人間牧場

〇年輪塾公開セミナー(その1)

 「今も行き続ける尊徳精神」というテーマの年輪塾公開セミナーが昨日翠小学校で行なわれました。その資料の前文に「はじめに」と題して、年輪塾塾長である私が次のような文章を書いています。

 東日本大震災や紀伊半島の大雨被害など、日本列島各地で起こっている天変地変に、私たち人間は恐れおののきながら今を生きています。しかし、日本の歴史を紐解けば、こうした苦難はいつの時代にも起こっていて、その都度日本人は智恵と汗でそのような苦難を逞しく乗り越え、今日まで生きてきたのです。
 各地の小学校の校庭に粗末な服を着て、薪を背負い本を読みながら、人知れずひっそりと立っている二宮金次郎像の台座に上がって、金次郎が読んでいるほんの一節を見て、その本が中国の古書「大学」であることを知った時の驚きや、旨のときめきは今も忘れられませんが、そのことがきっかけで二宮尊徳翁夜話を学ぶうち、二宮尊徳が実は冷害や干ばつ、震災や大雨被害を見事に指導克服した復興の祖であることを知ったのです。
 しかし世界でも屈指の経済大国になり、ものが豊かになった日本では、二宮金次郎の銅像があることさせも知らず知らせず、古い時代の遺物として私たちの記憶から消え去ろうとしているのです。
 二宮金次郎の生き様を学ぶ私塾年輪塾では尊徳翁夜話233話を学びながら、今年の春から夏にかけて、塾生が中心になって大掛かりな二宮金次郎像調査を行ないました。金次郎象のある学校のご好意ご協力をいただいた調査の結果、驚くことに愛媛県内には182体もの銅像・陶像・石像があることが判明したのです。塾生調査員が作成した調査票には像全体の形や顔の印象、読んでいる本の内容や建立者・寄贈者などなどの他、調査にまつわるエピソードが詳しく記入されています。その記録は全てCDに集録し、本日から販売させていただきます。
 年輪塾ではこれら学習の成果をと先人からの学びとして、二宮尊徳公開セミナーを開くことといたしました。一昨年開催した宮本常一公開セミナーではノンフィクション作家佐野眞一さんを招き大好評でしたが、今回は二宮金次郎の七代目の子孫中桐万里子さんを招き、知られざる金次郎秘話やその教えを聞きたいと計画した次第です、
 年輪塾も人間牧場年輪塾からあらし山年輪塾、馬路村年輪塾、田処大杉年輪塾へと少しずつではありますが新たな年輪を加え、塾是・塾訓に基づいて私塾としての進化を遂げようとしています。ささやかな私塾活動ながら二宮金次郎のおしえそのままに、これからも人間の自立、地域の自立に向けて、さらなる学びを続けたいと念願しています。
                       平成23年11月19日
                              年輪塾塾長  若松進一

 プログラムは以下の通りです。

 

公開セミナーのプログラム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「尊徳の 公開セミナー 開きたる 二年の学習 短くもあり」

  「尊徳の 子孫招いて 学習会 どんな人かと 期待膨らせ」

  「ワクワクし ドキドキしたる セミナーで 多くのことを 学び直して」

  「知っている つもりだったが 金次郎 知らないことが 余りに多くて」

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人間牧場

〇二宮金次郎七代目の子孫中桐万里子さんに出会う(その0)

 「二宮金次郎の七代目の子孫で、中桐万里子さんって一体どんな人だろう」。これは年輪塾公開セミナーのゲストとして招くことが決まってからこの一年間の、私の頭の中を巡る空想疑問でした。中桐さんの存在をいち早くネット社会で見つけ、公開セミナーのメインゲストに推薦した清水和繁塾頭はこの一年間、私の出版物や年輪塾の情報等を中桐さんに送りつけ、個人的に深い交友を保ち、その都度報告があるものの、益々謎は深まり逢いたい思いは募っていました。年輪塾の公開セミナーは、ノンフィクション作家佐野眞一さんを招いて、民俗学者宮本常一を語った2年前に続いて二度目ですが、佐野眞一さんが男性だったこともあり、中桐さんが女性ゆえの淡い恋心のような気持ちで、昨日の出会いを待っていたのです。

