shin-1さんの日記

○笑いは活力のバロメーター

 私は周りの人から「寒~い」と言われるほど親父ギャグをよく使います。何と言われようと、少しその場がしらけても平気で使うものですから、時には反省もしますが、まあ暗いよりはまだましと思っているのです。

 先日学生たちとシーサイド公園の夕浜館というレストランで食事をしてました。学生たちからお勧めメニューを聞かれたものですから、「夕日丼セットはいかが」と推薦しました。すると五人の学生はみんな私の推薦の「夕日丼半丼セットを注文してくれました。注文お食事が出てくるまでいろいろな雑談をしましたが、「夕日丼」は私もその開発に一枚かんでいるため面白おかしく話をしてやりました。

 そのうち食事が出てきて食べ方などを教えて食事になりました。私が学生たちに夕日丼に敷き詰められた鯛の刺身を見て、「これ養殖じゃろか」と何気なく言ったのです。するとある女学生が「若松さん何言ってんですか。これは洋食ではなく和食でしょうが」というのです。他の四人はその会話を聞いても別に知らんふりでしたが、私は思わず噴き出してしまいました。私は養殖の魚か天然の魚か聞いているのに、その女学生は洋食ではなく和食だというのです。パソコンの変換ミスと全く同じように洋食と養殖を勘違いしたのです。そういえば学生たちにとって天然のタイなど食べる機会は殆どありませんし、養殖の魚に飼い慣らされているのですからもっともな話なのです。皆さんに損ことを話したらやっと納得した様子で少し遅れて大笑いをしました。

 私はこんな風に外では冗談も言って人を和ませるのに、何故か家では余りものを言いません。妻は私のことを二重人格者と思っていたようですが、最近になって家でも少し明るくふるまおうと心掛けているのです。私が家で親父やおふくろ(既に天国)に話したことでもっとも大爆笑だったのは、「ニコニコ・ピンピン・コロリンシャンという言葉です。親父が「この家の畳の上で死にたいし、この家で通夜も葬式も出してくれ」という話を聞いて、それじゃあ「ニコ・ピン・コロ」に心がけるようにと話したことが、いつの間にか私の高齢者大学の講演演題になって、大笑いをしながら、今では「ニコ・ピン・コロ」を推進して回っているのです。

 先日「ニコ・ピン・コロの楽しい人生」と題してある高齢者大学に話しに行きました。話も佳境に入ったころ、会場の中ほどから水戸黄門のテーマソングが流れだしました。私に集中していた参加者の目は一気にその音源を探し始めました。かなり長時間誰もその音源がどこなのか分かりませんでしたが、やっとあるおばあちゃんの巾着の中に入っている携帯電話の呼び出し音であることが分かったものの、おばあちゃんはさあ大変です。慌てふためき音源を止める術もマナーモードに切り替えること出来ないのです。仕方がないので公園を打ち切り壇上から降りた私はその音源を切りました。聞けば一週間前に独居のこのおばあちゃんの都会に住む息子さんが、安否確認のため持たせたものなのです。一応説明を聞いたものの使い方は全く分からず、それでも息子に買ってもらったことを自慢したくて見と歩いていたのです。驚いたことにおばあちゃんの携帯は、何と私の携帯と一緒の高齢者用だったのです。その後携帯電話の話を急遽講演内容に追加して話しました。

 「最近携帯電話の電磁波が子宮や卵子にいたずらをして奇形児が生まれるというショッキングなニュースが流れました。子宮と卵子の近くにあるポケットへ携帯電話を入れるのは止めた方がいいです。しかし今日お集まりの方々には何ら関係のない話です」と話すと会場はまたまた大爆笑となり元のさやに納まりました。笑いは活力のバロメーターです。大いに笑って脳を活性化しましょう。笑う門には福も舞い込みますから・・・・。


