shin-1さんの日記

○いやあ、驚きました

 今日は2ヶ月に1回予定されている定期健康診断に出かけました。胆のう摘出手術の後、もう8年間も続いている私にとっては健康を守るための大切な恒例行事なのです。10時30分の予約時間に合わせ娘と息子の家に立ち寄る時間を加味して少し早めに出かけました。私は昔の古い人間なのでしょうか、時間ギリギリに行くのが嫌で、毎回小1時間早めに行く癖があります。寄り道したこともあって今日は30分前、愛媛県立中央病院に到着、手続きを済ませ順番を待ちました。今日は診察がスムースに進んだのか予約10分過ぎの10時40分に中へ呼ばれ、簡単な問診と血圧測定、それに簡単な腹部状態を調べるだけで終わりました。いつものことながら、こんなことで分るのかな?と思いつつ、先生は血液検査の結果を総合的に判断し、「次回はエコー検査をします。今日は血液検査をして帰ってください」といって終わりました。血液採取室へ立ち寄り、会計でお金を払って病院を出たのは11時10分でした。

 それから車を走らせて内子へ向かいました。というのも今日は内子で行われる第58回社会を明るくする運動内子大会に講演で招かれていたので、何としても12時半には到着せねばと、朝から時間が気になって仕方がなかったのです。そんな気忙しさもあって、娘や息子の所へ持って行くオレンジ100パーセントジュースを車に積み込み終わった時、車の後のトランクのドアが突然落ちて、親指を負傷してしまっていたのです。何と不器用な、何と間抜けなのでしょう。

 急ぐ心を抑えて伊予市向井原の信号に差し掛かりました。私の前を走っていた車が黄色から赤信号に変わるのを無視して交差点を進みました。私は迷いましたが思い止まり赤信号が青になるのを待ちました。するとどうでしょう。信号の向こうで何やら白バイが2台脇道から飛び出し、その車をサイレンを鳴らし追いかけて行きました。信号が青になったので走り始めましたが、500メートル先でさっきの車は白バイ2台によって停車さされ、取調べを受けていました。いやあこれも命拾いでした。

 やがて旧五十崎にある内子町共生館ホールに到着し、控え室へ案内されました。町長さんや松山保護観察所長さん、大洲警察署生活安全課長さんたちとご一緒に昼食弁当を食べながら雑談に講じました。係りの人がお茶を入れながら「今日は中学生も沢山集まっています」と思わず漏らされました。「ウソー、中学生が参加するなんて聞いていない」と声を上げそうになりました。だって中学生と大人では話の中身が違わなければ理解できないのです。一瞬青ざめましたが、まな板の上に乗った鯉です。ジタバタシしても始まりません。結局話の中身を変えようと思いました。新居浜母親大会の憲法9条のことも何とか対応できたので、自分はアドリブに強いと信じて壇上に上がりました。

(社会を明るくする運動内子大会の会場は満員でした)

 そこから先は殆ど覚えてなくて、まさにアドリブの世界でした。私を紹介ていただいた内子町大瀬の仙井さんの顔に泥を塗るような結果になったことを詫びながら内子を後に帰郷しました。

 帰ってから夜、内子町立川の松田さんから電話が入り、「今日の話は良かった、感激した」とお褒めの言葉をいただきました。お世辞だと思い聞きましたが、参加した500人もの聴衆の500分の1でも納得させたのだからと自己満足しながら、妻に今日の出来事を話して聞かせました。いやあ驚きました。今日は朝からハプニング続きでした。それでも会場を埋めた中学生たちが眠ることもなく熱心に耳を傾けてくれた余韻だけは今も心に残っているのです。中学生の皆さん有難う。

  「中学生 前に話すは 知らなんだ どうにかなると 上がったものの」

  「生き方を 話してくれと 頼まれて 生き方よりも 生きた証を」

  「失敗を 重ね私は 強くなる 今日も失敗 はてさて次は」

  「混沌と した世の中で 辻説法 聞くか効かぬか 分らぬままに」  

  

  

 

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○新しき仲間たち

 私には数えても数え切れないほどの知人友人がいます。遠い人近い人、古い人新しい人、出会う人出会わない人、手紙を出しあう人出し合わない人、影響を受ける人受けない人などなど様々ですが、60歳になってから親密になった新しい知人友人もいます。私たちの町は田舎です。故に第一次産業といわれる農業や漁業、それに近隣の松山などに勤める以外はこれといった働き場所が余りないため、ふるさとで暮らしたり働きたいと思っても適わず町を離れていますが、60歳の定年を機にふるさとに帰って来た人も何人かいて、その人たちは今までの不義理を謝るように地元の役を受けるのです。しかしそのブランクが余りにも多かった人は戸惑いと落差、それに田舎が故の煩わしい人間関係に翻弄され悶々の日々を過ごしているのです。

