお面の中から、狐面を選び持参しました。衣装は子どもたちが使っている上布団のシーツだけというシンプルな素材で、火の神になるよう、スタッフとして参加している吉永さきちゃんの手助けを得て、別室で作戦を練りながら準備をしました。

夕焼け村最後の夜のキャンドルサービス
狐面とシーツでにわか作りの火の神ができました
天一稲荷神社の狐に化けたつもりの私

8時過ぎ下のホールから歌声が聞こえ始め、ハミングに変わった頃を見計らってローソクに火を点け、腹に縛り付けた鍋を叩きながらみんなの輪の中へ入って行きました。一瞬その滑稽さにざわめきましたが、ローソクの明かりに照らされた私の神秘な姿?に、多少たじろいた様子で静寂が戻りました。すかさず火の神の言葉を大きな声で話し、5人の班長たちに友情の火、感謝の火、愛情の火、信頼の火、未来の火をそれぞれ分火し、その後全員のローソクに火が灯りました。

 自分たちの決意の言葉や、家族からの手紙、村長さんの話などで締めくくりましたが、とてもいい雰囲気で、思い出に残るキャンドルサービスとなりました。通学合宿最大の目的は親や家族と子どもたちを引き離すことです。引き離すことによってお互いの存在に気づき、自立・自律への第一歩を踏み出すのです。それは子どもたちの親離れだけでなく、親の子離れにもなるのです。子どもの数が少なくなったこのころは、親の子どもに対する過期待や過保護と、それにややもすると押しつぶされそうになる子どもたちの間に葛藤が生まれます。そこを乗り切れば親子の人間関係がスムーズになるようです。

「最後夜 キャンドルサービス 火の神に なって登場 上手い演出」

 「狐面、シーツ使って シンプルな 火の神最初 子どもドキドキ」

 「アドリブで こんな芸当 できまする 長年やると 腕も上がって」

 「親と子を 離して分かる 有難さ 作戦通り 親から手紙」

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〇2002号のちろりんだよりが届きました

先日親友の西川則孝さんから、「ちろりんだより」という手書きのB4新聞が送られてきました。西川さんは鳥取大学を卒業後同級生だった奥さんと結婚し、旧丹原町来見という地に入植して、「ちろりん農園」を開いています。何かのきっかけで知り合いとなり、以来親しく付き合っていますが、世間様から見れば少し変わった生き方をしていて、誰へつらうことなく自分の信念で動く彼の生き方に共鳴し、多くの人が彼の元に集まって来ています。何年か前彼が自宅の横へ小さなゲストハウスを造った折、わが私設公民館「煙会所」の分家と位置付けて、「第二縁開所」と書いた看板をプレゼントしました。

2002号のちろりんだより
丹原に市中での講演

その後彼の行動は、毎号送られてくる「ちろりんだより」でつぶさに見聞きしていますが、添え文によるとその「ちろりんだより」が200号を超えたようで、近々2冊目の本にするようで、その巻頭文を書いて欲しいと書いていました。前回出した「晴れときどきちろりん」という本にも頼まれて巻頭文を書きましたが、私のような名もなき田舎者に頼んでも、何の得策にもならないと思いつつ、「喜んで書かせてもらいたい」と電話を入れました。偶然ですが昨日は西川さんの家と同じ西条市丹原町来見にある、丹原西中学校から講演の依頼があり、夕方出かけて行きました。

50~60人ほどの小さな中学校ですが、金融教育実践校に指定されていて、金融広報アドバイザーとして、PTAや学校の先生たちに金融教育についてお話をさせてもらいました。時間がなかったため西川さん宅に立寄ることはできませんでしたが、いつの日か訪ねたいものです。校長先生の話によると西川さんの奥さん文抄子さんは丹原西中学校で相談員をしていたそうです。私が若かったころ西川さんや佐伯さんを中心に丹原若者塾が活発に活動をしていて、その指導に何度も足を運びました。あの頃若者だった人たちも年齢を重ねているはずです。お会いしたいものです。

「親友が ちろりんだより 郵送で 送ってくれて 隅々読んだ」

 「200号 凄いいことだと 感心し 早速電話 祝意伝える」

 「付文に 巻頭言を 書くように 書いていたので 書くこと伝え」

 「偶然に 近くの学校で 講演を 頼まれ金融 教育語る」

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〇西平一生さんの訃報

 昨日の朝、いつものように朝の散歩から帰宅し、ダイニングで新聞を広げながら朝食を摂っていると、9面の訃報欄隅に、「宇和島市高光・西平一生・73歳」という小さな文字を見つけました。「若しやあの西平一生さんでは?」と、信じられない気持ちで驚きながら、何度も何度も読み返しました。

 宇和島に住む西平一生さんは、青年団活動で知り合った親友で、私の直前の愛媛県青年団連合会の会長でした。西平さんが会長の時私は副会長を務め、その後西平さんから愛媛県青年団連合会の会長を引き継ぎ、愛媛県青年団邸連絡協議会長、四国市県青年団連絡協議会会長の要職に26歳で就任しましたが、西平さんの思い出は今も心の中で生きているのです。

一昨年宇和島市津島町安らぎの里という温泉施設で講演した折、会議が終わって入浴中に偶然出会い、お互いが裸のまま昔を懐かしみながら再会を喜び合いました。聞けば「悪性リンパ腫」というガンが見つかり、加療療養の末元気を回復しつつあり、久し振りに温泉へ来たようでした。造園業を営んでいた頃の日焼けした精かんな姿は影を潜め、蓄えた顎髭も白髪で、思い出の容姿とは幾分違ったイメージでしたが、1時間ばかりお互いが我を忘れて、青春時代の思い出を大いに語りました。

 西平さんの思い出はいっぱいありますが、一番は国立大洲青年の家の誘致運動です。室戸に殆ど決まっていた誘致場所を猛追して、大洲北只現地へ当時の坂田文部大臣を招いてひっくり返しました。新春早々当時の白石春樹愛媛県知事から「誘致決定おめでとう」と祝電を私宛に貰ったことは、今も忘れられない感激でした。また西平さんは造園業で門松を製作販売していましたが、自分の作った門松を南極昭和基地に贈ったのも有名な逸話です。

 わが家へも松山での会合の行き帰りに立寄っては泊まり、酒を呑みながら他愛のない夢を大いに語りました。今日の10時から葬儀がありますが、あいにく所用が重なり参列できないため、昨晩午後6時からの宇和島での通夜式に参列させてもらいました。まるで眠っているような穏やかな顔つきでした。奥さんや息子さん、それに顔見知りのかつての仲間にも出会い、お悔やみの言葉をかけ合いました。また一人、私の親友が帰らぬ黄泉の国へ旅立ちました。同年齢だっただけにことさら悲しい一日でした。

「新聞の 訃報欄見て 驚いた かつて肝胆 相照らす友」

 「二年前 温泉出会い 裸にて 昔話に 花を咲かせた」

 「思い出は 数限りなく あり過ぎて 昨日一日 心沈んで」

 「また一人 同年代の 親友が 黄泉の国へと 帰らぬ旅に」

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