shin-1さんの日記

○昨日は忙しい一日でした

昨日は公私にわたり忙しい一日でした。朝起きると森林組合の稲田組合長さんに3日前注文していた梅10本とスモモ6本の苗木が届いていて、既に木の芽が動いて目を出しているので、急いで植えなければなるまいと、支柱用の竹を裏山で10本ばかり切って苗木とともに軽四に積んで人間牧場へ行きました。昨日あたりからすっかり春めいて、朝の気温が5度程度だったのに今朝は10度もあり遠望は春特有の霞がかかっていましたが、雲ひとつない絶好の畑仕事の天気でした。前もって大洲の亀本さんからもらった耕運機で中耕をしていたので、かなりスムースに植えることが出来ました。それでも昨年手に入れた梅の木の間隔を参考にしながら何年篭に張るであろう枝を想定して鍬で穴を掘り、丁寧に植えて行きました。近所で畑仕事をしている顔見知りのおばちゃんと畑を挟んで大声で会話を交わしながらの作業でした。春とはいいながらきつい日差しに汗が噴出しましたが心地よい汗です。苗木に付けられたエブ札によると梅は加賀白という品種のようで、スモモはサニタリーと大豊(大実)と書いてありました。植えた後竹の支柱を立ててビニール紐で2箇所づつしっかりと固定しました。今度人間牧場に行った時は亀本さんからいただいている牛糞を苗の周りにしっかり振りまいて大事に育てたいと思っています。稲田組合長さんの話によるとスモモは3~4年で実を付けるそうですので今から楽しみです。たった一人でのなれない仕事ははかどったようでも3時間もかかって、水をやり終える頃には12時近くになっていました。畑の隅には沢山のツワブキが伸びていて、食用に100本ばかし引き抜いて持ち帰りました。明日にでも皮をむいて食用にしたいと思っています。

 午後2時には約束をしていた岡山県の備前市商工会議所から14名の視察を受け入れることになっていたのでシャワーを浴び食事を済ませて市役所支所でお願いしていたパンフレットの入った封筒を貰って待ち合わせ場所のシーサイド公園へ向かいました。30分前だというのにバスはもう到着していて、意気込みの強さを感じました。今回の視察者の中に私がかつて講演で行ったことのある和気町商工会の会長さんが来られていました。夕日のミュージアムで約1時間ばかり話した後シーサイド公園や閏住の菜の花畑の見学に出かけました。菜の花も少し満開を過ぎた頃ですがそれでもまだまだ十分楽しめるようです。私の妹の店「くじら」にも立ち寄っていただき、いよかんをどっさり買っていただきました。感謝です。

 その後本当は人間牧場に案内したかったのですが、残念かなバスが大き過ぎて人間牧場への乗り入れが無理なので、私の家の煙会所と海舟館を見てもらいました。運良く妻が仕事から帰っていたので駆け足ながらお茶をサービスすることができました。


 近所の人は大型バスが停まってゾロゾロと見慣れぬ人が歩くのを見て、「ああまた若松の進ちゃん方にお客さんが来ている」てな調子で別に気にもせずやり過ごしていました。

 年間1500人程度のお客さんが毎日のように訪れる私の家はわが町ではちょっとした名所になっています。やはり何といっても迎える側の妻と親父の存在は大きく、接待役の妻、掃除役の親父がいてくれるからこその出会いなのです。

 備前市の人たちが帰って間もなく地元の集会所で私が自治会長を務める自治区の監査会を実施するため、集会所へ向かいました。三役と監査2名の合計5名程の小さな集会ですが、一年間使った収支の決算を見てもらうのです。会計さんが几帳面な方なので1時間足らずで何の問題もなく承認のハンコをいただきました。それからは来年度の事業について用意した缶ビールとおつまみで談笑しました。私も区長という自治会長を任期2年間一生懸命やらせてもらいましたが、再任の希望も強く心は揺れましたが、役割はみんなが分担することが何よりなので、一応後任を決めて退任することにしました。自治会の総会は3月27日に決まりましたので、間もなく満期で退任です。地元の仕事ゆえ手も抜けず楽しく仕事をさせてもらいました。

 午前・午後・夜と忙しい日々はもう少し続きそうです。

  「午前中 午後に加えて 夜の会 何でこんなに 忙しいのか」

  「備前から 土産に貰った マグカップ ビール飲んだ日 思い出されて」

  「お茶でもと 差し出す接待 妻笑顔 これがわが家の 大きな財産」

  「羨まし 口をそろえて 妻褒める 俺は褒めずに 来客帰る」

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shin-1さんの日記

○木の中で生きる

 「お父さん、お父さんのことが新聞に載ってるよ」と、3日前の3月21日、朝飯を食べながら新聞を読んでいる次男が新聞記事の中から目ざとく私の名前を見つけて「ほら」と見せるのです。よく新聞に出た役場現役の頃ならいざ知らず、内心「俺は新聞に出るような悪いことはしていない」と思いつつ、「どれ」と息子の指差す小さな催し物告知記事を読みました。

 【久万高原町・木にこだわりのまちづくり研究会】

 24日午後1時半から、久万高原町久万の町民館で。住宅などへの久万材利用を促進しようと、上浮穴林材業振興会議が主催する。愛媛大学名誉教授の猪瀬理さんが久万林業の歩美と課題について、元双海町教育長の若松進一さんがまちづくりと情報発信について講演。大規模林家や建築士がパネルディスカッションをする。参加無料。問い合わせは同会事務局(県久万高原森林林業課内)=電話0892(21)1265。