 昨日は晩秋としては珍しい地元では「やまぜ」と呼ぶ、南西の雨を伴った風が吹き荒れる、あいにくの天気でした。11時の飛行機で来られる中桐さんを清水塾頭が松山空港まで出迎え、12時ころから松本小番頭を交えたささやかな昼食を、双海シーサイド公園のレストラン夕浜館でやろうと、相談がまとまっていました。松本さんを誘い夕浜館で待っていると、清水さんの案内で中桐さんは顔を現しました。1974年生まれですから37歳、1944年生まれで67歳の私とは、30歳も歳が離れています。二宮金次郎が背の高い大男?だったことを過去の資料を紐解きながら知っていた私には、中桐さんが女性としてはかなり背丈が高い173センチが直ぐに理解できましたが、失礼ながら若くて美しくスラーとした中々の容姿でした。

 

翠小学校の校庭に建つ二宮金次郎の銅像の前で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 清水さんと中桐さんは夕日丼を、私と松本さんは夕日半ドンセットをそれぞれ注文し、食べながら楽しいお喋りをしましたが、慶應義塾大学を卒業後京都大学大学院で、教育学の博士号を取得卒業している才媛ながら、そんな気負いもなく好感の持てる女性でした。本職は「親子をつなぐ学びのスペースリレイト代表」だそうですが、今日の公開セミナーがとても楽しみです。
 昼食後セミナーの会場となる翠小学校や海の資料館海舟館、私設公民館煙会所、人間牧場を清水さんとともに案内し、それぞれの場所で立ち話のようなお話をさせてもらいました。

私設公民館煙会所で中桐さんと清水さん
 
人間牧場にて
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 清水さんと中桐さんの二人は人間牧場を後にした後、昨晩は清水さんの実家である八幡浜市日土のあらし山山荘年輪塾へ向かわれました。今日のもう1人の講師である前東京学芸大学の学長だった鷲山先生ご夫妻と、国立大洲青少年交流の家の新山所長さんを交えて、小さな交流会を持ったようです。昨日の夕方8時30分ころ清水塾頭に携帯電話をしましたが、中々盛り上がっていたようです。
 さて今日は13時から、清水塾頭の調査報告「学校の金次郎像は何を読んでいるのか」、14時から中桐万里子さんの「子孫が語る尊徳の教え」、15時30分から鷲山さん、中桐さん、私の鼎談「今に生きる報徳思想」が予定されています。50人余りの参加があるようですが、雨ながらいい公開セミナーになるよう心から祈っています。

  「尊徳の 子孫に出会う 夢のよう ワクワクしつつ ドキドキしつつ」

  「私より 三十歳も 若い人 尊徳さんの DNAは?」

  「この時期に 晩秋ながら やまぜ吹く 胸の高鳴り 知らせるように」

  「さあ今日は 心引き締め 頑張ろう 尊徳セミナー 役者揃いて」

 

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人間牧場

〇妻の買ってくれたスリッパ

 北国から雪の便りが届くようになって来ました。西国四国でも北国ほどではありませんが、朝晩は10度を下回って、昨日の朝等は散歩に出るのに少し震えるような寒さを感じました。息子たちは自分たちのダイニングにはエアコン暖房を、私たちのダイニングには石油ストーブをそれぞれ入れて朝を迎えていますが、私の書斎はまだ一度も妻が用意してくれた石油ストーブに火を入れることもなく過ごしていますが、さすがに昨日の朝は少し寒さを感じたものの、ブログを書いたり読書をしたりすることに熱中して、ついつい暖房を入れることを忘れてしまいました。
 今月の最初ごろ、妻が暖かそうなスリッパをどこかからか買い求めてきてくれました。今年の春まで使っていたスリッパは、家のリフォーム工事の折、処分されたのかどこにも見当たらないのです。私が寒さ対策に案外無頓着なので、風邪でも引かれては大変と思ってのことでしょうが、書斎も長い廊下もダイニングも全て板張りなので、スリッパはすっかり私の暮らしの中に溶け込んで重宝しているのです。

妻が私のために買ってくれた愛用のスリッパ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日外出先から帰ると二人の孫が私のスリッパを片方ずつ持って、廊下で鬼ごっこをして遊んでいました。「そのスリッパはじいちゃんのだから遊びに使うな」と怒鳴ると、「これはお父さんのスリッパだ」と言い張るのです。お母さんに「これはおじいちゃんのだから、遊びに使わないで」と言われ納得したようですが、孫も4歳・2歳になると父親の身びいきをするようになるのですから驚きです。
 わが家の玄関には息子家族と同居するようになったこの春から、靴やスリッパの類が所狭しと並んでいて、まるで学校の入り口のようです。時折訪ねて来る友人や親類の人が、この様子を見て、「まあ靴類が沢山あっていいですね」と褒めてくれるのです。私の靴だって運動靴、カジュアルシューズ2足、革靴、外スリッパ2足と6足も玄関に並んでいるのです。私は只今育爺なので、孫に靴の並べ方をきつく教えています。三つ子の魂百までですから、今覚えさせないと覚えないのです。

