shin-1さんの日記

○熊野古道を歩く②

 熊野古道が世界遺産になったこと以外何も知らない人間ばかりが、熊野古道を歩こうとすること自体おかしな話です。それは私自身四国八十八ヵ所の聖地に住みながら、全てのお寺を巡る1400キロの道を歩き遍路していないことが物語っているのです。でもそんな神仏を冒涜するような無神経な私が憧れるほど熊野古道に魅力を感じ、一度は歩いてみたいと思うのは世界遺産という看板かも知れないのです。

 平安時代から鎌倉時代にかけ、上皇・法皇たちは浄土の地である熊野を詣でました。この熊野御幸により聖地熊野は日本中の人々に知られ、上下貴賎男女を問わず大勢が列をなして熊野本宮大社、熊野那智大社を目指したのです。熊野詣でには幾つかのルートがあって、大阪と熊野を結ぶ紀伊路、異説熊野を結ぶ伊勢路、高野山から南下して伯母子岳や果無山脈を越える小経路、吉野から大峰山脈を縦走する行者道の大峰奥駈道などがありますが、中でも現在中辺路と呼ばれる紀伊路は上皇・法皇たちが歩いた唯一の道として知られています。私たちはその中辺路辺りをほんのお触り程度歩くだけなのです。

(バス停口の熊野古道入口)

 和歌山県庁前でナビゲーターを依頼した顔馴染みの森さんを乗せ、和歌山ICから高速道路を走って南紀田辺に着きました。その後川に沿って山道を縫うように走り、大坂本王子~近露王子間にある、道の駅熊野古道中辺路にバスを止め歩き始めました。牛馬童子口バス停からの古道はかなり整備されていて道幅も広く、杉木立の中は春の木漏れ陽がさわやかで、僅か1キロ弱で最初の目的地牛馬童子像に到着です。

(一町毎に建っている一里塚)
(古道をゆっくり歩くメンバー)
(供養塔と牛馬童子石仏の位置を示す看板)
(牛と馬の上に童子が乗った姿の珍しい石仏)
(牛馬童子の説明版板)
(宝経院塔)
(メンバーの記念写真)

 普通であればここから先を目指して歩くのですが、観光バスでないため再び同じ道を歩いてバスを駐車させている元の場所まで引き返しました。道の駅には沢山の観光バスが駐車して、トイレは列が出来るほどの大賑わいでした。

 近露王子・比曽原王子・継桜王子・中川王子・小広王子・熊瀬川王子・岩神王子・湯川王子・発心門王子・猪鼻王子・水呑王子・伏拝王子・祓所王子など、幾つもの関門の看板を横目で見ながら次の目的地である熊野本宮大社に着きました。

(熊野本宮大社の大鳥居)
(熊野本宮大社の参道)
(熊野本宮大社の山門)
(熊野本宮大社の境内)


 この熊野本宮大社は元々大鳥居だけが今も残る別の場所にあったようですが、度重なる水害に見舞われ今の場所に遷宮されたらしく、杉木立も神社もどこか初々しい感じがしました。

 私たち一行はその日の古道めぐりをここで打ち切り、宿泊先である紀伊勝浦まで走りました。新宮からは高規格道路も出来ていて午後6時に勝浦のホテルシャルモントに入りました。

 「勝浦のホテルに泊まる」とだけしか伝えていなかった弟忠行夫婦が既に訪ねてきていて、嬉しい再会でした。弟は既に昨秋定年退職し温暖な串本古座の地を永住の地と定めて、好きな釣り三昧な暮らしをしているようです。

  「長年の 願望だった 熊野路を ほんの少しだけ この足歩く」

  「道すがら 王子王子と 古道古道 こんがらがって どこを走るか」

  「どことなく 南予に似たり 海岸線 風の匂いに ふるさと思う」

  「それぞれに 生き場所求め たどり着く 紀州路遥か 弟暮す」 

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shin-1さんの日記

○熊野古道の旅①

 昭和55年に有志数人とセスナ機をチャーターして「ふるさとを空から見る運動」を実施した明くる56年に12名の若者でグループを結成して以来、様々な活動を企画実施してきたわが「21世紀えひめニューフロンティアグループ」ですが、結成してから28年も経つと会員はみんな等しく28歳も加齢し、活動の内容も随分様変わりをしてきました。28年間の中で教育長に就任していた頃を挟んで3年間、嫌がる大野さんに代表の仕事をなすりつけていましたが、私がリタイアしてある程度自由な時間が持てるようになって、再び代表の座に復帰して3年目となりました。その間韓国旅行をやったり、人間牧場にツリーハウスを造ったりと相変わらず元気な活動をしているようには見えても士気の衰えは否めず、むしろ軸足を自分たちの楽しみに移し始めています。もちろんそれで満足しているわけではないので、代表たる私の仕事は仲間のグレードをアップし、グループ結成の時に約束した「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」の三つのテーマに基づき、人間牧場を中心に塾をやったりしながらフロンティア精神を呼び起こそうとしています。

