人間牧場

○七色の虹

 異常気象とでもいうのでしょうか、過ぎ去った台風の影響も手伝って、9月も中旬だというのに昨日は北海道で気温が30度を超えた一方、このところ全国各地で1時間雨量100mmといった、信じ難いような集中豪雨が降って、滋賀県米原付近では新幹線が運転を見合わせたり、三重県では15日の降り始めからの雨量が600mmに達し、土砂崩れや浸水被害、一部の地域では避難勧告が出ているようです。
 幸い私たちの地域では、数日前に蒔いた大根やカブなどの種が芽吹いた畑の適当なお湿りとなって、今年は今のところ順調に育っているようです。大根の種を蒔く9月初旬から中旬にかけては、立春から数えて210日とか220日といって、台風がよく日本に上陸する季節なのですが、超大型の台風が度々やって来た沖縄地方の人にとって今年は、オスプレイ配備問題とともに、泣くに泣けない出来事のようです。

 

鉄橋に架かった虹の橋

 そんな気象現象もあってこのところ、すっかり縁遠かった虹をこの3~4日、頻繁に見かけるようになりました。私はどこか夢を感じる七色の虹が大好きです。子どものころ真新しいクレヨンを買ってもらったら手始めに、白い画用紙に赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の7色を選んでよく塗ったものです。また虹の足元には宝物があるという、子どものころに読んだ本を真に受けて、虹を見る度に虹の足元の行方を捜していましたが、虹の足元は何故か今もぼやけていているのです。
 東京にはレインボーブリッジという橋があって、船で三宅島へ行く途中、この橋の下を通ったことを思い出しました。

  一昨日の朝、息子が「鉄橋の向うに虹が出ている」と家族に伝えました。孫も含めた息子家族と私たち夫婦が早速外に出て、息子の指差す方向を見ました。家から家並みの影に見え隠れする鉄橋と同じように、綺麗な虹が架かっていました。肉眼ではよく見える虹もカメラで写真に撮ると、余り綺麗な色には写りませんでしたが、それでも何かいいことがありそうな予感がしました。
 虹は太陽の光が水滴に当って屈折して見える虚像です。子どものころ夏水を撒いていると虹ができ、その不思議な光景を見るために水を撒き過ぎてあたりを水浸しにして、随分叱られた記憶や、夜店で買ってもらった万華鏡の不思議な色などが思い出されるこの頃でした。

  「虹出てる 息子指差す 北の方 鉄橋またぎ 綺麗な虹が」

  「七色の 虹にまつわる 思い出は 綺麗なままで 色あせもせず」

  「虹虚像 いよいや実像 信じたい 七色の夢 追い続けたい」

  「夕日・花 ほたるに公園 全て夢 アメリカ行きも 虹夢つかむ」  

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人間牧場

○小網地区敬老会で落伍を演じ大いに盛り上がりました

 94歳になった私の親父がそうであるように、歳をとると全ての機能が衰えてきます。特に耳は遠くなり、人との会話は対面して大きな声と口の動きが一致しないと、こちらの言葉が通じにくいのです。一番もどかしいのは本人で、自分の意思が伝わらないため、ついつい会話から遠ざかってしまいますが、高いお金を出して作った補聴器や眼鏡も結局は煩わしいようで、余程のことがないと使わないのです。
 そんなこともあって、親父は人中へ出かけることを躊躇、特に若い頃鼻ガンを患って食べるのが不自由なため、飲食を共にするような集会を避けているため、案内を受けても地元の敬老会へは一度も出席していないのです。

 

小網公民館で開かれた小網地区の敬老会

 昨日は小網地区の早崎区長さんから2週間程前電話がかかり、敬老会の席で何か一席余興をして欲しいと頼まれました。聞けば敬老会の余興も毎年あれこれやっているものの、目新しくて耳新しいものに乏しく、気になっているようでした。早崎区長さんの思いは、大学の落語研究会をイメージしているような口ぶりでしたが、失礼ながら敬老会に出席している高齢者の中には、私の親父とと同じように耳の遠い人が沢山いるので、何年か前敬老会に落語にやって来た落語研究会所属の学生が、一生懸命演じるものの結局は耳の遠い高齢者には意思が通じず、2万円の出演料がふいになったことを知っていたので、タダで私がやってあげようと持ちかけたところ大乗り気となり、昨日の私の出演と相成ったのです。

