shin-1さんの日記

○スイーツ作りに挑戦

 今日は私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室の、今年最後の学習会があり出かけました。教育長を辞めてからも縁あってボランティアとしてこの活動に参加していますが、今日はイチゴ狩りを組み合わせたスイーツ作りに挑戦しました。

 保健センターの調理室を会場に、栄養士の小畑先生の指導でカップケーキとクレープを作るのですが、子どもたちは手馴れたもので、レシピを見ながらボランティアの方々に援助してもらい作業を進めました。4つの班それぞれにほぼ万遍なく下地が出来たところで、バスと公用車に分乗して西岡さんが経営している観光イチゴ園へ出かけました。

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 まだ年末だというのにイチゴのハウス内にはイチゴが沢山実っていました。この時期のイチゴはクリスマスに使うこともあって一年中で一番高価な時期なので、西岡さんの格別な計らいに感謝しながら、西岡さんが敷いてくれたゴザの上に座り、西岡さんの話を聞きました。西岡さんのハウスは始めて12年だそうですが、当時としては珍しい高床式の栽培方法なので、腰をかがめることもなく収穫ができるのです。

 話が終わると早速観光イチゴ狩りです。子どもたちは熟しているイチゴを見つけて、甘い甘いと言いながら口にほおばりましたが、私も沢山いただきました。お菓子に使う分を8個づつ収穫し再び保健センターまで帰り、いよいよ仕上げの作業を行い、カップケーキもクレープもイチゴや生クリームなどでデコレーションして他所以上に美しく出来ました。

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 早速出来上がった順に各班で試食会が賑やかに始まりました。私も子どもたちに交じって一緒に食べましたが、カップケーキもクレープも甘さを抑えてとても美味しく、満腹となりました。今の子どもたちはある意味幸せだと思いました。子どもの頃から町内小学校3校の交流ができるし、一年間を通じて希望すれば沢山のことが体験できるのです。

 やがて試食会が終わり閉会する前に、子どもたちを相手に少しレクリェーションをしてやりました。プログラムは充実しているのですが、そのつなぎにレクリェーションを入れることが少ないような気がしたので、とっさの判断です。子どもたちも短い時間ながら乗り乗りで楽しみました。

 この教室で私が関係している事業は全て今年の店じまいです。今年も何の問題もなく終わることができました。このプログラムには町内の校長先生たちも積極的に参加や指導をしていただいていて、いつもながら感謝しています。来年もいい年でありますように・・・・。

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  「イチゴ狩り イチゴ沢山 食べたのに ケーキクレープ やはり別腹」

  「お菓子には 何故かイチゴが 良く似合う 一日遅れの クリスマスケーキ」

  「久しぶり つなぎのつもり ゲームする 子ども乗り乗り 次もやろうか」

  「いい年を 取ってください 言いながら 年の瀬らしく 三々五々と」 

  

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○年末恒例の年賀状づくりと大掃除

 記憶装置の壊れかけた私にとってパソコンは便利な記憶装置で、去年出した年賀状のあて先を全て覚えているのですから頭が上がりません。しかしパソコンは手を入れなければ死んだ人の名前までそのままに印刷され、とんでもない失態を招くのです。忙しさのあまりにと年賀状を書く日が遅れたことを理由にして、年末ぎりぎりになってしまうのも悪いことではなく、数日前に亡くなった人の名前を抹消することができてホッとしたり、一喜一憂しながら、昨日は800枚にも及ぶ年賀状を一応仕上げ、郵便局の窓口へ持って行きました。窓口の顔見知りの女性は驚いた様子で、一抱えもある年賀状を見て、「交際が広いのですね」と感心して言葉をかけてくれました。年賀状は相手が私のことを思って勝手に出すので、来る方は選べないのですが、約1000枚来た中から800人に絞ることは容易なことではありません。でも自由人の私には仕事の付き合いが殆どないので、割り切って今年も枚数不足で完了しました。昔は手書きで何日もかけて書いたものですが、今はパソコンのお陰で半日で年賀状が仕上がるのですから、パソコンは味がないと思いつつ、今年一年の仕事がやっと終わったという、何か肩の荷が下りたような充実感があるのです。

 郵便局へ行ったついでに、電気屋さんに出かけパソコンプリンター用のカートリッジインクを買い求めました。毎日朝夕書いている2本のブログ記事をプリントアウトする作業が半年も溜まっているのです。正月休みにプリントしようと思い、とりあえず昨日は11月と12月分だけプリントしましたが、一ヶ月分60本を印字するのに1時間以上もかかるのです。真新しい紙に印刷された過去のブログ記事を読みながら今年一年を足早に思い出しながら作業を楽しみました。出来れば毎日一ヶ月分をプリントして今年の分は全て表紙をつけたいと思っていますが、目次は正月休みの仕事になりそうです。

