人間牧場

○気になる梅干しの塩分

 私は殆んど毎日梅干しを一個食べていますが、「そんなに食べて塩分の取り過ぎじゃないの?」と時々言われます。確かに普通の梅干しは20パーセントの塩分を含んでいて、小さな一個の梅干しでも2グラムの塩分があるのですから、やはり気になるのは当たり前です。梅干しに塩分が必要なのは、塩分の浸透圧によって青梅を成熟させてくさらせてしまう酵素を失活させ、腐敗を防ぐのです。塩分を少なくすると、その腐敗防止の役割が低下してカビが生えてくるため、昔から梅干しは長い間20パーセントというのが常識だったようです。

 最近スーパーや通販で8パーセントとか中には4パーセントという、信じられないほど減塩が売り物の、梅干しを売っていますが、これは20パーセントで漬け込んだ白干し梅を塩抜きして、調味し直したもののようです。減塩処理は塩だけでなく、水に溶ける成分が全て塩と一緒に抜けてしまいます。梅のエキスに多く含まれるクエン酸や身体にいい成分が失われた梅干しは保存が利きにくいため、保存料を加えなければならないため、脱塩によっていい物が失われ、不用なものが増えいるということを、知っておかなければなりません。もうひとつ、梅には本来カリウムが豊富に含まれていて、余分な塩分を身体から排泄する働きがあるのですが、これも水溶性のため塩と一緒に抜けてしまうのです。つまり梅干しを食べて体に残る塩分をプラスマイナスすると、数字で見るほど脱塩の効果はないことになるのです。

 わが家でも減塩梅干し作りに取り組んでいます。わが家では祖母の時代には25パーセントの梅干しを作っていました。さすがにこれは塩辛いので、17パーセントから18パーセントの塩に漬け込み、その分漬け込んだ梅にカビ防止用として、ホワイトリカーのアルコールを振りかけて、ナイロン袋で密封します。お陰様で少しだけではありますが減塩気味な梅干しが、昨年に続いて今年も出来上がりました。梅干しは紫蘇という天延色素を持った紫紫蘇を使うと、仕上がりが一段と綺麗です。菜園に植えた紫蘇を刈り取って塩揉みすることはさすがになくなり、今は塩揉みした紫蘇を仙波青果で買い求めて使いますが、この紫蘇を刻んでご飯に混ぜたゆかりのおにぎりは美味しくて、食欲をそそるのです。

 先日テレビを見ていたら、梅干しを食べる人は食べない人に比べ、ガンになりにくいという実証実験の結果が報告されていました。人は誰でも手前味噌な考えになるもので、この話を聞けば梅干しを食べている私のような人間は喜ぶし、塩分の取り過ぎがとやかく言われる成人病の人は、梅干しを仇のように言う人もいます。まあ程々が丁度良いのかも知れませんが、私は梅干し推進派なので今朝も梅干しを一個食べました。
 昔アルミでできた弁当箱にご飯を詰め、その真ん中に梅干しを入れたものを日の丸弁当と呼んでいました。長年同じ場所に梅干しを入れた弁当箱の蓋は、梅干しの酸で溶かされて、穴が開いた正統派の愛妻弁当箱をよく見かけたものですが、それも古きよき時代の思い出となってしまったようです。

  「梅干しは 身体にいいと ばあちゃんが 言ってた言葉 今も忘れず」

  「一日に 一個梅干し 俺食べる 自分と妻で 手作り梅干し」

  「減塩の 梅干し確かに 口当たり いいのだけれど 防腐剤入り」

  「孫二人 俺に似たのか 梅干しを 食べる習慣 直すべきかも」

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人間牧場

○夕焼け村からのハガキ

 9月4日の消印で、2枚の夕日の写真絵葉書がわが家に届きました。見覚えのある夕日の写真絵葉書ハガキは、地域振興課長と観光協会事務局長を兼務していた頃、私が手掛けて作った絵葉書なので、少し驚き少し懐かしい気持ちになりました。そしてそのハガキの差出人が、通学合宿「夕焼け村」に参加している子どもたちからであることは容易に想像できました。
 一枚は94歳の親父に「お元気ですか、私は元気です。今日はビンゴをします。欲しいものが当るといいな。またパンと煮豆を持って行くけんね。待っとってね。」でした。

