人間牧場

○旧北条市を訪ねる

 重信町と川内町が合併して東温市になり、久万町と美川村、面河村、柳谷村が合併して久万高原町、伊予市と中山町、双海町が合併して伊予市、砥部町と広田村が合併して砥部町、松前町が合併せず松前町、そして松山市が北条市と中島町が合併して松山市と、中予といわれる地域の15市町村が7年前、6市町に再編されました。私たちの伊予市のように、双海町や中山町といった旧名を残して合併した所は、「昔の名前で出ています」とばかりに今でもよく分かるのですが、久万高原町や松山市のように旧市町村名をなくした所は、一瞬「えっどこだったっけ」と思い出したり訪ねりするのに一苦労なのです。

 昨日は久しぶりに松山市と合併した旧北条市へ講演を頼まれて出かけました。講師依頼の文書もいただいていなかったので、前々日に確認の電話があった時、「9時半ごろ市役所の近くのJA北条へ来てください」といった担当女性の説明を頼りに出かけました。かつて北条市役所もJA北条へも出かけたことがあるので鷹を食って安易な気持ちで出かけました。
 北条は国道196号線沿いにあって、高速道路を利用することはできないので少し早めに出かけました。北条といえばかつては朝のラッシュに混雑した忌まわしい過去の思い出が蘇ってきましたが、今は片道2車線の立派なバイパスが着いていて、少しどころかとてつもなく早く到着したので、北条のシンボル的存在である鹿島を遠目から一目見ようと船着場へ向かいました。

旧北条市のシンボル鹿島

 春真っ盛りの瀬戸内の海は穏やかに鏡の如く凪いで、沖合いは少し靄がかかっていました。車を路側帯に止めてそこら辺を散歩していると、何人かの女性が散歩している集団に出会いました。私がデジカメで写真を撮っていると、気さくに声をかけてくれました。ええ歳の私のことを「お兄さん何処から来たの?」と言われたものですからつい嬉しくなって、「はい私は双海町から来ました」とついうっかり伊予市と言うのを忘れてしまいました。「双海町といえば夕日の綺麗な町でしょう。シーサイド公園があったり、菜の花が咲いたりするいい町よね」と連れの女性と私に話しかけるのです。わたしは更に嬉しくなって、ここぞとばかりに饒舌に双海町のことや夕日のことを話しました。「お兄さん詳しいのね」と誉めてくれました。「あそこに役場の職員でまちづくりで、時々新聞やテレビに出る名前は忘れましたが有名な人がいるよね」と、名前は思い出してもらいませんでしたが、私のことまで知っているのには大驚きでした。

北条と安居島を結ぶ連絡船

 聞けば鹿島は鹿の食害や度重なる風雨災害、それに松食い虫の被害にあって荒れるに荒れて、かつての面影はないそうで、シンボルだった島の現状を嘆いていました。高縄山と鹿島はまさに北条のシンボルなので、何とか保存伝承して欲しいものだと話ました。北条港の少し奥まった所に少し小型の定期船が止まっていました。沖合いに浮かぶ安居島と北条を結ぶ航路を走る船なのです。漁師をしていた頃何度か安居島は訪ねているし、離島青年協議会の招きで研修会に出かけた折も、この船に乗った記憶が蘇りました。
 9時前になったので急いでJA北条へ記憶通りの道を車を走らせ、無事会場に着きました。担当の中川さんが駐車場まで出迎えてくれ、2階控え室へ入りました。そのうち150人もの参加者で会場は埋まりました。タイトルは「地域を元気に」でした。時間が押したため正味の講演時間は80分ほどに短縮されましたが、あうんの反応で大いに盛り上がり、終始笑いの絶えない楽しい講演会となりました。会終了後国道沿いの福田屋という料理屋さんで、役員さんたちと昼食会が持たれ、沢山のご馳走をいただきました。

  「旧北条 久方訪ね 散歩する 地元の人と 楽しお喋り」

  「お兄さん! いきなり私 若返る 嬉しくなりて 饒舌語る」

  「シンボルの 鹿島危ない 思いつつ 写真に収め 少し散策」

  「八十分 笑い絶やさず 講演す 握手までして 嬉しい別れ」

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人間牧場

○懐かしきかな宇和島

宇和盆地に姿を現した巨大な藁マンモス象

 昨日は愛媛県消費者講座の一環として、えひめ消費生活センター友の会宇和島支部の総会が、愛媛県南予地方局7階大会議室であり、記念講演を頼まれて宇和島まで出かけて行きました。今年の3月に西予市から宇和島まで高速道路が開通し、今週末から南予いやし博が開かれるとあって、久しぶりの宇和島を楽しみにしていました。私の町からだと伊予市に出て伊予インターから高速道路に乗れば、1時間余りで宇和島に着くのでしょうが、そんなに急ぐこともないので少し早く出て、国道378号線を八幡浜まで南下、旧宇和ボウリング場へ出ました。八幡浜双岩から宇和までの岩城付近では、先日テレビで紹介されていた藁ぐろ活用による、藁の巨大マンモス象のモニュメントを、後続の車がいないことをいいことに、道端に車を止めて車内から見学させてもらいましたが、聞きしに勝る秀作に感心しました。