 夕方から家の窓ガラス拭きを始めました。これも私が毎年行っている罪滅ぼしの恒例作業なのです。わが家は築35年余り経っていますが、とにかく大きな家です。どのくらいの坪数になるのか考えたこともありませんが、多分親父の隠居などを含めると100坪近くはあるのではないか思われ、サッシ窓も半端な数ではないのです。親父の隠居は親父自らが掃除を終えていて大助かりながら、母屋は私の仕事なのです。

 雑巾バケツにお湯を汲み雑巾を三枚、それに脚立を用意して始めました。網戸は年に何度か拭くのですが、少し高い所や手の行き届かない所は一年に一度の所もあるのです。まあ大変な汚れで、折から降り出した雨の中でもひさし部分なので雨に濡れることもなく夕方まで作業を行った結果、一階部分だけは何とか終えることができました。二階部分はこれまで息子たちが手助けしてくれていましたが、三人の息子全てが今年は年末に帰らないようなので、今日の作業に持ち越しとなりました。

 窓が綺麗になると窓越しに見えるものまでが何か光り輝いているようで、気持ちがいいものです。仕事から帰った妻が「あなたが珍しいことをするから雨が降るのかも」と多少皮肉を言われましたが、まあそれも甘んじて受けて今日も残りの掃除をしたいと思っています。それでも昨日は少し南寄りの風が吹いて暖かく大助かりでした。

 後は大安吉日の日を選んでしめ縄づくりという大仕事が残っていますが、親父が藁の準備もしてくれているので、月曜日に作業をしたいと思っています。


  「年賀状 それに掃除と しめ飾り 次第片づく 年の瀬仕事」

  「俺にしか できぬ仕事で 恩返し 一年不義理 妻の手助け」

  「ガラス戸を 拭いて外見る 景色さえ 輝き見える 掃除の成果」

  「雑巾の 汚れと同じ 

 

 

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○わが庭初冬の風情

 昨日は親父から、家庭菜園の隅にあるみかんの木のみかんを採集するよう頼まれたました。木の梢のみかんは親父の背丈では手が届かず、私に依頼したのです。畑は先日耕耘機をかけて入るため、綺麗に手入れが行き届いていて、隣近所の人がうらやむほどになっています。昨日収穫したのは興津早生というみかんの品種なのですが、今年は表年なので立派なみかんが2本の木で3箱も収穫できました。ただし無農薬なので外見は余り良くありませんが、まあ自家用であれば何の問題もなく安心して食べられるのです。

 最近わが家ではリンキャベに変わって、朝のミックスジュースが食卓の定番になっています。でもミックスジュースの中身はリンキャベとみかんの果汁を半分に切って5~6個毎朝入れてジューサーを回すのです。リンゴは訳ありリンゴを郵便局で買ったりしていますが、秋から年末にかけて友人から沢山のリンゴが届いているため、目下のところキャベツもミカンも自家製の安心安全なミックスジュースを楽しんでいるのです。

 みかんの収穫を終えて庭をぶらり歩きました。いつの間にか生垣や庭のサザンカの花が満開になって、人知れず咲いていました。その花の余りの美しさに見とれながら、デジカメを取り出して一枚写真に収めました。早い花はもう盛りを過ぎて散っていましたが、まだつぼみも沢山あって年末を過ぎても結構楽しめそうです。このサザンカは私が役場に勤めていたころ花いっぱい運動の一環として10本ばかり森林組合で購入したものです。まだ子指ほどの小さな苗木でしたが、親父の世話もよく生垣用に植えられて今では腕首以上の大きさに成長しているのです。生垣ゆえに見る人もなく毎年咲いては散るのですが、やはり花は愛でてやらねばならないと、しみじみ思いました。

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 もう一つ、庭の隅で素敵なものを見つけました。ブルーベリーの鉢植えです。昨年友人の西岡さんから譲ってもらった鉢植えですが、今は役目を終えて休眠状態です。でも冬の目覚めの速いブルーベリーは暖地ゆえ早くも大きな芽を膨らませて春の芽ぶきに備えているようでした。

 冬真っ盛りなのですが、葉っぱが見事に紅葉し晩秋の趣なのです。一鉢そのものがまるで生け花のような錦に彩られ、見応えのある光景でした。冬来たりを感じさせるように先週は一週間も季節風が吹き荒れました。その風にもめげずこうして紅葉しているのです。多分次の寒波や季節風で紅葉した木々は葉っぱを落とすのでしょうが、いやはや驚きました

