shin-1さんの日記

○いよいよわが家も年末です

 北海道に住む友人に笑われましたが、今朝は殊の外寒い朝でした。外気温は5度前後のようですが、強風波浪注意報が発令され昨夜から吹き始めた北西の季節風が顔に当たり、寒さをより一層強く感じました。今朝は金曜日、ゴミ出しの日です。朝忙しく振舞う妻に替わって殊勝にも私がゴミを出しに行きました。年末ということでどの家庭でも大掃除などをしているのか、日頃の量以上のゴミが集まっていました。わが家でも2袋あって、集積場までは100メートルもあるので倉庫から一輪車リヤカーを取り出し積んで運びました。ゴミ袋が有料化されてからは幾分かゴミの量が減ったように思っていましたが、今朝のゴミの量を見ると喉元過ぎて熱さ忘れたような感じでした。今朝はゴミの日と同時にペットボトル回収の日でもあります。ペットボトルはラベルと蓋をプラゴミとして出し、容器は水洗いをして透明な袋に入れて役場の裏の駐車場横に作られた灘町区専用の沖間に持って行くのです。わが家は子どもが独立して外へ出ているためペットボトルといえば、私が講演先や会議出席の折貰うお茶くらいなものなので、2ヶ月貯めても2~30本程度ですが、一緒にゴミ出しに来ていた若い人は、透明な袋を山のように積んで持ってきていました。これも年代の差なのでしょう。

 ゴミを出し終え食事をしていると親父が病院へ連れて行ってほしいと頼みに来ました。親父は7キロ先の診療所へ90歳になった今でも診察してもらいに自転車で出かけるのですが、今日は北西の季節風の風上に向かって自転車をこぐのがきついと判断したのでしょう。自分の自転車をトラックの荷台に積んで行き、帰りは追い風を受けて帰る予定のようでした。親父と自転車を診療祖に降ろした私は、年末でお墓掃除に行く時に必要なシキビを人間牧場の畑に取りに行くことにしました。先日も人間牧場周辺ではキジやイノシシを追って猟をするハンターに出会いましたが、今朝もそれらしき人を見かけました。2~3日前の新聞によるとわが町で狩猟中に手負いのイノシシに襲われ牙が腹に刺さってなくなったそうです。亡くなった人は双海町出身の松山に住んでいた畳屋さんで、わが家の畳も全てその人に作ってもらった経緯があり、おしい人を亡くしたものだと思いました。

 シキビは親父の注文によるもので、正月用だから少し多めにとのことだったので、5メートルを超えるシキビの木に登って真梢の恰好の好いのを二束切ってトラックに積み持ち帰り、バケツに水を張って水揚げをしました。そうするうちに親父は10時過ぎ7キロの道のりを自転車をこいで元気に帰ってきました。薬をもらったと元気な姿で帰って一安心です。

 さて年末までにしなければならないことは年賀状の整理と、お飾り作り、それに家の全ての窓拭きとかなり大仕事が待ち受けています。今日は年賀状を何とか片づけ裏白山草を取りに行こうと思っています。印刷屋さんから送られてきた600枚の年賀状を前に、ただただ気の思い一日になりそうです。


  「風邪ひいて 少し気分が 優れない やるべきことは 山ほどあるのに」

  「ここにきて 疲れ出たのか アクセルを 踏めど動かず 気分イライラ」

  「とりあえず 年賀状だけ 片づけて 妻のセリフに 後押しされつ」

  「九十の 親父の方が 元気とは これまた不思議 弱虫野郎」

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shin-1さんの日記

〇愛媛大学農学部で始まった新たな一歩

 辞令が手元に届いていないのでまだ何ともいえませんが、愛媛大学農学部での仕事がいよいよ本格的に始まりました。学部長さんや担当の先生、それに事務方との水面下での打ち合わせのため、何度か大学に足を運びましたが、前日担当の事務方から「出勤簿の準備ができた」担当の先生から「部屋の準備ができた」とメールにて連絡が入り、早速昨日は大学へ出かけて行きました。

 学内に入りトイレを済ませて出た所で事務係長さんとばったり出会い、男時ともいえる幸先の良いスタートにホッとしました。事務所で出勤簿に押印しましたが、私の出勤日はとりあえず来年3月までの年度内は毎週月曜日と木曜日ということになりました。法文学部での授業は1月19日(月曜日)1回を残すのみとなっているので、ダブらないと思ったからです。事務係長さんに連れられてメールで指示のあった事務方の人に用意していただいたという部屋へ連れて行ってもらいました。

