shin-1さんの日記

○私の町の夕日も綺麗、「それがどうした」

 研修会や講演などで年中日本全国を旅している私は時々、旅先でハッとするような夕日に出会うことがあります。かつて夕日をテーマにまちづくりを始めようと思って訪ねた頃の日本各地の夕日は、心に夕日を楽しむ余裕もなく、ただただ自分の町と他所の町の比較対照を試みるにしか過ぎなかったのでした。そしてその残像に一喜一憂しながら意味もなく「勝った。負けた」と優越感や挫折感を味わったものでした。

 あれから20年余りが過ぎ、夕日によるまちづくりが一応成果を収めた今は、どの町の夕日もオンリーワンとして認めて見えるのですから大きな成長です。

 私が夕日によるまちづくりを行ったことや、夕日を地域資源に様々な活動をしていることは、マスコミや講演などによって既に広く全国に知れ渡っているため、夕日の話になると相手は夕日のスペシャリストである私に一目置いて一オクターブ下げた話しを話しますが、酒でも入ると口惜しいのか、かつての私のように、「あなたの町の夕日も綺麗でしょうがうちの町の夕日も綺麗だ」と自慢し始めるのです。中には強気な人もいて「あんたの町の夕日より私の町の夕日の方が絶対綺麗」と胸を張って自慢するのです。

(昨日船のデッキから見た中島へ沈む夕日)
(一週間前人間牧場に沈んだ夕日)
(三日前わが家から見る山口県周防大島辺りに沈む夕日)

 これは何も夕日に限った事ではなく、全国各地でこのような自慢話はあるようです。

 日本一と誰もが認める富士山の自慢話は駿河の国の人に出会うと必ず出てきます。これを聞いた伊予の国の人は口惜しく唇をかくのですが、何とかその鼻っぱしを追ってやりたいと思い挑戦するのです。「俺の国には富士山より高い山があるんじゃあ。余りにも高くて細く倒れたらいけないので寝かしている。この山の高さは13里もある高いもので、3千メートルそこそこの富士山など物の数ではない」と豪語するのはご存知トッポ話の一説です。

この話の山とは佐田岬のことで、岬13里と形容するほど日本一細長い半島なのです。

 日本全国には讃岐富士、薩摩富士、伊予の小富士などと幾つも富士山の略称を形容する山がありますが、これも自慢の現れだし、日本全国の商店街に意外と多い銀座なども名前にあやかったもののようです。

 私に対して「俺の町の夕日は双海町より綺麗だ」と自慢する人に私は「それがどうした」と冷や水を浴びせて反論します。追い討ちをかけるように、「夕日が綺麗と思う町は沢山あります。この町の夕日も確かに綺麗かも知れませんが、綺麗というだけでは何の価値もありません。夕日が美しいと思うならその仕掛けを見せてください」というと二の句が次げず黙り込んでしまうのです。

 まあこんな風に自慢しあっていますが、私は日本一だと思うことは別に誰はばかることはないと思います。つまりナンバーワンやベストワンではなくオンリーワンなら日本一は沢山あってもいいと思うのです。

 昨日広島から帰りに広島~松山航路の船上から、中島本島辺りに沈む綺麗な夕日を見ました。数日前に学生を連れてこの島へフィールドワークの授業で出かけた折、中島町の古野セキヱさんに出会いましたが、彼女もまたいつも「中島の夕日は美しい」と自慢しています。「それがどうした」と反論するも、彼女は一向お構いなしに自慢しているのです。

 金曜の船上のお客さんは真赤な夕日が落ちる姿をカメラに収めたり、甲板に出てしみじみ眺めていました。私はあえて「わあーきり名夕日だ。感激だー」などと回りの人を誘発するように少し大きめの声で話しました。それまでテレビを見たり雑誌を読んでいた人も立ち上がって夕日見学と相成ったのです。してやったりでした。

  「わあー綺麗 私の声に 誘われて 船上の客 一斉夕日」

  「自慢する だけある島の 夕日見て 旧友の顔 夕日の中に」

  「あの夕日 明日はどんな 顔をして 朝日となって 昇って来るか」

  「手を合わせ 沈む夕日に 祈る俺 今日も一日 感謝を込めて」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夏の花

 春の花が終り、盛夏の今は夏の花が暑さをものともせず咲いています。ひまわりやグラジオラスの花を見る度に、遠い少年の頃の思い出が蘇ってくるのです。そんな花の中で私が一押しの花はオニユリです。この頃になると伊予の花街道と植物学者八木繁一先生が名付けた国道378号線沿線には様々な野の花に混じって強烈なオレンジ色のオニユリが存在感を示すように咲いているのです。

