shin-1さんの日記

○権兵衛が種まきゃ山鳩ほじくる

 今朝早く親父が私の書斎の戸を外から叩きました。普通の日は私が親父の隠居へ様子を見に伺うのですが、今朝は散歩の帰りに立ち寄ったらしく反対です。大きくて広い窓を開けて親父の言い分を聞きました。「明日はまた雨のようなので、ツルありインゲン豆の種をまきたいので手伝ってくれないか」というのです。「今日はそのうち出かける予定なのでこれから種をまこう」と、お互い朝食も食べていないのに準備に取り掛かりました。準備とっても昨日の夕方既に種をまく畝は出来ていて、そこへ種を置いてゆくだけなのです。加齢とともに耳が遠くなり、目も見えにくくなった親父にすれば種を二粒づつ穴に落としてゆく作業は面倒臭いと思ったのでしょう。

 几帳面な親父は例によって糸を引っ張り、真っ直ぐ植えれるよう工夫しているのですが、驚いた事に豆の間隔を測って植える定規まで用意しているのです。早速親父は定規で測りスコップで少し長めの穴を掘って行きます。そこへ私が袋から取り出したインゲンの種を落として行きました。親父は一袋の予定でしたが、せっかくだからと予備に用意していたもう一袋をまく畝を切り、同じような作業をしました。

(種をまき終わった一つ目の畝)
(種と種の間間隔はこうして自分で作った定規できちんと測って種をまくのです)
(もう一袋のた隣にもうひと畝作りました)

 種を落とした穴に土を被せてその作業は僅か30分ほどで終了しましたが、今度はその種を山鳩に食べられないよう網を張らなければなりません。私は所用で出かけなければならないため、私の作業らしい作業はここで中断し菜園から離れましたが、親父は一人で種をまいた畝に網を張っていました。

 この種は蔓があるため竹で豆蔓が登るよう垣を作らなければなりません。まだ当分先のことですが、垣用の竹を妹の嫁いでいる家の竹薮へいずれ切りに行かなければなりません。そんな作業のために田舎のオープンカーを購入しているので、今年は存分にいい竹枝を確保したいものだと思っています。去年使った垣用の竹も親父は大切にしまっていて、そのうち暇を見つけて垣を作ることでしょうが、これまた芸術品思われるような垣を作ります。

 今晩テレビを見ながらその話しを妻にしました。「私は親父が畑仕事をしなくなったら、あんな几帳面な野良仕事はとてもやれない」というと、「大丈夫よ、お父さんだって若い頃畑仕事は大嫌いで、殆どお母さんや私に任せていたもの。あなたなら出来る」と訳の分らぬ太鼓判を押されてしまいました。

 妻の不満は、親父の作業が余りにも几帳面過ぎて、草を生やさないことだけに集中し、作った野菜を大切に食べきることが出来ないようです。例えば大根ですが、何本か残すことができないのです。耕耘機をかけるのに邪魔だとさっさと抜き去ってしまうのです。キャベツも間もなくそういう運命にあるようで、その都度親父と妻の角質が始まるのです。野菜を使って料理する妻の意見など、昔から耳を貸さずわが道を行くタイプですから、いくら言っても言う事を聞くような親父ではありません。

 野菜は安心と安全が第一、そして主婦にとっては家計の足しになる大切な食べ物です。キャベツや大根だけでどれだけ料理のレパートリーが広がることか、そしてリタイアし年金に頼る収入では、野菜は大助かりなのです。加えて健康にいいものですからこれからも沢山作って行きたいものです。当分は妻と親父のせめぎ合いの間に入って右往左往する気の弱い長男なのです。

  「度の過ぎた 几帳面には 参ります インゲン蒔くのに 定規測って」

  「九十の 親父が使う 六十三 いつまで経っても 俺は子どもだ」

  「春が来て 今年も親父 元気です ひょっとしたなら 俺より長生き」

  「豆植える 親父の背中 少しだけ 小さくなったと 瞬間思う」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夕日のまちづくりの経験から

 「若松さん、あなたがこれまで取り組んで来られた夕日のまちづくりの経験を春の学集会で話してくれませんか」と、コープ住まいるの田中社長さんからお話がありました。集まる人は建材屋さんから工務店、設計士、設備会社、住器メーカー、インテリア、電気屋、サッシガラス屋まで、種々雑多な業態なので、まちづくりなど話しても果たしてどうなのだろうと、心に多少不安を抱えながらも会場となる交際ホテルへ出かけて行きました。昨日は車のカーナビ修理のため、車をドック入りさせているので代車での移動です。

