shin-1さんの日記

〇はがき通信192号

 私にはがきを書くことを教えてくれたのは広島に住む平井悦夫さんです。彼と出会ったのはもう20年も前のことなので何処で何の目的で出会ったのかは忘れましたが、当時彼は広島県新市町という町の役場に勤めていました。字こそ違え「しんいち」という私の名前と同じ町の名前にどこか共感を覚え、いつしか彼と深い関係になっていました。深い関係といっても別に詮索されるような関係ではありませんが、私と同じように怪しげに動き回るばかりか、筆まめに私の元へ達筆ながきを届けてくれたのです。

 その後新市町は隣の福山市と合併し、役場職員から市役所職員になりましたが、先日福山市へ特産品ブランド化推進のための講演会に招かれた折、彼はわざわざを足しの公演を聴きに来てくれ、久しぶりの再開を果たしました。昔と変わらず元気そうで、訪ねてきた控え室で昔の話に花を咲かせました。

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 私の記録による記憶によると、平井さんは私が主宰していたフロンティア塾の講師として、双海町東越の廃屋を利用して1年に4回、10年で40回開催したフロンティア塾・玄冬塾に平成6年2月12日~13日来ています。あいまいな記憶なので深い内容までは忘れましたが、顔と語り口は今も私の脳裏に焼きついているのです。

 彼が私の記憶から離れないのはもう一つの理由があるのです。それは公園に来て以来ずっと自分の作ったはがき通信を私に送り続けているのです。多分別の友人知人にも送っているでしょうから、気の遠くなるような努力を彼はしているのです。

 私も彼に触発されてはがき通信を一年間毎日作った記憶があります。習いたてのワープロで作りましたが、その後ワープロは使わなくなり、どのソフトフロッピーに収めているのかさえ忘れましたが、いずれ日の目を見て一冊の本にしたいと思っているのです。

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 私の周りにはこのようにオンリーワンな生き方をしている人が沢山いるのです。そしてその影響を受けながら自らも少しずつ成長してきたのです。もし平井さんに出会わなかったら、私の毎日はがき3枚もなかっただろうと、恩人に感謝せずにはおれないのです。それにしても彼は達人です。私などまだまだ足元にも及びません。

 さて私は一体どんなオンリーワンを持って他の人に影響を与えているのでしょうか。お粗末ながら心もとない話です。これから修行してと思いますが、もう後がない崖っぷちの私には望むべきもない話です。仕方がないので自分の潜在能力を目いっぱい生かして、いい人生を歩みたいと思っている今日この頃です。


  「百を越え 二百二近い 文届く 書いた人あり 頭が下がる」

  「俺にでも 出来ると信じ はがき書く 一日三枚 今では日課」

  「いい人に 出会って人は 人となる これから先も いい日と見つけ」

  「字が下手と 言い訳言って 書かぬ人 書かぬはがきは 届く訳無し」

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shin-1さんの日記

〇日課ならぬ月課

 私にはこの4年間、毎月決まったようにやらなければならない仕事があります。リタイアしてサンデー毎日となった私に大川理事長さんからお声がかかり、生活協同組合コープえひめの学識経験理事に就任したからです。それは仕事といえるかどうか分かりませんが、とにかく毎月最終木曜日はその会合に出席しなければならないのです。松山市の本部で開かれる理事会は毎月決まって午前10時30分から始まります。

 理事会の一週間前には本部から理事会の資料が送られてきます。事前に銘を通して出席するのですが、常勤理事と学識理事を除けば全て女性の地域理事の皆さんはとても研究熱心で、この資料を元に様々な意見を述べてくれるのです。素人の私は感心しながら毎回その意見に耳を傾けるばかりで、たまに理事長さんから意見を求められますが、頓珍漢な話に終始して赤面を隠せないのです。

 事前に送られてくる資料の表紙には全理事、監事、顧問の名前が印刷され、出席状況が一目でわかるようにくふううされています。当日の議題も議決事項、協議事項、報告事項、文書報告の順に印刷されていますが、資料が届くとその議題に軽く目を通すと直ぐに、毎回裏表紙を開けて理事長が書いているカルフールという文章を興味深く読むのです。そこには理事長の目から見た最近の出来事や理事さんたちへのメッセージが要約して載っているのです。