 今年春の総会で「世界遺産に学ぶ」という大きなテーマを掲げました。何のことはありません。「世界遺産を旅したい」という単なる旅行気分なのです。でもせっかく行くのだからせめて日本の身近な世界遺産から何かを学び取ろうと、第一回目を「世界遺産・熊野古道を歩く」から始めたのです。

 4月12日土曜日朝6時30分、松山市駅前を出発ですから、愛南町の北原さんなどは前の日から東温高校に通う息子さんの下宿に前泊し、私も朝5時30分につまの運転する車で自宅を出て、伊予鉄郡中港駅5時59分発の伊予鉄始発電車に乗り込みました。最近は夜明けも随分早くなって、新川辺りでは既に朝日が昇り、幸先良いスタートです。電車の中には私たちと同じような旅をするであろう出で立ちの人が沢山乗って始発とは思えない賑やかさです。電車は予定通り使役に到着、高島屋の前では田宮さんとともに今回のプログラム担当である佐賀山さんが出迎えてくれました。市駅前で日豚殿人を乗せ、久米窪田で豊田さん、東温で北原さん、高速サービスエリア石鎚で河上、日浅さんをそれぞれ乗せ、直前になって尿管結石で行けなくなった大野さんを除いて13人が勢揃いました。河野さんの肝いりで借りたマイクロレンターカーを河野さんが運転して、松山~徳島~和歌山コースを走りました。

 徳島までは意外とスムースに走れたため約1時間も早くフェリー乗り場に着きました。朝が早かったため朝食を食べていない人もいて、それぞれ思い思いの食べ物を注文して時を過ごしました。やがて和歌山からのフェリーが到着し、私たちとまるで反対に四国路を走るであろう和歌山ナンバーの車をまるで口から吐き出すように降ろし、いよいよ乗船です。船の中は意外と込み合っていました。外目にはどんな団体か分らぬ、田舎のおっちゃん、おばちゃんのようなグループです。
(藤本さんと河野さんの奥さん)
(田宮、河上、北原、日浅、児島さん)
(豊田、佐々木さん)
(私、あれっ佐賀山さんと末光さんはどこへ隠れたのでしょう)


 僅か2時間の船旅ですが、船内は久しぶりの出会いに話も弾み、早い人はアルコールを入れて上機嫌です。甲板に上がってみました。4月中旬ですが外の風はまだ冷たく徳島港が段々遠くなって行きます。左手には鳴門と淡路島に架かった大鳴門橋が見えました。

(航跡の向こうに遠くなる徳島港)

(遥か遠くの水線上に大鳴門橋が見えました)
(和歌山港に架かった真赤な橋)

 やがて場内アナウンスが和歌山港に入港する旨を伝え、バスに乗って和歌山の地に第一歩を記しました。さあいよいよ熊野古道の旅が始まります。私たちの車は携帯電話で連絡を取り合って和歌山県庁前へ着きました。ここで今回のナビゲーターである森さんを乗せました。

(威風堂々の和歌山県庁)

(一泊二日熊野古道の旅をナビしてくれた森駿さん)

 森さんは、和歌山県庁に勤めている人です。縁あって無人島キャンプにも何度も訪れ、県外組のフロンティアグループメンバーなのです。森さんの娘さんは二人も愛媛県に住んで働いています。今回の熊野古道の旅には嬉しいことに3名のツアーコンダクターが名乗りを上げてくれました。一人は2月7日に和歌山県庁職員を対象にしたライフプランセミナーの講師として来県した際お世話になった橋口さんです。かゆい所まで手の届く気配りの人なので私のブログで熊野古道を歩く旅の話題を目敏く見つけて「是非ご案内を」と申し出がありました。もう一人は私の弟です。昨秋に定年退職し今は妻に実家がある和歌山古座に住んでいますが、兄貴が来るのなら是非ともと言われました。どちらも余り内容も言わず大変失礼したのですが、事務局の配慮に甘んじて森さんにお願いする事にしたのです。