 昨日は12時からの開会の出鼻をくじくように、11時過ぎから台風の影響で土砂降りのかなり激しい雨が降りましたが、準備をして会場の小網公民館に出かけてみると、皆さんお揃いでほぼ満員の50人ほどが集まり、開会を待っていました。区長さんの挨拶や政治家から届いたメッセージが読み上げられ、またお祝いの記念品が贈られ早速敬老会がスタートしました。
 30分ばかり折り詰め弁当を食べた頃、余興がスタートしました。私は約2時間の敬老会の最後のトリを30分間ということでしたが、次の予定があるので急遽一番最初に変更してもらい、落語ならぬ落伍をしました。マイクを通すため座布団に座ると見えないのでマイク片手に立っての落伍ですから、これはもう落伍というよりは講演に近い演じ方なのです。裂き織のちゃんちゃんことめくりを持参して雰囲気を盛り上げていたものの、扇子や日本タオルといった落伍の七つ道具も結局役に立たず、マイク片手にハーモニカを吹いたりして30分の持ち時間を存分に笑わせることができ、多いに盛り上がりました。

 驚いたのはハーモニカへの反応の大きさでした。「赤とんぼ」や「ふるさと」に加え「ああ上野駅」「南国土佐を後にして」「北国の春」などを吹いたところ、全ての歌に反応して、ゆっくリズムながら大きな声でみんなが大合唱をしてくれたのです。いやはや驚きました。終って会場を出る時は、「良かった良かった。また来年も頼むぞ」などの声がかかり、大きな拍手をいただいたのです。早崎区長さんもお世話していた役員の方もこれにはビックリしたようで、私のカブは大いに上がったのです。(笑い)。早々に会場を後にする時、お土産にパック詰め弁当とお菓子までいただき恐縮してしまいました。いい敬老会でした。

  「隣地区 敬老会に 招かれて 落伍を演じ 拍手喝采」

  「ハーモニカ 合わせて歌う お年寄り 思い出重ね 大きな声で」

  「来年も また来て欲しい 言われたが 恥をかくのは 最初で最後」

  「耳遠く 小便近く なりにけり 間もなく私 仲間入りする」

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○教育にちょっと一言

今朝の台風16号の様子

 日中は連日30度を越す真夏日で、残暑が厳しいというのに、今年も運動会の季節がやって来ました。夏休みを冷房の中で過ごした子どもたちが、いきなり炎天下の屋外で運動会の練習を強いられれば、根を上げるのは当たり前で、全国各地では熱中症の子どもたちが救急車で病院に担ぎ込まれる姿に、「何でそんなに急いで運動会をしなければならないのか?」と疑問符を感じるのは私一人ではないと思うのです。私たちが子どものころの運動会は「スポーツの秋」という言葉がピッタリで、俳句でも秋の季語でした。ところが最近は運動会を春にしたり、酷いところは3学期を2学期にしたり、学年を飛び越えて進級させようとしたり、もう滅茶苦茶なことを平気でやって、その検証もしないまま色々なことをやり自己満足しているのです。

 私は古い人間なので今の教育を語る資格はないのかも知りませんが、今の教育は首長の言いなりになり、学校も教育委員会の言いなりになっているような気がしてなりません。教育の現場といわれる家庭と学校と地域は相互補完しつつ、健やかな子ども成長を願って育まなければならないのに、首長が教育改革と称してやたらと教育に口を出し、教育の中立性をいいつつ教育委員会は反論の声さえ上げず泣き寝入っているようです。学校現場も同じで、違和感や意見があっても県と市町村という二重構造の教育委員会が管理教育をするため、意見などまったく無視されてしまうのです。
 その際たるものは学校統合で、地域の反対意見ががどうであれ、学校現場の意見などまったく無視し、お役所の効果効率というご都合主義で統合させられ、昨日まで保育園や幼稚園に通っていた子どもが、毎日20キロも離れた学校へ、スクールバスで通わされている姿は、まさに異常としかいいようがないのです。

