shin-1さんの日記

○親父を連れて病院へ

 今朝親父の隠居へ行くと、「昨日から歯の調子が悪く牛乳以外殆ど物を食べてない。すまんが病院へ連れて行ってくれ」と懇願するのです。たまたま今日は午前中日程が空いていたこともあって、それは大変と連れて行く事にしました。親父は若い頃鼻ガンになって、県立中央病院で手術をしています。医者の話ではかなり難しい病気で、手術は成功したが再発の危険性があると告げられていました。私はそのことが原因で大学への進学を諦めふるさとに帰ったのですから、親父の病気は私の宿命として受け入れていました。

 私も親父も家族もガン再発の不安に駆られながら、特に母親は心労が多かったようですが、その母が亡くなり皮肉にもガンになった父が残ろうとは、誰も想像していませんでした。故に母が亡くなったときの父の落胆は相当でしたが、親父は89歳の今日まで今も元気で過ごしているのです。そんなこともあって、歯が痛いと親父本人も、私も「もしや?」と思うのは当然かも知れません。

 松山の県立中央病院までは小一時間かかります。今日は月曜日なので患者さんも予想以上に多く、長い間病院にも行っていない親父は初診扱いで、かなり時間がかかるものと諦めて出かけました。案の定受付を済ませたのは8時半なのに、診察予約は10時10分だと告げられました。何をするでもなく親子が歯科診療の窓口付近の待合椅子で待ちました。前を通り過ぎる患者さん、掃除をする業者さん、背広を着て部屋の中へ入る薬屋さんなどその気になって見れば中々面白い人間模様ですが、歯の具合の悪い親父は診察までの時間が不安な様子で、トイレに立ったり時間を聞いたりしていました。

 やがて10時になったころ受付から「若松進様、大変お待たせいたしました。中へお入り下さい」と呼び出され、私はまるで親が子どもを病院へ連れて行くように、一緒に診察室へ入りました。先生から「どうされましたか」と尋ねられるたびに私が代役として「実は歯の具合が悪くこのところ食べ物を噛めない状態で困っています」と代弁すると、「はい分りました。処置椅子にお座り下さい」と告げ、入れ歯を外し中の具合を診察しました。少し傷があるらしく、慣れた手つきで入れ歯の不具合を修正し始めました。キーンと鳴る歯医者独特の音に苛立ちを感じながら、処置椅子の隣で私はじっと処置の様子を見なければならないのですが、うつろな表情で窓を眺めていました。やがて処置が終り傷薬をいただき、次回は7月15日8時30分に来るよう予約を取って処置室を出ました。10時30分になっていました。お金は要らないのですが会計で次回の予約日の確認をするため少し待って病院を出ました。私も親父も再発でなくホッとしながら車に乗り込んでわが家へ11時20分頃帰ったのです。

 病院とは何と時間がかかるものなのか、高齢な親父は歯の痛みより長い道中に疲れたようでぐったりしていました。薬の塗り方、今度病院へ行く日を大きな声で知らせ、昼飯です。

 夕方親父の部屋に出かけて歯の具合はその後どうか聞きましたが、今朝までの地獄のような苦しみから解放されて天国だと喜んでいました。歯の痛みが取れたこともさることながら、息子に病院へ連れて行ってもらったことがうれしかったようで、いささかなりの親孝行ができたようです。

 親父の姿を見ながら、30年後の自分を想像してしまいました。親父のように長生きできる保証は何処にもありませんが、30年後には必ず私も親父のような姿になるのです。そして息子に世話をかけることでしょうが、極力元気で生きたいと思いました。

  「次々と 後の患者が 中に入る 予約人だが 待つ身はつらい」

  「来週の 予約を取って 病院を 出でて思わず 吐息が混じる」

  「どうしたの 見知りの人に 会う度に 親父が実は 何度も話す」

  「病院に 来て見て思う 不健康 メタボの医者が 意外と多い」

   

 

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shin-1さんの日記

○わが家はまるで蜂の巣をつついたよう

 一ヶ月に一度くらい、わが家へは長女の家族と長男の家族が泊まりにやって来ます。娘や息子はどういうことはないのですが、娘や息子に連れられて3人の孫がやって来ると、わが家はまるで蜂の巣をつついたような賑やかさです。孫朋樹君は5歳ですから随分成長して聞き分けがよく私の相棒と呼ばれるようになっていますが、孫尚樹君は1歳2ヶ月、希心君は10ヶ月なので、まだまだ大人や子どもどおしのコミュニケーションが通じず、泣きたい時に泣き、寝たいときに寝て、食べたい時に食べるといった気ままな年齢なのです。最近はおもちゃで遊び、人に抱かれることの快感も覚えてきましたが、故におもちゃも人間も独り占めしたいようで、少しでも自分が相手より大事に扱われないと、本気で泣いたりするのです。