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 部屋は5階の529号室です。部屋には研究室の小さな看板がかかっていました。戸を開けると中はまさに研究室で、コンクリートの備え付け流し台があり、私のために急きょどこかの部屋から持ってきたような机と椅子が二組置かれていました。察するに誰かもう一人の人と共用になるような予感です。私の机の上には真新しいパソコンがメールで指示通り置かれていました。

 「今日からこの部屋を使ってください。今日は部屋の下見だけということでしたので、まだ着替え用のロッカーの用意もできていませんが、早々に準備する予定です。事務用品など必要なものはお申し付けください。エアコンはこのような使い方で・・・」と、一通り説明をしてその方は立ち去りました。別れ際「これがこの部屋のキーです。このキーは先生にお預けしますのでこれからはご自由にお使い下さい。なのこの部屋のある本館も来年6月からは耐震補強工事の予算が付きましたので、移転しなければなりませんので前もってお話ししておきます」と付け加えられました。

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 部屋は広いもののにわか作りの配線が無造作に張り巡らされ、どこかからネズミでも出そうな雰囲気ですが、本館5階のこの部屋から窓越しに見える風景は素晴らしく、松山市郊外の落ち着いた師走の雰囲気が手に取るように見えました。

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 椅子に座って机に向かいました。パソコンは明日から使用可能といわれているので開けることもなく、傍に置かれた使用説明書を机の引出しに入れました。持参した木になるカバンを開け、中から来年の予定表を取り出し、3月までの月曜日と木曜日の前に小さな○印を付けました。この○印がとりあえず3か月間の出勤日となるのです。3月までは私がやることは、来年度から始まる「地域マネジメントスキル習得講座」のプログラム開発やシラバスを作成するのです。


 はてさて、研究室までいただいて、浅学非才な私にその重責が果たせるかどうか心配しきりです。でもこれまでのような肩肘を張らず謙虚に、しかも冒険心を持ってやれば何とかなるかも知れないと、淡い期待を小さな部屋の片隅で自分に言い聞かせました。

 とりあえずやみくもにスタートした降ってわいたような仕事に戸惑いながら今年の師走もどうやら終わりそうです。不思議なもので少し風邪気味だったのにこのことがあって病は気からのように少し元気になりました。

  「大学に 一部屋俺の 居場所でき ない知恵絞る 愚か日々来る」

  「人生は 何処でどうなる 迷い道 行き先さえも 分からぬままに」

  「あの時も 何とかなった 今回も 何とかなるさ そんな気持ちで」

  「ふんどしを しめてかかろう 思ったが ふんどしなくて パンツで御免」

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〇名刺の山

 この一年間で、私が名刺交換した人は一体どれくらいでしょうか。名刺を置いた書棚の一角にはいただいた名刺が無造作にあふれんばかりに積まれています。今年は全国大会などのイベントが沢山あったせいか昨年よりはるかに多いようです。それもそのはず、私は地域づくり団体交流研修全国大会のPR用にと事務局に作ってもらった千枚の名刺を約7か月間で全国に配ったのですから、その見返り貰った量だけでも相当なものなのです。

 昨日は年賀状用にその中から分類して寄り分けて新しいパソコンソフトに慣れない手つきで入力しました。年賀状の作製はでいているのに、あて名書きがまだこの時期になってもできていないという体たらくに、自分ながら嫌気がさすのです。

 そこで来年から名刺に交換した日付を入れ、順番に置くよう少し名刺の整理の仕方を考えて見ようと思っています。そうすれば貰った日付とカレンダーが一致して覚えやすいのです。しかしリタイアした私がリアイア後4年経った今も現職時代と同じようにこれほど多くの名刺を交換できていることは、一種の驚嘆に値することなのです。もうそろそろと自分の荷物の重さを感じながら、またその荷物を軽くしようと思いながらそのままでいる自分の踏ん切りの悪さも感じているのです。名刺の整理より自分の身辺の整理が先だと今年一年を総括した次第です。

 名刺をめくりながら、出会った人、訪ねた町を思い出しながら一年を振り返ってみましたが、今年もいい人に沢山巡り合いました。始めて出会った人もいれば、久しぶりに出会った懐かしい人など様々ですが、名刺を貰った殆どの人とはもう二度と会えないのですから、不思議なご縁とかいいようがないのです。