 私は学校、特に「小学校は歩いて行ける距離」が原則で、これはある部分理に叶った設置として明治以来続いてきた日本の美風なのです。子どもが学校までの行き帰りに受ける様々な感化は学校教育の延長なのです。私自身の幼い頃を振り返っても通学は楽しかったし、多くの人や自然との出会いは私の感性を豊かにしてくれたように思うのです。昔と今は社会環境も自然環境も、教育環境までも大きく変わっていて、懐古主義だといわれそうですが、20人ほどの小規模な翠小学校の木造校舎や地域ぐるみの教育支援を見ても、学校は子どもの数で推し量れるものではないことを物語っているのです。

太鼓を叩く松葉杖の生徒

 

行儀よく運動会を見学する孫たち

 

まるで来賓のように来賓席を独占する孫たち

 昨日は地元双海中学校の運動会でした。超大型の台風16号が接近していて、開催が危ぶまれましたが、時折雨のぱらつく怪しげな雲行きの中を決行し、どうにか運動会を成功させたようでした。私も学校評議員をしているので案内があり不謹慎と思いつつ孫3人を連れて出かけました。足を骨折して運動会に出れない生徒が松葉杖で太鼓を叩き、要支援の車椅子の生徒がマイクの前で一生懸命放送する姿に、多いに感動してしまいました。私たち大人の目はややもすると走るのが速かったり、力が強かったりする子どもに向きがちですが、私は松葉杖や車椅子の子どもが運動会の一員として役割を果たしている姿こそ、教育の基本だと思うのです。まあ雨の中での運動会も子どもたちにとっては非日常として思い出に残ったことでしょう。

 

 

 

 

  「台風の 行方気になる 運動会 雨もまた良し 非日常ゆえ」

  「松葉杖 車椅子でも 役割を ちゃんと成し遂げ 偉いもんだな」

  「強い人 賢い人に 目が行くが 進化論者は 順応を説く」

  「運動会 二百二十日の 台風に いつも翻弄 何故にこうなる?」 

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○徳島県勝浦町を訪ねる

 

20番札所鶴林寺

 私はこれまで3度ばかり徳島県上勝町を訪れています。また妻と二人でこれまで八十八ヵ所参りをして、第20番札所の鶴林寺にもお参りし納経をしているのです。にもかかわらず上勝への行き帰り通ったはずの、寺参りの折にも訪ねたはずの勝浦町のことがまったく思い出せないのですから、私の記憶も曖昧なのです。それでも四国勝浦といえば日本一のひな祭りを思い出させるほど、ビッグなひな祭りは全国に知れたイベントなのです。そんな勝浦町から講演の依頼が舞い込みました。お世話をしている県庁に勤める新居さんが窓口で、何度か電話やメールのやり取りをさせてもらいましたが、私はこのところの忙しさで、新居さんにすっかりご迷惑をかけたことを悔やんでいますが、過ぎたことなので一笑にふしてもらいたいと思っています。

 

農村舞台

 

星の岩屋の滝

 昨日は新居さんとビッグなひな祭りの仕掛け人である国清さんの案内で、農村舞台や桜ロード、星の岩屋、裏見の滝、ひな祭り会場などを見学させてもらいました。いずれも勝浦ならではのビッグなスポットで、大いに心を癒されました。夕方は廃校になった元小学校跡を利用した農村型体験宿泊施設「ふれあいの里さかもと」で、役員さんたちと会食をさせてもらいました。最初は私が宿泊する予定だったので民研修会終了後民宿で交流会を予定してもらっていましたが、私の明くる日の日程調整がつかず日帰りとなったため、急遽夕食懇談となりました。さかもとの経営については、数年前徳島県の交流プラザで海川さんたちの発表を聞いたことがあるので、一度は訪ねたいと思っていたて、いい機会に恵まれました。またみかん農家で徳島県果樹研究連合会長の押栗さんはホタル保護活動に取り組んでいて、隣町中山町との交流もあるようで、さらには国清さんは北海道オホーツク寒気団の船木さんや、高知県馬路村の東谷さんとも交流が深いと聞いて、お互いがビックリしました。

 

講演会場

 