 会場にはコープ住まいる協力会のメンバーが70人も集まって会議が行われていました。約20分ロビーで担当の伊藤さんとお茶を飲みながら雑談にふけり、いよいよ出番です。長年の経験とは不思議なもので、紹介されて演壇に立つと、これまでの不安などどこ吹く風、何のレジメの用意もしないのに、まるで早打ち鉄砲のように次々と話が進むのです。会場には司会者の井上さんを含め、生協の松本専務さんなどの顔なじみも顔を見せていました。

 今日の話は「一周遅れのトップランナー」の話と昨日ブログに書いた「365分の1から365分の365=1へ」の話をしました。

 世の中にはいち早く始めた会社もあれば、松山市のようにとてつもなく大きな地方都市もあります。そんな社会の中では自ずから序列のようなものが暗黙の中で決まっていて、最近始めた会社や観光などで売り出そうとする市町村は後発となって中々相手にされないのです。ましてや金のない、そして薄利が社会の常識となってきた現代では、下請け孫請けともなると赤字覚悟で上位のいう事をきかなければはじき出されてしまうのです。でも私の経験からいうとすき間はどこかに必ずあって、やる気になってやれば新しい個体が生まれるのです。私が若い頃「おはなはん」という人気朝ドラがありました。ご存知大洲が舞台です。大洲の人はそれが誇りで何処へ行っても「おあはなはんで有名な大洲から来ました」と自慢していました。その当時は隣の内子などまだ知名度は殆どありませんでした。ですから内子の人は「おはなはんで有名な大洲の隣の内子から来ました」と言っていました。ところが親友岡田さんの働きに負うところ大きい努力によって町並み保存は一躍有名になり、今では大江健三郎さんがノーベル文学賞をいただいた追い風もあり、今では三ツ星級の知名度になりました。今では大洲の人さえ「町並み保存で有名な内子の隣の大洲」と言わしめる逆転現象が起こっているのです。

 今の世の中は初物好きな日本人の心理がそうするのか、何でも早いものを求めたがります。鈍行列車よりは新幹線、新幹線よりは飛行機、普通より早生、早生よりは極早生、アナログよりはデジタル、田舎よりは都会、桜だって遅咲きより早咲きと、まるで遠近や季節を感じさせない時代です。しかしその結果、ニュータウンといわれた地域が高齢化に悩み、都会の人が田舎暮らしに憧れています。

 遅れていたはずの私たちの地域は今、スロ-ライフのトップランナーとなりつつあるのです。一周365日のトラックをみんな一生懸命走っています。人生も時代も永遠に続くのですから先行逃げ切りなんてゴールは何処にもないのです。早く走り始めた人たちはみんなそろそろ疲れ始めています。さあビッグチャンスです。元気を温存してきた私たちの出番です。あせらずいい足取りで抜き去りましょう。そのためには「何のために走るのか」という目的と物語をイメージしながら走ることです。

 私たちには不可能と思えたオバマさえクリントンを抜きされるのですから、コープ住まいるだって可能性は十分あると思うのです。

  「住まいるは スマイル似たり スマイルで 笑顔絶やさず オバマあやかれ」

  「何話す? 出かける度に 問い直す 妻の質問 今日も同じだ」

  「皆同じ 一年三百 六十五 トラック走る 無理せず走る」

  「懇親の 宴席断って 車屋へ カーナビ治る 愛車取り行く」  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○365分の1か365分の365=1か

 私は長い間公私共にまちづくりの仕事に携わってきました。そしてある部分で成功し、ある部分で失敗してはしたたかにさりげなく生き延びてきました。潜在能力を持っていたことによって顕在化した一瞬のひらめきと行動が夕やけプラットホームコンサートという非日常、つまり一年に一回のイベントを生んだのです。その後も数年試行錯誤のイベントとして続けましたが、それは殆ど365分の1のままでした。ところが夕日を何かに出来ないか、特に経済に結びつけるためには物語づくりが必要であると痛感し、365分の2を生み、それが3、4と次第に数を増し、シーサイド公園などは非日常が日常化し365分の365になったのです。

 私たちはまちづくりを最初は一日から始めます。しかしその一日のままで10年続けるとどうなるでしょう。最初の目的は何処かへ忘れてしまって、ゴミと糞小便、それに疲れしか残らないことが多いのです。これをマンネリというのでしょうが、そのマンネリを越えるにはやはりそれ相当の覚悟と努力が必要なことは言うまでもありません。私たちは分母の365日は絶対変わらない不変なものとして受け止めなければなりません。しかし分子は最大365まで引き上げることが可能なのです。=1に限りなく近づければ持続可能なまちづくりとなりますが、中々出来にくいものなのです。

 私個人も365分の365=1を目指して日々精進しています。例えば私のブログです。書き始めてもう2年半になりましたが、最初は重荷になって中々進みませんでしたが、心に強い信念を持って続けるうちに日常化し、今は暮しの一部となって、旅に出て書けない日があると、何かモヤモヤして不完全燃焼に陥るのです。またハガキ一日三枚ももう22年目に入りました。これも日常化しようとした努力の賜物なのです。