 同居して半年経ちましたが、靴を並べる習慣がやっと板についてきました。一番の実践者は2歳の孫奏心で帰ると靴を土間で脱いで、汚れた足のまま玄関先に上がってきます。そのため母親は玄関のタイル張り土間を毎日雑巾で拭いているようです。脚下照顧の古事に習い履物を揃える習慣を、もう少し定着するまで口を出したいと思っています。
 今朝は雨が降っていて孫希心を奏心と二人で保育園に軽四トラックで送っていくことになりました。見送って帰ると私の靴まで綺麗に並べ替えてくれました。感心感心です。
 裏庭の柿の木の葉っぱもいつの間にか半分ほどが落葉し、咲き誇っていた黄色いツワブキの花も幾分しおれ気味です。寒い冬はもうそこまでやって来ています。風邪を引かぬようスリッパを愛用して間近に迫った寒い冬を元気に乗り切りたいと思います。

  「妻買いし スリッパ履いて 椅子もたれ 暖かきかな 朝を迎える」

  「育爺と ばかりに要らぬ 口を出す 靴を揃えろ これが基本だ」

  「川柳で 暖かいのは 便座だけ 言った人あり 俺にゃ愛ある」

  「寒いけど 足はポカポカ スリッパで 頭寒足熱 頭冷やして」

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〇正夢でなければいいが・・・

 昨日の夜というよりは今朝のの方が正しいのかも知れません。私は起きる直前蒲団の中で夢を見ていました。夢のストーリーは「私が車を運転していると、電話がかかってきました。誰からだろうとズボンのポケットに入れた携帯電話を運転をしながらまさぐり取り出すと、野田総理大臣からの電話です。高速道路なので止めることもできず、ましてや日本で一番偉い人からの電話ですから切ることも出来ず運転しながら会話しました。会話の中身はTTP交渉についてでした。電話で私の意見を話し終わると、パトカーが追いかけてきました。停止を命じられ路側帯に車を止めると、パトカーの中から警察官の息子が出てきました。警察官の息子は私に『あれほどいつも注意をしているのに、事故でもあったらどうするのか』と私をきつく叱るのです。そして交通違反切符を切られてしまいました。野田総理からの電話だったことを言い訳に言おうとしました」が、結局汗びっしょりで夢から覚めました。

 夢でよかったと思いましたが、野田総理から電話がかかるなどありもしない、他愛ないものと片付けられないものもあるようです。昨日警察官の息子から電話があって、人事異動の折わが家に置いたままになっている、剣道防具を取りに帰るとの連絡でした。二人で親類の葬儀に出かけていて遅くなるので、置き場所を電話で知らせてやりました。
 何年か前、まだ携帯電話を運転しながら使っては駄目という法律ができたばかりのころでした。国道を走っていて友人から携帯電話が入り、運転しながら通話していると後ろを走っていたパトカーが目敏く見つけ、路側帯に停止させられ罰金を払う羽目になったのです。お陰でこのキップ一枚で免許更新の折5年間のゴールド切符をもらえず、妻からも随分咎められたことを思い出しました。

 運転中は電話を使ってはならないことは法律で決められています。そのことは100も承知なのに、相変わらず運転中に私の元へはどんどん電話が入ってきます。ポケットに入れておくと気になるので、マナモードにして助手席に置いて運転するよう心がけているのですが、先日は携帯電話を車の助手席に置いたまま忘れて飛行機に乗って、県外出張する羽目になってしまいました。
 夢には思い出したくない過去の忌まわしい事実が頭や心の中にどこかこびりついているものが、突然剥がれ落ちて夢の原因になったりするものだとしみじみ思いました。今朝の夢が正夢にならぬようせいぜい注意をして運転したいと思います。