 今月の資料には冒頭に「恋人岬」という見出しがつけられ、恥ずかしながら私のことが次のように書かれていましたのでその一部を紹介します。

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 桜が開花し始め、双海町の菜の花が満開とのニュースが届いてきました。もう~春ですね~。双海町といえば、ふたみシーサイド公園の中央部に”恋人岬”と呼ばれる突堤があるのは、若松さんのお話でご存知の人も多いと思います。このふたみシーサイド公園には若い人たちを中心に、年間50万人が訪れるというから驚きです。(ちなみに道後温泉の入浴客は年間80万人)、この恋人岬に二つの石でできている”夕日のモニュメント”があり、1年にたった2日だけ春分の日と秋分の日の夕日がこのモニュメントの二つの穴を通して見え、その夕日を見ると幸福になると言われ、若い人たちの絶好のデートスポットとなっています。春分の日・秋分の日も曇ったり雨だったりする年もあり、しかも二つの穴を通して見える時間は短時間であることを考えると、その恩恵に与かることが出来る人はごくわずかであり、何か神秘的ににする感じるのは年のせいでしょうか。(後略)

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 実はここに書かれている恋人岬という名をつけたりこの岬やモニュメントを造った張本人は私なのです。北西の季節風が押し寄せる海岸に人口砂浜を造るという無謀な計画は、国や県を巻き込んで実行したものの、ものの見事に失敗し大量の砂が荒波で沖合いに散逸しました。それを止めるため3本の突堤を造ってもらうよう国や県に働きかけ、出来上がった真ん中の突堤に恋人岬と名前をつけたのです。そして3年間の定点観測を経て突堤にある方向を向いた高さ4メートルのモニュメントを設置したのです。モニュメントには直径60センチの穴が開いていて(夕焼けこやけの赤とんぼ)、約100メートル先の対岸に置いた座石(背負われて見たのはいつの日か)から見ると、綺麗な夕日がスッポリこの穴に入って見えるのです。

 この面白い仕掛けを知っている人は毎年この様子を写真に収めにやってくるのです。「幸せになりたい」あなたも是非この旬の夕日を実に来てください。今なら間に合うようです。


  「えっ本当 ?か誠か この話 十年経てば 本当になって」

  「本当に この夕日観て 幸せなった 人がいるから 本当の話」

  「このところ 夕日も雨で 曇りがち 黄砂に煙る 夕日一趣」

  「今日あたり 自慢の夕日 観に行こか カメラ抱えて 見知らぬ人と」

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shin-1さんの日記

〇双海町子ども教室ふるさと体験塾閉講式

 第1回 青島漁船クルーズ~底引き網体験

 第2回 ふたみ学校探検

 第3回 みんなでキャンプ

 第4回 グリーンツーリズムを学ぼう

 第5回 いちごスイーツに挑戦

 第6回 ふたみ名物体験

 第7回 ふたみの歴史を学ぼう

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(閉講式の模様)

 仕事の都合で全てに参加することは出来ませんでしたが、今年もこの一年間、双海町の子どもたちと上記のような体験活動を行いました。その閉講式が昨晩基幹集落センター大ホールであり、実行委員長をしていたこともあって出席しました。

 私の開会の挨拶の後この一年間の活動の様子がスライドショーで流されましたが、子どものイキイキと笑顔で活動する姿がとても印象深く写っていました。驚いたことに7回のプログラム全てに参加した皆勤賞の子どもが沢山いて、嬉しそうに賞状や記念品を受け取ってくれました。

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(今年の活動記録は2枚のCDに録画され記念品となりました)

 もう二つ嬉しいことがありました。今年小学校6年生を終えて中学校に進学する子どもたちが大きな声で今年の感想を述べてくれたことです。すっかり逞しくなって、その言葉は堂々としていました。この分だと中学校になっても一生懸命頑場ってくれるだろうと予感させました。