 娘の家族は娘婿が出張したらしく金曜日に泊まりに来て2泊3日です。息子の家族は土曜日にやって来て1泊2日なのですが、土曜日の夕方から娘が同窓会があるらしく、孫二人を置いて出かけて行きました。私は仕事で留守にしている妻に代わって、北海道から来た視察団の一行が帰ると直ぐに家に帰り、孫の守りです。最初は孫も可愛いなあと思うものの、夕方になると少しぐずって中々言うことを聞いてくれません。そのうち妻が帰り食事の準備をして夕食を食べさせ、夕方やって来た息子の家族と合流したものですからさあ大変です。片方を抱くと今度は自分を抱いて欲しいと泣くし、子トラが泣きたいくらいでした。

 それにしてもこの二家族が来ると、二階と一階はまるでタコ部屋のように布団で埋め尽くされます。妻は食事の後片付けもそこそこに順番に風呂に入れ、寝かせるのですが、日常と勝手が違うためか、孫たちは興奮して中々寝付かないのです。妻は仕方がないので抱いて夕涼みがてら外に出てあやすのですが、ウトウトするものの寝かせると又起きて泣くのです。

 娘の帰りがいつになく遅く、結局は10時近くになって帰りました。私は「子どもをほったらかしてどういうことだ」と少し不満をいって娘を叱りましたが、長男がたしなめて納まりました。

 それにしてもです。妻は偉いと思いました。私など孫の面倒を見たと威張ってもほんの少しの時間です。妻たるや、全員の食事の世話、孫の食事、布団の用意、風呂に入れるなどなど、数えればきりがないくらいの働きです。しかも今は職場の都合で日曜日だけの休日で、そのたまの日曜日も娘・息子の二家族は夕食まで食べて帰るのですから大変なものです。それでも孫や子供が来ることを喜び、自分のことなど二の次です。

 私もそんな妻を偉いとは思うのですが、昔人間であり、駄目亭主のレッテルを貼られている私は、感謝の言葉のひとつもいえず、相変わらず亭主関白の言動なのです。昨日は私も今治市富田自治会に招かれ講演に行き、夕方帰ったため二人とも疲れていたのか、テレビを見ながらついウトウトしてしまい、気がついたら12時を回っていて、テレビをつけ電気をつけたままで、妻も私も慌てて終身と相成りました。忙中閑なし、それでも子どもや孫と泣いたり笑ったりの声を聞く度に、ささやかな幸せを感じています。

  「孫たちの 泣いたり笑う 声聞けば まるで蜂の巣 高周波音」

  「月一度 これも務めか ご苦労さん 妻はせっせと 子孫のために」

  「しみじみと 歳を取ったね 言う妻の 疲労ありあり 日曜の夜」

  「気がつけば テレビ電気を 点けたまま ついウトウトと 時計は回る」 



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shin-1さんの日記

○「知りませんでした」の次は「誠に申し訳ありません」で幕切れ

 世の中は連鎖反応社会と呼ぶべきでしょうか、耐震構造偽装事件が起きると新聞やテレビが連日そのことを、これでもかといわんばかりに取り上げるて報道するため、新たな偽装に発展し、聞く側にしてみればヘキヘキうんざりするような感じがしました。しかし次の新たな問題や事件が起きると、あの事件は一体何だったのかと思われるほどに忘れ去られ、日本人がマスコミの報道という手法によって、否応なしに世論を形成されるような錯覚すらするのです。

 最近はミーとホープから始まって赤福や中国産餃子へと移行し、高級料理店吉兆が廃業に追いやられるなど、食の安全性が大きな社会問題となっているようです。ミートホープも赤福や吉兆も全て長年の気の緩みが産んだ産物でしょうが、中国産餃子は未だ原因が突き止められておらず、日中関係に暗い影を落としているようです。オリンピックという迫り来る国家的イベントを目前に控えている中国としてはこれ以上、問題をこじらせるわけにいかない国家的事情もあって、うやむやになっていますが、食の安全性がテーマの生協が絡んでいるだけに消費者の関心も高く、生協も独自の安全検査をしっかりと行って安全性を主張しているのですから、一日も早い解決が望まれるところです。

 ギョーザ問題は別として、これらの根底には企業が儲けばかりを追求してきたことがあると思います。勿論企業は利益を上げないと存続できない訳ですから、そのためには違法でさえなければどんな手段も許されるというのは、もう通用しない考え方ではないかと思うのです。

 また一方最近は、お客はお金を払うのだから何を要求してもいいのだという消費者万能主義が強過ぎます。日本人の人を思いやる優しい気持ちはすっかり陰を潜め、品位を下げているのも気になるところです。確かに生産者や販売者は消費者の方を向いて仕事をしなければなりませんが、同時に消費者にも、消費者や生産者にもサービスをしてくれたことへの敬意や感謝の気持ちは必要と思います。

