shin-1さんの日記

○送られて来た画像

 昨晩出張先の岡山県笠岡市から帰ってパソコンを開いたら、笠岡市職員の守屋さんからお礼状に添えて何枚かの画像が送られていました。私がわが家へ帰るより一足早くその時の情報が届くなんて便利な世の中になったもんだと感心しながら、その画像をブログ用500KB以下に落として、ブログの記事に利用することにしました。

 笠岡へ行く前日の夜、守屋さんから携帯電話が入りました。講演が予定されている研修会に部長さんの住民基本条例説明と担当者の協働のまちづくり説明を組み合わせるために、落語形式で統一したいとの申し出です。もとより私は落語ならぬ落伍家として芸名夕日亭大根心を名乗っているので、面白い企画だと一も二もなく引き受けましたが、落伍をするには小道具が必要で、めくりや拍子木、出囃子、扇子とタオル、座布団、羽織などなどを用意しなければならないのです。その小道具は全て人間牧場の水平線の家の備品として置いているため、急遽夜遅く8キロ離れた人間牧場まで取りに行きましたが、妻が随分不思議がっていました。最初の計画では私のまちづくり講演会、次の計画では観光カリスマ講演会、最終的には夕日亭大根心講演会と二転三転も思考の結果だと思いつつ、悪乗りに遊び心で乗ってみようと思いながら、しまなみ海道を通って片道3時間の道を走りました。

 会場となった文化会館の入り口には手作りの奇妙な看板が立っていました。私以外の出演者もみんな落語の芸名がついているのです。面白い企画についニンマリしながら真打の責任の重さに少し心が沈みました。やがてダンディーな協働のまちづくり課長天野さんの案内で控え室で談笑したり、島弁という目ずらしアナゴ飯弁当を試食したりしていると、副市長三島さんやいかにもヤクザ風の髭を生やした政策部長柚木さんがやって来て、みんな浴衣に着替え本格的に落語風の姿にお色直しをして、前座の席へ姿を消して行きました。

 会場は大入り袋を配らなければならないほどの大入りで、後ろには立ち見までいて大盛況です。いよいよ私の出番が来ました。お囃子に乗って高座に上り、さあそれから背広を裂き織の高座着に着替え、楽しい話しを90分、高座本やカンニングペーパーやレジュメも持たず、澱みなく話しをさせてもらいました。会場の設えも壁に貼った私を紹介する幾つかのポスターも全て絵になる光景でした。高知県馬路村の木下さんが仕掛けた移動寄席ライブ、兼頭さんが愛媛県上島町弓削島で仕掛けた希望の島寄席ライブ以来の楽しい研修会となりました。それにしても僅かな時間に提灯を吊ったり、ここまでやるかといわれるような準備をしている守屋さん松浦さんたちのパワフルな行動力には脱帽する以外はありませんでした。



 昨日の中國新聞の朝刊にその模様が出ていたのでしょか、その新聞の切り抜きも写真に添えられて送信されていましたが、落語風で新聞に載ったのは勿論初めてです。


 それにしても笠岡市の市役所の何とフットワークの軽いことでしょう。普通こんな企画をしても「馬鹿なことを」と一蹴されるに違いありません。この企画は多分天野課長、柚木部長、三島副市長と上がっていったのでしょうが、課長も部長も、何と副市長までもが浴衣に着替えてあいさつをするとは嬉しい限りです。人口僅か5万人余りの市でありながらも、このような遊び心で市民に分りやすい行政を心がけている姿に深い感動を覚えたのです。協働のまちづくりもまちづくり基本条例もある意味難しく話せば難しく市民は受け止めます。しかし協働も基本条例も市民が主役であることを考えれば、自分たちの暮らしをよりよくするためのものですから、分り易くしなければ何の役にもたたないのです。まちづくり基本条例があるから街がよくなるのではなく、市民がまちづくり基本条例を必要とするとき街はよくなるのです。いやあ勉強になりました。

 「部長さん 副市長さんまで 浴衣掛け 楽しなければ 先へ進めず」

 「新聞に 落伍姿が 載るなんて 赤面になる 今頃になり」

 「はい私 夕日亭の 芸名で 高座に上がり 笑い誘いて」

 「高座降下り 求めるままに サインする 本まで売れて 嬉し恥かし」   

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shin-1

○ストーブを片付けました

 「えっ今頃?」と思われそうです。このところ風邪気味な妻の体調が思わしくなく、本来5月の連休が終わると空焚きしてストーブを別棟倉庫の二階へしまうようにするのですが、延び延びになっていました。今日出張先から帰ると、長男が四つのストーブを掃除をして納屋へしまってくれている作業の真っ最中でした。多分妻が当てにならない私を見越して頼んだのでしょうが、面目ない話です。