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 寒さに首をすぼめて室内にいると、季節の移ろいはなかなか分らないものです。気温も平年に戻ったし、今日も天気がよさそうなので、思い切って戸外へ出て初冬ならではの風情を楽しみたいと思っています。

 昨日の夕方、親類の子どもたちへクリスマスケーキとフライドチキンを届けてやるために、注文品を受け取りに長浜町に住む妻の妹宅へ出かけました。西日の残る時間だったのですが、まあ見事な夕日が見えました。まるで夕日を追っかけているような錯覚にとらわれながら西に向かって走りました。道端には例年より少し早目に水仙が咲いていました。

 巡る季節を愛おしいと思いながらの師走の一日でした。

  

  「サザンカの 花を見ながら サザンカの 宿など歌う 俺は古いな」

  「小指ほど 小さな苗が このように 大きくなりて 役目を果たす」

  「サザンカの 小枝一輪 折り飾る 心和むや 冬の夕暮れ」

  「いつまでも 見とれていたい 一鉢の あでや紅葉 まるで生け花

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○いつの間にかお金が貯まった貯金箱

 年末は何かと慌ただしい気がします。年賀状すらまだ書き終わらず、年末恒例のしめ縄作りも餅つきもと片づけないければならないことが、後から後から背中を押しているようで気が急くのです。それでも昨日は寸暇を惜しんで書斎に閉じこもり、約700枚の年賀状を書きあげるのではなく、パソコンの力を借りて作り上げました。一つだけ肩の荷が下りた感じで昨日はよく眠れました。

 妻は近所の歯科医院に勤めていますが、家にいる私に何かと用事を頼んで出かけます。日ごろは「今日は忙しい」を口癖に家のことなど殆ど何もしない私ですが、せめて年末ぐらいは手助けをしようと殊勝にも動いていますが、頼まれた身の回りの仕事すら忘れたりする駄目亭主なのです。

 昨日は遠方の知人に今年最後のみかんを送りました。まだ送りたい人は沢山いるのですが追いつかなく、未着の人には年が明けてになりそうです。郵便局へトラックで荷物を運び、送る手続きをしながら局長さんや局員と四方山話に花を咲かせました。郵便局には荷受けのノルマがあるらしく、私のように年中荷物を送るお客様は神様のようだと持ち上げられるため、せっせと郵便局へ通っているのです。


 郵便局に出かけた折、カウンターの上に置かれた貯金箱を見て思い出しました。私の書斎の貯金箱もかなり重たくなっているので、年末のこの際郵便局員に手伝ってもらって貯金しようと自宅へ引き返し持参しました。女性局員が〒ポスト風の貯金箱の底穴の蓋を開けてくれ、出し始めるのですが、お札が穴をふさいで中々出てこないので悪戦苦闘しました。出てきた小銭を自動読み取り機にかけてもらいましたが、瞬時に金額が読み取れました。副局長が「84,240円ありました」と報告してくれ、それを入金伝票の金額欄に書き込み、持参したボランティア貯金通帳に記入してもらいました。

 2年近く経ちましたが、釣り銭などの小銭でも貯まるものだと感心しました。とりあえずささやかながら貯金通帳に入れましたが、このお金は私の夢の実現に使う予定です。私はデジカメを2台持っています。すっかり使わなくなった一台は役場の同僚職員が教育長就任を祝ってお祝いにくれたものです。もう一台の今使っているのは子どもたちが父の日にプレゼントしてくれたものです。ブログ記事に写真を挿入するようになった今では、カメラは私の暮しの一部になっているのです。ゆえに拡大すれば多少粒子が荒れる今のカメラを、もう少し性能のよいものに変えようと思っているのです。

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(空になった私の貯金箱)

 私は平凡な男ですが、平凡ゆえに非凡なことはできません。また平凡ゆえに非凡は望まず、むしろ平凡をコツコツ積み重ねることをモットーにして励んでいます。でも1円、10円、100円、500円という平凡な硬貨を貯めることで、知らず知らずのうちに84,240円という、私にとっては非凡な金額になるのですから大したものです。私はこれまでの人生をこのように、平凡ゆえ出来ることを積み重ねて夢を実現してきました。非凡なことの出来ない年齢になりましたが、これからもそのような生き方をしたいと思っています。

 そのシンボルは何といってもこの貯金箱です。最近は妻も少し協力してくれて、まるで孫のように時々入れてくれますが、さて次の目標ははてさて何にしようか、ただ今思案中です。