  「それぞれの 早立ち旅の 支度にて 懐かし顔々 バスに乗り込む」

  「近況を 笑顔で話す 自由人 ちょっと緊張 現役面々」

  「昔だけ 話していては つまらない 明日を語れば 年金加齢か?」

  「うち揃い 熊野古道の 旅に出る 世界遺産の 名前つられて」 




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○いよ食談会での卓話

「お父さん、新聞に出てるよ」、数日前愛媛新聞の広告欄に出ていた愛媛新聞カルチャースクール特別講座「いよ食談会」の記事を目敏く見つけた娘が、わが家へ電話をかけてきました。新聞を見ると2008年前期(4月~8月)の参加者を募集しているのです。「県内有数の名店で、さまざまな分野からお招きするゲストの卓話と、特別料理をお楽しみいただきます」「今年も『地産池消』をテーマに、愛媛の新鮮食材を盛り込んだ駿の料理をぜひご堪能下さい」という見出し記事が並んで、受講料は税込み22,000円、定員35名、時間は11:30~13:30となっていました。そして月一水曜日のそれぞれのお店では腕自慢の料理長さんの顔写真とともに、献立のテーマとゲストの名前が書かれています。

 そのBコース第一回目が昨日でした。会場は松山ワシントンホテルプラザ・チャイナテーブルで料理人はチャイナテーブル料理長村山正光さん、献立テーマは「美食楽膳」、そしてゲストスピーカーは何と私なのでした。ワシントンホテルは娘の結婚披露宴、諸会議や講演会に招かれ度々利用している会場だし、愛媛新聞も気心の知れた会社なので、今回の申し出を断る理由もなく快く引き受けました。

(メインテーブルを囲んだ楽しい食談)
(私のご指名座席)

 会場には5つのテーブルが並べられ定員満席だそうで、素敵な雰囲気のお客様が居並んで座っていました。やがて愛媛新聞社事業局三瀬さんの開会あいさつに続いて私の卓話です。与えられた時間は12時までの僅か30分です。それを過ぎると「料理を出すタイミングが狂うのでくれぐれも時間厳守」でと釘を刺されての登場です。私のテーマは「新しい発想で生きる」でしたが、何を話しても良いからとにかく楽しく話して欲しいというのが主催者からの注文です。突き詰めれば間を持たせるつなぎと料理を引き立たせる「つまもの役」なのです。そういいつつも食談の話題提供ですから変な話もできませんし、適当な話でお茶を濁しました。

 やがて料理長の「今日の献立」が紹介され、いよいよ昼食開始です。この日は中華料理でしたが、そのお味は抜群で、さすが名店と呼ぶに相応しい味でした。その幾つかを食べながら担当者の了解を得てデジカメで盗み撮りしましたので紹介します。

(鯛の中華サラダ杖の淵の」ていれぎとともに)
(四万十のあおさとフカヒレのスープロワイヤル)
(奥伊予地鶏の唐揚げ油淋ソース)
(海老のチリソース煮空豆のさや蒸し焼き添え)
(牛肉のロースト豆鼓ソース愛媛の春野菜添え)
(宇和町のあまおとめと中華デザート)

 残念ながら(南予のはるかと文旦のジュレ)と(蓮の葉包み蒸しおこわ)は箸が進み過ぎて食べて後で気付き写真を撮るのを忘れてしまいました。

 それにしても美味しいの一言では片付けられないほどの美食でした。写真を見ながらこれが全て私の胃袋に収まったのかと思うほど絵になる料理の数々でした。

 会場のあちこちでは私の話が食事の友となり嬉しい意反応が幾つもありました。また竹で作った赤トンボを2匹紹介しましたが、一応に驚き話題をさらい効果抜群でした。

(思わず話が弾みました)
(三瀬さんも酒も飲まないのに熱弁です)

 「食事を楽しみながら会話する」、この何でもないことがテーマになるほど私たちの日々の暮らしはあくせくしています。せめて月に一度くらいはこんな贅沢なひと時を過ごしてみたいものです。愛媛新聞の瀧宮さん、そして久しぶりにお会いした三瀬さん有難うございました。

  「短めの 卓話を終えて さあ食事 次から次へ まるで竜宮」

  「あらためて これが胃袋 入ったとは 腹をさすりて 愛しい気分」

  「料理人 偉いもんだね しみじみと その見事さは まるで芸術」

  「美しき 女性居並ぶ 食談会 スープもおちょぼ 口してすすり」  


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○教えられたこと「掃除とお化粧」

 今朝早く、宇和島の友人藤田さんがわが家に見えられました。国の重要歴史的景観に剪定された遊子水荷浦の段々畑で栽培収穫された早堀りジャガイモを毎年届けてくれるのです。彼と知り合ったのはもう20年以上も前のことです。当時彼は遊子で漁業を営み、愛媛県の漁業後継者協議会の会長をしていて、その研修会に招かれて講演したのが出会いの始まりでした。その後彼の暮しは漁業の低迷によって大きく変化をしたのです。それでも彼はふるさと宇和島をこよなく愛しふるさとを離れようとしないところに彼の魅力があるのです。彼は勉強熱心で知識が豊富です。また娘さんが東京の大学に進学する時も、卒業して地元の新聞記者になる時も何かと相談にきて律儀な姿は今も昔のままなのです。その彼も私と同じように年齢を加え、50前後となって将来の事を考えてのことでしょうが、転職をしたようです。先日娘さんに出会って話を聞き薄々は感じていたのですが、どうも清掃の仕事を起すようなのです。既にその研修を都会に出て終えたようで、決断した将来が上手く行くように祈っています。

