人間牧場

〇元小学校の校長先生2人がやって来ました

 松前町に住んでいる元小学校の校長先生が2人揃って、昨日わが家へ見えられました。1人は年輪塾の塾生として、私が塾長をしている私塾活動に参加している水本諭先生です。先生とは現役の校長時代勤めていた小学校へ講演に出かけたのがきっかけでした。その後年輪塾に参加するようになり、特に年末恒例の人間牧場餅つきではこの数年、兵頭さんとともに私に代わって手臼をしてくれている器用な先生です。

和田由美子先生
水本諭先生

 もう1人はご存じわが町の木造校舎で有名な翠小学校の校長で退職した、水本先生と同じ松前町に住む和田由美子先生です。退職後松前町北公民館長をしたこともあって、子ども体験塾にも時々顔を出してくれているし、自らが運営に深く関わっているボランティア養成講座の折にも頼まれて何度か講演にも出かけ、わが家へも時々やって来るなど深い付き合いをしています。

 昨日の来宅要件は、まちづくりの活動の一環として計画している事業の組み立てについて助言を求めるお話でした。煙会所の囲炉裏に火は入れませんでしたが、ストーブを囲んでどうすればこれからの地域づくりが上手くいくか、色々と話し込みました。松前町は幅4kmほどの山のない平地だけのコンパクトな街です。東レや最近何かと話題の多い商業施設エミフルもありますが、町民のまちづくりに対する関心は今一のようです。

 いいとこ見つけ隊をスタートさせ、この数年様々な活動が行われ始めていますが、どうすればそれらを発展させれるか、知恵と力の出しどころです。私は伊予市民ゆえ、お隣の町をある意味よそ者として冷静に見つめることができるので、2人の先生の求めに応じ元伊予郡のよしみということもあり、これからもお手伝いができればと思っています。

「それぞれに 関わり多い 元校長 二人揃って わが家訪問」

「ストーブを 囲んであれや これ話す いずこも同じ 悩みも多く」

「退職を してもこうして 役に立つ 人でいられる 頭が下がる」

「無農薬 野菜お土産 あれやこれ 私作った 少し自慢し」

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人間牧場

〇暮れなずむ町

 ひと日の営みが終わる夕暮れ時は、自宅でのんびりくつろいで過ごす人が多いのに、私の場合はどういう訳か夕暮れ時になるとソワソワし始めます。妻からは「夕ご飯時にウロウロしないで欲しい」と、いつも文句を言われ、時々ズボンのポケットに入れている携帯電話が鳴り、妻から「今どこ?、食事の準備ができたので早く帰って!!」と呼び返される始末です。

2019年1月8日の夕日夕焼け
上灘漁港の赤い灯台
シーサイド公園の砂浜

 一昨日も5時過ぎに単車を走らせ、暮れなずむシーサイド公園へ夕日夕焼けを見たい衝動に駆られ出かけて行きました。寒い時期なのでそんなに多くの夕日見学者はいませんでしたが、何組かのカップルが引っ付き合ったり手を取り合って、西の彼方に沈む夕日を眺めていました。勿論邪魔をするでもなく、とっておきの場所に移動しながら夕日を鑑賞しました。

 冬のこの時期は乾燥した空気が澄んでいて、とても綺麗な夕日に加え、空が真っ赤に焼けて趣のある景色でした。あらん限りの知恵と力を出して造ったシーサイド公園も、いつの間にか24年の歳月が流れました。砂を大量に投入した人工砂浜や、近くに見える上灘漁港の赤い灯台も今や双海町の原風景となりました。いつまでも見飽きない景観でした。いきなりズボンの中の携帯電話が鳴り、妻が「今どこ?、夕食の準備ができたので早く帰って!!」と、相変わらずの口調で言われ、ハッと我に返りました。

「暮れなずむ 景色見たくて 単車乗り シーサイド公園 ひとり出かける」

「西の空 真っ赤な夕焼け 幾つもの カップル寒そう 寄り添い見入る」

「この公園 早くも四半 歳月が 流れ今年も 冬の風浪」

「赤灯台 点きつ消えつつ 道しるべ 沖に漁火 魚獲る船」   

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人間牧場

〇鯱の鬼瓦をいただきました(その2)

