shin-1さんの日記

○同じ境遇の人間

 私は一昨年まで35年間役場に務めました。おおよそ下積み3分の1、中間管理職3分の1、管理職3分の1くらいの割合で仕事をしました。また3分の1を教育委員会で社会教育、3分の1を産業課・企画調整室でまちづくり、地域振興課でまちづくりと拠点づくりなどの住民活動を担当しましたが、振り返って思うにどの部面でもそれなりのしんどさと面白さがあって、過ぎてしまえばよき思い出となっています。

 昨日鳥取県北栄町へまちづくりのお手伝いに出かけました。10月に講演と委員会の助言に出向いたことは3回シリーズで前にも詳しく書いたし、今回も気がついたことを補足的に書くつもりですが、昨日の夜委員会が終わってごく内輪の企画課の職員さんと私の宿泊場所で懇親会をやりました。酒の飲めない私は終始ウーロン茶でお付き合いをしましたが、課長さんと話しているうちに何だか今の課長さんの立場がかつての私の立場とよくい似ていることに気がつきました。

 この課長さんは今回のコナンの里づくりの発案者であり掲引者なのです。したがって間近に迫ったコナン記念館の計画や設計から資金調達、それに職員養成から著作権者との折衝まで全てを一手に引き受けてやっております。コナンと夕日という地域資源やテーマこそ違え、同じようなまちづくりのストーリーなので住民・職員・町長・議員・業者・団体という大別すると6つのジャンルそれぞれのボールをそれぞれとキャッチボールしながら、苦労しているのです。

 私が訪ねたその日も、昨日まで著作権のことで日帰り上京して思い仕事を処理し、昨日は議会で随分議論のボールが飛んできたようでした。

 コナンという漫画をテーマにした仕事は私がやった夕日のミュージアムと同じで、普通の建築事業ののような設計者・施工業者と発注元という関係がきちんと分別することが出来ず、その都度議会に厳しく指摘されました。勿論やましいことなどないのですが、極論そんな言い方をされるものですから随分悩んだものです。

 「赤字になったら、人が来なかったらどうするのか」と詰め寄られ、挙句の果ては「赤字になったらクビニしてやる」とまで言われました。でも「赤字になったら黒いボールペンで書く」なんて言って、火に油を注いで激怒したその議員さんが、年間55万人も来るほどに成長した姿を見て「わしも最初から人が来る思いよった」と、私に話す姿は田舎の笑い話で済んでしまったようです。

 この課長さんと私の共通する点はまだまだいっぱいありました。一点突破主義の情熱や、町を愛する気持ちはいずれ劣らぬどっちこっちです。多分それは過去の共通点まで遡る若い頃の実践ではないかと思えるのです。この課長さんは駆け出しの頃町の広報を町長さんに請われて担当したそうです。3年間で全国広報コンクールの入賞を果たすという約束を守った実力者なのですが、私は全国広報コンクールのような形式を重んじる新聞作りのやり方は逆に嫌っていて、一度も応募をしませんでした。でも町長に懇願された境遇もよく似ています。月に2回、10年間で240号をたった一人で、しかも社会教育をやりながら激務に耐えてこなしました。でもそのもの書きの仕事が今にして思えば私の理論のや論理の基になっているのですから、私に劣らぬこの課長さんもかなりの論客とお見受けしました。

 人は苦しい時、「給料も同じなのになんで俺だけが」と同僚を羨ましく思うものです。でもその時の汗から生まれた知恵はその人間の大きな力となっているのです。余談ですが結婚披露宴の司会を537組やった経験が人の前で話せる術を学ばせたことも今となっては大きな財産となっているようです。

 課長さん、今はしんどいけれど、町を愛する、町のためにやる、町を正しい方向に導くという3つを胸に頑張ってください。

 成功を祈ります。それにしても大分県大山町の緒方さんといい、広島総領町の和田さんといい私のよく似た大馬鹿者がいるものです。

  「広報も 結婚式の 司会さえ 今となっては 大きな力に」

  「飛んでくる 反対弓矢 払いのけ 成功信じて やるしかないよ」

  「部下たちは あなた信じて 見ています あなたの生き様 道のしるべに」

  「それぞれの 町にそれぞれ 苦悩あり 一つ超えれば 次なる山が」

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shin-1さんの日記

○小学生とふるさとの山に登る

 今日は穏やかな天気に恵まれて絶好の登山日和です。「地元由並小学校の4年生の児童15名がふるさとの山に登山するので指導をお願いしたい」と担任の中尾先生から連絡が入って、朝8時30分に学校に出かけました。健脚は衰えていないもののふるさとの山について語れるだけの知識があるかどうかも分らぬまま引き受けてしまいました。多分私より社会科専攻の中尾先生は歴史もチロも詳しいと思うのですが、子どもの教育はいつも教えている人より他人の方が、子どもの聞く耳においては教育効果が高いことを知っていての配慮だろうと勝手に創造しました。この学校の評議員をしているにもかかわらず滅多に来ないしいいアドバイスも出来ていない後ろめたさも後押ししたのかも知れません。