 非日常で始めた人間牧場も次第に暮らしの一部になりつつあります。多分これは365分の365=1には絶対ならないと思いますが、それでも農業という手法を通して梅やサツマイモ、野菜などを作って暮らしに関わらせているお陰で随分満足と理解が得られもう少し、もう少しと思い行動すればそれで充分なのです。

 私の使命はまちづくりで洗脳された自分と同じように人々を洗脳させるまではいかなくても、感化させることです。自分の住んでいる町を愛し、住んでいるまちを少しでもいいまちにしたいという心と行動を育てなければならないのです。

 今まで自分のまちは寝たり食べたり、働いたりするだけの存在でしかなかった人たちに、面白さを味あわせて気付かせれば、私にとってもその人にとっても、また周りにとってもいいこと尽くめなのです。私は365分の365を幾つか持っています。それはささやかですが自分の生きがいでもあるのです

 主催者ばかりが難儀をする365分の1のイベントやシンポジウムはもう限界に来ています。時には感動の涙を流せるような共感・共鳴・共有の社会をまちづくりという手法で作って行きたいものです。

  「一年は 三百六十 五日だが 毎日少し するが最上」

  「一年は 分母変わらぬ ものなのに 分子が違う だからそれぞれ」

  「限りなく 一に近づく 努力して 日々の暮しを 楽しいものに」

  「年輪も 一年一つ 刻みゆく わが年齢も 一年一つ」 


 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今年最初の虫刺され

 先週の日曜日、九州でマラソン大会を開催中、何人かのランナーがミツバチに襲われたという記事が新聞に載りました。多分この記事を読んだ人は「大変だったなあ」とか、「お気の毒に」とか、「他岸の火事」くらいにしか思わなかったのではないでしょうか。私もその程度の感じしかありませんでした。新聞ではそこまで言及していませんでしたが、参加者全員に傷害保険をかけて望む大会なら、大会終了後「これは誰の責任か」と責任論が浮上するのは当然の成り行きでしょう。人間に事故を負わせた「蜂」が加害者で、「人間」が被害者というのは誰が考えても当たり前なのですが、じゃあ加害者の「蜂」に賠償責任能力があり、その損害保証を求められるかというと、相手は不特定多数の小動物で、加害動物の特定が出来ず、ましてやその責任能力もないことから、ランナーは「泣きっ面に蜂」なのです。

 しかし冷静に考えれば、色々なことが浮かんできます。まず主催者が設定したコース周辺にはミツバチから蜜を取って生計を立てる養蜂家が沢山いて、巣箱を無数に設置しているという事実です。主催者が事前の下見でこれらを見過ごしていたのは明らかに落ち度です。「てがわない蜂は刺さない」といわれるように、蜂は人間が大勢で巣箱の近くを次々と走るものですから、てっきり攻撃されると勘違いしたに違いありません。一人でなく30数人が被害に遭っているのはその証拠だと思うのです。

 問題は被害が出た後の対応です。何日もかけて準備をしたのでしょうから、被害者が30数人になってもそれ以外の人は刺されていないのですから、大会を続行したくなるのはこれも当然の成り行きです。しかし事は重大です。もし対応が遅れれば刺された人は死ぬかも知れないというこの事実をもっと重く受け止めて、中止すべきという意見も当然なのです。主催者はコースを変えて続行したそうでしが、幸い刺された人は軽症でホッとしていることでしょう。

 もう一つ問題があると思います。私も知りませんでしたが蜂を飼うのには許可が必要なのだそうです。テレビに映っていたあれ程の巣箱を設置して、無許可では済まされません。許可を取っている取ってないと事実が交錯しているようですが、これも責任の取り方としては重要なのです。

 同じ日に私は蜂ではありませんでしたが、人間牧場の草刈り最中、目の横を狙われ刺されてしまいました。男前の顔が台無しで、目尻が大きく腫れ上がりとても人様の前に顔向け出来ないような顔姿になったのです。刺された時、違和感を覚えて直ぐに虫刺されの薬をつけたのですが、これが目に毒とでもいうのでしょうか、目の中に入ってとんでもない激痛に悩まされました。私の場合加害者たる虫が特定できませんでした。多分ブトだと思うのですが、春まだ浅いから夏の虫などと鷹を食っていたのが悪かったのです。後遺症が残るほどの被害でなく、原状回復間近なのでとりあえず一安心です。

 人は誰でも事故や怪我に会うものです。その時の現状判断や対応は、常日頃の心の準備が必要で、これを危機管理能力というのかも知れません。一寸の虫にも五分の魂です、虫にだって生きる権利がることを無視しないよう考えたいものです。