  「総理から 何で電話が かかるのか? TTPなど 知らぬ存ぜぬ」

  「携帯を 使い警察 つかまった 忌まわしい過去 夢に出てくる」

  「つかまった 相手が息子 飛び起きた 冷や汗かいて 夢でよかった」

  「これからは ならないことは なりませぬ 今日も車で 着信ソッポ」 

 

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〇タマネギの植え付け

 昨日は歯の具合が悪いので病院へ連れて行って欲しいという親父を、県立中央病院へ連れて行った帰り、松前町の苗物屋さんに立ち寄り、タマネギの苗を買い求めました。国道から一歩入って松前小学校までの沿道には、松前町長選挙の告示日らしく、沢山の人が出歩いていました。馴染みの苗物屋に立ち寄ると、秋植えの苗物を求めるお客さんで多少レジ辺りが混雑していましたが、お店の方に晩生のタマネギの苗が欲しいとお願いし、100本1束を5束500本買い求めました。値段は1束380円なので1900円を支払いました。
 帰宅後妻と二人で昼食を済ませ畑に出ると、私が一昨日耕運機を掛けて中耕地ならしをしていた畑に既に親父は出て、せっせと畝立てをしてくれていました。私も鍬を持って定規棒縄に沿って畝を立てるのを手伝いました。

綺麗に植えた今年のタマネギ畑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 畝が立ったところでいよいよ植え付けです。苗物屋さんから聞いたとおり、また例年通り苗の葉っぱを包丁で真ん中から切り落とし、親父がなぞるように鍬の先で掘った一本の線上溝に苗を植えて行くのです。腰をかがめてやる作業なので多少腰に負担がかかりますが、一畝植える度に背筋と腰を伸ばし、無理の行かない姿勢で植え続けました。用意予定した畑が余りにも広いため、畝が一つ不要になったため、私は単車に乗って近所の苗物屋さんへ追加の苗を買いに行きました。2束買いましたが1束450円でした。松前町の苗物屋さんとは1束に80円もの差がありましたが、必要の論理なので仕方がないと諦めて買って帰りました。残りの200本を約一時間ほどで植え終わりほっと一息つきました。

 ジャガイモのようにひとつの種芋に幾つもの小芋がつく訳ではなく、タマネギは一本の苗に一個のタマネギしかできないため、多少今年も多いかなあと思いつつ、700本もの苗を植えました。兄弟や子どもたちにお裾分けする分も充分確保できたようなので、後は親父の草引きや施肥等の手作業に委ね、来年の収穫を待ちたいと思います。いつも思うことですが、タマネギは11月中旬に植えて5月の下旬に収穫です。約半年も畑で養生する作物はそんなにありません。ゆえにタマネギは煮てよし炒めてよし、焼いてよし、刻んで生でよしと、まるで料理の万能選手のような働きをして、私たち家族の胃袋を満たしてくれるのです。間もなく寒い冬がやって来ます。タマネギの小さい苗は寒さに震えながら春を待つことでしょう。
 今年も何とか元気に親父もタマネギ植えを手伝ってくれました。タマネギと一緒に元気に春を迎えて欲しいと願っています。

  「タマネギは 半年間も 畑にて 忍耐強く 玉を太らせ」

  「畝立てる 親父の背中 丸くなる 秋の日差しが 優しく包む」

  「七百も 植えてどうする 思うけど 兄弟子らに お裾分けすりゃ」

  「今年また 親父と息子 タマネギを 植えて年越す 春が待たれる」 

 

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〇親父を病院へ連れて行く

 数日前から親父が歯の不調を訴えていて、「暇になったら病院へ連れて行って欲しい」と頼まれていましたが、先週一週間は暇になるどころか、猫の手も借りたいほどの忙しさで、親父の体調のことを気にしながら、早く暇を見つけてと思っていました。今日は人に会う約束が午後からある程度なので、昨日の夜親父の隠居に出かけ、「明日の朝7時30分に家を出るから準備をしておくように」と伝えておきました。
 今朝5時に親父は私の書斎の窓を叩き、「今日の午前7時30分出発」の確認にやって来ました。歳をとって隠居で1人暮らしていると、月日や曜日も関係ないサンデー毎日なので、時々こうして「今日は何日か?」「今日は何曜日か?」と尋ねにやって来るのです。93歳になった最近は日課にしていた散歩もやらなくなって、少し足腰が弱ったような気配を見せています。それでも息子たちの手助けをしたいと、昼間は畑に出て草削りをしたり、庭の草を引いたりして世話をしてくれているのです。