 もう一つは中学3年生でありながら子ども教室の卒業生である宇津さんが、ボランティアリーダーとして活躍してくれたこと、また愛大生の宮崎さんもボランティアリーダーとして参加してくれたのです。実行委員会では二人に感謝状を送りその功績を讃えました。この二つは何よりも嬉しいことでした。

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(中学校に進級する子どもたちのレクチャーは堂々としていました)

 自分の子どもが子ども時代には、仕事やまちづくり活動が忙しく、殆どかまってやれなかった罪滅ぼしのつもりもあって、退職後もこの5年間、請われるままに実行委員長を引き受けて参加させてもらっていますが、子ども教室は大学の非常勤講師とともに私の若さの活力源になっていることは確かです。もう少し関わりながらしっかりとふるさとの子どもたちを育ててやりたいと思っています。昨日は保護者もたくさん来ていただきいい閉講式となりました。


  「終了証 受け取る子ども ありがとう 大きな声で 感謝忘れず」

  「筍の 太きも塾の 恵みかな 知らぬ間に 雨後の筍」

  「ボランティア リーダー二人 表彰す 二人を目指し 育って欲しい」

  「わが子など ほったらかして 人の子へ 愛情注ぐ 少し変だな」

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shin-1さんの日記

〇三年間の空白

 「若松さん帰ってきました」と笑顔で面談したのは、双海町高野川出身の中尾治司さんです。中尾さんは小学校の先生ですがこの3年間オーストリアウィーンの日本人学校の先生として家族とともに赴任し、その役目を終えて無事帰国したのです。昨日帰ったばかりで時差ぼけもあるだと思うのに、律儀にも昨日の夜行われた双海史談会の総会に元気な顔を見せてくれました。

 積もる話もあるのですが総会なので先生を独り占めすることが出来ず、またわが家へはお客さんが来ていて懇親会が始まると早々に引き上げたため、次の機会にとすることにしましたが、その穏やかにして精悍な顔つきは3年前と少しも変わらず、少し頭に白髪が目立つ程度の変化でした。

 中尾さんと同じ年齢で同じ期間の3年間、えひめ地域政策研究センターに出向していた松本宏さんがいます。彼も海外と国内の差こそあれ、八面六臂の活躍で、特にこの一年間は人材育成のため東京で開かれた地域活性化塾に塾生として参加し、様々な経験を積んでこの度出向が解かれ帰って来るのです。彼の書いたレポートには成長の足跡が随所に見え、すっかり逞しくなっています。

 中尾さんが一緒に連れて行った息子さんはまだ会っていませんが、この4月には中学校に入学するようで、時の流れの早さを感じるのです。また中尾さんがオーストリアに行く前教頭だった先生が昇任校長として中尾先生が復帰する学校に帰って来るのも因縁めいているのです。

 中尾さんの実家は魚屋ですが元漁師です。松本さんの実家も元漁師、わが家も元漁師です。中尾さんも松本さんも、私も運命的には漁師になっても可笑しくない家計なのに何故か今の道を選んでいます。宿命は変わりませんが運命に変わることを物語るエピソードのような気がするのです。

 私が教育長をしていた2年間、中尾さんは派遣社会教育主事、松本さんは社会教育主事として教育委員会で一緒に仕事をしました。若さみなぎる彼ら二人に加えた米湊さんから多くのことを学びました。特にパソコンなどは右も左も分からないのに、随分手助けをしてもらった記憶が蘇ってくるのです。その恩恵で下手糞ながら今でもこうしてパソコンを使うことが出来るようになったのです。


 さてこの3年間の空白は私にとってどういう意味があったのでしょう。実は中尾さんと松本さんとはレベルの差こそ大きいものの、密かにこの二人に負けまいと3つの目標を立ててそれなりに努力し、それなりに進化をしてきました。一つは漠然としていますが健康と若さを保つことです。教育長を退職し自由人になって2年が過ぎていました。3年後に会うときには健康と若さを保ち活動せねばと、運動や食事に気を配り、地域づくりの全国大会の実行委員長として何とか成功に導きました。お陰さまですこぶる元気です。二つ目はブログを毎日欠かさず書くことを習慣化することでした。お陰さまでこれもどうにかクリアーすることが出来ました。彼らが別の道で精進している間に36冊のブログ綴りが完成し、人間牧場の書棚にしっかりと並べられているのです。