ビッグなひな祭り会場

 講演会は午後7時きっかりに始まりましたが、沢山の人が私の話に熱心に耳を傾けてくれました。また講演後の新居さんの司会による質問タイムも、かなり充実したやり取りをさせてもらいました。別れ際再開を約束して、勝浦から徳島まで地道を走り、徳島インターから高速に乗り徳島道、松山道を走り、伊予インターで降りて愛媛の人となり、無事午前1時前に自宅へ帰り着きました。思えば講演を挟んで愛媛と徳島を日帰りで往復する長い道のりでしたが、今回も多くの深いご縁をいただきました。今回は交換した名刺こそ少なかったものの、いただいた一枚一枚の名刺が深くも重たくも感じさせてくれました。
 講演はさて置き、講演に行くと私の様な者に、日ごろやっている様々なことについて、アドバイスをよく求めらあれます。私ににはそれ程の知識も指導力もありませんが、内なる人ゆえ気付かないいくつかのことについて、思いつくまま雑談のような感じで話すのです。長年やれば慢心になったり、時にはマンネリに悩む事だってあるのでしょうか、特に国清さんは私の話に耳を傾け熱心にメモを取っていたのが印象的でした。

  「泊まらずに 徳島日帰り 便利だと 往時をしのび 感慨ふける」

  「勝浦を 何度も通る 機会あり だのに記憶に ないとは失礼」

  「勝浦は 上勝ともに 忘れえぬ 町になりそう 次ひな祭り」

  「勝浦は 海がないのに 裏がつく 聞けば昔は 川河口まで」 

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○愛媛県在宅介護研修センターの9月講座

9月講座の募集チラシ

 私への講演依頼で圧倒的に多いのはまちづくりや観光、教育や福祉、産業などの分野です。中には刑務所で話して欲しいとか、外国とテレビ回線で結んでの講演、国会議員の先生たちの前でのレクチャー等もあって、その都度浅学な私はない智恵を絞り、ある意味開き直ってお話をしてきました。実践家を自認する私は評論家にだけはなりたくないと、物の本や人の話を伝える理論よりも、自らの体験の中で学んだ論理を重視して話すようにしていますが、やはり門外なことは多く、インターネットという優れものの力を借りながら、幸い自由人となって少し時間的に余裕ができたため、事前準備をして出かけるのです。

 昨日は奥道後にある愛媛県在宅介護研修センターから依頼があって、9月の講座に講師として招かれ出かけました。松山から奥道後を通って水ヶ峠のトンネルを超えて今治に行く途中、奥道後の入り口に施設の存在を示す看板があるのを、いつも横目に見ながら走っていましたが、この施設へ行くのは昨年に引き続き今回が2度目なので、カーナビのお世話になることもなく予定通り30分前に会場に到着しました。
 昨年の講演がご縁で、県内の福祉に関する講演依頼のオファーが何ヶ所かあり広がりを見せたため、気を抜くことなくしっかりと話をしようと思いました。

 

講座受講の様子

 会場には介護職や看護職、ケアマネージャー、介護福祉士に加え一般の人もいましたが、概ね福祉に関係する人で、30人の定員一杯の盛況で、男性は2人、あとは全て女性でした。13時30分から15時30分までたっぷり2時間用意されていたので、途中10分のトイレ休憩を挟んで話をさせてもらいましたが、記録をしながら聞く態度も雰囲気も立派で、私も多いに盛り上がって話しました。
 募集のチラシに4つの願望と氷の実験の話を書いていたのを思い出し、その話を中心に生活設計の大切さを話しましたが、はてさて聞いた人の心の扉を叩いたり開いたりできたのでしょうか。

  「門外の 福祉の分野 分け入りて 思いつくまま 生活設計」

  「先生と 書かれたチラシ 恥ずかしい 人間牧場主 これでいいのに」

  「受講料 400円と 書いていた 金まで出して 参加するとは」

  「種蒔いた 後はどれだけ 芽吹くかな 楽しみながら 会場後に」

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○秋はアマギの美味しい季節です

 

秋の味覚銀鱗輝くアマギ

 日中はまだ30度を越す真夏日が続いて残暑が厳しいのですが、さすがに9月も中旬になると、朝晩はしのぎやすく、今朝はひんやりとした風が網戸から吹き込んで、「目にはさやかに見えねども」、変わり行く季節を実感してしています。
 昨日の昼過ぎ下灘漁協の組合長をしている従兄弟の若松利光さんが、アマギという魚を発泡スチロールの白いトロ箱に二つも持って来てくれました。妻は仕事に出かける準備をしていたため、その処理を私に任されてしまったのです。はてさてこの大量のアマギをどう処分するか思案しました。とりあえず一昨日新米ができたからと、一袋かつぎ込んでくれた親友の西岡さんに携帯を入れ、在宅を確認して持って行きました。

