shin-1さんの日記

○たかが名刺されど名刺

 まちづくりに関わって以来、長年慣れ親しんできた夕日をあしらった名刺がなくなりました。双海町というまちを売り出すために考えた夕日の名刺も、多い月には600枚、年間7,200枚くらい使う驚異的な枚数でした。今年の4月に退職後も無職ながら夕日の台紙で通しました。この半年余りで1,000枚を使い、この程名刺がないことに気付き、役場と印刷屋に掛け合ったところ台紙がないというのです。明日から始まる全国行脚にさてどうしたものか思案をしてますが、只今名刺がないと自分だけではなく夕日を売り出せないジレンマに陥っています。「夕日のミュージアム名誉館長」という肩書きがあるのですから、その線で役場へプッシュも考えましたが、大人気ないので思い切って自費で作ろうと決意しています。というのもよくよく考えてみると退職後まで、自分と町の関係を引きずって生きてるような後ろめたさがあったからです。夕日さえももう自分のものではないのです。しかし私が夕日の宣伝をしなかったら、この町や夕日を誰が真剣になって売り込むのか不安もあります。「あなたの心配することではない」と言われそうです。

 たかが名刺と思われるでしょうが、小心者の私?ですから昨日はそのことが頭から離れませんでした。発想の転換で名刺が切れたのを機に、今度作る名刺には思い切って「人間牧場主若松進一」と書くことにしました。差しあげた瞬間「えっ、人間牧場って何ですか?」と言われそうで話題の広がりを予感しました。台紙は夕日かそれとも出来上がった水平線の家にするか迷っていますが、過疎逆の和田さんが書いてくれた似顔絵を使うも一考です。しかし似顔絵と男前である本物との落差に思わず噴出してしまう危険性もあります。漫画チックに渡辺えつこさんが岩国で書いてくれた色紙も・・・・・・。ああー迷うなあ。男前は辛いなあ。

 今までの名刺にはEメールやホームページアドレス、それに携帯電話番号は載せていませんでした。個人情報が気になるところではありますが、交流の広がりを考え思い切って載せます。今や私にとって自宅の住所・FAXよりもパソコンの方がはるかに頻度が高い交信手段なのです。でもこうしたデジタル社会でありながら、毎日三枚のハガキ実践対応はどうしても現住所も必要不可欠なものです。

 結局結論の出ぬまま朝を迎えております。差し当たり新しい名刺が出来るまで、今日から一週間は「えひめ地域づくり研究会議代表運営委員」の名刺やそこら辺をかき集め対応したいと思っています。

 「底ついた名刺に驚き電話するピシャリ営業それはもうない」

 「何気なく使った名刺の夕日さえわが物でなき気付き遅れて」

 「太閤は夢また夢と言ったけど私の夕日も夢のまた夢」

 「新しき名刺に書いた牧場主話広がる夢を見つつも」

 

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shin-1さんの日記

○お葬式とまちづくり

 世の中には変わった学生がいるもので、何と卒論作成に「お葬式とまちづくり」なるテーマを掲げている学生に出会いました。今日はその学生2人がはるばる高知県から勉強のためにやって来たのです。私も前々から民俗学で葬式のことを書こうかと思っていた矢先のことなので快く対話に応じました。

 私が子どもの頃のお葬式はもっぱら土葬で、おじいさんが死んだ時は、海の見える墓地まで急な坂道を棺おけ担いで登りました。組内の人の掘った穴におじいさんの棺おけを入れて土をかけた時、「ああ人間は土になるのか」と幼心を痛ませてそう思いました。初七日までの毎夜ローソクの光をつけに墓地まで行くのですが、この土の下におじいさんがいると思うと、ボチボチどころか怖くなって、心臓が張り裂けるくらいの速さで墓地に通じる山道を駆け下りました。おじいさんは人徳のあった方らしく、葬送の列が墓地まで長く続いていたことも忘れません。セピア色にあせてはいますが、私の思い出の彼方におじいさんのお葬式の姿は今も鮮やかに残っています。