 名刺は人を紹介する広告塔のようなもので、役所に人の無機質な名刺を除けばその人の思いが込められていて中々楽しいものです。中には私のように似顔絵をあしらったり、町の風景写真や自分の顔写真を入れているものもあります。また最近はパソコンの技術が進んで自分で手作りの名刺を作っていたり様々です。

 先日、馬路村の木下さんが私のためにスクラッチシールを張った手作り名刺を30枚送ってくれました。木下さんはわが年輪塾の塾生でいいということは即行動に移す積極派人間で、これまでにも色々な私のアドバイスにも耳を傾ける人なのです。この名刺もそうした行動の表れでしょうが、こうしたチャレンジ精神が新しいライフスタイルを作って行くのです。せっかくもらった名刺なので木下さんの話をしながら全国に配りました。

 たかが名刺一枚、されど名刺一枚です。これからも名刺一枚に思いや願いを込めて生きてゆきたいものです。

  「この一年 貰った名刺 多過ぎて どれが誰だか 名前混同」

  「この名刺 一つ一つに 人の手の 温もり感じ めくり読みする」

  「もう二度と 会うことのない 人もいる 何処でどうして 過ごしているやら」

  「北の国 南の町とそれぞれに 地域売り出す 想いの名刺」 

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〇ささやかなクリスマスイブ

 昨夜は孫と妻と私の3人でささやかなクリスマスイブを楽しみました。妻が仕事から帰った午後5時半、早々に親父の夕食の準備をして夜の街へお出かけです。孫にとっては度々のクリスマス会が重なっているし、クリスマスプレゼントも沢山いただいているので、少しや破れ始めたシューズが欲しいとのことでした。加えてゲームもちょっとしたいということで、孫は手頃で身近な場所である伊予市のフジをリクエストしました。来年からピカピカの一年生になる孫はもう聞き分けもよく、私たちたち夫婦との会話もできて大助かりです。

 街のあちこちにはクリスマスを祝うイルミネーションが一層輝きを増して私たちをホットな気持ちにさせてくれました。富士に到着すると孫は迷わず2階のおもちゃコーナーへ一直線です。おもちゃ売り場は子どもたちが大勢集まり、私たちと同じようにおじいちゃんやおばあちゃんもプレゼントの品定めをしていましたが、もうクリスマスのプレゼントを既に渡しているのでしょうか、思ったより少なめでした。孫は妻から100円硬貨を貰い、ゲーム機でカードゲームを始めました。カードが出てきて孫は得意顔です。ゲームの理解ができるのかな?と思って傍でみていましたが、案外上手に遊ぶのに驚きました。私などはこんな直感的スピードにはつて行けないのです。

 靴は孫と妻が相談して決めました。子どもの靴などそんなに高くはないだろうと思っていましたが、どうしてどうして、キャラクターがついているので、一緒に買った私の靴よりはるかに高いのです。孫は得意顔でささやかながらいいクリスマスプレゼントができました。食事をしようと近くのレストランに入りました。本当はそばの好きな孫のためにそば吉へ行く予定でしたが、てっとり早い場所を選んだのです。

 私と妻は最近全く別なものを頼んで、二人で半分分けして食べるよう心がけているので、セットメニューを注文しました。孫はお子様系のランチを注文です。店の中はまだ6時過ぎだというの客足も殆どなく、別の客が一組だけという寂しさでした。それでも料理はおいしく孫は籠の中から小物のプレゼントをもらってご満悦でした。


 7時直ぐにわが家へ帰り、孫は早速お母さんに電話して靴をプレゼントしてもらったことを楽しそうに話していました。普通であればクリスマスケーキといったところでしょうが、ケーキはこの数日沢山食べたようなのでなしです。少し軽めの果物と少し風邪気味な私のためにポカリスエットで乾杯し、テレビを見ながらクリスマスイブを締めくくりました。

 孫と一緒に風呂に入り、寝るのも「おじいいちゃんが大好き。男同士」などと泣かせる言葉につられて、早めに床につきました。孫と一緒に寝るとまるで湯たんぽを抱いて寝ているようにポカポカとして温かいです。私は寝る前に孫のリクエストに応えて幻の怪獣という創作物語をはなしてやりました。楽しそうに聞きながら夢の世界へ旅立ちました。今日は予定していたイチゴ狩りこそできなかったものの、翠小学校の校長室へお邪魔して、忙しい校長先生に遊び道具で遊んでもらったり、シーサイド公園のじゃこ天のおばちゃんにチョコレートを貰ったりと、孫にとっては楽しい一日となりました。

