shin-1さんの日記

○家の周りの草刈り

 わが家の敷地は家庭菜園を含めると660坪もありべらぼうに広く、地元の人からは狭い土地柄もあって「いいですねえ。お宅は土地が広くて羨ましい」といわれています。確かに狭いより広いに越したことはないのですが、若い頃とは違って広いということが少々重荷になりつつあります。贅沢な悩みなのでしょうが、有に200メートルはある細長い地形には畦畔と称する斜面があって、隣の敷地と境界をなしているのですが、この草刈りがまた大変な重労働なのです。毎日草を刈ってるお百姓さんならこの程度の草は朝飯前なのでしょうが、夏の暑さもあってまさに汗だくだくなのです。昨日と今日の二日間、といっても昨日午前中3時間、今日午後1時間半をかけて、今年3回目の草刈りをやりました。お陰さまで家の周りがまるで散発をしたようにすっきりとして、「うん綺麗になった」と自画自賛するほど綺麗になりました。

 昔なら炎天下の草刈りで一汗かいてシャワーを浴び、「ビールをぐい」と行きたいところですが、酒を飲まなくなった私はシャワーを浴びて「麦茶をぐい」程度なのです。ビールを飲んでた昔を懐かしく思い出すのですが、酒を止めて6年も経つと体内からアルコール分が完全に消えているため、もう一度飲んでみたいという気持ちには不思議とならないのです。

 家の周りの草刈りは4月に1回、6月に1回、8月に1回、10月に1回の年4回やりますが、自分の都合と父親の助言が優先されます。草が伸びてくると几帳面な性格の父親はそれとなく私に「家の周りの草が伸びた。もうそろそろ刈らんといかん」などといいながら家の裏のドハ草を鎌で少し刈るデモンストレーションをやって私を促すのです。若い頃はそんな親父の言葉や行動が何とも嫌で、言われれば言われるほどまるでアマノジャクを決め込んだものでした。しかしそんなアマノジャク的な元気も今は失せて、自分の家を守る当然の仕事として草刈りをするようになりました。今回は草丈が比較的短いなと思いつつ草刈機のエンジンをふかし作業を進めました。前回何時草を刈ったのか記憶にありませんが、今日は台風の去った後の吹き返しのような生ぬるい南風の吹く中でいい汗をかきました。

 何年か前双海町の海外派遣研修事業の団長としてオーストラリア・ニュージーランドへ研修生を引率して行きました。ニュージーランドではホームスティをしましたが、何処までも広がる牧草の中にこんもりとした緑の森があって、その中にポツンと一軒まるで絵に書いたような家がありその家に泊めてもらいました。中庭には芝が植えられご主人が芝刈り機で芝を刈るのが日課だと言っていました。わが家もそれを見習って少し裏庭に芝を植えてみましたが、芝どころか芝の中に雑草がはびこって結局は失敗に終わってしまい、芝をはがして今は小砂利を敷き詰めています。理想と現実は違うと実感したものでしたが、ニュージーランドのご主人のようではないにしても、生える草を恨んだり何で私がこの草を刈らなければならないのか腹立たしく思ったりすることなく、草刈りを日課にするような優雅な心を持ちたいものです。

 親父が船を下りた70歳から88歳になる今日まで、家を守る作業の殆どは親父の仕事として位置づけられ、親父も元気の源としてその作業に誇りと生きがいを持ち続けてきました。その親父も「来年はもう」などと弱音を吐くようになり、その作業の量が少しずつ私に移りつつあると実感するようになりました。庭木の剪定も中庭の草引きも大変と思えば大変です。優雅な気持ちでとまではいかなくても思いを持って親父に近づきたいと思っています。

  「草を刈る ただそれだけの 仕事だが 俺もそろそろ 腹を決めねば」

  「田舎ゆえ 空気は美味いし 水だって 自慢の裏に 草刈る義務も」

  「散髪を したよに綺麗 わが屋敷 草刈り後の 美しきかな」

  「年金を 貰える意味は 後がない それに収入 なくなる日々だ」

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shin-1さんの日記

○凄いね1034という数字

 毎日少しづつ積み重ねた数字が1034です。「えっ、何の話」とお思いでしょうが、これは今月に入っての私のブログ「shin-1さんの日記」にアクセスし読まれた方の8月18日現在の人数カウントなのです。それに昨日の55人を加えると1089人、一日平均57人という私にとっては驚異的な数字なのです。先月から私の所属するアメーバーブログのトップページがリニュアールされ、自分のアクセス数が毎日累積されるようになってきました。不思議なもので毎日開けるトップページにはこのカウント数が毎日出るものですから、それまで余り意識しなかったのに最近はこの「読者」たる数字が妙に気になり始めたのです。