 予定通り午前7時30分に家を出て、車で45分ほどで県立中央病院へ到着しました。駐車場の係りの人に親父が高齢で歩くのがおぼつかないと訳を話すと、玄関先にコーンの立っている身体障害者用の駐車場へ案内してくれました。初診なので受付で診察手続きを行い、歯科診療の窓口へ回されました。診療は予約制なので予約の人が次々に訪れ診察をするのですが、こちらは初診なので待合所の長椅子に親子で座って順番を待ちました。1時間余り不安な気持ちで待っていると、受付から中に入るように誘われました。これまで親父の歯を担当していた先生は辞めたらしく、別の若い先生でもいいかと事前に相談がありました。
 中に入ると私介添えの私のために、診察台の前に小さな椅子が用意され、そこで診察や治療の様子を眺めながら親父の様子を横目、節目がちに眺めていました。歯の治療は時間がかかるので、治療は30分ばかりかかりました。先生の説明を受け「今日は仮治療なので来週月曜日の午後2時30分に来るよう」指示を受け、一通りの治療を終えたのです。

 病院の待合席に座って行き来する人をぼんやり眺めていると、行く人来る人の大半が高齢者で、杖を突いたり手すりにつかまったりしながら体を支えていました。若いころ見たスウェーデンの高齢化社会の映画が思い出され、日本も高齢化社会になったことを実感しました。かくいう私も昨年から六十五歳以上の高齢者に仲間入りをしているのです。「老い」や「死」という嫌がうえにもやって来る出来事を、まだ他人事のように思っていますが、そろそろ覚悟を決めてかからなければなるまいと、思いを新たにしました。
 親父は病院へ息子に連れて行ってもらったことが嬉しかったのか、安心したのか、車から降りる時「今日はありがとう」と水臭い言葉をかけてくれました。そして「車の油代はなんぼか?」と聞きました。「そんなの要らん」というのに、帰りに園芸店に立ち寄って買い求めたタマネギの苗物代といって、3千円をくれました。昔気質の人間のやることなので、あり難く受け取り私の財布毎妻に渡しました。
 親孝行等出来ぬ不義理な息子ですが、これから先も親父の面倒を見るのは息子・長男の務めだと思い、しっかりと支えてやりたいと思っています。

  「歯の調子 悪い親父を 病院へ 孝行息子 ような顔して」

  「待合所 行き交う人の 殆んどが 杖を突いたり ロボット歩き」

  「油代 幾ら要ったか 親父聞く 車に乗せて もらった恩を」

  「これからも 孝行息子 なりきって 親父人生 しっかりみとる」

 

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〇孫の七・五・三

 「お父さん、希心と奏心、それにお姉さん方の尚樹君の七・五・三をするので、大洲から何時に帰る?」と、息子嫁から数日前に相談がありました。「大洲の交流集会は昼間でなので片付けて終って帰ると午後2時くらいになるかもしれない」と返事をしておきました。「じゃあ3時に伊佐璽神社で拝んでもらうように、お姉さんと相談して予約を入れます」と言われていた言葉を思い出すように、午後2時過ぎに同行していた松本さんの車で自宅へ送ってもらいました。妻は外出が出来るような服装に着替えて待っていたので、私は主役でもないのでカジュアルな服装のまま、私が運転する自家用車で出かけました。

 車の中で妻は、「私たちに七・五・三の声を掛けたということは神社宮司のお払い料も、お祝いの小宴も私たちに期待しているようよ」と小声でいいました。伊佐璽神社へ車で到着すると、息子嫁のお父さんとお母さんも駆けつけてくれていました。やがて宮司のお払いを孫3人は神妙な面持ちで受け、千歳飴や絵馬をいただき、七・五・三の神事は無事終りました。
 私たちの時代にも七・五・三という行事はあったのでしょうが、田舎が故、貧乏が故そんなスポットを当てられることもなく育ちました。きちんと散髪をしてきちんとした服装を着せられ清掃した凛々しい孫の姿に目を細めながら神事は無事終了することが出来ました。
 宮司さんから、「ひょっとしてあなたは若松さんでは?」と尋ねられました。私も「神社の宮司さんで野口さんという愛媛新聞社の局長さんがいらっしゃいましたよねえ」と聞けば、「それは私の父です。お払いをしているのは父の孫です」と、話が繋がり束の間の会話を立ち話でしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊佐璽神社を出て、3人の孫たちのために小宴を催すことになりました。砥部の真砂家に予約を取っていたようで、一部屋を借りて娘婿、孫朋樹、次男一生を交えた総勢9人の賑やかな夕食となりました。孫たちは特別なお子様ランチ、私たちも日本料理を食べました。何年か前孫朋気の時もお祝いをしましたが、その孫朋樹も早小学校3年生で、私たち大人に混じって、大人と同じようなメニューを注文して食べるのですから、時の流れの早さにはただただ驚きます。
 妻が感じたとおり神社のお払い料も小宴費用も妻の財布から出たようですが、小宴が終わって自宅に帰り、久しぶりに孫と一緒に風呂に入りました。寝る前に孫たちが「おじいちゃん、おばあちゃん今日はありがとう」、息子嫁も「お父さん、お母さん今日はすみません」とお礼を言ってくれました。嬉しい一言で心が和みました。孫たちの健やかな成長を願っています。