鬼ヶ城に向かって伸びた高速道路

 西予市から、開通後初めて高速道路に乗りました。前日友人から聞いていたのですが、西予インターから旧津島町までは宇和島道路と言って、通行料金が高規格道路並みで無料なのです。国道56号線は法華津峠を越えて旧吉田町を通りますが、宇和島道路は山側の旧三間町を通って、宇和島へは20分ばかりで到着しました。駅の裏手にある南予地方局は何度も足を運んでいる場所なので駐車所へ車を止めて、総務県民課のある4階まで行きました。担当の二宮さんや今春から総務県民課に係長として異動した長岡さんとも出会い、早速おこがましくも局長室へ通され面談しました。局長さんはその後私の講演まで聞いてもらい恐縮してしまいました。また講演会場には沢山の知り人が来られていて、穴があったら入りたいような心境でしたが、まあ何とか90分の講演を終わることができてホッとしました。

 南予地方局7階の窓からは西に宇和島城、別名鶴島城が綺麗に見えました。思い返せば半世紀50年も前、私はこの城の下の枡形町で3年間、高校生として暮らしているのです。目と鼻の先にある愛媛県立宇和島水産高校漁業科に入学遊学した思い出の地であり、朝な夕な仰いでいた城山を見ながら思い出に耽りました。
 控え室からトイレに行くため大会議室東側の通路を通りましたが、真下には宇和島駅の機関区があって、そこの引込み線にトロッコ列車が一台止まっていました。ふとこれも懐かしい思い出が蘇りました。私が夕日を売り出すのに夢中だったころ、私はJR四国の社長さんにハガキを出しました。「JR予讃線海岸周りにトロッコ列車と蒸気機関車を走らせて欲しい」と書いたのです。社長さんはこの二つの私の願いを聞き入れて、後日二つとも夢を叶えてくれたのです。窓越しに見えるトロッコ列車は紛れもなく、その時のものだと思いついつい嬉しくなりました。

宇和島城の遠景

 講演が終わり長岡さんの見送りを受けましたが、帰りに宇和島市役所商工観光課へ旧友谷本さんを訪ねました。谷本さんがえひめ地域政策研究センターで研究員をしていた頃、私もえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をやっていて、地域づくり全国大会の事務局を担当した谷本さんと、地域づくり全国大会の実行委員長を務めた私とコンビを組んで、宇和島を舞台に多いに羽ばたいたのです。
 初めて宇和島の地に足を踏み入れてから50年の時は巡りましたが、九島の公民館主事だった松本さんが商工観光課の課長さんになったり、全日空から出向していた小林さんが去り、代わって冨田さんが着任していたり、思い出に浸る悲喜こもごもの去り難き一日となりました。

 

懐かしいトロッコ列車

 「窓の外 遠く近くに 思い出が ここは私の 始発駅かも」

 「そこここに 知り人ありて 懐かしく 在りし日話す 歳をとったと」

 「窓越しに 見えるトロッコ 走らせて くれた社長の 顔浮かべつつ」

 「局長の 部屋に通され 恐縮す 無位無官ゆえ 値打ちも無きに」

 

 

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人間牧場

○いっぷく亭春の講演

 伊予市商業協同組合の理事長として長年にわたって活躍している徳本研三さんから、「若松さん、いっぷく亭で冬春夏秋と年4回、皆さんの前で講演してくれませんか」と頼まれました。いつもの事ながら「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」と気楽な気持ちで引き受けたものの、はてさて参加者の顔ぶれが殆んど一緒の人に果たしてどんな話をすればいいのか、今頃になって事の重大さに気づいてしまっても、後の祭りのようです。でも引き受けたからにはやらねばと、昨日は「宝塚春の公演」ならぬ「若松進一春の講演」を行いに出かけました。徳本さんから3月末に電話が入り、「商業協同組合の新聞チラシに、春の講演の演題を載せたいのですが何にしましょうか」と相談があり、これまた気楽な気持ちで「『ニコ・ピン・コロの人生』というのは如何でしょうか」と即答してしまいました。

