shin-1さんの日記

○カーナビゲーション設備が故障

 数日前、妻が孫を連れてドラえもんの映画を見に行くというので、重信の映画館にアクセスしようと電話番号検索でカーナビをセットしましたが、どういう訳か言う事を聞いてくれません。仕方がないので感を頼りに出かけて行きましたが、どうにか開演時間に間に合ったようでした。その後も私が再三再四いじくるけれど、データが入力できないと表示があるのみです。どうやら故障かなと思い、カーナビを設置してもらった砥部町の懇意な車屋さんに出かけましたが、ご主人はあいにく留守で、昨日代車を持って来て車ごと取って帰ってもらいました。

 今朝電話があって、どうやら修理するにはカーナビ本体を取り外し、メーカーに送らねば修理は出来ないというのです。取り付けてから5年以上も経っているので、その後のカーナビの性能は著しく向上しているので、修理より取り替えた方がいいような口ぶりでしたが、愛着のある機種だけに今回は修理を頼んだのです。車屋さんの話によると、修理には2週間ほどかかるらしく、住所を探す自家用車での旅も今のところないことから、また代車を戻して、これから2週間カーナビのない不便な生活が始まるのです。

 カーナビを取り付けてから、私の講演活動などは一変しました。時間を追うように忙しく動き回る私にとってカーナビはまさに百人力で、時間的なロスが殆どないのです。特にカーナビを取り付けてよかったと思うのは、夜間知らない道を走行するときです。私が車で行く場所は中国四国、九州の主に山間地や漁村など田舎が多く、夜ともなると聞く人とて殆どないような場所が多いのです。ましてや田舎の道は道路標識も殆どなく、また県道や市町村道となるとまるで迷路のようで、間違いなく走れるのが不思議なほどなのです。そのためカーナビには随分助けられました。取り付け金額が幾らだったか覚えてはいませんが、もう充分に元は取ったようです。

 最近5歳になる孫の朋樹がカーナビに興味を示し、用事もないのに遠隔操作でいじりまくるのです。それでも壊れないから大目に見ていましたが、これからは触らせないようにしないといけないと、車屋さんに笑って話しをすると、「それもお孫さんへの投資ですよ」と笑われました。

 今回の修理で予期せぬ出費がかかりますが、ついでにETCを取り付けようと思っています。私は愛媛県の金融広報委員会で金融広報アドバイザーをしていますが、カードでの決済は殆どしない暮らしをしています。ゆえにETCの導入は今まで躊躇していましたが、便利、安いとなると取り付けない訳にはいかず、ついに思い切って取り付ける事にしたのです。

 カード決済は確かに便利です。現金を持たずとも買い物も出来るし海外旅行だって平気です。でもどこか好きになれない私はやはり古いタイプの人間なのでしょう。偽装カードの心配も、カードでのトラブルもないのですから、これほど確かなことはありませんが、カード時代に乗り遅れた人間にとっては何とも複雑な気持ちです。

 カーナビが復旧するのを首を長くして待っているのは私だけでなく、妻も同じです。カーナビを利用して八十八ヵ所遍路旅をこれまで10年間もかかってやってきました。納経帳は既に全てのお寺を終わっていますが、掛け軸がまだ少し残っています。早く終わらせて高野山参りをしたいと思っていて、この春先から楽しみにしていたようで、出鼻を挫かれたカーナビの故障に、身も心も沈みがちなので、一日も早い回復を祈りたいと思っています。

  「カーナビの 声に諭され 間違わず 知らない道を 随分走る」

  「ついでにと 注文したが ETC 何の略語か とんと分らず」

  「お遍路も カーナビお陰 喧嘩減り 後は高野へ お参り行くのみ」

  「右曲がれ 左へ曲がれ その都度に まるで空から 私を監視」

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shin-1さんの日記

○借景に値する本尊山

 わが家の直ぐ目の前に本尊山という標高180mの山が聳えています。この山は峰が海岸まで突き出しているため東側の一部分を除いて表、横、裏と3方から見ることが出来る大変珍しい山で、双海町のシンボルとなっていますが、車道がなく急な山道だけ、しかも踏み切りもない予讃線の鉄道線路をまたがなければならないので、上る人も殆どなく、荒れた山となっています。中世時代には頂上付近に城郭があって、今でも郭と思しき平地が幾重にもあって、往時を偲ぶことが出来ますが、矢竹が生えているため、クモの巣に行く手を阻まれ、それ程高くない山なのに町民には比較的縁遠い存在なのです。でも双海町民は雑木林に覆われたこの山の優美な姿にどこか惹かれているのです。

 この山の姿が一番美しく見えるのはやはり西側からで、唐崎辺りから見るとまるで中国の水墨画に出てくるような美しい景色をしており、菜の花の咲くこの頃には、「菜の花や月は東に日は西に」の言葉そのままの姿を見ることが出来るのです。勿論夕日のメッカふたみシーサイド公園からの眺めも素晴らしく、来園した人から「あの山は変わった形をしていますが何という名前の山ですか?」と尋ねられることがよくあります。