 帰宅後外の流し台にまな板と包丁、頭と内臓を入れるバケツにビニール袋を内側に張って準備をしました。秋刀魚が店頭に並ぶこの時期はまだアマギは小ぶりながら、銀鱗を輝かせていかにも美味しそうでした。この時期戸外は上がり蚊がいるので、蚊取り線香を焚き、早速調理に取り掛かりました。アマギの鱗を取り、頭を落として内蔵としっぽを取り除くのです。前もって研いでいた包丁がよく切れたため、作業は順調に進みました。それでもトロ箱一つのアマギを処理するのに約一時間もかかってしまいましたが、綺麗に水洗いしたアマギを氷でしめてパレットに入れ、ラップをかけてひとまず冷蔵庫に納めました。残飯を処分して、ここまでがいつもと変わらない私の仕事なのです。

 夕方4時頃仕事から帰った妻は、綺麗に片付いた様子を見て「ありがとう。助かります」とお礼を言ってくれました。その後妻はアマギを小袋に分けて近所や親類にお裾分けしていましたが、アマギは塩焼きとから揚げが一番なのに、昨日は煮付けにして食卓へ出してくれました。多分今日辺りは塩焼きとから揚げにしてくれることでしょう。
 私は肉食系ではなく魚食系です。そのため肉は殆んど食べず、私のために妻は殆んど毎日魚料理を用意してくれるのです。94歳の親父も魚食系なので、最近は妻もその影響で魚食系です。息子家族は肉食系なので、同じ屋根の下に住みながら別々の食事をするようしているのも、暮らしの知恵なのです。双海町は漁船漁業の盛んな地域なので魚の魚種も多く美味しいため、いい所に住んでいることを実感するのです。

  「昨日午後 アマギどっさり トロ箱で 私の仕事 少々難儀」

  「銀鱗の 輝くアマギ 塩焼きか から揚げ思う 結果は煮付け」

  「そこここに 藁しべ長者の ようにして お裾分けする 喜ばれつつ」

  「魚食系 故にこの町 住みやすい 毎日食卓 魚の料理」

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○路地植えのブルーベリーが豊作でした

 極度な酸性土壌を好むため、露地栽培は難しいといわれているブルーベリーですが、わが家の庭で栽培しているブルーベリーはその言い伝え通り、親友の西岡さんに植えてもらった鉢植えそのものをを並べて栽培していますが、肥料やりや夏場高温期の水やリがそれはもう大変で、これまでにも何度か水を切らし枯らしてしまいそうになりました。もうこの時点でブルーベリーの栽培を断念しようと思いましたが、西岡さんのご好意に報いなければと、今のところまだ頑張っていますが、そろそろ限界のようなのです。
 8鉢あるブルーベリーの1本が今年の梅雨時期から様子がおかしくなり、ついには枯れてしまいました。言いにくいことながらそのことを西岡さんに報告すると、苗があるので差し上げるから植え替えるようにとの助言をいただいていて、これまた引っ込みがつかなくなってしまいました。

名残の夏雲が湧く夕やけこやけライン界隈

 実は人間牧場の斜面を利用して、実験的にホームセンターで買った小さなブルーベリーの苗に加え、玉川町の友人からいただいた苗を10本ほど植えていますが、人間牧場の土質は大まか赤土で酸性と思われることから、露地栽培に適しているのかも知れないとの勝手な思い込みからでした。残念ながらその後の生育は、路地植えゆえ水こそやらないものの、施肥をしたり草を引いたりして少しだけ世話をしていますが、路地栽培はやはり無理かも知れないと思わせるように、中々生育してくれないのです。
 ところが蜂の師匠である井上さんから借りている蜂の巣箱を挟んで植えている2本だけは、どういう訳か勢いがよく順調にその背丈を伸ばし、今年は沢山の実をつけたのです。

 

たわわに実ったブルーベリー

 只今その巣箱には入口に蜂が群がるほどいますが、ひょっとしたらこの蜂たちがブルーベリーの花に群がって自然交配をしたのではないかと、これまた勝手に推測しているのです。今年の夏は例年になく人間牧場へ多くの人が訪れました。その都度自慢するようにブルーベリーの実を、皆さんに収穫してもらい食べてもらいましたが、ブルーベリーの木の直ぐ傍でミツバチがブンブン飛び交っているため、刺されたら大変と思うのか、皆さんは早々に引き上げるのです。それでもサイコーダイガクやまちづくり双海人などの催しの時は、私がボールに摘み取って冷蔵庫で冷やして食べてもらいましたが、美味しいと多いに好評を博しました。