 息子と私のこの会話を聞きながら、妻が「お父さん、何であなたが木材で生きてきたいわば専門家だらけの久万高原町に木の話をしに行くの?」と不思議がって聞きながら、「なんぼなんでもそれだけは止めた方がいい。断ったら」というのです。息子もその話に同調して「僕もそう思うよ」とやんわりいいながら、「第一木について何を話すん」と返してきました。私はすかさず「お前だったらどんな話をしるかなあ」と問い直しました。「うーん、思いつかない」という口の下、「お父さん、この新聞も元はといえば木で出来ているんと違うん」、「それからこの僕の今食べてる箸だって」、私「箸なんか食えるか」、息子「違う違う、ご飯を食べてる箸だってといってるの」、私「最初からそう言え、日本語は難しい」など親子3人の会話が盛り上がりましたが、内心この話はいただきものだと思ったのです。

 「えっ、3月24日午後1時半からといえば今日か」と思いながら、私は今日の話について色々思いを巡らせました。今日の日を迎えるに当たって事務局から担当者が2人もやって来て事前打ち合わせをやりましたし、A4程度一枚のレジメを出すよう求められていました。レジメの嫌いな私は断ったのですが、私以上に大きな役割を担う大学の教授も出すというのでしぶしぶ出すことを約束しました。しかしレジメ締め切りになっても一向考えは浮かばず督促の電話に急かされて、いい加減なレジメをだしてしまいました。

 【(木)気を使ったまちづくり】   人間牧場主 若松進一

1、私の木にこだわったまちづくり

 ①気(木)になるカバン・気(木)になる名刺入れ・気(木)になる名刺ー情報発信

 ②斧折れマイ箸運動ー環境問題とコップの共磨き

 ③ツリーハウスー広告塔

 ④ウッドデッキ(空間利用)

 ⑤人間牧場(水平線の家・ロケ風呂)ー夢の語り場

 ⑥漁協女性部の山に木を植える運動(森は海の恋人)-海と山の交流

 ⑦県内現役木造校舎最古の翠小学校・丸木舟製作と黒曜石ルーツの旅ー文化

 ⑧高知県馬路村魚梁瀬杉150年生原木の切り株ー人間の一生との比較

 ⑨樹齢200年のヤマモモの木ー動物との共生

 ⑩学校のシンボル樹(ギンモクセイ・イチョウ)-香り

 ⑪これ以外にも(庁舎のモニュメント・4本の磨き丸太・船の模型)~きりがない

2、もし私が久万高原町長だったら

 ①久万高原町千年の森運動(運動と交流)

 ②シンボル的ツリーハウス(遊び心)・久万産材の迎賓館(検証)

 ③木になるカバン製作運動

 ④?

 ⑤?

 ⑥?

 ⑦?

 以上のようなレジメを添付しメールで送ったのです。

 それから今日まで、決して忘れていたわけではないのですが④⑤⑥⑦の?を考える間もなく秋田などへ旅立ち、忙しい日々を過ごして、未解決のまま当日の朝を迎えてしまいました。

 手元に一冊の本があります。たまたま立ち寄った秋田県秋田市の本屋で早川謙之輔という木工匠の書いた「木に学ぶ」という本を見つけました。秋田杉の産地だからと多分こちらの方の本かなと裏書を見ると義府県生まれの方でした。秋田で過ごした3日間は180ページほどの薄いこの本を没頭して読みました。木に関わった人でないと分からない木の秘密が沢山書かれていました。杉の木のルーツ(氷河期を樹残った若狭湾富山湾から秋田、南下して静岡、西南に進んで四国九州、屋久島という説4分類説、屋久島に残った母樹が日本海を北上して太平洋側を表杉、日本海側を裏杉とする2分類説)木が生長するメカニズム、昔の人の知恵、木と人間、道具考、炭の話、木と水、木と薬、木と環境、木と土の関係、木と芸術、木と橋、高野マキ製ヒューム管・井戸底に生の松丸太を敷く知恵、三味線や琴の木が奏でるハーモニィ、木灰と焼き物釉薬、備長炭とウナギ、薪ストーブと風呂(伐採樹の50パーセントは燃料用・先進国は18パーセントだが発展途上国は89パーセント)、日本の伝統囲炉裏などなど、薄っぺら委というよりお粗末な私の知識に衝撃のようなものが走りました。

 求めていた知識の穴を埋める本に出会ったとき、カルチャーショックを受けるのは私だけではないともいます。今日のテーマである「木にこだわりのまちづくり」の木材利用の話は専門家である愛媛大学名誉教授猪瀬理先生にお任せして、私はむしろ無知な雑学しかも一夜漬けの話をしようと思っています。門外な私の話など誰も期待していないのですから、「コンセンサス」を得るどころか「混戦さす」気持ちでお茶を濁しにこれから参ります。結果は今晩のブログ書き込みで続きを・・・・・。


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shin-1さんの日記

○魚の絵が書けない子どもたち

 私の町は「双海町」という名前が示すとおり瀬戸内海に面した町です。私の生まれた家は海や海岸とごく小さい石垣で仕切られているだけの文字通り海と暮しが一体となっていました。そんな環境で育った私は物心ついた頃から海を見、海に親しんで育ちました。海の不思議に興味を持ったり、海に沈む夕日を美しいと思ったりしたことの殆どが、後の自分の人生を支える大きな力になったことは紛れもない事実です。夏休みの研究は海草や貝殻の標本を作り、魚の絵も随分上手く書けました。家が漁業をしていたこともあってその後水産高校に進みましたので海と魚のことは人並み以上に理解できる知識を身に付け、地域の発展にいささかなりの貢献も出来ました。