 私がまだ若く、まちづくりを始めた頃、その頂上へ中世の城郭を再現しようと試みたことがありました。一週間をもかけて、草刈機で矢竹を刈り、日本城郭協会の井上会長を招聘して踏破調査を行い、城郭公園の概略まで書き、県の補助金まで取り付けたのです。でも性急な行動に疑問があるし、自然破壊になると反対が起こり、断念せざるを得ませんでした。枕木千本をJRに寄付してくれるよう頼んで、町民のボランティアで日本一長い階段を作ってやろうと、そこまで計画は具体的になっていましたが、残念ながら頓挫をしたのです。今でもその当時のやる気と図面が脳裏に焼きついていて、宝くじでも当たったら自費でもなんて馬鹿な事を考えて歯向かっていました。

 この山の魅力は切り立った険しさです。何十年か前までは「山見小屋」と称する漁業基地がありました。イワシの魚群を発見する最前基地です。目利きの良い漁師さんが毎日登り、海の色を見て白い大ウチワのようなザイを振り、「ツォーイ、ツォーイ」と大声を張り上げて漁船や漁民に魚群の位置を知らせていました。魚群探知機の普及でその役割を終え、晩年は無線の中継基地となっていましたが、今はもうその姿を見ることは出来ません。

 ここは天一稲荷神社の奥の院となっていて、鳥居が立っています。昔小網青年団が建てたそうですが、風雨で崩れていました。最近になって有志が建立し、シーサイド公園からは眺めることができます。また中腹には私たちの家も加入しているテレビの強調アンテナが立って、私たちにいい電波を受信させているのです。またここには時を告げるサイレンが設置されていて、朝5時、12時、夕方5時に時を告げ、火事などの緊急荷物会われていましたが、それも有線放送の普及によって姿を消しました。

 わが家からは、直ぐ手の届くような位置に見えますが、その姿は西から見る優雅さとは似ても似つかぬ荒々しい姿をさらけ出しています。自然林のため、春の芽吹き、そうもうそろそろですが山桜が松の緑に映えそれは美しい景色です。初夏の霧のたなびき、盛夏の残照、秋のハゼ紅葉の鮮やかさ、冬の雪景色など、どれをとっても素敵な、わが家にとってはまさに借景なのです。

 年に一度は登りたいと思っていますが、今日当たり転機が良いので孫を連れて登ってみようと、今朝の本尊山を見て思いました。

  「あの山に 夢を描いた 若き日が 今は遠のき 加齢ひしひし」

  「分け入りを 拒み続ける 神の山 遥か中世 同じな人が」

  「ウグイスの 馴れた鳴き声 遠くから おいでおいでと 呼んでるようだ」

  「朝な夕 この山見つつ 暮らしてる 借景俺の 築山じゃけん」

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shin-1さんの日記

○ポカポカ陽気の水ぬるむ頃

 桜の開花も間近となって、海沿いの町にも春がやって来ました。もう間もなく海岸に沿って伸びる国道には桜の帯ができることでしょう。今日は孫朋樹の守りと遠来のお客様がやって来るため、限界集落の勉強会は残念ながら欠席しました。そのお客様も午前中に帰り、昼は妻の用意してくれたお弁当を孫と二人人間牧場のウッドデッキで広げ、長閑なひと時を過ごしました。早いもので孫ももう5歳です。食欲などは私より旺盛で、大きなお結びを6個用意していましたが、私は2個、孫は3個もペロリ平らげ、おかずも殆ど孫が食べてしまいました。

 今日は人間牧場に植わった周りの木々の下枝の剪定です。防風垣から生長した杉の木なのでいびつな格好をしていて、下枝が風景を遮っているのです。木によじ登ってその下枝を切り落としました。多分もう大風も吹かないので、防風より景観なのです。海に向って立つ水平線の家の右側に立つ杉の下枝を切り落とすと、それは見事なやぶ椿の木が現れました。このやぶ椿は少々晩生なのか春三月を終りだというのにまだ蕾が多く、これから花盛りとなるのです。最近は洋風の椿が主流となっていますが、やぶ椿のような二本の在来種も捨てがたい味があり、椿の真赤な花が落ちた姿もこれまた素敵な風情を醸してくれるのです。

 今日は茅の剪定も行いました。茅とはススキのことで、水平線の家の屋敷には何年間も放任していたため無数の茅が根を張っていましたが、新築の折全て根こそぎ抜根してしまいました。一株だけ風情を演出し下にある墓地を隠すため残していましたが、これがまた四季折々の顔を見せてくれるのです。春先の新芽、夏の涼しさ、秋のススキ、冬枯れの寂しさなどたった一株だのに季節を感じさせる一品です。今はすべて枯れてまるでドライフラワーのようです。