  「いつの間に こんなに貯まった 貯金箱 これでデジカメ 嬉しくゲット」

  「平凡も 続けてやると 非凡なる 凡人私 またまた非凡」

  「早速に ポケット残る 二百円 貯金箱入れ ささやかスタート」

  「ボーナスの 出ない私は 自由人 貯金箱開け 今日はボーナス」

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○クリスマスイベント「サンタが空からやって来る」

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 今朝の愛媛新聞朝刊8面地方版に昨日行われたクリスマスイベントの記事が載っていました。かつて私がシーサイド公園の運営に携わっていたころ始めたイベントですが、今も多くの方々の協力のもとしっかりと根付いて続けられているのです。昨日は前日までの北西の風も治まって絶好のコンディションだと思いきや南寄りの風が強くて、結局は技術力の高い高木さんのパラグライダーだけが飛んで何とかその役目を果たしたようです。

 私も浜田さんを上灘駅まで見送って立ち寄ったシーサイド公園で、「いい所へ来た。手伝って」と声をかけられ、ダイガラ餅つきの手臼をやることになりました。町内の催しにはそれぞれ職場は違っても米湊さん、松本さん、大森さん、それに時々私が顔を連ねて、何気なくさりげなくボランティアとして協力しているのです。米湊さんと松本さんと大森さんはその常連で彼らの惜しみない協力にはいつも頭が下がるのです。

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 この日はシーサイド公園の広場にダイガラを持ち出して餅つきのデモンストレーションを行いました。日本人は餅つきの大好きです。この日もダイガラの回りには沢山のギャラリーが詰めかけ、ワンパック350円のつきたての餅があっという間に売り切れてしましました。遠巻きに見ていた子どもたちも餅つきが体験できるとあって、サンタクロースの動向を気にしながらも、入れ替わり立ち替わり挑戦して和気あいあいでした。
 3日前の土曜日に6臼もの手臼をやった手のヒリヒリ感がまだ治っていないので、多少つく餅が熱く感じられましたが、まあ何とか4臼の手臼を感謝されながら終わることができました。つきたての餅をお礼に1パックいただき帰るころには駐車場は満車で、入りきらない車が長い列を作っていました。

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 海岸に目をやると何時の間には砂浜には親子連れの長蛇の列ができていました。これもすっかりシーサイド公園クリスマスの風物となっていますが、今年も好天に恵まれささやかながら親子に夢を与えているようです。わが家の孫たちも毎年参加していたのですが、今年は直前になって親子がインフルエンザにかかってあえなくダウン、参加できなくなりました。

 子どもたちに夢を与えることは素晴らしいことです。「地元以外の子どもに何でそんなに」という意見もありますが、まあ余り目くじらを立てず、仕分け作業などによる分類をして欲しくないと思っています。


  「いの一に 仕分け作業で やり玉か 目くじら立てず 子どもに夢を」

  「ペッタンコ 餅つく音に 合わせこね 遠巻きギャラリー 相槌拍子」

  「面白い サンタ空から やって来る 長蛇の列が 見上げる空に」

  「わが孫は インフルエンザ 参加せず 少し寂しき 冬の夕暮れ」


 

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○人生には上り坂・下り坂・そしてまさかの3つの坂がある

 愛媛新聞に掲載された記事を読んで、人間牧場に入門したいと4年前に門を叩いた人がいます。まだどんなことをするのか分らぬままの船出だったので、送られてきた入門申請を見ながら思案六方し、保留の連絡をしていました。その後浜田さんが大の読書家で民俗学者宮本常一の研究をしていることもあって、人間牧場で開塾した年輪塾の第一号塾生として名前を連ねることにしました。

 その後浜田さんは折に触れ人間牧場へ足繁く通うようになって来ました。車に乗れる身でありながら休みの日には早起きしてJR海岸周りの列車に乗って下灘駅で下車、そこから山道を歩いて人間牧場までたどり着くという修行を今も続けているのです。車で上がれば何のこともない距離なのですが、あえて山道を歩くことにこだわっている浜田さんの修行に、塾長の私はいつも教えるどころか教えられることが多くあるのです。この2年間、年輪塾が宮本常一という人間像に迫る学習ができたのも、浜田さんの功績だとしみじみ感謝しているのです。

 先日浜田さんから、「今度の23日は祭日なので今年最後の修行に出かけます」と連絡がありました。私も午前通は時間が空くのでご一緒の修行をしようと、9時51分着の列車で来るというので、冬の寒さ厳しい折なので、駅まで迎えに行きました。下灘駅から見渡す伊予灘の海は、先日までの荒れた天気が全く嘘のように凪いでいました。プラットホームから山の端辺りに人間牧場の建物が見えました。列車を待つ間日喰老人会が作成したと思われる駅構内の掲示板に目をやりながら、列車待ちしている青年と雑談を交わしました。やがて列車が到着し浜田さんが降りてきました。助手席に乗ってもらい人間牧場を目指しました。

