shin-1さんの日記

○諭しの言葉

 人は多かれ少なかれ人間が生きていくうえで指針となるべき言葉を座右の銘として持っています。座右の銘たる言葉は偉い歴史上の人物が言った言葉を引用したり、出会った人や本の中から自分のフィーリングに合ったものを選んだりしますが、中には家訓たるものまであって多種多様です。かくいう私も座右の銘とまではいかなくても「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」という言葉を色々な場面で使っています。愛なんて言葉を使うのは少しキザなようにも思えますが、多分自分の人生を振り返ってみてこの言葉くらいわが人生を語るに相応しいものはないし、これからもこの言葉に意味するところをかみ締めながら生きてゆこうと思っています。

 昨日妻と二人でテレビを見ていたら全国を駆け巡って説教している尼さんが紹介されていました。ある尼さんは刑務所に牧師のような形で入っていって受刑者にもう二度と犯罪を犯さないように諭すのですが、日本はそうした陰ながらの努力にも関わらず犯罪は増え続け国内の刑務所は満杯の状態だそうです。窃盗や麻薬は初犯の人が再犯を繰り返すことの多い犯罪だそうですが、社会や人間の誘惑に負ける人たちにとって尼僧の諭しの言葉は心に響かなかったのかもしれないと、尼僧は自分の非力を嘆いていました。

 ある尼僧は楽しいお喋りで聞く人をひきつけていました。「人間は三養が肝心である。その一つは休養、毎日睡眠をしっかりとらなければならない。毎日の睡眠は8時間を基本とするが、睡眠不足した時間は睡眠不足貯蓄となってその人の体に貯まってゆく。その貯まった睡眠不足貯蓄分だ寝なければならないから最後は寝たきりになる。二つ目は栄養、食べ物で命を長らえている人間は野菜でも魚でも果物でも自分のまちで獲れたものを食べるとよい。それらの食べ物は自分と同じような環境野中で育っているから体に受け入れられやすいのだ。大体今の日本人は他所のものを食べ過ぎる。結果的に日本人は太り過ぎとなり成人病が増えている。三つ目は修養、今の自分より格上の人間を目指して日々修養をしなければならない。そのためには六根を使うことである。一根は目、何故目は二つある。目が利く、目は口ほどにものを言う、目分量など複眼を生かすことを考えねばならない。二根は耳、耳も左と右と二つあって体の外についている。沢山の音や声を聞けということだ。三根は鼻、息をする、匂いを嗅ぐことによって目で見たことを確かめることが出来る。いい香にはいい心が宿っている。四根は口、口は何故か他のものに比べて一つしかない。喋るとき食べれないし、食べているときは喋れない。ところが最近は口が二つのことを同時にやろうとしてるから無理がある。口で話したことが聞こえる範囲は限られているのにマスコミに乗って口で言ったことが広がりすぎる。口は災いの元なのだ。五根は手、今の世の中は手を使わなくなった。手仕事をしなければならない。手で触ると人の温もりを伝わってくるし両手で抱き合うことも出来る。六根は足、足も車の普及で手と同じように使わなくなった。歩くことから始めなければ走ることも出来ない。今の世の中足かせが多過ぎて歩くこと足りない。足りる足にならなければならない。日々の暮しで心がけて欲しいことは笑顔、あいさつ、返事、後片付け。笑顔がどんなに人の心を和ませてくれるか計り知れない。元気よくあいさつをしよう。日々の暮しはあいさつでコミュニケーションができる。ところがあいさつしても返事が返ってこない。後片づけが出来ないといるものといらないものとの区別がつかない。玄関には今日履く靴で沢山なのに何故に何足も靴が並べているのか、廊下は人が歩く所なのに歩けないほど置いている」。

 風呂の湯加減を見たり電話がかかってきたりでテレビを断片的にしか見なかったので全ては読み取れなかったので、自分流に整理をしてみました。読む度に味わい深い諭しの言葉であると思いました。

 最後に「咲いた花見て喜ぶならば、花の根を見て恩を知れ」と言われました。根は土の中にあって花を咲かせるための栄養や水分を絶えず花に送っている。根が元気でないと美しい花は咲かないのです。私はこの言葉をパソコンのキーボードで叩くと意外や意外、根より先に値段の値が出てきました。値を値段で見るとしたらこれは大変な間違いですが、現代はいい花は値段のいい花と勘違いしている節もあって中々面白いと思いました。

 聞く耳を持ってテレビを見ながらいい修養が出来ました。

  「なるほどと 思う言葉に 行き当たる 耳聞き流す 俺はメモする」

  「六根を 鍛え直して これからも 一生懸命 生きてゆきたい」

  「寝不足が 少々気になる これまでの 暮し見直し 睡眠増やす」

  「手と足を 使う暮しが 今に来る 車なければ それが頼りだ」

  

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