 草刈機を回して根元から刈り取りましたが、その硬いこと硬いこと、容易には刈り取れませんでした。それでも10分ほどで狩り払い、その残茎はその横に植えたブルーベリーの畑の草押さえとして入れました。

 孫と二人でお昼寝タイムを楽しみました。最近は孫もお昼寝がなくなりましたが、私は昨晩が遅かったため少し眠気をもよおしました。二人で二階のロフトに上がり、通称寝部屋と呼んでいる畳一畳の部屋に入り、寝袋にくるまって毛布を被り、二人が一時間ほど眠ったのです。孫はまるで湯たんぽのようでポカポカしてとても気持ちのいい至福のひと時でした。

 帰りに孫のリクエストに応えて海岸で磯遊びをしました。今日の海も穏やかで、海岸にはワカメが沢山流れていていました。磯遊びをしている他の人は水に濡れながらワカメを採っていましたが、私はいながらにしてビニールの袋にいっぱいワカメを集めました。孫は相変わらずカニやヤドカリなどを探して石を剥いでいました。カニを見つけては大騒ぎしている姿を見ると、こちらまで嬉しくなるのです。

 帰宅して仕事から帰った妻と一緒にワカメを茹で、庭に張ったビニールの紐の上に干してゆきましたが、あいにく夕方からポロリポロリと雨が落ちだし、「あなたがこんな真面目な事をするから雨が降る」と笑われてしまいました。ああーなげかわしいですね。

  「孫の守り 実は私を もて遊ぶ 野山海まで 日がな一日」

  「湯たんぽを 抱いているよな 孫と寝る 昼のひと時 ついうとうとと」

  「浜に出て ワカメ大漁 意気揚々 挙句の果ては 茹でて干す羽目」

  「子どもには 浜での遊び 新鮮か はしゃぐ孫見て 首をかしげる

  追伸

  今夕、妻が先日採ってきたニナを塩茹でしました。爪楊枝でほじり美味しいと二人で食べましたが、孫は何故か食べず、そのうち目にいっぱい涙をためて泣き出しました。聞けば「せっかく採ったニナを茹でて食べるのは可哀想だというのです。困った私たちは食べるのを止め、台所に今日採ったニナがあるのを見せました。バケツのカニはカニやニナ、それにハゼが2匹います。安心したのか泣くのを止め、私の布団に潜り込んで、カニの話しを聞きながら寝ました。どう教育したらいいのか、突然の出来事に戸惑いました。

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shin-1さんの日記

○好きなことば

 色々な本を読み、色々な言葉に出会い、色々と書き留め、色々な場所で思い出して活用してきましたが、それらの殆どはいつの間にか忘れ去ってしまいました。また自分もそんな色々な言葉に感化されて、色々な言葉を作り、それもた自著本に書き留めたりして、自分以外の人が私と同じように色々な場所や場面で利用したと、風の頼りに書いていました。

 一昨日私の元に一通の封書が届きました。埼玉県熊谷市の龍前宏さんからです。埼玉県での私の講演が縁で付き合いが始まり、不定期ながら自分が雑誌に書いたコピー文とレコーダーテープが届くのです。龍前さんは相当博学で愛読者らしく、毎回ドキリとするような文章を送ってくれるのです。それは多分最近読んだどの本よりも多い情報量で、私の硬化しつつある頭脳を叩き割って、新しい知恵を注入してくれるのです。

 今回は「私の好きな言葉」と題して、成田公民館長に就任以来隔月発行されている「公民館だより」の片隅に、読書遍歴を通じて、琴線に触れた先人達の名言を掲載していた幾つかの言葉が届きました。

 世の中にもし幸福というものがあるとすれば、それは他人に喜びを与える以上の幸福はない。そして、そのために、人はどれほどのことを忍ばねばならぬものだろうか。

                       白州正子著「銀座に生き、銀座に死す」より

 欲なければ一切足り、求むるあれば全て窮す。

                       良寛和尚のことば

 ふりむくな、ふりむくな、うしろには幸福はない。

                       寺山修司詩集より

 一夜の楽しみは酒、ひと月の楽しみは淡い恋、一生の楽しみは友。

                       「戦艦大和の最後」の著者、吉田満のことば

 どんなに賢くとも、にんげん、自分の背中を見ることはできないんだからね。

                       山本周五郎著「さぶ」より

 湖に浮かべたボートのように、人は後ろ向きで未来に入ってゆく。目に映るのは過去の風景ばかり。明日の景色は誰も知らない。

                       フランスの詩人 バレリーのことば

 互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか、あとで、疑わしくなる方がいい。

                       吉野弘 作詩「祝婚歌」より

 人間は二度と生まれてはこられない。又、そんなにいつまでも生きていられるものでもない。一日一日無理をせず、最善を尽くして生きてゆこう。

                       昭和天皇侍従長 入江相政著「不如意の美」より

 人の美しさは顔形だけではない。美しいことばを使い、美しい表現力を持つこと。わからない言葉や文字に出会った時、おっくうがらずに辞書を引き確かめる。その積み重ねが人の魅力をつくる。