いっぷく亭での講演

 昨日は午前中親類の漁師さんから見事なチヌとコブ鯛の2匹をいただいたので、その粗調理を妻から頼まれていたので1時間余りその作業にかかってしまいました。魚の料理をすると幾ら妻の割烹着を借りて着ていても、手や服に魚の臭いがつくので、終了後は朝風呂に入って念入りに洗い流しましたが、すっかり長湯をしてしまい、講演前というのに程よい疲れを感じていました。
 いっぷく亭には4分前に到着しましたが、会場には午前中のくるみ絵教室参加の皆さんが殆んど残っていいて、手持ち無沙汰に講演時間が来るのを待っていました。ふと何年か前フロンティア塾に永六輔さんを講師に招いた時、永六輔さんは30分前にやって来た人を見て、「正直者が馬鹿を見るのじゃこの世は浮かばれない。早く来た人にとっておきの話をしましょう」といって、いきなり話を始めました。私のそうしようと急な思いつきで簡単なレクリェーションを思いつくままやり始めました。

いっぷく亭のチラシ

 これがまあ大受けで、みんな楽しく手遊び程度のレクに夢中になり、時間通り後からやって来た人は会場に入るなり、大笑いで盛り上がっている会場に入るなり、「何事か?」と不思議そうに入って来ました。
 講演は谷岡さんに促されて5分前に始まりました。昨日はどこでどう知ったのか顔見知りの2人の男性も一番前に陣取り、熱心に聴いていただきました。講演の落としどころは「ニコ・ピン・コロ」なのです。ニコニコ=生きがいを持って生きる、ピンピン=心も体も健康に生きる、コロリンシャン=寝たきりにならないで天寿を全うして生きるについて、お話をさせてもらいました。
 ギノー味噌の田中社長さんからいただいた商品を皆さんにお裾分けして、ぬかりなくギノー味噌の宣伝をさせてもらいましたが、次回は7月17日火曜日で決めました。「夏の暑い盛りが始まろうとしている時期だな」とせみ時雨を思い出しながら、心浮き浮きしつつ会場を後にしました。
  追伸 郡中いっぷく亭のチラシに、下半分を使って講座の案内といっぷく亭のおばちゃん日記が載っていました。

  「春講演 まるで宝塚 思いつつ いっぷく亭で 楽し講演」

  「早く来た 人と一緒に レクレーション これが大受け みんな笑顔で」

  「ニコニコと ピンピン生きて コロリンシャン こんな人生 ありたいものよ」

  「ああ今日も 楽しく生きた 思いつつ 心ほのぼの 家路を急ぐ」

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人間牧場

○お爺さんは山へ柴刈りに(その1)

 「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に出かけました」で始まる日本の昔話。また3日前の年輪塾で聞いた、二宮金次郎の話に出てくる「薪を背負った金次郎像」を、髣髴するような作業を昨日行いました。
 これだけ聞いただけでは「、エッ、一体何のこと」と思われそうですが、昨日は公民館の赤石主事さんと久保さんの協力を得て、人間牧場で来月行われる子ども体験塾のプログラムの一環として、子どもたちに薪割りを体験させるため、近くの友人の持っている杉山へ行き、間伐している杉の木を運び出す作業を行いました。

間伐材の搬出

 私が子どものころの昔は、ご飯を炊くのも風呂を沸かすのも全て柴や薪だったため、「山へ柴刈りに行く」という表現は当たり前に聞こえ、親に連れられて雑木林へ焚き木を広いに出かけたものでした。その頃は子どもも貴重な労働力で、自分の身の丈にあった専用の背負子が用意されていて、母親の背負った焚き木の多さに驚きながらも後からついて歩き、肩に食い込む背負子の紐の痛みを感じつつ手伝ったものでした。
 そのころは冬になると、農家に頼んでいた薪用のクヌギの木が一年分届き、朝な夕なそのクヌギを鋸で切ったり、マサカリで割ったりするのも子どもの仕事だったのです。切れぬ鋸と割れる薪に悪戦苦闘しながら手に豆を作ったり、その豆が潰れて血が滲むものの、それはいつしかタコのように硬くなっていました。

 