 今日目指す山は双海町のシンボルともいうべき本尊山で低いながら標高187メートルの一山をなしています。由並小学校の校庭からは朝な夕な眺めている親しみ深い山なのです。

 校庭に集合した4年生の児童は15人で、やはりこの学校にも少子化の波は押し寄せているようです。でもやはり地元だけあってどの顔も見慣れた顔で、特に秋祭りの神輿守りの行事で知り合っている子供は盛んに声を掛けてくれました。やがてあいさつや注意事項の確認をして1列に並んで校門を出発し、登山口である天一稲荷神社の鳥居まで行きました。ここからはJR線の路をまたいだり、昨日からの雨でぬかるんでいたり、またいのししののたうち後があるなど、気を引き締めて歩かないと危険なため、みんなに注意を促しながら進みました。最近は付近の畑も荒れるに任せて山道は矢竹に覆われてまるでジャングルの中を行軍しているようでした。

 この山はその昔中世の城郭があった場所です。幾つもの郭があって小早川軍や長曾我部軍による城攻めにも鉄壁の守りを誇っていましたが、下から火を放たれ落城した歴史を秘めていて、今もその郭跡がたくさん残って当時を伺うことができ、ロマンを秘めた山なのです。2の郭辺りなるとさすがに岩肌むき出しの難所が続き、木陰から見える下の景色はまるで飛行機の上からでも見るような険しさでした。またこの山は魚つき保安林として指定を受けており、昭和時代まではその名残で魚見やぐらがあって、目利きの魚見さんが魚群を発見し大きなザイといううちわのようなもので魚群の位置を漁船に知らせていました。今は魚群探知機が普及してその役割を終え、伝える人も少なくなりました。

 

 一の郭辺りに登るとさすがに視界が開け、伊予灘の海が一望でき、小学校やシーサイド公園、役場や保育園、漁港といった要所が手に取るように見えてきました。山口県や広島県の島々も遠望できました。

 やがて一番の難関である山頂を目指して急な道を進みました。側には水仙の花が今を盛りと咲いていました。この水仙はもう十年も前に米袋に2つ水仙の種芋を入れて私が背負子で背負って登り、そこら辺に撒き散らしたものが根付いたものです。こんな土さえも殆どない劣悪な環境にもかかわらず、立派な花をつけていて感動しました。



 やがて頂上に着くと三角点の直ぐ側に山岳会の人たちがつけたであろう「本尊山 187メートル」と書かれたプレートがありました。子どもたちは山頂の狭い石の上に上がって、眼下に見える海や県都松山の遠望を見ながら色々な感想を話してくれました。

海が広いことも、双海町の町が綺麗なことも発見だったようです。驚いたことに子どもたち15人のうち14人までが初登山だそうでした。



 山頂での学習や一の郭での記念写真の終えて一路もと来た道を引き返し、2時間半の学習を終えて学校に無事帰って来まし。学校の校庭には早咲きの桜が満開となって、私たちを温かく出迎えてくれました。

 子どもたちにとっては忘れられない登山になったようでした。

  「ふるさとを 学ぶつもりの 山登り 心に染みる あちこち眺め」

  「この子らが 大きくなりて 山眺め 今日の思い出 思い出すかも」

  「眺めると 綺麗な山も 登るほど ゴツゴツ岩肌 汗が噴出し」

  「角笛と 大声山彦 こだまする 風の音さえ 耳に聞こえて」

 

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shin-1さんの日記

○翼の王国という雑誌に翠小学校が載りました

 先日全日空の飛行機に乗って機内備え付けの雑誌「翼の王国」を読んだ話をブログに書いたところ、私のブログの読者さんから感想の書き込みがありました。その書き込み記事の中に、「来月号の翼の王国という雑誌にあなたの町の翠小学校の記事が載るそうです」とお知らせがありました。その日の来るのを心待ちにしていましたが、先日群馬県や山梨県へ相次いで出張することになって機内でその雑誌にお目にかかりました。

 ご承知ない人もいらっしゃると思いますが、2年前まで教育委員会で教育長をしていた私の町には、愛媛県内で現役では最も古い木造建築の小学校があるのです。築75年を超えるこの小学校は翠小学校と言って児童の数は30人そこそこの小さな谷あいの小学校です。翠とはカワセミという美しい鳥に由来するそうですが、校名を聞く度に何とも奥深い文化の香りを感じるのです。