吉永有希ちゃんからのハガキ

 私へのハガキには、「先日は夕日の話をしていただき、ありがとうございました。夕焼け村最後の金曜日(7日)に、お別れパーティにバーベキューをしますので、午後6時までに夕焼け村までおこしください。」と書かれていました。この日は夕方県外から仲間がわが家に来ていて、あいにく予定が塞がっていましたが、折角のご好意なので、わが家からほんの5分ほどの潮風ふれあい公園なので、単車に木になるカバンを積んで出かけました。昨日は午後3時頃から短時間ではありましたが、雷がバリバリと近くで鳴るかなり激しい雷雨があって、野外での開催が危ぶまれましたが、ハガキの案内どおり午後6時に公園へ出かけて見ると、雨上がりの爽やかで心地よい風が吹く中、潮風ふれあいの館横の広場では、早くも焼肉パーティーが始まっていました。

潮風ふれあい公園から見えた昨日の夕日

 早速促されて群れの中に加わりましたが、私が夕日の話しにやって来たのは一週間前でしたが、この一週間で仲間作りもでき、リーダーたちとのコミュニケーションもよくできて、わき相々でした。いわゆる寝食を共にする集団宿泊訓練の効果は抜群で、子どもたちもこの一週間で親離れができて、すっかり逞しくなったような印象を受けました。
 この日も少々高沈みの感じはするものの、諦めかけていた綺麗な夕日が雲間から顔を覗かせ、子どもたちから歓声が上がりました。今年は全てがにわか雨にたたられながら、夕焼けコンサートといい、一週間前と昨日の夕焼け村といい、夕日は私にほほ笑んで、とてもハッピーでラッキーな気持ちになりました。

バーベキューを楽しむ子どもたち

 パーティの最中、人のいないふれあいの館ホールに入ると、谷川俊太郎の朝のリレーという詩の周りに、色々な詩の貼り紙が貼ってありました。担当の赤石主事さんに私が電話で少しアドバイスをしただけで、坂村臣民さんの詩等が手書き文字のようなタッチで、プリントされて貼られたのです。これらの言葉は子どもたちへの心のメッセージとなるはずです。できれば来年は子どもたちに俳句や短歌、詩、言葉などを作らせて、貼ってやると心のささやきがメッセージになるに違いないのです。
 子どもから親や知人へ、親から子へとハガキを出し合う作戦は、元はといえば私が無人島キャンプで石や流木に文字を書き、「無人島からの便り」として使った作戦を、夕焼け村にもアドバイスして始めたものです。夕焼け村の進化のお役に立つために、もっともっと多くのアイディアを出さなければと思いながら、来客を待たせていたので1時間ばかり過ごした後、公園を後にしました。

 

  「有希ちゃんと いう女の子から ハガキ来る 嬉しくなりて のこのこ出かけ」

  「今年は 全てラッキー 夕日見え 心に残し 写真に収め」

  「寝食を 一週間も ともにする まるで兄弟 親子のようだ」

  「ちょっとした ことを電話で アドバイス 直ぐに実行 見上げたものだ」 

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○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史③)

 私たちが子どものころは戦後間もないこともあって、子どもの数がとても多く、私は昭和19年生まれですが、19年と一つ歳下の昭和20年生まれとは子どもの数が少ないものの、いわゆる団塊の世代といわれるその後の人たちは、小さな下灘村であっても同級生が3クラスもあるほどでした。私の家のある10軒組内には孝子さん、照子さん、満子さん、孝ちゃん、徹ちゃん、コズエさん、憲義ちゃん、それに私と8人も同級生がいたのですから驚きです。学校も賑やかでしたが、学校外でも同級生とは工夫した遊び道具で多いに遊びました。男の子は小枝の先を細く削って地面に投げて突き刺すネンガリとか、ビー玉、パッチン、凧揚げ、馬乗り、かくれんぼ、陣取り合戦、キビチ、海に向かって石投げなど、今の子ども世界とは程遠い遊びをしていました。