 「まあお茶でも」と玄関に座り、束の間の話しをしました。どの世界でも生きて行くための仕事はきついようで、第一次産業が厳しいというが都会の雑踏で生きてる人の殆どはもっと厳しいと、肌で触れた研修期間の事を話してくれました。その話の中で特に印象に残ったのは、掃除とお化粧の話です。

 掃除・炊事・洗濯・裁縫・子育ては昔から女性の仕事と位置づけられてきました。結婚が決まると母親は嫁ぐ娘に花嫁修行としてそれらを教え、時には花嫁学校に通わせてそれなりの娘にして嫁がせたものです。ところが最近はそんな修行をさせたくても、親が全ての修行が出来ていないものですから、結局は何の修行も出来ぬまま出来ちゃった結婚で嫁いでしまうのです。

 それでも女性の「美しくありたいという」願望だけは独り歩きして、お化粧だけはし過ぎるほどにするのです。しかし自分のお化粧はするが暮しの中心である自分の家の掃除は殆どせず、ベットになったこともあって万年床で、毎日の掃除さえもままならず、埃の中で暮らしているようなものなのです。掃除の仕方も昔のように新聞紙を濡らしてちぎり、ばら撒くようなことは殆どなくなりましたが、都会では掃除やさんなる仕事がお目見えして、家庭の掃除すら害虫に出す家が多くなったというのです。私たちのような田舎に住んでいる人間には考えられないようなことですが、都会ではもうそれが常識になっているようです。でも私が古い人間なのかも知れませんが、お顔のお化粧も大事かもしれませんが、家の掃除くらいはできる女性を、子どもの嫁には迎えたいと思うのです。

 母から子へ、子から孫へ家庭は女性の力によって伝承されて行くことが殆どですが、そういえば掃除の仕方など妻が娘に教えたかどうか気がかりになりました。妻にその事を聞けば、「娘には教えるというよりは、している姿を見せる教育」とズバリ言われました。その通りだと思います。掃除も、炊事も、洗濯も、裁縫も、子育ても出来ぬ母親からは出来る子どもは育たないのだとしみじみです。

 藤田さんの話しによると、掃除を通して家庭が見えてくるそうです。人の家の事を言える柄ではありませんが、やはりもう一度「家とは何か」、「掃除とは何か」、単純そうで難しいことを考え直してみたいと思いました。

 今晩は藤田さんからいただいた早堀りのジャガイモを食べたいと、頭にジャガイモ料理をイメージしながら、松山へ出かけます。今晩は夕食が楽しみです。

  「掃除さえ できぬ娘が 化粧する 教えるはずの 母さえできぬ」

  「教育は やっているとこ 見せるだけ ただそれだけで 充分ですよ」

  「早掘りの ジャガイモ届き 夕食が 楽しみですね 早く帰ろう」

  「何気ない 会話の中で 考える 今の日本は これで良いのか」

 

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shin-1さんの日記

○知名度アップ

 田舎の町の元役場職員なんて日本全国どこにでもありふれた人間なのでしょうが、私はどういう訳か役場を辞めてから以前にも増して忙しくなったようだと妻がいいます。当の本人はそんなに感じないものの、商工会から毎年いただいて使っているWritingCalendarをめくると、予定がかなり込んで書かれていて、昨日などは午前・午後・夜と予定があって一枡で書けないため、矢印で別欄に書き加えれれているのです。「お父さん、若くはないのだから余り無理をせず程ほどに」と唯一気遣ってくれる妻の言葉を聞きながら、私のカレンダーは埋まって行くのです。

 最近様々なイベントや会合の実行委員会のメンバーになることが多く、旧友や世話になっている人から頼まれると嫌ともいえず、ついついメンバーの末席に名を連ねてしまうのです。そして運がいいのか悪いのか、それらの会議に出れば実行委員長などという思い責任の荷物を、有無を言わさず背中に背負わされ難儀をするのです。

 私はリタイアして4年目を迎えています。年金暮らしも板について、「暇」あり「金」ありと周りから見れば思われるのでしょうが、残念な事に「暇」も「金」も「最後の「知恵」もなく、「気力」「体力」くらいしか役に立てないのです。



 数日前、愛媛大学を体感して放送大学の仕事をしている讃岐先生から電話が入り、今年の秋に「地域教育実践交流集会」をやるので、その世話人になってくれないかと依頼がありました。先生には随分昔から社会教育、とりわけ公民館活動でお世話になっているので、電話一本で中身も分らぬまま引き受けてしまいました。やがて発起人会をするからと言われるその日は私の予定が入っていて欠席すると言ったのですが、恐縮ながら予定が変更されて出席の運びとなりました。