名残の完熟ブルーベリを沢山収穫しました

 一昨日人間牧場周辺の道沿い草刈りをやった折、蜂の巣箱を観察していると、たわわに実ったブルベリーが目に留まり、作業を終えてから摘み取りました。これが何と何とステンレス製ボールに二つもあったのです。妻の手土産に持ち帰りましたが、わが家の鉢植えはもうとっくに収穫を終えているため少し驚き、時ならぬ思わぬブルーベリーのプレゼントに大喜びでした。早速洗ってつまみ食いをしていたようでしたが、食べ切れなくて、半分以上を冷凍保存しました。妻は今年ブルーベリーを使ってジャムを沢山作ってくれていて、毎朝の食卓でアントシアニンの濃い紫色のジャムを、目にいいと思い込みながら、パンにつけて食べているのです。わが家のブルーベリーもそろそろ鉢植えから、路地植えに変えるべき時期に来ているようです。

  「路地植えは 無理だと聞きつ 天邪鬼 ミツバチ味方? 順調育つ」

  「紫の アントシアニン 目にいいと 言うからパンに 塗って食べてる」

  「この三年 水やり欠かさず したものの そろそろ限界 妙案ないか」

  「完熟の ブルーベリーを 頬張って 美味い美味いと 妻と二人で」

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人間牧場

○私の9月の自画像

 先日行きつけの散髪屋さんに男前を上げに出かけました。定期ではなく不定期ですが、私の場合は髪型が短いタイプの散髪なので、髪が少し伸びると耳にかかって煩わしいし醜いので、大体月に一回程度は散髪をしています。最近は省エネ散髪というのがあって、千円そこそこで散髪をするお店が隣の街にはあるようで、小遣いが少なくなった退職組は、出かけたついでに利用しているようですが、私は慣れ親しんだ地元の散髪屋で、慣れ親しんだ髪型にしてもらっています。私が「散髪に行く」と言えば家族全員が私の頭を見て、「どこを刈るの」と笑われますが、それでも一回の散髪料が3400円と、省エネ散髪に比べれば3倍ものお金を払って、男前に磨きをかけているのです。

 散髪くらい気持ちのいいものはないのでしょうか、私は日ごろの疲れもあるのか、僅か50分くらいの短い時間なのに、殆んど毎回ついウトウトと浅い眠気が襲うのです。「すみません。つい眠くなって」と断わるのですが、散髪屋の大将に聞くと殆んどの人が、私と同じような行動をするというので少しばかり安心し、同じ事を繰り返しているのです。
 散髪屋さんのリグライニング椅子に座り正面の鏡を見ながら、大将の鋏さばきを見ながらする世間話も、中々面白い私の知らない話が多く、昔から散髪屋と風呂屋は色々な人情話や世間話に花が咲くというのは、どうやら本当の話のようです。髪を切るのは大将、顔を剃ったり洗ったりするのは奥さんで、二人の息もピッタリです。

これが私の今月の自画像です

 散髪が終わりをむかえるころ大将が、「若松さん、あなたは白髪が少ないですね」と誉めてくれました。その言葉に促されて鏡を見ると、確かに私の髪は時々「染めているの?」言われるほど、歳の割には白髪が少ないのです。もうこの歳になると白髪や禿が目立つものですが、まだ禿た部分も見当たらず、大将に「顔が悪いのですからせめて髪の毛ぐらいはよくないと」といって、多いに笑わせました。
 最近はストレス社会とでもいうのでしょうか、若い人でも髪の悩みを持った人が多く、また「娘脱毛母育毛」とか、「日本人だが何故茶髪」と笑い話があるように、髪の話題は留まるところを知らないのです。まあ若い頃は別として歳をとったらそれなりに、白髪になりそれなりに禿てくるのですから、そのままを受け入れて、それなりに生きればいいと思うのです。