  「笑ったら 若返るんだと ある学者 言われてみれば そんな人いる」

  「怒るより 笑った方が 世の中は 上手くいくはず 我が家をご覧」

  「携帯の 呼び出し音が 水戸黄門 サプリメントも セットで売れる」

  「携帯を しながら歩き けつまずき 骨折り損の 笑える婆」

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shin-1さんの日記

○都会にも都会の悩みがあるのです

 東京や大阪ほどではありませんが、海を隔てた広島県の広島市安佐北区という地域で開かれた講演会と研修会に招かれて昨日の日曜日出かけました。広島市は岡山と並んで私にとっては中国地方の各地へ向かう中継点のためよく訪れる地方都市です。地方都市といっても有に百万人を超える政令都市ですし、平和宣言都市として、またプロ野球広島カープの本拠地として、原爆ドームや宮島という二つも世界遺産を有する西日本を代表する都市なのです。広島市民球場も間もなく完成する予定だし、宇品の再開発などで宇品港周辺は目を見張るような著しい発展を遂げているのです。

 そんな中にあって山間に面した安佐北区だけは少し様相が違っているようです。研修会で聞いた安佐北山内区長さんの話によると、①安佐北区は広島市の約4割の面積を有する地区です。②高齢化率は8区で一番高いようで、小河内47%、志屋45%、井原44%、久地39%と、私たちの町と同じような地域もあるようです。③児童生徒の減少数は全市の半数以上で、日浦西小の廃校、くりが丘保育園の廃園などがあり、今後も小規模校の統廃合が大きな問題のようです。④この10年間で全市は約五万人も人口が増えたのにこの地区では約四千人が減っています。⑤地形から災害危険個所が多いようです。⑥都市基盤といわれる道路、歩道、河川、下水道などの整備が遅れているようです。

 こうしてみると、私たちの町と変わらない悩みを抱えている地域で、ある意味年問題の先進地かも知れないのです。しかし山内区長さんが言われたように目を転じれば食の安全、地産地消、食料自給率、都市と農村の交流、定年帰農、森林機能、ライフスタイルの見直しなど新しい風が感じられる地域のようです。

 偶然にも私がつけた演題「まちづくりの新しい風」というのも、区長さんの話と一致するような話で、会場あふれれんばかりの参加者に意を強くして大いに喋りました。この日の集会は2本立てになっていて、最初は自治会の役員さんを含めたオールドリーダーさんに講演を聞いていただきました。その後はニューリーダーさんたちが残っての研修会でした。4つの班に分かれてコーディネーターのリードでワークショップをしました。これがなかなか面白くて、様々な意見が出されました。私もその輪の中に入って皆さんの意見を聞きました。私も助言を求められ、自分の問題と地域の問題、これまでと今とこれからに整理するといいのではと口をはさみました。


 この地域には可部という歴史のある中心地があります。またニュータウンといわれる団地があります。また農山村地域もあって、問題が複合的で話がまとまりにくいようですが、これらの問題を解きほぐしていかなければいい地域はできないのです。

 山内区長さんの資料に21世紀の問題を解決するに必要な4原則(哲学者West教授の言葉がありました。

  ①変革のための力は私たちの中にある。

  ②変革の基盤は私たちの日常生活の中にある。

  ③こうした変革は子どもたちのためにある。

  ④こうした変革には勇気あるリーダーが必要である。

 この言葉を噛みしめながらいい地域にするために始まった「はじめの一歩」に大きな拍手を送りたいと思います。

  「どの町も 悩み抱えて 行く末を 案じています 一歩踏み出せ」

  「いつの世も 結局人の 良し悪しで 地域は伸びる いい人になる」

  「今日もまた 反面教師の 世界あり 学びで少し 進化を遂げる」

  「山々に 雪を抱いた 冷え込みを 熱気あふれる 議論で熱く」 

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shin-1さんの日記

○盛会だった地域づくりフォーラム

若松進一ブログ

 昨日は私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の年に一度の総会フォーラムが、伊予市の旧厚生年金センターであり、全県下から180人もの参加者が集まりました。朝8時半に家を出て夜9時過ぎに帰ったので、市内とはいいながら12時間以上もかけた長い会議に、さすがの私も少し疲れたようです。

