shin-1さんの日記

○剪定枝木の焼却

 先日から人間牧場のそこここに植わっている杉の木の剪定を行なっています。この杉の木は元々みかん畑だったころの防風垣だったもので、一度は芯をを止められたものなので、杉といえば連想する二等辺三角形とは全く異なり、いびつな形をしています。人間牧場を始めた時、全て切ろうと思っていたのですが、切るのはいつでも切れると、眺望を遮りから切った方がいいという友人のアドバイスにも耳を貸さず残しておいたものなのです。緑とは有り難いもので、その後周辺の雑木を取り除いたため、杉に木に日が当たるようになり、すっかり様になっているのです。しかし散髪もしないのではそれこそみっともないと、下枝を剪定しているのです。

 今日は無風で穏やかな天候だったので、孫を連れて人間牧場へ行き剪定した枝葉を焼却処分することにしました。うず高く積まれた枝葉をまだ植え付けしていない芋畑へ積み上げ、周りに類焼しないように気を配って下から火をつけました。杉葉は勢いよく燃え始めました。火力が強くなった所へ、3年前に開墾した時潅木を薪用に畑の隅へ積んでいたのを寄せ集めて焼却です。火力は益々強くなり、午前中で殆ど終りました。

(煙も火も珍しい孫は有頂天です)
(孫に撮って貰った私の記念写真)

 孫も5歳なので足手まといながらそこそこ手伝いの力になって、枝葉を運んできては火の中へ面白そうに投げ込んでは楽しんでいました。近頃の子どもにとって焚き火を見るのも、自分で火の中へ薪を入れるのも、ましてや火の熱い勢いやパチパチと音を立てるのも初めてとあって、かなりテンションが上がっていました。

 やがて昼の音楽サイレンが鳴り、例によって妻の作ってくれたお弁当を広げ、二人で楽しい昼食を食べました。そして孫と2階のロフトに上がって、畳一畳ほどの場長室に入って一時間余り午睡をしました。

 午後は草刈りですが、年代物の草刈機なので、始動の度にエンジンがかかるかどうか心配するのですが、今日も絶好調です。ただし草刈機の刃が切れなくなっていて、そろそろ替刃に変えねばと思っています。今はまだ草丈も低いので、石などにぶつけて刃を駄目にすることが多いので、もう少し使ってから替えたいと思っています。春になると人間牧場も仕事が山ほどあって、孫の面倒を見る余裕は余りないのですが、それでもこの時期しか孫とのふれあいもないだろうと、無理をして相棒の面倒を見ています。

 今日は水平線の家の玄関に踏み石を一つ置く作業もしました。穴を掘り、そこに切り石を置くのですが、これまた孫が手伝うといってチョロチョロするのです。危ないといっても聞かず、孫の仕事を作ってやって、砂利を運ぶ作業をさせました。やっと終わると「おじいちゃん、僕が手伝ったから早くできた」と大威張りです。

(孫と一緒に作業し完成た飛び石)

 人間牧場界隈は今やぶ椿が見ごろです。桜もそこここ咲いて、人の目は桜に移っていますが、この頃のやぶ椿の花も趣きがあって、私は大好きです。まったく人の手の入らない自然のままのやぶ椿の花が、これほど美しいと感じたことはないほど、今年は特に美しく咲いていました。どうです。この見事な姿。思わずうっとりしてしまいました。今はメジロやウグイスが椿の蜜を吸いに沢山やって来て、時には直ぐ側でホーホケキョと鳴いてくれるのです。「おじいちゃん、キジが鳴いている」。人間牧場常連の孫は、「ケーン、ケーン」と鳴くかん高いキジの鳴き声を聞き分けれるようになったのです。孫のリクエストに答え、団子虫を10匹ほど捕まえて家に持ち帰りました。妻の土産にとツワブキまで収穫して帰りました。


(今が満開、見事なわが人間牧場のやぶ椿の花)

  「春休み 私本当は 骨休み したいけれども 孫が重荷で」

  「春椿 見事に咲いて メジロ来る 桜もいいが 名残椿も」

  「切石を 据える作業に 手足出し 足手まといの 孫と二人で」

  「火や煙 珍しいのか 近寄って まるで雲だと 追いかけ蒸せる」

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shin-1さんの日記

○赤トンボ先生も目出度くご退職

 団塊の世代とでも言うべきでしょうか、今年は小中学校の校長先生が随分退職され、松山管内は例年にない校長先生の大異動となりました。短いながら市町合併までの2年間、教育長を勤めたこともあって、馴染みの顔が沢山辞められ、一つの時代の終りを感じつつ退任のお便りや挨拶をいただいています。