  「クリスマス イブを三人 楽しんで 満足孫を 湯たんぽ代わり」

  「いつの間に 大きくなった 孫の足 靴のサイズに 妻は驚き」

  「俺の靴 孫の靴より 安いとは 価値観変わり 戸惑うばかり」

  「孫後ろ まるで金魚の 糞のよう 一日中も うろちょろ嬉し」

 

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〇子どもから大人へ

 人間は必ず子どもという時代を経て大人になります。私たちが子どもの頃は食べるものにさえ事欠く戦後の物のない時代でしたから、子ども時代は中学校3年生くらいまでだったと記憶しています。半ズボンが中学生になると長ズボンに変わったときは、少しお兄ちゃんになったような錯覚を持ちましたが、それでもまだ気分は子どものままでした。田舎には子ども会という子ども自身が運営する組織があって、年下の子供たちの面倒を見る時は大人の真似をして、どこか大人の仲間入りをしたような振る舞いをしたものです。

 私が子供時代を卒業したと思い込んだのは、中学校を出て愛媛県立宇和島水産高校へ親元を離れて進学した時でした。これまで殆ど親元を離れたことのなかった私が、いきなり違う世界へ飛び込んだのです。今思えば宇和島も田舎の街なのにお城をいただく宇和島の街がどことなく都会に見えたのです。本屋や楽器店などが軒を連ねた袋町商店街はまるで夢の世界だったし、映画館の看板にはあこがれのスターたちが描かれていたのです。私は完全に子ども時代を卒業していましたが、残念なことに男子生徒しかいない高校だったので恋をする機会を逸しました。それでも親のいないことをいいことに中学校の女性同級生と手紙を交換したりしながら穏やかな3年間の青春時代を過ごしました。

 私にはもうひとつ自分が飛躍したと感じる出来事がありました。それは水産高校漁業科では3年生になると実習船えひめ丸に乗船して遠洋航海に出なければならないのです。僅か214.5tの船に乗って太平洋に乗り出すことはもう未知の世界で、珊瑚海までの往復やマグロはえ縄漁、イギリス領サント島への寄港などは私の人生に大きな影響を与え、子ども時代後を完全に卒業したのでした。


 現代の子供が子ども時代を終えるのは大学進学だといわれています。それは鳥の世界と同じで、古巣を飛び立ち大空を舞いながら自分で餌を探さなければ生きていけない行動ができることなのです。モラトリアム人間といわれるように、大人になれない子どもが多いのも事実で、少年犯罪の殆どは子ども時代の育ち方に問題があるのかも知れません。子どもらしい子ども時代を過ごした人間しかいい大人になれないのだとしたら、もっといい子どもらしい子ども時代を過ごさせてやることが大事です。時代は変わっても子どもは人の心の温かさや自然からの学びなど案外不易なことに感動するものです。もう一度子どもの育て方を考えてみたいものです。

  「いい子ども いい大人への 登竜門 育てる基本 変えてはならぬ」

  「今の子は 子どものころに パソコンを 知ってはいるが 知らぬことあり」

  「人間は 今も昔も そんなには 変わらぬものと 心得育て」

  「もう一度 子育てしたい 思っても 後の祭りだ 孫に託すか」

 

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〇サンセットロマンティッククリスマス

 昨日は幼稚園が冬休みになったの孫朋樹がわが家へ泊りに来るので迎えに行きました。師走の国道は松前町の商業施設エミフルへ行く車で、お昼ころだというのに少し混んでいました。最近は片側2車線の国道56号線も重信橋辺りまで混んで、余裕を持って早めに出なければ時間が読めないほど混雑するのです。