  「散髪屋 大きな鏡 映る俺 歳相応と 自分納得」

  「そういえば 白髪少ない 気もするが 白髪増えても 染める気もなし」

  「顔悪い せめて頭は 人並みと 笑いながらも 散髪進む」

  「この顔で 六十七年 生きてきた これから先も この顔宜しく」

 追伸 数年前からブログにて自分の顔を月一程度記録することを始めています。「何て馬鹿なことを」と思うでしょうが、実は自分くらい自分を知らない人間はいないことに気がつきました。そこで折々に自分の顔写真をデジカメの自動シャッターを使って撮っています。こうしておけばいつ死んでも、遺影が間に合う手はずです。(大笑い)「自分で自分の写真を撮る人なんて聞いたことがない」と、妻の口をして呆れさせています。

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○とさ旅セミナーin仁淀川番外編に招かれて

とさ旅セミナーin仁淀川番外編のチラシ

 講師派遣申請に左のような案内状が添付されたメールが私の元に届きました。口つきは年輪塾の塾生である高知県地域観光課の依光香代子さんと、7月18日に高知県仁淀川地域観光協議会主催の講演会で私の話を聞かれた、同じ地域観光課の竹崎由美さんからの依頼でした。
 高速道路のなかった昔は、高知へ行く場合は全て三坂峠を越え、久万町経由の一般国道33号線を約3時間車で走って高知入りしていましたが、高速道路ができてからは、距離的に遠いはずの松山道路と高知道路を川之江ジャンクション経由で行った方が時間的に約1時間も近いのですから驚きです。
 でも古いタイプの人間である私には、馴染みの深い知人友人のいる久万街道や、山道を縫うように走る土佐街道をのんびり走る方が性に合っていて、少し時間の余裕があれば、時々33号線を利用するのです。

 昨日も砥部町と久万高原町の友だちにお裾分けの魚を途中で下ろす言い訳を作って、少し早めの6時30分にわが家を出て、国道33号線を走ることを思いつきました。言い訳どおり砥部町と久万高原町で友人と出会って荷物を降ろし、この春開通した久万道路の恩恵を受けて、目的地である高知県日高村を目指しました。久万高原町、仁淀川町、越知町、佐川町と進むに連れて雨が降り始め、日高村に入るとその雨はさらに激しくなりました。
 竹崎さんから送ってもらっていた付近の地図を頼りに、近くの特産市に立ち寄り、店番のおばちゃんに酒蔵の場所を聞きながら、早速講演の前振りで使うネタを仕入れました。こういったお店のおばちゃんは結構地ネタを持った物知りの方が多く、何とまあおぼろげながら、私のことを知っていたのには驚きでした。
 何も買わないのは悪いと思い、妻の土産に一袋100円の新ショウガを5袋買い求めました。高知は南国らしくショウガの一大産地で、愛媛で買うと300円は下らないショウガが、3分の1の値段で買えたのですから、妻へのいい土産となりました。

日高村の酒蔵ホール
酒蔵での講演会

 目印の松岡酒店のすぐ裏に造り酒屋を思わせる古くて高い煙突が見え、下の道沿い空き地に車を止めて坂を登って行きました。門の中へ入ると古い建物の壁に文化庁の有形文化財の登録を示す表示が見えました。1時間も前の9時過ぎに到着したため酒蔵ホールはまだガランとしていましたが、間もなく竹崎さんがやって来て受け付けの準備をしていました。
 一番乗りで来られた黒潮町にある土佐佐賀温泉こぶしの里のマネジャー隅田深雪さんと、支配人の森田俊彦さんを交えて懐かしい話に花を咲かせました。隅田さんは今も松野町目黒に住んでいて、毎日1時間半の道程を職場まで往復しているそうですが、かつて森の国ホテルに勤めていたこともあって、私が若い頃は心を許して一緒に仕事をした懐かしい間柄なのです。
 そのうち仁淀川地域観光協議会の國嶋龍二さんや依光香代子さんも見えられ、素敵な酒蔵ホールでの講演は始まりました。私はこの日どうしても松山で開かれる予定の会議があって、13時30分までに到着しなければならず、無理を言って10分ばかり早く切り上げさせてもらいましたが、熱心な参加者に助けられて無事役目を果たすことができました。