  「アッ痛い 虫に刺されて 薬塗る 今度は薬 目に染み痛い」

  「この時期に? そんな考え 甘かった 地球温暖 虫も早生化」

  「人間の 走る姿を 勘違い 蜂にも生きる 権利があると」

  「人間は 人のことなど 考えず 自分中心 だから危ない」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今日は朝から雨

 天気予報はよく当るもので、昨日はあれ程いい天気で雨の心配など微塵もないと思っていたのに、今日は朝から雨です。少年少女おもしろ教室の打ち合わせが予定されていたので、少し早く雨の中を出かけました。というのも昨日から泊まりに来ている孫朋樹が、昨夕桜を見学に行った帰り、千人塚の池で何組かの家族連れが、鯉やアヒルに餌をやっていたのを目敏く見つけ、昨夜寝る前に「明日は起きたら僕も餌をやりに行く」と約束をさせられていたのです。妻にパンを一斤貰い、それを細かくちぎってナイロン袋に入れて、トラックで出発しました。その頃から雨足が急に強くなって、風を伴いまるで春の嵐のようでした。桜はまだ満開ではないのですが、それでも時折吹くやまぜ風が桜の枝を震わせ、桜の花びらが風に舞っていました。「おじいちゃん綺麗だね」というものの、せっかく咲いた花が散るのは、心が痛むものなのです。

(雨に濡れた満開間近な千人塚池周辺の桜)

 千人塚の池は雨のため人にも車にも会わず、傘を二本用意しましたが、風に吹き飛ばされては大変と、外に出る事を諦め、多少助手席に雨が振り込むものの、柵の近くまで車を寄せて窓ガラスをいっぱい広げて餌を投げる事にしました。最初にやって来たのはアヒルとカモです。似たような鳥ですがアヒルは飛ぶことが出来ずカモは飛べるのです。何年か前まではカモもアヒルも沢山いましたが、今日は雨のためか2匹だけしか姿が見えませんでした。今日は雨のため餌を貰う予定がなかったため、とても嬉しそうに水面に浮いたパンを啄ばんでいました。

(まるで夫婦と思わせる仲の良いアヒルとカモ)

 やがて選手交代です。水中には無数の鯉が集まってきて、餌をねだり始めました。多分パン一斤程度を鳥と魚が分け合って食べるのですから、食べれない魚も沢山いると思われるほど、先を争うように餌を奪い合いました。

今朝は雨水で池の水が濁って、残念ながら鯉の姿を綺麗に捉えることは出来ませんでした。今月末になると周辺の田んぼの田植えの準備が始まるため、池の水は今が満水状態で一番美しいのです。暖かい日には亀が何匹も首を突き出して表インに泳ぐ姿は、これまた子ども達の人気者なのです。動物に触れ合う機会の少なくなったこの頃ですが、田舎にはまだまだ沢山自然と触れ合う場が残っているようです。

(濁った水面近くを群れて泳ぐ鯉たち)

 餌をやるのにかなり雨が車の助手席に入るので、持っていた傘を窓に突き出して差しかけました。これで安心とばかりに孫は頭と顔を思い切り外に出し、餌を投げていました。その瞬間突風にあおられて傘が反対に向き、孫に被らせていた帽子が飛んでしまいました。あっという間の出来事にそれまではしゃいでいた孫の血の気が引いたようでした。多分空中高く飛んでいった帽子は池の中に落ちたのだろうと諦めていました。ところが不思議や不思議天高く舞ったはずの帽子が車の下まで吹き戻されてきたのです。私は孫が指差す帽子を取りに社外へ出ました。そして帽子を拾い急いで車の中へ戻りました。孫も嬉しくて思わず拍手です。一瞬の出来事でしたが、面白い思い出を孫と共有できました。「天に向ってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と常々いっていますが、雨だから体験したハプニングでした。

  「池の上 風に飛ばされ 諦めた 帽子再び 手元に戻り」

  「桜散る 春の嵐を 綺麗だと 孫は褒めるが 私気がかり」

  「降る雨に 体濡らして 餌をやる アヒルとカモも 体濡らして

  「雨ゆえに 人気感じぬ 池の側 桜吹雪が 顔に当りて」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○やっと桜が咲きました

 海沿いの町双海町は海水の温度の影響で霜が殆ど降りず、風は強いものの暖かい地域ですから、桜も早く咲くだろうと思って、桜前線の行方を毎年首を長くして待つのですが、伝え聞く松山地方気象台の桜開花情報より更に4日間ぐらい開花が遅れるようです。詳しいことは分りませんが、推し量るに冬の乾いた季節風が桜の蕾の表皮を硬くさせ、開花を遅めているのではないかと思われるのです。