 最近学校が学校らしくないといつも感じます。日本の風土に合わない鉄筋コンクリートならぬ借金コンクリートの建物がやたらと多く、その殆どが「開かれた学校」とは程遠く、安全という名の基に門扉を堅く閉ざして人を拒み続けているのです。勿論この学校にも門扉はありますが、その門扉たるや石柱と鉄で出来ている何とも風雅な趣きでノスタルジックな雰囲気を余計引き出させているのです。学校の運動場、二宮金次郎の銅像、銀モクセイの大きい樹、赤い屋根、似階に張り出した校長室など、どれをとっても私たちの思い出の彼方にある小学校の原風景が思い浮かんでくるような素敵な小学校なのです。

 私が在職中意識的に売り出したこともあって、最近ではこの学校やホタル、水車小屋などを含めた景観が有名になって、雑誌、フイルム、テレビなど様々な角度で紹介されるようになってきました。

 この学校も数年前までは負の遺産でしかありませんでした。地元からは危険校舎という名の元に鉄筋コンクリートの近代的な校舎にして欲しいと再三陳情を受けました。当時町には財政的余裕がなく何かと理由をつけて先延ばししていたのです。しかしそれが幸いして幸運にもこの木造建築物は残りました。取り立てて有名な建築家が設計したり特長があるといった建築物ではありませんが、平凡さゆえに非凡なのだと一周遅れのトップランナーとしての注目を嬉しく思うのです。

 学校は木が交わって学ぶと書きます。鉄筋コンクリートの近代的な建物もいいのですが、やはり高温多湿な日本の風土から考えると木造建築は温か味のあるものです。最近はそのことが見直されて県産材を利用したりする制度も拡充され木造の公共建築物が見え始めましたが、まだまだ木材の不況は続いているようです。

 雨を意識したカラフルなパラソルを子どもたちがさした風景は、何となくやらせのような感じもしますが、まあ表現力の豊かさから考えると凄いお洒落な扱いです。私は「ご自由にお持ち帰りください」と書かれているので、隣の席人にも了解を得て2冊いただき、カバンに忍ばせて持ち帰りました。

  「飛行機の 中で読んでる 雑誌にも わがふるさとは 紹介されり」

  「学校も 赤黄パラソル 開きたる こんな表現 面白人あり」

  「下さいな 隣の席に 声を掛け 譲りし雑誌 カバンの中に」

  「学校も 今は注目 されるけれど 五年前には 負の遺産だと」




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shin-1さんの日記

○梅の花真っ盛り

 年末から年始にかけて腰を患い、おまけに全国行脚や娘の入院で孫の世話などがことの他忙しく、このところとんとご無沙汰の人間牧場でしたが、先日半日ほど余裕が出来たので出かけました。殺風景な冬の景色は相変わらずですが、それでも雑草は偉いもので、日当たりのよい場所では伸び伸びと緑を増やしています。暖冬といいながらも冬を越した木々はどことなく枝先が赤らんで、春を待つ息吹が感じられました。

 驚いたことに昨年買い求めた梅林の梅の花は、いつの間にか満開の時を迎えて馥郁とした香りを一面に漂わせていました。肥料もやらず、剪定も怠っているツケは必ず来るのでしょうが、それでも草刈だけはきちんとやっているので、梅の木の下にゴザを敷き、菓子とお茶を運んでたった一人ながら花見としゃれ込みました。肌を撫でる風はまだ冷たいようですが、ゴザの上に大の字になって横になると、大空の雲が西から東へとゆっくり流れ行き、何ともいえない夢心地の世界に誘ってくれました。梅の花の香りもまた格別で、時折やって来るメジロが小声で鳴きながら蜜をついばんでいました。

 私は今年、一足早くもうウグイスの鳴き声を聞いています。「えっ、ウグイスの初鳴き?」なんて人もいるでしょうが、私も最初は「えっ?」とわが耳を疑いました。そのウグイスは近所の行きつけの散髪屋さんが飼っているものなのです。その散髪屋の大将は若い頃からメジロを飼うのが趣味で、多い時は20羽以上も飼っていました。勿論許可を得てのことですから何の問題もありませんが、メジロ愛好者はいい鳴き声をするメジロを手に入れるため様々な努力をしています。野生のメジロをおとりと鳥もちで捕獲し、大事小事に育てるのですが、よく鳴くような訓練や餌に工夫をして鳴き比べ大会で優勝することが夢なのです。メジロの世界もこうした勝負を勝ち抜くと横綱、大関、関脇など、相撲と同じ番付があるのです。

 その大将はメジロと一緒にウグイスも飼っていて、先日散髪に出かけて頭をかってもらっていて、ウグイスの初鳴きを聞いたというわけです。そのウグイスは随分訓練されているのかウグイスの谷渡りも出来て何とも風流な散髪屋さんなのです。