クヌギの木の伐採

 エネルギーがガスに替わってからは、かまども五右衛門風呂も薪も、またそうした子どもの重労働もいつしか消え、今はかまど、五右衛門風呂、薪、マッチ、背負子などを子どもに話しても、「えっ、それ何?」とまるで死語の世界なのです。
 幸い子ども体験塾の舞台となる人間牧場にはかまども風呂もあって、最近ピザ釜まで出来ているので、子どもたちにそこで使う薪を作る作業も体験させたらいいと思い、昨日の作業と相成った次第です。最近は杉や桧の森林もたとえ間伐しても、間伐した木は林の中に放置され腐らせてしまうのです。勿体ないから再利用をしようと、山主である地域事務所の井上課長さんにお願いし、リンドウや農道がついて比較的楽に運べる場所を下見して出かけたのです。

 

人間牧場での小切り作業

 山林の中にはこれでもかというほど、間伐された手ごろな杉の木が横たわっていました。その中の杉の木を手当たり次第チェンソーで、軽四トラックの荷台に積めるような長さに切って、担いで道まで運び出し荷台に積み込みました。私のトラックと公民館が用意したトラックに積み込みが終ると、次はクヌギの木を1本切ることにしました。これはかまど小屋のインテリア用に使うためです。人間牧場のかまどの下には作った時、公民館の宮栄館長さんにお願いして、クヌギを分けてもらったものを、薪にして納めていたのですが、いつしかそのことを知らない人たちが、その薪を使い減ってしまっているのです。薪をうず高く積んだ姿はとてもシンプルな田舎ならではの姿なのです。

  「薪・かまど ましてや煙 それは何? 子どもに言っても おとぎ話だ」

  「杉山に 分け入り干ばつ 品定め 次から次へ チェンソー切る」

  「杉山に チェンソー音 甲高く 響き渡りで 静寂破る」

  「間伐の 木々もやがては 土となる 勿体ないと 思いつ運ぶ」

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人間牧場

○大杉年輪塾(その3)

会場を埋めた160人の参加者

 今回の大杉年輪塾は午後6時から2時間の予定で始まりました。150予定して用意した椅子は開会までに全て埋まり、慌てて10席ほどかき集めました。嬉しい誤算に受付で配る資料も、私たち関係者の分は回収されて、参加者に回され事なきを得ましたが、柳沢地区へは何度も足を運んでいるので、知人友人も多く会場のあちこちから懐かしい顔顔の人たちが手を振ったり、軽く会釈してくれたりして応えてくれました。
 亀本幸三さんが進行役を務め、西田和子さんの開会挨拶に続いてこの日のメインゲストである中桐万里子さんの話が始まりました。中桐さんは二宮金次郎の七代目の子孫で、自分の祖母から聞いた金次郎の人となりやエピソード、それに全国600の町や村の復興に関わった話を分かりやすく話していただきました。メインである水車の話は皆さん納得してメモを取っていましたが、報徳=恩返し、ギブアンドテイク⇒テイクアンドギブは、私たちのこれからの生き方に大きな示唆を与えてくれました。

熱弁をふるう中桐万里子さん

 90分一杯を使った中桐さんの話に続いて、いよいよ私の出番です。ステージには素敵な高座が設えていて、その上には西田さんのご主人が生前いただいたという、立派な紫色の分厚い座布団が敷かれていました。看板が裏返しされ、米湊大番頭の出囃子、松本小番頭の拍子木と紹介で高座に座りました。少々マイクの雑音が入りましたが、与えられた30分の持ち時間を、思い切り熱演しました。私の役目は中桐さんのためになる話の、緊張した余韻を消すことなく、心と体をほぐすことなので、落語ならぬ落伍ですから多いに笑ってもらわないと困るのです。一番前の列に座っている年輪塾の大河内結子さん、青木晴美さん、田処女性陣がまるで桜のように大笑いしてくれるので、その波及効果で参加者も多いに笑っていただきました。高座への反応を見聞きする限り、まあ100点満点とは行かなくても、90点くらいの及第点ではなかったかと、手前味噌ながら自己満足をしています。

会場を笑わせた私の落伍風景

 この日のため、私の名刺のパトロンである、ギノー味噌の田中社長さんから、桜海老ドレッシングを参加者全員にいただきました。勿論裏が味噌の名刺を使って、ギノー味噌のコマーシャルもしたたかにさりげなく、やらせていただきましたが、テイクアンドギブが浸透し、足らなくなったと思っていた120本の桜海老ドレッシングが丁度よく納まって、主催者もホッとしました。落伍終了後年輪塾のメンバーの演奏で二宮金次郎の歌をみんなで大合唱し、徳田さんの締めくくりのあいさつで、研修会は余韻を残し終わりました。
 この日はすっかり盟友となっている県警本部長さんや県庁の局長も駆けつけていただき、また坂出の福田さんや高知馬路村の木下さんも駆けつけてくれました。木下さんはその後の交流会で、いつもより更に進化したウマジックを披露して、会場を大いに盛り上げてくれました。
 宴たけなわながら10時40分に中締めを行い、急いで粗方の片づけをみんなで行い、泊まる人帰る人に分かれ散会しましたが、私のデジカメの写真を再生して見ながら、過ぎこし時の流れを思い出しています。