 会に先立ち運営員会が開催され、約1時間司会進行を務め、その後鼎談の打ち合わせ会、午後1時から始まった研修会の開会あいさつ、鼎談の司会進行、交流会の開会あいさつなど、もうそれはこれでもかといわれるほどの出番があったのです。

 私はこの研究会議の設立から事務局長や代表を務めていて、組織の活性化にいささかなりとも貢献してきたつもりです。一昨年には結成20周年を迎えそれなりに総括し、それなりに新しい時代を迎えました。また昨年は念願だった全国地域づくり交流大会を愛媛県で開催し多くの成果を収めました。20周年を迎えるにあたって決断し、20周年を迎えて決断し、世代交代を皆さんにお話ししましたが受け入れられず、延び延びとなっていたのでこの日の運営委員会で皆さんにそのことを話し内諾のような形で、代表運営委員を降りさせてもらうよう頼みました。組織は人が新陳代謝をしないと活性化しないのです。私にとっては年に一度の地域づくりフォーラムも大切でしたが、この日行われた運営委員会もまたひとつの終わりを意味する大切な会議と位置づけて臨みました。

若松進一ブログ (前もって開かれた運営委員会)
若松進一ブログ (えひめ地域政策研究センターの研究員)

 この日のは全国大会の総括ということもあって180人が3つの分科会に分かれて2時間近く議論しあいました。15分科会を3つに分けたため、多少なじまないところもありましたが、愛媛の底力を感じるような活発な意見が出ていたようです。

若松進一ブログ(第2分科会)
若松進一ブログ(第1分科会)
若松進一ブログ(第3分科会)

 分科会のまとめ発表と、「地域力を高める」をテーマとした鼎談は、全国大会の実行委員長をしていたこともあって私がコーディネーターを務め、私を含めた全日空から宇和島に派遣できている小林詳子さんと鳥取県の地域づくり事務局長の福田京子さんの三人で議論を戦わせました。地域力という新しい概念を解きほぐすところまでは深まりませんでしたが、それでもお二人の巧みな話術に助けられてそれなりに終わってホッとしています。

 夜の交流会も沢山の人が参加してくれました。特に会場を笑いの渦に包んでくれた上灘漁協女性部のみなさんや、全体会場を水仙の花で飾ってくれたふたみ花の会のみなさん、そして双海から沢山の参加者が集まってくれたことは、何よりも増して嬉しい事でした。皆さんに感謝しています。

若松進一ブログ(じゃこ天一座の見事な名演技)

  「応援の 参加出演 花贈り 涙出るほど 嬉し出来事」

  「区切りなく どこが初めで 終わりかも 分らぬままに 二十年越え」

  「腹抱え 笑いながらの 名演技 どこで覚えた こんな芸当」

  「お帰りと 迎えてくれる 家ありて この日一日 どこかしんみり」

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shin-1さんの日記

○新しい出会いを求めて広島への旅に出ます

 今日は早朝から広島へ旅に出ます。日帰りなので帰りは夕方です。雪など降らなければいいがと心配しています。今年一番の冷え込みで、昨日は南国四国でも雪がちらつきました。

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shin-1さんの日記

○勤勉は成功の母

 昨日も今日も、24時間という決められた一日が絶え間なく繰り返されて行きます。その一日の営みをただ漫然と過ごすのと、少しだけ思いを持って過ごすのでは一ヵ月、一年と積み重なると、これはもう大きな違いとなって人生に跳ね返ってくるのです。ささやかな時間でもいいからとにかく想いを持って一つのことを成就し続けたいと、多くの人は気軽に思い気軽に始めるのです。朝早く起きてラジオ体操をしたい、毎日日記や家計簿をつけたい、毎日少しでいいから貯金もしたいなどと誰もが考え行動するのですが、人間の体に住んでいる怠慢な心は、「一日くらい休もう」というネガティブな命令を脳に出して、結局は長続きせずに止めてしまうのです。