 第一回の発起人会は松山市内の飲み屋さんで夕方6時半から手弁当の会らしく会費制です。行って驚いたのですが、数多くの著名人がいるのにいつの間にか私は5人の世話人の一人に名前が載って、その席に座らされてしまいました。ここで文句を言うと混乱するので飲み込みましたが、一事が万事こんなかかわりが多くなってきました。どこかで身を引かねばと三年前に殆どの公職から身を引いていたのに、いつの間にか十二単の衣を纏ったような心境なのです。

 この歳になると知名度など何の役にもたたず、むしろ煩わしいだけなのですが、私の知名度は勝手に乱高下しながらもまるで株価や為替相場のように確実にアップしているようです。

 マスコミに登場することももう無いだろうと思っていたのに、人間牧場というネーミングが良かったのか悪かったのか、再び地獄の底から這い上がって新聞や雑誌、テレビやラジオに度々登場するようになりました。一日三枚のハガキと年間7200枚の名刺以外情報発信の道具を持たなかった私にインターネットという強い武器が与えられ、俄然情報発信をし始めたのも一因かも知れないと、とりあえず始めたブログの在り方を思案している所です。知名度アップはとんでもない方向に向い、講演依頼も全国に及んでいます。「そろそろ年具の納め時」だとおもうのですが、さてさて何か悪いことでもしない限り、私の円高傾向はもうしばらく続きそうな雲行きです。

  「この顔で? 鏡に映る 顔を見て 知名度アップ 世の中分らん」

  「辞めてから 本領発揮 君らしい 褒められ山椒 木にも登りて」

  「また受けた 妻の皮肉が 聞こえそう 仕方がないと 言い訳探す」

  「知名度は 人が勝手に 決めるもの アップアップの 人生楽し」

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○桜の花の散り染めし道

 人間の目線は水平線より上を見る習性があるようで、特に桜などは昨日まで枯れ木だったような木々に花をつけるものですから、ついつい花に目を奪われるのは当然かも知れません。しかし特に桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちる様はとても風流で大好きなのですが、残念ながらそれをカメラに収めることはなかなか出来ないものです。しかし昨日名残の桜に見とれていると、偶然にも桜の木の足元に綺麗な花びらがそれは見事に歩道一面降り積もっていて、散っている姿ではないにしても思わず写真に収めることが出来たのです。まるでピンクの花のじゅうたんのようでそれは見事でした。歩く人も自転車で通り過ぎる人もそんな花などお構いなしに踏み潰していましたが、私が写真を撮っていると、不思議そうに横目で見やりながら、バツが悪そうに隅の方を通っていました。

 私は少し目線が他の人と変わっているのでしょうか。上の花も綺麗なのですが、無造作に自然が作った造形の美にどことなく惹かれるのです。もしこれを人間が人為的に造るとなると大変な労作です。多分明日にでも雨が降ると流れ、風が吹くと飛ばされ、人に踏まれて消えて行くであろう花びらの道を、一人束の間楽しみました。今年の冬は寒かったせいでしょうか、あるいは花の咲く季節に南風や雨の日が少なかったからでしょうか、例年になく桜の花の寿命が長く、早4月も半ばだというのに桜はまだ充分楽しめるのです。

 桜の花の写真を撮った後、やがて人間牧場へ通じる山道の差し掛かりましたが、ここでも綺麗な椿の散り染めし道を見つけました。桜と同じように今年の椿も例年になく開花が遅れ、今頃になって散り始めています。椿は花が首ごとポロリと落ちるので、縁起が悪いと忌み嫌いますが、それは無粋な言い方で、散り方の潔さや落ちた姿はとても綺麗です。ここでも農作業のために先を急ぐ軽四トラックが無造作に踏み潰して通り去って行きました。

 木漏れ陽が椿の花びらについた朝露をそっと照らすのもまた趣です。「ああーいとおしい」と思わず思いました。

 田舎に暮らしていると、のんびり時が流れ、のんびりとした人にであうものですから、日頃は余り気付きませんが、時々ハッとすることがあります。それは長旅や都会へ行って帰った折に顕著です。空気水がとてつもなく美味いと思ったりするのです。しsて「俺は生きてる」と実感するのです。

 昨日大洲市田処の亀本さんに人間牧場で会いました。彼らに会っていると私の体内時計の狂いを直してくれるような感じがするのです。

 彼と別れ自宅へ帰って、昼食に帰る妻を外で待っていました。ふと見上げた本尊山の萌えるような姿に思わずハッとしました。昨日と変わらない、そしていつもと変わらない風景なのに、どこか違うのです。「お父さん、何見てるの」と妻に声を掛けられハッと我に帰りました。私「山を見よる」、妻「何を見よるの」、私「綺麗じゃろうが」、妻「そういえば綺麗じゃねえ」、二人「・・・・・・・・・・・」