 その校長先生の中に早くも「前」という漢字をつけなければならない、前松山市立久谷中学校長だった窪田先生がいます。先生は中央青年の家や県教委社会教育課などで青年教育にもかかわりましたし、双海町立上灘中学校の校長先生として勤務され、5人ながら町内校長会長として、楽しくも充実した教育活動をともにやり、肝胆相照らす仲だったのです。特に「双海の子育て10の約束」や「合併後の双海町公民館活動の在り方(諮問・答申)」にも、深く関わり、双海町の社会教育についても恩人なのです。

 窪田先生は私が赤トンボ先生と名付けたように、在任中竹を使って赤トンボを沢山作ってこられました。特に印象に残っているのは、双海町下灘で開かれた松山管内の同和教育研究大会を開いた折、参加した全員に赤トンボを配りたいという私の無謀無茶とも思える企画案に賛同して、教育委員会の職員とともに500個もの赤トンボを期日までに作り、会場を飾った後参加者に差し上げ、大きな反響と深い感動をいただいたのです。その後私の退職と同時に久谷中学校へ異動し今回の退職となったのです。

 異動後も私は先生と私的な交友を続け、先生に赤トンボをいただいて全国各地へその赤トンボとともに旅を続けていたのです。

 私には先生の作った赤トンボを世に出したいという思いがこの3年間離れたことはありません。そのくらい素晴らしいまるで生きているような手乗りの赤トンボを製作出来るのです。聞けば先生は退職後当分は別な仕事に就く予定もないそうなので、退職した明くる日の昨日、思い切って人間牧場へお誘いしました。先生と午前10時にシーサイド公園で待ち合わせして、私の田舎のオープンカーで人間牧場へ行きました。先生が人間牧場へ来たのはもう2年半前、つまりまだ人間牧場に水平線の家しかない草創期でした。先生はその後の人間牧場の充実ぶりに驚いたようでしたが、それから2時間赤トンボ談義に花を咲かせました。

 赤トンボを普及させるため二人でステップアップの仕方について色々な事を考えました。ステップアップ①、まず赤トンボを作るためには竹が必要です。真竹、孟宗竹は里山の荒廃で今はその気になればタダで手に入ります。孟宗竹は人間牧場に隣接している竹藪に手配済みですし、知人友人を訪ねれば真竹も当てはあり、何の問題もありません。田舎のオープンカーも利用出来ます。ステップアップ②、赤トンボを作る場所ですが、先生の自宅と人間牧場に造った倉庫を整理し赤トンボの家として活用することが可能です。既に工具類も今日を見越して購入済みで、赤トンボの家になるべき倉庫に眠っています。ステップアップ③、作る技術は先生が伝授できます。多分先生が関わらなければこの部分が伝承できないほど高度な技術なのです。ステップアップ④、この技術を普及する活動です。これは少年少女おもしろ教室や夏の間シーサイド公園で教室を開くことが可能だと思うのです。勿論出張指導も行えます。出来れば3月と9月の春分・秋分の日を赤トンボの日と定めてイベントを開くことも可能です。ステップアップ⑤、これは経済です。この赤トンボを地域の特産品としてシーサイド公園特産品センターで委託販売することです。ステップアップ⑥、夕日のミュージアムの一角に赤トンボコーナーを設置して赤トンボを文化として情報発信することです。ステップアップ⑦、インターネットでキットを販売したり情報発信すれば面白くなります。


 ざっと考えた私のステップアップ7つの戦略を推進するチーム作りをこれから始めなければなりません。多分5人ぐらいは必要でしょう。私と窪田さんは既に決まりです。これに地域づくりに関わっているえひめ地域政策研究センターの松本さんや、市役所の武田さんを加えてゆけば、作戦会議はもう明日にでも開けるかも知れません。

 考えただけでも面白くなりそうですね。要はこの考えを私的ネットワークで実践に移すことです。

  「赤トンボ 先生退職 さて何を すべきか話す 牧場の春」

  「校長も 辞めればただの 人となり 俺と同じ サンデー毎日」

  「昨日今日 沢山人が 訪ね来て 牧場忙中 閑もなく」

  「悪だくみ いやいやこれは 人助け トンボで町を 起こすのですよ」

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