                       美容学校長 小暮実千代のことば

 人間が身体を養うのに食べ物が必要なのと同じように、人の心や魂にも養分が必要だ。そういう魂の食べ物が美術であり、音楽であり、演劇であり、文学なのだ。

                       作家五木寛之のことば

 人と人とは互いに理解しなきゃ仲良くはなれない。こっちが胸を広げなきゃ相手も胸を広げない。それは人間のルールだ。

                       柳家小三治(噺家) 一冊の本より

 何千億か、何万億か、永遠の宇宙に浮かぶこの地球。ほんの一瞬だけ生きる人間、その人間が一生の間に使うものの量というものは、ほんとうにわずかなものだ。

                       沢村貞子著「老いの楽しみ」より

 そろそろ自分自身が感じる幸福を探すことだと思います。他人に見せるための幸福は、所詮は薄っぺらなものでしかない。お金や物にとらわれるのはもう止めにしませんか。個人としての自分、そして自分がやるべき仕事、その一点を見つめることで、きっと幸福の芽が顔を覗かせると私は思います。

                       新藤兼人(九十六歳)著「いのちのレッスン」より


  「魂を 揺さぶるような 言葉抄 俺はまだまだ 門前小僧」

  「なるほどと 合図槌打ちて 文を読む 一歩前行く 言葉数々」

  「人生の 奥行き間口 大きくて 気付かぬままに 死んで行くかも」

  「人間は 言葉を餌に 生きている 言葉次第で 生きる勇気が」 

       

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shin-1さんの日記

○小学校の卒業式

 先日地元の中学校の卒業式に招かれ感激した涙もまだ乾かないのに、今度はやはり地元の小学校の卒業式に列席しました。中学校の卒業式に比べると、小さな子どもゆえ、感涙咽ぶような涙はありませんでしたが、それでも純真さが漂って、とてもいい雰囲気でした。

 卒業式は体育館で行われましたが、式典は全てステージを使わずワンフロアーとして使われたことが中学校と小学校の大きな違いでした。更に中学校のように送辞・答辞を特定の個人が行わず、みんなが主役というのも大きな違いでした。

 先日の中学校の卒業式もそうでしたが、この卒業式も「気をつけ・礼」などという、私たちが経験した軍隊式の規律はなく、実にてきぱきとこなしていました。今日の卒業式で感心したことが二つありました。6年生担任の大山先生が卒業生の名前を読み上げる時、何の台本も持たずに宙で言ったのです。普通は台本か台帳のようなものを見ながら読み上げるのですが、大山先生は見事に卒業生全員の名前を呼び上げました。僅か13人の卒業生だからそんなの当たり前だと言えばそれまでですが、あんな緊張した式典の席上で、中々言えるものではありません。大きい学校が持て囃され、小さな学校が肩身の狭いような雰囲気の昨今ですが、担任の先生が子どもの名前を丸暗記する何でもないことが出来ない先生が多い中で、とても立派な出来事だと思いました。

(卒業証書授与)

 卒業生と在校生が向き合い、片方に先生と両親、そしてもう片方に来賓と、見慣れた光景ではありますが、全てが見える配置は素敵でした。

(在校生)
(PTAやご両親)
(13人の卒業生)

 もう一つ嬉しかったのは、卒業生が最後に自分の夢を発表する姿でした。「私は学校の先生になりたい」「私は看護師になりたい」「私は動物園のキーパーさんになりたい」「サッカー選手になりたい」「人を助けるような仕事がしたい」「医者になって人を助けたい」などなど、とても立派な決意でした。私が小学校を卒業した頃とは随分違っているなあと思いつつ、耳を傾けました。今日発表した夢が中学生になると学力や体力の程度が分り、砕けて行くのですが、せめてこれらの夢を追い求め続けて欲しいものだと思いました。

 私は小学校5年生の時、図書室で読んだ「ジョン・万次郎の生涯」という伝記に感化され、アメリカへ行きたいという大きな望みを持っていました。「アメリカへ行って何をするの、何になるの」といわれればそれまでなのですが、そんなささやかな夢を持ち続けた結果、30歳の時本当に建国200年のアメリカへ行くことが出来、自分の人生観が大きく変わったのです。「まだ小学生だから夢なんて」と思うかも知れませんが、どうして、今日の夢は自分の人生を決めてしまうような夢になるかもしれないのです。