 ああ、いとおしいふるさとです。

  「落ちた花 見ても綺麗と わが心 加齢のせいか 少し感傷」

  「山の色 にわかに春の 衣変え 空の青さに 一際映える」

  「ふと我に 帰りて田舎 住む意味を しみじみ思う これが幸せ」

  「ホーホケキョ 遠く近くで ウグイスが 私も真似て 口笛応う」 


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○亀本さんからいただいた豆腐が美味い

 「お父さん、最近家で夕食を食べてないね」と、妻が唐突にいいました。木になるカバンの中に入れている予定表を見ると確かにこの一週間余り、夕食からみの会議がやたらと続き、外食に依存しているのです。わが家では最近友人や近所の知人から山菜が届き、楽しみにしているのに何故かそれさえも食べられず、残念至極なのです。外食は確かに美味しいのですが、やはり高カロリーなものが多く、私のような痩せ型タイプにはどこか腹が張ったり、少し味が濃いのか喉が渇くのも大きな特徴といえましょう。そして今晩から今週は日曜日までずっと会議からみの夕食が続くようで、妻は私の体調を壊さないように心配してくれているようです。

 今日は午前中大洲市柳沢田処の亀本耕三さんが他の4人とともに人間牧場へやって来ました。朝方まで残っていた雨も上がり、春霞に煙っていたものの、近くの視界は良好で、名残の桜が沢山咲き、遠望できる山々は燃えるような芽吹きの色で眩しいくらいに見えました。

 亀本さんは10年間で40回を目指し実行したフロンティア塾の強力なメンバーでした。それ以来私的な親交を深めていて、今では人間牧場の運営にはなくてはならない人なのです。人間牧場の農場を耕す耕運機も彼に無償で貰ったものだし、「命のリレー」プロジェクト事業でも、落ち葉を発酵させるために豚ぷんや牛糞をわざわざ持参してくれたのです。お陰で今日の段階で種芋は殆どが芽を出し始めていて、何とか来月の作付けに間に合いそうな雲行きのようです。亀本さんは他の4人が人間牧場の視察研修をしている間、耕運機を引っ張り出して、せっせとオイル交換をしてくれました。これで雨にさえ合わさなければ、一年間は大丈夫のようです。

 亀本さんを含めて5人の方に私の話が聞きたいというので少しお話をしました。人間牧場の理念や建設計画と運営のこと、公民館とまちづくりのこと、最近の社会情勢のこと、人生とは何かなどなど、魚梁瀬杉の高座を囲んでお話しました。亀本さんは若い頃からもう何回となく私の話を聞いているので先日提案した人間牧場の塾生名札に本人がそれを望むのであれば加えたいと思っています。

 今日は亀本さんが美味しそうな湯がいたワラビと硬い木綿豆腐を持って来てくれました。彼は私が豆腐を大好物であることをちゃんと知っているし、その上草の上でも滑らない地下足袋までプレゼントしてくれたのです。彼には以前に白い長靴をプレゼントしてもらい、12年間もの長い間シーサイド公園の掃除用に使わせてもらいました。昼には早速この豆腐を妻に切ってもらい、冷奴にして妻と二人で美味しくいただきました。私はこの頃豆腐に醤油や薬味を加えずに食べる癖が出来てきました。塩分を取り過ぎないようにしようと決めての行動ですが、お陰様で豆腐本来の味が随分分るようになってきました。

 今日は午後大学で今年の授業打ち合わせ会があり、夜は生協の人事委員会とダブルならぬトリプルで忙しい一日でした。昨日まで二日間熊野古道へ出かけていたため、少々お疲れモードですが、それでも久しぶりに充実した一日となったようです。

  「トリプルの 会議をこなし 夜遅く わが家へ帰り 『お帰り』嬉し」

  「好みまで 覚えて豆腐 手土産に 牧場訪ねし 友よありがとう」

  「一丁の 豆腐切り分け 殆どを 食べる姿に 妻呆れ顔」

  「ちょっとした 合間を縫って 手入れする 彼こそ百姓 百をこなせる」

 


  

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shin-1さんの日記

○携帯電話の新しい活用

 私にとって携帯電話は、今や無くてはならない必需品となっていますが、その活用については「電話をかける」「電話がかかる」「電話番号簿の役割」「万歩計」くらいしか使っていませんでした。若い人たちが携帯電話でメールをしながら歩いたりする姿を見ると「格好いいなあ」と思いつつ、逆に「もっとすることがあるだろうに」と相反する考えが過ぎったりしたものでした。