今は懐かしい紙芝居風景

子ども会も各集落に合って、土曜日は近くの公民館に集まり勉強をしたり、色々な取り決めをして遊んでいました。運動会が近づくと分団リレーの学年毎の出場者を決め、砂浜に出てバトンの渡し方の練習もしましたが、私の所属する下浜は、隣の上浜といつも競り合って、運動会には親どおしがその結果で喧嘩する一幕もあるほどだったので、みんな真剣そのものでした。
 子どもたちにとってお節句、お盆、亥の子は特別の日でした。お節句が近づくと仲間が集まり山の薮の中の適当な場所に、隠れ家のような陣地を作りに何日か出かけました。お節句には巻き寿司やおかずの入った重箱弁当を持ってその場所に出かけ、多いに楽しみました。節句・盆・正月は子どもたちにとって、日常は麦飯やイリコ、コンコでしたが、おご馳走が食べられる特別な日だったのです。お節句の二日目も残り物を入れてもらい陣地で一日中過ごしました。

 

 お盆は子ども連中が食材を持ち寄り海岸に石でかまどを作り、盆飯を炊いて食べました。悪ガキが海に潜るとサザエやアワビが沢山獲れ、つぼ焼きにしたりして贅沢にも腹を満たしました。晩秋から初冬にかけて亥の日に行なう亥の子は、上級生が元帥や大将などと呼ばれ、低学年は重い大きな石製の亥の子に、自宅から持ち寄ったマイ縄を何本もくくりつけ、各家々の軒先を回って、「亥の子餅をついて、一に笑顔を振り撒いて、二でにっこり笑って、三で盃作って、四つ世の中酔うように、五ついつもの如くなり・・・・などと、訳も分からない掛け声をかけながら、夜遅くまで家々を回って軒先に大きな穴を開けて進みました。各々の家では祝儀を貰うので、最後の決算日は元帥の家がお宿となって、イカ飯を炊いてご馳走してもらい、祝儀袋を開けて紙にその結果を書き込み、分配を決めましたが、元帥と大将が殆んどを分け取りしてしまい、下級生は言い訳程度の分け前でしたが、大きくなったら元帥や大将になれるのだからと、羨ましいながらも我慢しました。

 今は子どもの数そのものが減って、子ども会等できず廃れていますが、子どもの自治組織は上が下の面倒を見て、いじめ等殆んど無い地域の立組織として大きな役割を果たしていたのです。子ども自身の組織も恒例行事も、また創作遊びも私たちの周りから完全に姿を消してしまいましたが、そんな少年時代の経験や思い出を持っている私たちは、幸せとしかいいようがないのです。
 今の子どもは子どものころから塾に通い、遊びも室内でゲームや既成の遊びしかしないのです。群れて屋外で遊びたくても子どもがいないのですから仕方がありません。わが家には5歳と3歳の2人の孫がいますが、保育園に朝連れて行き夕方帰ると隣近所に遊び相手がいないため、人数の少ない保育園が唯一の子ども社会なのです。
 子どもは子ども同士や遊びの中から様々な社会ルールを学びますが、今の子どもたちが社会のモラルを知らないのはひょっとしたら、ここに原因があるのかも知れません。私たちの暮らしは豊かになりましたが、気付かない内に、何か大きな音のしない落し物をしているようです。

  「町中に 子どもの笑顔 あったっけ いつの間にやら 年寄りだけに」

  「年経ても 子どものころの 思い出は 思わずウフフと 笑いたくなる」

  「あの人も 先にあの世へ 旅立った 遊び仲間も 今はちりじり」

  「子ども居ず 遊びたくても 遊べない 日本の将来 どうなるのだろう」

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人間牧場

○俳誌「花信」9月号に載る

 愛媛新聞カルチャースクールで、「街中の人間牧場移動塾」という講座を始めて6ヶ月半年が経ちました。愛媛新聞から開講のお誘いを受けた時、毎月一回にしろスケジュールが上手く合うだろうか、またこんな講座を開いても果たして人が来るだろうかと、半信半疑で随分迷いましたが、根がお人好しでポジティブな性格なので、自分の引き出しにどれほどの知識や智恵があるのか、自分を試すいい機会だと思い、後先も考えずに引き受けてしまいました。
 いざ蓋を開けてみると案の定、私の心配は的中しました。私のスケジュールは毎月第一火曜日10時から12時までとあって、まるでエアーポケットのように何とか確保できたのですが、肝心の受講生が最初2人しか集まらず、予想をしていたこととはいえ、このまま没になるだろう思いきや、愛媛新聞のカルチャースクールは、たった一人でも申し込みがあれば開くそうなので、とりあえず見切り発車となったのです。