 それにしても私の住んでいるのは南国四国でどちらかといえば日本列島の中でも暖地に分類される地域で、ストーブなど縁遠いと思っていたのに、約半年もストーブのご厄介になっているのです。最近は灯油の値段がべらぼうに上がって本来なら節約対象の物件なのですが、若い頃ならいざしらず老域に達しつつある私たちにとって暖を取るストーブは欠かすことの出来ない生活必需品なのです。

 最近までフキや苦汁菜、マーマレードジャムなど春の山菜を使った保存食を作っていましたが、実は反射タイプのストーブは保存食作りには欠かせない必需品なのです。下ごしらえしたものを鍋でコトコト弱火で煮詰めて行くのにはストーブの余熱が最適で、随分重宝したものです。また煮豆のようにゆっくりと時間をかけなければならないものもストーブの余熱だと、別の用事をしながら焦げることもなく仕上がるのですから有り難い使い方なのです。

 空焚きされたストーブはビニールのゴミ袋で包まれ、これから約5ヶ月深い眠りにつくのですが、このストーブと面会する10月下旬には私もひとつ歳をとり、64歳になっているものと思われますが、ストーブを見る度に月日の経つのが早くなったような錯覚を覚えるのです。

 ストーブのなくなった台所、居間、書斎、応接室は部屋中がどこか広くなったような気がします。デンと居座り続けていたストーブも、人間とは身勝手なもので邪魔者扱いです。変わって夏の主役である扇風機がお目見えしました。扇風機を見ているだけで夏の暑さや涼を求める気分になるから不思議です。わが家はどちらかというと大きな日本建築の家のため、夏向きの家です。近頃建てられる家のように細かく仕切られていません。襖や障子を取り外すとまるで大広間のように使われる構造になっていて、しかも家のある位置が上灘川沿いの深い谷筋の高台にあるため、夏も冷房が殆ど必要ないのです。窓を開けて網戸にすれば天然の風が気持ちよく吹き込んできます。したがって冷房設備も一部屋だけしかなくそれも殆ど使うことはないのです。

 ストーブの話しを今頃するのは気恥ずかしく、わが家の恥のような感じがして妻から怒られそうですが、わが家はやっと夏モードになりました。私の衣替えも一週間遅れて半袖を今日から着ようと思っています。昨晩久しぶりに出会った孫たちは体が燃えるのでしょうか、半袖で短パンでも汗をかいている姿を見ると、やはり新陳代謝の違いでしょうか。

 今日は雨だろうと予想しながら雨にも会わず二日間の旅を終えた私ですが、今年の夏も健康に注意して乗り切りたいと思っています。

  「今頃に なってストーブ しまうとは テンポずれてる 老域夫婦」

  「高くなる 天井知らずの 油代 ストーブ灯油 これから皆無」

  「孫たちは 見るから夏と 思うよう 私見るから 真冬のようだ」

  「窓の外 モミジの枝葉 涼しげに 夏風揺れて 季節を告げる」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○軒に吊り下げられたタマネギ

 岡山県笠岡市へ一泊二日の旅に出て、途中家に帰らず二つの会議をこなし、今夕やったわが家へ帰って来ました。頑丈な身体ゆえに疲れた様子もないと思っていましたが、娘の家族とと長男家族がほたる祭りを見学するため昨日からわが家へ泊まりに来ていたようで、前もって妻から「帰宅時間は何時頃になるの?」と電話がかかっていたので、午後7時過ぎと予告していたので、みんながw足しの帰りを待っていてくれて、賑やかな夕食会となりました。特に一歳とゼロ歳の孫は頭の真に堪えるような賑やかさで、食事が終わって三々五々引き上げた後はまるで嵐の後の静けさで、拍子抜けがして疲れがどっと出てきたような感じになりました。それでも五歳の孫は「おじいちゃんとお風呂に入る」と待っていてくれて、久しぶりに二人で仲良くお風呂に入り旧交を温めました。

 帰って、昨日出かけに畑で引き抜いて出かけたタマネギの処理が心配でしたが、親父は昨日と今日の二日間で、タマネギの古い皮をむいで何個かをビニールの紐で縛り、綺麗に軒先に吊るしているのです。日頃から几帳面な親父のことゆえそれはまあ見事で、まるでタマネギを吊るした様はインテリアとでも言うべき美しさで感心してしまいました。

 わが家のタマネギはこれまで10年以上にわたって魚網を縫い合わせた袋に入れて、煙会所の軒先に吊り下げていました。こうすることで茎が枯れてもタマネギは落ちることはなかったのです。ところが毎年同じ袋を使うためかどうか分りませんが、半年もするとタマネギの袋で鎖が出始め、その腐りが袋全体に及ぶという悪循環を繰り返してしまい、最後ごろはタマネギの腐った汁が地面に落ちて美観どころか衛生にも悪いので、今年から昔のように茎を縛って吊るす方法に切り替えたようなのです。