 先日ある地元小学校の校長先生からショッキングな話を聞きました。子どもたちの中にはこんなに海が近くにありながら「魚の絵が書けない」というのです。「えーうそー」と思うのは私だけではないと思うのです。そういえば町内の漁家の子どもさえ一度も親の船に乗って手伝いをさせない家が増えているのだそうですから無理からぬことでしょう。夏の海水浴もこれほど海に近く、これほど県下に名だたるシーサイド公園や高野川海岸などの海水浴場があるにもかかわらず、泳ぐのは親の監視のある学校のプールだというのですから驚きです。

 私たちの生活の中では、例えば毎日の食べ物を見ても分るように、肉や魚は切り身にしてトレーでパックされており、牛や豚、魚とは余りにも実物のイメージとは違っているのです。ましてや牛や豚や魚がどんな生き方をし、どんな場所で殺されて食べ物になるのか命の生死を目の当たりにすることは殆どないのです。生は動く、死は動かないということすら分らない子どもに命の尊さを教えるのはかなり難しいのかも知れません。ましてや人が生まれたり死んだりする命の尊厳などという倫理めいたことを伝えるのは私たち凡人には不可能な領域なのです。核家族化によって子どもたちが肉親の死に接する機会も少なくなってきました。またカブトムシなどの昆虫もデパートで手に入る時代で、そのカブトムシさえゼンマイや電池で動くと思っている子どもがいるという実態には驚くというより呆れて言葉が出ません。

 私たちの町のように自然豊かな中で暮らしてさえも魚の絵を書けば切り身しか書かない原因は、やはり親の暮しや教育のあり方が余りにも無意識過ぎるからではないでしょうか。「三つ子の魂百まで」といわれるように子ども時代に受けた感動は後の人生に大きな影響を及ぼします。漁家の子どもが自分の親の船に一度も乗らないで育って、勉強第一で都会の一流会社に就職して、果たしてその子どもも親も幸せなのでしょうか。高度成長の時代ならいざ知らず、向都離村の教育の果てにつかんだ幸せなどあぶくのようなものなのです。

 魚の絵が書けることは絵を学ぶ学校教育でも大切に指導しなければなりません。絵を書く前提として観察があります。まな板も包丁もない現代の若者の暮しには魚を丸々一匹買ってもその捌き方が分らないと、アナゴをぶつ切りしたりする結果となってしまいます。

 人間以外の動物の死を通して生を学ぶことは、命の尊さを学ぶ大切な学習です。子どもの自殺が続発する現代社会にこそ、命を学ぶ学習は必要だと思うのです。

  「絵を書けば 切り身の魚 書く子供 いつからこんな 社会になったか」

  「死を通し 生を学べば わが命 もっと大切 思うはずだが」

  「父ちゃんの ような漁師に なりたいと 胸張る子ども 育てにゃあかん」

  「海の町 ただあるだけで 海知らず 町を愛せと 言うのは無理だ」

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shin-1さんの日記

○女性の爪

 「皆さん、明日は爪の検査をしますので、綺麗に切ってきて下さい」と担任の先生から言われ、慌てて爪を切った少年時代が懐かしく思い出されます。その頃の手は薄汚れて手の爪の中には泥んこになって遊んだ証とでもいうべき黒いゴミが入っていたりしたものです。しかし最近の子どもはそんな遊びもしないことから手はいたって綺麗で、まるで人形のよな手なのです。男性のゴツゴツした働く手は女性と殆ど変わらず、爪などはまるで漫画に出てくる悪魔のように伸び放題の若者も多く見かけます。

 先日秋田へ行く途中飛行機に中年女性の集団が10人ばかり乗り込んできました。40がらみのその女性たちは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な感じで、どこはばかることなく大きな声で笑ったり話したりの機内でした。その殆どの女性の化粧は濃く、光物もこれでもかと思うほど付けまくっていましたし、冬の寒さなのに下着が見えるほど薄着でコートは毛皮なのに着た服は半袖なのです。何よりも驚いたのは爪の装飾でした。マニキュアなら分るけど、まるで宝石箱から出てきたようなネイルアートの爪を着けているのです。

 私はふと妻のことを思い出しました。結婚以来37年程が経ちましたが、爪にはマニキュアなど殆どせず、働き詰めに働いてきました。妻の指先はマニキュアおろかいたるところに傷が出来てリバテープがいつも貼ってありました。指輪よりリバテープが似合う年頃だといえばそれまでですが、まさに働いた手なのです。横目でその人たちの飾ったネイルアートを見ながら、「この人たちは家で炊事や洗濯などの水仕事をしているのだろうか」とふと思いました。勿論この人たちが今流行のセレブ集団だと話は別ですが、子どもも夫もいるだろうにと、むしろネイルアートをしないで頑張る妻が誇らしく思えてきました。

 指先の芸術といわれるネイルアートがお目見えしたのはオリンピック陸上100メートルで金メダルを取ったジョイナーさんがまるで鷹の爪のような姿をしていて一躍有名になりました。また最近では浜崎あゆみさんがNHKの紅白歌合戦に2100万円の宝石をちりばめたネイルアートで登場し世間をあっといわせました。爪を切れよと教育された私たちの少年時代から考えるとまさに世の中の進歩は目を見張るようです。

