shin-1さんの日記

○栄養学の創始者佐伯矩博士顕彰記念イベント

 今日は朝から小雨が降っていて、下灘地区の文化祭だというのに何となく気の重い朝を迎えました。大体体育の日や文化の日は昔から雨が降らないものと思っていましたが、天気も時代を映す鏡なのでしょうか、少し言い伝えが合わないような気もするのです。

 先日えひめ地域づくり研究会議の運営員会の折、標記の研修会をやる旨のチラシが資料の中に入っていたので、運営員でもある門田眞一さんの関わっているイベントでもあるので久しぶりにプライベートな気分で顔出し参加することにしました。しかし参加して驚いたのは私のようなカジュアルな姿で参加していた人は皆無で、皆さんスーツを着こなし、賑々しいいで立ちの姿を見るにつけ戸惑ってしまいましたが、出席した以上帰るに帰れず忍の一字を貫きつつ大恥をかいてしまいました。妻が言う「背広を着て行ったら間違いない」の諭しの言葉をけったばっかりに、さすが度肝の座った私も面映ゆい感じがしました。追い打ちをかけるように市役所の職員が「若松さん何で来ているの?」と声をかけられ、「興味があったものですから」と答えてしまいました。その人はそんなつもりで言ったのではないのでしょうが、「場違いな場所へ来たもんだ」と深く反省したのです。

 でも勇気を出して出かけてよかったと今はむしろ清々しい気持ちなのです。というのは栄養学という学問も、伊予市に深いつながりのある佐伯矩(ただす)博士のことも今まで全く知らなかったことを知ったのですから、恥は恥として水に流し、今一度人間の命の源である栄養について考えて見たいものだと、いただいた書籍類を少し読み漁りました。

 除幕した碑文には「佐伯矩博士は明治九年旧新居郡氷見村に生まれ、三歳の時。医者であった父卓爾、母シンと共に旧北山崎村本郷に移り住んだ。幼少の頃から学業成績は抜群であり、地元の鹿島小学校、桂小学校に通い郡中高等小学校から松山中学校に進学した。当時はまだ鉄道が開通しておらず、約十五キロの道を毎日徒歩で通学した。

 第三高等学校(現岡山大学)医学部、京都帝国大学医科学教室に進み、その後北里研究所で細菌学や酵素について研究、野口英世とも親交を深めた。三十歳の時、米国エール大学大学院に留学して学位を取得、父の病気のため帰国した。博士は、当時医学の付随分野としか扱われていなかった栄養学の重要性を認識し、帰国後は世界で初めて栄養学の確立をめざして尽力した。大正9年には念願の国立栄養学研究所が開設され、初代所長に任命された。

 また関東大震災による被災者、北海道・東北など凶作地への救済、恵まれない幼少年に対する学校給食など、社会に対する食育の実地指導によって栄養への関心と普及に努めた。更に更に大正十三年には、専門家を養成するために佐伯栄養学校をを創立し、多くの栄養士を世に送り出した。博士は、当時使われていた「営養」の語を健康増進の意味を込めて「栄養」に改定することを文部省に進言、大正9年からは「栄養」が公用語となり今日に至っている。博士の発想の原点は、少年時代、通学途上にあった栄誉寺の寺号だったと思われる。

 栄養学は佐伯博士によって日本で生まれた学問である。世界の国々は、博士の業績によって今日の興隆をもたらし、今や私達の日常の食生活に多大の恩恵を与えている。昭和三十四年逝去、栄養にささげた一生であった。戒名醍醐院殿榮覺矩堂大居士 墓碑は西条市氷見にある」

                平成二十年十一月三日建立

                            佐伯矩博士五十回忌顕彰碑設立委員会

(栄養寺の山門)
(顕彰碑除幕式)

(顕彰碑)
(50回忌法要と記念講演会)


 記念講演会で合田徳明さん(元愛媛県栄養士会副会長)と柳井一雄さん(東京慈恵会医科大学付属病院栄養部長)のお話を聞きましたが、短い時間ながらためになるお話を聞きました。

  「背広着て 行けと勧める 妻言葉 無視して恥を かきぬるおわか」

  「この歳に なっても未だ 先よめず 修行足りぬと 反省しきり」

  「世の中は 偉い先人 いるものよ お寺の名前 学問にする」

  「栄養の バランス話 聞いたから 今日から少し 食べ方変わる」
 


 