 鯱といえば名古屋城の金の鯱が有名ですが、日本家屋の屋根にも立派な粘土瓦の鯱をつけている民家を時々見かけます。それらは瓦の産地には鬼師と呼ばれる瓦職人がいて、様々な道具物を作っているようですが、最近は防災上屋根を軽くする現代的な家が増え、いぶし銀と呼ばれる粘土瓦を使ったり、職人芸の道具類を使う家は随分減ってきているようです。

名工が作った鯱瓦
家紋瓦

 かく言うわが家も新築して45年が経った古民家風な家で、長い土塀を含めると沢山の粘土瓦を使っていて、そこここに派手さはありませんが、色々な道具類が使われています。今回大石さんからいただいた鯱は菊間瓦の産地で鬼師として活躍した大石さんの同級生が作ったもののようで、魔除けに相応しい凄い顔をした鯱で、いつかは手に入れたかったものだけにラッキーでした。

さてこの鯱瓦を海舟館のどの辺りに置いて保存するか、思案のしどころのようです。大石さんはこの他にもギャラリーに展示している横に長い瓦のレリーフも欲しければ差し上げると言ってくれましたが、はてさて欲しいけれど貰ってもどこへ設置するか、首を傾げています。

 昨日鯱をいただいたついでに他の瓦類と香炉もいただきました。長い間屋外の風雨に晒されていたので汚れていたのを帰宅して水洗いして、雑巾タオルで綺麗に拭き水気を取りました。親父が存命中だったらさぞ喜ぶのにと思いながら、親父と同じような趣味を持ち、同じような夢を膨らませている自分の姿に、思わず笑ってしまいました。

「鯱の 瓦道具を 貰い受け 軽四荷台 積んで自宅へ」

「香炉まで ついでにどうぞと いただきぬ 骨董品に 思わずにっこり」

「もし親父 生きてたならば 喜んで 磨いてお宝 仕上げたろうに」

「海舟館 収蔵品が また一つ 増えて喜び 増えて困った」

 

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〇梅の花が咲き始めました

「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」とは有名な菅原道真の歌ですが、正月が過ぎ寒さはこれからだというのに、早くも梅の便りが聞こえてくるようになりました。梅の花ならまだしも、気の早い初物好きな日本人らしく、沖縄からは早くも「桜が咲き始めた」というニュースが飛び込んできてビックリしました。

わが家の庭に咲き始めた梅の花

 よ~く見るとわが家の庭の梅の木も、花が咲き始めていて、傍に寄ってそ~と花に鼻を近づけてみると、何とも言えない香しい梅の香りが漂っています。ところがこれから春の花が咲き始めると、わが妻も含めて現代病とも言える花粉症に悩む人が増え、マスクをして歩く人が増えて来るようです。

 昨日も所用でシーサイド公園へ立ち寄った折、マスクをしてる人からいきなり声をかけられました。毛糸の防寒帽子を深々と被りマスクをしていたので、一瞬「えっこの人誰だっけ?」と思ったのは無理からぬことでしたが、帽子とマスクを取って「私です」と言われて、「ああ」と納得しましたが、その人も花粉症でこの時期になると・・・」と言い訳をしていました。

一番の元凶は杉の花粉だと言われていますが、わが家の裏山には杉や桧が植林されていて、もう間もなく白い花粉が風にあおられて煙のように舞い散ります。ふと久万高原町のような森林地帯に住む人は花粉症にならないのだろうか?と思ったりしました。私の町には早くも水仙が満開になっています。また菜の花もそろそろ咲き始めました。「花は好きでも花粉症は嫌い」、「夕日は好きでも眩しい夕日は車の運転がしづらい」などと、あちらを立てればこちらが立たずのようです。春はまだまだ先のよう。