  「尊徳の 子孫が語る 話には 裏の裏なる 教えがありて」

  「私には 心と体 解きほぐす 役割ありて 笑いを誘う」

  「一度会い 二度合う度に 深くなる 人の心の 温かきこと」

  「ああ今日も 元気貰った 思いつつ 深夜の道を 友と三人」

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人間牧場

○大杉年輪塾の開塾(その1)

 昨日は私が塾長を務めている年輪塾の移動塾が、山一つ峠ひとつを越えた大洲市柳沢田処であり、大番頭の米湊さんを12時20分に双海町地域事務所前で乗せ、更には12時30分にしもなだ運動公園前で小番頭の松本さんを乗せ、県道下灘~大洲線を走って田処を目指しました。沿線には名残の桜が路面をピンク色に染めて散っていたり、野山に咲く山桜の花がそれは見事に映えて、いいようのない幸福感に浸りました。
 この街道は車の交通量も殆んどなく、ゆっくりのんびり気心知れた3人で、世間話をしながら30分も走ると、目的地である旧田処小学校へ到着しました。この学校は丁度一年前に児童数の減少を理由に閉校になっていますが、敷地内に農村活性化センターという体育館や集会室を兼ねた立派な生涯学習施設があって、調理室ではいつもの女性軍が集まり、夜の懇親交流会に出される料理の調理真っ最中でした。

 旧学校周辺のさくらも少し盛りを過ぎていましたが、まだまだ花見が出来るほど残っていて、時折たまげたように、さわやかに吹く春の風に花吹雪が舞っていました。私が主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループでは、千本桜の森づくり事業でこの地にも、100本余の桜がプレゼントされ、地元の人たちの手で植えられ、大事に育てられているのです。10年後の成長花見が楽しみです。
 今回の移動塾は、午後2時から清水さんが八幡浜市日土で開塾しているあらし山年輪塾が、遠隔地と清水さんの体調の都合、それに講師の都合で日土で開けないため、旧田処小学校の教室をお借りして開き、午後5時から農村活性化センターで大杉年輪塾の開塾式、午後6時から第一回目の夜学、20時から懇親交流会と続く超ロングなスケジュールなのです。

旧田処小学校で開かれたあらし山年輪塾の移動塾

 今回の年輪塾移動塾は、昨年双海町翠小学校で開いた二宮尊徳公開セミナーの講師を務めた、二宮金次郎の七位目の子孫に当たる中桐万里子さんへのリクエストが多かったため、中桐さんには午後と夜との二回講演という、過酷なスケジュールとなりました。あらし山年輪塾に参加した20人ほどの塾生は、昨年の公開セミナーで中桐さんの話を聞いているので、今回は中級編とでも言うべきもので、前回の続きの話を2時間に渡って興味深く聞きました。主宰した清水さんの網膜はく離手術後の経過も良好で、元気な姿であらし山年輪塾の運営に当たられました。その話の内容は主宰者である清水さんの、ブログでの書き込みがあると思われますので、委ねたいと思います。

あらし山年輪塾で熱く語る講師の中桐万里子さん

 

 中桐万里子さんの話はいちいち納得することばかりでした。ことばを選んで訴えるように話す話芸はとても洗練されていて、講演を数多くこなしていながら未だに百連発の機関銃のようにまくし立てて話す私とは大きな違いで、とても参考になりました。
 この日も二宮尊徳学の基本となっている水車の話を中心に話されましたが、二宮尊徳が栃木県桜町という寒村を復興した苦難の10年間の話、特に成田山のお寺で煩悩と闘い断食修行した苦悩の話は多いに心に響きました。
 講演が終わって質問タイムになり、私は水車の話について質問しました。講演で触れなかった水車の心棒についてです。即答の解答に納得し、自分なりの整理が出来たように思いました。

 続いて行なわれた開塾式は、高知県馬路村の木下さんの配慮で送ってもらった魚梁瀬杉の輪切りに、松本さんが腕を振るった看板が亀本さんに贈られ、塾長である私のあいさつに続いて、大杉年輪塾の西田さんが決意表明し、塾生証が交付され昼の部を終えました。