 三つ目は人間牧場の進化です。緒に就いたばかりだった人間牧場もあれからロケ風呂やツリーハウス、それにかまど小屋も出来、落伍のネタ本も地の書、水の書まで発刊し、3冊目の火の書も今年中には発刊の運びとなる予定です。若松進一というもう一人の自分に、二人の幻影をプレッシャーしながらそれなりに頑張った結果は、二人に対しても胸を張れる成果なのです。

 目標を手に入れるためのプロセスは生きがいです。多分これら三つの目標はこれからも私の生きがいになるものと思われます。とりあえず3年間の空白を総括し、自分で自分を褒めてやろうと思いました。

  「三年は あっという間に 通り過ぎ されど三年 私も進化」

  「少しだけ 気張って生きた 甲斐があり 成果手に入れ これから先も」

  「世の中が 変わるのだから 俺たちも 変わってないと 生きる意味なし」

  「逞しく なった二人に 刺激され これから先も 楽しく生きる」

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shin-1さんの日記

〇これからもリアル人間でありたい

 65歳の高齢者になった自覚からか最近は、健康のことが妙に気になり始めています。睡眠のこと、食事のこと、体力のこと、時には体重のことなどなど、これまで殆ど気にせず日々暮らしてきたことがいちいち気になるのです。私の生活基本は「体にいいことはする。体に悪いことは止める」なので、お酒も胆のうを手術したその日からきっぱり止めました。もともとお酒は飲まないし、甘いものも肉類も殆ど食べず、ベジタリアンではないにしても、もっぱら野菜中心の食事を心がけています。つい最近流行のサプリメントも利用していませんが、食事に気をつけるだけで随分健康が保たれていると自負しているのです。これは妻の協力があってこそなしえることなので、ここだけの話ですが大いに感謝しているのです。

 「お父さんそんな短い時間の睡眠でよく眠くならないねえ」と妻が感心するほど、睡眠は短めで、一日4時間程度です。「そんなに寝なかったら、いまに寝たきりになる」とまるで笑い話のように妻から注意をされていますが、これが私のバイオリズムなのです。

 さて、体重がつい最近気になり始めました。胆のう摘出手術をしてから13キロ痩せた体重は今もそんなに変わりはありませんが、妻の体重が少し気になるのです。それでも妻は勤めている歯科医院へ毎日歩いて通勤するなど涙ぐましい努力をして、以前よりは随分減量しましたが、目標までのあと2キロが中々減らないのです。そんなこともあって、たまの休みには二人そろって温浴施設に出かけ汗をかくのですが、これも中々効果が出ないようです。

 最近の温浴施設にはサウナがあって私はよく利用します。汗を出す方法には運動をして体内から自然発生的に汗を出す方法と、サウナなどに入って外的な温度で汗を出す方法がありますが、やはり運動をして汗を出す方法が一番のようなのです。サウナで出した汗はかえって筋力を低下させるようです。

 これは何にでも当てはまることですが、最近は汗をかかずに汗をかくことを論じる人が余りにも多いような気がしてなりません。自分のやったことを論じる以外脳のない私は、リアルを話します。ところが自分でやってもいないのに、さも自分がやったような顔をして全国の先進事例を並べ立てて話すのです。まさに実体を伴わないバーチャルの世界なのです。

 評論家やコンサルタントがどんどん増えて、それで飯を食っている人の方がはるかに多いのです。行政などはその典型で、高い金を出して自分の仕事を丸投げして取り繕うのです。困るのは地域住民で、行政の言うがまま、コンサルのなすがまま駆り出され、終わればそれで一件落着、まちづくりがうまく行ったような錯覚になるのです。