左が尚樹、真ん中が奏心、右が希心

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「七・五・三 みんなで祝う 目出度さよ 妻の財布は 減ったけれども」

  「孫たちの 晴れの姿は 凛々しくて 幸せ極み これを言うのか」

  「ありがとう 一つの言葉 それだけで 家庭明るく 心をつなぐ」

  「絆とは 糸が半分 それぞれを つなぎ合わせて 深くなりぬる」

 

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〇ギノー味噌からの贈り物

 私の名刺の裏に広告を載せるアイディアを思いついたのは3年前だったと記憶しています。県内あちらこちらの会社の社長さんに「私の名刺の裏を使って、あなたの会社の宣伝をしませんか!」と、言葉巧みに誘いましたが、当時色よい返事は返ってきませんでした。ところが松前町に本社と工場を持つギノー味噌の田中社長さんが、「そのアイディア買った」とばかりに手を挙げていただき、年輪塾塾頭である清水さんの手助けなどを得て、世にも不思議な「裏が味噌」という、人を喰ったような名刺が出来上がりました。自社の宣伝で名刺の裏側を使っている会社はよく見かけますが、私のように広告料をいただいて名刺を製作して宣伝しているのは、多分全国でも余りないのではないかと思うのです。

 名刺の印刷にはカラーで表、裏は黒文字印刷をすると百枚一箱×10箱、合計千枚の名刺の印刷代はおおよそ3万5千円かかるのです。何のご縁もない私に3万5千円も出してくれる社長さんに、何とかご恩に報いたいと、私はこの名刺を持って日本全国へ講演に出かけているのです。そして行く先々でこの名刺を使って、ギノー味噌の会社や商品の売り込みを懸命にやっているところです。
 私は元役場職員ですが、その職を6年前に辞しているため、誰にも文句を言われることもなく自由に動けるので、大いに議の味噌の宣伝をしまくっているのですが、お陰様でギノー味噌の知名度を上げることへの貢献だけは、出来たのではないかと思っているのです。

 昨日と今日、大洲青少年交流の家で地域教育実践交流集会がもたれるにあたり、私は田中社長さんに電話を入れ、味噌(300g)とゴマダレドレッシングを、昨年に引き続き200人分いただくよう頼みました。田中社長さんも快く応じていただき、何と国立大洲青少年交流の家気付「若松進一」で梱包した荷物として送り届けてくれたのです。
 参加した人たちに裏が味噌の名刺を見せながら、無償で配らせてもらいました。みんな大喜びで、中には昨年いただいて以来ギノー味噌を買って料理に使っていますなどと、社長が聞けば大喜びするような話がいっぱい聞こえてきたのです。
 これは商売の鉄則である「損をして得をとる」という言葉に通じることだと、手前味噌ながら喜んでいるのです。

 

 

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〇2011・11・11・11・11・11

 最初の20は別として、この数字の羅列は一体何を意味するのでしょう。酒を飲んでいた何年か前、酒によってパソコンを打ち、ついウトウトとしながらキーボードを押さえたまま居眠りをしてしまった時に、こんな現象をPC画面に見た時以来の意味不明な数字の配列です。実ははこれ昨日11月11日の11時11分11秒の略数字配列なのです。今までにも幾つかの数字の配列が珍しいと、民営化してから商魂逞しくなった郵便局では、記念の日付印を押した切手を販売したりしていますが、何げなく過ぎて行くこれらの日を記念日と定めている人は少なくないようで、昨日生まれた子どもは大きくなった時親からこのことを告げられるでしょうし、昨日はこの記念日に婚姻届を出した人が普通の日の数倍になったことをカーラジオから流れるニュースが伝えていました。