 でも私のような時代遅れの人間にはやはり爪はきちっと切った女性の方が清潔感があっていいと思うのです。もし私の妻や娘があんなネイルアートをしたら私は即座に注意をするでしょう。幸い日常生活に追われる妻はそんな面倒くさいことをする暇はないし、娘も助産士なので患者さんの健康第一を考えるとやらないでしょう。

 問題は世の青少年たちです。親の脛をかじっているのに、5万とも10万ともする高いネイルアートに憧れて爪に装飾を施すのは如何なものでしょう。若い世代に流行るものは世間にあっという間に流行します。ピアスも、茶髪も社会の風潮の中ですっかり一般化し、役所に勤める女性も茶髪でピアスは常識になりました。多分ネイルアートをした若い女性が役所の窓口に立つ日もそう遠くないことでしょう。でも親から貰った日本人特有の黒髪を何故茶髪にしなければならないのか、耳に何故穴を開けてピアスをしなければななないのか、爪にまで何故ネイルアートをしなければならないのか、いつの時代も美しくありたい、美しく見せたい女性の気持ちは変わらないようです。男性だってつい最近はイアリングやピアスの時代ですからね。私は古い人間です。

  「横の席 ネイルアートの おばちゃんが 恥じらいもなく 大声笑う」

  「リバテープ 似合うわが妻 輝いて 見える私は 古いのかしら」

  「アイドルに なりたい夢を 持ち続け 四十なっても まるで幼稚な」

  「孫の爪 切ってすっきり ありがとう せめてこの子は そんな躾を」

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shin-1さんの日記

○大分からのお客様

 私の名前の呼び方は人それぞれです。目下の人は「若松さん」と言いますが、地元の人は「進ちゃん」と呼ぶし、親戚は「しん」とか「進兄」です。そんな中で私のことを「若松先輩」と言う人が二人います。愛媛県佐田岬の先端に住んでいる塩崎さんと、相対する大分県佐賀関に住んでいる渡辺さんです。塩崎さんとは私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた若い頃、西宇和郡連合青年団の団長をしていたこともあって、何かと議論や親交を重ねお互いが愛媛県地域づくり研究会議の代表を務めるなど、未だに深いご縁が続いているのです。多分同級生や地元の知人友人、親戚を除いた他人であれば最も長続きしている友人だと思うのです。一方佐賀関の渡辺さんとはそんなに長いご縁ではありませんが、旧三崎町と旧佐賀関町が続けている海峡交流のお手伝いをするようになって急速に友情が深まり、塩崎さんが私のとを「若松先輩」と呼ぶものですから、ついついその名残で呼ばれるのです。

(港町八幡浜の私の好きなとっておきのアングル)

 今日はお彼岸だったので妻の実家のある八幡浜へ久しぶりにお墓参りに出かけました。前日までの寒波がウソのようなポカポカ陽気で、八幡浜の墓地には線香の煙が立ちこめ幾人もの家族連れが墓参りに来ていました。帰り際大洲付近で携帯電話が鳴り、車を路側帯に寄せて停車し出てみると大分佐賀関の渡辺さんからでした。「今三崎のフェリー乗り場に着いた。今日は天気も良いので急な思いつきだが双海の夕日を写真に撮りたくてこれからお邪魔するがご都合はいかに」という唐突な電話でした。「今日の日没は午後6時20分くらいだな」と簡単な打ち合わせで電話お一旦切りました。気が付けば彼とは長年付き合っているのに、わが家へも人間牧場へも案内したことがなく、いっそのことと思いついて、思いつくままのスケジュールを立て下灘で落ち合いました。

(人間牧場にてダンディな渡辺さん)

 午後4時過ぎ渡辺さんは下灘に到着し、急ぎ妻の軽四アルトに乗りかえてもらって人間牧場に案内しました。塩崎さんからおおまかな様子は聞いていたようで、急な狭い道に驚きもせず登って行きましたが、この日はあいにくの春霞で日ごろ見える山口県や愛媛県、それに広島県の島々は残念ながら薄っすらとしか見えませんでしたが、それでも思わず深呼吸してみたくなる人間牧場を体感し、足早にわが家まで帰り、煙会所や海舟館などを一通り見学してシーサイド公園へ到着しました。

 さっきまで空の上にあった太陽はもう夕日と呼ぶに相応しく西の端にありました。シーサイド公園は春分の日、しかも春休みとあって駐車場はどこも朝から満員の盛況で、若いカップルが沢山夕日の観覧席に陣取り、思い思いの出で立ちで夕日を眺めていました。今日は春分の日で恋人岬のモニュメントの穴の中に夕日が入ることを知っている人が何人かその位置にカメラを据え待ち構えていました。カメラが趣味の渡辺さんもどでかい望遠レンズをつけたカメラを三脚に着けて早速撮影に取り掛かりました。

(自慢のカメラで恋人岬のモニュメントの穴に入る夕日を撮る渡辺さん)

(人の頭が夕日を隠すモニュメントの夕日)
 彼の望遠レンズや自動シャッターのカメラに比べると私のデジカメはまるでおもちゃのようでしたが、気後れすることなく何食わぬ顔でシャッターを押してみました。地元のカメラマン清田さんの話によると昨日は綺麗な達磨の夕日が見えたそうで、その映像を覗かせてもらいました。残念ながら今日は下のほうに雲が掛っていて全てを見ることは出来ませんでしたが、それでも「大分では夕日が山の端に沈むけれど、ここは水平線に沈むから」と感激した面持ちで写真を撮り続け、夕闇迫る国道を西に向かって帰路に着きました。これから国道378号・国道197号をひた走り、佐田岬~佐賀関70分の船旅を経てふるさとへ帰るのです。渡辺さんの身軽さに驚きながら、交友の素晴らしさを改めて思い知らされました。