 こうした消費者と生産者やサービス提供者が対立という構図になった原因は大量生産、大量消費という生活スタイルが上げられます。作る側も一つ一つ丁寧に心を込めて作らず、より早く、より沢山と薄利多売するから少々不良品が混じっていてもお構いなしで出荷販売するのです。消費者もこんなに安いのだから仕方がないと思い、一つ一つ物を愛しみながら使うことがなくなり、痛めば平気でゴミとして出し新しい物を買い換えるのです。これでは作り手への感謝も忘れがちになるのは当然のことなのです。

 事件が発覚すれば、マスコミの追及を逃れるように「知らない」「私は無関係」「社員のやったこと」と責任逃れを繰り返し、警察の追求が始まり逃れられないと思うや一転して、記者会見の席で深々と薄くなった頭を深々と下げ、時には涙まで浮かべて共感を誘い「全て私の責任です」と謝る姿は、全て共通するストーリーなのです。

 やがてこれらのシナリオも、忘れ易い日本人の記憶から消え、僅かに今回のウナギや飛騨牛のような次の事件が発覚すると、気がついたように少し触れられ忘れ去られてゆくのです。

 経営者にとって責任とは一体何なのか、それは社会的責任と同時に社員や社員の家族を養うという人間的責任も負っているのです。これらの殆どの事件がこれまではなかった内部告発ということで事件が発覚しているところに、経営者と社員の人間関係の微妙なねじれを垣間見るのです。

 武士の本分は腹を切って「責任を取る」だと教えられましたが、最近の社長には武士のような責任を取れるような人が少なくなっているようにも思えるのです。まさに「品格」がなくなったようです。

  「知らないと いってた人が すみません 二重人格 見え見えですね」

  「詫びながら 陰で舌出す したたかさ 演技一流 人間二流」

  「品格が 問われる日本 本屋には 品格つけて 売れる下品さ」

  「責任は 全て俺だと 何故いえぬ いえばさすがと 座布団二枚」

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shin-1さんの日記

○北海道は遠い国から

 日本の国にあって、北海道といえば遠い県、しかしその遠さが故に一度は行って見たいと思う人は多いのではないでしょうか。私もそんな思いもあって過去に何度か北海度を目指しました。最初に北海道へ行ったのは私が23歳の時でしたから実に40年も前の出来事です。当時私は青年団活動に身を投じ活発な活動を展開していました。その際たるものは第14回NHK青年の主張の県代表になったり、双海町の青年団長として理想を掲げて縦横無尽に走り回ったりするほどでした。そんな私を見て町の教育委員会は、愛媛県が実施している国内研修北海道班のメンバーに推薦してくれたのです。幸いにも選ばれる幸運に恵まれ約10日間の長い旅路の人となりました。当時は今と違って陸路が一般的でしたから、私たち一行は大阪から日本海沿いを夜行寝台特急「北斗号」で北海道を目指したのですが、今ならカシオペア号などに匹敵するもので、何とも贅沢な旅なのです。青函連絡船を乗り継ぎ始めて北海道に足を踏み入れた時の感動は今でも忘れられない思い出のひとつです。

 その後札幌オリンピックに愛媛県の青年代表として派遣され皇太子ご夫妻と食事を共にしたり、様々な旅行プランに乗って何度となく北海道へ行きました。最近では北海道の各地から講演の依頼もあって、昨年だけでも2度も講演旅行に出かけているのです。

 しかし昨日は、北海道の人28名がよりにもよって双海町を目的地に選んで視察に来たのです。3年前に道漁婦連、つまり北海道漁業協同組合連合会女性部の皆さんが双海町を視察されました。そのご縁で今回の交流となったのです。その時は私は教育長でしたが愛媛県漁婦連の会長をしていた双海町の富岡部長さんの依頼で視察者にショート講演を行いました。その印象が忘れられずもう一度是非と、リタイアしているのにお声がかかったのです。

 今回の視察者は北海道といってもこれまた北の果て知床半島の付け根羅臼からの来訪なのです。女性部長の田中郁子さんは前回の来町の時にお会いしていたので嬉しい再会です。研修は和気藹々、じゃこ天やたこ焼きを食べたりお喋りしたりしながら旅の疲れを癒しました。




 研修や昼食を終えた一行はシーサイド公園で記念写真を撮ってから、わが家を訪問されました。皆さんからは人間牧場の視察要望が出されていましたが、大型バスなので断念し私設公民館煙会所と海の資料館海舟館の見学となったのです。私費で整備した施設だけに皆さんは一応に驚きの連続でした。せっかく四国に来たのだからと、菜園横の果樹園に案内し甘夏柑の収穫をさせてあげました。まあ喜んだこと、見ていた私もこれほど喜んでいただくとは予想外でした。私たちが北の国でりんごの収穫をして驚くのと同じだったようです。