 そんな人と集会で会うと、テキパキとその役職をこなす私などは羨望の眼差しで見られてしまい、すっかり信用されお友達となるのです。その人たちは私にとっても新鮮で、これまでの知人友人にはないタイプの人間が多く、同感同調しながら何かと理由をつけて出会うのです。




 昨日は、2ヶ月に一回の限界集落勉強会が人間牧場でありました。旧伊予市から、そして旧双海町から10数名が集まりました。約束した旧中山町からは遠隔地ゆえの敬遠か一人も参加がなかったことは少し残念でしたが、県会議員の泉圭一さんも来ていただい、かなり突っ込んだ話をしました。今回の双海での勉強会は最初地元の人の話しを聞こうと思っていましたが、その予定者が都合がつかず結局は、えひめ地域政策研究センターの松本さんに資料を集めてもらい、松本さんに話題提供をお願いし、私が私見を交えたコーディネーターとなって勉強会を行いました。

 夏の人間牧場は室内に電気をつけると無数の虫が「飛んで火に入る夏の虫」さながら集まってくるので、手提げの懐中電灯を真ん中にすえ置き、まるでローソクのような細い光を便りの車座での話となりました。いやあこれが中々風流で、こんな会議も悪くないと思いました。限界集落の問題は奥行きや悩みがとても深く、2回や3回の勉強会で結論が出るというものでもなく、また行政の悪口を言い合っても何も解決できないので、出来ることから始める、自分から始めるを合言葉に話し合いを続けていますが、これもた中々上手く行かないようです。でも私自身この勉強会はまだ3回目なのですが様々な事を学びました。そして自分の生き方の整理が出来つつあることを内心嬉しく思っているのです。そしてこの勉強会を通じてふるさとの将来を思う新しい人たちに出会いました。

 会終了後、伊予市の方が帰った後で、双海町の人たちだけでお喋りをしました。松本さん以外は私が酒を飲まないため、妻の用意してくれたビールと乾き物のつまみで懇親会です。ウッドデッキに車座になり、夏の夜空や海に浮かぶ漁火、それに眼下松山の夜景を遠望しながら楽しい交流となりました。

 参加した人の殆どは新しい友人なので、話が新鮮です。また学ぶことも多く今後の参考になるような逸話を随分聞きました。

 午後6時から始めた勉強会は2時間半、懇親会は何と2時間にも及びました。用意した缶ビールが全てなくなったのでお開くとさせてもらい、私は満席の4人をそれぞれの家まで送り、わが家へ着いたのは11時を回っていました。いい一日でした。

  「新しき 友人増えて また楽し 夜涼みながら 酒酌み交わす」

  「新しき 友はこれまた 新しき 話題提供 学ぶことあり」

  「ふるさとに 楽しく生きる コツは何 宿命じゃなく 運命開く」

  「違う道 歩みし知人 ここに来て 同じ道行く 同行数人」

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shin-1さんの日記

○久しぶりののんびり昼寝

 毎日忙しく暮らしている私にとって、ささやかな願望は人間牧場で背もたれ椅子に座って、本を読みながら昼寝をすることです。しかし残念ながらそんな余裕はなく、最近の人間牧場は来客が多くて昼寝どころか千客万来の人の世話に明け暮れているのです。今晩は人間牧場で限界集落の勉強会、週末の土日は埼玉県北本市から泊り込みの旧友がやって来るのです。私はその都度極力ありのままの生き様を見せようとするのですが、妻にとっては夫に恥をかかせるわけにもいかないと、それなりの接待をしてくれるのです。有り難いことですが人間牧場を作る時「私をこれ以上巻き込まないで」といった妻の言葉が耳に残っているのです。

 妻は私が21世紀えひめニューフロンティアグループというボランティアグループを立ち上げた時から献身的に支援をしてくれました。無人島キャンプの折は留守本部、10年で40回の塾を開いた時は夜の懇親会の料理から朝食などと、下支えをしてくれました。また私が青年のために自宅横に造った私設公民館煙会所に来る人を泊めたりもてなしたりと、これも心のこもった接待をしてくれました。もうそろそろ限界と思っていた矢先の人間牧場建設に伴うお世話に対する危惧への発言だったに違いないのです。

 私はその言葉を重く受け止め、極力妻の力に頼らないよう努力しようと心に誓いました。そして建設資金や運営資金は自分で稼ぎ、迷惑をかけないようこの3年間努力してきました。また来客時もこれまでのような飲み食いを極力控え、環境にも配慮してゴミさえも持ち帰りするよう自立・自律しているつもりなのです。

 しかし、どうしても私では出来ないことがいっぱいあって、例えば地元の人を招待することや、縁の深い恩人には妻の力が必要なのです。妻もそれを承知していて今晩のビールのつまみやビールの手配、週末の料理や朝食など、私が恥をかかない程度に手配をしてくれているようです。