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 水平線の家の神棚に三井酒店で買った一合瓶のお酒を二本供え、今日の作業の安全を祈りました。

 さてこの日の修行と称する作業は、先日私が割って乾燥しつつあるクヌギの木を片づけ、作業小屋の板壁面に積み上げるのです。まず家から持参した電線を二本切って結び、両横にタル木を立てて薪を積んで行くのです。私が積み手となり浜田さんは離れた場所から手箕で薪を運んで来るのです。世間話をしながら積み上げるのですが、前もって寸法通りに切り割りしているので、造作なく積み上げることができました。薪を積んだ小屋は何時になく田舎の風景を演出してくれたようです。今年の冬はもう少し薪を確保してこの板壁面全てを薪で囲いたいと思っています。

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 その後、先日のかまど開きに使ったはがまの掃除や、ビニールシートの吹き掃除、そして作業小屋のかなりの部分を占拠しているプラスチックキャリーを壊して米袋に詰め、ゴミとして処分する作業を二人で行いました。正月が近づいているので花芝を切って山を下り、国道沿いのラーメン店で餃子と味噌ラーメンを食べて遅い昼を終えました。浜田さんを上灘駅まで送りましたが、月一回程度やって来ては水平線の家のワックス掛けなどの修行と称する奉仕作業で人間牧場もすっかり片付き、いい雰囲気で今年の作業を終えました。

 「第一の山を登れば第二の山がある。第二の山を登れば第三の山がある。第三第四山は続く。何処まで続くか山、山、山。偉人とは最後まで上り詰めた人なり」とは菊田一夫言葉です。人生には山も川も谷も峠もあることでしょう。また人生には上り坂も下り坂もあるのです。上り坂と下り坂のほかにもう一つ「まさか(真坂)」というのがあるようです。人は予期せぬまさかに必ず出会うものです。いいまさかもあれば悪いまさかだっていっぱいあるのですが、まさかを乗り越える強い心を日ごろの修行によって培っておきたいものです。


  「上り坂 登って私下り坂 いつか分からぬ まさかあるかも」

  「修行しつ 人生機微を あれこれと 二人で語る 手を休めずに」

  「割りし薪 整然並べ 積み上げる たったこれだけ 田舎演出」

  「母使う キャリーも老化 ゴミとなる 思い出重ね 壊し袋へ」 

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○今年も多くの異文化ギャップを体験しました

今年1月8日に講演に出かけてから一昨日の12月21日まで、ほぼコンスタントに一ヶ月10回の割合で出かけた講演もやっと無事終わることができ、昨日から長い冬休みに入りました。リタイアして5年、自由人とはいいもので、自分で休みが取れるのですからこの上ない幸せです。昨日の夜は妻と二人で始めた貯金箱を開け、ささやかで小銭ながらわが家のボーナス日になって、妻もホクホク顔のようでした。

 今年も沖縄へこそ行かなかったものの県内は勿論、北海道から九州まで多くのまちやむら、団体やグループから沢山のオファーをいただき訪ねることができました。卓上カレンダーのメモを見ながら訪ねたまちやむら、出会った人々の顔を思い出していますが、今年一番の思い出は何といっても2月にオホーツク海で流氷に出会ったことです。そのことを自慢したくて流氷の上に立った写真をハガキにプリントして、100枚も出したのですから余程嬉しかったようです。マイナス15度の世界も合わせて体感しましたが、9月には再び北海道を訪れ多くの人と再開することができました。

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(オホーツク海流氷の上に立った私)

 また一昨日には高知刑務所へ話しに行くという、これまた今まで経験したことのない場所での講演が実現し、知らない世界を垣間見ることができました。高く張り巡らされた塀の中から見える視界は意外と狭く、ましてやそこで暮らす受刑者は一般社会と完全に隔絶されていて、罪を犯した者のみが知る孤独や不自由な暮らしを強いられているのです。高知刑務所は再犯の人を収容する刑務所だそうですが、無銭飲食も詐欺罪で金のない放漫な人間は寝ぐらとあご(食事)の確保できる刑務所は、むしろ路頭に迷うシャバよりはましという意識が働き、罪の意識もないまま再犯を繰り返すのだそうです。所長さんに案内されて刑務所の中を見せていただきましたが、「人間の生き方とは何ぞや」と異文化ギャップを感じさせられた貴重な体験でした。