 この日私は実行委員長をしている少年少女おもしろ教室への参加を予定していましたが、富岡さんのたっての願いによって、北海道のお客様を迎え、皆さんにショート講演をする事になりました。富岡さんの話と私の話で1時間ほどでしたが、皆さんは一応に満足して帰って行きました。梅雨の明けた四国の暑さに汗を拭きながら、汗だくの研修はよき思い出になったことでしょう。帰り際、「羅臼で是非講演を」とのお誘いがあって、実現すれば羅臼も訪ねてみたいと雲を掴むような淡い期待を抱きました。

  「北来たよ 羅臼昆布を 手土産に 漁村の女性 こんな田舎に」

  「梅雨明けの 暑さ汗拭き 北の人 物好きですね こんな田舎に」

  「是非来てと 羅臼の女性 ラブコール 俺も男だ その気になって」

  「甘夏を キャーキャーいいつ 摘み取って 手土産帰る 色白女性」

 

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shin-1さんの日記

○水の教え

 先日私が非常勤講師をしている愛媛大学法文学部の学生を引率してフィールドワークの授業で、松山市の沖合いに浮かぶ旧中島町大浦へ出かけました。中島町にはモーターボート競艇の収益金を管理するBG財団の援助を受けてプールを造っています。この手の類の施設は全国至る所にあって、モータボートと縁もゆかりもないと思われる山奥にまで事業が入っていますが、この総元締めが今は亡き笹川良一氏なのです。彼は自分の考えを普及するためというよりは、一人の人間の生き方のよりどころとして、BG財団支援施設には必ずといっていいほど、自分の名前を刻んだ記念碑を建てています。中島のプールの入口にもその記念碑はありました。もし記念碑文の末尾に笹川良一という名前がなければ、この教えはもっと普及していたかもしれませんが、私はこの水六則という言葉が大好きで、今までも度々引用して話してきた経緯があるので、学生たちにもこの文章を読んで聞かせ、説明してやりました。

     水六則

 1、あらゆる生物に生命力を与えるのは水なり

   動物も植物も生物は水なしで生きていくことはできません。地球は水の星といわれるように水の存在が生物

   を育てているのです。にもかかわらず人間は水を汚し水の価値を忘れているのです。特に日本は水の国と    

   いわれるように、蛇口から飲める美味しい水に恵まれています。生命の源として今一度水の恩恵を見直し感

   謝したいものです。    

 2、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり

   水は人為的なことをしない限り必ず高い所から低い所へと流れます。天から降った一滴の雨水は海を目指

   して果てしなく長い長い旅を続けるのです。僅か1ミリの落差をものともせず低きに向って流れる姿はまさに

   初志貫徹といったとこりでしょう。

 3、如何なる障害も克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性を兼ね備えるは水なり

   水の行く手には沢山の生涯が待ち受けています。ダムで堰き止められたり落差の大きい滝に出会っても、

   むしろ障害に会うほどひるむことなく激流となって流れ落ちるのです。何という強い信念でしょう。失敗や反    

   に会うと直ぐに挫折してしまう人間の脆さを思うとき水から学ぶことは大きいのです。

   水はどんな容器にも直ぐに順応します。丸い器、四角い器、長い器、短い器、それぞれの形に順応するの

   です。

 4、自ら清く他の汚れを洗い、清濁併せ容るの量あるは水なり

   水は絶えず清く汚れたものを洗い落とします。また清と濁ともに同居する度量を持っています。しかも自然

   治癒力を持っていて、濁った水もいつの間にか澄んだ水になるから不思議です。

 5、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い、何ら報いを求めざるは水なり

   水はその量を貯えれば発電のタービンを回して電気を起します。これはクリーンエネルギーとして人々の生  

   産と生活に大きな役割を果たしています。しかしそれとて代償を求めず下流へ流れ再び自然の循環によっ

   て動力となり光となるのです。

6、大洋を充たし、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪に変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり

   水には海水と真水がありますが、地球の殆どが海であるように大洋を満たしています。その海の水が自然

   循環によって水⇒蒸気⇒雲⇒雨⇒雪⇒霰となっても、全て水の性格を変えることはないのです。

  水を心とすることが平和と健康と長寿の妙薬である

   水のような生き方をすれば人間が最も大切な平和や健康、それに長寿を得るのです。水そのものは命の源

   ですが、水のような生き方をすればそれらを手に入れることができるのです。   

 これからも水に学びながら水の恩恵を受け、生きてゆきたいものです。

  「ありふれた 故に人間 水などと 馬鹿にするけど これこそ大事」

  「わが住める 日本はやはり 水の国 至る所に 水の風景」

  「水かけず 水掛け論で 始まった わが町の花 水のお陰で」

  「水利権 理由に水を 独り占め 今に天罰 水は共有」

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shin-1さんの日記

○忍者の里伊賀上野へ

 私は様々な土地を旅しますが、その都度地元の人たちに行く場所についてアンケートのような形で話を聞いて出かけます。私「伊賀上野って知ってる」。知人「伊賀といえば忍者だろう」。私「よくご存知ですが、伊賀は何県かご存知?」。「知人「滋賀県じゃないの?」。私「何で?」。知人「だって、滋賀と伊賀、甲賀はよく似ているもの」。私「ところで、あなたは何で伊賀を知ってるの」。知人「昔映画で忍者の時代劇を見たことがあるし、小説も読んだ」。まあこの程度の人はわが町にも沢山いて、伊賀市=忍者という知名度は全国級のようです。でも伊賀というと忍者の里くらいしか思いつかないし、普通の人は日本地図のどこらにあるのかさえ余り知られていないのが実態のようです。

 私は何年か前、広域市町村圏の仕事出張で全国大会に参加した折、伊賀上野に泊まったことがあるので、伊賀上野がどの辺にあるのか、また伊賀市が三重県であることは承知していますが、いざ自分ひとりで旅に出るとなると、インターネットを水先案内人にしないとおぼつかないのです。

 私のような四国人が伊賀へ行くのにはまず大阪を目指します。大阪までは新幹線か飛行機、若しくはマイカーかバスという交通手段を考えますが、便利さと速さを考えれば松山~伊丹の空の便でしょう。新幹線で名古屋経由も一考ですが、私は朝10時からの拘束なので、深夜に大阪に入って前泊し大阪からJRを選びました。中継点は京都府加茂です。加茂からは電化されていないため亀山行きのジーゼルカーに乗って山間の路線を走り4駅目の伊賀上野へ到着しました。乗り継ぎ待ち時間を合わせても2時間弱でしたが、長閑な列車の旅を満喫しました。

(伊賀市役所玄関)

 駅に降りると俳聖松尾芭蕉の出生地を示す看板と、伊賀上野城の遠望が目に飛び込んできます。目的地である市役所まで路線バスで2キロ余り、公園前で下りると藤堂高虎入府400年の幟が至る所に立って歴史の重さを感じさせてくれました。藤堂高虎といえば入府前は愛媛県の今治城を築城しており、その前はわが大洲藩にもゆかりのある武将なので、なにか縁の深さを感じました。

 今回は独立行政法人中小企業基盤整備機構が伊賀市と共催する「中心市街地活性化診断・サポート事業」のアドバイザーとしての役割なので、午前中2時間にわたって現地視察とアドバイス、昼食を挟んで午後は2時間、「中心市街地活性化のための人材育成・イベントづくり」についての講演会、夕方は2時間、現地調査発表と「意見交換会」、そして地元の方々との交流会2時間と、まあ凄い過密スケジュールが組まれていました。ここまで徹底すると話し甲斐があるというものですが、人使いも荒いようです(笑い)

 今回は機構中部支部の森田課長さんやお世話いただく仲野さん、浅井さんも同席して賑やかな顔ぶれでした。私たちは市役所商工観光課伊室さん、長岡さん、株式会社まちづくり伊賀上野の秋葉さんとともに市内中心市街地をさっと見学しましたが、戦災を免れた古い町家は趣きがあっていい街の佇まいでしたが、ここにも中心市街地に忍び寄る暗い影を垣間見ました。

(趣のある間口が狭く奥行きの深い独特の区割りの残る町家)
(古い家の外観を残しながらリフォームが進んでいました)
(リフォームすると和と洋が見事にマッチします)
(町家の格子窓越しに見える印象的に見える上野城)

 
(今回の中心市街地活性化計画の主要事業となる老朽ビルの建て替え現場)

 さて私の話は会場となったウェルサンピア伊賀の3階で、人材育成とイベントづくりに主眼を置いて約2時間、休憩もせず一気に話しました。私の来訪を知って事前に私のブログを一読しmコメントを書き込んでくれた人もいて意識は高いと感じられました。

 講演後の意見交換会では、商工観光課の伊室副参事さんの進行で、私の気がついたことを一問一答お話をさせてもらいました。伊賀市には古い町並みが幾つも残っていて、上野城周辺を含めると歴史的景観に優れています。これらは歴史ゆえに変えてはならないゾーンとしてこのまま振興策を考えればいいと思いますが、市民夏のにぎわいフェスタの会場となる銀座通りは区画整理も終わっていて歩行者天国にもなるような通りですが、ここを新しい集客拠点と位置づけることを考えてみるのも一考です。