 お葬式に関しては学生がテーマにするように最近では様変わりしました。土葬から火葬へ、自宅からセレモニーホールへとやり方も場所も随分変わったように思います。正しいデーターはとっていませんが、学生が言うように、お葬式の変化はまちづくりやコミュニティのあり方と、相関関係があるのではないかと思えるのです。私たちの町では限界集落が多くなりつつあり、お葬式さえも組内で支えきれない所もあると聞きます。またお年寄りが病院へ入院するのをためらうのは、病院で死ぬとセレモニーホールへ直行し、住み慣れた家へ帰れないからだとも聞きました。せめて通夜だけでも自分の家でと願うお年寄りの気持ちは痛いほど分かるのです。

 「世の中全て金次第」、いやひょっとしたら「地獄の沙汰も金次第」なのかも知れないと思うと何かしら侘しくなります。

 昨日こんな話を聞きました。ある一人暮らしのおじいさんが亡くなりました。今は忙しい人ばかりだからでしょうか、葬式が終わるのその日のうちに49日の法要を済ませるようです。財産は民法で決められたとおり、均分相続することになって誰も文句を言わず分け前を受け取ったようですが、さて位牌を誰が引き受けるかもめた末、結局は引き取り手がなくお寺に預けることで一件落着したそうです。「財産は欲しいが位牌はいらない」という何とも身勝手な社会は、私のような古い人間にはどうしても理解ができません。あなたはどうお考えでしょう。

 学生はまだお葬式とまちづくりの関係についてよく飲み込めていないようでしたが、私の葬式論に舌を巻いて帰りました。「君なら必ずいい論文が書ける」と激励して分かれました。いい論文が書けるよう祈っています。

 「葬式は今も昔も一里塚土葬と火葬違っていても」

 「死んだはずどっこい母は生きている心のどこかで私見守る」

 「葬式を卒論テーマにする学生何を学ぶか今から楽しみ」

 

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shin-1さんの日記

○芋端(畑)会議の夢を見る

 ストーブの恋しい季節になってきました。毎年この頃になると私の狭い書斎には、妻の配慮でコタツがお目見えするのですが、今年はまだコタツの用意が出来ていないため、椅子机で少し震えながらブログを書いています。

 昔は火鉢ひとつ、それも今の家のようにサッシの家でなく、あちらこちらから隙間風がピューピュー入ってくるような家だったのですから、寒かったのは当然でしょう。私たち子どもはは青鼻を垂らしていました。あの懐かしい火鉢も倉庫にしまわれ、各部屋にはストーブ、電気カーペットなどの暖をとる暖房器具が色々と置かれています。贅沢になったものです。暖冬傾向だといっていますが雪の降らない南国双海でも冬は結構寒いので、我慢もそろそろ限界かなと思いつつ、不足の不足を感じることに挑戦しております。

 それにしても最近は、私たちの暮らしの中で煙なるものがなくなりました。落ち葉を集めて焚き火をすることはごく自然の風景でしたが、今ではやれダイオキシンだのやれ環境問題だのとうるさくて、焚き火は姿を消しました。確かに環境については考えなければなりませんが、焚き火でどの程度ダイオキシンが出るというのでしょう。ダイオキシンという物質は目に見えないから私たち凡人には知る由もありませんが、化学工場から出る膨大な化学物質はそのままで、こんな小さな焚き火を止めるのは枝葉末節だと思うのです。でも焚き火も日本全国の国民がやったらこれも困ったものです。先日埼玉で面白い知恵をいただきました。焚き火で芋を焼いて食べる芋端(畑)会議なるものです。井戸端と掛け合わせたものですが、これは人間牧場でも使えるアイディアだと思いました。

 早速来年は人間牧場の畑に芋を植え、秋の収穫の頃焚き火をして芋端(畑)会議をやりたいと、人間牧場のコンテンツに一項入れました。秋の長閑な時期に焚き火を囲み芋をフーフーやりながら、家族や友達と色々な話をしたいと思っています。ひょっとしたら親子向けのプログラムとしては最適かも知れませんね。