 人も町も汗をかかないと元気にならない。つまり汗をかけば人や町は必ず元気になるのです。そのことを肝に銘じてこれからもしっかりと汗をかきたいと思っています。

 さあ今日はどんな汗をかこうか。冷や汗ではない熱気溢れるリアルな汗を・・・。


  「汗かかず こうあるべきと 諭す人 どういう訳か 心動かず」

  「汗かいた 人が最後は 成功す いつの時代も そうでありたい」

  「俺リアル? いやバーチャルか? 危ないぞ 自戒を込めて しっかり生きろ」

  「後二キロ 峠が越せぬ 妻を見て 越せぬはずだわ 超える元喰う」

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shin-1さんの日記

〇3月は異動の季節

 このところ毎日のように、知人友人から「異動の内示があった」と近況や心境を知らせるメールが届くようになりました。異動は一応希望を出すものの、希望通りに動く可能性や保障は殆どなく、毎年この頃になるとビクビクしながら日々を過ごす人の姿を良く見かけるのです。

 私も役場35年の生活で教育委員会から産業課、企画調整室、地域振興課、教育長と4回の異動を経験しました。私の場合教育委員会13年、産業課4年、企画調整室9年、地域振興課9年、一旦退職して就任した教育長という特別職を除けば3回しか異動辞令をいただいていないのです。私の若い頃は人事評価などなかった時代ですから、異動希望などまったく皆無だったし、その後異動希望調査が取り入れられたものの一度も異動希望を書いたことがなく、「「現在のまま」と書いていました。

 私の異動で思い出されるのは教育委員会から産業課へ異動した時でした。教育委員会では社会教育とりわけ公民館活動に情熱を燃やし、日本一の公民館主事を目指していました。しかし教育委員会に出向していながら企画調整室係長、総務課係長という兼務辞令をもらって町名変更の担当をしました。町名変更は町長リコール問題にまで発展して町長が辞職して信を問う選挙となり、町長が当選したものの騒動は治まらず、次の選挙で新町長が誕生、私もその責任を取らされて産業課へ異動したのです。心に左遷意識や焦燥感のようなものがあったことは事実ですが、その時恩師である静岡県の朝比奈博さんから、「ぼうふらも 人を刺すよな蚊になるまでは 泥水すすり浮き沈み」という言葉を送ってもらいました。その言葉に励まされて再びチャレンジし、その後の夕日をテーマにしたまちづくりへと発展して行ったのです。

 昨日の夜、えひめ地域政策研究センターへ伊予市から3年間出向している松本研究員と、JAから一年間出向している武田研究員の送別会が、年輪塾のメンバーが集まって、ふじという居酒屋でありました。奇しくも昨日伊予市では異動内示があったようで、松本さんは地域事務所へ、武田さんは退職して別の会社へ再就職するそうでした。お二人ともかつて私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議の事務局を務めてくれた人なので、今後の発展と活躍を心より祈っています。

 松本さんは身近な場所への異動なので私にとっては大歓迎の部署なのですが、最近の異動を見ると、何やら1年異動が目に付き気がかりです。市町村の場合行政サービスの相手たる住民のことを思うと、せめて同じ職場に3年はいないといい仕事は出来ないのではないかと思うのです。1年の異動はやっと仕事になれた頃替わり、人の作った予算で仕事をしなければならず、自分の独自性が発揮できないのです。マニュアルどおりにすれば何ら問題はないようにも取れますが、やはり行政は人がするもの、人間関係が絡むものなので、もう少し地に着いた異動をして欲しいと思いました。


 追伸

 県境の向う高知県四万十市西土佐に住む和田修三さんから、教育委員会へ異動した旨の一報が届きました。西土佐も学校統廃合の難しい問題が控えているようです。教育委員会事務所長として活躍を期待しています。

