shin-1さんの日記

○ランチェスター第二の法則

 昭和19年に生まれた私は、戦後の混乱期に育ったため「日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)でなぜ負けたか」という、そんな話を子どもの頃随分聞かされました。「日本の竹槍に対しアメリカの戦闘機では勝ちっこない」「神風を信じた精神論日本と物と情報という科学的アメリカでは勝ち目がなかった」など、復員した人たちから武勇伝も含めて沢山の戦争逸話混じりに日本とアメリカの違いを聞きました。戦後62年経った今は、終戦記念日や原爆投下日などに僅かに聞いたり思い出したりする程度で、私たち庶民の記憶の中から戦争が消えていくことを少し残念に思うし、平和が故の出来事だとも思ったりしています。

 中学生った頃だったと思いますが、ある大人からランチェスター第二の法則という難しい戦争の話を聞いたことを今でも覚えています。「アメリカの戦闘機は50機、日本の戦闘機は48機、どちらが勝つか?」という話です。若い私は日本びいきもあってか「日本の48機の方が勝つ」といったのです。「それは何故?」、私はその質問に「日本の戦闘機とパイロットは優秀だから」と答えました。「じゃあパイロットも戦闘機も々優秀だったら?」、私は「五分五分」と答えたように思います。

 その人は図解しながら第1回目の空中戦は50機対48機でアメリカは9機撃墜されるが日本は10機撃墜されるというのです。「そんなことはやってみないと分からない」という私の発言を抑えて第2回の空中戦でアメリカは6機撃墜され日本は8機撃墜され35機対30機になるというのです。こうして第3回6機撃墜・7機撃墜=29機対23機、第4回4機撃墜・9機撃墜=25機対18機、

第5回3機撃墜・5機撃墜=22機対13機、第6回3機撃墜・8機撃墜=19機対5機、第7回1機撃墜・3機撃墜=18機対2機、第8回撃墜0・2機撃墜=18機対0、つまりランテスター第二の法則によると8回の空中戦で最初2機しか違わなかったのにアメリカは18機も残り、日本の戦闘機はゼロになったという話でした。納得がいかなくて何故何故と質問したその回答は忘れましたが、今でもその記憶は生々しく残っていて、イギリスの航空工学専門家であるランチェスターという人のこの理論を採用したアメリカはが戦争に勝った理論を教えてくれました。その人は先日亡くなりましたが偉い人だと子供心に思ったものです。ランチャスターの理論が正しかったからサイパンは日本3千対アメリカ6万8千=日本ゼロ、グアムは日本1万8千5百対6万=日本ゼロでした。

 ランチェスター第二の法則が正しければ、アメリカのような大都市と日本のような田舎の戦争は日を見るより明らかでやる前から勝敗は決まっています。つまるところ小さなまちは余程のことがないと勝てないということです。そういう意味では平成の大合併は70を20にして少しでも有利に空中戦を戦おうとしているのですから、いいことに違いはありません。しかし戦闘機たる自治体は金もなく弾薬もなくボロボロですし、戦闘機に乗るべきパイロットなど素人ばかしです。戦闘機は古いけれど今こそ優秀なパイロットを育てなければまちの未来はないのです。人づくりの意味はこんな理論でも明白です。

  「日本が 何故に負けたか ランチェスター 今も分らぬ 第ニの理論」

  「俺の街 金もなければ 知恵もない これでは戦 する前玉砕」

  「ライバルは 人ではなくて 自分なり 己が力を 鍛えなおして」

  「何もない 言いつつあった」 人がいた いつの時代も 人が財産」 


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shin-1さんの日記

○過疎か適疎か

 市町村合併が進み、3千を超えていた市町村の数も1800台以下になっているようです。愛媛県の市町村も20市町となり、合併せず最後まで残っている松野町では相変わらず町内がゴタゴタして、議会と町長と町民による確執はリコール運動や住民直接請求へと発展しているようです。合併しない所は合併はしたくないと主張し、合併した市町の殆どが合併してもメリットなんてなかったと口々にお互いを罵り合っているようで、今回の合併は何となくすっきりしないまま推移をしているようです。

 一昨日愛媛県知事選挙が告示されましたが、かつて他選を批判していた人が多選に立候補するのですからどうなっているのか庶民は中々理解に苦しむところです。それでも自治会長という職責がら選挙遊説のギャラリーとして出なければならず、地元議員さんの顔を立てる格好で昨日の午前中参加をしました。市役所地域事務所の前には多くの方々が見えられ熱心に聞き入っていました。失政もなくそれなりの評価を上げている人だし、他の候補者と比較しても存分の働きをしてくれそうな人だけに、私個人としては応援したいと思っています。それにしても奥さん同伴とは凄いことでレディーファーストのどこかの国のようです。私などはとても真似の出来ないことです。

 候補者は現職だけあって国会議員、市長、県会議員、市議会議員というそうそうたる顔々を引き連れての遊説です。その人たちの話を聞くと何か間近に迫った自分の選挙のことを考えての応援のようにも見えました。(公職選挙法のこともあるのでこのあたりで止めておきます。)

 市町村合併で地域づくりの指導者、特に役場職員の顔が見えにくくなりました。どの町に行っても一人や二人は熱心な指導者がいたものですが、その人たちは組織の中に埋没しこれまでのような働きができないままなのです。このままでは地域づくり運動や活動が逆戻りするのではと心配しています。

 私たちの町では昭和30年代後半から始まった過疎からの脱却がまちづくりの大きなテーマでした。しかし過疎対策と称して色々な事業をやればやるほど皮肉なことに人の数が減っていったのです。今回の市町村合併で一時的に5千人余りの町が41千人の市になったので、何か人口が増えたような錯覚になって、誰も過疎のことを話さなくなりました。勿論県知事選も市長や市議選でもその話など微塵も出ませんでした。集落の殆どが限界集落になっているこんな重大なことを気付かず、気付いても気付かないふりをして何も行動を起さないでいる人たちが多いのです。

 田舎の悲劇は自分で飯が食える能力のある人がどんどん都会へ出て行き、先祖から貰った財産にしがみついてしか飯の食えない人と高齢者が残るという、言葉は適切ではありませんが「カス化現象」が問題なのです。一定量を確保しその人たちの質を高めて行かないと町は駄目になるのです。

 私はこれまで「過疎」という言葉より「適疎」という言葉を使ってきました。双海町という町の人口が最大値を示していたのは昭和30年の合併当時でした。この人口を100とするなら今の人口は50です。100が50になる、これは完全な過疎です。では双海町の人口は何人が最もいい人口規模かと問われたら、100の昭和30年か現在の50か誰も答えられないのです。つまり数値的に見た双海町の過疎も、住んでる人にとっては適当かも知れないのです。人が減ることは決していいことではありませんが今の人口を適疎と思いそのような自立したまちづくりを進めてゆけばまだまだ双海町の人口は適疎の範囲内であると思うのです。でも過疎と思っても何もしないことより、適疎と思って何かを始める意味を考えたまちづくりをこれからはしたいものです。

  「この町の 人口減って 過疎という 俺は適疎と 思っているが」

  「この地域 限界集落 人はいう 寂しい風が 墓標を撫でる」

  「参議院 勝つため選挙 するという 議員のために 選挙かなわん」

  「国二分 するほど議論 しながらに ちゃっかり握手 選挙分らぬ」 



 


 

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