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(高知刑務所での講演)

 今年10月末に釧路へ夕日シンポジウムに招かれて出かけました。世界三大夕日と豪語している街へ、日本一美しいと自認するわが町の夕日を引っ提げて殴り込みをかけましたが、夕日のをテーマにしたまちづくりを長年やってきた私にとって、ここにきて久しぶりに壮大な夕日への挑戦を始めようと眠りかけていた記憶を蘇らせたギャップでした。

 予定されていた夢の扉の取材も、美しい夕日の見えるころにしようと延期になっていますが、夕日に関する私の潜在能力はまだまだこんなものではありません。鍵のかかったままの夢の扉をしっかりと開く決意をして、来年以降につなげたいと思っています。

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(釧路丹頂空港から見えた夕日)

 かくして今年も100回余りの講演は無事終わりました。かつて青年の船で訪ねたアメリカで、世界地図の真ん中に日本のない世界地図を見て驚いた異文化ギャップほどではないにしても、今年も多くの異文化ギャップを感じることができました。訪ねたまちやむら、出会った人々に感謝しながら、既に新しい年の卓上カレンダーには早くも講演依頼が舞い込んでいる歳の瀬の今日この頃です。


  「旅をして 異文化ギャップ 感じねば 成長進化 止まるぞお前」

  「わが旅は マグロのような 生き方だ 泳ぎ続けにゃ 呼吸が止まる」

  「来年と いう名の年が 近づいて 今年総括 新たな決意」

  「また一つ 加えるけれど 減ってゆく 足して二で割る 元の木阿弥」

 

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○町長さんと二人三脚の日々

 昨日は5期20年に渡って双海町長を務められた丸山勇三さんの葬儀に参列するべく、JAルミエールという葬祭ホールに出かけました。同じ町内ゆえ受付には知人友人が沢山いましたが、米湊さんや松本さんも応援に駆け付け、さりげなく受付で働いてサポートしている姿に、頭の下がる思いがしました。

葬儀には知名度を誇った人らしく各界の人たちが顔を連ね、サイドの両側にも沢山の献花が並んでいました。既に一線を退いている私は、葬儀に出席する場合いつも心に決めているのは、公職肩書や名刺のないリタイアはリタイアらしく末席に座ることです。しかし昨日はどういう訳か後ろの席が詰まっていて、一般席の中ほどしか空いてなく、仕方なく空いている席へ座りってしまいました。人間は葬儀の席へ行くと自分の今や過去を振り返り、また列席者の顔ぶれや個人との付き合い程度を考えて、自分の席を暗黙のうちに決める習性があるのだと聞きました。人は他の人より同列以上でありたいと願ったり、自分の値打を欲しがるものなのです。議員さんなどは選挙という一票の重みを知っているだけにその気持ちは顕著で、前の席を求める必然性を持っていて、無理からぬところもあるのです。

 やがてご導師さんが入場し葬儀は始まりました。澄んだ声で女性の司会の方が故人丸山勇三さんの功績などをさりげなく澄んだ声で紹介し始めました。その言葉を聞きながら遺影を見つめていると、在りし日の町長さんの姿が思い出され自然に涙が出てきました。この町長さんとは5期のうち4期16年も一緒に仕事をしてきたのです。町名変更騒動のゴタゴタもあって、責任を取る形で産業課へ異動を命ぜられて3年余りが過ぎたある日(1986年10月23日の午前中)、私は町長室へ呼ばれました。その日は秋祭りの日だったので、私は休暇を取っていましたが、22日の夕方、「明日の朝町長室へ来るように」と町長秘書から町長の伝言が届いていました。町長室へ入ると、いきなり「あんたが町長だったら何をしたいか?」と聞かれました。私は即座に「人づくり・拠点づくり、町民総参加のオンリーワンづくり」と、藪から棒の質問に熱弁で一気に答えてしまったのです。「よし分った。そのことを思う存分やってください」。「明日10時から小会議室で幹部会を開いて異動の内示をします。11月1日から企画調整室で町づくりの仕事をして下さい」と内辞の内辞を口頭で伝えられました。


 産業課で沿岸漁業構造改善事業の仕事に夢中になっていたし、下灘漁協荷さばき所に続いて上灘漁村センターの工事が始まろうとしていた矢先のこともあって多少ゴタゴタもしましたが、私は町長さんに提案した3つのことを1986年以来、教育長就任で退職した2003年3月までの17年間、町長さんと二人三脚の町づくりを進めてきたのです。そんな思い出に浸っていると、いきなり司会の女性が私の名前を語るので、とっさにわれに返りました。葬儀のナレーションに名もなき私の名前を入れていただくなどまるで青天の霹靂で、穴があったら入りたいような心境になりました。読経を聞きながら、市長さんの弔辞を聞きながら、町長さんの在りし日を偲び、最後のお別れにも花を手向けて合掌しました。