 銀座通りを若者たちに魅力あるものにすれば面白いと思いました。手始めは忍者ハットリ君のキャラクターを存分に使ったマンガチックな発想です。鳥取県境港のゲゲゲの鬼太郎や、鳥取県北栄町のコナンのまちづくりなどはそのよい事例で、既に銀座通りには忍者ハットリ君のキャラクターがけつまずくような形で無造作に車止めとして置かれていました。これを人間の目の高さまで上げて強調するのです。そして銀座通りの要所にブロンズ像として配置すればたちまち全国の話題をさらうでしょう。

 伊賀は大阪からも名古屋からも近い場所にあります。近畿圏と東海圏が交錯する場所です。これまではその曖昧さが中途半端な、どっちつかずになっていましたが、考えようによっては凄く好条件で羨ましい限りです。

 私たちの街伊予市でもまちづくり会社郡中が、中心市街地活性化を推進していて、かなり似通った町家などの地位資源を生かしてまちづくりを進めていますが、やはりかなりの苦戦を強いられているようです。さて株式会社まちづくり伊賀上野の存在もこれからキーポイントとなるのでしょうが、団体代表のお任せ集団ではいい成果は上がらないばかりか、原資を食いつぶす結果になりはしないかと心配です。はやくワーキンググループを立ち上げて、資金の入力と出力のバランスを考えないと大変な結果になるような気がしてなりません。

 いつの時代もまちづくりは人です。そのことを忘れないようお励み下さい。もし戦争があらば喜んで助太刀をする覚悟です。

  「行く前に 伊賀は何処かと 尋ねれば 忍者の里と 誰も答える」

  「伊賀と伊予 何処か似ている 高虎が 入府の時に 伊予の文化を」

  「古いもの だけで地域は 生きられぬ いかに智恵だし 新しものを」

  「ふと見れば 足元忍者 ハットリ君 これを生かせば 若者来るよ」


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shin-1さんの日記

○視察が沢山やって来る

 一昨日は久しぶりに視察の一団が午前、午後、夕方と3団体、まるで波のように押し寄せてきました。この日は平日だったのでどうこういうことはなかったのですが、行政視察の場合は市役所を通して申し込むと、「土曜日や日曜日の視察は基本的に受け入れできない」と断るらしく、その都度「役所に断られたのですが」と前置きして、「そこを何とか」と私の所へ研修受け入れの依頼があるのです。私は現役の時代からかねがね視察研修は、たとえそれが土日であってもまちづくりの一環として余程のことがない限り受け入れてきました。今もその方針に変わりはなく、むしろ土日の方がありのままの姿を見てもらえると思い積極的に受け入れているのです。確かに職員は土日ぐらいは休みたいと思うのは当然のことです。しかし視察研修をただ単なる手間を取られるという発想だけだったらそういう考えも成り立ちますが、視察は受け入れる側にとっても大きなメリットががあるのです。第一居ながらにして交流ができるし、相手から様々なことを学び取ることができるのです。私もこれまでどれほど視察を受け入れたかは計り知れませんが、その都度大きな知恵を授かりました。その人たちはまるで動く広告塔のように学んだ双海町のことを様々な機械と場所を捉えて話してくれるのですから、これほどの効果はないのです。

(山形県村山地方町村議長会のご一行)
(福井県高浜町議会総務産業常任委員会のご一行)

 一昨日の午前中はは山形県の村山地方町村議長会のご一行15名でした。この視察は伊予市議会を通じてのご依頼でしたが、午後の福井県高浜町議会総務産業常任委員会11名のご一行も、夕方4時からの埼玉県熊谷市議会議員7名のご一行も私への直接依頼だったのです。高浜町の議員さんは福井県町村議会議員の研修会に私が招かれてお話いたことがご縁でした。また埼玉県熊谷市議会議員さんは東京で開かれた全国町村監査委員研修会での私の話や、伊予市選出の泉圭一議員さんのご縁によるものです。

 役場をリタイアして行政とは縁もゆかりもない私が視察研修を受け入れなければならない理由は何処にもありません。しかし視察が地域の活性化に大きな貢献をしていることを行政の人はもっと知るべきだと思うのです。今をときめく徳島県上勝町などは月ヶ谷温泉に泊まらせて有料で視察を受け入れるような積極的な活動まで展開しているのです。

 私の所に一昨日午前と午後にやって来た議員さんは26名が全員昼食を取ってくれましたし、中には特産品センターで沢山の土産を買っていただき、シーサイドから宅配便でふるさとまで送りつけていました。またじゃこ天なども賞味していただきました。これだけでも凄い経済効果なのです。

 一方では地域の活性化や経済効果をいいながら土日はせっかくの休みだから受け入れないというのは、考えと行動のアンバランスの何ものでもないのです。もうここらでそういった事に気付かないと地域格差はどんどん広がっていくことでしょう。