 90歳の親父ながら、昨年までの失敗をちゃんと反省し、新しい方法を編み出しているのです。私などはその事に気付いていても改善せずそのままで処理しようとしていたのですから、穴があったら入りたい心境なのです。

 昨年までは私も手伝って土の付いた古い皮を取り除く作業をしていましたが、これだけのタマネギの皮を剥く作業は大変だったんではないかと、思わず親父ながらその勤勉さに頭が下がる思いです。

 夕闇が迫り、折り悪く間もなく振り出しそうな空模様なので、今日は写真撮影は断念しました。明日の朝綺麗なタマネギの行列を皆さんにお見せできそうです。

 娘も息子も今日は帰りにタマネギとジャガイモを沢山親父から貰って帰って行きました。どちらの家も料理が得意なようなのでタマネギとジャガイモを使って美味しい料理を作ってくれる事でしょうが、多分カレーか肉じゃがくらいが定番で、余り期待できそうにもありません。

 先月誕生日を迎えた尚樹は伝い歩きが出来始めていますが、8月末に誕生日を迎える希心はまだやっと寝返り程度で、メタボではないかと悪口を言われるほど太って、抱きかかえるとずっしり重さが伝わってきます。2ヵ月半も早く生まれた尚樹は後発の希心に体重では追い抜かれそうな雲行きです。

  「タマネギも 軒に吊るされ インテリア 田舎演出 趣きあるね」

  「九十に なっても懸命 この二日 親父はアリで 俺キリギリス」

  「この二日 天気味方の 取入れを 終わりタマネギ 軒に吊るされ」

  「お疲れさん 足腰肩に サロンパス 貼って親父の 苦労慰め」


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shin-1さんの日記

○タマネギの収穫

 年寄りとはホトホト身勝手なもので、今朝起きて隠居へ行くと親父の姿が何処にも見当たりません。毎度の事ながら菜園にでも行っているのだろうと思い、菜園へ行って見ると、朝早くもタマネギの収穫をしているのです。今年のタマネギは豊作のようで、大きく太ったタマネギは地中深く根を張っているため、親父の力では中々引き抜くことが容易ではありません。すでに作業を始めているので私は急いで自宅へ帰り長靴に履き替え、パジャマのままで畑に出ました。外の空気は初夏ながらひんやりとして肌寒い感じさえします。親父と一緒にタマネギを引き抜きました。親父が一列、私が二列のスピードで引いて行きますが、親父は時折背を伸ばしながら作業をしていました。僅か20分ほどでしたが全てを引き抜きました。

 親父の話によると今夜あたりから雨模様とのことです。親父の暮しはお天道様中心です。雨が降ったらお休み、晴れた日には野良仕事です。一方私は仕事中心です。今日は岡山県笠岡市へ講演に出かけるため二日ほど留守をするため、タマネギの収穫は手伝えないと言っているにもかかわらず、今日を吉日と定めた親父の予定に合わさなければならないのです。それもそのはず、今は梅雨の真っ最中なので雨の周期に会うとタマネギの収穫は一週間も二週間も遅れてしまう恐れがあるのですから、仕事中心の私よりお天道様中心の親父の方が正しいのです。このままほおって置いて行く事も出来ず、パジャマのままの畑仕事と相成った訳です。それでもお陰様で少しはお役に立つことが出来、少し安心をして旅に出られるのです。

 親父の言うのには、このまま夕方まで畑で乾かし、夕方キャリーに入れて納屋に仕舞い込めば雨に合うこともないのだそうです。

 タマネギはわが家の一年分の食糧です。と同時に親類縁者へのお裾分けもしなければなりません。わが家へは漁村らしく年中色々な季節の魚が親類縁者から届けられます。そのお返しは菜園を持たない漁師さんにとってみれば有り難い贈り物だそうで、タマネギボジャガイモもおすそ分けとなるのです。

 昨日妻は夕食に肉じゃがを作ってくれました。新ジャガイモに新タマネギは格別の美味しさで、ご飯によく合っておかわりをしてしまいました。妻はもうそろそろ新タマネギと新ジャガイモを使って飛びきりのコロッケを作ります。自分で言うのも何ですが、妻の作るコロッケは最高だと思うのです。結婚して以来ずっとコロッケはわが家の初夏の自慢料理になっていて、この頃になると子どもたちがコロッケが食べたいというのです。妻はコロッケを沢山作り子どもは勿論親類縁者に送るのです。これまた喜んでもらうものですから、その気になって作るという循環です。

 私はその都度、コロッケに小麦粉をつけ、卵にくぐらせパン粉をつける最終段階の手伝いをさせられます。あのヌルヌルした感触は一番嫌な行程なのですが、妻の言うがまま従っています。