 ところが2~3日前、えひめ地域づくり研究センターの清水研究員さんと出合った折、「若松さん連絡するのに形態の留守が多いので携帯にメールを入れたいので」と提案がありました。「そんな面倒臭いことは嫌」と突っぱねましたが、有無を言わさず谷本研究員さんが私の携帯にメールアドレスを「人間牧場・・・・・」と入力し、早速清水研究員さんが試してくれました。その間私はあっけに取られてただ見ているだけでどうすることも出来ませんでした。センターを出てからもそのことが気になっていたものの、「多分俺にはそんな面倒な事をする暇はない」と鷹を食っていました。

 この二日間、私は21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーと和歌山県の熊野古道の旅に出ました。朝早くに出発して夜遅く帰る道すがら、マイクロバスの車内では久しぶりの仲間との会話に花を咲かせていましたが、自由時間のたっぷりあるバスの中で居眠りをしながら何とはなしに携帯をいじくりました。清水研究員さんの顔を思い出しながら、携帯をいじっていると、前の席の藤本さんが「あなたの携帯電話のメールアドレスを教えて」というのです。気心の知れた仲間ですので私の携帯番号はお互い既に知っているのですが、メールアドレスは知らないのです。結局私のメールアドレスを送り、清水研究員さんについで第2号となったのです。2号なんてまるで愛人のようですが、今朝携帯のメールアドレスを見ると朝フルの大河内さんからメールが入って彼女はさしずめ私の3号となりました。

 昨日私は密かに携帯をいじくりながら、覚えたてのメールを清水研究員さんにメールを使って送ってみました。彼は昨日八幡浜の実家で農作業をしていると聞いていたので、まず「お早うございます」だけを送ったのです。するとどうでしょう、直ぐに返信メールが入りました。「うーん、まだまだ使いこなすまでには中々」と思いつつ、忙しい手を休めて清水研究員さんは3度ほど交信を繰り返してくれました。

 アナログ人間を自認する私なので携帯を使いこなすまでにはまだ少し時間がかかるようですが、小学生以下のような幼稚さながら、それでも少しづつ進化していく自分の姿を肌で感じています。それにしても使えば便利なもので、今までの知らなかった自分は一体何だったのかと思うのです。

 私にとって携帯電話は非常の際の所在の確認と連絡手段くらいにしか思っていませんでしたし、そんな使い方しかしていませんでした。多分これからも携帯で買い物をしたりするようなことはしないと思いますが、少なくともメールが出来るという情報の互換性だけは早くマスターして使いたいと思うようになりました。

 私のような古い、しかも情報メカに弱い人間は「食わず嫌い」が多いのです。その癖私が相であったように平気で人の行動を批判するのです。まあ余り深入りしないよう程ほどに使いこなせるようにだけはしたいものです。

 私の携帯電話はおじいちゃんやおばあちゃんが持っているような、カメラもついていない旧式のものです。草刈りに人間牧場へ持って行き、畑で落として傷がついたような何の変哲もないものですが、やはり文明の利器は凄い能力を持っていました。私が使いのなせなかっただけなのです。この二日間使い続けた携帯電話は昨晩充電器に乗せられ、再び新しいパワーを貯えて今日も私と行動をともにする予定です。

 清水さん、谷本さん、藤本さん、大河内さん有難う。これからも宜しくね。

  「私に 又新たなる 文明の 利器が加わり 日々が楽しく」

  「うーんまだ まだまだ修行 足りないと 頭こんがり メール送りて」

  「結局は 食わず嫌いの 批判だけ そのうち違う 側から批判」

  「あれ?またも 間違い変な 文字が出て どうしていいのか 訳が分らず」  

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○わが町の桜花を愛でる②

 学校の入学式も終わりました。何年か前教育委員会で勤務していた頃は、桜を織り交ぜた告辞や祝辞をよく聞き、自らも人の書いた祝辞や告辞を子どもたちの前で読んだものです。「桜花爛漫と咲き誇る・・・・」なんて難しい言葉を使ったものですが、はてさて子どもたちにその意味は分ったかどうかは知る由もありません。しかし子どもたちの思い出の中には必ず「校庭の桜」が出てくるのです。

 双海町の学校といえば翠小学校が度々紹介されますが、海に突き出たように立派な石垣のある由並小学校も趣きがあって私は大好きです。その石垣を割るように二本の桜が咲いていました。もう老桜の域なのでしょうが、それは見事な桜です。この桜から続く桜並木が上灘駅から城の鼻まであって、昔は上灘八景に数えられ、道後温泉の桜とともに県下にその名を知られていました。桜の季節ともなるとボンボリが灯され芸者さんも出るほどの賑わいだったそうです。

 
(見事な由並小学校の石垣)
(石垣を割るように外に張り出した桜の老木)