(恋人が夕日バックに恋を語っているのでしょうか)

(モニュメントの右端に入る違った角度の夕日)
(モニュメントに入るこの日の夕日を見る人々)

  「春分は 若松先輩 自慢する 夕日沈むと 車走らせ」

  「感動は 感じて動くと 相田言う 夕日残像 心熱くて」

  「驚いた 今から行くと 電話する 大分友人 早くも愛媛」

  「先輩と 言われる徳を これからも 積みて立派な 人にならねば」

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shin-1さんの日記

○ただ今双海の菜の花満開です

 暖冬から一転真冬並みの寒気が南下して数週間が経ちました。冬支度から春支度に変えようとしていた矢先の寒波に誰もが首をすぼめて「寒い寒い」と二言目には言うのです。朝のあいさつも「今朝は寒いですね」と枕詞を付け加えていました。春を待つ気持ちは誰も同じで、春の訪れのバロメーターといわれる桜の開花予想も、最初松山では3月17日と発表になりましたが、情報の入力ミスで25日に訂正、3回目には24日と一日早まり異常気象を反映した慌てぶりが目に付くようです。そりゃあそうでしょう、桜にって一儲けしようと企む人にとっては一大事なのですから、気がきではないはずです。ぼんぼりの取り付け、弁当の手配など思い浮かぶ桜の下の花見の準備がもう水面下では日本全国で行われているのです。

 私の町の春はまず水仙が運んでくれます。しかし初春水仙花祭りという名前が示すとおり、水仙はどちらかというと冬の花なので、春はやはり菜の花でしょう。急峻な地形なのでその菜の花も「一面黄色い菜の花のお花畑」とはゆきません。JR予讃線のドハ沿いにしがみつくように咲くのが双海の菜の花なのです。

 それでも海の青と黄色い菜の花、それにマッチ箱のようなたった一両の気動車があれば、もうローカル性豊かな景観が出来上がるのです。冬枯れの何にもない季節に黄色い花の色はどれ程道行く人の心を和ませてくれるか分りません。思わず車を止めて立ち止まったり、深呼吸をしたくなるのです。もう初鳴きから随分日数が経っているのでウグイスも鳴き方が上手くなって谷渡りまで披露してくれています。

 2日目の日曜日、孫と一緒に菜の花畑を見に行きました。孫にとっては菜の花畑などどっちでもよく、菜の花畑の近くにある私の妹が経営する「くじら」というお店の「たこ焼き」と「ソフトクリーム」が目当てなのです。それでも孫は美味しいものを買ってもらいたくて「菜の花が綺麗」と褒めながら、私の手を引っ張ってお店の方へ誘導してゆきました。お店は3坪ほどの小さな海産物のお店ですが、菜の花が咲く頃になると沢山の観光客が訪れ、狭い店内は入りきれないような盛況でした。妹も勤めていた農協を辞めて商売をし始めて8年近くになりますが、心配したような経営不振でもなく、今ではなじみのお客さんもできて第一の山は登りきったようで一安心です。

 このところ寒かったため孫は室内で過ごすことが多くなり、少し太った感じがするようになったので機会あるたびに戸外に連れ出して遊びや運動をさせています。娘がお産の都合で入院したため家とわが家と幼稚園を往復する忙しい日々の孫にとって、母親の実家は居心地が良いのかすっかり馴れて私とのコンビネーションもバッチリです。

 この日は菜の花畑からシーサイド公園、そして山の上へ化石堀に出かけました。恐竜に夢中の孫にとって化石は宝物で、小さなスコップと鍬を持って裏山で化石を掘りました。化石など出る訳はないのですが、恐竜のどこかに見える石さえ見つければ4歳の孫にはもう立派な宝物なのです。我が家へ帰って新聞紙を広げ虫眼鏡で観察するのも楽しみの一つのようです。ささやかなこんな熱中も幼児期の心の成長には欠かせないようです。その汚い石をナイロンの袋に入れて眠るのですから、孫にとっては石もお宝なのでしょう。

  「菜の花の 向こうに見える 店先に たこ焼きソフト 手を引き誘導」

  「化石掘る 出てきた石に テプラノドン 勝手に名前 付けて袋へ」

  「虫眼鏡 見ては空想 膨らます 白亜恐竜 生きた世界」

  「冬篭り したから少し 超えました 運動させて 少しスリムに」 


 

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shin-1さんの日記

○県民フォーラムに参加して・秋田ルポ④

 日本全国各地では地域の活性化を目指して様々な地域おこし塾が開かれていますが、官が仕掛けた塾は未塾半塾な塾が多く塾々やってて、長続きしない塾が多いように思います。愛媛県の場合もかつては県の号令で各地に若者塾や女性塾が立ち上がり、交流会なども持たれていましたが、その後支援のための助成金がなくなったり手を離すと途端に止めてしまって、今はその殆どが見る影もない有様です。多分その殆どは行政が言うからやる、金があるからやるで、殆どが自らの力でうごいていなかったのです。塾本来目的は、自己実現とふるさとのために何が出来るか考えるためなのですが、完塾しないままに萎んでしまって、立ち上がれない姿を見ると、安易に手を出し安易に手を引くお勝手行政のやり方も問題があるし、その誘いに乗って何もせず傍観している塾生にも問題があるようです。