 私は今回も多くのご縁をいただきました。この日は3団体三様の研修目的だったためそれぞれの目的に沿って全く別々のメニューで研修プログラムを組んでみましたが、それぞれ思うところあっていい交流となりました。

 それにしても一日3団体の受け入れは少々きついような感じもしました。というのも私はその夜内子町で金融広報委員会のご依頼による講演会をこなした後、三重県伊賀市へ行くため大阪へ向ったのですから、いやあ元気としかいいようがなく、自分の元気さに思わず脱帽してしまいました。

 明日は土曜日、今度は漁協女性部が北海道から視察研修にやって来ます。来週の土日は埼玉県北本からまちづくりについて人間牧場へ泊り込みの視察研修がやって来ます。これは全て行政の土日休みという網の目からぼった視察者です。でも私はボランティアとしてこの人たちと一緒になってすこしでもこの町がよくなるようにしっかり対応したいものと思っています。

 間もなく梅雨も上り暑い夏はもうそこまできています。今年も張り切っていきましょう。

  「土日駄目 断られたと 泣きつかれ それじゃいいよと 視察受け入れ」

  「それぞれに 教わることの 多かりし 視察来る人 何か気付かせ」

  「失敗や 反対経験 聞きに来る 今日の視察者 本物ですね」

  「視察縁 講演縁の 出会いにて そこから先に これまた縁が」

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shin-1さんの日記

○ハラハラ・ドキドキ・ジーンのハプニング

 この二日間大阪を経由して三重県伊賀上野へ行ってきました。伊賀市については別にルポする事にしていますが、帰り道とんでもないハプニングに出会いました。私は全ての研修を終えて会場となったウエルサンピア上野を皆さんの見送りを受けて格好よく出発しました。往路は大阪から伊賀上野までJRを使いましたが、帰りの復路は伊賀市商工観光課の永岡紀子さんが立案してくれた行程表に沿って近鉄を選んだのです。ウエルサンピア上野の職員さんに伊賀神戸まで送っていただきましたが、永岡さんの時刻表だとまだ時間があるだろうと思いきや、伊賀神戸の駅構内に入ると何やら騒々しいのです。聞けば列車と架線の故障で上りの電車は動いていないそうで、とりあえず「名張まで乗ってください」というのです。訳も分らず出発しそうな列車に切符も買わず乗せられました。しかし名張の駅間近になると信号の指示によって停車が長く続き、20分以上も電車の中に閉じ込められました。やっと着いたと思った名張の駅は上りの列車を待つ人で溢れごった返していました。駅員さんも汗だくで対応に追われ、乗客も帰りを急ぐ苛立ちを隠しきれず、険悪なやり取りも随分ありました。

 私はその後の予定、つまり今日の午前中どうしても片付けなければならない要件があるので、新幹線で新大阪から広島か岡山へ帰っておかなければならなかったのです。そこで泊まれば朝早く経てば10時までにふるさとへ帰れる算段でした。主催者にそのことを告げると心配するので内緒にしておいたのですが、私の苛立ちもそこから次第に高ぶってしまいました。

 担当者の伊室さんに電話をかけました。皆さんは研修会後の懇親会で酒を飲んでいて身動きが取れないようでした。伊室さんはタクシーで伊賀上野まで引き返しJRで乗るよう勧められましたが、名張の駅前はかなり混雑していてタクシーなどないのです。結局はお酒を飲んでいる企画振興部次長西岡さんが奥さんの運転で名張を目指しているとのことでした。都合よく名張駅の東口で落ち合い、それから約1時間西岡次長さんの知りえたもっとも最短距離と思われる山道・裏道を走り、見覚えのある奈良公園を通って奈良駅へ午後10時に着きました。この道をお二人でまた伊賀まで引き返さなければならないのかと思うと心が痛みましたが、お言葉に甘えてしまいました。時刻表を見れば電車の行き先に大阪はなく難波まで、しかも駅員さんに聞けば新大阪まで午後11時30分到着絶無理との答えでした。

 とっさに思いついたのが駅前に止まっている一台のタクシーでした。戸を開けて聞いたところ高速を使えば何とか間に合いそうだというので藁をもすがる思いで飛び乗りました。かくして私は無事新幹線の人となったのです。

その後は広島に泊まり早立ちで一番の高速船を乗り継ぎ、綱渡りの帰郷劇は終わったのです。

 永岡さんの近鉄利用の計画から、伊室さんの電話指示、西岡次長さんご夫妻の心温まる見送り、タクシー運転手さんの機敏、そして私の判断と、幾つものマイナスを乗り越えた旅先での今回の帰郷劇は、まさにハラハラ・ドキドキ・ジーンの連続でした。できうることなら余裕を持って旅のプランを立てたいと思っていますが、今回は自己責任ではないにしても多くの人に大変な迷惑をかけてしまいました。ブログ画面を通じてお詫びし、お礼とさせてもらいます。