  「久方に 訪ねし里に まだ桜 残りて愛でつ 仲間に会いぬ」

  「野も山も まるで錦絵 見てるよう 桜桜に 目を奪われて」

  「この地にも 住む人ありて 長閑なり 煙上りて 夕餉の支度」

  「金次郎 子孫の話 営々と 遺し伝えて 今に至りぬ」

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人間牧場

○若松進一の半額セール

 時の流れは早いもので、新年度が始まって半月が経ちました。新年度を迎えるに当たり新しい気持ちでと意気込んでは見たものの、少し惰性のようなものを感じあくびが出るのもこの頃です。新聞のチラシには早くも「在庫一掃処分市」など、業者の焦りや世の中の不景気を反映したようなものが見え始めています。
 昨日の朝新聞を見ていて意外な社告を見つけました。新聞の2ページといえば社説や政治の裏話が出ている所で、私はむしろ1ページより2ページを食事をしながら読むのです。その2ページの下の社告欄に、私が4月から始めているカルチャースクールのことが載っていました。「新規のお申し込みは4月末まで、入会金半額!」小さい文字で追い討ちを書けるように「通常1,500円(税込み)が525円」「2012年4月開講講座のご案内、受講料3ヶ月分(教材費等は別)」など、今なら間に合う終列車とばかりに誘う言葉が並び、その横に私たち講師の顔写真入りで講座の内容が載っていました。

昨日の新聞の2面社告

 この社告をどう見ればいいのでしょうか。この社告を見た人は、「若松進一さんの講座も人が集まらないので、新聞社が再募集している」とか、「若松進一さんの講座の値打ちも半額セールとは安くなったものだ」とか、はたまた「半額になるのを待っていたので、一回は聞き逃したが行こう」とか色々な見方考え方がされることでしょう。
 今回のカルチャースクールで、私の「街中の人間牧場移動塾」というタイトルの講座に、2人の受講生が申し込んでくれました。毎月第一火曜日10時~12時までという、働いている人には参加できにくい日時を選んで開講しているため、それも止むを得ないと納得していましたが、一人でも申し込みがあったら講座を開くという、カルチャースクールの方針に沿って、4月3日に生徒2人だけの講座が開講しました。
 友人の松本さんが年輪塾のネットで講座のことを紹介してくれたお陰で、どうやら次回から1名増えそうな気配なのです。

 私は第1回目の講座のことを私自身のブログで、写真を添えて紹介しました。ところが私のブログを読んだ福井県の公民館連合会の事務局長さんからメールが入り、「たった2人でも丁寧に学習をしている姿に感動しました」とブログコメントいただき、何と何と7月に一泊二日で行なわれるセミナーの講師として招かれることになったのです。いやあ世の中は分からないものです。加えて受講生の兵頭さんの所属している法人会から5月に、モーニングセミナーの講演を依頼されるなど、面白い方向に発展しているのです。
 妻が昨日の新聞の社告を見て、「新聞の2面にこうして写真まで入れ、タダで宣伝してもらうなんて凄いよね。これ金額にしたら一体どのくらいかかるのかしら?」と、面白いことを言うのです。確かにこの社告は私の半額セールかも知れませんが、一方では妻の言うように宣伝広告だと思えば、とんでもない価値なのです。もっとも、私でさえ2面の新聞記事は上半身の記事を読んで、下半身は時折見過ごす等、見えにくい部分なので、気がつかない人も沢山んると思われますが、まあ話半分、いやいやたとえ100人でも見てもらえれば、効果は絶大です。考えは自分の軸足で左が右、上が下、向かい風が追い風に変わります。今回のたった2人だけの講座は、「損をして得をした」ような、何とも面白い様相を呈しています。次回の講座も頑張っていきまっしょう」。

  「新聞の 二面社告に 俺の顔 半額セール それでも買わぬ」

  「この社告 一体どんな 価値なのか? 妻言う通り うん万円かも」

  「二人でも 講座開講 したお陰 はるばる福井 講演依頼」

  「先ず動く さすれば風が 吹いてくる 風に任せて 海原進む」

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○舞たうん112号が届きました

舞たうん112号の表紙絵

 えひめ地域政策研究センターが発行している季刊雑誌「舞たうん」112号が届きました。届きましたというよりは、先日センターに立ち寄った際、送付作業に追われていた112号の編集担当だった川渕研究員から、先取りして持ち帰ったのです。本にしろ雑誌にしろ新しい出版物はいいもので、インクの匂いがすると何処かワクワク・ドキドキするものです。ましてや毎号柳原あやこさんに描いててもらっている表紙の絵が、下灘駅なので余計嬉しくなりました。表紙の裏側に次のような「表紙のことば」が書かれていました。
 ~JR下灘駅に都会からの若者たちが下車し、ベンチに座る。眼下は青一面に広がる海。夕陽が止まる双海はこのホームから生まれた。私も時は同じ頃か、石垣島白保を守る会の縁で知った地元の4歳児の発した言葉「海って生きているんだね」が、今も新鮮に残る。白保のサンゴは守られた。今度、都会から熱血「地域おこし協力隊」が下灘に降り立った。「ここは私の絵そのものです」と、ホームに立つ。双海の海も生きつづけていますよ。柳原あやこ~と、メッセージが書かれていて、感無量でした。