 今の時代は、「早い」というスピードが求められています。季節や旬や人間性がまったく無視され、効果効率だけが一人歩きしています。スロ-ライフといいながら、便利さや安さを求めて人々は動いています。「あの商品は何円安い」が話題になり、地元の商店は競争に負けてしまいます。頑固親父の店など見る影もありません。結局はそうして時代は知らず知らずのうちに流れてゆくのですが、せめて何かにこだわって、少し自分の体内時計にあった暮らしがしたいものです。

 「芋食うて臭い屁こいたの誰だっけそんな話題は夢のまた夢」

 「どの家も風呂を焚いてる煙あり長閑な秋のふるさとの昔」

 「鉢巻や頬に被ったタオルだが今の若者お洒落に頭」

 「芋という字を分け見ると草を干すじゃあ草干して芋でも焼くか」

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shin-1さんの日記

○ある親の苦悩

 子どもを育てることの大変さは、子どもを育てた人にしか分からないといいますが、特に反抗期や思春期の何かと問題を抱えた子どもに対する教育は相当頭を悩ませます。今日も突如としてある親から子どものことについて相談を受けました。喫煙が発覚して学校から謹慎処分を受けたというのです。集団での喫煙だけに集団で一律同じ謹慎処分と思いきや、その子だけが家庭謹慎という重い処分を受けたそうです。親で見たら合点がいかぬと言うのですが、相談する人もなく尋ねあぐんで私の所へやって来ました。早速学校へ連絡を取り、学校へ出向きましたが、何度も同じ過ちを繰り返してきた過去の事実と、先生たちがこの子どもを立ち直らせようと努力してきた経過が先生の説明で明らかになりました。

 学校は、青少年の喫煙は法律違反であり、青少年の健康を蝕む観点から絶対してはならない行為だと厳しく言っているにもかかわらずやめれないのは、本人の意志の弱さと親のしつけが悪いと断罪し、退学処分を決定したようです。本人の将来を思うと悲しくなりましたが、決意文を書いた前回の反省が生かされなかった本人や親のあり方や、指導努力の甲斐もなく成果を挙げれなかった学校側にも責任はあるようです。

 私を見込んでの相談とは、親からすれば「学校に顔の聞く人に頼めば何とかなる」といった安易な考えがありはしないか、またその甘い親の姿勢が「悪いことをしても頼めば何とかなる」という本人の甘えに繋がっているようにも見えました。

 これでは折角の危機をチャンスに生かすことは出来ず、たとえ退学という重い処分を今回免れても、本人のためにはならないと、思い切って退学を勧めにお家へ伺いました。あいにく両親は留守でしたがおばあちゃんがいましたので、過酷だとは思いましたがそのことを話して帰りました。おろおろ涙するおばあちゃんの姿を見たとき、この涙を本人がどう感じるのか明日にでも本人に話してやりたいと思いました。

 学校へ行きたくても行けない時代を過ごしたおばあちゃん。学校へ行きたくないのに学校がある時代に育った孫。どちらも悲劇です。「こんな子どもに育てたのは親の責任です」t嘆く親の悲しみもよく理解できます。

 通っていた学校へは行けなくなるだろうけど、本人が早く立ち直って両親やおばあちゃんの笑顔を見たいものです。そのためには私の役割は何なのか、関係ないと思わず逃げずにしっかりとお手伝いしたいと思います。

 「悲しきは可愛い孫がマゴマゴと迷える姿見るに見かねて」

 「辛いけどここでしっかりせにゃならぬ親という字は立・木・見る」

 「何にでも興味を示す若さゆえでもダメなものダメダメダメだ」

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shin-1さんの日記

○私が私を意識した日(意識の誕生日)

 私の誕生日は昭和19年10月3日です。誕生日は人間の生命が生まれた日とされていますが、よく言われる夫の精子が妻の卵子に宿って、「とつきとうか」(10月10日)で子どもが生まれるとしたら私の生命の誕生は昭和18年12月24日、クリスマスの日へと遡らねばなりません。「えっ、私はキリストと同じ日に・・・・・・」なんて驚きです。しかしこの考えは父と母のみぞ知る布団の中の出来事ですから、あまり深く詮索すると死んだ母親に叱られそうなので止めます。でも馬や牛が生まれて間もなく立ち上がって歩く姿を見ると、人間は誕生からさらに1年間もしないと歩けないのですから、世話のやける動物と言わざるを得ません。