 昨日は保内幼稚園での講演会に出かけるため海岸国道378号線をひとり自家用車プラッツに乗って走りました。先日この国道で双海町のお年寄りが車にはねられ亡くなったため、警察も取り締まり重点地域にしているのか、あちらこちらで取締りをしているため、制限速度に注意をしながら海沿いの道のドライブを楽しみました。

 夏草が国道の歩道に覆いかぶさるように繁っていましたが、山が海まで迫るような急峻な断崖絶壁などにオニユリの花を見つけました。「そうだ。帰りには一枚オニユリの可憐な花の写真を撮ろう」と思いながら当りをつけて場所を頭に入れました。途中大洲市役所長浜支所の西岡市所長さんを訪ね、8月4日の愛媛大学法文学部の学生がフィールドワークの授業でを訪ねるお願いと打ち合わせを行い、さらには知人である元保育園長岡村久美子先生と講演前久々の面会をするため早く到着し旧交を温めました。やがて保内幼稚園での講演が終わり、お茶やお菓子、それに美味しい弁当まで出してもらい、園長先生の心温まるお接待を受けた後幼稚園を後にしましたが、頭の片隅にオニユリの写真撮影のことが残っていました。

 ところが昨日は保内を出てゴゼヶ峠のトンネルを抜ける頃には前と後に大型保冷トラックが何台も続いて、写真撮影どころではないのです。結局は長浜近くまで帰ってしまい、狭い路側帯に車を止めてオニユリを探しました。オニユリは沢山ありましたが、夏草が茂って中々近寄れないのです。仕方がないのでカメラをズームにして不完全燃焼ながら2~3枚写真に収めました。

 実は私にはオニユリの思い出があるのです。私の今は亡き祖母はこの国道の向こうへと続く佐田岬頂上線から入り組んだ入り江に位置する旧瀬戸町小島出身なのですが、私が漁師をしていた頃、漁の都合で立ち寄った小島の港の直ぐ横に風光明媚な住吉神社がありました。神社付近の断崖に無数のオニユリを見て感動した経験があるのです。それ以来夏になると住吉神社や周辺に咲いていたオニユリの花の思い出が何故か思い出されるのです。遠い昔日の思い出は祖母のふるさとだけに心に残っているのでしょう。

 2年前に三崎町へ講演に行く途中懐かしくなって小島を訪れ、住吉神社にお参りをしましたが、出来ることならオニユリの咲く頃にもう一度訪ねて見たいものだと花を見ながら思いました。

  「懐かしき 色と香りの オニユリを 岬巡りの 路に見つけぬ」

  「花愛でる 優しい心 持てと母 生前俺に 諭していたっけ」

  「小雨降る 海沿いの道 走りつつ 祖母の姿 頭に浮かべ」

  「夏草の 中に埋もれし オニユリを 見つけ写真に 収めて帰る」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○家庭教育学級と金銭教育講演会

 一昨日の夜は伊予市の家庭教育学級、昨日の午前中は八幡浜市保内町の金銭教育講演会と、相次いで出かけて行きました。私へのリクエストは相変わらずジャンルが広く、言葉の表現は悪いのですが揺り篭(幼児教育)から墓場(高齢者教育)まで様々な内容の話しをしなければなりません。浅学非才な私としては少々骨が折れますが、公民館大学を修了している私としては応じない訳にはゆかないのです。

 「えっ、公民館大学って何処にあるの?」と思われるかも知れません。確かにそんなな前の大学は日本全国探しても何処にもないのですが、私が勝手に作り出した造語なのです。もう30数年も前の話です。当時私は役場に勤め、教育委員会で社会教育の仕事をやっていました。私のやった公民館活動や青年教育は当時その現場では斬新な企画として注目を集めていました。当然お声がかかって今のような講演依頼ではありませんが事例発表であちこちでお話しました。ある日のこと愛教研という先生の団体から鼎談の企画への出演依頼が届きました。文教会館での鼎談の出席者は県校長会長さん、愛大教育学部長さん、それに平の公民館主事である私なのです。顔ぶれを見たり聞けば普通の人は臆して出演を辞退するに違いないでしょうが、若かった私は喜んで火中の栗を拾いに出かけたのです。