 梅が咲く頃には梅の花がいいと、滋賀県長浜の盆梅を見た時思ったし、数日前に同じ長浜でも伊予の長浜の駅の裏で早咲きの桜を見た時は桜もいいなあと思いました。またわが町では水仙に変わって黄色い菜の花が所狭しとしているのを見ると、菜の花も捨てがたいと、移り気な思いを巡らせました。亡き母が存命中に私に言った言葉を思い出しました。私「母ちゃんはどんな願いで僕を育てたん」。母「野の花を見ても美しいと感動すような子どもに育てたかった」。私「ふーん」。さてそんな心根の優しい子どもに育っているのでしょうか。天国の母はどう思っているのでしょう。

 それにしても瀬戸内海に面したこの景色、いいでしょう。

  「ウグイスの 初鳴きドキリ 知らなんだ 床屋の大将 飼ってる鳥とは」

  「梅林に ムシロを敷いて 花見する たった一人の 贅沢味わう」

  「梅の香を ひねりて一句 詠む余裕 自由人とは 嬉しきことよ」

  「梅林の 向こうに広がる 瀬戸の海 島影行きし 船ののどけき」  

 

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shin-1さんの日記

○すみません「白湯を下さい」?

 友人の薬屋さんから聞いた話です。先日彼の経営する小さな薬局へ若いお母さんが2歳ほどの子どもを連れてやって来たそうです。そのお母さんは店番をしている友人を見て、「すみませんがサユ(白湯)を下さい」といったのです。聞くと今日行った小児科の病院で「薬は白湯で飲ませるように」といわれたそうです。お母さんはてっきり薬局で売っているものと思い込み買いに来たようでした。友人もてっきり薬屋であるこの場所で薬を子どもに飲ませるものと勘違いして、「白湯はありますがまだ冷めていません」というと、お母さんは不思議そうに「えっ、この薬局は冷まして売るのですか」と真顔で答えたようです。そのうち友人はお母さんの欲しいものを悟ったのか、「白湯とはお湯を冷ましたものですので、ご家庭でお作りになったら如何でしょうか」と説明してあげました。お母さんは顔を赤らめ、「私は白湯とはてっきり薬の一種だと思い込んでしまっていました。失礼いたしました」と顔を赤らめながら薬屋さんを出て行かれました。薬屋の友人は笑うに笑えず、お母さんが去った後も、コミュニケーションの難しさをしみじみ感じたそうです。それにしても「白湯」が沸かしただけのものであることを今のお母さんたちは本当に知らないのでしょうか。多分このお母さんだけが特別であると信じたいのですが、私たち世代と今時のお母さんとでは随分社会感覚が違うような気がして、知らないのも当然と思えるのです。

 ご飯に味噌汁、メザシにお新香だった朝食も、コーヒーとパンになり、浴衣地のオムツはパンパースとなりました。家に包丁やまな板がなかったり仏壇や神棚さえもない家庭が増えてきました。中学生はソロバンではなく電卓を持って学校に行きます。ハーモニカはリコーダーに変わりました。何から何まで様変わりして、変わらないものを見つける方が難しい世の中なのです。孫の成長する姿を見ながら価値観を変えなければ「おじいちゃんは古い」なんて言葉を言われそうな雲行きです。

 でも変えていいものは変えなければなりませんが、変えてはならないものまで帰る必要はないのです。何百年と続いた日本の古き良き伝統や文化はこの半世紀で大きく様変わりし、外国人もびっくりするくらい日本らしさが失われつつあります。言葉も日本全国標準語化され、方言は話しても注釈をつけないと分らなくなってきました。

 双海町は海に面しています。魚は豊富で春のサワラや鯛は格別の味ですが、双海を代表するこの魚さえ子どもたちはまともにいえないのです。そういえばスーパーに並んでいる魚の殆どは調理をして姿形はまったく分りません。魚の絵を書けといったら発泡スチロールのトレーに入った魚を書くのだそうです。親が子どもに何をどう、何時伝えるのか、家庭教育も学校教育もそろそろ真剣に考えなくてはならないと思います。そしてもっと大変なのは平成の市町村合併によって、ふるさとまでも説明できないようになりました。いい人間をお育てるには点数や偏差値よりも、いい人間、いい町民、いい市民、いい日本人、いい国民、いい地球人を育てなければならないのです。教育基本法が出来ただけで次代を担ういい子どもはできないのです。この子どもたちは何年篭には親になるのですから・・・・・。