 今日からの旅は間もなく始まります。畑に干されたタマネギのことも気になるし、親父が果してこの処理が出来るかどうかも心配です。今日はほたる祭りで娘一家、息子一家もやって来ます。本当は息子にタマネギの収穫を手伝って欲しいのですが、私が留守をするためそのことを頼みもできず出かけます。

 早くも隣の部屋では有線放送がほたる祭りの告知放送をしている音が聞こえています。ああ今日はほたる祭りが雨にならなくてよかったと思う朝でした。

  「タマネギが 仲良く並んで 梅雨晴れ間 甲羅干しする やがて首切り」

  「親父より 少し体力 多かりし タマネギ親子 ウンコラドッコイ」

  「タマネギを 引き抜き頼む 家を出る 後の作業は 親父一人で」

  「ご苦労さん 声をかけたし タマネギに 八ヶ月とは これまた長い」


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shin-1さんの日記

○見方が違う見方

 昨日は町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬式に出かけました。幾つになっても人の死に年齢の不足はないと思うのですが、葬儀に参列した人の見方は人によって違うように思いました。「おばあちゃんの年齢は幾つ?」「101歳だそうです」「うんそりゃあ大往生じゃな」と年齢から考えて長生きし寿命だと割り切る人がいます。一方で親類の人は目を真赤に腫らし、「もう少し生きて欲しかった」とお別れを辛そうにお話しされました。確かに肉親との別れは幾つになっても辛いもので、私の母も80歳、祖母は88歳であの世に旅立ちましたが、肉親の私にとっては「もう少し長生きして欲しかった」というのが本音で、母が死んで8年余り、祖母が死んで20年余りになるというのに、未だに私の心の中に行き続けているのです。

 お葬式は滅多に会うことのない人に会います。私は若い頃教育委員会に務めこの地域に度々足を運んで自治公民館活動の手助けをしていました。したがって当時はどの家にどんな家族がいて、犬が何匹まで殆ど知り尽くしていました。当然殆どの住民が顔見知りでそれは楽しい日々でした。しかしあれから三十年近くが経つと、いつの間にか若かった人たちはみんな30歳歳を取り、膝腰肩に不調を訴え、何らかの病気を持っていると訴えていました。

 「若松さん、えらい痩せたがどがいしたん」?とは、長い間であっていない人の弁です。「はい少し病気をしまして痩せました」「どこの病気ぞな?」「胆のうを患いまして」「ほうそりゃ気をつけないけませんよ」「はい有難うございます」「○○さんも胆のうを取ったそうじゃが、あの人は昔以上に肥えとりますよ」「そうですか、私は痩せる方なんでしょうかねえ」「胆のうを取った人はなんぼでもおりますから、心配することはありませんよ」「はい私もそう思って頑張ります」、てな調子で会話が弾みました。

 ところが時々出会う人は、「若松さん元気そうになったねえ。顔色もいいし毎日講演などで忙しそうですね」「はいはいお陰様です」「こないだ新聞に載っているのを見ましたが、あれはどこでの講演だったのですか」「はい金融広報委員会から頼まれての講演でした」「ほう、また偉い所ですが、どんなお話ですか」「はい人生の生活設計についてでした」「ほうまた難しいお話ですね」「いえいえ、大したことはありません」「まあ忙しいのはいいことですが、余り無理をしないように、お互い歳ですから、このおばあちゃんのように長生きがしたいですね」「はい」、てな調子でした。

 久しぶりに出会った人の見方と、時々会う人の見方はこのように同じものを見ても随分と違います。どちらも正しい見方なのですが、さて私は土地rを信じましょうか。「えらい痩せた」という話しを考えると私は明らかに病後を引きずっています。「元気になったねえ、顔色もいいし」だと嬉しい見方です。体重計に乗った時思う「もう少し肥えたい」という不安な思いと、毎日鏡を見て日々の暮しや初夏の日差しで日焼けした精かんな?顔つきを思えば「うん大丈夫」とも思うのです。