「正月が 過ぎると春を 待ちかねる 早くも梅が 咲いたと便り」

「沖縄じゃ 早くも桜 開花した 日本列島 細くて長い」

「花咲けば 花粉症だと 騒ぐ妻 マスクかけたら 結構美人」

「道真の 一歌浮かんで 梅の花 ウグイス鳴くは まだまだ先だ」

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〇山が真っ赤に燃えました

 冬至が過ぎ新年を迎えると、少しずつですが日暮れが遅くなり始めたことを実感します。年末には夕方5時になると辺りが暗くなり始めていたのに、昨日は山仕事を終えて自宅に帰りチェンソーなど使った道具類の後片付けをしていると、午後5時を過ぎたというのに、家の前の本尊山辺りに夕日が映えて、まるで山が燃えているようでした。

夕映えの本尊山辺り

綺麗だったので早速手持ちのタブレットカメラで写真に撮りました。見た目と写真とは違いますが、赤富士にも似た赤本尊山でした。「多分今頃は曇り空の隙間から夕日が綺麗に見えるだろうなあ!!」と思いつつ、自然の織り成す原風景に息子と二人で心奪われ、しばし見惚れてしまいました。

 私たちは日々の暮らしにあくせくして、鳥の鳴き声や風の音、雲の流れや海のざわめき、はたまた人々との語らいに殆ど気づかずに暮らしています。駄文ながら10数年前から日記のつもりでブログを書くようになってから、「何を書こうか?」と思い始め、時には自然の移ろいに目や耳を動かし、人の動作や言葉にも少しずつではありますが心が動き始めました。

 何よりも嬉しいのは、私の書いたブログ記事を読んで、「同感」「反対」「違う」などの意思や思いを、電子文字で伝えてくれるのです。いちいちの即座反応はできないまでも、そればバーチャルからリアルとなって私の意思の軌道修正をしてくれています。居ながらにして人々と机上パソコンで繋がって、私の人生を豊にしてくています。これも最近気づいた幸せです。

「突然に 目の前本尊 山々が 赤く夕映え 二人で見入る」

「赤本尊 今頃西の 彼方には 綺麗な夕日 見えているだろう」

「もしブログ 書いていないと この景色 ほんの一瞬 綺麗!!で終わる」

「文字を書き 写真を添えて 日記風 ただそれだけで 生きてる証」

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〇とてつもなく大きな学生服に驚きました

 2日前、義姉の納骨で妻の実家のお墓にお参りしました。その帰り道八幡浜市の商店街を通りました。妻が子どもの頃や若い頃は賑わっていたという商店街も、正月だというのにご多分に漏れず少し寂しい人通りでした。

こんなデッカイ学生服は見たことない

それでも日常よりは華やいだ雰囲気で、相変わらずシャッターの降りたお店は多いけど、正月用のディスプレイもあって、のんびりゆっくり、妻の記憶説明を聞きながら歩きました。

その中に「しみず&キャンバス」という学生の制服を扱う洋服屋さんがありました。高いアーケードの上にとてつもなく大きな男の学生服と女のセーラー服がぶら下げられていて、ひと際人目を引きました。

「これは凄い」と思い、タブレット内蔵のカメラで一枚写真を撮りましたが。所変われば話題になるはずのこんな店主の意気込みも、田舎では話題にすらならないのも、少し寂しい感じがしました。

田舎の商店街は「売れないから止める」「歳だから止める」といったあきらめムードがこの30年ず~と続いています。多分郊外のチェーン店に押されて、後10年もすれば消えてなくなりはしないまでも、益々衰退の一途を辿ります。焦ってももがいても、寂しいかな悲しいかなです。

「嫁ぐ前 この商店街は 夢通り だったと妻は 説明するが」

「正月の 賑わいもなく ひっそりと 何でこうなる これからどうなる」

「アーケード ひと際大きい 制服が 度肝を抜かれ 口開け見入る」

「田舎には 田舎の良さが あるけれど 車と道が 幸せ奪う」

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〇特老へ西田和子さんを訪ねる

 昨日の午後、義姉の納骨仏事を無事終えての帰り道、大洲を経由して大洲インターの近くにあるキネマという、特老に入所している西田和子さんを、妻と二人で訪ねました。この特老を訪ねるのは今回が2度目です。前回は昨年7月の集中豪雨でこの周辺が災害に遭い水没の水が引いた直後、年輪塾生の浜田さんと被害見舞いで訪れましたが、1階の天井まで水に浸かりながら幸い2階に避難して無事でした。