 時々自分の幼かった頃のことを思い出そうとするのですが、小学校以前のことは中々思い出せません。保育園も幼稚園もなかった田舎で育ち人の、移動もそんなに多くなかった戦後の、貧しい時代に育った私ですから、とりたてた思い出がないのかも知れませんが、小学校へ上がる頃の思い出は少しあるのです。私は知能の発達が遅れていたのか元々なかったのか分かりませんが、小学校へ上がるまでに10の数が数えれなかったようです。今時の子どもだと信じられないことで、今の時代に生まれてたら母親は私を教育相談にでも連れて行き、「はてどうしたものか」と行く末を嘆いたことでしょう。

 父は海岸から石を10個拾ってきて、毎晩夜なべ仕事の作業場に私を座らせ、石を数える練習をしました。数え間違えると竹の鯨物差しで手の甲をピシャリと叩くのです。出来ない私は涙を流していました。

 ひょっとしたら「私が私を意識した日」は小学校へ入る前の6歳頃の春だったのかも知れません。正確な記憶ではないのですが、これが私の「意識の誕生日」なのです。あんなに遅れていた算数能力も何とか人並みになり、今では計算も出来るのですから、私は大器晩成とまではいかなくても、小器晩成くらいとは言えるでしょう。でもそんな過去があっても社会に出るとそれなりに暮らしていけるのですから、石ころが数えられなかった意識の思い出は、むしろ人生の出発点として私の面白いエピソードになっています。

 「意識の誕生日」以来55年間、私の脳は覚えたり忘れたりを繰り返しながら、覚えなければならないことは覚え、忘れてもいいことは忘れて今日を迎えています。本当の誕生日から6歳引いた55歳が私の意識の誕生日ということになりますから、私はまだ55歳の若さなのです。

 この文章を書きながら私は若いことに気がつき、若いという自信を持とうと考えました。「失礼ですが若松さん、お歳は幾つですか」と尋ねられたら、「はい意識の年齢55歳です」と応えようと思っています。

 「歳なんぼいうと必ず褒め言葉7・8つ若く言われ喜ぶ」

 「父母が布団の中でドッキング私の誕生しれた夜話」

 「生まれた日私の父は戦争で留守してました何故に生まれた?」

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shin-1さんの日記

○トタンで作った中国式万里の長城

 最近の私のブログ「shin-1さんの日記」はまるで旅日記のようです。昨日埼玉かと思えば今日は広島と全国各地をまるでフーテンの寅さんのように気になるカバンを提げて出歩いています。

 今日は広島県安芸高田市の甲山町を訪ねました。担当者が清水しげ子さんといって、字こそ違え私の妻のの名前と一緒なのです。最初講演についてメールのやり取りをした時には、かつて妻と交際した頃を思い出し、淡い恋心を抱くような心境でした。今日お会いをしましたが予想をはるかに超えた、気配りの出来る方でした。勿論妻よりも数ランク上とお見受けしました。(妻には内緒です)

 晩秋の安芸路は山が赤や黄色に染まり、日本晴れの青い空に映えていました。多分待ちの中に住んでいる人たちには見なれた光景ですから、美しくも感じなと思いますが、茶色の屋根とマッチして、とても絵になる光景でした。私の町を彷彿するマッチ箱のような一両編成の黄色い電車に乗って、のんびりゆっくり本を読みながら各駅停車の旅を楽しみました。乗り降りする人も穏やかで、気軽に声をかけていただきました。「どちらから」「はい愛媛県から来ました」「まあ、遠い所からご苦労様です。どちらまで行かれますか」「はい甲山町まで行きます」「何をしに」「はい講演を頼まれてお話しに行きます」「えっ、何を話しに行かれますか」「はい、まちづくりについてです」「じゃあ、先生ですか」「いやいや私は先生じゃあありません。田舎のおいちゃんですよ」と、まあ長閑な会話です。多分そのおばちゃんは私の風采を見て「えっ、あんたが何で講師?」って感じが見え見えの会話でした。