 つらくて悲しい葬儀が終わって自宅に帰ってから、書斎の書棚からしまい込んでいた自分の過去の卓上カレンダーを引っ張り出してめくりましたが、町長さんの顔が浮かんでは消えて涙が止まりませんでした。少し暇になったら町長さんの思い出も記録にとどめたいと思いました。


  「ナレーション いきなり私の 名前出て 青天霹靂 顔を赤らめ」

  「納棺の 顔を拝みて 手を合わす 手向けし花に 囲まれ町長」

  「懐かしき 顔々揃う 葬儀場 ひそひそ話す 思い出話」

  「何故こんな 場所で死んだか 思いつつ 通り過ぎたる バックミラーに」


 

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○土佐人から学ぶ人間学の勧め

 このところ何故か高知県へ行く機会が多くなり、何を意味するのか出会った人の顔を思い出しながら考えてみました。四国には太平洋に面した高知・徳島と瀬戸内海に面した香川・愛媛の四県があるのですが、やはり風土でしょうか、四国四県とも人間性はまるで違うのです。

 高知といえば板垣退助、岩崎弥太郎、大町桂月、河田小龍、幸徳秋水、武市瑞山、寺田虎彦、中江兆民、中岡慎太郎、中浜万次郎、浜口雄幸、牧野富太郎、吉田茂など私のような凡人でも頭に浮かぶ人は多く、明治維新以来多士済々です。私は愛媛県人なので、愛媛が生んだ人々の名前を思い出そうとするのですが、残念ながら正岡子規くらいしか頭に思い浮かんでこないのです。しかしこのように全国的に見ても有名な人は多いのに、高知県の経済成長率は日本でも最下位クラスに甘んじているし、第一次産業に頼る高知県では所得も決して高くないのは何故なのか、大いに疑問のあるところなのです。多分ローカルよりもグローバルを望む人が多いのかもしれません。

 何年か前、高知新聞社が出版した「土佐人」という本を友人からいただいて読んだことがありますが、その本には他県から見た土佐人の印象が書かれていました。

 ○反骨精神が旺盛である。

 ○豪放で太っ腹である。

 ○明るくて荒々しい。

 ○スケールが大きくて、すぐに天下国家を論じる。

 ○男性的な土地柄である。

 ○人間の線が太い。しかし繊細な神経と人情の篤さも持っている。

 ○個性的で、付き合うほど味が出てくる。

 ○野党精神に富んでいる。

 ○理屈っぽい。

 ○酒好きではしゃぎ過ぎる。時には傍若無人と誤解される。

 ○我が強い。俺が俺がの姿勢が出過ぎる。

 ○自滅を恐れない。

 ○難しい時代になると血が騒ぐ。

 ○頭がよく機転がきく。

 なるほどとこれらのことを当てはめて、知人友人の顔を思い出しながら考えてみましたが、死して今もなお日本のヒーローであり続ける坂本龍馬の人格や成し得たことを思うと、まあこのイメージにピッタリなのです。私も若いころから坂本龍馬にある意味憧れ、強い関心を持って生きてきました。このところNHK大河ドラマの龍馬伝ブームで、再び坂本龍馬にスポットが当たろうとしていますが、私の関心は今のところむしろ陰に隠れたジョン万次郎の方へ向いているのです。

 高知には年輪塾のメンバーに四万十市西土佐村の和田修三さんや、馬路村の木下彰二さん、それに依光女史もいますが、前述の土佐人気質を沢山持っていて、それが彼や彼女たちの魅力なのです瀬戸内海側に位置する愛媛県人が持ち合わせていない土佐人の人間学をこれからも彼や彼女を通じて学んで行きたいと思っています。


  「行く雲に 俺の生き方 問うてみる 意の向くままと 答え返らず」

  「海を見て 育った俺は ひょっとして 土佐のいごっそ 交じっているか」

  「龍馬より ジョン万次郎 ピッタリと 足摺岬 何度も訪ね」

  「酒好きな 土佐人気質 大好きで お陰で体 壊してしもた」


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○昨日は高知刑務所に招かれ衝撃的な一日でした

 「私は呼ばれたら刑務所以外どこへでも行きます」なんて戯言をいつも言っていますが、昨日は今年最後の講演の締めくくりとして、こともあろうか本当に刑務所から招聘があり出かけて、衝撃的な一日を過ごしました。元々は四国管区の少年刑務関係の研修会が10月に松山であり、その折私の話を聞いた高知刑務所の所長さんが、是非わが刑務所の職員にも聞かせたいということで依頼があったのです。縁とは不思議なもので、高知刑務所の所長さんは、私の母方の従兄がかつて刑務所長をしていた頃の同僚だったそうで、行く前に連絡が入りくれぐれもよろしくとの伝言を携えてのお出かけでした。