  「白湯さえも 知らずに親と なりにけり 薬屋訪ね 白湯を下さい」

  「魚書け 出来た作品 調理され トレーに乗って いかにも今風」

  「まな板も 包丁さえも ない家庭 ハサミとレンジ あればばっちり」   

  「ああこれで 日本人だと 言えるのか 着物も着れず 嫁ぎし女」

  

 

 

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shin-1さんの日記

○斧の精霊

 先日群馬県上野村へ行った折、プレゼントしてもらった箸を「マイ箸」と称してカバンに入れ、既に全国を出歩いていますが、昨日ある会合の終りに食事会がセットされていたので、思い切ってその箸を使い、挨拶の変わりにその箸のことや上野村について話しました。「この箸は何の木で出来ていると思いますか。これは斧をも折れる斧折れという堅い木で作った箸です。実は先日群馬県上野村へ日本観光協会の仕事で行きました。」なんて話をさせてもらったのです。「これは一宿一飯の恩義を得た私のせめてもの上野村に対する恩返しなのです」と、まるで寅さんの啖呵倍のような気持ちで熱を込めて話しました。森林資源の減少や環境問題、ものを大切にする心などを組み合わせて何と食事の前に5分間も話してしまいました。多分美味しい食事を前にうんざりだろうと思いきや、心ある人の集まりだったからなのか、それとも私の話芸がよかったのか、食事はその話でもちきりになってしまいました。何か面映い感じもしましたが上野村のPRはひとまず30人の人にやりました。

 今朝私のブログを見てあることに気がつきました。ブログに出ている私のプロフィールに偶然なのでしょうが、「斧の精霊」という精霊占いが左隅に出ているのです。「新たに項目が追加されました」と書き込みがあるのでつい最近になってのことでしょうが、斧折れの木の話を仕入れていただけに興味のある書き込みなのです。

 「斧」の精霊

 鋼鉄の意志と正義を愛する心を持つ熱血タイプ。秩序を守り、仁義と義理を貫き通す。ウソのつけないピュアな魂の持ち主。

 こんな記事を見ると多分見た人は「自分のことだ」と勝手に思い込み、昇天するだろうというのが占いの狙いだと分っていてもこの記事を見た瞬間、「ひょっとしたら俺のこと」と案の定嬉しくなりました。わが家の「海の資料館海舟館」にも昔船大工さんが使っていた立派な斧がありますが、斧は童話に出てくる金太郎もマサカリと称して担いでいるし、まさに強さの象徴とでもいえましょう。

 しかし今の若者に斧といっても果たして思い出すことが出来るかどうか疑問です。斧など滅多に見ることはないし、第一見ても何のために使うのかさえも分らないでしょう。私たちが子どもの頃は大工さんが大きな斧で家の梁となる松の木をせっせと削っていました。斧で削りたての松の木の匂いは何となく新築の家の匂いと似ており、いいものだった記憶があります。斧で削った木屑は通称木っ端と呼ばれ火付きがよいことから風呂の薪として重宝されたものです。その薪さえも今は滅多に見れないのですから、説明のしようがないようです。

 斧に似ているものとしてマサカリやチョウナなどがありますが、薪を割るのがマサカリで、木を削る柄の曲がったのがチョウナ、斧は巾が広いものと分類すれば説明ができます。丸木舟を造ったあの頃は斧とマサカリとチョウナを使い分けて作りましたが足を怪我するなど使い方は熟練を要するようです。

 まあ斧の精霊のような人間をこれからも目指したいものです。

  「偶然に 斧の精霊 占いを 見ては喜ぶ 浅はか私」

  「斧見ても 斧と分らぬ 現代子 説明するのに 己も分らず」

  「斧という 字を爺と 勘違い 世も末ですね 国語で何を」

  「マサカリと 斧は違うと 思うけど 明確分類 説明できぬ」 

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shin-1さんの日記

○遅咲きだっていいじゃない

世の中はまさにスピード時代、東京大阪間が3時間なんて夢のまた夢と思っていたのに新幹線ののぞみに乗れば寝る間もないほど早く着くし、飛行機だとわが家から東京までは2時間で着くのですから凄いものです。しかしこんなに目を見張るようなスピードで世の中が進んで距離的に遠いところが近くなっても何か満たされた気持ちになれないのは、やはり人間のもつ「更に」という飽くなき欲望のせいだと思うのです。貧乏な戦後の時代には日々満腹であれば満足だったし、お金もそこそこで幸せでした。ツギハギのあたった洗い古しの着る物だって別に気にもせず元気で、冬の寒さなどしもやけやアカギレでもアオバナを垂れながら戸外で元気に遊んでいました。そんな時代から見ると今の私たちの暮しは一億人総セレブって感じなのです。