 昨日の夕方、孫朋樹を単車に乗せて、近くの桜を見学に行きました。夕方五時を回っていたため、カメラアングルとしては光と影の濃淡が強過ぎて今一でしたが、穏やかな春の夕映えに写し出される桜はその色をより引き立たせ、趣のある桜を鑑賞することが出来ました。今朝は夜来の雨と風があって、せっかく満開近くなったのにと、桜の花をいとわなければなりません。それにしても春は一夜の風で桜が散る事を思うと、よくぞ昨日は桜を目とカメラに納めていたと、強運に胸を撫で下ろすのです。

 私たちはまず桜の名所潮風ふれあい公園へ出かけました。もう夕方だというのに弁当を広げて花見の酒盛りをしている知人もいて、輪に入って飲まないか誘われましたが、孫を連れての単車なのでおいとまをして桜を見ながら展望台まで登ってみました。中年の外人さん夫婦が登ってきました。「ハロー」というので、孫はてっきり英語を喋らなければならないと思い、「ABCDEFG・・・・・XYZ」と習いたてのアルファベットの歌を歌いました。すると外人の奥さんは「まあお上手、ベリーワンダフル」と頭を撫でてくれました。思わぬ国際交流です。

 展望台の桜はまだ八分咲きといった所でしたが、メジロが沢山いて桜の花を啄ばんでいました。堀内さんのアトリエあたりの遠景はもう桜の色で鮮やかに染まっていました。

 眼下には宮城道雄の「春の海」を髣髴するような穏やかな伊予灘が開け、沢山の島々が春霞に霞んでまるで一幅の絵を見ているような光景です。展望台からはシーサイド公園が一望できました。

 ふれあいの館の裏側に綺麗な桜が咲いていました。ここらの桜は公園整備の折私が植えた桜なので思い入れも一入です。

 その後とっておきの桜見学ポイントへ向いました。まだここも八分咲きでしたが、千人塚の池に映えてそれは見事な風景でした。私的には好きな場所でここはもう2~3日もするともっともっと美しくなるのです。

 山道を下りお寺の山門に出ました。山門には枝垂桜が咲いていて、吉野桜とはまた違った趣でした。

 県道双海~内子線を走ってみました。この沿線も私が若い頃訳も分らず植えまくって随分叱られた桜ですが、今では随分大きくなって、植えた者が勝ちって感じです。

 帰りに三島神社裏の桜を見ながらカメラに収めました。道後公園や武丈公園など桜の名所もいいですが人が多過ぎて、わたしはどちらかというと、ボンボリもつけずひっそりと人知れず咲き、見る人も殆どない人里離れた桜を鑑賞するのもこれまたおつな物なのです。




 春はあっという間に駆け抜けて行きます。出来ることならこの2~3日カメラを片手に町内の桜を写真に収めたいと思っていますが、日程が詰まっていて無理かも知れません。

  「春愛でる 心のゆとり 今もなく ただ忙しく 通り過ぎ行く」

  「この桜 俺しか愛でる 人もなく ひっそり咲いて ひっそり散るか」

  「うっとりと 眺めていたい 桜花 今が盛りと 言ってるようだ」

  「夕映えの 桜も結構 おつなもの 思わぬ色に 気付き見返える」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○青年リーダー塾二日目

 今朝は予告していた通り、私は妻の作ってくれた握り飯と味噌汁を田舎のオープンカーに積んで、泊り込んでいる二人の青年の待つ人間牧場へ向いました。到着したのが7時40分でした。二人の青年は6時に目が覚めたらしく、身の回りの整理をして待っていてくれました。味噌汁をガスコンロにかけて温め早速朝食です。握り飯は一人4個、計12個を用意してくれましたが、「幾らなんでも朝からそんなに食べれるものか」と妻といい合いをしましたが、どうして若者たちはペロリ平らげ、味噌汁もお代わりしました。


 さて、今日は最後の講義です。「夕日徒然草」を肴にまず私が1時間余り講義し、質問事項を交えながらライブ形式で人生について話し合いました。人生は長いようで短いものであることや、今の前向きな20代の生き方が次の30代に必ず生きてくる事を、私の経験を交えながら話たのです。青年たちが感想で述べたように、今日も8時から12時までの時間があっという間に過ぎ去ってしまいました。私自身も今回のリーダー塾のように、まるでマンツーマンのような極めて少ない人数に、しかも長時間講義をするのは久しぶりなので、多少不安もありましたが、今期愛媛県青年団連合会の会長になる予定の三浦さんと、副会長になる予定の大家さんの二人に対し研修が出来たことはとても嬉しいことです。

 私は二人に今年の数値目標を指示しました。青年団が斜陽化する中での会長、副会長の要職に赴く訳ですから、決意を示せと、私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の記念誌販売を例にとりゲキを飛ばしたのです。青年団員を一人10人勧誘するという話になりました。役員が10人いれば県下に100人の青年団員が誕生するのです。私の経済理念やオンリーワンづくりに質問が集中したこともあって、成り行き上約束をしたようですが、彼ら二人の意思表示が来年の3月にどのような成果となって現れてくるか楽しみです。