 さて今日は昼まで家の周りの草刈りをしました。今年に入って3度目の草刈りなのでそんなに伸びていないのですが、それでも梅雨も上がったので親父の庭木剪定に併せて草を刈りました。人間牧場用の草刈機を先日取って帰っていたので、家の裏は見る見るうちに綺麗になって、昼に帰った妻が、「まあお父さん綺麗になったね」と褒めてくれました。作業囚虜後私はシャワーを浴びて昼食を食べ、居間で寝そべっていると、ついついウトウトして、テレビを見ながら1時間余り昼寝をしてしまったのです。気がつくと午後2時前でした。わが家は少し高台にあるため、昼間は窓を開けていると心地よい風が表から裏へと吹き抜けます。知らない間に妻は私の上にタオルケットをかけて仕事に出かけていました。サンデー毎日といいながら昼寝をむさぼるのは久々だったので、何だか身体がリフレッシュして軽くなったような気がしました。

 やわら起き上がって書斎へ行くと、窓の外では既に親父が庭木をいじっていました。私も親父の血を受け継いだのか、親父のような働き者だと自負し妻も「あなたは働き過ぎだ」とよくいわれますが、それでもまだ親父には叶いません。若い頃漁師で鍛えた頑丈な親父の体力には口こそ勝っても負けるのです。

 今年も暑い夏がやって来ました。私の人生にとって64回目の夏です。身体は胆のう手術によって13キロも痩せたころの体重とそれ程変わりませんが、人間牧場の草刈りなど野外での活動が多く顔も日焼けして随分逞しくなって野人と呼ぶに房わし感じがして、会う人毎に「若松さん、元気になったね」と褒め言葉をいただいています。麦藁帽子や地下足袋が似合うカントリーボーイになったと、鏡を見ながら思う今日この頃です。

 誰はばかることなく「昼寝が出来ることは素晴らしいことです。

  「うとうとと 昼寝が出来る 幸せを かみ締めながら 今日の幸せ」

  「巻き込んじゃ 嫌だと妻が いう言葉 しみじみ思い 自律自立で」

  「あなた恥 私の恥じよと 気配りを 何かにつけて 妻はせっせと」

  「おいどうだ 俺は昼寝の 身分だと 自慢したいが 後輩昼寝」 


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shin-1さんの日記

○提案型共同事業促進モデル事業は凄いです

 昨日は「愛と心のネットワークづくり関連事業」である、「提案型共同事業促進モデル事業」の二次選考会があり、選考委員に選任されていることもあって出かけました。最近は提案型補助金や助成金が大流行で県も市町もそれぞれ目的に沿った事業を創設していますが、その審査や選考会は事業を考えた行政と、事業を採択されようとする個人や団体、それに提案を審査したり選考する人たちの思いが微妙に絡み、想像以上に緊張しながら審査選考に当りました。

 審査をするに当っては審査員の共通認識が必要で、課題の認識、課題解決の手法、協働による相乗効果、事業の効果、費用の妥当性、実現性、実施能力などなどを採点するのですが私のような凡人には中々判断しづらいほど微細なチェックが求められ、厳しい審査のプロセスを垣間見ました。あらかじめ公募に応募していたものの中から第一次審査でふるい落とされ、さらにそれらの中から選ぶのですから責任は重大です。

 まずNPO登録された団体がそれぞれ7分のプレゼンテーションを行います。その説明に対して委員6人が質疑応答をするのですが、昨日は二次審査に残った11団体の話しを興味を持って聞かせてもらいました。

 団体説明は途中休憩を挟んだものの11団体ですから3時間20分にも及ぶ長丁場です。その後今回の事業の特徴である担当課の意見聴取を1時間に渡って聞きました。そして審査会を経るという何とも凄い厳格さです。

 私は提案型事業に応募してプレゼンテーションした経験はないのですが、審査は毎年のように何度も立ち合っています。書類審査もさることながら提案型事業はプレゼンテーション能力が大きくものをいいます。前述したような採点基準で採点するのですが、決められた8分の時間を使ってどれだけ要領よく発表が出来るか、まさにプレゼンテーション能力が必要です。タイムキーパーが一分前に予鈴を鳴らし、予定の時間が終了すると終了鈴が鳴らされるのですが、練習をして来たであろう時間は、パソコンのスライドショーに翻弄され、あっという間に終わってしまうのです。さらにその緊張から解きほぐされる間もなく審査員から矢継ぎ早な、ある意味意地の悪い質問が浴びせられるのですからたまったものではありません。

 プレゼンテーションは落ち着いて分りやすく、自分の団体の簡単な紹介、事業の必要性と目的、期待できる効果と波及などを話さなければなりませんが、概して発表と書類やスライドとのコンビネーションが悪く、主張が伝わりにくい感じがしました。