 そこへ行くと私が主宰したフロンティア塾は1年で4回、10年間で40回を目指し、一回の塾は時計一回りで12時間と、徹底討論をしましたし、目標どおり10年間で40回の塾を見事やりきりました。春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾と命名し、竹村健一さんや永六輔さんを迎えてそれは楽しい塾でした。塾を長続きさせるコツは塾と塾長の基本理念がしっかりしていること、楽しみづくり、しくみづくり、値打ちづくりがしっかりプログラムの中に組み込まれていること、目標がしっかりしていること(40回とか、希望講師とか)、参加者が経費負担をすること、学びの拠点となる場所が確保されていることなどがあげられますが、それらの条件を持ち合わせてもなお塾の経営はかなり厳しいものがあるようです。

 さて今回の県民フォーラムの土台となっている「まち育て塾」はそれらの条件を持ち合わせているでしょうか。外目から見ると残念ながら少し魅力に欠けるようです。勿論塾の魅力は参加した人自らがつくるものですから、仕掛けている行政や塾長の責任だけではありません。でも半塾な塾が完塾になるためには、今年度の反省をしっかり踏まえ、魅力を増すようなプログラムの内容と運営に意を注がなければならないと思います。

 私たちは年に1度移動塾と称して塾生の中から手を上げた町や村へ講師を連れて行って、地域の人を巻き込んだまちづくり議論を楽しくやりました。幸い塾長には青森県弘前大学の北原教授が就任し、事務局となる建築住宅課の北田課長さんも国土交通省の出向ながら熱い思いを持った方なので今後の塾の発展に期待を持ちたいものです。


 この日のフォーラムは午後の前半が私の基調講演、後半は塾生代表の発表を中心とした北原塾長をコーディネーターに据えた討議でした。先生の軽妙な語り口はさすが専門家で、私と北田課長さんを巻き込んで楽しいお喋りとなりました。時々コメンターとしての意見を求められアドリブで話をしましたが、北田課長さんは国土交通省の前は内閣府で観光カリスマ選定の仕事をしていたそうで、私が東京高輪のプリンスホテルで話した講演録を覚えていて、ハーモニカを吹いたことを思い出して、ハーモニカを吹くよう誘導され、その口車に乗って秋田の地で性懲りもなくハーモニカまで吹いてしまいました。北田課長さんは政府のお役人って感じはどこにもなく、「赤トンボ」や「夕焼け小焼け」にまつわる心の琴線に触れるような人間臭い思い出話を沢山聞きました。再びお会いしたい縁の深い人でした。

 明くる日は土曜日ながら移動日で、仕事も終わってホッとする日です。休みにもかかわらず桜庭さんがホテルから飛行場まで送ってくれました。飛行機で羽田まで飛んで東京で降り、夕方まで2人の人と打ち合わせを行い、乗り継いでふるさとへ帰って来ました。寒さに震えながら、それでいて心はポカポカの秋田の旅でした。

 追伸、政策監の竹村寧さんから早速に美しい絵ハガキが届きました。アスパラの新芽を描いたものです。素晴らしい絵ですね。

私もこんなハガキが書けたらと羨ましく思いましたし、私に負けないくらい素早いハガキに脱帽です。

  「思い出を 捲るが如き 絵葉書の 届きて嬉し 顔思い出し」

  「ハーモニカ 吹けと隣で 課長さん 言うものだから 調子に乗って」

  「北原さん 課長も北田 俺も来た 話弾んで 北国ホット」

  「雪雲の 中より出でし ふるさとに 帰りて風の 温か感じ」

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shin-1さんの日記

○秋田の美味いものに舌鼓・秋田ルポ③

 「秋田へ行ったら必ず食べてくるように」と出発を前に友人から言われたのは「ハタハタ」と「キリタンポ」でした。全国行脚を続けている私にとって旅先での美味しい食べ物に出会うことは人間との出会いと同じくらいこの上ない悦びの一つです。体の都合で酒を断っている私には残念かな北国の美味しいお酒には無縁で、相変わらずウーロン茶一辺倒なのですが、その分ウーロン茶が口の中で食事を味わう舌を研ぎ澄ませて、美食の味が寄り鮮明になるのですから不思議なものです。秋田で過ごしたのは2泊3日でしたが、1日目は住宅課の皆さんと、2日目はフォーラム関係者との食談で楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

 2日間で食べた美味しいもの、珍しいものは料理が運ばれて来る度に、「これは何々」と説明を受けて食べるのですが、箸を運ぶのが先でいちいちメモにも取れませんから、すっかり忘れてしまいました。でもその味はしっかり舌と腹が記憶ています。しかしどんなに美味しい料理でも、もし私がデジカメを持参していなかったら、これほど饒舌には表現できなかったでしょう。



 まず食談には人ありです。四国愛媛の伊予弁を語る私にとって酒の深まりとともに湯水のように出てくる秋田弁は全てを理解することは出来ませんでしたが、熱く語る一言ひとことに納得しながら、盃を進める知人は何よりのご馳走でした。さらに寒さゆえ七輪で暖をとる温かさもご馳走なのです。出てきた幾つかの料理をご紹介しておきます。

(ハタハタの塩焼きです。写真に撮る前に既に箸を勧めていて、思わず我に帰って写真に収めました。私たちのところではさしずめキスの塩焼きって感じの食感でした。)