 卒業は新たな旅立ちです。後2週間もすれば今日の半ズボンであどけない姿が一変し、詰襟の学生服に変わって、大人のような格好をするのですから不思議です。

 中学校でも純真な今日の気持ちを忘れないで欲しいと願っています。

 来賓照会で「学校評議員の若松さん」と紹介され、ふと我に返った私でした。

  「将来の 夢を大声 堂々と このまま強く 生きて欲しいね」

  「四年間 この学び舎で 校長も 人事異動で 隣の街へ」

  「半ズボン 明日から長く なりにけり 子どもと大人 丁度境目」

  「手を振って 馴染みの子ども 合図する 人偏牧場 出会い度々」



 

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shin-1さんの日記

○懐かしい二本の電話

 昨夜懐かしい人から相次いで二本の電話がかかってきました。一本は私が携帯を書斎の机の上に置いて別室居間で大相撲観戦中らしく、留守電メールが入っていました。その電話の主は現在横浜に住むHさんという女性です。Hさんといっても、別に変なHではなくなめの頭文字がHさんだけなのです。Hさんと私は第十回総理府派遣青年の船に乗って建国二百年のアメリカへ行った旧友女性です。彼女は八幡浜出身で既婚ながら旧姓を名乗っているところを見ると養子さんなのでしょう。昨年の秋に里帰りした折出会い、その後何度か電話をいただきましたが、今回は春の彼岸のお墓参りらしく、今日会えないかという相談でした。私の今日の予定は朝から地元小学校の評議員をしているため、卒業式に出かけるが、午後は夕方の会議まで空いていると、これまた出ない相手の携帯に留守電で連絡しました。

 夜10時頃だったでしょうか、彼女から電話があって「明日午後2時28分伊予市着の八幡浜発特急宇和海で来るから、夕方の飛行機で帰る予定なので空港まで送ってね」の以来に、市もにもなく約束しました。彼女と何でこんなに頻繁に電話するかというと、今年の秋10月、私と彼女が所属している第十回青年の船班長会を松山ですることになっているようなのです。彼女が受けた計画なのですが、班長会には最初の頃東京であった一度きりしか参加していない私にとっては、縁の遠い集会なのです。というのも青年の船を下りてからこれまでの33年間は私にとって、命がけの仕事だったため、年に一度といいながらハワイでもやるような班長会へ出席する余裕は正直なところなかったのです。毎年届く班長会の案内に行きたい気持ちを押さえながら悶々した時期もありましたが、「あいつは来ない班長」と烙印を押され悪口三昧を言われている班長会が、いつの間にか遠い存在になっていました。その間何人かの班長と出会う機会もあったっり、昨年は奈良のT班長と仕事で出会うこととなり、ついに「若松が来ないのなら愛媛でやろう」と欠席裁判に掛けられ、Hさんも手伝うからという条件をつけた愛媛での集会が計画されているのです。今日のHさんとの出会いで更にその計画は進むような雲行きです。

 もう一本の電話は、高知県四万十市に住むWさんです。昔は「おいこら」の間柄で頻繁に交流していましたし、最近も妻にアロエクリームを送ってくれるなど、今も良好な関係が続いている、合併して村役場職員から大出世して市役所の職員になった方です。彼は高知の人全てがそうだと思うほど酒が大好きです。私も昔は彼たちと夢を語りながら深夜まで酒を酌み交わしていました。体調を崩してからきっぱり酒を止めた私が物足らないのか、酒を飲むと嬉しい事に私がよく知っている周りの人を巻き込んで、嬉しい事によく電話をかけてきます。酒に酔っても私の事を思い出してくれるのですからこんなに嬉しいことはありません。一昨年は彼の肝入りで20回も四万十市へ講演に出かけました。

 昨日はどこで飲んだのか、どこの酒の席なのか分りませんが余り酔ってはいませんでした。友人の人事異動の話、自分の仕事の話、最近の話など何故か懐かしさが込み上げてきました。彼も課長になって孤独な仕事をして誰にも相談できないで悩んでいるのでしょうが、そこら辺が垣間見えるような相談ごともあるようで、一度出会わなければなるまいと思った次第です。

 相次いでかかってきた二本の電話で私は目が冴えてしばらくの間寝れませんでした。Hさんとは今日会えるのですが、青年の船の思い出は私の青春時代の大切な宝物なのです。また四万十市のWさんも私の人生にとってかけがえのない思い出の数々なのです。こうして古い時代の思い出に引き戻させてくれる仲間がいるという幸せは、年齢を重ねると余計身に染みるものなのです。私はこの二人をこれからも大切な友人としてつき会いたいと思っています。

  「酒呑んで 電話かけくる 友ありて 懐かし日々が 昨日のように」

  「えっ何で 毎日俺の ブログ読む 故に知ってる 巷の噂」

  「寝食を ともに過ごした 船の上 あの頃互い 若さ溢れて」

  「彼らより 一歩先行く 使命感 なくば嫌われ 電話もないぞ」

 