 若し私がプレゼンテーションするのであれば、11団体の中で選んで欲しい一番アピールする個性は何かを鮮明にすることを考えます。この日ある団体はバイオリンとビオラの違いを表現するために助っ人に演奏までさせて審査員に聴かせました。一目瞭然でした。

 提案団体はいずれも県下各地で活動をしている立派な団体だし、プレゼンテーションに立ち会った人たちの中にはそれぞれ馴染みの人もいましたが、審査の公平を期すため私心を捨てて審査に望みました。結果は審査員の点数を重んじた合議によって決まり、やがて一定の手続きを経て知事さんに報告され、これまた一定の手続きを踏んでそれぞれの団体に結果通知されることでしょう。

 団体の活動に順番などありませんが、審査がある以上順番をつけなければなりません。採択された団体は助成金を使って県民の納得いく成果を上げねばなりません。残念ながら選に漏れたところは平常心で活動を続け、次の出番を待たなければなりません。団体活動は資金が全てではないけれど、資金がものをいう社会です。特にNPOにとって助成があるなしは天国と地獄ほどの違いで、選に漏れた団体のことを思うと、暑い夏は余計身に堪えるようです。

  「選ぶ人 選ばれる人 入り乱れ ホットな論議 冷静審査」

  「口下手や 饒舌話す 人ありて 話聞き入り 我に帰りぬ」

  「久しぶり 四時間半も 会議する 少し疲れて わが家を目指す」

  「一連の 事務の足跡 見る度に ご苦労さんと 思わず感謝」 

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shin-1さんの日記

○愛媛県町村会研修会に参加して

 3年前愛媛県の市町村が合併して、70の市町村が20市町になりました。それまでは市に比べ圧倒的に多かった町村ですが、市が13に増えたのに比べ、町の数は松前町・砥部町・久万高原町・内子町・上島町・鬼北町・松野町・愛南町の8つに激減してしまったのです。これではどう頑張っても町村会の馬力はつきにくく、当分は苦悩の日々が続くことでしょう。

 昨日はその町村会の招きで、中級職員16名と係長職員15名合同の研修会に招かれ、「合併後の地域づくり」について、えひめ青少年ふれあいセンターで講義を行いました。少し早めに出かけたため昼食までご馳走になり、午後1時から1時間50分にわたりお話をしましたが、私の紹介を研修生として参加していた愛南町の脇田さんが担当するなど、端々で知人友人にも出会い旧交を温めましたし、講義が終了すると次の講義を担当している町村会の会長である松前町長の白石さんにもお会いすることが出来ました。

 このところ毎年のように講義を担当している私がこの研修で最も強調したかったことは、合併しなかった町が何処か置いてけぼりのような錯覚にとらわれがちですが、大きいことはいいことという風潮より、むしろスモールモアビゥティフルの考えを持つべきという考え方です。確かに愛媛県内はまるで遺伝子組み換えのように、大きな市が周辺の弱小町村を飲み込んで誕生しましたが、合併して早くも3年、合併して誕生した新しい市では早くも中央優先あるいは中央横並び、中央軸足の傾向が出始めており、端々では限界集落や学校統合などの問題が徐々に出始め、住民は将来への募る不安におののいているようです。

 そこへ行くと小さな町は小さな政府を目指してそれなりの血の通った行政が出来ているようで、既に様々な新しい取り組みや斬新な企画が打ち出され実行に移されているのです。役場職員は時代の流れと住民のニーズを的確にとらえ、住民が将来への夢や希望を持って暮らしてゆけるようしなければなりません。風通しのよい血の通った行政が出来る職員の存在こそいい町をつくる大きな力なのです。

 職員も町長も議員も、町を愛する、町のためにする、町を正しい方向に導くという共通の意識さえ持てばいい町は必ず出来るのです。

 私は講義のために壇上に立ち、私の話を聞く研修生を見渡しながら話しましたが、確かに眠ることもなく熱心に話を聞いてくれましたが、どこか迫力がないような気もしました。多分それは問題意識が弱いのかも知れません。また日頃の仕事に熱が入っていないのかも知れません。かつて私がそうであったように、研修会に何かを求め、研修会で得た成果を仕事や人生に生かせるような職員になって欲しいものです。

 講義が終わって3人の研修生が控え室に私を訪ねて来ました。二人は顔見知りでしたがこんな小さな出会いだってこれからの大きな一歩になるのです。

 「人は人によりて人となる」はある人の本の題名ですが、今までも今も、ひょっとしたらこれからも人は人によりて人となります。いい人に巡り会い感化を受ける、このくらい素敵な学びはないのです。私のような凡人に会うだけでも少しは前進の糸口になるかもしれないのです。「小さな町よ頑張れ、小さな町の職員よ頑張れ」と私はこれからもエールを送り続けます。