妻との再会を喜ぶ西田和子さん
二宮金次郎の赤いブルゾンジャンバー

その後昨年末の年輪塾餅つきや学習会に、亀本さんのサポートで88歳とは思えぬ元気な姿で人間牧場へやって来て、みんなを安心させましたが、2~3日前新年の電話あいさつをいただきながら、あいにく私は留守でした。西田さんは少々耳が遠くなっていて、電話に出た長男息子が、「西田さんという方から電話がかかったが、どうやら最初から最後まで僕とお父さんを間違っているようだったので、ついでの時に顔を見に行ったら!!」と勧めてくれていました。

 広間で同じ入居者と談笑していた西田さんは、私たち夫婦の予告なしの突然の来訪に驚いていましたが、とても喜んで迎えてくれました。ベッドを置いた自分の部屋へ案内してくれましたが、堰を切ったようにあれこれ話す姿にすっかり嬉しくなりました。西田さんは私たち年輪塾の塾生が2年前、松山市民会館で行われた劇団わらび座の二宮金次郎というミュージカルに前座で出演した時、年輪塾で新調したブルゾンの赤いジャンパーを着ていました。

文教月報1月号に掲載された西田和子先生の紹介記事

 確か前回も同じように赤いジャンパーを着用していたので、お似合いだと褒めると、「水害に遭った時殆どの物を水に流して失くしてしまいましたが、このジャンパーだは命がけで守りました」というのです。西田さんにとって私が塾長を務める年輪塾は、自分の人生余生を変えてくれた大きな出来事だったと熱を込めて述懐し、文教月報という愛媛県教育会が発行している平成31年1月1日付の機関誌で、自分の紹介されている記事を取り出し、読んで聞かせてくれました。その中には私のことも年輪塾のことも書かれていました。不自由な足ながら補助手押し車を使って戸外玄関先まで出て、見えなくなるまで手を振って送ってくれた姿が、今も残像となって残っています。

「特老へ 入所の女性 面会に 妻と二人で 饅頭持って」

「家族なく 独り身ゆえに 特老に 入居余儀なく 静かに余生」

「思い出の 赤いジャンバー 着こなして 私の自慢と みんなに語る」

「不自由な 体を押して 玄関に 見送りに出て 見えなくなるまで」

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人間牧場

〇今年最初の夕日夕焼け

 昨日の夕方、所用で松山へ出かけた帰り道、三秋峠のつづら折りの坂道を下って、海が見える高野川海岸に出ると、今まさに沈まんとする綺麗な夕日や夕焼けが車の中から見えました。


2019年の初春夕日

 同乗していた妻は、私がタブレットを持参していることを知っていたので、「車を止めて写真を撮ったら!!」と勧めてくれました。急ぎの用事もないので、路側帯に車を止め、窓を開けて一枚撮りました。

12月22日の冬至の日を10日も過ぎると、毎日1分程度で目にはさやかに見えませんが、日没の時間が少しずつ遅くなって、午後5時を過ぎても日が長くなったことを実感します。

日の落ちる場所も少しずつですが、西寄りから次第に北へと向かっており、夕日のメッカシーサイド公園やJR下灘駅から夕日が見える時期も、そう遠くはないものと思われます。春が待ち遠しいですね。

「松山へ 出かけた帰り 高野川 それは綺麗な 夕日夕焼け」

「路側帯 妻の勧めて 車止め 窓を開けて タブレットにて」

「助手席に 乗ってる妻も 綺麗だと 夕日に拍手 送ってくれる」

「冬至過ぎ 少しずつだが 日脚伸び これから先は 楽しみ増える」

 