 セレブという言葉が最近は流行って、テレビでは連日お金持の皆さんがさりげなくおすまし顔で紹介されています。そんなテレビを見ながら水道代や電気代が高いと、家計簿をつけている妻は「ある所にはあるもんじゃねえ」とか、「どがいしたらあんなお金持になるのだろう」とため息を出し、「あなたの稼ぎが悪いから」と言わんばかりに視線の先を私に向けているような気持ちになるのです。「あれは特別な人、いいじゃないか幸せなんだから」という言葉も何処か元気がないのです。

 でも最近少しずつスローな生き方も見直されてきました。ビンボーさんや脱サラ田舎暮らしが取り上げられ、ビンボーな暮しも、田舎の時間に縛られない暮しも何故か生き生きと輝いているように見えるのです。

 若い頃中根千恵の「遅咲きの人間学」という本を読みました。多分島根県の永田征さんが私に送ってくれた本でした。今も人間牧場の本棚に置かれていると思いますが、あの本を読んで随分気が楽になったように昔日を思い出すのです。世の中は目に見えない競争社会です。小さな田舎の役場でさえも昇進や出世という一年に一度の人事異動が妙に気になるものなのです。体調を崩し漁師から公務員に転身した時も、町名変更の責任を取って異動させられて時も自分に納得させたにもかかわらず、何故か負け犬のようなむなしい気持ちになったのは、やはり競争社会への意識があったからに違いありません。でもこの本に助けられました。「ひたむきに充電」する、それは厳しいいけれどトンネルの向こうには遅咲きながら必ず花が咲くことであり、その日の来るのを信じていました。

 「遅咲きの人間学」は自分を見失わないことでもあります。人生高々80年、自分らしく生きようと思えばこんなスピードの時代でも案外開き直って生きれるものなのです。これまで62年間を生きてこられたのはやはり自分を見失わなかったからかもしれません。

 私たちの住んでる田舎でも農業や漁業さえスピードが求められる時代です。農家はハウス栽培と称してミカンの木をビニールのハウスで覆い、12月には暖房を入れて季節をコントロールし、秋の果物だったミカンは夏の食べ物になりました。ミカンの木はこうした人間の自然を無視したやり方に悲鳴をあげていますが、それでも生き残るためには仕方のないやり方として受け入れているのです。漁船は先を争うために高速エンジンを搭載し、全ての漁船がバルボアという格好悪いコブを船首部分に取り付けてスピードが出るようにしています。でもそんなスピードの時代にもスローな農業やスローな漁業でしっかりと生きている人もいるのですから、面白いものです。

 スピードを出すと思っても出なくなった自分ですが、残された余命はせめてスローな生き方をしてみたいと思いつつ、今朝もハイスピード情報化社会の申し子といわれるパソコンに向かい、相変わらずスピードの恩恵に浴しているのです。

  「遅くとも いいと言いつつ スピードを 求めてパソコン 使ってメール」

  「遅咲きを 期待したけど 咲かぬまま 終わりそうだな 俺の人生」

  「もう下り 登りきらずに 降りてゆく 目標少し 低き反省」

  「金もなく よすがなくして 自由人 さっぱりしてる 今のわれ見て」 

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shin-1さんの日記

○ハガキの印刷が出来ました

 年末に心痛めながらも年賀状をパソコン処理で出しましたが、そのお返しとでもいうべき膨大な年賀状をもらい、最近は喪中の人から寒中見舞いがたくさん届いています。そのためこのところは一日三枚どころか多い日には10枚も返事を書かねばなりません。何とかしたいと思いつつ絵葉書でお茶を濁していましたが、つい最近息子の指導でハガキに画像を入れる技術を伝授され、重宝に使っては文通をしています。

 この3枚がそれで、左は人間牧場のロケーション風呂を楽しむ次男と孫、真ん中は夕映えに染まる閏住の菜の花畑、右は3日前の美しい夕日の写真です。本当は絵筆でも持ちたいのですが、ただ今のところ時間的暇もなくこんな体裁になっています。それでも手づくりの絵葉書ですから話題性や臨場感もあって中々好評のようです。

 ハガキの効果を吹聴する私なのに、なぜか字の汚いコンプレックスを持っていますが、「まあいいか」と気にも留めもせず書いていますが、文字でなく符号のような私の字でも、それなりに意味も伝わっていますので幾分安心しています。このような手づくりの絵葉書は私のような未熟な技術でも簡単に作れるのですが、カラー印刷なのでまたたく間に印字用のカートリッジインクがなくなって、インク不足の警告ランプが点灯するのです。最初はそんなことも知らず何故プリントアウトした写真が霞むのだろうと不思議に思いましたが、知れば納得今は簡単にカートリッジを交換できるようになりました。しかしこのカートリッジインクも結構高いもので、今では東京へ行く度に新宿西口の高速バスターミナルの前にあるヨドバシカメラというパソコン量販店で安いのを買い求めて対応しています。ハガキも本当は官製ではなくパソコン専用のインクののりのいいのを買いたいのですが、受け取る人には悪いのですが、官製ハガキの余ったものを使用しています。特に年賀状やカモメールなどを利用する場合は幾分腰が引けますが、出さないより出した方がましなので気にも留めないふりをして出しています。