 トヨタカローラアクシオをこの秋購入してから少しの間は慣れないこともあって、遠出を遠慮して公共交通機関を利用していましたが、徐々にな慣れて最近は鳥取、岡山、広島などへ遠出し、高知へは四万十市、黒潮町に続いて早くも今回が三度目なのです。使い方も少し慣れたカーナビに「こうちけいむしょ」とひらがなで目的地入力して音声案内をセットして出かけたため、前もってインターネットのヤフー地図情報で調べプリントアウトしたものは見ることもなくカバンにしまったままでした。伊予インター~川之江ジャンクション~南国インターまで乗り継いで高知刑務所へ到着したのは講演会が始まる2時間弱も前の3時40分でした。扉が閉まり守衛のいる検問所で、「講演を頼まれてやって来た愛媛県伊予市の若松と申します」と告げると、担当の方が検問所まで迎えに出てくれ、案内されて生まれて初めて刑務所内に入りました。

 早速2階の所長室に案内され、名刺交換してお茶をいただきながら面談しました。しばらくすると所長さんから刑務所内の見学を勧めていただきました。刑務所内の規約により携帯電話などの不必要なものは所長室へ置き、いざ見学スタートです。高さ4.5メートルもあるコンクリートの塀も中から見るととても高く感じられました。通じる扉を開ける度にそこにいる刑務官が所長さんに敬礼して、大きな声で受刑者の人数と状況を報告するのですが、そのテキパキした動作に厳しい鉄壁の守りを感じさせました。

 刑務所内は作業をしている姿や夕食の姿など、一日の終わりの姿が所長さんの案内によって手に取るように分りました。一番の衝撃は週2回という入浴シーンでした。今年の春見学に訪れた網走刑務所ミュージアムで見た光景とまったく一緒で、受刑者が僅か15分の入浴を一糸乱れず並んで入浴している姿には身震いするほど緊張しました。

 また独房や受刑者が暮している監獄の様子を直に見る機会など初めてなので正直衝撃の連続でした。この日は夕方になると今年一番の冷え込みのようでしたが、受刑者の暮しは暖房などは一切なく、また一般社会の人と情報から隔絶された監視付きの社会の厳しさも垣間見ることができました。ここの受刑者は再犯歴のある37歳以上の年齢の高い受刑者だそうですが、この冬の厳しい寒さに眠れぬ夜を過ごしているのかも知れません。人はなぜ罪を犯すのか、受刑者はなぜ罪を繰り返すのか、そんなことを刑務所内の光景を観ながら自問自答しつつ貴重な刑務所内の見学を終えました。

 所長さんから「いかがでしたか」と感想を聞かれましたが、もう言葉が出ない程目茶苦茶緊張し、目茶苦茶衝撃を受けました。テレビや映画のドラマである程度の知識は知っていますが、そんな浅はかな考えはいっぺんに吹っ飛んでしまいました。

若松進一ブログ
(許可を得て講演会場で2枚の写真を撮りました)
若松進一ブログ

 講演会は刑務官の仕事が終わってからの午後5時30分から、刑務所内の古い講堂で行われました。日ごろは火の気のない寒い場所ですが、この日は大きなストーブが持ち込まれ、ステージには私のために小さなストーブも用意され「新しい発想で生きる」と題した話をさせてもらいました。刑務官は日ごろ笑いのない勤務です。しかも縦社会の厳しい命令一下で暮らしているため、80人全員が静座して身じろきもせず聞いてくれました。その点乗りは今一でしたが、それでもこちらも思い切ってお話をさせてもらいました。

 道の横に雪が残り、時折吹きつける寒風を感じながら高知と愛媛の峠を越えて高速道路をひた走り、9時前にはわが家へ到着しました。昨日はそんなに時間は経っていませんが、とても長く感じた私の記憶に残る一日でした。

 

  「刑務所で 講演するとは 驚いた 記憶に残る 一日でした」

  「高い塀 中から見えぬ 閉ざされた 厳しい暮らし 想像以上」

  「悪いこと してはならない ことだけど 罪を重ねる 人の愚かさ」

  「講演を 終わりて塀の 外に出る 自由の意味を 改めて知る」

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