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shin-1さんの日記

○坊ちゃん劇場での演劇鑑賞

 今日は朝から雨です。昨日から始まった甲子園球場での選抜高校野球選手権は、まだ大阪まで雨の区域が到達していないため何とか持ちそうな雲行きです。

 数日前ぼっやん劇場から、ミュージカル「龍馬」のお披露目公演のご案内をいただいていて、出席返信をしていたので、孫とドラえもんの映画を見に行くという約束を妻に頼んで出かけました。故に普通自家用車は妻に渡し、田舎のオープンカーと呼んでいるトラックでの観劇なのです。

 今日のお披露目には四国アイランドリーグの石毛さんや顔見知りの有名人の招待されていて、私のような田舎者に何故招待状が届いたのか分りませんが、甘んじて参加させていただきました。

 偶然にも隣の席には偶然にも嬉しい事に生協の白川さんが座り、美しい人ゆえに奥さん?と間違われて右往左往しました。私の席はS席く列9番いう結構前の席で、見やすい角度でした。第一作のミュージカル坊ちゃんで馴染みの常設劇場だけに安心して見ることが出来ました。


 さて今回のミュージカル「龍馬」は、ジェームス三木さんの脚本で演出です。ジェームス三木さんはパンフレットの中で、「龍馬は閉鎖的な武家社会の中で、自由奔放に生き、幕府という組織をくつがえした人です。刀を差して靴を履いた写真とか、日本最初の新婚旅行とか、積極的でものごとにこだわらない性格が窺えます。個人と組織の関わりは、現代でも重要なテーマですから、竜馬の人気は衰えません。私たちに生きるヒントを与え、勇気づけてくれるのです。

 今回は龍馬がミュージカルになります。ちょん髷をつけた武士が、歌ったり踊ったりするわけですから、とんでもないことになりそうですが、竜馬の精神を伝えるには、案外ぴったりな形式かも知れません」と述べています。

 舞台はその通りでした。特に龍馬がタップダンスを踊る姿や見回り組の役人が観客に尋問する姿は思わず感嘆の声を上げ笑いを誘いました。

 今回の龍馬は、33年短い生涯の中の薩長同盟から大政奉還、近江屋襲撃事件に至る僅か2年間を扱っていますが、近江屋にて11月15日、中岡慎太郎とともに暗殺されるシーンはいつ見ても新鮮です。

 あるときはサムライとして、あるときは貿易商人として、あるときは政治家として、またあるときは恋に翻弄される一介の男として、幕末という激動の時代に「希望」という灯をかざしながら、駆け抜けていった志士「坂本龍馬」の生き様をリアルに描いた見応えのあるさわやかな作品でした。

(公演修了後花束を受けるスタッフ)
(舞台挨拶をした脚本・演出のジェームス三木さん)

  「常小屋で 演劇鑑賞 する余裕 竜馬と自分 ダブらせながら」

  「誕生と 命日同じ 数奇人 短いけれど 成す事多し」

  「百余年 越えても龍馬 なおヒーロー あんな生き方 したいけれども」

  「撮っちゃ駄目 言われて撮らず いたけれど ストロボ消して 最後だけでも」

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shin-1さんの日記

○人事異動の春

 昨日の地元紙朝刊には、県内の自治体及び公立小・中・高校の先生の異動名簿が掲載されていました。小・中学校より高校の方がランクが上なのか、高校の校長先生は顔写真付きで一面記事、小・中学校は14・15面記事、自治体は8・9面記事と、それぞれ掲載される場所が違うのも勘ぐりたくなる差別のような気がしてなりません。まあそんなに目くじらを立てることも無いので区別くらいの軽い気持ちで見流しましょう。

 リタイアして3年が経つと知人友人の数もどんどん少なくなって、どの人が変わろうが自分の暮らしにはそんなに影響はないのですが、それでもお世話になった人たちや思いで多い人たちの名前を虫眼鏡で見るような小さな活字で見つけると、嬉しさや寂しさがこみ上げてくるのです。

 特に退職欄には悲喜こもごもの思いがあって、「ああ、あの人も退職か」と寂しく思うのです。特に3年前に起こった地方の激震ともいわれる合併によって同じレベルなのに一方は課長、もう一方は部長と大きく水をあけられて辞める人の活字は、文句の一つも言いたげな雰囲気が漂ってきます。でも退職後は部長も課長も平もないんだと、エールを送りたい気持ちです。退職した人は4月から始まる自由人としての暮しや再就職の生活が舞っていることと思いますが、くれぐれも「こんなはずではなかった」と天と地の落差に驚かず、不自由のなかの自由を最大限に発揮して生きて欲しいと思うのです。