(ご存知キリタンポ鍋でした。秋田地鶏で出汁を出したキリタンポは熱々フーフー、やはり冬の寒い時期は北国の鍋にかぎります。空港で買い求め家で作って食べましたが、あの夜食べた濃厚な味とは少し違っていましたし、キリタンポもやはり本物にはかないませんでした。)

(刺身もかまくら風にアレンジして、何とも風流でした。魚も寒ブリや鮭など、冬の日本海がてんこ盛りで見た目に美しく箸をつけるのが勿体ない箱庭のような絵になる光景でした。)
(「いぶりがっこ」とは沢庵のスモークなのですが、いぶりやあぶりと書いた小鉢がソバをこねる塗りの器で出てきました。美味しい秋田の味でした。)

 驚いたのは料理ばかりではありません。民芸調のこの店のトイレは一工夫が凝らされていました。「トイレの美しいお店は繁盛する」という言葉そのままに、この店の自慢は何といってもトイレです。トイレの壁には小さな木調額で昔懐かしい秋田界隈の写真がやたら張り出されているのです。小便をしながら思わずついつい見とれて長小便をしてしまう難点はありますが、それでもこれだけのこだわりはそうそうあるものではありません。

 秋田杉の四角い杯と、秋田杉の四角い枡に地酒を並々と注いでくれる独特のもてなしも気に入り、飲むほどに酔うほどに冬の寒さを忘れさせてくれた秋田の夜でした。

 2日目は出番のあった人と事務局のこじんまりした食暖でしたが、お店が変われば食べ物もまた違ったメニューで、名刺交換やまちづくりについての議論などいいお話でした。
  「行ったなら ハタハタ食べて キリタンポ 知ったかぶりの 友人勧め」

  「ご馳走は 料理に七輪 人の縁 外雪忘れ 夜はふけゆく」

  「通訳が 欲しい会話の 秋田弁 飲めば飲むほど 分らぬままに」

  「学校と 聞いた食べ物 ガッコとは 俺の耳には がっこう?と聞こえ」 

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shin-1さんの日記

○雪の久保田城界隈・秋田ルポ②

 秋田県へ出発する数日前から寒波がやって来て、北国は思わぬ雪だとテレビで紹介されていたので、あるいは雪に埋もれた秋田を見学できるかもしれないと、横手のかまくらなどを頭に描いていましたが、残念ながらそれほどの雪はなく、少々ガッカリしました。それでも朝な夕な入る妻からの携帯電話の声は、「お父さん、いい所に行けていいねえ。雪と食べ物が羨ましい」と言うのです。確かに雪はありましたが、名残の雪程度で足元にはまったく雪を踏みしめる感覚はなかったのです。それでも初日に桜庭さんに案内された感を頼りに、朝6時に思い切って戸外へ散歩に出かけました。久保田城界隈は急な寒さのせいでしょうか人の姿はなく、昨晩降ったであろう薄い春雪を踏んで城山に登りました。

 私は城といえば松山城のような高い山の上にある城を思い浮かべるのですが、久保田城の城山は小高い丘のようで、何の造作もなく登れるのです。城に通じる道を登ると直ぐに城門が見えました。この城門も松山城の頑丈な造りではなく中世後期のような風情でした。

 聞くところによると関ヶ原の合戦の後、常陸の国から国替えになった初代秋田藩主佐竹義宣が、翌慶長8年に現在の千秋公園にに久保田城を築いたそうです。公園内には御隅櫓や御物頭御番所、久保田城表門などがありました。冷気漂う雪の久保田城界隈をカメラで追ってみました。

(本丸より一段下に広場がありました。うっすらと雪化粧していい雰囲気です)

(その横に歌人の若山牧水親子が詠んだ句碑が建っていました)

(私たち四国の人間には何とも魅力の雪吊り風景です。梢から放射状に張り巡らせた藁縄が見事に冬を演出していました。一昨年は大雪で大活躍の雪吊りも今年は暖冬の影響で役割を果たせなかったようです。

(久保田城の庭園池です。雪を被った庭石や木々はまるで雪舟の水墨画を見ているようでした。

(秋田藩初代藩主佐竹義宣の銅像です)

(久保田城の本丸といったところでしょうか。)

(城を一巡して宿舎であるキャッスルホテル近くまで帰ってきましたが、城の向こうには川が、直ぐ下には堀が巡らされていました。)

(かつては秋田市一の賑わいを見せたお堀に面した中心市街地も、郊外に店が進出し空洞化が目立つようです。ひさしのように片屋根を張り出したアーケードは雪国ならではの風情がありました。)

 知らない土地ながらお城を中心にたった一人で道案内も地図もなく意の向くままに歩き回り、何と2時間足らずで私の携帯についている万歩計は1万歩を超えていました。寒いといっても風がなく、半コートのポケットに片手を突っ込んで元気よく北国の朝を散策しました。知らない土地を歩くのは楽しいもので、道端の木々やマンホールの蓋さえもタウンウォッチングの対象物なのです。時折立ち止まってデジカメを向けると、通行人が不思議そうに私の姿を眺めながら通り過ぎてゆきました。

 私にとって秋田は思い出の地です。といってもまだ今回が3度目なのですが、一回は青年時代愛媛県の国内研修生の一員として青森や北海道を訪ねる旅の途中に立ち寄りました。もう一回は教育委員会で社会教育を担当していた頃、当時の小畑秋田県知事さんが推進する秋田の生涯教育を知りたくて、旅の途中に立ち寄りました。当時は生涯学習などという言葉すらない時代でしたが、既に出来ていた県の生涯教育センターを見学し感嘆の声を上げたものでした。車でその横を通った折昔の懐かしい思い出が蘇ってきました。