 112号は「地域活性化への新しい風」~地域おこし協力隊~が特集テーマで、編集子川渕さんの~(前略)今回は、それぞれ地域で活動している地域おこし協力隊にスポットを当て、現在の活動状況や課題、これからの展望等を取り上げることとした。(後略)~と書かれたリード文が読者を本分へと誘っています。毎度の事ながら22ページと23ページ見開き2ページに特選ブログ/shin-1さんの日記Vol19「頑張る地域おこし協力隊」という私の連載記事が載っています。今回は双海町下灘地区に配属されている富田敏さんのことを少しルポしましたので興味のある方や舞たうんが届く方はご一読の上ご批評願います。

 世の中は自然と人によって動かされています。自然は不変なものであり、人間の力ではどうすることも出来ませんが、自然を生かして生きることは出来るのです。地域おこし協力隊に応募した人の中から冨田さんを選んだ目利きの良さは人間の成せる技です。選ばれた冨田さんが今までと違った尺度で地域を活性化しようと挑むのも人間の力です。また冨田さんに触発されて、動こうとする人たちを束ねる人間の総合力がなければ地域の活性化は絵空ごとに終るのです。いい地域にするよう及ばずながら多いに協力したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「今号も 拙文連載 したけれど 文章書くは いつも難し」

  「石ひとつ 都会で見つけ 野に放つ 光り輝く ようにしないと」

  「下灘の 駅に想いを 寄せている 何処か昔の 私に似てる?」

  「表紙絵に 描かれた姿 懐かしい メルヘンタッチ さすがさすがと」 

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人間牧場

○ゲンジボタルの幼虫上陸

水の中でカワニナを食べるゲンジボタルノ幼虫

 昨日の夕方、遠縁で知人のお母さんが亡くなった訃報を聞き、急遽夕方7時に家を出て通夜の会場であるセレモニーホール伊予へ車で向かいました。夜来の風も止み雨も上がって静かな夜でした。一通りのあいさつや死者との面会を済ませ、親族一同の夕食会場で思い出話をしながら雑談に耽り、8時過ぎに会場を後にしました。その帰り道、先ほど電話を貰った市議会議員の岡田さんに再度電話を入れました。
 先ほどの電話は「蛍の幼虫が上陸し始めたので見に来ないか」という誘いでした。通夜に行く途中だったので丁重に断わっていましたが、通夜を予想以上に早く切り上げたため、急遽蛍の幼虫の上陸を見たくなって再度電話を入れたのです。

 

 

光を発する蛍の幼虫

 岡田さんの説明によると蛍の上陸地点は私の家から僅か200m足らずの上灘川沿いだというのです。早速言われた地点まで車を走らせました。そこには既に岡田さんや蛍保存会の上西さん、それに翠小学校の教頭先生など3~4人の人がいて、川の側面を覗き込むようにして観察していました。車を止めてライトを消し、いわれる方向を覗き込むと水面から川の護岸を、光を輝かせて一斉に昇って来る無数の蛍の幼虫の群れを見ました。辺りは真っ暗なので余り分かりませんが、凄い数の幼虫が上陸していることが何なく想像できました。岡田さんや上西さんの説明だと護岸をよじ登った幼虫は川沿いの道を越えて田圃の土の中へ入るのだそうです。足元のアスファルト舗装の道には護岸を上りきった幼虫が何匹か這いながら動く様子が観察されました。

 