 警察官の息子から、異動したと連絡がありました。月末には引越しの手伝いをしに行かなければならないようです。


  「今年又 異動の季節 迎えたり 来たり去ったり 一喜一憂」

  「この異動 誰が原案 作るのか 知る由もなく 人生決まる」

  「栄転や 左遷と人は 言うけれど 何のことない 給料一緒」

  「わが息子 新たな場所へ 異動する 何を夢見て 行くのだろうか」


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shin-1さんの日記

〇第2回四国青年教育系合宿APOLLEに参加して

 Approach On the Long Lifu Education ~教育を人の一生という 長くて広い視野から考える~という、第2回四国青年教育系合宿の分科会講師を頼まれ、香川県五色台にある研修施設へ行ってきました。主催する四国青年NGO HOPUは、主に学生を中心とした四国の青年が、個々で活動している青年団体及び個人の子行っている青年活動をつなぐためのネットワークを作る団体です。青年活動に関する情報発信や場作りのための今回のような合宿研修を行っていますが、講師を依頼されても正直いってまだその内容を詳しく理解している訳ではありません。でも私自身が若い頃に青年団活動を行い、愛媛県青年団連合会の会長として情熱を燃やした経緯もあって、「若い」と「金がない」という話を聞けば、それなりに血が騒ぎ、それなりに支援したい心境になるのですから不思議な話です。

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 この研修会に参加したのは昨年に引き続き2度目です。ゆえにリーダの人たちとはすっかり顔馴染みとなって、午後12時過ぎから午後4時までの短い時間ながら、折に触れ様々な話をさせてもらいました。今の青年たちは私が青年だった頃に比べてしっかりした考えを持っていて、逆にこちらが感心させられたり納得したりしてとても参考になることが多かったようです。

 さて私はこの日のレクチャーで①私が青年団時代に手に入れた4つの道具、②若い頃に立てた生活設計の意外な役割、③21世紀えひめニューフロンティアグループでのボランティア活動、④夕日に魅せられたまちづくり活動20年、⑤退職後の人間牧場での今やれる青春活動を主な内容として90分近くお話をしました。その後全体会では、意見百出の活発な討論が行われました。


 私の印象に残った話に、ある青年が「私は日本の年間自殺者をゼロにする活動を行いたいが、どうすればいいか妙案を」と質問されたことです。「日本の自殺者はもう13年間も連続して3万人を超えています。これは一人ひとりの死を選ばなければならない出来事の積み重ねであり、社会の責任でもあります。3万人をゼロにしたいという願望は結構なことだが、一人の人を救えないで3万には救えないと思います。どうしたら一人の人を救えるか考えましょう」と話をしました。

 ある青年は、「若松さんのように強く生きるにはどうしたらいいですか」と質問しました。私は「目標のない人生はクリープを入れないコーヒーと同じで味がない」などと、楽しいおしゃべりで青年たちの心を引き付けました。年齢さ40歳といういかんともし難い年齢の壁は余り感じることなく話をすることが出来ました。また話をしたいと思いましたが、5月に同じようなお誘いのラブコールがあったものの、残念ながら日程調整が出来ず、又次の機会にすることで決着しました。


  「年齢の 壁など気にも せず話す 若者たちは 傍耳立てて」

  「金がない 青年時代の 特権か ゆえに知恵出せ 汗なら出せる」

  「青年の 意見はかなり 風呂敷が 大きいけれど これもまた良し」

  「再開を 約束しつつ 別れたる 青年メール 嬉し返信」 

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shin-1さんの日記

〇「あっ、忘れていた監査会」

 昨日は久しぶりに仕事(会議や講演などを含めた私の日常)が片付き、珍しく午後6時30分から夕食を食べようと妻と二人で食卓に着きました。昨夜の食卓は春の香りが満載で、シイタケの付け焼きに箸を運んで一国地の中へ入れた瞬間、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴り出しまいた。誰だろうと電話に出ると、「若松さん皆さんが待っています」と出席の催促でした。「しまった、灘町区の監査が今日だった」と思い出し、ものの2分もかからない灘町集会所へ軽四を走らせました。

 部屋には区長さん副区長さん2名、会計さん、それに私が区長の時に副区長をやってくれたもう一人の監事三千院がお揃いで私を舞ってくれていました。もともとこの会は「23日か24日で如何でしょうか」と打診があったのに、私の都合で変更した経緯があるので、「すみません、遅れまして」と断りを入れ早速監査を始めました。