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人間牧場

〇年末年始は忙しい妻たち

 今年のお正月も来客が沢山やって来て、わが家は何かと賑やかでした。いつも思うことですが、正月休みと言いながら妻は年末年始にかけて、むしろ年中無休と言った手合いで、日頃より忙しく家事をこなし、休む暇などないようでした。私もそんな妻の姿を見て自責の念に駆られ、多少でも手伝おうとやったつもりでいますが、その量は妻の万分の一にしか過ぎないようです。

丸々太った寒ブリ
一ランク上のカンパチ
ブリ大根

年末に寒ブリやカンパチ、それに寒サワラが届きました。いずれも4~5kg級の大物なので妻の手には負えず、私の出番でした。粗調理専用の外調理台で出刃包丁を使い、31日サワラ・1日寒ブリ・2日カンパチと、3匹の魚を捌きました。3枚に粗調理した魚は新鮮なため基本は刺身やしゃぶしゃぶにして、粗はブリ大根などの煮付けにして食べていますが、みんな美味しいと言いながら食べてくれました。

孫たちとの鍋を囲んだ食事会

わが家は私が余り肉が好きでないので、どちらかというと魚派・野菜派ですが、孫たちのために昨日は、埼玉県深谷の柏村さんが年末に送ってくれた深谷ネギを、大事に取っていたものを使ってすき焼きをしました。おせち料理やお雑煮に疲れた身体には丁度良いバランスで、美味しく食べました。毎日おご馳走を食べ、箱根駅伝などをテレビで見ながらミカン類にも手を出し、比較的穏やかな天気にも恵まれ、いいお正月も今日で3日目です。

「正月は かえって忙しい 妻や嫁 食事の世話で 休む間もなし」

「わが仕事 ブリやカンパチ サワラまで 出刃包丁で 粗調理する」

「孫たちも 全員揃い お正月 わが家賑やか 平凡幸せ」

「穏やかな 日和恵まれ お正月 のんびりゆっくり 鋭気養う」 

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〇歳を理由の年賀状絶縁宣言する人たち

 正月元旦、今年も沢山の年賀状がわが家に届きました。世の中ではパソコンやスマホの普及によって、年賀状離れが進んでいるようですが、便利なツールであるデジタルもさることながら、アナログな年賀派ハガキは捨て難い味があります。居間のコタツに入りテレビを見ながら、一枚一枚めくっては送り主の顔を思い出しては懐かしみました。

       出した年賀状

 

届いた年賀状

 昨日届いた年賀状の中に、「耳も遠くなり目も見えなくなり、記憶も薄れつつあり、足腰も弱ったので、今年を最後に来年から年賀状を出しません」と、年賀状絶縁宣言ともとれるものが3枚ほどありました。その人はいずれも70歳そこそこで私より若いはずなのに、年賀状を書くことが煩わしいのか、はたまた1枚62円の値上がりした年賀ハガキを買うお金がないのか、知る由もありませんが、思わず「う~ん」と考え込んでしまいました。

 確かに私のように未だに500枚も年賀状を出すと、62円×500=31,000円に印刷代も加えると4万円近くになり、年金暮らしの身に大きな出費は痛手です。しかし年に一度音信を確かめ合う年賀状の価値は、4万円には代えられない大きなものがあるのです。歳を取ると「もう年齢だから」と年齢を理由に、また「格好良い引き際」を理由に表舞台から消えようとする傾向があるようです。

 しかし、年齢を重ねたことを理由に人や社会から離れると、益々孤独になってしまうのです。そういう意味から考えると、人の目や社会の風潮を気にすることなく、むしろもうひと踏ん張りしながら生きる方が認知症予防にもなるし、健康寿命を伸ばすことにも役立つような気がするのです。早速年賀状絶縁宣言のハガキをくれたNさんに電話を入れ、「あなたから年賀状が届かなくても私は来年も出しますから」と、やんわり復縁を迫った結果、「考え直す」とのことでした。

「年賀状 今年も沢山 いただいて コタツでテレビ 見ながら見入る」

「全国にゃ こんなに沢山 わが名前 憶えてくれてる 人がいるとは」

「もう歳と 理由をつけて 絶縁状 寂しき生き方 電話復縁」

「世の中は 変えちゃならない ことまでも 変ってしまって どこか可笑しい」

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