 人間は言葉一つでこうも心が動くものなのです。「少し痩せたね」といえば、それを喜ぶ人もいれば皮肉と取る人もいます。言葉は魔物です。

  「何処悪い? 痩せた体を 見て言われ はて大丈夫? 少し心配」

  「顔の色 いいじゃないかと 見て言われ 俺は元気だ 少し安心」

  「裏表 見方によって 違うもの いいよう思い いいよう生きる」

  「告別の 席でお互い 消息を 語り合うのも 変な話だ」


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shin-1さんの日記

○梅干しと梅酒づくり

 人間牧場の梅も今年は裏作で梅の実の収穫が昨年の半分以下なのです。それでも天の恵みとでもいうのでしょうか、11本の梅の木から今年はキャリー4箱、計80キロの梅の実が採れました。普通の家庭だと「えっそんなに多い梅をどうするの?」と鳴るのでしょうが、わが家では梅干し40キロ、梅酒30キロ、残り10キロをおすそ分けに回しました。普通だと梅の処理をかいがいしくやる妻が、このところ風邪気味で体調が優れないため、今年は初めて私が挑戦しました。妻が「お父さん、梅の処理は手間とお金がかかるのよ」と言う通り、塩と砂糖それに梅酒用の瓶とホワイトリカーなど必需品を買い求めることから始めました。昨日生協の理事会が終り、帰りにスーパーとホームセンターに立ち寄りましたが、お目当てのものが全て揃わず四苦八苦しました。昨日は梅を選別して水洗いし水気を取り梅干しの漬け込みです。私の作業を遠目で見ていた妻はぎこちない私の作業についつい手を出し共同作業となりました。倉庫から取り出して洗っておいた梅干用のプラスチック樽三つに分けて塩20%で漬け込みましたが、梅酒の作業が全て残って日没終了です。

 今朝は妻が仕事で留守なので、私一人が8リットル10本の梅酒専用ガラス瓶に洗って水切りした梅を3キロずつ軽量して入れて行きます。本来ならホワイトリカーと氷砂糖を使うのですが、私がアルコールを飲まないのと、人間牧場にやって来る子どもたちのためにアルコールゼロの梅ジュース主体で仕込んで行きました。それでも人間牧場へは大勢の呑み助がやって来るので、その仲間たちのリクエストに答えてホワイトリカー入りの梅酒も4本仕込みました。

 一人の作業は中々はかどらず作業が終わったのは12時近くになってしまいました。今日は午後1時から町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬儀があるため、急いで跡片付けをして帰ってきた妻と昼食を済ませ出かけて行きました。今日は梅雨の晴れ間ながら天気がよく外は汗ばむほどの陽気でした。

 昨年はこの瓶を人間牧場の押入れに保管しましたが、今年は鯉が死んで使わなくなった池を地下室に改造したため、そこへ入れる事にしました。この地下室だと温度も余り上がらず、しかも暗室のため梅酒の熟成には最適だと思ったのです。今朝その入口の蓋を開けて中に風を通していたため地下室はかび臭くもなく、10本の梅酒の瓶を丁寧に中へ入れ、瓶の上にナイロンの袋を被せて一通りの作業を終わりました。昨年の経験からいうと9月には新酒が試飲できるようですが、昨年仕込んだ2年物の梅酒もまだ残っているので、ゆっくり一年をかけて熟成したいと思っています。

 本当は仲間を集めて梅酒を造る作業もワイワイガヤガヤやりたいのですが、いかんせん私の予定が立ちにくく、明日は泊り込みで岡山県笠岡市へ出掛けなければなりません。多分来年は梅が表作なので、梅酒を造るプログラムを人間牧場のメニューに入れてみたいと思っています。

 急がず慌てず、それでも今年の仕事はきっちり片付けて、来年につなげる、これが人間牧場の仕事なのです。

  「梅干しと 梅酒を造る 中腰の 作業で腰が 少々変だ」

  「今晩は 梅酒で祝い せにゃならぬ 畑の恵み 神々感謝」

  「醸造の 瓶から取り出す 梅酒梅 煮詰めてジャムを 作ってみよう」

  「今年こそ 梅酒を瓶に 入れ替えて 手づくりラベル 張って中元」 


  

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shin-1さんの日記

○豊作かジャガイモとタマネギ

 わが家の菜園にも夏がやって来て、春先に植えた夏野菜の収穫が早くも始まり、毎朝起きると家の横にある菜園に行って野菜を朝採りするのが楽しみになってきました。といえばいかにも自分が小まめに育てたような顔をしていますが、野菜の世話はもっぱら90歳になる親父の世話に追う所が多く、私は朝採りならぬ横取りてな感じで、少々心がいたものです。でもそこは親子ですし、親父も毎日キューリやトマトを食べれる訳ではないので、時には近所の非農家へおすそ分けしているのです。

 それにしても親父は偉いもので、元漁師ながら野菜を作るのが上手く、几帳面な正確から畑はいつ見ても草の生えない、しかもまるで絵になる幾何学的な垣が畑のいたる所で見かけられるのです。わが家に来たお客さんは、私設公民館煙会所や海の資料館海舟館、それによく打ち合わせ場所に使う東屋を見学したついでに菜園を見て、時には野菜を土産に持ち帰るのですが、一応に美辞麗句を並べて菜園の立派さを褒めてくれるのです。

 一週間前からピーマンとキューリが出来始めました。多分夏の暑さでキューリのツルが駄目になる8月までの2ヶ月間、キューリは買わずに済むし、ピーマンにいたっては肥培管理さえすれば秋までその収穫を楽しむことが出来るのですから大助かりです。ただし消毒を極力避けているため、これから梅雨の時期に病気が発生するとアウトになるので要注意です。