  「小さいと 心の通う 行政が 出来るはずです あなた次第で」

  「もう少し 元気を出して 歩こうよ さすれば明日は いいことあるよ」

  「職員が やる気を出すと 住民も 元気になって 町も元気に」

  「冷房の 効いたお部屋で 涼しいな 眠っていても 給料もらえる」


 

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shin-1さんの日記

○使わなくなった風呂敷

 先日ある会合に貰った有名なお酒を持って行きました。わが家では長家を貰うともっぱら親父が寝酒程度にたしなむ程度なので、いつの間にか古くなって料理酒として使う程度になってしまうのです。私が酒豪?だった頃は知人・友人・親類からのお中元やお歳暮はもっぱらビールだったし、講演で招かれていただくお土産も地酒でした。しかし身体の都合で8年前に酒を断ったことを知っている人は、酒を私にくれなくなったのです。でも初対面で知らない人も相変わらずお酒をくれるのです。

 先日いただいたお酒は木箱に納められ、いかにも高そうなお酒です。私は思案した挙句その酒を風呂敷に包んで持参したのです。

 一枚の布でどんな形の物も包め、何度も繰り返し使える風呂敷は近年エコアイテムとして注目されるようになっていますが、その起源は定かではないようです。奈良時代に立てられた正倉院には、所蔵品が収納専用の布で包まれており、これが現存する最古の風呂敷とされています。こうした包み布は平安時代には「ころもつつみ」、室町時代には「ひらつつみ」と呼ばれました。包み布が風呂敷と呼ばれるようになったのは江戸時代で、もともと日本古来の風呂は蒸し風呂で、座る板場に布を敷いたり、布の上で着替えたりしていました。徳川家康の形見分けの記録「駿府御分物御道具帳」は初めて風呂敷という言葉を見ることが出来る文献だそうです。ここに記されている風呂敷は風呂の敷物のことで、徳川泰平が進むようになると庶民が銭湯にに通うようになると風呂道具や着替えを包むようになって風呂敷包みとなり、包み布全てを風呂敷と呼ぶようになりました。

 江戸時代以降庶民の間で急速に普及した風呂敷は物を持ち運ぶ道具としてだけでなく、屋号や家紋を染め抜き、今でいう包装紙のように利用されたり、婚礼の道具として使われるようになりました。明治になって生活が洋風化されても戦後間もなくまで風呂敷は庶民の暮らしに欠かせない持ち物として使われましたが、昭和の高度成長によって紙袋やレジ袋が登場し風呂敷は片隅に追いやられました。しかし近年環境への関心が高まり、再び何度も使える風呂敷への関心が高まろうとしているのです。

 風呂敷の大きさは横の長さ「幅」で表しますが、一幅は36cmで基本となるサイズは中幅から七幅まで10種類のようです。最近はその包み方や結び方にもデザインが考えられ、随分おしゃれになってきましたが、男の私などは無粋な結び方で、味もそってもないようです。女性が和服で風呂敷包みを持ち、和傘などをさして下駄で石畳を歩く姿は何とも風情のある姿です。

 昔から大言壮語な出来もしない話をする人を称して「大風呂敷な人」と呼ぶようですが、風呂敷は広げるだけでなくに包み込むことも寛容でしょう。

 私は随分前は風呂敷包みを持ってどこへでも出かけていました。しかし風呂敷包みを持ったら田舎物で東京ぼん太に似ているといわれ、木のカバンを手に入れてから、風呂敷包みにおさらばしましたが、今でも風呂敷包みへの郷愁を忘れていません。木になるカバンの中には小さな風呂敷を入れて持ち歩いていましたが、それもいつの間にか机の引き出しにしまわれてしまいました。もう一度風呂敷包み復活といきましょうか。

  「風呂敷に 酒を包んで 会合へ 粋な計らい 感謝されつつ」

  「若い頃 風呂敷包みを 持ち歩く 思い出彼方 そろり復活」

  「風呂敷は 風呂に使うが 語源とは 知らぬことゆえ 酒を包みて」

  「日本人 風呂敷ひとつで 用をなし 暮しの智恵は 今も生きてる」 

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shin-1さんの日記

○ブルーべりーが届く

 わが町に西岡栄一さんという人がいます。この方は昔役場で町長さんの公用車の運転手をしていましたが退職後は奥さんと二人で農業をやっています。在職中から人の面倒見がよく、同じ職場だったこともあって何かと気心の知れた間柄で、時には先輩として、時には同僚として、時には行きがかり上部下として付き合ってきました。西岡さんは私など比べものにならないほど二代の町長さんに同行して様々な地域や場所を運転手ながら訪ねていて、視野の広さは町内随一で、私も一目を置く人なのです。加えて実行力があってよいと思ったことはすべからく直ぐに実行に移すのです。 