 だいたい平日火曜日の10時から12時まで、空いている人などいるものではないのですから、むしろ2人の人は余程暇か物好きだと思いきや、お姉さんが弟を誘うといった兄弟ペアーでした。その後友人の浜田さんや3人も加わり、今では法托実践の宜しきを得て受講生も6人となり、それなりの設えで講座は多いに盛り上がっているようで、とりあえずホッと一息といった感じです。
 3ヶ月前宇和島から、パワフルな脇谷梨花さんという女性が加わりました。脇谷さんは片道2時間かかる距離をバスで通ってくれています。何よりも愛猫家と自認する動物愛護家、それに花信という俳誌の同人として活躍する俳人なのです。インターネットで検索すると、宇和島のコミュニティFMの俳句コーナーで、毎週パーソナリティもやっている、とても元気な明るい方なのです。

 

俳誌「花信」9月号

 先月は講座の休憩時間に参加者全員が、脇谷さんの指導で一句作りました。何と何とその句が100ページに及ぶ「花信」という俳誌9月号に、脇谷さんの配慮で掲載して貰ったのです。9月4日の講座日にその俳誌をみんなにいただきましたが、私の一句等お恥ずかしい次第です。ちなみに105ページに載った私の句は「手をつなぐ孫と私の残暑かな」でした。
 私は毎日、私が勝手に決めた「笑売啖呵」という31文字の短歌風歌を、ブログ記事の後に4首載せています。即興で何の臆目もなく思いつくまま書いていますが、一日4首×2ブログ記事ですから、一日8首も作っていて、これは一ヶ月で240首にもなり、一年で2880首ですから驚きの数字なのです。

 脇谷さんとの出会いは、俳句という思わぬ出会いになりました。既に見山あつこさんが主宰する松山五行歌に友人に誘われ入会して、毎月一歌ながらメールで送っていて、俳句の世界に進出するような能力も暇もないのですが、俳句もまたそれなりの味があると思うようになりました。
 脇谷さんからいただいた100ページを超える分厚い俳誌を、思いつくままページをめくっていますが、俳句王国愛媛らしく、世の中には何と大勢のアカデミックな生き方をしている人が多いのでしょう。私などまだまだ修行が足らないとしみじみ思いました。
 カルチャースクールで出会った脇谷さんからいただいた名刺に、虫眼鏡でしか見えない小さなメールアドレスが書かれていました。私は虫眼鏡で見ながら書き写して、恋人に恋文を出すような気持ちで、3句したためメールを送りました。添削して一句返信が届きました。その結果は一ヵ月後に・・・・・。

  「俳人に 出会い俳句を 勧められ 作った一句 俳誌に載りて」

  「『手をつなぐ 私と孫の 残暑かな』 こんな一句も 俳句だろうか?」

  「講義する 私に講義の 受講生 俳句薀蓄 反面教師」

  「ポジティブに 生きれば転び またそこで 何かつかめる だから楽しい」 

 

 

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人間牧場

○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史②)

 古い写真は時代を語る語り部だとしみじみ思います。今のようにカメラが普及していなかった子どものころは、どの家も貧乏でカメラ等なく、私たちが日常的に写真に写ることも殆んどなく、学校の記念写真に納まる程度でした。私がカメラを持ったのは水産高校時代、それも親類の叔父さんから譲ってもらった一眼レフの古いカメラで、そのカメラを持って実習船愛媛丸に乗船し、南太平洋へ遠洋航海にでかけましたが、残念ながらその時の写真は手元に僅か一枚しか残っていないのです。

 