 着替えをバッグに入れて出かけようとうすると、1歳半の孫尚樹もお兄ちゃんと一緒に行きたいような心境で、困ってしまいました。孫はまだ昼食を済ませていなかったので、どこかで食べようと思っていましたが、マクドナルドのハッピーセットというのが欲しいらしく、松前町と伊予市の境目付近にあるドライブスルーの店に立ち寄り、店内に入って注文しました。私などは孫と一緒以外にはこんな店に入ることは殆どないので買い方さえまごまごですが、そこは心得た孫のこと、ハッピーセットとダブルバーがを注文しました。ファストフーズの店は若い人で混雑していましたが待ち時間も殆どなく、1050円を払って席に着きました。さてどちらを私が食べるのかなと思いきや、朋樹は二つとも自分で食べる算段で注文したらしく、おまけに貰ったおもちゃをいじりながらぱくつくのです。あっけにとられて見ていましたが、まあ凄い食欲で、あっという間に二つとも平らげてしまいました。私はフライドポテトを少々いただいた程度なのです。

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 双海町へ帰ると町内を子どもが沢山歩いていました。「そうか、今日は3時からクリスマス行事があるのか」と思い出し、車を灘町集会所近くの駐車場に止めて、孫と一緒に歩いて行きました。まだ2時40分だというのに子どもを同伴した両親や祖父母の列は、恋人岬の突端を越えて砂浜にまで伸びていました。顔見知りの人も沢山いて世間話に花を咲かせながら列の中へ入って待ちました。昨日は前日からの北西の風が収まらず、パラグライダーに乗ってサンタやトナカイが空からやってくるという奇抜なイベントは出来そうもないとと思っていましたが、偶然にも風が少し治まり、ランディング場からパラグライダーが5基飛び上ったのが肉眼で確認できました。

 このイベントも私が現職ごろに始めたもので、もう10年を超えて受け継がれていますが、当初はNHKの全国ニュースに出るなど注目を集めていましたが、参加人数は衰えることなく子どもたちに夢を与えているようです。

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 やがて風に乗ったパラグライダーがシーサイド公園上空に到着し、空中をぐるぐる回ってデモンストレーションをやりました。参加者たちは一応に天を仰ぎトナカイやサンタに扮したライダーが着地するのを待ちました。ライダーは代表の高木さんはじめベテランでお馴染の面々だけに着地もバッチリで、みんな大喜びでした。

 はてさて用意したプレゼントは600個を超えていたそうですが、主催者は余りの多さに大慌てして追加に走っていたようです。600人の子どもに600人以上の付き添いが付くのですから、長蛇の列は西側砂浜の西突堤まで伸びていました。お菓子を貰った孫も嬉しそうで、いいクリスマスプレゼントができたようです。

 孫と長蛇の列に加わりながら、シーサイド公園を整備したり運営した12年間の思い出がふと蘇ってきました。もうそれらの思い出はすっかり過去のものになりましたが、私の青春の履歴書にはしっかりと刻みこまれているのです。これからも人の想いや物語を加え発展してほしいと願いながらシーサイド公園を後にしました。


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  「大空を 飛んでサンタが やって来た 夢のようだが 粋なイベント」

  「ハンバーガー 二個も平らげ 澄まし顔 来年一年 大きく成長」

  「身ぶるいを するほど寒い 砂浜で 十二年間も 掃除したとは」

  「ここでしか できないことが オンリーワン そうすりゃ自然 人が集まる」



 

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〇仕事やめ 毛が抜け歯が抜け 気が抜けた(梶原芳之)

 今朝、台所の食卓で新聞を読みながら食事をしていて、妻と思わず大笑いをしてしまいました。私は新聞を一面から最後まで目を通して読みますが、役所を離れたせいもあって、かつてのように政治面や社会面を深く読み、考えたりすることが少なくなり、代わって文化面に事前と目が行くのです。近頃の文化面は案外充実していて人生の悲喜こもごもが載っていて結構参考になる記事が多いのです。そんな文化面に時々川柳が載っています。私の友人の中には川柳を楽しむ人が何人か投稿していて、知った人の名前を見つけるとまるで自分のことのように思ってその作品を、その人との出会いなどを話しながら妻に読み聞かせてやるのです。

 今日の一押しは「俳句」と「歯いく」をもじった川柳でした。「倦怠期 歯の間にも すきま風」(小池敏通)と、「仕事やめ 毛が抜け歯が抜け 気が抜けた」(梶原芳之)という川柳はまさに真髄をついた秀作と思いました。特に梶原さんの川柳には歯医者に勤めている妻だけに殊の外気に入ったようでした。