 私は日本全国を旅していますが、もう一つの期待はご当地自慢の夕日に出会うことです。残念ながらどこの土地を訪ねてもその時間に集会がダブって中々見れないし、時間があっても天気も見方してくれません。秋田へ入ったその日は時間はピッタリなのですがあいにくの天候でした。でも小雪ちらつく天候なのに夕方急に宿舎のキャッスルホテルの西側が急に明るくなって、綺麗な夕景が見えたのです。私は寒い風が部屋の中に入るのを我慢して思い切り窓を開け、北国の夕日をカメラに収めました。ビルの谷間に沈む秋田の冬の夕日です。ラッキーな一日でした。

  「城に降る 白い粉雪 雪舟の まるで水墨 絵を見るように」

  「秋田にも 夕日沈むや 窓の外 雪に照り映え 金色色に」

  「城を行く われ足音の 他になく サクサクサクと 雪をかき分け」

  「枝吊が 似合うお城の 雪景色 まるで扇子を 逆さにしたよう」


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shin-1さんの日記

○春から冬へ逆戻り・秋田ルポ①

 この3日ほど春の四国から冬の秋田へ旅をしました。松山空港から羽田空港を経由して秋田空港までの空の旅はそんなに時間もかからず、まるで隣近所へでも行くような気軽さで、かつては遠いみちのくといわれた地域も新幹線が走り、スピードの速さにはただただ驚くばかりです。それでもこのところの戻り寒波の影響で、黄色い菜の花の咲く春真っ盛りの四国とは比べものにならない雪積もる白い東北の姿は、まるで別世界のような感じさえしました。羽田から飛んだ飛行機が秋田が近くなるにつれて上空は黒い雲に覆われ、出発を前に担当者の桜庭さんから「時折雪がぱらつく寒さなので、一枚余分に羽織って来るように」とメールが入ったとおりの天気でした。上空からの写真も撮りたかったのですが、デジカメが電子機器なので利用禁止とあってその願いも届きませんでした。でも私のデジカメは独りでにシャッターを押して貴重な写真の記録一枚をカメラの電子情報として残していました。呆れたものです。多分ナマハゲの仕業なのでしょう。

 空港に降り立つとその予感どおり、待合室の隅にはナマハゲの姿がありました。テレビで時々紹介されるナマハゲもこうして見ると怖いというより愛くるしいような雰囲気でした。

 初めて降り立った秋田空港は少し奥まった所にあるのでそんなに思ったよりも雪は少なく、迎えに来てもらった担当の桜庭さんの案内で、少し市内を見学させてもらいました。

 最初に訪れたのは平野政吉美術館でした。あいにく場内撮影禁止の看板が目に付き、場内にはいかめしい女性が絵の直ぐ側に陣取って監視しているので、ナマハゲにも化けられずこの目と心に留めましたが、藤田嗣治画伯が倉庫の中で数日間で書いたという秋田の四季の絵には、大きさといい迫力といい度肝を抜かれました。藤田嗣治の自画像や乳白色の色使いなどしか知識を持たない私には、価値さえも判断できかねますが、それでも目の正月とでもいうべき機会を与えてもらいました。秋田県立美術館と平野政吉美術館という二つの看板が同時に掲げられている姿には少し違和感を持ちましたが、指定管理者制度などが日常化する最近は珍しいことでもなく、秋田の風土だと理解しました。


 続いて民俗芸能伝承館で念願の秋田竿灯とご対面です。青森ねぶたと仙台七夕とともに東北3大祭りに数えられる秋田竿灯が日常的に見学や体験できる場所とあって、私たちのような観光客には有難い場所なのですが、やはり夏の祭りを見ないとその迫力や雄姿は感動として伝わらないことを承知で、少しの感動を味あわせていただきました。

 秋田竿灯は町内毎に提灯の印紋が決められていてそれが一堂に飾られていました。東北の冬は雪雲が低く垂れ込め何か侘しささえ感じますが、その分行く夏を惜しむかのごとく夜空を彩る鈍い提灯の光はやはり一度は見てみたい祭りの一つです。ちなみに大人用から子供用まで幾つもランクがあるそうですが、私は体験用の幼児用を持たせてもらいましたが大変な重さで、これを腕や腰で支え、しかも竹竿を継いで弓のようにしならせる妙技は圧巻でしょう。

 この施設は秋田竿灯を展示体験できるよう真ん中が3階まで吹き抜けになっていますが、2階・3階は展示や鳴り物の練習場になっていました。3階では若い女性が一生懸命大きな締め太鼓を叩いて練習をしていました。地域の文化もこうして若い後継者に日常的に伝承されるのは良いことです。後継者不足で日本の古き良き伝統文化が廃れてゆく話を耳にしますが、秋田県民の誇りである秋田竿灯を次の世代にしっかりと受け継いで欲しいものです。若い女性が叩く太鼓のリズムを聞いていて、懐かしさがこみ上げてきました。このリズムは私たちの町に伝わる盆踊りのリズムと殆ど同じなのです。暇があったら秋田竿灯のお囃子のルーツを調べてみたいものです。


  「菜の花の 咲く町発って 雪景色 日本の広さに 首をすぼめる」

  「秋田杉 秋田犬など 知っている だけど遠いな 来るのはたまに」

  「子供用 秋田竿灯 手に持ちて 三大祭 少し味わう」

  「太鼓打つ 娘の額 汗滲む 早くも夏に 思いを馳せて」

 

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