 「メールを読みました」とコメント欄やEメールで感想を入れてくれる人は、匿名にせよ氏名公表にせよ相手の顔がおぼろげながら想像できるのですが、毎日、時には80人もの不特定多数の人が私のブログを読んでくれているのです。時々出会う友人から「毎日ブログ楽しく読ませてもらっています」とか、「ブログの写真を見ました。お孫さんも大きくなりましたね」なんて会話を直接話す人もいて、ブログを餌に様々なお喋りが飛び交っています。

 昨日出会った「えひめ地域づくり研究会議」のメンバーからは、私のブログの活字量と一日2本程度の話題量について「凄い」と褒めてくれました。私もブログを書く手前、仲間や友人、知人のブログをよくアクセスして読みます。確かにその方たちは忙しい人なのでしょうから活字量も少なく、話題量も私のように毎日2本程度ではなく、一週間に一本程度の人も案外多いようです。私が多いのか少ないのかは自分でも正直いって分らないのです。昨年の9月に娘婿に勧められてブログを始めた頃は、一日一本でもそれは大変な苦痛でした。どんな話題を書けばいいのかさえも分らず、また書き込んだ文字の変換ミスを直す方法さえ分らず右往左往したことを思うと、文章の出来栄えは別として僅か一年で凄い進化を遂げたことになるのです。

 文章をブログに打ち込みながら思うのは、「文章を考えるのも朝昼晩、飯を食ったりトイレへ行ったり、眠ったりする暮しのリズムのようなもので、リズムに組み込まれると案外何てことはないようになるものなのです。朝起きて一本、夜寝る前に一本、てな具合で書いた結果が今の自分なのです。ですから一週間に一本程度の人から「凄い」と言われても別にどうってことはないのです。

 文章は毎日書く癖をつければ案外早く、組み立て作業が頭の中でできるようになります。最初1時間かかった一本のキジも30分に短縮され、誤字や脱字も少なくなって読みやすくなるようです。小説家は毎日筆まめに書くことを仕事にしているから上手く書けるのだと思うのです。今は文字を忘れてもキーボードを叩けば簡単に幾つもの文字が出てきて、その中から探せばいいのですから辞書を引くこともなく随分楽な作業です。ただ検索能力は発達しますが、人が言うようにペンで直接書く時代から比べると文字を書いて覚えたような記憶力が減退することだけは確かなようです。

 「よくもまああんなに毎日書くことがあるねえ」と感心されることも時々あります。自分でも驚くのですが、パソコンの前に座ってブログのトップページを開けると、書きたいことが浮かぶようになったのですからこれも凄い進歩です。「記事ネタは足元」と思うようになりました。身近な話題は足元にいっぱい転がっていて、案外その話題や文章の方が読んでも楽しいことが分りました。立派な文章を書きたいと肩肘張り過ぎて書くのに苦労した初期の頃は、書くために色々な本を仕入れて、まるでパクリのようなことをしていましたが、今思うと作者が書いた本のようなことを書いても何の面白さもないことが分ってきたのです。

 カウント数は自分のブログの出来栄えとは余り関係はありません。でもカウント数によって目には見えない読者の存在を意識することは一方的といわれるインターネットの世界で、相互交流ができる別な楽しみ方なのです。私はブログとメールで新しい交流の世界を楽しんでいます。

  「ブログ書く これが日課に 加わって 退職したけど 結構楽しく」

  「不味くても 俺のブログを 読む人が こんなにいるの 嬉しくなって」

  「俺のこと 何でこんなに 知ってるの 知ってるはずだ 知らせているから」

  「文章も 新鮮一番 古くなりゃ 不味いはずだよ 食い物同じ」 

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