 在職中にイチゴの高床式ロックウール栽培を奥さんが主動となってはじめ、苦労の末双海のイチゴ園の先鞭をつけました。言い方は悪いかも知れませんが、後に始めた3軒の農家はいい所取りのような感じもします。でも西岡さんは直ぐにそのことを見越してイチゴとブルーベリーを組み合わせた観光農業をしているのです。今でこそブルーベリーは一般的になりましたが、がまだ珍しい頃から取り組んで、今では立派なブルーベリー園として経営の主要な柱になっているようです。

 西岡さんの凄さはそれを自分だけのものにせず、翠校区で取り組んでいるグリーンツーリズムの主要リーダーとして他の人を引っ張っていることです。既に校区の溜まり場にピザ釜も4つ造って土日には予約を受けて活動しているし、自らも蒟蒻を作るメニューをしっかりとこなしているのです。

 西岡さんは運転手を長らくしました。町長さんとは同級生だったこともあって大変だったと思うのですが、悪びれることもなく立派に勤め上げましたし、辞めてから何が残るか考えたら真の勝者は西岡さんではないかと思ったりするのです。

 私は西岡さんの生き方を見ながら、自分も目的や計画を着実に実行している部類ですがまだまだ西岡さんには適わないと、自らの見本としてこれからもせいぜい見習わせて欲しいと願っています。

 一昨日西岡さんがトラックに何やら大きな植木を積んでわが家にやって来ました。見ると粒をたわわにつけたブルーベリーの鉢植えです。今年から一鉢オーナー制度を考案し、希望者にブルーベリーの鉢をシーズン中貸し与え、自宅で居ながらにして収穫を楽しもうとするものです。「試験的に食べてみてください。収穫が終わったらまた取りに来ます」とあっさりわが家の庭に降ろし置いて帰りました。

 驚いたのは家族です。また娘や息子も一応に驚き、早速熟れた実を試食していました。残念な事にわが家に来た人が「まあ珍しい」と一つ一つ摘み取って口に入れるものですから、熟れるのを楽しみにしていた私などはまだ一個も口にしていないのです。

 まあこれも西岡さんの宣伝だと思い、来客に自慢をしながらいただいています。「水は3日に一度たっぷりやって下さい」というご指示通り、今朝は汲み置きした水をバケツにいっぱいたっぷりやりました。孫が次に来る頃には熟したブルーべりーを摘ませることができるかも知れません。

  「見習って 強く生きよと 思う人 身近に住んで 身近お手本」

  「これ食べて いきなり鉢が 降ろされて 嬉し収穫 居ながら自宅」

  「人間の 値打ち一体 何なのか 生き方次第 値打ち高まる」

  「たっぷりと 水やる朝の 爽やかさ この水吸って 美味い果実が」

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shin-1さんの日記

○鯉よさようなら

 わが家の庭にはこの30年余り、親父が手塩にかけて育てたそれは立派な鯉がいましたが、残念ながら昨年死んでしまいました。落胆した親父は一事覇気がなく嘆き悲しんでいました。池を見ただけでも悲しくなると、その池を埋めようとしましたが、せっかくだからとコンクリートで上を塞ぎ、入口を作って立派な地下室が誕生、その上に東屋を建てたりしてまた元気を取り戻しました。

 そんなこんなで鯉を飼うことは止めようと、あれ程高いお金を出して設置した浄化装置も鯉屋さんにタダで引き取ってもらい、完全に甲斐の思い出を消していたのです。ところがどうでしょう。いつの間にか庭の隅に小さな池を掘り始め、あっという間に小さな池を自分で造ってしまったのです。鯉が縁で時折ご機嫌伺いに尋ねてくる鯉屋さんはそれを見て値打ちのない鯉を2~30匹持って来て池に泳がせました。

 あれから1年が過ぎました。親父の鯉好きもさるもので、鯉屋さんが驚くほどその鯉が大きくなって、何匹かは近所の人に差し上げたのですが10匹は残って、すっかりわが家の人気者になっていました。時折訪ねてくる近所の子どもたちや、わが家の外孫たちもわが家へ来る度に鯉の泳ぐ池へやって来て、手を差し伸べ馴れた鯉に手を吸ってもらうほどでした。

 一昨日息子が還って来た時、親父はこの鯉を近所の上灘川に放流すると言い出し、ポリ容器に入れて息子とトラックに積んで川へ放しに行きました。せっかく育てたのにという家族の反対を押し切ってです。聞けば鯉はこれ以上この池で飼うのはこれが限界らしく、せっかくの命なので自然に帰したのです。

 さてこの二日間池は水を抜かれ、梅雨の明けた真夏の太陽に寂しく干されていました。今朝隠居へ行って見ると親父はもぬけの殻で外で池の水を張っていました。どうするのかと尋ねたら、「今度は大きくならないフナ金を飼う」そうで、鯉屋さんにすでに電話で注文したそうです。その理由は「ひ孫たちが来たら喜ぶので」とさりげなく話してくれました。はてさて親父の考えは私には理解できなくもありませんが、妻は「性懲りもなく」と一連の鯉騒動に何時もながら呆れていました。