昭和30年当時の3丁目の浜から見たお旅の松

 先日史談会で「えひめ、昭和の街かど」という講演を聞きました。その折スライドで紹介された双海町上灘付近の風景写真の一枚が目に留まりました。
 この写真は現ふたみシーサイド公園辺りから撮影されたものですが、まだ港も整備されておらず、道も県道だったため商店街を通っていました。砂浜には生簀という魚を活かす竹で作った大きな籠が引き上げられていて、ひっくり返された船も係留されている船も全て木造船なのです。

 最も目を引くのは天一稲荷神社の前にこんもりとした松が見えることです。この場所はお宮の前だったことから宮崎(宮先き)とかお旅と呼ばれていましたが、そこには大きな松の木が何本かあって広い緑陰でした。そこには昭和10年頃寿座という回り舞台や花道まである常小屋があり、戦後は海栄座と改称されたそうですが、娯楽とて殆んど無かった時代なので多いに繁盛していたようです。県道が国道に昇格し、国道のバイパス工事や松くい虫の被害で松の木は全てが跡形もなく無くなりましたが、上灘駅界隈の桜並木とともに風情のある海岸線だったようです。

宮崎劇団の演劇上演風景

 この写真は当時五丁目の人たちが宮崎劇団という劇団を作って常小屋で公演をしている様子です。その後演劇は映画に変わりましたが、東峰や高岸の人はテーラーで引っ張る台車にムシロを敷いて乗り合わせ、見にやって来たそうです。
 いずれも古きよき時代の思い出でしょうが、長閑な中にも文化の薫りを感じさせてくれるのです。その映画もテレビの普及によって姿を消してしまいました。

 

 

 

  「風景も 人の暮らしも 一変し 僅かな記憶 写真しかなく」

  「松の木や 桜並木が 風景を つくった昔 今はいずこぞ」

  「悲しいが 時代は後に 戻れない 残し伝える せめて写真で」

  「語る人 次第に数が 減って行く 記録留める これぞ史談か」 

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人間牧場

○夕日のリレー

 長い長い夏休みが終ると同時に、今年も双海町の小学生の通学合宿「夕焼け村」が、双海潮風ふれあいの館で始まりました。募集に応じた参加者は30人だそうですが、9月1日から1週間、子どもたちは自宅へ帰らず、ふれあいの館と学校を往復して集団宿泊をするのです。目的は子どもの自立ですが、親離れは勿論のこと親の子離れも狙っています。

夕日をバックに夕日の話をする私(赤石さん撮影)

 毎年の事ながら今年も第1日目の夕方、夕日が沈むころに夕日の話をして欲しいと頼まれ、単車の荷台に木になるカバンを積んで出かけて行きました。40分前に出かけると子どもたちは、夕食の準備に追われていました。私が作った夕日の時刻表によると、この日の日没時間は18時34分なので、担当の赤石さんに少し食事を早めるようお願いして準備をしました。ふと何げなく見たふれあいの館の板壁に、詩人谷川俊太郎のご存知、「朝のリレー」の詩が張ってありました。

潮風ふれあい公園から子どもたちと見た夕日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  カムチャッカの若者が きりんの夢を見ている時
 メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
 ニューヨークの少女がほほえみながら 寝返りをうつとき
 ローマの少年は頭注を染める 朝陽にウインクする
 この地球では いつもどこかで 朝が始まっている
 ぼくらは朝をリレーするのだ 緯度から 緯度へと
 そうしていわば交代で地球を守る
 眠る前のひととき 耳をすますと
 どこか遠くで 目覚まし時計のベルが鳴っている
 それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受け止めた 証拠なのだ

夕日と反対側に架かった七色の虹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この詩を読みながらふと私は、何年か前自分が作った、「ふたみの夕日夕焼け物語」という次の詩を思い出しました。この詩は私の自著本「昇る夕日でまちづくり」のP200~P201に書いているのです。

 西瀬戸の 生みと空を染め分けて
 詩情豊かにしずむ ふたみの夕日は美しい
 陽がしずみはじめてから 没するまで
 ゆったりとした 時の流れの中で
 人の思いは深くなる 
 過ぎ去った歳月への 回想もあれば
 明日への夢や期待もあるだろう
 思えば地球上の人類は
 ひとつの太陽を見て 暮らしている
 同じ夕日をどこかで
 朝日として 見ているのだから
 不思議である