 毛が抜けるのは人によってばらつきがありますが、どうも遺伝ではないかと、私の親友の顔を思いだしながら思うのです。彼の親父は学校の校長先生を最後に退職されましたが、私が出会った頃から髪の毛がうすく、酒を飲むたびに「お前も親父のようになるかも知れない」と頭のうすさを酒の肴にして冷やかし呑んでいました。その頃彼の頭はふさふさで、私も周りもまして本人もまさか親父のようになるとは思ってもいなかったのです。ところがまだ若いのに次第にうすくなり、定年を来春に控えた今ではまったく親父と瓜二つになっているのです。DNAは争えないと思いながら、髪の毛の少なくなることを酒の肴にした浅はかさを深く悔やんでいるのです。彼は元気者で禿を逆手に取って「禿の哲学」なるものを堂々と唱えているので幾分救われた感じもするのです。

 毛と同様歯も年齢とともに衰えてきます。歯や目や足腰は若いころのように栄養分が行き届かなくなるのか加齢とともに衰えてゆきます。歯医者に勤める妻の話だと最近は年齢に関係なく若い人でも総入れ歯の人もいるほどで、そこいら辺がまだ元気な私は若さを保っていると思え、上部に産んでくれた今は亡き母親に感謝するのです。それでもふと歩いている自分の姿が街角のショウウインドウに映った姿を見て、ハッと驚くのです。胸を張って元気良く歩いているように思っていた自分の姿は完全に前屈みで背中が曲がって見えました。これはいかんと思いながら、毎日自分の姿を背筋を伸ばして歩くよう意識しているのです。これだけでも「若松さん、若く見えますね」とお世辞を言ってくれるのです。私は朝起きると隠居へ親父の息災を確かめに行きますが、その折鉄棒にすがるよう心がけています。お陰で今年は腰痛に悩まされる回数も減ったようだと自負しています。

 私はもう若くありません。でも若くありといという願望を持って挑戦し続ければ、老化の速度を遅くすることはできると信じています。

  「若いのね お世辞を言われ おどけ言う 歳を取っても 若松だから」

  「川柳を 聞かせて笑う 人ごとと 棚に上げたる 自分のことは」

  「抜けようが 暮らしに困る ことはない シャンプー代が 助かる思え」

  「歯は大事 食事の度に 妻が言う 歯医者務めて そのこと学ぶ」 

 

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shin-1さんの日記

〇今年最後の授業を終えて

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科での今年最後の授業に出かけました。私が非常勤講師として大学で授業をするようになって早くも6年が経過しました。最初は自分のコンテンツの領域を広げるくらいの、簡単な気持ちで請われるまま始めましたが、あっという間に6年が過ぎたという感じです。昨年までは主に夜間主の学生を相手にしていましたが今年から昼間主に代わり、毎週月曜日、4時限目の14時40分から90分間講義をするのです。他の学部や学生がどんな感じか分かりませんが、少なくとも私の教室の学生は真面目で、出席、授業態度など、どれをとっても満足のいくもので、安心して授業を行うことができました。

 私にとってこの一年の授業は、授業日が月曜日ということもあって、講演やイベントが土日に集中しているため最初はいい曜日で楽勝と思っていましたが、月曜日は祝日の振り替え休日が多く日程的にかなり組み立てが難しく、本来なら年末に終わっているはずの授業が、来春に一回だけずれ込んでしまいました。でも1月19日は発表会なので、本格的な授業は作日が最後だったのです。

 6年間見慣れた文京町の大学キャンバス構内にあるケヤキ並木も殆ど葉を落とし、冬の季節風が梢を揺らしていました。大学の建物は耐震工事のために足場で覆われ、高いクレーンが何度も建築資材を吊り上げて作業をしていました。駐車場敷地にはプレハブの工事事務所が立ち並び、工事関係者がせわしそうに働いていました。

 法文学部の事務局が工事の関係で本館に移って一年が経とうとしています。元々事務局へ顔を出すのは授業日に出勤簿に押印するの、授業に使うレジュメや資料をコピーするため顔を出す程度なので、担当者以外とは殆ど口をきくこともなく、機械的な作業のようです。まあ不可侵状態とでも言うべきか大学とはこんなものと認識した6年でした。はてさて来年はどうしようかと思案しています。既に担当の丹下先生から来年もとお誘いを受けていますが、農学部での授業のこともあるし、年内いっぱいで結論を出さなければならないようです。

