shin-1さんの日記

○若い人の死

 毎日、新聞の朝刊を読んでいるのは私だけではありません。多くの人が自宅や職場で、或いは通勤の途中に昨日あった出来事を中心に紙面構成されている新聞を見て、社会の動きを確認しているのです。私と同じように普通の人は一面から読み始めますが、スポーツの好きな人はスポーツ欄から、株式投資をしている人は株価が気になるため株価欄を、また前日大事件などがあれば三面記事を見て確認しているのです。そして私の場合は今日の天気やお悔やみ欄に目が行きます。

 お悔やみ欄に載るのは人口52万人を有する松山市の方が殆どで、わが伊予市や双海町の事になると載らない事の方が多いのです。それでも役場を退職し世の中の出来事に疎くなった私はお悔やみ欄を見落とさないようにしているのです。というのも私は役場に35年も勤めていて、その間お世話になった方々も多いし、祖母や母の葬儀に香典をいただいた方もいるので、お返しをせねばならないのです。

 お悔やみ欄には例え死亡しても遺族が掲載を承諾しなければ載らないということが、先日の叔父の葬儀で始めて分りました。「お悔やみ欄に載せることもできるのですが、いかが致しましょうか」と葬儀社の担当者が断りを入れ、許可が出れば掲載となるのです。そのようなルールや承諾によって叔父の名前は掲載されました。掲載されてからかどうか分りませんが、叔父の住んでいる選挙区の首長さんや国会議員、県会議員さんから弔電がが沢山届き、お悔やみの場を利用した知名度アップを狙う政治家のしたたかさを垣間見ました。

 叔父と相前後して双海町の若い女性が亡くなりました。妻の友人だけに慰めの言葉もなく、親の悲しみを思うと人毎のように思えず、妻は叔父から続いた友人の娘さんの葬儀で、悲しさの余りに食欲が減退し私に不調を訴えたほどです。お悔やみ欄の亡くなった方々の中には若くして亡くなった方も時にはいますが、その殆どは長寿社会を反映して天寿を全うした方が多いようです。医学が進歩したとはいえ、若い人が親より先に逝くことを止められないことを不憫に思いつつ、私においてもこの一週間は妻と同じように憂うつな日々が続きました。

 「生きたくても生きられない」若者の死を目の当たりにして、「生きなければならないのに死を選ぶ」愚かな若者がいることも気がかりです。先日今治沖に浮かぶ上島町にある弓削商船高専へ「「自殺防止講演会」の講師に招かれ出かけました。学生生徒へ直接話す講演会ではなく、指導する先生方へのお話だったので間接的になりましたが、私の話は「生きたくても生きられない」人のいることを考え、生きなくてはならないのに死を選ぶな」というメッセージでした。

 私は18歳の時水産高校の愛媛丸という実習船で遠洋航海の帰路、とんでもない大時化に合い、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と、引導を渡された経験を持っています。「生きたくても生きられない」ギリギリの世界だったようです。幸せな事に愛媛丸は生還し今の自分があるのですが、生きたくても生きられず天国に召された若い人の冥福を祈りながら、これからの若者たちにその悔しさを伝えてやりたいと思いました。合掌。

  「葬式が 二つ続いて 意気消沈 親の悔しさ 思い計りて」

  「生きたいと 言ってるような 無き声を 読経に重ね ホロリ涙す」

  「世が世なら 海の藻屑と 消えていた 故にしたたか 死んでたまるか」

  「通夜帰る 妻の顔にも 一筋の 涙の後が 寂しく残り」 



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ああ上野駅

 昨日車に乗って松山へ行く途中、車のカーラジオから懐かしい歌が聞こえてきました。井沢八郎さんの「ああ上野駅」です。「♭どこかに故郷の便りを乗せて 入る列車の懐かしさ 上野はおいらの 心の駅だ くじけちゃならない人生は あの日ここから始まった♯」。懐かしいメロディに乗せて歌う井沢八郎さんの若々しい声に思わず口ずさんでしまいました。

 私たちの年代にとってこの歌には特別な思い出があるのです。昭和30年代は地方で生まれ育った若者が都会へ移動するある意味で夢と希望に溢れた、しかしある意味で悲しくも厳しい時代だったように思います。子宝に恵まれた戦後のベビーブームに乗って生まれた若者は長男は家業を継ぐが次男、三男・次女・三女はまるで口減らしのように地元の中学校を出ると、金の卵と持て囃されて、集団就職列車に乗せられ都会へ送られたのです。

中学校には就職斡旋係の先生がいて、希望要望を取り入れながら斡旋先を選んでいました。その殆どは名もない零細企業でした。昭和35年春3月、中学校の卒業式が終わると、終着駅でもあり始発駅でもある宇和島駅を出発した集団就職列車はそれぞれの駅で義務教育を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、一路京阪神や名古屋を目指しました。私は長男だったし高校進学の道を選んだためその列車に乗る宿命から幸いにも見放されましたが、夜行列車が到着する駅は熱気に包まれ、まるで戦場へ赴く兵士を見送るような雰囲気でした。母親手づくりの弁当と少しばかりの着替えを持った同級生たちは詰襟とセーラー服に身をまとい、両親や家族、そして友人の盛んな見送りを受けました。「頑張れよ」「先方の言う事をよく聞いて我慢してしっかりね」「体をいとえよ」などと口々に言葉を交わすのですが、当の本人たちにとってそれがどういう意味があるのかさえもまだ知る由もなかったのです。やがて蒸気機関車の「ポー」という出発の汽笛とともに列車は下灘駅を離れましたが、泣きの涙での別離の光景は今でも忘れることができないのです。

 後日同級会で列車に乗った張本人から聞いた話ですが、「あの時は辛かった。でも不安な中にもまるで修学旅行に行くような期待もあった。直ぐにでも帰れるような甘い思いもあったが、明くる日神戸の駅に降りた時、迎えに来た人の姿を見て事の重大さに気付いた。最初はホームシックにかかり、夜になると辛くて何度帰ろうと思って涙を流したことか。それでも親父やお袋の事を思うと引き返すことは出来ず頑張りぬいた。今思い出しても悲しい思い出だ」と述懐してくれました。

 彼が神戸の駅に降りた時、聞こえてきたのが井沢八郎の「ああ上野駅」だったそうです。そしてあの歌を思い出す度にあの火野事を思い出す」というのです。

 還暦の同級会に帰ってきた同級生の彼は私に「お前が羨ましい。生まれた所で育ち、生まれた所で暮らし、生まれた所で死ねるのだから」と意味深長な話をしました。そんな過ぎし日を述懐しながら私にハーモニカで「ああ上野駅」を吹いてくれるようリクエストがありました。彼は私がラジオ深夜便「心の時代」と列島1万2千キロの旅に出演していた事を知っていたのです。

 唐突な彼のりクエストに応え吹きましたが、彼は目にいっぱい涙をためて聞いてくれたのです。何気ないラジオから流れる「ああ上野駅」のメロディーや歌を聞いても知らない人にとっては興味もないはずですが、私にとっては大切な思い出の歌なのです。

  「ラジオから 流れる歌の 懐かしく 口ずさみつつ 思いめぐらす」 

  「青春は 遠い昔の 思い出に なりつつあるも 昨日のように」

  「吹いてくれ それでは吹くぞ 上野駅 涙流して 友の聞き入る」

  「知らないの ああ上野駅 知ってるのかい 時代古いね」

[ この記事をシェアする ]