 有名な谷川俊太郎という詩人とは比較にならない、何の変哲もないローカルな詩ですが、私が子どもたちにいつも話すのは、双海の夕日を地球の裏側の人が朝日として見えいるという不思議です。まさに「朝のリレー」と同じ「夕日のリレー」です。この日も綺麗な夕日を見ながら、思いつくまま約30分余り子どもたちに夕日の話をしてやりました。参加した子どもたちが大きくなって、どこかで何処かの夕日を見た時、双海の美しいい夕日とともに、自分につながるふるさとや多くの人々のことを、思い出して欲しいと願っています。
 この日は夕日の反対側の方向に綺麗な七色の虹が印象的にかかり、子どもたちも大満足したようでした。

  「地球上 朝のリレーを するように 夕日もリレーし 心和ます」

  「うわ~凄い 夕日と虹の コラボ見て 子ども思わず 感嘆声を」

  「この夕日 何処かの国の 朝日なる 地球自転を 繰り返しつつ」

  「地球から 一億五千 万キロも 離れているのに 光が届く」 

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人間牧場

○27回目の夕焼けプラットホームコンサート

 夕日馬鹿を自認する私によく聞かれるのは、「日本一と自慢する夕日を見に行きたいのですが、一年中で最も美しく見えるのはいつですか?」という質問です。私はその度に、「あなたが夕日を見に来た時が一番綺麗です」などと笑って答えるのです。つまり黄砂降る冬の夕日も、菜の花が咲く月と夕日がランデブーする夕日も、夏の炎熱焦がす夕日も、また秋のつるべ落としの夕日も、見ようによってはそれぞれ趣きがあって、甲乙つけ難いのですから、ひょっとしたら私の答えが正しいのかも知れません。
 それでもあえて説明するなら、空気の済んだこれから始まる秋の夕日が一番かも?と思って、一年に一度開かれる夕焼けプラットホームコンサートの開催日を、9月の第一土曜日と決めていますが、この時期は立春から数えて二百十日に当る台風シーズンなので、昨年のように時には大荒れの天気で中止止むなしの苦汁の決断をしなければならないのです。

「風の吹く駅で」を熱唱する子どもたち

 今年も一昨日の9月1日、夕焼けプラットホームコンサートは、昼間の鱧まつりとジョイントするような形で開かれましたが、この日も朝から小雨がぱらついたりして関係者をやきもきさせました。コンサートは出演者のスケジュールを確保しなければならないので、余程のことがない限り多少小雨でも、決行しなければならないので、スタッフは音響道具の上にブルーシートをかけたり外したりしながら準備を進めていました。やがて午後5時頃から下灘小学校児童の「風の吹く駅で」のコーラスで幕を開けました。プラットホームに飾られた白いススキの穂が初秋の風になびき、バックに瀬戸内の海が広がる風景は、野外コンサートならではの雰囲気を存分に楽しませてくれました。

夕日がとても印象的でした

 前述したようにこの日の天気は今一で、西の空は曇っていて、自慢の夕日も期待できないとみんなが思っていました。ところがメインゲストの澄んだ歌声が響く頃になると、何と何と雲間から印象的な真っ赤な夕日が顔を覗かせ、残照が海に尾を引いてこれ以上はないという演出をしてくれたのです。思わず会場から大きな拍手が起こりました。司会をしていた小林真三さんも幕間に「若松さんジーンと来ました」と話されましたが、勿論私も涙が出るほど感動し、仲間も口々、そして遠方から私を慕ってやって来た遠来の人たちも、みんな大満足の手合いでした。夕日が見れない時はコンサートを発案した私の責任とばかりに打ち沈みますが、この日ばかりはまるで私が夕日を見せたように、「どうだ!」とばかりに胸を張りました。そのくらいこのコンサートには思い入れが深いのです。