 私は今回自分が執筆した3冊の本をテキストとして買ってもらいました。私の講義はノーギャラですから決して高いとは思わないのですが、彼ら二人はどう受け取ったか聞いてはいません。でも彼ら二人は私の指示通り極めて真面目に熟読し、それぞれのテキストから10の質問を用意して望んでくれました。この事前研修だけでもとても貴重な学習になったはずです。

 私は今回の会場となった人間牧場の水平線の家に先日無事松下政経塾を卆塾した兼頭一司さんと、今日12時間の研修を終えた三浦誉さん、大家正裕さん、それに私の話しをこれまで存分に聞いている松本宏さんと馬路村の木下彰二さんの名前をかまぼこ板に書いて塾生として掲げたいと思っています。本人が嫌だといったら別ですが、ここから彼らの人生を応援したいのです。

 かくして二人は掃除をして無事それぞれのふるさとへ帰って行きました。

 昨夜は風呂を沸かし二人にいい湯をプレゼントしてやりました。風呂の電気を消して暗い海や漁港、そして遠く松山道後平野の明かりを見ながら風呂に入り何を感じたことでしょう。昨晩は囲炉裏の蓋を開け、ストーブで種火を起こし囲炉裏に入れ、囲炉裏を囲んで風呂上りのビールを楽しみながら夜なべ談義をしました。私は夜遅く二人を残してわが家へ帰りましたが、二人で色々な事を話したに違いありません。二人とも役所に勤める公務員ですから、限界を感じつつ仕事をすることでしょうが、住民の幸せのために頑張って欲しいものです。


  「ただ二人 相手に合計 10時間 思いの丈を 喋りまくりて」

  「朝飯を ちゃんと用意の 妻がいる ただそれだけが 私の値打ち」

  「テキストに 送った本を 熟読し 付箋付けくる 頼もしきかな」

  「お互いが 真剣勝負の 二日間 小便する暇 惜しんで慌て」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○青年団のリーダー塾

 青年団出身の私としては青年団で様々な事を学び、私の生きる土台となっているだけに、いつか青年団に恩返しがしたいと、いつも思っていました。そのため青年団から声がかかると何を放っておいても真っ先に駆けつけたり、青年の見本になるような生き方を心がけてきました。

 私は青年団で①仲間、②ふるさと、③主張、④感動という四つの道具を手に入れました。今までも今も、そしてこれからもその道具によって生かされ生きてゆくことは間違いのない事実です。しかしこの四つの道具は鎌やマサカリと同じように使わなければ錆びたり切れ味が悪くなったりするのです。絶えず場と機会という砥石によって研ぎ澄ますよう努力しなければ、いざという時何の役にも立たないのです。

 今年の1月、愛媛県青年団連合会の青年研究大会が開催され、記念講演を頼まれました。私たちの時代に千年研究集会といえば年に一度の一大イベントで、松山市民会場の大ホールを満席にするほどの青年が県下各地からバスに乗って集まってきたものです。時の流れとでもいうのでしょうか、県立中央青年の家に集まった青年の数は70名程度で少し寂しく感じたものの、私の話に熱心に聞き入る青年たちに、先輩として様々なメッセージを送ったのです。

 その一つがリーダー研修会でした。心を揺り動かすような研修会に参加しなければ遊び半分でいいリーダーは育たないと活を入れたのです。うれしいものでそれに反応した副会長から、早速新年度早々に人間牧場で一泊二日のリーダー塾をやりたいとメールが届きました。「しめた」と思い、副会長にどんな研修を望むのかプログラムを立案させました。しかし数日後に届いたメールは極平凡なものだったのです。食事の準備、焼肉などお遊び感覚な言葉が並ぶ研修を打ち消すような提案をメールで返信し、これが駄目なら今回はなかった事にしようと思いました。

 やがて届いたメールでは私の提案を受け入れたようでした。新年度早々でリーダーたちの日程調整がつかなかったのか、はたまた私の作ったプログラムが窮屈だったのか知る良しもありませんが、一抜けニ抜けと参加者が減り続け、ついには直前になって二人にまでなりました。普通であれば三人以下の社会教育プログラムは不可能ですが、私はこの二人のために24時間を割くことを決意し、今回のリーダー塾開講の運びとなったのです。

 私の作ったプログラムは、事前2週間前に私の自著本「昇る夕日でまちづくり」「今やれる青春」「夕日徒然草」の3冊を送り、完読し読んだ本の中からそれぞれ10の質問を抽出すること。当日は12時に集合して人間牧場12時30分着、13時から3時間毎に4つのテーマについて話し合うのです。13時から16時まで青年とまちづくり、16時から19時まで青年活動、19時から21時まで夜なべ談義、明くる日朝8時から11時まで青年の生活設計、その後反省評価を12時までして解散というまさにハードスケジュールな時計一回りのリーダー塾なのです。

