shin-1さんの日記

○日本食の枝豆

 今年の夏はわが家の家庭菜園に植えた枝豆がどういう訳か不作で殆ど枯れてしまいました。5月中旬に種をまき発芽は順調だったのですがその後枯れ始めました。親父の話だと枝豆の発芽した芽を野バトがついばんでしまったのではないかというのです。そういえば菜園には近くの林に住む野バトが再々やって来て色々なものを突くのです。手拍子で追い払ったり、鳥おどしをつけても平気でうろつきお手上げの状態です。こんな失敗をくり返さないために来年は網を張ろうと親父と相談していますが、さて明日で90歳になる親父にその体力があるかどうか心配ですが、そろそろ代替わりで私がその任に当らなければならないと、心を引きしめているところです。その親父は今日も元気で、目が薄くなったといいながらも朝から松の剪定に余念がないようです。

 さて野バトの食害にあった早生の枝豆も、残って成長したものを2度ばかり塩湯でして食べましたが、野バトの食害を免れた晩生の枝豆が食べ頃となり、今晩は収穫して食べようと思っています。昔はキリンラガービールの愛飲家だった私はビールのつまみに枝豆を沢山食べました。体の不調でビールを断ったため当然枝豆を食べる回数も量も大幅に激減してしまいました。私は豆腐や納豆などの大豆製品が大好きです。豆腐だと軽く一丁は食べるほど豆腐には目がないのです。当然枝豆も大好物ですが、ビアホールには今年兄弟夫婦で一度行ったきりで、枝豆はその折に鱈腹食べただけなのです。

 昨日は孫が大和屋のビアホールへ夕食をかねて両親と出かけ、私たちは留守番をしましたが、帰った孫の話しを聞くと「一番美味しかったのは枝豆だった」そうで、お皿に4回もお変わりをして食べたと自慢していました。「うーん残念、おじいちゃんも枝豆を食べたかった」と答えると、得意げになって枝豆の話しをしてくれました。

 最近外国でも枝豆の人気は今日上昇中だそうです。外国では塩湯でした枝豆を食べる風習はなかったそうですが、日本食のヘルシーさが受けていて、日本語そのままに外国でも「エダマメ」と呼ばれているようです。日本人が枝豆を食べるようになったのは記述資料によると江戸時代からのようです。枝豆の消費が一気に伸びたのはやはり戦後のようで、食生活が洋風化しビールの消費量が拡大するにしたがって枝豆の消費もうなぎ上りとなりました。枝豆の緑色した豆がはじけるように口の中に飛び込む食感はビールの苦味とともに忘れられない味なのです。

 この枝豆といわれる緑豆は、塩茹でだけでなく夏を彩る料理にもかなり使われています。高級料理には枝豆を裏ごしして豆腐に練りこんだり、ハモの上に和え物としてかけたり、またイタリア料理の皿を彩るソースとして使われているようです。時には枝豆を掻き揚げ天ぷらにして食べることもあるのです。しかしこれも殆どは他人が作った料理を食べるときだけで、自分ではやはりシンプルな枝豆として食べるくらいしか能がないようです。

 こうして枝豆の話をするともうとっくに止め、何の未練もなくなったはずのビールの味が急に恋しくなりました。毎日毎日、仕事との疲れを癒すためと、人間関係を深くすると過信して飲み続けたビールはいつの間にか回数と量を増やし、体を蝕んでいたように思えるのです。愛飲し続けたビールだけが原因ではないにしても、それも要因だと思ってすっぱりやめて10年近くが経ちました。お陰で体調はすこぶる回復して、健康な日々を暮らしていますが、やはりビールを止めたと同時に姿を消した枝豆も捨て難い味なのです。

 去年のこの頃、伊予市に住む友人水口さんから黒大豆の枝豆が届きました。産毛のような毛が生えて、中の実も黒味を帯びてグロテスクなのですが、これがとても美味しく、あの味は忘れられないのです。他人の懐なので甘えてはいけませんが、残夏残暑のこの頃になると、水口さんと黒豆の枝豆が急に恋しくなり、密かな期待を持つのです。

  「枝豆の 味を思えば 止めし酒 喉の覚えし 蘇えり来る」

  「送られし 黒豆の味 忘られず もうそろそろと そわそわしつつ」

  「外国で エダマメと書く お品書き 日本の食も インターナショナル」 

  「枝豆を 四皿お変わり 食べたいう 孫は得意げ 俺は舌打つ」 

 