 地元小中学校の校長先生も5校のうち3人までが換わったようです。特に私のブログに何度かメールを送っていただいた上中原田校長先生は松山の中学校へ転勤だそうです。3年間でしたがとてもいいお付き合いをしましたし、由並の栗田校長先生、下小の池田校長先生も少年少女おもしろ教室で度々人間牧場へ来ていただきました。池田先生は松山、栗田先生は市内への異動のようです。

 今朝メールが届きました。国立大洲青少年交流の家の浅野長武先生からです。この3年間最も近い関係で人生を語った人です。私のブログもいち早く読み、いち早く感想を送ってくれるメールの達人です。先生の弟さんは三崎で果樹園を営んでいますが、伊方町で偶然合い、ハガキのやり取りもしました。浅野先生も今回の異動で三崎中学へ赴任するそうです。地元の中学校なので気心の知れた異動でしょうが、少し遠くなってゆくものの、夕やけこやけラインや潮風メロディーラインをつなげばそんなに時間のかかる場所ではないだけに、今後も出会いたいものです。

 今朝のメールで浅野先生は素敵な言葉を送ってくれました。

 世界を変えるって そんなに難しいことじゃない

 世界は私たち一人ひとりからできている

 だから あなたや私が

 ちょっと変われば せかいはやっぱり

 ほんのちょっと変わってゆく

         (セヴァン・カリス=スズキ)

            1992年 国連地球サミット(リオ・デジャネイロ)にて

 味わい深い言葉です。異動先での皆さんの心がけはこうでなくっちゃあ。ご活躍を祈ります。

  「春が来た 異動の季節 こもごもの 思い巡りて 旅立つ人あり」

  「ご苦労の 言葉をかけて 迎えたい 退職組の 仲間にエール」

  「上や下 組織の中のみ 存在す 辞めればただの 人たちだから」

  「どうするの まだ決めてない 先のこと 聞く度返る 同じ言葉」


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shin-1さんの日記

○孫と二人で磯遊び

松山の幼稚園に通う孫朋樹が今日から春休みとなりました。待ちに待ったように昨晩電話があって、「遊びに行きたいので迎えに来て欲しい」というのです。昨晩からそのつもりで朝を迎えましたが、朝隠居へ行くと親父がどうも風邪気味なので、病院へ連れて行って欲しいというのです。普通親父は90歳ながら7キロ余り離れた診療所へ自転車で行くのですが、この日は往復14キロの行程を自転車で行くのが自信がないのか、自転車をトラックで積んで一緒に診療所まで連れて行けというのです。帰りは自分で帰るということなので、言われるままに出かけました。今日は土曜日ながら診療所は開いていて点滴の予約をとって親父と別れました。

 その足で松山の娘のマンションまで走り、孫尚樹を少しの間あやした後、孫朋樹を乗せて途中長男宅へ立ち寄りました。昨晩わが家へ電話がかかってきて、子どもの初節句なので外飾りにするか打ち飾りにするか、妻と相談していました。息子は外飾りの鯉幟が欲しいようなのですが、妻は長男の鯉幟を揚げたり下したりする手間が大変と、内飾りを主張しているようです。確かにわが家は庭が広いし外飾りの鯉幟も悪くはないのですが、妻の言うことも一利あるだけに、私としては妻の意見に賛成なのです。ただ私の子どもとはいいながら孫は息子の子ですからその意見も尊重しなければなりません。辛い選択なのでしょうがここは妻の意見の方に軍配が上がりそうです。

 私と朋樹は家に帰って直ぐに身支度を整えて田舎のオープンカーに乗って人間牧場を目指しました。久しぶりの人間牧場界隈はもう梅の花も殆ど散って、畑には蕗が沢山芽を出していました。間もなく子の蕗も大事な食材として味わいたいものです。

 水平線の家の窓の戸を朋樹に手伝ってもらって全て開け、早春の風を室内に思い切り入れました。少し肌寒い感じもしましたがやはり気持ちのいいものです。

 私は早速地下足袋に履き替えて昨日買っていたプルーンやスモモの苗5本を植える準備をしました。苗木は既に芽吹いていて、少し遅い感じがしないでもないですが園芸店の話だとまだ充分だと聞いたものですから、植えない木は育たないとばかりに植えたのです。昨年森林組合の稲田さんの紹介で植えたスモモは一本だけ枯れましたが、後は順調に育っていて、早くも芽吹いて生育著しく、この分だと来年頃にはボツボツ実を付けるのではないかと思われる程の生育です。

 孫は私の姿が見えなくなると、大きな声で「おじいちゃーん」と大きな声で私を探します。孫の今日のお目当ては木々を拾い集めてユンボを造るのだと張り切っていました。日頃は狭いマンションの室内で、滅多なことも出来ず、悶々の日々を過ごしているのでしょうか、双海へ来ると孫は俄然張り切って工作遊びに遊びに熱中するのです。