 昨日は予定通り二人の青年がやって来て、対話ともいえるメニューに果敢に挑戦しました。私にとっても少々きつい日程でしたが、まずは思い通りに第一日目を終えました。一日で9時間の喋りはまさに鉄人級で、今朝から最後のプログラムに挑戦です。宿泊した二人のために妻は今せっせと朝食を作ってくれています。おにぎりと味噌汁の簡単なものですが、もう直ぐ7時になるので、これから再び人間牧場へ出発します。

  「二人だけ 相手に9時間 講義する こちら真剣 相手も真剣」

  「リーダーは 育てるものか 育つもの どちらでもいい 要は育てば」

  「本気から 元気生まれる 青年と がっぷり四つ 組んで議論を」

  「さあ今日も ふんどし締めて かからねば 俺の青春 見せてやらねば」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○写真を送ってください

 「若松さん。恐れ入りますが講演会のチラシやパンフレットに使うのですが、顔写真を送ってくれませんか」と、再三再四頼まれます。その度に「誠に済みませんが、私のホームページの私の写真を使ってください」と返事をしてきたのです。しかしこの写真も残念ながら拡大すると粒子が粗くなってボケてくると、これまた再三再四穂あの写真を送るよう頼まれるのですが、デジカメを使うようになって3年が経って随分写真を撮っているにも関わらず、自分の写真は殆どない事に気付くのです。そういえば写真とはカメラを持っている人間が自分以外の人や風景を撮るもので、自分を撮ることはよほどのことがない限りないのです。それでも「顔写真を探せ」ときつい要望が届きます。最近は講演に行くとその姿を写真に写して送ってくれる人がいて、何枚かは持っていますが、それもスナップ写真であったり、遠くからだったりして余り役に立たないのです。

 先日も金融広報委員会の担当者から5月の講演会のPRに使うからと同様の要請を受けました。とっさに思いついたのは、日本銀行の直ぐ隣なのでえひめ地域政策研究センターにもしや私の顔写真がデーター化されて残っているかも知れないと、手持ちの「舞たうん」という雑誌をめくってみました。残念ながら「shin-1さんのブログ」というタイトルで描いている連載記事も全て似顔絵で、私の顔写真はどこにもないのです。何気なく「舞たうん」をめくっていると清水研究員が編集長だった「地域の自立とは」という特集を見つけました。その中に翠小学校にダブらせて私の顔写真があるのです。この写真は実物よりはるかに男前に撮っていて、「これだ」と直感し直ぐにセンターの清水さんに電話しました。センターは年に4回といいながら「舞たうん」を発行しているし、加えて沢山の講座・講演会、地域の活動支援をやっていて、その都度写真を撮っているため膨大な情報量で、その中から該当の写真を探すことは、かなり大変なようです。でも清水さんは快くその検索を引き受けてくれました。

 金融広報委員会へはその旨連絡して朗報を待ちましたが、早速見つかったと連絡があり、直接届けてもらったようです。

 自分の顔写真など、芸人でもないのですから必要ないと思っていました。ましてはこの顔ですから自分が写真に写ることは極端に避けてきたように思うのです。何年か前伊予市の武智写真館で、証明用の写真を撮ったことがあります。顔馴染みの武智さんは証明用だと断ったのに、まるで正装したような立派な写真を撮って、「若松さんは顔も広いし使うこともあるだろうから」と、プレゼントしてくれたのです。案の定教育長に就任してからにわかに写真が必要になり、武智さんにプレゼントしてもらったよそ行きの顔写真はかなりの頻度で使われ事なきを得たのです。

 人間誰しも若くありたい、美しく見せたと思うのは当然です。しかし加齢著しいこの歳になると4~5年も前の写真は若過ぎて恥かしい気持ちになるのです。ゆえに年に一度くらいは自分のスナップ写真を撮っておこうと思ったりしました。

 最近私の相棒は5歳になる孫朋樹です。二人で色々な事をしながら、孫の姿をカメラで追うのですが、孫は反対に私の写真を撮る事を希望します。残念ながら逆光であったり、顔が半分しか写っていないことが多いのですが、それでも孫が撮ってくれた私の写真が手元に残るようになったし、近頃は自分が自分の写真を撮ることさえ孫に教えられて撮るようになりました。

 思わぬ写真ウォンテットとなりましたが、はてさてわたしの写真を見た人はどう思うことでしょう。「まあ醜いアヒルのおじさんね?」なんて悪口、陰口のいいネタになることでしょう。