 考えてみれば私の少年時代も多分そうだったように思うし、その怠慢な心が今の自分を作ってきたのだと深く反省や諦めもするのです。しかし私は社会人になったころから、その慢心を戒める行動的な人間になりました。人から見れば他愛のないことですが、小さな目標を立て、それを続けて習慣化する訓練をしてみたのです。その一つが自らは発想し深く関わったシーサイド公園という道の駅の海岸掃除でした。このことを思いついた理由は幾つもありますが、「掃除もできない人間はまちづくりを語る資格がない」とある偉い人からいわれた一言でした。掃除くらいなら俺にでもできると思ったのは当然かも知れません。私はその日から毎朝5時に起きてシーサイド公園の人工砂浜に行き、役場へ出勤するまでの一日三時間、掃除をすることにしたのです、しかし一日三時間というけれど、また掃除くらいというけれど、これは大変なことを始めたと、一週間目に早くも心が揺らぎ始めたのです。仲間は「掃除くらいでまちづくりができるものか」とか、「ええ格好をして、今に止めるだろう」と冷ややかな目で見ていました。正直言って多分そうした他人への「何くそ」という反発がなかったら、止めていたかも知れないのです。

 でもその「何くそ」が大きな力となってそのうち肩の力が抜けて、一日三時間の掃除を一年一年と積み重ねて何と十二年間もやったのです。シーサイド公園が成功したかどうかは別として勤勉の積み重ねは私の大きな自信となり、傍目の信用も随分勝ち得ることができ、そのことが私を国土交通省選定「観光カリスマ百選」に選んだのです。これはもう成功といえるもので「勤勉は成功の母」という言葉ぴったりの出来事ではないかと多少胸を張るのです。

 冬の凍てつく寒さの中での海岸清掃は容易ではありませんでした。また夏の海水浴シーズンのゴミも半端な量ではありませんでした。でもネガティブに考えずポジティブに生きた結果私は掃除というかけがえのない行動で大きな自信と信用を得ることができました。

 勤勉、それは誰にでもできそうでできない人間行動の積み重ねです。まさに平凡も続ければ非凡になることを物語っています。これからも続けることに生き甲斐を見出し生きることは勿論ですが、そのような勤勉な人を育てることもしたいものだと思っています。


  「成功を したかどうかは 分からぬが 勤勉だけは 一生懸命」

  「掃除とて 十年以上 続けると 非凡となって 値打ちを作る」

  「平凡と 非凡はほんの 紙一重 たかが掃除で カリスマ認定」

  「砂浜で 雪のちらつく 日もあった 過ぎてしまえば 懐かし日々が」

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shin-1さんの日記

○友人からもらった千代紙の小物

 日本には和文化と呼ぶにふさわしい物が沢山あります。しかしその殆どは知られることもなく忘れ去られていて、多分このままだと廃れていくのではないかと思われるのです。昨日女性の友人に会ったら、それは綺麗な和紙でできた手作りのティッシュペーパー入れをいただきました。私が無造作に背広のポケットからティッシュペーパーを出して口元を拭いているのを見て、「若松さんこれ私が作ったの。使って」と手渡されました。最初はラブレターでは?と思い一瞬ドキッとしましたが、「何だティッシュペーパー入れか」と少し落胆しました。手に取ってみるとこれが千代紙でできているのです。

 私は子どものころ千代紙を見て、「何て綺麗な紙だろう」と、その幾何学模様に不思議な魅力を感じたものでした。しかし凡人の凡人たるゆえんでようか、それ以上の詮索をするでもなく今日まで過ごしてきました。昨日和服を着た友人からティッシュペーパー入れをもらって、再び子どもの頃の思い出が蘇ってきたのです。

 千代紙とは和紙に色々な模様を木版画で色刷りした紙のことで、その発祥の時期は定かではありませんが、京都の公家文化から生まれたことは確かなようです。公家たちは上質な和紙に肉質で模様を描いたり吹きぼかしなどをしたり、木版で模様を刷り込んだりした模様紙を進物の上掛け紙や小物の包み紙にして使っていたようです。そうした風習は江戸時代大奥や大名家に伝わり、江戸でも千代紙が売られ、浮世絵版画の技術が千代紙にも利用されて一気に庶民文化として広がりました。