 さて私は2011・11・11・11・11・11という時に一体何をしていたのでしょう。昨日だというのに残念ながら正確なことは覚えていませんが、出張先の三重県多気町で開かれていた日本交通公社主催の観光講座に参加していました。そしてこの時間にはわたしのはなしが一段落し、せいわの里まめやという昼食場所へ万協製薬株式会社の社長さんの車で移動中でした。薄れ行く記憶を辿ってみると、どうもその時間には松浦社長のフィギア倉庫にいたようなのです。これは凄い記念日記念時間になると、前日夜遅く帰宅してから松浦社長のことを眠気眼で記事に書いたことを思い出したのです。

 ふと帰り際、松浦社長手渡された封筒の中身が気になりバッグから中身を取り出して見ました。万協製薬という会社の案内や経営品質報告書とともに3枚のCDが出てきました。社長の作詞作曲による「君の涙がかわいたらCO2」と、「いきいきとした職場づくりのすすめ」、それにテレビ東京が製作放映したであろうカンブリア宮殿「松浦信男社長」という2011年5月26日放送のDVDのようでした。
 今日と明日国立大洲青少年交流の家での研修会があり、まもなく出かけるため詳細視聴は明日以降になりますが、楽しみが出来たと喜んでいいる所です。私の人生にとって2011・11・11・11・11・11は忘れられない思い出の一瞬となったようです。

 

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〇松浦信男という人は一体何者なのか?

 昨日今日の二日間、三重県多気町で開かれた財団法人日本交通公社主催の観光実践講座に講師として招かれました。二日間といっても昨日は私の出番はまったくなく、今日の朝9時からの講義に間に合わないので、前泊した程度でした。ゆえに昨晩の交流会も出番のあった人たちに名刺交換が集中し、私などは蚊帳の外のような感じがしたのです。今日は久しぶりに昨晩ゆっくりと休んだたため、今日こそはそれ相応な働きをしなければ私を呼んでくれた日本交通公社の小林さんや久保田さん、平澤さんに申し訳と思い、少し馬力をかけて話をさせてもらいました。私に与えられた時間は僅か90分なので、ムダ口を叩く暇もなく、あっという間に終ってしまいました。

 さあ講義が終れば大変で、私を見る目が今までの冷ややかさから温かさに変わり、名刺交換に訪れる人も沢山いました。その中に多気町に会社を有している万協製薬株式会社の代表取締役社長である松浦信男さんがいました。前日のセッションで松浦さんの話を聞いて、この人は只者ではないと直感していました。そんな私の上目遣いが松浦社長に通じたのか、私の話が終ると直ぐに意気投合して、昼食会場となった田舎料理バイキングの店「まめや」に行く途中、社長の車に奥さんと私二人を乗せて、会社の横にある立派な自宅に立ち寄りました。そして自宅横の大きな倉庫に収集保管している2万点にも及ぶフィギアを見せてもらいました。これにはさすがの私も度肝を抜かれ、「この男は一体何者なのか?」と失礼ながら思ってしまいました。

松浦社長のフィギアコレクション

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 四国高知県四万十に最近オープンして話題を集めている、フィギアのことも風の噂で知っていますが、まあそれに匹敵する規模なのです。今日はあいにく雨が降って、これらのフィギアを見学することはプログラムに組み込まれていませんでしたので、小林さんと久保田さんに私からお願いして、少しの時間でいいからこれらの収蔵品を全国から、参加している皆さんに見せて欲しいと懇願し、実現したのです。観光といえば古い町並みや古い文化財といったイメージがありますが、これぞ素晴らしい観光資源だと直感しました。慌しく見学した人たちは、どんな気持ちでこれを見たかは定かでありませんが、もし私の町が多気町に近ければ松浦社長にお願いして、フィギアの記念館でも造りたいものだと、身の震えを覚えました。

私の右が松浦社長、左は岸川多気町特命監

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 松浦社長の経歴が今回のパンフレットに載っていましたが、万協製薬の社長でありながら国立三重大学医学部大学院に入学して博士課程で学んでいる、向学心だけでも並の人間のすることではないと脱帽しました。
 心揺さぶられ、深掘りさせられた松浦社長には何としても、再会をしたいと肝に銘じました。

 

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