 この6年間、前半の2年間は教育長をしながら大学に通ったため、目まぐるし忙しさでした。しかし小さいながらも町の教育行政トップとして教育行政を組み立てていく上で大学での授業は大いに参考になり、いささかの恩返しができたように思うのです。合併によってリタイアしたした後半の4年間はそのことに没頭するほどの余裕もなく、少し惰性で動いていた感も否めませんが、それでも夜間主と昼間主をそれぞれ担当し、いい意味での勉強ができました。

 反面教師とでもいうのでしょうか、出会った学生からは有形無形の若者文化を肌で感じさせてもらいました。この年齢になると若者社会のことに疎くなるのは当然のことなのですが、まるで吸い取り紙のようにしたたかにさりげなく吸収させてもらいました。ひょっとしたら一番学んだのは学生ではなく私だったのではないかと思うのです。

 正月休みに少し精神の整理をして、もし講師を引き受けるとすれば来年は新しい気持ちで学生たちに向かい合いたいと思った最後の授業でした。

 学生たちは正月休みに採点用のレポート提出をお願いしています。締切は1月10日、どんなレポートが書かれ送られてくるのか楽しみです

  「早いもの あっという間の 六年間 私は何を 教えたのだろう」

  「なるほどな 反面教師と いう言葉 若者文化に 触れて楽しく」

  「先生で ないのに先生 呼ばれてる どこか抵抗 あるにはあるが」

  「夜間から 昼間変わり この一年 月曜度に 授業に出向く」 

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〇進化せず退化する人

 昨日は元町議会議員さんの叙勲祝賀会に招かれ、久しぶりに懐かしい顔々にお会いしました。出席していた人は4年前の合併でその職を失った方々が殆どでしたが、4年という短くも長い日時は老いという重い課題に直面していることを肌でしみじみ感じさせられました。

 町議会議員の職を失った方は老いてもなお口は達者です。現職当時議会で舌戦をまみえたことを懐かしく振り返りながら、昔話に花を咲かせました。私などはそんなことを思い出す余裕もなく日々を過ごしているのですが、暇となった議員さんたちは昔を懐かしみ、「あのときこんな質問をして、地域振興課長だったお前はこんな答弁をした」などと克明に覚えているのです。

 しかし、そんな元議員さんや元役場職員も政治や経済などの世俗と縁を切ったように思える今の暮らしからは、肝心な今の世の中の情報には疎いと感じずにはいられませんでした。ある元役場職員との会話は主に私の日々の暮らしへの質問でした。「お前は忙しそうに毎日過ごしているようだが、何で飯を食っているのか」と、まるで貧乏な私を見下したような言い方をする人もいれば、「お前は口先だけで弁当箱も要らず飯が食えるのだからいいのう」と、これまた私が評論家のようだと揶揄するのです。

 私は少し腹にすえかねたので「飯を食うのは茶碗と箸で食ってます」ととぼけおどけてみせりました。リタイアして以来定職を持たないサンデー毎日の私が人の前で大ぼらを吹いて全国を歩き、霞を喰って生きているように見えるのは気に入らないのかも知れません。でも私だって3年半前に教育長という職を皆さんと同じように合併によって失職しましたが、あれから3年半の私の努力は進化は、学問や知識がないだけに相当努力したつもりです。多分集まった元議員さんや元役場職員の中では最も学習を積んだと自負するのです。元議員や元役場職員という肩書で飯が食えるほど世の中は甘いものではありません。それ相応の努力なしで生きれるものではないのです。

 80歳の年齢を超え老域に達した元役場職員と話していて気が付きました。その人はインターネットもやらずある意味古い型の人間です。今でも原稿は鉛筆を削り消しゴムで敬しては書くような素朴な人ですが、その人にもその人の人生があるものの、私たちと情報という世界においては少し次元が違うような印象でした。昨日の新聞にシニア向けサイト「自悠くらぶ」の広告記事が出ていたのを見つけたそうです。「自悠くらぶ」とは一体何か、シニア向けサイトとはなどなど、いくら説明してもチンプンカンでした。最後は「お前は偉い。学校で習ったこともないパソコンを独学でマスターしたのだから」と持ち上げてくれましたが、これほど溢れた情報の中で暮らしていると、彼のようにインターネットなどの煩わしい情報に惑わされず生きれる道を選んで生きることも得策かも知れません。しかしそれでは若い世代とコミュニケーションがとれないことも事実です。

