shin-1さんの日記

○ああ群馬県上野村・ルポ②

 上野村の村内を見て回ると雑木林の多さに改めて驚かされます。日本の山村が何処へ行っても戦後行われた杉と桧の人工林植栽なのにこの村は明らかに違っています。それが人為的なものであるとした素晴らしいことなのですが、漏れ聞けば急峻な地形ゆえに過ぎや桧の美林が育たない痩せた土地だったようです。結果的には植林が遅れたことが一周遅れのトップランナーになったのですから世の中は分らないものです。私はこの落葉樹の多い上野村の素晴らしさを肌で実感しました。今は寒い農閑期なのでしょうか、あちこちの谷あいで家族や夫婦で落ち葉集めをしている人に出会いました。多分集めた落ち葉は腐葉土にして農業に生かすのでしょうが、これぞ環境に優しい自然サイクル農業だと直感しました。またこの落ち葉は自然のろ過装置となって美味しい水を供給していることも間違いありません。腐葉土が育む農作物や水を付加価値にしたらこれこそ都会の人があこがれる特産品となることでしょう。

 そこで提案したのが「もうひとつ上の(野)村を目指して」というキャッチフレーズです。講演中インスピレーションでとっさに出た私のアイデアですが、これはいけると思います。特産品を売ることも大事ですが、村を売ることが出来る村なのです。そのためには村をデザインすることをはじめなければなりません。村のデザインは村という響きや落葉樹生い茂るこの村なら可能なのです。

デザインをする人を見つけ、デザインをする人を村に住まわせ、そのデザインが村をまるごと情報発信装置になる考えるのです。

これまでの20世紀は私たち田舎者が都会に憧れる時代でした。そしてみんなが向都離村の教育をやった結果村は過疎になりました。しかし今は違います。21世紀はヒズミとねじれに満ちた都会の人が田舎に憧れる時代になりつつあります。そんな憧れの条件が上野村にはあると確信しました。

 

 そのためには、沢山作っている公共施設をもう一度見直し、点を線で結び線を面にする作業が必要です。上野村の視線はどうも虫の目になっていて、鳥の目にはなっていないように思います。経営や職員配置やプログラム全てがチグハグなような気がします。このままでは誰が指示を出し、誰が説明責任を取るのか明確でないような気がするのです。これからはそれぞれの施設と村全体がラインとサークルで結ばれるようにしなければ、それぞれも村も自立という最終目標は達成できないばかりか、負の遺産として村民に大きなツケが回って来るのです。

 途中立ち寄った場所で面白いものを見つけました。遊びの工房ともいうべき施設に入ってみるとそこはもうまるで宝の山のように、どんぐりや松ぼっくり、しいの実、とちの実など、自然の恵みが集められており、都会人の心をくすぐるような遊びの空間がありました。多分ここでは職員さんの感性で様々な遊びのプログラムが用意されているのでしょう。一見山里では何処にでも落ちているガラクタなのでしょうがあるものを生かすという点では都会にはないものですからお宝だと思うのです。職員さんは人が来なくても春にはお客さんが来てくれることを信じてせっせと充電しているのです。この発想は大事にしたいものです。

 無住と聞いた天台宗のお寺の境内にも見事な群馬県指定の天然記念物「しだれ桜」がありました。村のあちこちには枝ぶり豊かなしだれ桜が何本も目に付きました。やはり春を待つ気持ちで見ると千金に値する桜です。この桜を見るツアーを観光商品として売り出したいものです。

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shin-1さんの日記

○ああ群馬県上野村・ルポ①

 日本観光協会から依頼を受けて群馬県上野村へ出かけました。飛行機と列車を乗り継いで経由地の高崎駅まで行きました。最近は玉村町、大泉町と相次いで群馬県の町や村をを訪れているため、車窓に移り行く景色も何処となく懐かしく、そこここで知り合った方々の名前や顔を思い出しながらの講演旅行です。何年か前に訪れたことのある高崎の街は活気ある街に変身しているように感じつつ、駅まで公用車で出迎えてくれた上野村の職員さんとさらに先にある山間の村を目指して、ひたすら走り続けました。

 上野村といえば日航ジャンボ機が墜落し520人もの方々が亡くなって一躍その名を知らしめた村です。故にその名前はもう20数年も前の出来事なのに、その日が来る度に新聞紙上に鎮魂の祈りがニュースとして流れるため、日本中の人が知っている有名な村なのです。更にこの村を有名にしたのは10期40年も村長としてこの村をリードし続け、全国町村会会長を務めた名物村長黒澤丈夫さんの存在でした。何度かテレビで拝見しましたが今は引退し悠々自適の生活をされていてやに伺いました。