 私は長男です。故に親父とはもう生まれてから63年間も付き合っている計算になります。子どもの頃はいざ知らず、私が結婚して40年余り経つのに未だに親父は親父として付き合ってきました。反論や反対をしないのが長男の親孝行だと思ってきました。しかし若い頃病気をした頃から我が強くなり、最近ではその我も大分弱りましたが、それでも年寄りの頑固さは今も顕在で、時折私も妻もつまらない苛立ちを隠せない時だってあるのです。

 今年の9月に親父は卒寿を迎えます。これから先何年生きるか分りませんが、母親がそうであったように親父の口癖である「この家の畳の上で死にたい」という願いをかなえてやりたいと思っています。親父の年代はもう同級生も仲間も殆ど死んでしまいました。また例え生きていても特老施設などに入所して余生を過ごしています。私は親父の願いをかなえてやりたいと思っています。それが長男としての私の務めでもあるような気がするのです。妻にはそれなりに苦労をかけますが、その分私がカバーをして天寿をまっとうさせてやりたいのです。

 時折妻が「あなた、ひょっとしたらじいちゃんは100歳まで生きるかも知れない」といい、「私たちより長生きするのでは?」と笑って話します。しかし親父の後姿を見ると心なしか背丈が縮んだような気もするのです。

 今朝も「お早う」といえば「お早う」と返事が返り、朝から池の修理に余念のない元気な親父さんです。

  「懲りずまた フナ金飼うと いい始め 呆れた口が 塞げぬ親父」

  「この家の 畳で死ぬと いう親父 願いどおりに 親子で暮す」

  「鯉を入れ トラック積んで 川放す 慈善事業か 理解苦しむ」

  「曾孫来る 嬉しさのため フナ金を 既に注文 いつまで生きる」

  

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shin-1さんの日記

○親父を連れて病院へ

 今朝親父の隠居へ行くと、「昨日から歯の調子が悪く牛乳以外殆ど物を食べてない。すまんが病院へ連れて行ってくれ」と懇願するのです。たまたま今日は午前中日程が空いていたこともあって、それは大変と連れて行く事にしました。親父は若い頃鼻ガンになって、県立中央病院で手術をしています。医者の話ではかなり難しい病気で、手術は成功したが再発の危険性があると告げられていました。私はそのことが原因で大学への進学を諦めふるさとに帰ったのですから、親父の病気は私の宿命として受け入れていました。

 私も親父も家族もガン再発の不安に駆られながら、特に母親は心労が多かったようですが、その母が亡くなり皮肉にもガンになった父が残ろうとは、誰も想像していませんでした。故に母が亡くなったときの父の落胆は相当でしたが、親父は89歳の今日まで今も元気で過ごしているのです。そんなこともあって、歯が痛いと親父本人も、私も「もしや?」と思うのは当然かも知れません。

 松山の県立中央病院までは小一時間かかります。今日は月曜日なので患者さんも予想以上に多く、長い間病院にも行っていない親父は初診扱いで、かなり時間がかかるものと諦めて出かけました。案の定受付を済ませたのは8時半なのに、診察予約は10時10分だと告げられました。何をするでもなく親子が歯科診療の窓口付近の待合椅子で待ちました。前を通り過ぎる患者さん、掃除をする業者さん、背広を着て部屋の中へ入る薬屋さんなどその気になって見れば中々面白い人間模様ですが、歯の具合の悪い親父は診察までの時間が不安な様子で、トイレに立ったり時間を聞いたりしていました。

 やがて10時になったころ受付から「若松進様、大変お待たせいたしました。中へお入り下さい」と呼び出され、私はまるで親が子どもを病院へ連れて行くように、一緒に診察室へ入りました。先生から「どうされましたか」と尋ねられるたびに私が代役として「実は歯の具合が悪くこのところ食べ物を噛めない状態で困っています」と代弁すると、「はい分りました。処置椅子にお座り下さい」と告げ、入れ歯を外し中の具合を診察しました。少し傷があるらしく、慣れた手つきで入れ歯の不具合を修正し始めました。キーンと鳴る歯医者独特の音に苛立ちを感じながら、処置椅子の隣で私はじっと処置の様子を見なければならないのですが、うつろな表情で窓を眺めていました。やがて処置が終り傷薬をいただき、次回は7月15日8時30分に来るよう予約を取って処置室を出ました。10時30分になっていました。お金は要らないのですが会計で次回の予約日の確認をするため少し待って病院を出ました。私も親父も再発でなくホッとしながら車に乗り込んでわが家へ11時20分頃帰ったのです。