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shin-1さんの日記

○一升餅背負い

 私たちの地域では子どもの健やかな成長を願い、子どもが満一歳の誕生日を迎えるにあたって、一升餅を背中に背負わせて歩かせる珍しい風習があります。各家庭で餅をつくことが殆どなくなったため、どの子どももという訳ではありませんが、わが家では私も私の息子もしてきたことなので長男の息子、つまり私の孫にもしてやろうという事になりました。

 妻は数日前にもち米を買い込んで準備を始めました。その折娘の長男朋樹には外孫ということもあって一升餅背負いをしていなかったので、孫希心と一緒に娘の次男である孫尚樹にも用意しようと、それぞれ一升餅を作ることにしたのです。一昨日の夕刻妻と二人で蒸し器と電動餅つき機を取り出し餅つきです。最近は正月の餅もシーサイドの加工場でつくので、わが家での餅つきは久しぶりなのです。蒸し器で蒸したもち米を餅つき機に入れると、僅か5分ほどで綺麗な餅が出来上がるのです。妻は少し大きめの寿司桶に白い片栗粉を引いてつき上がった餅を入れてぐるぐる回し、まるでお月様のような真ん丸いお餅が2個出来上がったのです。その状態で一晩寝かせて固まった餅をダンボールの箱に入れ、昨夕妻と二人で息子と娘の家を相次いで訪問しました。



 妻は今日誕生日を迎える内孫希心のためにご馳走も用意していました。希心はあいにくお昼寝の最中でしたが、早速起したのが悪かったのか少しご機嫌斜めで、風呂敷に包んだ餅を背中に背負わせると本泣きで手の付けられない状態です。それでも何とか母親がとりなして無事一升餅を背負い歩き初めをしたのです。

 子どもの成長は早いものであれから一年があっという間に経ちました。希心は体重も10キロ前後とかなり大柄です。這うことが苦手でしたが今では這うことも出来るし伝い歩きも出来るようになりました。自分の体力の減退とは偉い違いです。妻の用意した料理を食べながら家族で色々なことを話しました。息子の家族も間もなく私たちの元へ帰って同居を始める予定ですが、同居は同居なりに問題も多いようなのでしっかりと話し合って心の準備をしてから始めようと思っています。まあ何はともあれ目出度い一升餅背負いとなりました。



 私たち夫婦は息子の家をおいとまして娘の家へ出かけました。今度は娘の次男尚樹に一升餅背負いをプレゼントするためです。尚樹は5月18日が誕生日なので既に足腰もしっかりして歩けるようになっています。希心と同じように風呂敷で一升餅を背負わせましたが、ここでも尚樹は大パニックで泣いたり笑ったりしながら持ちを背負って歩きました。

 昨夕は娘夫婦と孫朋樹、それに近所に住んでいるわが次男の一生が大和屋のビアホールへ食事に出かけるため、尚樹のお守りと留守番を頼まれました。私たち夫婦は孫尚樹を乳母車に乗せて1キロ近くも離れた祝谷にある「そら」というパン屋さんまで散歩がてら娘から頼まれたパンを買いに行きました。乳母車に乗った尚樹は大喜びでしたが直ぐに眠りこけてしまいました。今から寝せると朝早く目を覚ますらしいので起して、靴を履かせて歩かせました。少しヨタヨタ歩きですが行きつ戻りつ何と500メートルも歩きました。途中犬の散歩をしている人に何人も出会い、その都度「ワンワン」と一つしかいえない言葉で興味を示し、散歩は大成功です。

 往復1時間の散歩を終えて帰り、簡単な食事を済ませて寝かせました。二人でNHKテレビ思い出のメロディーを見聞きしました。今年40周年を迎えるこの番組は私たち夫婦の生きた時代でもあり、殆どの歌が口ずさめるものでした。「白い花の咲く頃」を歌う岡本篤郎さんは八十歳を越えているというの素晴らしい歌声でした。青函連絡船100年、ロカビリー3人男、浜口庫之助特集など心に残りました。

 やがて娘家族が帰り、孫朋樹を連れて約40分の道をわが家へ帰って来ました。孫の成長に目を細める楽しい夕べでした。

  「一升の 餅を背負いて 歩かせる 二人の孫は 有難迷惑」

  「孫が泣き 周りは笑う 泣き笑い 健やか成長 これも幸せ」

  「散歩する ヨチヨチ歩きの 孫の後 ついてヨタヨタ 爺と婆」

  「思い出の メロデイー聞いて 口ずさむ 懐かし歌が 心に染みる」


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