 それにしても、車窓に気になる光景が続いていました。波型トタンで畑のあちこちを囲っている光景です。中国地方では万里の長城ならぬトタンの長城とでも呼ぶのでしょうか、何処までもどこまでも続いていました。これはイノシシの食害から作物を守るために作られたイノシシ避けの柵なのです。進んだところでは波型トタンに変わって電圧線を張り巡らしていますが、山間地ではまだまだトタンの柵が多いようです。どの地域もイノシシと人間の知恵比べが行われているようであり、ただいまのところ人間とイノシシの知恵比べはいのししに5分の利があるようです。あのトタンもタダではないはずですから、イノシシのために中国山地では、農家に大きな負担が強いられているようです。

 「そのうちにイノシシならぬ人間がトタンで囲われ行き場失う」

 「山里に落ち葉煙が幾筋もああ長閑なり日本のあちこち」

 「今頃は甘柿熟れてもど子どもらは見向きもせずに去り行く寂びし」

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shin-1さんの日記

○理想の妻の条件

 よく観光地などに行くと、湯飲み茶碗やキーホルダー、タオルなどに名前や歴史上の人物の有名な教えを書いたものが売られています。多分何処かの観光地で買ったか、誰かにお土産に貰ったのでしょうが、「理想の妻の条件」という世にも珍しい湯飲みがあります。お茶を飲みながら妻とこのことについて話しました。

 私「おい、お前も湯飲みに書かれている理想の妻か?。せめてこの書いたものを読んで、少しは近づくように努力したらどうか」。「ええこと書いとるねえ。私のことを書いとるのではないかしら」。「・・・・・・・」。次の言葉が出ませんでした。「自分はどうなの」。「・・・・・・・・・・」。

 理想の妻

 1、夫の好き嫌いを早く飲み込む妻。1、快活で愛嬌たっぷり従順で優しく上品な妻。1、どことなく初々しい感じのする妻。1、家政と料理が上手くて糠味噌臭くない妻。1、機転が利いて利口ぶらぬ妻。1、何事にも理解と同情を持とうとする妻。1、働き者でコセツカぬ妻。1、話し上手聞き上手の妻。1、飾り気なく身だしなみのよい妻。1、世の中に遅れぬだけ修養につとめる妻。

 以上のことが書かれているのですが、妻の「あなたはどうなの」の言葉で、私を私がテストしてみると、はてそんなに理想の夫であるか自信がもてないのです。

 私たち、いや私は得てして自分のことを棚に上げて相手に自分の理想ばかしを要求していたように思えるのです。特に何処かの出来た女性を頭に描きながら言うものですから、言われた妻はかちんと来るに決まっています。

 ある友人が、「テレビで見る理想の女は格好いいが、あの人だって糞も小便もするし、自分の家では化粧を落として寝巻きでちょろちょろするし、自分の妻と同じだよ」と言うのです。同感でした。特に疲れた時の寝姿はカバに似ているし、いびきだって壊れた掃除機のようです。「じゃあ自分はどうなの」。はい自分は自分に見えませんから、同じでした。

 これからはこの湯飲みを自分の目標として頑張ります。アブ蜂取らずとはこのことです。

 「この妻の何処に惚れたのまあ不思議同じ思いの顔でジロジロ」

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shin-1さんの日記

○妻が風邪でダウン

 埼玉から二日ぶりに帰ってみると、妻は仕事に出掛けていました。娘の夜勤の都合で孫が我が家に来ていましたが、次男と久しぶりに帰省していた三男が孫の面倒を見てくれていました。

 妻が職場から昼過ぎになっても帰らないのでおかしいと思いつつ、青少年の合宿研修に顔を出し、帰ってみると妻は床に伏せっていました。病院で点滴を受けていたのだそうです。