(種芋10キロも植えたジャカイモ畑)

 梅雨に入って雨が長引くようになってきました。親父の心配はジャガイモとタマネギの収穫をいつにするかという算段です。ジャガイモもタマネギも4~5日の晴れの日を選ばなければなりません。というのも濡れたままで収穫するとその後の日持ちがしにくいのです。

 ジャガイモもタマネギも地上部の茎は食べずに捨ててしまいます。つまり土中のものを収穫するのです。タマネギは浅植えでどれくらい太っているか一目瞭然で分りますが豊作のようです。ジャガイモは上の茎がかなり青々茂り、その茎が黄色くなり始めたので掘る適期を迎えているようですが、土中の出来は肉眼では見れないため知る由もありません。でも数日前ためしに掘ってみましたがかなり豊作のようです。

(首をかしげ始めたタマネギ畑。今年は大豊作の予感です)

 それにしてもジャガイモに比べるとタマネギは何と長い間畑に居座ることでしょう。タマネギの苗を買って植えたのは確か11月の10日前後でした。あれから8ヶ月間も畑でじっと耐えているのですから、他の野菜に比べるとものの比ではありません。ジャガイモの植え付けは3月に入ってからですから僅か3ヶ月余りで収穫できるのです。だのにタマネギは最盛期の今頃は千円も出すと大きな袋いっぱいも買えるほど何故安いのか、農家の苦悩が見えてくるようです。

 親父は今年、近所の人に教えられてタマネギには何ら支障のない除草剤を植えて間もなくタマネギの畑に振り撒いたそうです。こんなものが効くのか半信半疑でしたが、なんとこれが効いたのでしょうか、毎年悩まされ続けていたタマネギ畑の草引きを一度もすることなく、今迄で一番の出来だと自慢するほど成長しているのです。

 梅雨の晴れ間を見ていよいよ収穫です。最近野菜の収穫が楽しみになった私も、老いた親父とともに働きます。一年分の食糧品ですから。

  「見た目には 豊作予感 タマネギが 早く抜いてと ささやくように」

  「タマネギと ジャガイモコラボ コロッケに 想像口に よだれ出てくる」

  「八ヶ月 居座り続ける タマネギも いよいよ抜かれ 軒に吊るされ」

  「俺などは 美味しとこだけ つまみ食い 作ったような 顔して配る」 


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shin-1さんの日記

○美味い物はあ・と・で・・・・・・ 

 今朝出かけはどしゃ降り、帰りは上天気と、激しい天気の変化の中で県庁所在地松山を往復しました。こうして殆ど毎日、自分の住んでいる町よりもはるかに多い時間、松山をフィールドに仕事や遊びで過ごしているのです。ふと親父の時代を考えました。私と36歳も年齢が違う親父の小さい頃は、松山へ行く道も上灘~郡中間は殆どなく、森の海岸を歩いたそうです。故に松山は途方もなく遠く、途方もなく都会で、途方もなく憧れの土地だったのです。それがどうでしょう。私などは今朝も自家用車で家から県庁までたった50分で行けるのですから、隔世の感です。しかもそこで会議や仕事をして午後3時にはわが家に着いて、何食わぬ顔で過ごせるのです。これは何も私と親父の時代変化だけではなく、自分自身にとっても東京という日本の中心地との間にも見られる変化です。私は昭和19年生まれですが、私が26歳で役場に就職したころは、東京へ出張なんて仕事は皆無に近かったのです。それがどうでしょう。今は私のようにリタイアした人間でも一ヶ月に一度くらい東京へ行き、東京で仕事や会議をするのです。しかも上手く行くと一便の飛行機で行き、最終便の飛行機で帰る日帰り旅だって出来るほど東京が時間的に近くなったのです。松山も東京も距離的には今も昔も変わりませんが、人間の英知が時間的な短縮をしたのです。私が仮に長生きして親父の年齢まで生きた36年後にわが息子がこれと同じような感想記事を書くかもしれませんが、時代の便利さにはただただ驚くばかりです。

 今日は月に一度の生協の理事会に出席しました。相変わらず若さ溢れる女性の理事さんの黄色い声を聞いて、元気をいただきましたが、議事の関係で少し遅れて昼食弁当を食べました。何時もながら美味しい弁当に舌鼓を打ちながら、ふと20数年前研修旅行に行った時のことを思い出しました。

 ある人が、「若松さん、弁当の食べ方で生まれた時代が分るよ」と耳打ちしてくれました。私は100人もの婦人会のおばちゃんと一日ハイキングをし、その引率をしたのです。弁当は婦人会が一括購入した幕の内弁当でどれも同じです。早速お昼になってみんな木陰で弁当を食べました。多分その頃はまだプラスチックの容器でなく折り詰めだったような気がします。みんな一斉に弁当を広げましたが、古い時代に生まれた人はみんな折のフタに付着したご飯粒から先に食べるのです。ところが若い人は折箱のフタには目もくれずさっさと食べ始めるのです。「勿体ない」「ご飯粒を粗末にしたら目が不自由になる」とは、亡き母の教えですが、それは日本人の教えでもあったのです。