  「高速を 走らずあえて 地道行く そこそこ初秋 風を感じて」

  「店番の おばちゃん何と 俺のこと 知っていたには 驚き隠せず」

  「安いなあ 思いつショウガ 買い求め 妻の土産は これで十分」

  「この道を 何度も通った 酒倉の 煙突あるを 知らず今まで」

依光香代子さんから明くる日送られてきた講演会の写真
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○久しぶりの金比羅さん参り

 金比羅さんの愛称で親しまれている、香川県金毘羅宮の玉垣と源太石の石柱調査という、何ともアカデミックな案内が、私も会員になっている双海史談会から届きました。予定表を見るとスケジュールは昼間空いているようなので、思い切って参加の返信を事務局の中尾先生宛に出しました。
 一行13人は午前7時30分に双海地域事務所の前に集合し、中尾先生と米湊さんの少し大きめの車2台に分乗し出発しました。昨日の朝はまずまずの天気の中を高速道路を順調に2時間余り走り、善通寺インターで降りて、参道脇のみやげ物屋兼食事処へ車を駐車し、早速竹の杖を借りて一行揃って長い長い石段を一歩ずつ、汗をかきつつ世間話をしながら登って行きました。

参道での玉垣調査

 

参道に堂々と立つ源太石の石柱

 史談会のメンバーの中には既に高齢者の人もいるので、道中が心配でしたがみんな元気な健脚ぶりを見せ、金毘羅宮の参道石段の両側に寄進設置している玉垣に、掘り込んだ寄進者の名前や金額に驚きながら立派な山門をくぐり、いよいよ見えてきた「大洲上灘」とか、「大洲串村」とか掘り込んだ名前の玉垣を探しながら歩きました。郷土の人が寄進した年代は江戸末期のため、刻まれた文字はかなり風化していて、一目見て判断するのが難しいほど苔むしているものもありましたが、この時期庶民には名字が許されておらず、また当時私たちの住んでいる地域は、大洲藩だったことから「大洲大瀧屋守兵衛」とか、「大洲串村塩屋弥太郎」等と屋号で書かれていました。それらの周りには上灘や串村といった、現双海町の人たちの寄進者名が沢山刻まれていました。

歴史的に価値の高い旭社
金毘羅宮本殿

 金毘羅宮中腹にある総欅造りの旭社について、居合わせたガイドさんの話を空耳で聞きました。金毘羅宮で一番最初に陽が当るのが旭社だそうで、二人の兄弟宮大工が40年もの時間をかけて造ったという建物は、世界遺産の日光東照宮の猿の彫刻で有名な、左甚五郎の作と伝えられる立派なものでした。その旭社から程近い所、お手水場の手前に、「伊豫洲浮穴郡上灘村・・・・・」と書かれた調査対象の巨大な源太石の石柱が2本堂々と立っていました。リフトやクレーン、トラック等なかった時代に、上灘翠校下の山奥からこの地まで、どういう方法でこの重い石柱を運び建立したのか、まさに信仰心が生んだミステリアスな物語なのです。史談会には古文書の読める人が何人もいて、読めない私はその話に聞き入りながら掘り込んだ文字を、感心しつつ目でなぞらえる程度でしたが、お陰様でいい勉強ができました。

讃岐富士の遠望

 その後700段を超える急な石段を汗をかきながら本殿まで登りました。私は財布から15円取り出し、つまり「十分ご縁がありますように」と賽銭箱に投入れ手をたたきました。讃岐富士や琴平の遠望を楽しみながら下りの道をゆっくり降りて、出発した店へ辿り着きました。
 ここで香川名物のうどんを、それぞれが注文して昼食です。私はザルうどん大盛り700円を食べました。うどんのコシも強くて美味しくいただきましたが、私は今回の旅で使ったお金は土産を買うこともなかったので、賽銭とうどんで僅か715円しか使いませんでした。食事が終ったころから雨が降り始めましたが、調査やお参りは運の強さや、金毘羅さんのご利益で濡れずにすみました。弾丸研修とでもいうべき強行軍のツアーは、約1時間も早くわが町に帰って着ました。楽しい旅でした。

 

  「玉垣や 源太石造 石柱を 調査目的 ツアーに参加」

  「三メーター 有に超すよな 石柱を どう運んだのか まるでミステリー」

  「全国に 知れた金毘羅 参道に ふるさとの人 石柱寄進」

  「調査より うどん楽しみ いい加減 こんな男が いるのですから」

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