 夕方になっても妻は起き上がることが出来ず、私は右往左往しました。幸い自炊経験のある三男がテキパキと食事の準備をしてくれました。私は大きな声ではいえませんがお湯を沸かしただけです。

 私は自慢ではありませんが、家事は家でまったくやったことがないのです。無人島キャンプなどの野外活動も、もっぱら食事の得意な仲間におんぶにだっこで、会の運営などに携わっていました。「お父さん私が病気になったらどうするの」といつも妻から小言を言われてきましたが、こんなに早く病気になろうとは夢にも思いませんでした。妻の枕元に行って、何をどうするのかいちいち聞きながら、結局はお湯を沸かすしか芸のない私は、つくづく自分のふがいなさが身にしみました。「病気になったらその時はその時」と鷹を食っていましたが、この際自立できるような自分になりたいと思いました。

 三男はご飯をちゃんと炊いて、仏様と神様棚にご飯を供える習慣までちゃんとやってくれるのですから、驚きでした。神様・仏様に妻の風邪が早く治りますようにお祈りしましたが、それは自分の食事を作ってくれる妻がいないと困るからといった、安易な考えの祈りであったことも、少しだけ反省しております。はい。

 それにしても三男の作った鍋物は美味しかったです。「鍋でもするかい」と思いつき、三男は急遽畑へ大根を抜きに走り、下ろし大根までする徹底ぶり、空いた口が塞がりませんでした。三男と久しぶりに向かい合って二人だけの食事をしました。いつもガミガミいう山ノ神(妻)は別室で寝ているのですが、台所はまるで火が消えたような静けさでした。いるものがいないだけでこんなにも暮らしの雰囲気が変わるものなのかと、改めて妻の偉大さに感心しました。

 嘔吐下痢症の妻は食事を枕元に運んでも食べることも出来ません。三男はポカリスエットを枕元に運んで母の病気を気遣っています。

 明日、私は早立ちで広島へ行かなければなりません。妻の病気は、明日が休みの次男にまかさなければなりません。寒くなった旅支度にとパッチ(ズボン下)を穿いて行くよう寝床から心配してくれています。有難う。母さん。

 「床伏せし妻に感謝の言葉かけ旅に出る朝後ろ髪引く」

 「黙々と鍋をつついて晩飯を息子と二人味気なきかな」

 「携帯の声でうつらぬ流行風邪妻は床臥し私ピンピン」

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shin-1さんの日記

○富士山に落ちる夕日に感激

 昨日は埼玉県町村正副議長さんの研修会に招かれ埼玉県へ行きました。講演が終わってから旧友である県公民館連合会坂本事務局長さんに県庁の屋上へ案内してもらい、埼玉副都心構想について話を聞きました。何でも世界一のタワー建設構想があるらしく、屋上からの眺めはまさに絶景でした。

 息子さんに送ってもらった武蔵浦和から、埼京線の電車に乗って新宿へ出る途中、4つ目の駅である浮間舟渡あたりで綺麗な夕日が富士山に落ちるのを見ました。感激して思わず駅のプラットホームへ降りて沈み行く大きな夕日を感慨深げに眺めていましたら、気がついてみるとお土産にいただいた埼玉茶を電車に置き忘れてしまい、がっくりしました。土産よりいい土産ができたと思えば気も済むのですが、貰った相手に悪い気持ちでいっぱいです。

 それにしても、都会に人は窓越しから、あるいは駅のプラットホームからあのような綺麗な夕日が見えているにも関わらず、無表情で携帯電話や雑誌に目をやりながら通り過ぎて行くのです。隣の席の人に「夕日が綺麗ですね」といっても「あはっー」と言うだけで何の関心も示してくれませんでした。昨日は天気がよく埼玉県からでも日本一の富士山見え、美しい夕日とのコラボレーションはまさに絵になる光景でした。写真に収めることができなかったのは返す返すも残念でなりません。