 私の住んでいる灘町自治会は双海町内で一番大きく300戸ほどで、町内至る所で言われている限界集落ではありません。私も2年前までの2年間は区長をやらせてもらいました。区長は副区長、会計、放送係とともに何がしかの役員報酬をいただきますが、殆どボランティアに等しい雑事に終われます。会計監事は役員といいながら年に1回年度末に会計監査を行い、総会で監査報告をするだけなのです。

 この日も会計簿、領収書、預金通帳などを出来上がった決算書を基にチェックしました。小さな灘町区といえど会計の項目はおびただしく、領収証と預金通帳を電卓を叩きながら照合して行きました。結果的には何の問題もなく承認し、最後は決算書と会計帳簿に署名押印し2時間足らずで監査会を終えました。私が区長をしていた頃区の財政はかなりの黒字に転じていたため、今もその余力で健全財政が維持できていて、嬉しい限りです。

 一年に一度の監査会は恒例で終われば6人だけの小宴がついています。区の心ばかりの弁当を広げて慎ましやかな酒盛りをしました。酒を飲まない私は話の中に加わりながら色々な話をむしろ聞き役に徹して花を咲かせました。町内の出来事が手に取るように分かりました。また他愛のない噂話や思い出話も飛び出して大いに盛り上がりました。皆さんは飲むほどに酔うほどに饒舌になるので、私は早々にお暇をして自宅へ帰りました。

 妻は食事をせずに待っていたので食事を再開しました。食事の門限を出来るだけ9時までと決めているため、滑り込みでセーフでした。ふと気がつくとわが家も私と妻の二人だけの食事です。テレビを見ながらの食事なので別に寂しくも感じませんが、妻は忙しくても食事の手を抜くことは決してなく、私の健康や嗜好を考えて毎日美味しい食事をしてくれているのです。肉は殆ど食べず魚中心の私のために、餃子みたいなひき肉を隠し味にして多少の肉料理もしてくれるのです。

 こんな穏やかな食事や暮らしをこれからもずっとしたいと願っています。


  「あっ忘れ あっ思い出したる 監査会 急ぎ駆けつけ 事なき得たり」

  「知らぬこと 知ったかぶりで 相槌を 打ちつ輪の中 巷の話題」

  「気がつけば たった二人で 食事する テレビ仲介 まるで三人」

  「穏やかな 二人の暮らし いつまでも 続いて欲しい 願いながらも」

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〇黄砂の降るあいにくの天気の中を

 昨日の朝起きて外を見ると、乳白色のもやのようなものがかかって、何やらいつもの様子と随分違っていました。外に出て見ると視界は完全に落ちて、いつもだと鉄橋の向うに見える上灘漁港の赤い灯台の明かりも目を凝らさないと見えないほどでした。

 この日は香川県で行われる四国の学生たちの集まりに講演を頼まれているのを利用して、妻と妻の友人たち3人も同乗するとあって、自家用車を綺麗に水洗いして車庫に入れて置いたのに、シャッターを下ろすのを忘れていたため、強い南風に乗った黄砂が車の至る所に降り注ぎ、わやになって私を落胆させました。急いで車を車庫から出して水をかけて洗いましたが、黄砂はその後も降り注いで返って見苦しくなってしまいました。

 やがて山の端から朝日が昇りましたが、下の写真のように太陽も乳白色の黄砂にさえぎられて、まるでおぼろ月夜のような感じに見えました。

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 私もこれまで65年間生きてきましたが、これほど酷い黄砂現象は始めてて、黄砂を伴った低気圧や前線の影響で北日本や東日本では飛行機の欠航、列車の運転見合わせが相次ぎ、せっかくの3連休に水を指す格好となったようです。

 しかし四国の天気は徐々に回復し、私たち一行は私の車に乗って香川県へ向けて出発しました。高速道路を順調に走り1時間30分ほどで善通寺インター下り、最初の目的地金比羅さんにお参りしました。ご存知金比羅さんは785段もの石段のある難所です。中年の女性たちにとっては少々難儀なお参りでしたが、何とか本田までたどり着き、お参りを済ませました。