 今日昼食弁当を食べながら隣の席に座った女性に「あなたは美味しいものから食べる?、それとも美味しいものは後から食べる?」と聞くと、「はい私は美味しいものから食べます」というのです。多分私たち年代の物のない時代を経験した人間は「美味しいものは後口」型が多いのではないでしょうか。今の若者は美味しいものから順番に食べます。そして入らなくなったら食べずに残しゴミとして捨てるのです。

 私は今日、美味しい弁当を紙類を除けば全て平らげ完食しました。私たちへの教えは「物を残すな勿体ない」だったのです。最近食の安全性が問題になり、ここまでやるかと思われるほど消費期限の切れたものはどんどん捨てられゴミになって行くのです。「勿体ない」と思うのは私たち年配の戯言でしょうが、アフリカや中東の飢餓で苦しむ人たちのことを思うと、消費国日本の傲慢さが窺い知れるのです。

 僅かに40パーセントの自給率でしかない日本の将来が心配です。今一度日本人一人一人が食について考え、改めるべきを改めないと大変な事にあるような気がするのです。「勿体ない」「物を残すな」と教えられた古き時代に育ったこと、それを教える親がいたことに感謝する今日この頃です。

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shin-1さんの日記

○変なお客さん

 役場に在職中同僚から、「若松さん、あなたを訪ねてくる人は変わった人が多いですね」とよくいわれました。それもそのはず、頭にバンダナを巻いたり、顔中髭面のまるで熊みたいな人だったりするのですから、見た目には「変わった人」と写るのは当然かも知れません。じゃあ一昨年から頻繁に私の所へやって来る兼頭さんはどうでしょう。まるでおぼっちゃんのような色白の男前で、ましては本人は絶対口にしないのですが、友人である山梨県清里の舩木さんからの紹介だと、「東京大学経済学部」を卒業し、難関の松下政経塾をこの春卒塾している超エリートなのに、身だしなみもきっちりして、見た目にはすごく好感の持てる人ながら、目指す方向や考えは相当変わり者とお見受けできるのです。このように、普通の人が普通な目で見ると前者は変わり者、後者は普通の人なのですから、人は見た目だけではないと思うのです。

 そんな中、考えも講堂も変わっていると思われる一人の公務員から電話がかかってきました。えひめ地域政策研究センター主任研究員を介した講演依頼です。その時はそんなに変わった人だとは伺っていませんでしたが、先日届いた講演依頼文章で変わった人だと思い、昨日同僚と人間牧場を訪ねてきた格好を見て「変わり者」の烙印を押さざるを得なくなりました。

(左は協働のまちづくり課主任主事の松浦宏幸さん、右が守屋基範さんです)

 手紙に添えて送られて来たその人の名刺には「NPO法人かさおか島づくり海社 営業部長 守屋基範」と書かれていました。(私)うーん面白い。

 手紙の文面冒頭に「私は市役所の職員で守屋基範と申します。役所に入ってもう25年近くになるでしょうか?。現在44歳です。主に地域振興の仕事をしています。考えるより動くことをモットーにしています」。(私)うーん普通じゃん。

 さらに続いた手紙に「平成13年から笠岡諸島の島おこし海援隊という本当に名前負けしそうな部署を作って、3人希望制で島へ飛び込みました。3年間ぐらいは無我夢中の毎日でしたが、現在8年目となり異動という字が目の前にちらつく中で島おこしに没頭しています」。(私)ええっ、嘘、試薬のノ職員なのか。それにしてもそんな課を作って手を挙げて島おこしをやるなんて、相当変わっているなあ

 まあこんな具合で彼との出会いはある日突然始まりました。しかし、その後に続いた手紙の文面を見て彼が本物でありやる気のある人間であることを確信しました。

 「平成14年に組織した島づくり海社を中心に島民と協働して事業をすすめ、平成18年9月にNPO法人を取得しています。現在、市から離島振興委託料ということでその島づくり海社を運営するための事務局長の給料分の委託料をもらって組織づくりを進めています。

 私は自称この島づくり海社の営業部長ということで企画、事業の実施、営業等を行っています。私は市から給料を貰って島づくり活動を主体的に行っています。島づくり海社は今よくいう「新たな公」ということで私の立場を理由付けながら、毎日現場で過疎高齢化の波を浴びながら、頑張っています。」-後略ー