  「動かない そこから始まる 深夜劇 多くの人の 支えでやっと」

  「旅先で 土地勘もなく 途方暮れ 温情すがり ハッピーエンド」

  「今頃は 夫婦二人で 来た道を 車窓に顔が ちらりほらりと」

  「この長い 夜の出来事 忘れない 世の中人は 信ずるものぞ」

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shin-1さんの日記

○今日は大忙しの一日になりそうです

 ご前中山梨県、午後福井県、夕方埼玉県から3団体視察が入っています。夕方から内子で講演です。それが終わると三重県伊賀上野へ向かいます。明日は伊賀上野で仕事です。

 人間牧場主若松進一、今日も明日も明後日も元気でパワー全開です。

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shin-1さんの日記

○デジタル文字の世界

 パソコンでインターネット検索すると、様々な情報をいながらにして手にすることができます。パソコン音痴の私は、誰に習うでもなく必要に駆られてパソコンを触り始めましたが、それが必要最小限の習熟度であることは自他共に認めるところで、時折友人や息子に手助けいただきながら今日まで生き延びてきました。私くらいの年代の人はおおまか2種類の分かれます。パソコンとは無縁な人とパソコンを手足のように使える人です。私はそのどちらでもなくむしろ中間点くらいなところにいるようです。時々パソコンの達人である同年代の人に出会うと尊敬するし、パソコンやブログを知らないこれまた同年代の人に出会うとまったく話がかみ合わず、少しうんざり、少し優越感を持ったりするのです。

 最近はデジタル文字との付き合いが多くなって、私のブログへも書き込みが多く、その処理に要する時間も結構長くなりましたが、それでも自分を見失わない程度にパソコンに向かい合い生きていますが、新聞や雑誌に載った私の記事もデジタル化されインターネットで公開されているようです。

 私は今、【自悠くらぶ】という愛媛新聞のサイトに「人間牧場だより」というタイトルで週に一度記事を書いています。昨年の10月9日から頼まれて始めました。私の紹介した他の人は2週間に一度ですが私は最初から一週間に一度更新しています。情報は新しいに越したことはありません。でも毎日書くとなるとそれは見る方も書く方も重荷になってしまいます。でも今のスピードの速い時代に2週間に一度は遅いと思ったからの決断でした。案の定一週間毎の更新はその予定が直ぐに来て右往左往しましたが、これも慣れてくると何のことはなく、多少遅れたトラブルもありましたが、何とか目標の一年が来ようとしているのです。配信された記事はプリントアウトして一冊の綴りにしていますが、毎回千字程度の短いコラムながら結構な量になって、今更ながら積み重ねの大事さを痛感しています。

 先日東京からルポライターがやって来て、私を取材して帰りました。私の夕日によるまちづくりと人間牧場が主な内容ですが、その記事が2週に渡って掲載されるのです。第一回は7月1日、第二回は一週間遅れの7月8日だとメールで連絡がありました。「STEGE」というコミュニティサイトを検索すると、「50歳未満お断り・STAGE」「紳士と淑女の知的コミュニティ」などと書かれた文字が飛び込んできました。タイトルも「『しずむ夕日』を主役に、まちづくり。まちを活性化させたカリスマの次なる目標とは?(第1回)、人間牧場主若松進一さん」などと踊る言葉が登場していました。

 縁とは不思議なもので、このルポライターは南予出身でたまたま帰省した折、役所に勤める地元の人から私の紹介があったそうです。行き着くところこの方のお母さんを私が知っていて、取材と相成ったのです。数回のやり取りで取材、原稿校正、配信と手順を踏んだ記事が7月1日に配信されるや、その日の内にメールが入り、あらためてデジタル世界を垣間見た次第です。

 昨晩双海町出身の人からメールが入りました。このコミュニティサイトを愛読しているそうですが、私の記事を見て驚いたそうです。大阪に住んでいて67歳だそうです。もうリタイアしていていますが、加齢とともに望郷の念は強くなるそうで、今年の夏には帰郷するので人間牧場へ案内して欲しいとのメールでした。返信を打ちながら都会の雑踏の中で息を潜めるように生きている田舎出身の人のことを考えました。私は幸せです。生まれた土地で育ち、生まれた場所で暮らしている。そして生まれた場所で死ねるのですから・・・・・・。

  「この町に 生まれて育ち 死ねるとは この上ないよな 幸せ感じ」

  「デジタルの 世界も知らず 生きている 人もいるのか この世の中は」

  「お父さん 近頃パソコン 触り過ぎ そういえば昨日 二時間以上も」

  「酒辞めて パソコン始め 盃が 指先離れ 指先文字に」


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