 病院とは何と時間がかかるものなのか、高齢な親父は歯の痛みより長い道中に疲れたようでぐったりしていました。薬の塗り方、今度病院へ行く日を大きな声で知らせ、昼飯です。

 夕方親父の部屋に出かけて歯の具合はその後どうか聞きましたが、今朝までの地獄のような苦しみから解放されて天国だと喜んでいました。歯の痛みが取れたこともさることながら、息子に病院へ連れて行ってもらったことがうれしかったようで、いささかなりの親孝行ができたようです。

 親父の姿を見ながら、30年後の自分を想像してしまいました。親父のように長生きできる保証は何処にもありませんが、30年後には必ず私も親父のような姿になるのです。そして息子に世話をかけることでしょうが、極力元気で生きたいと思いました。

  「次々と 後の患者が 中に入る 予約人だが 待つ身はつらい」

  「来週の 予約を取って 病院を 出でて思わず 吐息が混じる」

  「どうしたの 見知りの人に 会う度に 親父が実は 何度も話す」

  「病院に 来て見て思う 不健康 メタボの医者が 意外と多い」

   

 

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shin-1さんの日記

○わが家はまるで蜂の巣をつついたよう

 一ヶ月に一度くらい、わが家へは長女の家族と長男の家族が泊まりにやって来ます。娘や息子はどういうことはないのですが、娘や息子に連れられて3人の孫がやって来ると、わが家はまるで蜂の巣をつついたような賑やかさです。孫朋樹君は5歳ですから随分成長して聞き分けがよく私の相棒と呼ばれるようになっていますが、孫尚樹君は1歳2ヶ月、希心君は10ヶ月なので、まだまだ大人や子どもどおしのコミュニケーションが通じず、泣きたい時に泣き、寝たいときに寝て、食べたい時に食べるといった気ままな年齢なのです。最近はおもちゃで遊び、人に抱かれることの快感も覚えてきましたが、故におもちゃも人間も独り占めしたいようで、少しでも自分が相手より大事に扱われないと、本気で泣いたりするのです。

 娘の家族は娘婿が出張したらしく金曜日に泊まりに来て2泊3日です。息子の家族は土曜日にやって来て1泊2日なのですが、土曜日の夕方から娘が同窓会があるらしく、孫二人を置いて出かけて行きました。私は仕事で留守にしている妻に代わって、北海道から来た視察団の一行が帰ると直ぐに家に帰り、孫の守りです。最初は孫も可愛いなあと思うものの、夕方になると少しぐずって中々言うことを聞いてくれません。そのうち妻が帰り食事の準備をして夕食を食べさせ、夕方やって来た息子の家族と合流したものですからさあ大変です。片方を抱くと今度は自分を抱いて欲しいと泣くし、子トラが泣きたいくらいでした。

 それにしてもこの二家族が来ると、二階と一階はまるでタコ部屋のように布団で埋め尽くされます。妻は食事の後片付けもそこそこに順番に風呂に入れ、寝かせるのですが、日常と勝手が違うためか、孫たちは興奮して中々寝付かないのです。妻は仕方がないので抱いて夕涼みがてら外に出てあやすのですが、ウトウトするものの寝かせると又起きて泣くのです。

 娘の帰りがいつになく遅く、結局は10時近くになって帰りました。私は「子どもをほったらかしてどういうことだ」と少し不満をいって娘を叱りましたが、長男がたしなめて納まりました。

 それにしてもです。妻は偉いと思いました。私など孫の面倒を見たと威張ってもほんの少しの時間です。妻たるや、全員の食事の世話、孫の食事、布団の用意、風呂に入れるなどなど、数えればきりがないくらいの働きです。しかも今は職場の都合で日曜日だけの休日で、そのたまの日曜日も娘・息子の二家族は夕食まで食べて帰るのですから大変なものです。それでも孫や子供が来ることを喜び、自分のことなど二の次です。

 私もそんな妻を偉いとは思うのですが、昔人間であり、駄目亭主のレッテルを貼られている私は、感謝の言葉のひとつもいえず、相変わらず亭主関白の言動なのです。昨日は私も今治市富田自治会に招かれ講演に行き、夕方帰ったため二人とも疲れていたのか、テレビを見ながらついウトウトしてしまい、気がついたら12時を回っていて、テレビをつけ電気をつけたままで、妻も私も慌てて終身と相成りました。忙中閑なし、それでも子どもや孫と泣いたり笑ったりの声を聞く度に、ささやかな幸せを感じています。

  「孫たちの 泣いたり笑う 声聞けば まるで蜂の巣 高周波音」

  「月一度 これも務めか ご苦労さん 妻はせっせと 子孫のために」

  「しみじみと 歳を取ったね 言う妻の 疲労ありあり 日曜の夜」

  「気がつけば テレビ電気を 点けたまま ついウトウトと 時計は回る」 



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