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 ノロノロした階段登りで時間を食ってしまい、私の講演予定の時間が迫ったので、予定していた岸という名代うどん屋へ立ち寄って昼食をする暇がなく、結局は善通寺から再び坂出北まで再び高速に乗り、有料道路を経て五色台にある青少年研修センターまで一目散、やっとのことで間に合いましたが、残念ながら昼ご飯を食いっぱくれる羽目となりました。

 個々で妻たちと別れましたが、妻たち一行は妻の運転する車で天下の名勝屋島まで行き、観光を楽しんだようです。その間午後4時まで私は青年の分科会や全体会に出席し熱弁をふるいました。迷いながらも妻たちは楽しい思い出話を大笑いしながら青少年研修センターまで迎えに来てもらって合流し、一路岐路の途に付きました。私たちの反対車線上りは新居浜付近から長蛇の列が連なっていました。今朝の新聞では高速道路の高架橋から人が落ちて3時間にわたって通行止めがあったらしく、その列を尻目に伊予まで帰り、みんなで思い出話をしながらそば吉で夕食を食べ、戻ってきました。


  「一匹の 野獣と美女の? 珍道中 785段を フーフー言いつつ」

  「講演に 出かける機会 生かそうと 四人の美女が お供となりて」

  「年上の 私が一番 先歩く のろまメス豚 口だけ軽く」

  「はいチーズ 顔はまあまあ 尻と腹 写真は?を つかずに写す」

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〇隣の叔父さん叔母さんがもぎたてテレビに登場

 久しく新聞やテレビなどのマスコミから遠ざかっていましたが、昨日の「もぎたてテレビ」に双海町翠地区のピザ釜の話題が登場していました。有志がグリーンツーリズムの一環として翠地区に開設した4基のピザ釜は、木造校舎の翠小学校、イチゴ狩り、ホタル保護活動の3点セットで今や多くの観光客を集めているのです。

 私はあいにく香川県へ出張していて放映を直接見ることはできませんでしたが、妻が録画をしていたビデオを帰宅後自宅で見ることができました。昨日の番組はピザ釜で双海町の春の食材を利用して、色々なピザを寺尾アナウンサーが作るというテーマ設定でした。シイタケやタコ、サワラ、ワカメ、シラス、イワシの塩辛、コンニャク、イチゴ菜の花などなどをトッピングして焼き上がったピザをみんなで試食している姿は、とてもほのぼのしていました。

 昨日の番組でもう一つの話題は、隣に住む手作り傘屋さんの登場でした。渡辺福計さんと笑子さん夫婦は私の叔父と叔母で、二人の名前を合わせると福笑いとなるようなほほえましい夫婦なのです。傘が貴重だった昔は大阪で製造販売していましたが、先を見越して田舎へ帰り、その後病気になったこともあって、リハビリのつもりで始めた和服の生地を再利用した日傘が想像以上の人気を呼び、今はちょっとしたブームが起って、マスコミに度々登場し、70過ぎた今もひっきりなしにお客さんが来ているようです。

 マスコミに登場するのは身内ではこれまで殆ど私でしたが、嬉しい変化を内心喜んでいるのです。

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 先日東京から来た伊藤さんを連れて町内散策をした折、従兄弟の元商工会長をしていた西下さんから「今朝お前の顔がテレビに映っていた」と、藪から棒に言われました。テレビに登場するはずはないのだがと思っていたらどうやら先日、西予市の地域づくりグランプリの表彰式の模様だったようです。一昨日愛媛新聞にその時の模様が掲載されていてある人から「あんた新聞に載っていたな」と声をかけられました。地域づくりグランプリの審査では審査委員長を務めたため、表彰式で審査委員長として講評を述べる姿だったようです。

 講演に行って講演している姿や、シンポジウムのコーディネーター、パネラーーとして出演している姿も時々マスコミにチョイ役で登場しています。まあ何だかんだ話題の多い私の身の回りです。

  「もぎたてで 隣の叔父と 叔母が出る 結婚式の 写真まで出る」

  「そこここで 頑張る双海 嬉しいな 合併しても 地名残りて」

  「出ていたな 載っていたなと 声かける 人多くあり 出会い懐かし」

  「映像に 映し出された 人を見て 歳を重ねる 姿感じる」

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