大阪からやって来た二人の素敵なお嬢さん?
ピザを焼く松本さん

 今年はコンサート会場の片隅で、松本さんや浜田さんたちまちづくり双海人のメンバーは、移動ピザ釜でせっせとピザを焼いて、移動マルシェの実験事業に余念がありませんでした。汗だくで100枚近くも焼き上げたようですが、私は自分で食べることもなく、友人の高岡さんご夫妻に試食をしてもらいましたが、美味しかったとお礼を言われました。
 埼玉県入間市から清水さんたち、高松から溝渕さんたち、高松から私の講演を聞いた人たちがバス一台40人、八幡浜から妻の友人たち、私の親類たち等等、私が誘致した人の数は毎年の事ながら百人を超えていました。この日は大阪から朝日新聞の夕刊記事を見たという、二人の素敵な女性も駆けつけ、嬉しいご縁を深めることができました。私にとって夕焼けコンサートはまさに一服の清涼剤であり、パワーをいただきました。わが息子も建築士仲間と参加者にウチワを配り一役買いました。スタッフの皆さんありがとう。そして知人友人の皆さん、来年もまた元気でお会いしましょう。

 

今年の夕やケプラットホームコンサートポスター

 

愛媛新聞朝刊記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「今年も 二十七回 重ねたり 夕焼けコンサート 下灘駅で」

  「諦めて いた西の空 押し上げて 真っ赤な夕日 思わず歓声」

  「新聞を 見たと二人の 女性来る はるばる大阪 聞いて呆れる」

  「コンサート 何処吹く風と ピザを焼く 匂い風乗り これも一役」

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人間牧場

○夕日の似合う男が何故か朝日に

 私は若い現職のころから、別名夕焼け課長、夕日教育長等と呼ばれ、そんな呼び名にむしろ愛着を感じていました。そんなこともあってか、夕日や夕焼けの話になると、必ず新聞や雑誌、テレビやラジオにこれでもかというほど登場し、マスコミの力を最大限に利用して、双海町の夕日や夕焼けをスターダムにのし上げようと努力してきたのです。新聞や雑誌はスクラップしまちづくりの資料として多いに活用して来ましたが、テレビの映像はVTRテープに、ラジオの音はカセットテープに録音していますが、いずれも時代遅れなものとなり、倉庫の片隅にうず高く積まれているのです。いつの日か整理をしたいと思いつつ、多分このままごみ化するのではないかと思うのです。
 マスコミは私や双海町にとって大恩人なので、後輩たちにはこれからもいい関係を保って欲しいと思っていますが、少なくとも私はもうマスコミに登場することはないだろうと、むしろ一線を画そうと思っていますが、今回も登場と相成りました。

 

 

 

 

  私や双海町が取り上げられた新聞記事は、地元紙愛媛新聞がダントツに多く、他の新聞は物の比ではありませんが、読売・毎日・朝日・経済・スポーツなどの中央紙にもかなりの頻度で出ています。中でも朝日新聞は最も多く、夕日の似合う男、夕日の双海町なのに、何故か朝日によく取り上げられているのです。
 平成24年8月28日(火)付けの朝日新聞夕刊に、今回も紙面一面の半分を割いて、「ひとえきがたり・下灘駅(愛媛県、JR予讃線)」というコーナーで紹介された記事を見て、東京練馬区に住む妻の同級生から、「あなたのご主人が新聞に出ている」と、驚いた様子で電話がかかってきました。ふるさと八幡浜を離れて異郷の地で暮らしている人にとって見れば、「愛媛県」とか「八幡浜」は勿論のこと、「双海町」や「若松進一」まで懐かしく感じ、とても嬉しかったと、妻とついつい電話で長話していたようです。

平成24年8月28日付朝日新聞夕刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  この朝日新聞夕刊は愛媛県双海町では出回っておらず、直ぐに新聞から切り取って手紙を添えて送ってくれました。相前後して取材をしてくれた朝日マリオン21の牧野さんから掲載紙が送られてきて、スキャナーで撮ってブログに掲載することにしました。何日か前、同じように読売新聞に掲載された記事もアップしていたので、同じ駅がテーマの記事でも新聞や書く人が違うと、切り口が違うことを実感した次第です。
 「沿線ぶらり」では夕焼けぴちぴち市や間近に迫った夕焼けプラットホームコンサート、しもなだフォト旅、「興味津々」では鱧について薀蓄を書いていて、間近に迫った下灘鱧まつりのことが紹介されていました。

