shin-1さんの日記

○二宮金次郎

 私たちは子どもの頃から二宮金次郎を知っていました。学校の校庭の隅に雨の日も風の日も立っていました。しかし二宮金次郎が何のためにそこに建てられたのかは、学校の先生に教えてもらったこともなくただただ記憶の隅にあるだけでした。

 しかし昔修身の本で二宮金次郎のことを習ったという母親から、金次郎の少年時代の苦労、勤労、倹約、親孝行の大切さを教えられ、大人になったら金次郎のように艱難辛苦を乗り越えて、世のため人のためになるよう人間になるよう諭されました。そして二宮金次郎の歌を歌ってくれました。したがって私は今でもうろ覚えながら二宮金次郎の歌を歌えるのです。

   唱歌 二宮金次郎

1、柴刈り縄ない 草鞋をつくり

  親の手助け 弟を世話し

  兄弟仲良く 孝行をつくす

  手本は二宮金次郎

 母親が私に歌って聞かせたのは一番の歌詞だけだったので、二番、三番は知りませんでした。

2、骨身を惜しまず 仕事を励み

  夜なべ済まして 手習い読書

  せわしい中にも たゆまず学ぶ

  手本は二宮金次郎

3、家業大事に 費えをはぶき

  少しのものを 粗末にせずに

  ついには身を立て 人をもすくう

  手本は二宮金次郎


 パソコンでインターネットを使い検索すると「手本は二宮金次郎」という館野義久さんが書いた文章が出てきましたので引用して掲載します。


  国定教科書の修身に載った人物が、私の住む青木村(旧大和村青木)に、人々の願いをかなえ堰をつくり、農村救済の術ともいうべき「青木村仕法を実施したことを知った時は大きな驚きでした。

 この堰から灌漑によって青木田んぼ(約88ヘクタール)は、秋になると小金の稲穂が波を打つ美田と化すのです。またこの堰はかつて青木や岩瀬の子どもたちの天然のプールとして、夏場の楽園だったのです。

 ところで、子ども心に描いた金次郎像が戦後音を立てて崩れたのです。帝国日本の臣民として、最も期待される人間像として、時の政府(軍部中心)に利用され、徒に金次郎の少年時代のみが意図的に変形されたため、保守反動のレッテルを貼られ、ことごとく否定された時期がありました。

 しかし、高度成長の波が止まり、国土や農林業はまさに荒れなんとしています。そのうえ日本人の心の豊かさが枯れ、人間関係の断絶、退廃が進み、二宮尊徳が最も恐れた人心の荒廃恐るべしの状況となっています。

 21世紀の今、このような社会状況の中で、再び二宮尊徳がよみがえり、農村復興、日本革命の旗手、実践的指導者、救世主として再評価されつつあります。幸い青木には二宮金次郎に係わる史料や遺跡が残されています。尊徳(金次郎)の生きた時代と現代を重ね合わせ、その実像に迫りたいと思います。

若松進一ブログ

(薪拾い帰りでの金次郎図ー幸田露伴著二宮尊徳翁挿絵よりー明治24年)

 幸い私はこの度、偶然にも桜川市へ行く機会を得て、合併前の大和村を訪れこの話を聞きました。これは偶然なのですが私にとっては必然と呼べる出会いでした。もう少し青木堰の話を聞きたいと思いながら、館野義久さんの文章を読み引用させてもらいました。年輪塾第2ステージの始まりにふさわしい出会いに感謝しながら、色々と学んでゆきたいと思っています。


  「偶然に 二宮翁の 話聞く もしや必然 感銘受けて」

  「尊徳の 遺徳を学ぶ 計画を 立てて間もなく 青木行くとは」

  「母親が 口ずさんでた あの歌を 今でも歌う 不思議な気持ち」

  「わが町に 二つあるのに 誰ひとり 説明できない 恥ずべきことか」  

 

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shin-1さんの日記

○思わぬ収穫二宮尊徳との出会い

 先日人間牧場と下灘コミュニティセンターを会場に開いた年輪塾公開セミナーも、一昨日講師で招いたノンフィクション作家佐野眞一さんの講演録が愛媛新聞に紹介され、一通りの作業を終えました。そして先日11月19日にふじという市駅裏の居酒屋で運営に携わった役員が集まり、宮本常一県経うの総括と今後の進め方について話し合いました。この2年間宮本常一の研究は現地に足を運んだり、時には忘れられた日本人の舞台となった高知県梼原を訪ねたりして、それなりの思いを心に刻むことができたのです。

 さて、年輪塾の方針が先人の生き方に学ぶことを掲げているので、次なる先人を誰にするのか色々と話しあいました。清水塾頭の提案で二宮尊徳を研究することが内々話し合われていましたが、二宮尊徳の思想は混沌とした現代にマッチしていることもあって、異論もなくこれから2年間二宮尊徳の研究をすることになりました。宮本常一を担当した浜田さんと豊田さんには今後も今までの研究を続けていただいて、「宮本常一100のことば」をお願いすることになりました。

 そんな折も折、私は昨日まで茨城県桜川市へ招かれ講演に出かけました。講演が終わってまちづくり教室という対話集会で、紅葉の美しい薬王寺という住職さんに巡り合いました。研修会が終わって旅籠へ行く途中、鈴木さんが私を薬王寺まで連れて行ってくれました。陽もとっぷり暮れて辺りは闇の世界でしたが、お寺の山門入口には何やら銅像のようなものが建っていました。よく目を凝らして見ると二宮金次郎なのです。いやはや驚きました。

若松進一ブログ
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 何でこんな所に二宮金次郎が建っているのだろうと思いつつ山門を入ると、中には樹齢400年の山もみじがライトアップされて見事な幻想を醸しているのです。私も色々な紅葉をみてきましたが、樹齢400年の山もみじを、しかも夜見るのは初めてとあって感動しきりでした。
 聞けばこれまでこの紅葉は人に知られることもなくひっそりと寺ゆかりの人だけにしか知られなかったそうですが、合併して大和村から桜川市になったのを機に一躍有名になり、今ではこのようにライトアップされて多くの方々に知られるようになったそうです

 さて二宮金次郎の銅像がどうしてこの山門にあるかということですが、実はこのお寺と二宮尊徳は切っても切れない深いご縁があると言うのです。詳しい話は別立てで書きたいと思いますが、この近くにある青木堰を造ったのは二宮尊徳であり、堰を造った残りの木材でこの山門を作ったらしいのです。いやいや驚きです。

 しばし幽玄の世界を写真で紹介しておきます。

若松進一ブログ
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  「何故にある お寺の山門 金次郎 首をかしげて 入り納得」

  「山モミジ ライトアップに 輝いて 裏と表を 見せて散る」

  「これほどの モミジ見たこと ない故に 声も出ぬほど いたく感嘆」

  「叩かねば 開かないとは このことか 尊徳翁の 偉業偲びつ」

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