 城の鼻の桜越しに見えるシーサイド公園の砂浜もこれまた綺麗です。今は直ぐ下に国道のバイパスができてこの風景を眺めるのは地元の人だけのようですが、砂浜と本尊山を望む桜は一見の価値があります。


 海岸国道沿いは千本桜といわれるように、沢山の桜が植えられています。私がまちづくり担当をしていた最初のころ、青年会議が植えた桜が今頃になって見頃を迎えているのです。

(本谷付近の桜)
(魚吉付近の桜)
(石の久保付近の桜)
(下灘駅下付近の桜、ここの桜は少し違った大島桜系の桜です)
(桜吹雪の散り染めし下灘駅下の桜)
(上浜の桜)

 今年の桜もいよいよ見納めです。いい日にいい桜の写真が撮れたので少し満足していますが、来年は海岸国道から少し奥に入った桜の名所の写真も撮ってみたいと思いました。

 追伸

 先日(4月5日消印)秋田市の石塚友寛さんから、素敵な弘前城の桜の絵葉書が届きました。それによると秋田市内の開花は4月13日とか、今頃秋田ではみんな浮き足立っていることでしょう。角館のさくらも弘前のさくらも、ゴールデンウィークには葉桜になっているかも知れません。

 「さくら切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉がありますが、弘前の桜はしっかりと剪定をしています。リンゴの木の剪定技術が生かされていて、樹齢も百年を超えるとか、面白い話です。

  「弘前じゃあ 桜の剪定 するという 梅も桜も 切らなきゃ損だ」

  「酒飲まず 今年も花見 見るだけで どこか寂しく 春は過ぎ去り」

  「学校の 校庭桜 お出迎え 今年は挨拶 桜を入れて」

  「俺の手で 植えた桜が 成長し 今では並木 気分一入」

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shin-1さんの日記

○わが町の桜花を愛でる①

 「後悔先に立たず」といいますが、去年もその前の年も、桜の季節が過ぎる度にいつも思っていました。「今年は町内の桜の写真を撮らなかったが、来年こそは」と自分に言い聞かせたものです。多分今年もそうなる予定でしたが、意を決して今年は3回ほど合間を縫って写真を撮ってみました。その中で何点かを、ブログに書いて記録に留めようと思い、もう2回も紹介しました。その成果なのでしょうかブログを読んだ仲間から「若松さんのブログを読んだので双海の桜を見に行きました。綺麗でした。帰りにシーサイドのレストランで食事をしました。」と嬉しいメールが何件か届いたのです。私のブログが少なからず地域の活性化に役立った事になるのです。

 今年の桜の写真で一押しの一枚は下の写真です。潮風ふれあい公園千人塚の池の周りの桜はそれは見事に咲いていました。桜は下から見上げるものですが桜の写真はどちらかというと遠望がいいようです。海と池という水辺が入るとなお映えるようです。しかし写真技術の下手な私は、カメラの基本中の基本である水平線が画面には斜めにゆがんでいて、これは駄作になったようです。でも花の美しさに免じて許してください。

 この作品は三島神社の長い石段の上にある楼門辺りに咲く桜です。まるで阿吽の狛犬のように、違った種類の桜が二本、両脇を固めていました。この楼門は扇垂木といって垂木が扇のように広がっているのが特長です。海から一直線に医師団が伸びる姿もまた格別な趣きがあります。この神社には亀の森という地名のように、狛犬が無く狛亀なのです。桜に誘われて長い石段を登り更に奥まった本殿にお参りをしました。

 通称浄土の坂と呼ばれる場所からは上浜の桜が海に映えてとても綺麗に見えました。JR予讃線の線路が入ると一際趣が違うものです。向こうに見える豊田漁港や灯台も絵になる光景です。この桜は上浜老人クラブの人たちが草刈りなどをして大切に育てていますが、今は亡き福本一雄さんが育ててくれたことも忘れられない思い出です。


(浄土公園の桜も見事でした)

 日本で一番海に近い下灘駅から見る日喰の桜も見事です。寅さんもやって来た有名な駅は、今も人知れず人気があって多くの若者が訪ねてきています。この日も青春18切符のポスターで三度紹介されたことを思い出した中年の旅人に出会いましたが、桜の美しさに感動していました。




 時折通るマッチ箱のような一両編成のジーゼルカーに注意しながら日喰の桜を見に狭い道を登って行きました。ここの桜は下灘でも古い方の部類ですが、艶やかに咲いていました。

  「どこへ行く 当ても無いまま 桜花 巡りて出会う 懐かし景色」

  「名所では ないが名所の この桜 知らぬが仏 一人楽しむ」

  「今年こそ そんな思いが 駆り立てる 記録収めて 記憶に残す」

  「ひい・ふう・みい 数えられるる 乗客を 乗せて長閑に 列車は走る」

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