 3時になったのでツワブキを採取して帰る途中、海で磯遊びをする人たちを見つけました。朋樹が「おじいちゃん砂浜で遊んで帰ろう」というので、適当な歩道に車を止めて国道を横切り唐崎近くの海岸に下りて行きました。大潮なのでしょうか、海岸は干潮で沢山の人がワカメやヒジキ、それにニナという小さな貝を採っていました。朋樹と二人で石をはがし、意思の下にあるニナを取り始めました。あいにく買い物用のナイロン袋しか持ち合わせていなかったので、その中に採取したニナを入れて行くのです。期待していなかった割には沢山取れてナイロンの袋に半分以上も取れたのです。朋樹はここでもよほど嬉しかったのか、キャーキャーいいながら、やれカニだとか小魚だとか歓声を上げて夢中になって追い掛け回しました。

 ニナも一回食べるほどは確保しました。帰ってすぐさま貝を水で洗い水をためて塩を入れました。これで砂分を吐き出して綺麗なニナとなり、明日は湯がいて爪楊枝で引き出して食べれるのです。とっさの思い付きでしたが、孫にとっては余程印象に残ったのか、夕方まで外でこの貝を観察していました。

  「春休み わが家にとっては 春忙し 孫のお守りも 意外と疲れ」

  「マンションに 暮らしていると 何となく 自由が利かず 悶々日々を」

  「山と海 子どもにとって 楽しみだ だのに子姿 殆ど見えず」

  「さあ明日は ニナを湯がいて 食べようぜ 可哀想だと 優しき孫は」

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shin-1さんの日記

○誤字脱字が巻き起こす思考

 毎日朝夕、パソコンに向って文章を書くのが日課になりつつある私ですが、パソコンは凄い仕事をしてくれる反面誤字脱字の天才で、使う私が少しでも気を抜くと、もう訳も分らず大変な活字を画面の上に表示するのです。その都度その誤字脱字を変換して私の意に沿うよう直して行くのですが、頼まれた原稿以外はさして気にもせず書き流してしまうのです。特に日記のような気楽な気持ちで書くブログなどは、自分の書いた文章が不特定多数の人々に詠まれていることをすっかり忘れて、校正しないまま完了と思い込み世に送り出しているのです。でもこんな私のブログでも、多い日には千人を超えるアクセスがあって、毎日都度都度アクセス数やランキングがシビアに表示され、一喜一憂したりするのです。

 先日「観光」関係の雑誌から原稿を頼まれ原稿をメールに添付した後で重大なミスに気がつきました。「観光」を「感光」と変換したまま送ってしまったのです。気付いた私は直ぐに訂正して再送し事なきを得ましたが、でもそれから私は「観光」なる変換ミスをいいことに、言葉遊びをしてみました。あるわあるわ、でもひょっとしたらこの変換ミスで出てくる観という漢字の次に出てくる一文字はどうやら観光のキーワードとなりそうな気配なのです。

 ・観康-温泉・健康・ウエルネス・美容・医療

 ・観口-グルメ・ヘルシー・地産地消・食文化・郷土料理

 ・観香-花・自然・季節・風景・若者

 ・観購-ショッピング・カスタムオーダー・ギフト・ふるさと小包・宅配便

 ・観好-好学・好物・愛好・好きなコト・モノ・人・ブライダル物語

 ・観交-交友・交遊・社交・コンベンション

 ・観興-花火・祭り・ライトアップ・観光会社

 ・観攻-カジノ・競馬・コンテスト・レース・ゲーム・スポーツイベント

 ・観工-モノづくり・伝統工芸・産業観光

 ・観校-修学旅行・研修旅行・廃校利用・子ども遊びの学校・ツーリズム大学

 ・観航-航海・航空・航空レジャー・観光漁業

 ・観幸-シルバー・ブライダル・民宿

 如何でしょう。今朝パソコンをいじくっただけでもこれほどの観光のキーワードが出てくるのですから凄いものです。もし観光の講演依頼があったら、これらをもっと吟味してレジメを作ればもう1時間半の講演はOKなのです。ひょっとしたら「嘘から出た誠」となるかも知れないと、ひとりほくそ笑みながら吹きだしてしまいました。

 パソコンは正直だし嘘だらけです。使うこちらが操作を誤るととんでもない間違いを起こします。その間違いに気付き、その間違いを直すのは、どこか子育てに似ているような気もします。子どもだって間違いの天才です。その間違いを直し正しい方向に導く親の資質が今問われています。パソコンという子どもとそれを使うという親との関係はとても役に立つ関係かも知れません。

  「パソコンの 変換ミスが アイデアを 生むとは知らず 次から次へ」

  「観光を 考え変換 試みる なるほど思い 十二の熟語」

  「朝起きて こんな馬鹿げた 考えを 妻は知らずに 夢をさまよう」

  「パソコンを 子どもに見立て 考える 気がつき直す 気付き必要」

 

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