アスフアルトの道を這う幼虫

 ゲンジボタルノ幼虫は4月中旬になると雨の日を待って上陸を開始します。これは幼虫が蛹になるために行なう行動だそうで、このころになるとカワニナを食べなくなって、自ら光を発光するようになるのです。幼虫が上陸を開始する日は一日中雨が降り続く日の風のない夜19時ころからだそうで、上西さんの話による桜の花が散り始めたころと合致しているようでした。
 私が蛍と関わっていた何年も前に、地元で蛍きちがいとまで言われ亡くなった福岡親一郎さんから聞いていた、ゲンジボタルの上陸条件は、①最低気温及び水温が10度C以上であること。②一日の気温の変動が少ないこと。③水温と気温が同じ温度か気温が高いこと。④降雨時若しくは降雨後であること。⑤夜19時から21時であること。⑥幼虫が十分にカワニナを食べて成長成熟していること。日長時間が12時~13時間以上であること。でしたが、上西さんの話で付け加えれば、目安は桜が散り始めたころのようです。

 私はこれまで見たい見たいと思いつつ、蛍の幼虫の上陸を目の当たりにすることはありませんでした。昨日の夜はラッキーにも、岡田さんの一報で通夜の帰りながら、見ることが出来ました。蛍が卵を産み幼虫になって川の中で生活し、蛹から孵って光を発しながら飛ぶ蛍の短い一生の中でも、幼虫の上陸行動は余り知られていないし、見る機会のないことなので、その姿には飛ぶ蛍を見た以上に深い感動を覚えるのです。
 早速自宅へ帰って妻にその話をすると、「私も見たいからこれから連れて行って」と言われましたが、広間の忙しさや通夜の疲れもあって、「明日にしよう」と言い聞かせましたが、今日は孫たちにも見せてやりたいと思いました。

  「幼虫の 上陸姿 見に来いと 電話連絡 貰って参じ」

  「怪しげな 光を発し 這う幼虫 一ヵ月後の 乱舞楽しみ」

  「長年の 思い叶って 幼虫の 上陸風景 感動しきり」

  「私にも 見せてとせがむ 妻に言う 明日にしよう 疲れているから」 

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人間牧場

○双海中学校の入学式

 わが家から歩いて10分足らずの所に双海中学校があります。学校の校内放送や生徒たちの部活の声、ブラスバンドの音などが毎日のように聞こえ、ある意味若いエネルギーを、気としていただき暮らしているのです。その中学校の学校評議員をしているため、入学式のご案内をいただき歩いて出かけました。学校までの裏道沿いには桜や桃の花が今が満開と咲き誇り、すっかり温かくなった春の空気をいっぱい吸い込んで気持ちよく歩き、20分前に学校へ到着しました。前日の朝は体育館の屋根のめくれを知らせに、学校へ出かけたところ、「入学式は明日ですが?」と校務員さんに間違われてしまいましたが、この日は受付にPTA副会長になった大谷香代子さんもいて、間違えられることもなく校長室へ案内されました。

双海中学校第3回入学式

 入学式は今年が3回目です。統合の忙しさも消え、地元出身の畑中校長先生の指導のもと、すっかり落ち着いていい学校教育が行なわれているようです。今年の新入生は29人で、昨年卒業した人数より5人減ったため、少々寂しくなりましたが、生徒たちは元気いっぱいで入学してきました。翠小学校出身の長見さんが新入生代表で誓いの言葉を述べたり、大谷香代子さんの息子さんが、歓迎の言葉を述べたり、また子ども体験塾に参加した幸君、若松君、中村君などの顔も見え、少し大きめの学生服を着て、すっかり中学生の風貌をしていました。
 それにしてもつい最近のお母さんたちはとても若い格好をしています。私の子どもが中学校に入学したころは
、妻もみんな所帯やつれをして、もっと古風な格好をしていたように思うのですが、まるで独身ではと見まがうほどでした。

 今年は季節が約十日間ほど遅れているようです。中学校の前面に見える本尊山界隈の山桜も今が満開で、クヌギの新梢もまだ芽吹き始めたところですが、このところの暖かさで春は一気に進むものと思われます。折角咲いた桜も夜来の雨と風で残念ながら散ってしまいそうで、今朝書斎から見える窓越しには何処からか飛んで来た桜の花びらが、まるで桜吹雪と形容されるように雨風に舞って、風情を醸していました。
 今朝は今年度になって始めて、孫二人が保育園へ「おじいちゃんと行く」と言ってくれました。なんのことはなく、今日は朝から雨風模様で歩くのが大変だと思ったのでしょうか、私の軽四トラックに乗って行きたかったのでしょうか、さっさと軽四トラックに乗ってシートベルトを締め、発車オーライでした。
 
  「昨日まで じゃれついていた 子どもたち 少し太めの 制服を着て」

  「近頃の 母親若く 美しい 妻のころとは 随分違う」

  「フロンティア 塾に通った 加代ちゃんの 息子歓迎 言葉を述べる」

  「十日間 遅れて季節 過ぎにけり 今が盛りと 桜咲く道」 

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