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shin-1さんの日記

○親父の大工仕事

 何日か前、先日全国から仲間を集めて青年の船班長会を松山で催した折使った16ミリフィルムを視聴覚ライブラリーに返しに行くついでに、四国遍路札所のある寺山門近くの骨董屋に立ち寄りました。この店の主人夫妻とは馴染なので、前触れもなくぶらり立ち寄るのですが、ご夫妻は家にいない時が多く空ぶりも時々あるのです。この日も近くまで来たついでにくらいな軽い気持ちで立ち寄りました。人の気配がするのにチャイムを鳴らしても気がつかないのか、中々出てきません。そこで失礼とは思いながら裏の庭先から声をかけつつ中に入ると、ご主人が出てきました。奥さんはあいにく留守でしたが、立ち話をしながら繁雑に置いている骨董を見せてもらいました。私も骨董屋には時々顔を出しますが、この骨董屋は整理が苦手なタイプのようで、1年前に出かけた時も同じような雰囲気でしたから余り品物が動いてないような気もしました。しかし品定めする方は案外こんなお店の方が掘り出し物に出会うことがあるのです。

(屋外に作られつつある室内展示室、今は昔の手動ポンプが展示されている)

 前回出かけた時は汽船に使う霧笛(フォグホーン)を見つけました。今回は小さな木の火鉢が目につき、自分の浅はかな目効きで調べましたが、かなり古いもののようなので少し高いと思いながら小遣いの範囲内なので購入することにしました。ご主人がお礼にと井戸の釣瓶を汲み上げる鉄製滑車をくれました。そこへ奥さんが帰ってきてまた雑談に講じながら大谷焼の壺を値ぶみしました。これも欲しいので買うことにしましたが、残念ながら乗用車には積むことができず、次回トラックで取りに来る約束をして売約済みとしました。

 私は親父と同じく親子二代にわたって骨董品の趣味があります。多分親父の影響でしょうが、そのため家には所狭しと骨董品が置かれているのです。家族からはこの趣味は不評で何年か前、倉庫を改造してそこにまとめて置いたため、家の中はすっきりしました。しかし好きなだけにあれからも幾つか珍しいものが増えて、また置き場が狭くなってしまいました。

 私が骨董品を収集するのは母が亡くなって寂しくなった親父の気慰みのつもりで集めている親孝行のようなものなのです。親父は息子の私が言うのも何ですが、先ほど紹介した骨董屋さんとは違ってかなり綺麗に整理するタイプなので、収集している品物はそんなに高価なものは殆どありませんが、どこか気品があるのです。親父は私が手に入れた骨董品をしっかりと磨き相応の展示をするのです。今回の木製火鉢も取って帰った時とは見違えるほどに手入れをして展示に備えているようです。

 4日ほど前隠居へ行くと親父がこの火鉢の置き場所がないので、屋外の倉庫を改造してそこへ置きたいと唐突にいうのです。余り反対すると血圧が上がってもいけないので、しぶしぶ了解しました。するとどうでしょう。さっさと自転車に乗って近所の金物屋さんに出かけ、材料を運んでもらって着工したのです。

 私はこの4日間、島根県や宇和島市などへ続けて出張をして家を留守にしていました。今朝出帳から帰って倉庫辺りに出かけてみると、なんとまあ、すごい勢いで工事は進んでいるのです。とても90歳とは思えないような仕事ぶりに、家族も近所の人も驚いているようでした。

 妻はこの工事のことを知らないため、「お父さん、おじいちゃんがまた何かを始めたようですが知ってるの。するのはいいが、また足が痛い腰が痛いというと後が大変なので甘い無理をしないように言ってください」といわれました。いくら同じ敷地内に長年住んでいてもそこは義理の嫁と舅の関係です。お互い遠慮もあるのでしょうが、「病気で寝たっきりよりましだから、好きにさせた方がいい」と、やんわり両方の間を取り持ちました。

 あなたは少し体力の衰えを感じる歳なのに、おじいちゃんは果たして何歳まで生きるのかしら。ひょっとしたらおじいちゃんの方が長生きするかも知れない」とは妻の弁です。若くしてガンにかかり一命を取りとめた親父はひょっとしたら100歳以上生きるのかも知れないと思いつつ、妻が心配する自分の体を少し心配するこの頃です。

  「おじいちゃん 何か始めた 知っている 妻の言葉に ついついハッと」

  「歳とって 活き活き生きる 親父見て 俺も気力と 体力つけて」

  「足腰が 痛いといいつ よく動く パンを二枚も 朝食う訳だ」

  「骨董を 集め集めて 資料館 自分が骨董 なってる知らず」


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