 今日はこれから、昨晩書いた12通のハガキを郵便局へ出しに出かけます。外は久しぶりの雨が降って南予北部には強風波浪警報が発令されました。この地方ではこんな南風を春一番と呼んでいますが、冬も過ぎないのに春一番といえるかどうか、思いつつ生暖かい南よりの風を肌で感じながら戸外へ出ました。今朝の突風で庭先のプランターがひっくり返って見るも無残な姿になっていました。雨や風が吹く度に季節は冬から春へと動いてゆくのを感じます。「もう直ぐ春ですね。ちょっときどってみませんか」。なんてキャンディーズの歌がありましたね。

  「手づくりの 絵葉書印字 文を書く あの人顔を 思い出しつつ」

  「ヒューヒューと 電線鳴らし 春の風 待ちに待ったる 一番風かも」

  「沢山の 写真の中を まさぐって 出来たはがきは 夕日と花と」

  「冬なのに 何故に入浴 する姿 逆も真なり 寒中見舞い」


 

 

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○目に見えない支援

今月始め、私が代表を務める21世紀えひめニュ-フロンティアグループの総会が今治の湯の浦ハイツで行われました。今治でも東の端に位置するこの場所は高台にあって、友人の持っている温泉つきの別荘を借りて毎年新春早々開催するのが毎年の恒例行事となっているのですが、今年は土曜日ごとの私の日程が空かず、延び延びになって2月3日になってしまいました。もう10数年続いていることなので参加する会員も当たり前のように振舞っていますが、この温泉つき別荘を訪れる度に、世の中にはお金持もいるものだと今更ながら貧乏な自分との比較をするのです。時あたかも東京では国会が開会中で、連日「格差」について最大野党の民主党と与党となっている自民党や公明党が、足の引っ張り合いともとれる激論を繰り返しています。野党の言うようにこの世の中は格差が大きく、戦後の混乱期や高度成長期、不況などの時代現象を経る度にその格差は広がろうとしています。生活保護の増大、年間自殺者3万人、無貯蓄者23パーセント、ホームレスの増大、相次ぐ倒産などの数字を見れば格差は事実なのですが、野党が言うようにその格差が政府の無策や一部の人への税制的優遇だけではないような気もするのです。人は何故か楽な道を進もうとする怠け者で、楽して食えればそれに越したことはありません。汗水たらして働いてもそんなに楽して食えるほどこの世の中は甘いものではありません。でも自分の長い人生を生活設計を立てて一生懸命働いて生きさえすれば、現代は食えなかったり自殺をしなくても生きていけることは間違いありません。濡れ手で粟の儲け話に手を出して失敗したり、ろくに働きもしないで世の中が悪いという身勝手さはいつの時代もあるのです。勿論頑張っても食えない弱者といわれる人には政府や私たち周りの人間が暖かい手を差し伸べることは極めて大切ですから、政策や政策といった「鳥の目」も大事でしょうが「虫の目」的な視点も大切だと思います。

 私たちのグループに10年も前から支援していただく団体があります。関奉仕財団という松山の印刷会社が持っておられる財団です。この会社は株式で得た財を社会のために活用する活動を行っています。この財団の理事をしている藤原さんを通じて私たちのグループの青少年育成に努力している姿が紹介され、以来ずっとご支援を受けてきました。みんなが手出しするだけしか財力のない貧乏なグループにとって口出しもしないし何も求めない、財政的支援者の存在は大きな力となりました。私たちのグループの今日の存在はこうした支援あってのことであり、その温情に深い感動を覚えるのです。

 先日その財団から電話がかかってきて、早速ごあいさつに伺いましたが、その謙虚な対応には支援しているおごりなどまったくなく、こちらが恐縮してしまいました。

 「今やれる青春」「一年一事業」「社会へのゆさぶり」の三つをテーマにこの二十年余り活動してきた私たちのグループも年齢的には退職者も出始めるなど、曲がり角に差し掛かってきましたが、それでも昨年はツリーハウスの建設や逆手塾の開催、韓国への研修旅行など幅広い活動を展開しました。今年もニューフロンティア塾と名前も改め10年40回の塾をやった塾を再開することを決めました。また研修先として世界遺産紀州熊野を目的地に交流する計画も承認、新しい一年が始まりそうです。