 彼がぼそりとぼやく「今では情報も少なくなり、人と出会うことも少なくなった。このままだとおじ捨て山だ」という言葉は、私のこれからの生き方に大きなアドバイスだったように思うのです。つまり人間は情報と人間に出会わなければ退化するということです。と同時にリタイアしてからこの3年半、情報を求め人を求めて生きてきた進化の生き方がこれからの生き方でもあるのです。いい生き方、いい進化をしようと心に誓いました。


  「何で飯 食ってる言うから 茶碗箸 まるで落伍だ 座布団一枚」

  「弁当も 持たず口先 飯を食う 俺を見下し ある人曰く」

  「進化止め 退化の道を ひたすらに 生きてる人の 多いびっくり」

  「元などと 名乗ってみても 誰ひとり 偉い人だと 思う人なし」

  

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〇冬至かぼちゃにユズ湯

 昨日は一年中で最も昼が短く夜が長~い一日といわれる冬至でした。暦の説明には「二十四節気の一つ。旧暦11月子の月の中気で、新暦の12月22日~23日頃。太陽の黄経が270度に達し、冬至線の上に直射するときである。」と書いています。この説明を読んでもピンとこないため注釈を読んでみると、「この日、北半球では太陽の高さが一年中で最も低くなります。そのため昼が一年中で一番短く、夜が長くなります。この日を境に一陽来復、日脚は徐々に伸びてきます。」と付け加えていて納得するのです。でもまだ納得できないのは、冬至で太陽が最も低くなるのになぜ寒いのか、また今日から陽が長くなるのになぜ寒いのかという暦と日常気象のずれの説明がなされていないのです。気象予報士が「暦の上では・・・・」といつも注釈を付ける旧暦と新暦の違いなど、私たち凡人には分からないことばかりなのです。それでも四国愛媛県に住んでいると5時ころに日が暮れて、朝7時ころに夜が明ける今の暮らしよりは、7時半ころに陽が沈み4時半ころに西の空が明るくなる夏至の頃の方がなんぼか暮らしやすいのです。

 昨日は前日に人間牧場で畑の隅をたった一人で開墾した重労働?がたたって、少し風邪気味のようで、気分がすぐれず、咳も少し出ていました。朝10時半から友人の母親が亡くなって葬儀に出かけ、夕方4時からは元町議会議員が旭日双光賞を受賞した叙勲祝賀会に出席し、疲労困憊といったところです。でも家へ帰ってみると妻は冬至のことをちゃんと覚えていて冬至カボチャを煮てくれていました。このカボチャは親父が家の畑で夏の間に収穫して、倉庫の隅に保管していたものです。美味しいカボチャが年中出回る当世なので、正直味はは少し落ちているような感じもしましたが、十分美味しく食べれました。カボチャはこのようにジャガイモやサツマイモ、タマネギとともに保存の効く野菜です。中央アメリカから南アメリカ北部を原産地とするウリ科の植物で日本カボチャと西洋カボチャに大別されますが、日本カボチャは16世紀中ごろポルトガル船によってカンボジアからもたらされ、カボチャの名前はこの時の伝来先に由来していると聞いて「南瓜」も「カボチャ」も納得するのです。さて昨晩食べたカロチンは体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし感染症などに対する抵抗力をつけてくれるそうですが、風邪気味な体に効くかどうか心配です。


  昨日は高知県馬路村の東谷組合長さんから送られてきたユズを風呂に二個いれユズ湯を楽しみました。ユズ湯に入ると美肌効果や冷え性にも効いて体が温まり風邪をひかないともいわれていますが、ひいた風邪には効くのかこれもユズに含まれているビタミンCの効果だそうですが、こんなことぐらいで風邪をひかないようにはなるまいと半信半疑で風呂に入り、二個のユズを妻と二人で体に擦りました。

 さてさて冬至とユズ湯とどんな関係があるのか、それは湯につかって病を治す湯治とかけているようです。5月5日の菖蒲湯もユズ湯と同じ願いかも知れません。

 まあカボチャもユズもその効き目は別として、日本人が編み出したある意味での歳時記なので、これからも大切にしてゆきたいと思った次第です。


  「カボチャ食べ ユズ湯作って 息災を 祈った妻の お陰で元気」

  「ひいた風邪 カボチャユズ湯で 少しずつ 病は気から 快方向かう」

  「夜長く 妻は安眠 するけれど 私眠れず 大きな違い」

  「今日からは 陽脚猫の目 少しずつ 昼の時間が 長くなりぬる」

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