 何で「千代紙」というのかインターネットで調べてみると、元々千代紙の模様には鶴亀や松竹梅などめでたい柄が多く、長い年月を意味する「千代」というめでたい言葉が使われたという説や、千代田城(江戸城の通称)の大奥で使われたという説、この紙を好んで使った公家の千代姫の名前からとったという説があるようですが、残念ながら分からないそうです。京都で始まり江戸で発展した千代紙は今でも、京千代紙と江戸千代紙の二つの流れがあるようですが、双方の違いは図柄だそうです。京千代紙は染織物のモチーフである草花を基調としたものが中心で、江戸千代紙は江戸の風土から生まれた歌舞伎や芝居、役者紋づくしなども見られるようです。

 和紙でできている千代紙は美しいだけでなく軽くて丈夫なため、姉様人形や小物入れ書物の装丁など使い方も様々です。私は青年の船でアメリカやメキシコへ行きましたが、その折も日本文化を紹介する意味から沢山の千代紙を持って行き、外国人にとても喜ばれました。今は印刷技術の普及によって機械刷りが殆どで、安く手に入るようになりましたが、ラッピングや、箸置き、妻楊枝入れなどに使うと、その場の雰囲気が一気に格調高い日本文化に生まれ変わるのです。

 ティッシュペーパー入れを私にくれた女性は何かにつけてこんな小さな気配りをしていて、妻に見せると先日彼女から千代紙で作った名刺入れと素朴な布地で作った名刺れをいただいていて、箪笥の引き出しから出してくれました。私には「似合いそうもないので」と軽くいなされましたが、いやはや日本にはまだまだ知らない良さがたくさん残っているようです。

  「千代紙で 作ったチリ紙 入れ小物 どこかお洒落で 俺にゃ似合わぬ」

  「千代紙の 模様眺めて アメリカ人 ワンダフルだと 褒めた昔を」

  「千代紙の 模様見てると いつまでも 飽きも足らずに 机上広げて」

  「和文化も このまま廃れ ゆく定め 寂しかりけり 千代というのに」

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shin-1さんの日記

○大学は不思議なところ

 愛媛大学農学部に客員教授として通うようになって1ヶ月半余りが経ちました。慣れない大学は肩ぐるしいと思いきや不可侵の原則があって、用意された実験室のような研究室の部屋に入ると学内とはいいながら完全に他の場所と遮断され、人の気配さえも感じないのです。パソコンを一台用意いただいたので、思いつくままにパソコンで色々な資料を作っていますが、はてさて3月までに成果物を出さなければならないノルマの程度がどんなものかも分からぬ作業に多少不安を感じながらとにかく月曜日と木曜日出勤簿に判を押しに行っているのです。

若松進一ブログ

 本館5階529号室の部屋のドアには事務局の方が用意してくれたのでしょか、いつの間にか表札のような名前が貼り出されていました。「社会人の学び直しニーズ対応教育推進事業・客員教授若松進一・客員准教授山内敏功」と書かれて、この部屋の住人が誰だか分かるようになっているのです。

 昨日は農学部の教授会があって、私は事務局から教授会に出て就任のご挨拶をするよう勧められました。午後2時からの会議の冒頭、泉学部長さんが私の紹介をしていただき、私も軽く自己紹介をして会場を去りました。

学部長さんから「双海の夕日によるまちづくり」や「元双海町教育長」と紹介をされましたが、これはもう過去のことなので、人間牧場主としての活動やその後の私の評価とは少し違っているので、これからは過去よりも今や未来をどう生きるか紹介してもらえるよう頑張って御役に立ちたいと思っています。