 私も3年間の空白を除いて23度目のグループ代表に再任され、思いを新たにした小さな小さな総会でした。まあ20人の愉快な仲間と、愉快な活動を楽しくやるつもりです。

  「この十年 影の支援が あればこそ ここまで来れた 感謝感激」

  「いい人に 巡り会いたる わが人生 金はなくとも 金づるありて」

  「格差ある これは世の常 何時の世も まっとう生きりゃ 何とかなるさ」

  「机上 真赤なポスト 貯金箱 何時の間にやら いっぱいなりて」

  


  

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shin-1さんの日記

○久しぶりの動物園

 県庁の職員でありながら奇抜なアイディアと行動力で動物園を有名にした山崎園長さんが存命中は、しょっちゅう動物園の話題に触れ、私も山崎園長さんに頼まれて飛べ動物園まで研修会に招かれ、職員のスキルアップについて講演したりして、常に動物園が身近にありましたが、今は交流もなくすっかり私の記憶から遠ざかっていました。

 昨日は天気もよく孫が動物園に行きたいとせがむので私たち夫婦と3人で砥部動物園に出かけました。出かける前から孫はウキウキソワソワで、何度か行ったことのある動物園の思い出を話しながらはしゃぐ姿にこんなにも嬉しいのかと、こちらまで喜んでしまいました。一度落ち込んだ入場者数も少し上向きだと聞いていましたが、11時頃に着いた動物園近くの駐車場は満車で、運動公園を越えた一番遠い駐車場に案内されました。そこからはライオンの形をしたシャトルバスが迎えに来てくれるので、そんなに苦になることもなく、むしろシャトルバスに乗れたことで随分楽しそうでした。

 入場券を買って中へ入ると、陽気に誘われて繰り出した親子や家族、若いカップルなどがコートも着ずに長閑に散歩気分であちこちを見て回っていましたが、目玉となる動物の周りには人だかりが出来ていました。それでも人を掻き分けてというのではなく人垣がスムースに流れるので、孫も私たち夫婦もゆっありと歩いて見学しました。

 ピンクのフラミンゴが片足立ちで優しく入場を歓迎してくれ、孫もお立ち台で片足ポーズしました。

最初に入ったのはスネーク館、亀や蛇などが温室で展示されているため汗ばむような温かさで、孫は蛇やワニに興味を示して、何度も何度も行ったり来たりでした。それにしても私などは蛇が一番嫌いな動物なのに孫は平気で大きなニシキヘビやアナコングなどを見てはしゃいでいました。

最近は北海道旭川の旭山動物園の入場者が上野動物園を抜いて日本一になったという話題が持ちきりで、斜陽化の動物園業界も生き残りをかけて来園者に様々なサービスをしているようです。それは安全な動物と触れあうことなのですが、スネーク館では大きな亀が足元に無造作に転がるように置かれていて、子どもも大人も触ってはキャーキャーいって喜んでいました。孫も最初は恐る恐るでしたが、二度三度するうちに亀の甲羅に乗るような仕草までして喜んでいました。

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 屋外には人工飼育で育った白熊のピースを見ました。テレビのドキュメンタリー番組で紹介されていたので人気が高く、孫さえも「ピース、ピース」と名前を呼ぶほどでした。

 ペンギン、レッサーパンダなど、もう名前さえも知らない動物がたくさんいて、かなりの距離を歩きました。動物園の魅力は知らず知らずのうちに歩くことだと改めて万歩計を見ましたが、その数の多さに満足気味でした。

 丁度お昼になると広場ではおもちゃのからくり時計が演奏を始めました。孫はパンダの乗り物に乗ったり、約束の動物の模型の中からワニの模型を一つ買ってもらい、それを片手にトラやヒョウなどの猛獣類や猿などを見て回り、象に餌を投げて2時間余り散策した会場を後にしました。

 (この写真を見て孫曰く。「おじいちゃん、僕の頭の上に象さんが乗っているよ。うれしいー」だそうです)

 (自宅に帰った孫は動物園で見た動物の物まねを盛んにして遊んでいました。特に買ってもらったワニの模型がすっかりお気に入りで、風呂に持って入って石鹸で洗ったり、おまけに夜九時の就寝時は布団の中で一緒に寝ました。夜中に起きてきて「僕のワニは何処?なんていう始末です)


 孫にとっても私たち夫婦にとっても束の間のいいリフレッシュでした。

  「孫と手を つないで園内 あっちこち 知らない動物 文字盤頼りに」

  「匂いさえ なければ園内 快適で 一日楽しむ デイトスポット」

  「近頃は 動物触れ合う 動物園 子どもにとっても ハラハラドキドキ」

  「花の咲く 頃にも一度 来てみたい 長閑な冬の 一日楽し」  

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