 綺麗な夕日を見て感激する私はおかしいのでしょうか。私と同じような綺麗な夕日を見ても無表情、無感動な都会の人が正常なのでしょうか。私には残念ながら分かりません。でも私の方が正常だと言い聞かせて、一便遅れの電車に乗り込み新宿駅で忘れ物の係を訪れましたが、まだ届いてないと冷たい返事でした。

 でも都会も捨てたものじゃあありません。バスに乗り込むため新宿西口のバスセンターへ行き、バスを待っていると、私の顔をジロジロ見る中年の女性がいます。そして「若松さんじゃありませんか?」と唐突に聞くのです。「そうですが何か」と聞くと「私はあなたの話を東京で聞いた長野県に住んでいる者です」と言うのです。先を急いでいるらしく「お元気で」の捨て台詞、中年の美人女性だっただけに、対応が出来なかったことが悔やまれてなりません。見ず知らずの東京で声をかけていただいたあの人は、果たして何処に住んでいるやらと思い巡らすのもまた旅のよき思い出でしょう。

 「東京を泊まりもせずにバスの中二泊三日の旅ぞ楽しき」

 「若松さん唐突言われ驚くが見返り美人闇に消え行く」

 「わあ綺麗富士と夕日のドッキング思わず降りた駅の人ごみ」

 「忘れ物人のことかと思いしに自分忘れるああわしゃぼけた」

 最高の生き方は田舎に住んで美味い空気、美味しい水、美味しい食べ物をいただいて、たまに都会へ遊びに行くことだと思っています。私は最高の生き方をしています。

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shin-1さんの日記

○笑売啖呵

 「笑売啖呵」。はい、この言葉は私が作った造語で「しょうばいたんか」と呼びます。まあ俳句をワサビの効いた川柳にしたようなイメージと考えてください。笑売は商売とかけ笑いを売ります。啖呵は短歌とかけて5・7・5・7・7の世界です。昔私の知人に俳句つくりの面白い人がいました。ヒッチハイクとかけてヒッチ俳句なるものを考えた人です。彼の名作に「風邪ひいて肱川の水でうがいかな」というのですが、ご存知肱川は愛媛県大洲を流れる川です。夏になると鵜飼が行われます。鵜飼と喉をうがいすることを掛け合わせています。私の編み出した(偉そうに)笑売啖呵も究極はその辺まで高めたい思いを持っています。

 私の秀作をひとつご紹介しましょう。「5・7・5・7・7」あっ失礼、これは作った後で妻の人権を侵害していると、妻から公表を控える様に釘を刺されていますので、今回は創造の世界でご勘弁を願います。

 ブログを書くに当って文章の巻末にちょっとした笑売啖呵を載せています。本文よりこの方が面白いという人もいて、多少がっくりやら、ニコニコやらの心境です。

 高杉晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものはこころなりけり」と時世の句を残しています。考えれば今の社会は面白くないことがあまりにも多いように思えます。でもそんな社会だからこそ面白く生きていく意味があるのです。「すみなすものはこころなりけり」ですから、せめて気持ちだけでも笑いを絶やさないように生きたいものです。

 寅さんシーリーズで双海町は下灘駅が舞台となりました。当時私は町の広報マンをしていてその場面を取材する幸運に恵まれました。山田洋次監督に頼んで寅さんの写真を撮らせてもらいましたが、寅さんに「写真を撮らせて下さい」と頼んだら、「やあ」といってプラットホームを歩いてくれました。ベンチに寝そべった寅さんと歩く姿しか撮らなかったのですが、いい思い出です。寅さんは行く先々で啖呵倍なる名調子のセリフを残しています。「ものの始まりが一ならば大和の国は富士の山・・・・」などと面白セリフがいっぱいでした。私の啖呵はそんな浅はかな場所が出典です。これからも折に触れ笑売啖呵を作りますのでご相伴下さい。

 「愛・恋と色々あるが文字を見りゃ愛は真ん中恋下心」

 「昨晩も夫婦二人で風呂に入り思わず笑う妻の湯溢れ」

 「長生きをしてもつまらぬ言う親父今朝も飲んでる栄養剤を」

 「鶏肉を今日は食べない親父さん鳥インフルの話題テレビで」

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