 今回私に与えられた仕事は村の「観光の活性化」なのですが、二人の案内で村内を一巡しながら、あらためて村長さんの偉大な功績とでもいうべき公共施設の多さに目を見張りました。二つの国民宿舎をはじめロッジ風の宿泊施設から、長い長い吊橋まで、十指に余る公共施設が村のいたるところに作られているのです。聞けばそれらの運営は村直営と公営企業とでもいうべき第三セクターの公社が行っているようでしたが、残念なことに経営は苦しく四苦八苦の状態のようでした。

 長野県南牧村と同じ名前なのですがなんぽくむらと読む南牧村を過ぎ、3.3キロという長い湯の沢トンネルを抜けると、暖冬のこの頃といえども早朝は氷点下5度まで下がるような急峻な地形の上野村へ着きます。まだ厳冬期のため道端の日陰には残雪が凍り付いていましたし、遠望はクヌギやナラなどの落葉樹が葉を落して素晴らしい冬景色を演出していました。

 

 軍目県で最初に作られたという道の駅の前にある村営の食堂で十石そばを食べましたが。村自慢の木地食器で出てきた郷土料理のそばと舞茸などのキノコはてんこ盛りで美味しく、遅い昼飯の空腹を十分に満たしてくれました。特に食事後に出たそば湯は今まで飲んだどのそば湯よりも濃厚で、存分に堪能しました。道の駅も側にあるクラフトの店も季節柄来客まばらといった感じがしましたが、道の駅の要所には小奇麗な看板が立っていて、店の家内は砂糖と塩で味付けされた村おこしのための特産品の数々が地酒とともに所狭しと並べられていました。特にここの特産品といわれる十石みそに関する商品も数多く目に付きました。

 この二人が私を案内してくれた今井さんと田村さんです。今井さんはこれまで5年間企画財政課で観光を担当し、最近教育委員会へ出向して生涯学習を担当し、田村さんはUターンして帰郷し今井さんの後を引き継ぐべく勉強している若者です。いずれも好青年で思いが伝わってきましたが、観光という荷の思い仕事を発展させるためには今井さんの力も必要だし、田村さんの学びも必要であると痛感し、送迎に要した往復3時間余りの道すがら個人レッスンのような形で観光のノウハウを語ってあげました。

 幸いなことに彼ら二人は観光にとって何よりも優先するやる気や、田村君のように最近まで村を離れて村を外から見ている視点や、転職を気に東南アジアを約1ヶ月間見て回っている学びは、上野村の観光にとって多いに役立ちそうです。

 

 

 この村には洋風と和風の国民宿舎が2軒ありますが、洋風の洒落た国民宿舎には薪ストーブ風暖炉もあったりして川べりのお洒落な雰囲気は都会派の若い人に人気がありそうだし、山間の私が泊まったやまびこ荘は家族連れにぴったりの落ち着いた雰囲気でした。支配人は村外から来られて経営に当たっているようでしたが、掃除も行き届きお客への気配りは満点のようでした。

 急峻な坂を登ると10棟のロッジや管理棟がありました。数日前に降った雪でしょうか、まだ道端に溶けずに残っていましたが、夏休みには賑わうことでしょうが、その向こうに年間3万人が通行する長い吊橋や群馬位一を誇る鍾乳洞があって、それぞれ管理の人がシーズンオフって感じでのんびりと作業をしていました。やはり観光にとって冬場の対策は集客のため相当の知恵が必要だと痛感しました。


 その知恵の一つが鍾乳洞の入り口にひっそりと咲いていたロウバイの花です。

 こんな寒い山中に黄色い花をいっぱいつけて見事に咲いていました。また側にはミツマタの木も間もなくの大きな蕾をつけていました。近くには桜の木を植樹したかなり広い場所がありましたが、今井さんの話だと桜の木は高冷地のため中々根付かず、また鹿の食害にも会うそうです。桜は日本の国花といわれるように日本中いたるところに植えられ桜前線とともに北上して一斉に咲きます。それはそれとして咲いた時は枯れ木に花が咲くようで美しいのですが、逆にありふれて目立たないのです。上野村に咲くという野生の福寿草と組み合わせてロウバイやミツマタで季節の話題を作れば冬必ず人がやって来ますし、石楠花もあちこちに見られるようなので、花暦をしっかりと作れば秋の紅葉や冬の木立など話題には事欠かないと思いました。

  「トンネルの 長さ三. 三キロを 燦々呼ぶか それとも散々」

  「村中に 村長息を 吹きかけて 十指に余る よくぞ作った」

  「冬は来ぬ みんなあきらめ 冬眠す これでは観光 春に間に合わん」

  「休むのか 充電するのか 大違い 相手の目を見りゃ お休みモード」


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