 教授会から帰って部屋に入るといきなりドアをノックする人がいました。「どうぞ」というと出会ったこともない初対面の人でした。その人は今治の人らしく「ローカを歩いていると若松進一という」表札が目につきました。ひょっとして夕日で町おこしをしたあの有名な若松さんですか」と持ち上げるのです。何が何だか分からぬまま、まあお座りなさい」といって椅子を用意しました。実は最近この部屋を訪ねて来る来訪者が多くて、事務局の方に椅子を3つばかりご用意いただきたい」と頼んでおいた椅子が昨日のうちに運び込まれていたのです。


 私は「県庁に所用があってこれからら出かけるので」といえば、「私を県庁まで乗せて行って下さい」と頼まれ、見ず知らずの人を乗せて県庁まで送りました。降ってわいたような話や車に乗せることも、まちづくりの世界ではよくある話なので、別に気にも止めませんでしたが、昨日は折から降り出した雨のせいかどんよりしていて、不思議な出会いでした。別れ際「近々今治に来る機会はありませんか。一度あなたの講演を聞きたいのですが」といわれ、「はい、私は2月15日に今治の公会堂で老人クラブの研修会に講演を頼まれていますので出かけます」と話せば、「必ず伺います」といって、雨の中へ消えて行きました。

 大学の構内で先生が殺された話はショッキングな出来事として報道されていますが、確かに大学という所は無防備で不思議な世界です。愛媛大学法文学部にはもう6年間も通っていますが、学内には溢れるばかりの学生がいて、「ああ大学」って感じがしますが、農学部は学生の数も少なく静かな印象です。これからもう少し大学とい不思議なところをウォッチングしてみたいと思っています。


  「私には 縁もゆかりも ない世界 思っていたが 出会い始まる」

  「元の名で 紹介されて 戸惑った 昔の名前 とうに忘れた」

  「不可侵の 世界私に 与えられ パソコン相手 雨の音のみ」

  「椅子欲しい 明くる日部屋に 椅子三つ 届く丁寧 嬉し恥ずかし」 

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shin-1さんの日記

○論に負けても理に勝つ

 私は若いころ、病気になったことが原因で転職を余儀なくされ、それまでやっていた漁師を断念して役場に勤めることになりました。若さにものを言わせて青年団活動に夢中になって夜更かしし、殆ど寝ないまま早朝に出漁するという寝不足と働き過ぎが原因で病気になったのです。役場に入った駆け出しのころは、青年団で培った実践と理論を武器に配属された公民館で、水を得た魚のように思う存分働きました。

 しかし、世の中はそんなに甘くはなく、行く先々で自分の非力を認めざる得ないような出来事に出合いました。それでも一つ一つ、一年一年目の前のハエを追うがごとく努力した結果それなりの成果をお納め、県公連主事部会長になったり、青年の船班長としてアメリカに渡ったりしながら地道な努力を続けた結果、10年目に輝かしい全国表彰を勝ち得ることができたのです。

 私が主事部会長をしていたころ県外研修という制度があって、県下の代表主事さんを引率して、武者修行の旅に出ました。向かった先は静岡県と埼玉県でした。そこで出会った静岡・埼玉の主事さんたちの理論は相当ハイレベルで全員がかかっていっても軽く転がされるほどの落差でした。その当時公民館の世界では東の静岡、西の愛媛と持て囃されていましたし、私たちもある意味胸を張っていたつもりでした。「行動こそ最大の武器」と思っていたのに、彼らは既に「理論と行動の一致」のレベルだったのです。鼻をへし折られた私は帰るとすぐに主事さんたちの頭脳改造に取り組み始めました。いわゆる理論武装です。


 当時愛媛県には条例設置公民館が366館ありましたが、その全ての事業を経営評価することにして調査を試みることにしましたが、これは内容を明らかにされたくない現場の館長さんや主事さんの猛反対に遭いました。それでも説得し実行しました。その結果公民館の②学習や学びの援助事業は相当高いレベルにあったものの①問題を知らせ提起する事業や、③学習の組織化事業、④ボランティア事業などにおいて低いレベルであることが判明したのです。その結果を受け①、③、④の強化に取り組んだ結果、大きな成果を得たのでした。以来愛媛の公民館は理論においても他県に負けない自負が生まれましたが、逆に実践が弱くなるという方向に進んだことは皮肉なことでした。