 まあこんな訳で、人間牧場への顔見せと相なったのです。しかも私が講演に出かける今週の土曜日を3日後に控えた昨日です。私は忙しいと言ったのですが、「ちょっとでも時間を」ということでやって来ました。私はこの日梅雨の晴れ間を選んで人間牧場の梅採り作業中だったので、着替える暇もなく作業着、しかも夜来の雨で濡れネズミのような格好で出会いました。何のことはありません。相手は失礼ながらもっとひどい格好(まるで海水浴に行くような素足にサンダル履きでしたから)で安心しました。

 でも今の時代こんな公務員がいるなんて、にとても嬉しいことです。見栄や格好、それに対面を気にして上ばかりを見て仕事もしない公務員が多いのにです。私はむしろ守屋さんのファンになりたいような気持ちになりました。私だってかつては課長以外まったく部下のいない日本で一番小さな課の課長だったのですから、ちょぼちょぼです。そうだ今週の土曜日は思い切って彼のために働こうと思いました。

  「濡れネズミ サンダル素足の 客迎え お互い心 許して話す」

  「俺だって 課長一人の 課を作り 孤軍奮闘 そんな時代が」

  「本物に 出会ったような 直感が 背筋を走る 車見送る」

  「兼頭に 次ぐよな変わり 者出会い 日本も広い 面白人あり」

  


 

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shin-1さんの日記

○梅の収穫は痛い痛い

 昨年のスケジュール表を見てみると、5月27日と28日の両日、人間牧場の梅採りをしたことが記録されています。梅雨に入ると「ああもうそんな時期か」と思いつつ、忙しいスケジュールの合間と、雨の合間を見計って「梅の収穫日」を設定するのです。今年は芋つるの伸びが思わしくないほど少し季節が遅れ気味に推移しているようなので、一週間遅れの今日を吉日とばかりに梅採りの日に設定しました。

 昨日の雨も上がって天気はまずまずなのですが、無風状態の曇りのため雨の雫が梅の木にやたらとついていて、雨具でもつけなければ、まるで雨降りの中で作業するのと同じようにずぶ濡れになるのです。それでも今日を逃せば時機を逸してしまうので、思い切って決行しました。

 朝8時に家を出て人間牧場につくと直ぐに地下足袋を履き梅採り作業にかかりました。ところが作業を始めると、採り篭も採り袋も持ってくるのを忘れてしまい、さてどうするか思案しました。倉庫に入りそこには空いた肥料袋が置かれていて、それを裏返しにして折込み、穴を2ヶ所開けてビニールの紐を通して、にわか即席の採り袋が出来上がりました。この袋が実は軽くて意外と長持ちし重宝でした。

 今年は昨年200キロも収穫した豊作と違い、わが梅林は裏年です。11本ある梅の木の中には殆ど実をつけていない休眠状態の木もあって、果して自家用に使うほどあるかどうか心配しましたが、終わってみればキャリーに4個、つまり80キロ近くの収穫です。今年も例年通り綺麗な梅が採れました。

 しかしです。体力を使う梅の収穫は予想以上に難儀で、特に梅ノ木のいたるところに刺が出ていて、あちらチクリこちらチクリと体中に突き刺さるのです。我が家の梅林は残念ながら肥培管理が行き届かず、剪定作業もろくにしていないので、木に登るのも一苦労です。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるように、切らない梅はそのうち樹勢が衰えてくるだろうと予測をし、今年から収穫の難しい高い枝は切り詰めながら収穫しました。それでも今日は体中傷だらけで、梅採り作業を終えて家に帰り風呂に入って汗を流すと、あちこちがヒリヒリして痛いことこの上ないのです。妻に薬を塗ってもらいましたが、驚いた様子でした。

 さてこの梅の処理は明日しなければなりません。妻がこのところ風邪気味なので、「お父さん今年は梅の処理はお願いね」と軽く逃げられたため、私がしなければならなくなりそうです。梅酒の瓶も足らないようなので買い求めなければなりません。砂糖も塩も買わなければならないし、臨時的出費がかさみそうですが昨年同様梅酒ならぬ梅ジュースをしっかり漬け込んで、人間牧場用の飲み物を作っておきたいと思っています。

 農家の喜びが分るような気がするといえば少し大げさですが、梅の実を収穫し収穫の喜びが沸いてきました。丹精込めたほどの世話はしていませんが、夏の草刈りなど私にしてみれば十分な世話をしての収穫ですから喜びも一入です。明日は生協の理事会に出席したついでに瓶や砂糖、塩などを買い求め、夜なべにでも処理をする覚悟です。

  「風邪引いた ことを理由に 梅の処理 俺に任せて 妻は見物」

  「塩加減 砂糖加減が 決め手だと 妻の指導で 梅を処理す」

  「収穫は どこか嬉しい 農業を 実感しつつ 作業勢出す」

  「昨年の 四割程度 ありました これで十分 一年乗り切る」 


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