  「新聞を 読んだと妻の 友人が 電話と手紙 はるばる江戸から」

  「都会では ふるさと全て 懐かしく まるで自分が 載ってるように」

  「物好きな 人もいるもの 新聞を 読んでわざわざ コンサート来る」

  「ありふれた 景観だけど 新聞に 載れば素敵と 思わず思う」

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○今年も暑い夏を元気に乗り切りました

 今日から9月だというのに、相変わらず残暑の厳しいい日が続いています。人間は不思議なもので、去年のことなどすっかり忘れて思い出せないのに、何を比較対象にして話すのか、「今年の夏は特別暑かった」という言葉を平気で言うのです。かく言う私もその人間の一人で、暑さ転じて「熱さを感じるのは歳のせいだ」とか、「今年が一番暑かったようだ」などと、逢う人相手ごってに話をしているのです。
 それでも暑いといいながら、窓の外から窓越しに聞こえる虫の声は日増しに大きくなり、今朝は薄い夏用の布団を無意識の内に手繰り寄せて寝ていました。

 こんな暑かった夏でしたが、私は冷房が嫌いなこともあって、わが書斎に備え付けているエアコンを、来客のためにたった一度しか使いませんでした。福島の原発事故以来、節電を意識した暮らしを始めていますが、「節電」に関して少なくても私は優良国民なのです。妻からは「冷房装置も余り使わないと傷むかも知れない!」と注意され納得していますが、何とか暑い夏を熱中症になることもなく、乗り切れホッと一息といったところです。夜が短く昼が長い夏至の6月22日から2ヶ月余りが経ちましたが、夜明けが段々遅くなり、日暮れも段々早くなってきました。今朝も新聞屋さんが新聞配りに午前5時にやって来ましたが、まだ外は真っ暗でした。

畝を立て植えつけた白菜の苗

 昨日はすっかり木陰になった家の裏の斜面の草刈りを、少し涼しくなった午後4時から始めました。前回草を刈ってからそんなに日にちは経っていないのに、夏草の勢いは強く、草刈機の替えた真新しい刃が面白いほど草を瞬く間になぎ倒して行きました。1時間半ほどの作業で予定の場所が刈れたので、今度は前日消石灰を振り撒いていた畑に耕運機を倉庫から出してかけました。このところ夕立が何度かあったため、残暑が厳しかった割には畑の土は緩んでいて、綺麗になりました。その後畝を立てて、前日大洲市役所へ講演に出かけた折買って来ていた、白菜の苗78本を2畝に植えました。白菜の種蒔きは8月中にしないと上手くできないそうなので、これで遅れを取り戻せそうです。

 昨日は同居している孫希心君の5歳の誕生日で、希心君は朝からまるでヒーローになったような一日でした。昨日に合わせて両親がインターネットで注文していた、欲しがっていたオモチャも届き、みんなから「お目でとう」の言葉が相次いで、嬉しくて仕方がないようでした。風呂に一緒に入っても、どこか一味違ったお兄ちゃん振りを見せようと張り切り、進んで色々なことをしていました。こうして子どもは成長するものなんだと実感した次第です。
 忙しくて暑かった夏も終わり、今日からわが家も私も少し秋モードです。昨日の午後妻は、東峰の友人宅へ名残のスイカを買い出しに出かけ、スイカ好きな私のために大きなスイカを6個も持ち帰りました。親類へ2個お裾分けして喜ばれましたが、これから一週間は美味しいスイカを朝・昼・晩と、食後のデザートとして食べる予定です。今年もスイカのお陰?で元気に暑さを乗り切りいい夏でした。

  「暑かった 夏も日めぐり 一区切り 今日から九月 ギアをチェンジす」

  「好物の スイカ仕入れて くれた妻 いつもながらの 気配り感謝」

  「孫五歳 俺は間もなく ○○歳 上り調子と 下りっぱなし」

  「消石灰 撒いて耕し 畝立てて 白菜苗を 汗かき植える」 

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