 理論と論理という言葉があります。理論も論理も同じように聞こえますが、理論は学びで得た知識です。論理は実践から生まれた知恵です。「論」と「理」はどちらがよいかは甲乙つけがたいのですが、私たち実践家から言わせれば、どんな学習から得た知識よりも実践から生まれた論理は勝てると信じているのです。「論に負けても理に勝つ」とはそのことだと思い、これからも実践に意を注ぎ、実践から生まれた論理をしっかりと積み重ねてゆきたいと思っています。

 内よりも増して一番は論にも負けず理に勝つ」ような人間でありたちと思っています。

  「論と理は どちらが勝つか 尋ねられ どちらも大事 両方目指す」

  「実践で 言葉編み出す 生き方を 長年やって やっとここまで」

  「世の中は 上には上の 人ありて 目指せど先は 果てなく続く」

  「希望燃え やった昔が 懐かしい 幼稚だったが 仲間とともに」

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shin-1

○三人寄れば文殊の知恵

 最近になって自分の考えが古いことに時々気がつきます。「今頃になって気がつくようでは遅い」と言われそうですが、特に若い人と話したり行動したりすると気力も体力も行動力もついて行けないばかりか、知識を知恵に変えることすらできないのです。

 私はふたみシーサイド公園を造った折、砂の流れを止める手段として建設省にお願いし65メートルの突堤を造ってもらいました。そしてその突堤に恋人岬という名前を付けたのです。その岬の突端に高さ4メートルのオブジェを作りました。3年間もかかって太陽の沈む方向を見定め、自らが現場監督をして難産の末出来上がったオブジェは春分・秋分の日に穴の中に夕日がすっぽり入る、私の秀作アイデアでした。当時は人気を呼んでいましたし、今もサンセットロマンティッククリスマスなどでイルミネーション装飾を施し若者のデイトスポットとなっているのです。しかしシーサイド公園もオープン以来15年が経過すると目に見えない陰りのようなものを感じるのです。

 若者たちもそのことを感じていて、何かにつけてシーサイド公園の活性化をと意気込むのですが、市町村合併や指定管理者制度などの時代の流れとのギャップ的逆流で苦労しているのが事実なのです。しかし手をこまねいていては何もできないと、若者たちが立ち上がって「恋人の聖地百選」にも選ばれ、その記念イベントも斬新なアイディアで挑戦してくれたおかげで、少し新しい兆しが見え始めてきたようです。

 彼らの手順は私たちと根本的に違っていて、三人寄れば文殊の知恵的な発想で、様々なネットワークを使って新しい発想を生もうとしているのです。既に第二弾、第三弾のイベントも企画されていて、それがインターネットという新しい情報媒体に乗ってターゲットにしている若者の心をとらえようとしているのです。

 今の若者にはかつての青年団のような地域を場とした出会いの場は皆無です。でもこちらが仕掛けると企画次第で多くの若者がまるで一本釣りのように出会いの場を求めて集まってくるのですから驚きです。

 文殊菩薩は知恵を授ける仏様です。しかしどんな立派な文殊菩薩でも、凡人と言いながら3人の寄せ集めた知恵には叶わないほどの値打ちがあるのです。これまでの地域という縛りを中心にしたやり方だけでは人も集まらず、いい企画も生まれないのです。夕焼けコンサートにしろ、恋人企画にしろ、今まで見たこともないような若者がそれぞれの持ち場で働き、トータル的な知恵に発展させて成果を収める手法は、これからの本流かもしれません。いやいや名を連ねて仕方なくやるものからは次につながるものは何も生まれてきません。やりたいからやる。楽しいからやる。そこには輝いて生きてゆきたいという今も昔も変わらぬ人間の本能が見え隠れするのです。

 時代は変わっているのに変わっていないことがいっぱいあります。私たちはそれを変えてはならないことと勘違いしていたことがいっぱいあるようです。時代は変わった。でも「三人寄れば文殊の知恵」という故事ことわざはむしろ新しい教えとして今に蘇らせててゆきたいものです。