  「お写真を 送ってくれと 依頼され 探してみたが ないこと気付く」

  「ウフフのフ 私の写真 見た人は 悪口いいつつ 陰口しきり」

  「あっそうだ 雑誌めくりて 自画像を 探すもただの 一枚だけしか」

  「死んだなら どの顔写真 使おうか 葬式用に 今から準備」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○節句

 こちらの地方では4月4日のことを「節句」といって、この日は仕事を休み自宅で作った弁当を持って野山にくり出して花見をする風習があります。随分廃れてきましたけど、それでもこれらの伝統行事を重んじる人は仕事を休むのです。昨日は好天気で海も凪いでいましたが、漁をする漁船は全てお休みで、あちらこちらで小さな輪が出来て花見を楽しんでいました。昔から「野良の節句働き」という言葉があるように、勤勉な人は節句に休むけれど、野良(余り仕事をしない人)に限って、人ガスごとを休む時さも忙しそうに働くのです。その点私も野良かも知れないと一人苦笑しながら、人間牧場の倉庫の掃除を少々疲れるほどしました。

 一昨日の夜仕事から帰った妻は台所で何やら料理をし始めました。かまぼこ、竹輪、ニンジン、ゴボウ、かんぴょうなどの具材を切り分けて煮炊きし、もち米の入ったご飯を作った合わせ酢であわせ、どうやら巻き寿司を巻く算段のようです。「お父さん、ご飯も冷めたのでちょっと手伝ってくれない」というので、シブシブ台所へ行って、妻の指示するまま、いわれるまま茶碗にご飯をよそうのです。妻は巻き寿司用のスノコに黒海苔を敷いて私のよそった酢飯を伸ばし、そこへ具材を入れて手際よく巻いてゆきます。20本は巻いたでしょうか、「そんなに作って誰が食べるの、残り物を食べさせられるのは沢山」といいつつ、結局最後まで手伝いました。妻はその巻き寿司をを白い半紙で丁寧に包み、もろぶたという木箱に入れて一晩寝かせたのです。

 朝6時、妻は台所に立って弁当のおかずを品揃えして重箱に盛っていました。見覚えのある重箱には巻き寿司とおかずが、まるでおせち料理のように盛られ、中々綺麗です。「さあ出来た、お父さん私は仕事なので娘と息子、それにおじいちゃんに届けといてね」と、これまた唐突な指示です。私は人間牧場の作業があると思いつつ、リタイアの悲哀と受け止め、言われるがままに車を走らせました。

 親父の所は弁当を運びましたが、親父はあいにく7キロ先の下灘診療所まで自転車で通院とかであいにく不在でした。居間のテーブルに弁当を置いて出かけました。

 道沿いの桜はもう八分咲きでしょうか、濃いピンクから淡いピンクへ、これを桜色というのでしょうか次第に衣を替えているようです。海岸線の桜は殆どソメイヨシノですが、中には大島桜もあって中々見事の咲き栄えで、間もなく海岸国道378号線沿いは桜の花のベルトが見れるのです。

 まず長男息子の家へ立ち寄りました。息子は平日なので仕事、しかも今日は金曜日なので道後公園で職場の花見というのです。息子嫁と孫希心が在宅でした。ここで証拠写真を撮りました。恥かしいので間違っても写真には撮らないでね」と、妻からきつくいわれていましたが、私はアマノジャクなのです。

(孫希心君と弁当)

 続いて道後に住む娘家族の家を訪ねました。春休みなのですが孫朋樹は居残り保育のため、既に幼稚園に出かけて留守でした。孫尚樹はハイハイでそこらじゅうを這い回って元気に遊んでいました。朋樹の発見だと「直樹君が一人で座っていた」そうです。一人で座る仕草をするのですが、母親はその確認をしていないそうです。最近は物を持って立とうとする仕草を盛んにするそうで、もう直ぐ「這えば立て」のようです。

 ここでも弁当の写真を撮らせてもらいました。ここは家族が多いので、少し大きめの重箱が用意されていたようです。

(娘の所へ届けた弁当)

 さて、やっと弁当の配達が終わったので、児童相談所へ仲間の大野さんを訪ねました。残念ながらアポも取らずに立ち寄ったので彼はあいにく留守で、手持ち無沙汰なので、久しぶりに私は松前町の元気人村へ立ち寄り風呂を楽しみました。今日は花見の日和だからでしょうか、温泉は散閑としていました。馴染みの人と雑談にふけりながらしばしの休息をしました。

  「弁当を 三つも作る 忙しさ 妻に頼まれ それらを配る」

  「肝心の 私の弁当 見当たらず 二人仲良く 残り物です」

  「巻き寿司に 何か忘れた かんぴょうを 妻も痴呆か 忘れるなんて」

  「今頃は 弁当広げ 食べている 多分文句の 一つもいいつつ」

[ この記事をシェアする ]