  「変えちゃダメ 何をそんなに こだわるの 俺らの出番 既に終わりて」

  「変わっても 変わらぬ教え 蘇る やり方ひとつ 地域元気に」

  「変わらぬは 行政それに 古き人 任せてご覧 上手くいくはず」

  「何のため そこが一番 大事です 金がなくても 文殊の知恵で」

 

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shin-1さんの日記

○人間等高線

 詳しい地形に関する地図を見ると同じ高さを示す等高線が幾重にも薄い線で描かれています。科学万能な現代ならいざしらず、昔はこんな等高線をどのようにして調べて地図上に落としたのか今でも不思議に思うのです。伊能忠敬が全国を歩いて測量して日本地図を作った話は子どものころによく聞きましたし、その伊能忠敬が伊予市の宮内邸に逗留した話を聞くたびに、日本の先人たちの心理を追求し続けた姿に深い感動を覚えるのです。

 さてそんな等高線を地図上でたどると、やはり日本で一番高い山は富士山で3776メートルのようです。私もこの山に何度か登りましたが、等高線が高くなるに従って植生が違っていることに気付くのです。青木ヶ原樹海のように人の進入を拒む樹海から始まり、だんだん植物の姿が限られるようになり、砂走り以上には植物も生えない厳しい自然があるようです。

 人間が作った建物で高いのはご存じ337メートルの東京タワーですが、私が知らないだけで東京タワーより高い建物があるのかも知れませんが、まあ人間が人工的に作る建物は、地震の多い日本であれば、富士山の高さの10分の1が限界のようです。

 さて人間はというと、どちらかというと国際的には背丈が高くない日本人はいくら高いといってもせいぜい2メートルが限界のようで、富士山や東京タワーに比べてもいかにちっぽけな存在であるかがよく分かるのです。

 日本には1憶2千万人程の人が暮らしていますが、その殆どは背丈が2メートル、つまり2メートル以下の視覚で二つの眼を以て物を見ているのです。その人たちは住む場所も置かれている立場も違って人さまざまなようですが、人間にも等高線のようなレベルがあって、そのレベルにあった人と付き合って生きているようです。私はこれを愚かながら「人間等高線」と考えています。人間等高線には知能、職域、地域、文化、遊び、活動など色々なジャンルがあって人間等高線が同じような人と出会ったり行動を共にしたりしているのです。つまり人間等高線という目に見えない高さが人と人との付き合いを決めてゆくのです。パチンコの好きな人はパチンコの好きな仲間ができます。パソコンが得意な人はパソコンを使って人間等高線の同じような人と仲間になるのですから不思議な話です。


 私は田舎に住みながら意外と人との出会いが広く、様々なコンテンツを持っています。リタイアした元役場職員ですから、普通はリタイアと同時に職場で得たコンテンツが閉ざされる、と急速に遠心力と求心力を失っていくのでしょうが、何故か新たな人間等高線が生まれ、遠心力も求心力も増しつつあると思うのです。

 その一つが大学です。私にとって大学は正直縁遠い場所でした。社会教育もまちづくりも沢山の大学関係者のご指導を得ましたが、それでも人間等高線には成長しませんでした。ところが大学の非常勤講師をするようになって少しずつ人間等高線が生まれつつあるのです。これは私にとって未体験、未開拓の分野であって、少し自分の違った社会が近づいた感じがするのです。

 「もうここまで」と自分の人間等高線の高さや低さを決めると、その等高線の中でしか人とも出会えず、自らの進化も望めないので、西日本の最高峰石鎚山ほどまではいかなくても、双海町の最高峰壺神山くらいは目指したいものと思っている今日この頃です。


  「人間も 地図と同じく 等高線 同じ高さの 人と群れゆく」

  「はて俺は どれ程高さ あるものか 自分の高さ 人しか分からず」

  「様々な 高さの違う コンテンツ 複数持てる 人が幸せ」

  「凄いなあ 眺め溜息 出てた人 同類になり 少し身近に」 

 

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