 鼎談が始まる前の控え室の出来事です。愛大の教育学部長さんはお茶を飲みながら雑談の中で、「ところで若松さんは何処の学府をご卒業ですか?」と問いかけてきました。多分校長会長さんと教育学部長の自分だから、相手たる私も相当の学歴があるだろうと勘違いしたのでしょう。私はとっさに「はい公民館大学を卒業しています」と反骨むき出しの澄ました顔で学歴偽証をやってしまったのです。教育学部長は「ほう、そんな大学何処にありますか?」とすかさず聞いてきました。私は「はい、公民館大学は全国何処にでもあります」と答え、怪訝そうな教育学部長はそれ以上私への質問はしませんでした。

 やがて一室で三人の鼎談は始まりました。ランダムに幾つかの項目について雑談のような形でかなり長い座談は進み、時には同感し時には反論してテープレコーダーへの収録は無事終わりました。その後この模様はテープ起しされてぶ厚い本として出版され、圏内学校先生たちの話題をさらいました。

 鼎談修了後帰ろうとする私を教育学部長さんは追いかけるようにエレベーターに乗り込み、私に対し「先ほどは大変失礼な質問をしてしまいました。お許し下さい。私たちはいつの間にか学歴で人の値打ちを判断するようになっていました。鼎談であなたの話しを聞きましたが、私のように机上の空論を並べ立てるのではなく、体験的な実学のお話を聞いて感動しました。学歴ではなく学習歴という表現には参りました。今後は気をつけます」と深々と一礼をされました。「それにしてもとっさに公民館大学とは名言ですね」とお互いわだかまりを解いて大笑いし分かれたのです。

 私は今でもこのことを忘れることなく今も覚えているのですから、相当執念深いようですが、教育学部長さんには悪いのですがいつ思い出しても「してやったり」の心境でした。

 さて伊予市の家庭学級と保内の金銭教育講演会も家庭の変化についてを内容としてお話しました。

(保内幼稚園での金銭教育講演会は殆ど全員の親の参加でした。出席率の高さに驚かされました。)

  家庭の変化

 ①子どもの数が減った。

 ②子どもの毎日が忙しくなった。

 ③子どもの家庭的役割がなくなった。

 ④子どもの遊びが変わった。

 ⑤家庭的感動がなくなった。

 ⑥子ども部屋が出来た。

 ⑦物とお金が豊かになった。

 ⑧消えた仏壇教育。

 ⑨父親より母親が強くなった。

 ⑩家庭の最大の影響力はテレビになった。

  「熱心に 勉強する母 素敵です 立派な子ども 育つはずです」

  「俺たちの 時代と違う 環境で 子どもは苦悩 親も苦悩す」

  「講演中 子どもチョロチョロ これもまた いい環境と 声を張り上げ」

  「金銭に ついてわが家の 失敗談 今は語れる いい子に育ちて」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○変わる新聞事情

 朝起きて顔を洗い、外に出て深呼吸し爽やかに一日が始まります。梅雨も明け日中はうだるような暑さの日々ですが、朝はやはり清々しくて生きていることを実感するのです。新聞受けとなってる郵便受けを開けて新聞を取り、牛乳箱から牛乳を取り込んで居間に入り、いつもの椅子に座って新聞を読み始め何時もの日課が始まるのです。

 昨日地元紙愛媛新聞を扱うお店の大将とある場所で出会いました。新聞屋といえば牛乳屋とともに朝が早い仕事です。大将の話によるとそのお店は3300部の新聞を毎日30人ほどの人を使って配達しているようですが、朝は午前3時から準備に取り掛かるそうです。今の時期は朝は清々しくて快適なのに雨の降る冬場などは手がかじかみ頭の中まで冷えて、辛い仕事だと実感し子どもには継がせたくないと思う仕事のようです。

 最近は新聞事情も随分変わって、私のように朝ご飯を食べながら新聞を読むといったイメージの人は40歳以上の人だというのです。「そんなことはないでしょう」とその言葉を打ち消しましたが、特に20代・30代の若者は新聞、いわゆるニュースペーパではなく、インターネットで新聞を読むのだそうです。昔は自分の配達域内に家が新築すると決まって新聞契約が成立し新聞を配達したそうですが、特に若い人は家を建てても新聞を取らないのですから世の中も変わったものです。私なんぞは新聞を似たーネットで読む方法さえおぼつかないのに、若者たちはインターネットで地方紙や中央紙を読み比べているのです。アナログからデジタルへ新聞社会もいよいよ変身しており、新聞の将来は悲観的だというお話をお聞きしました。

 いつも問題になる新聞折り込みも、2~3年前がピークだったようで、折り込みも買い物の半分がインターネットで購入する時代になって下がり気味だそうです。そういえば最近は折り込みチラシがめっきり減ったような気がしていました。愛媛県、特に中予では、この春松前町に中四国最大級というふれ込みでエミフルという大型商業施設がオープンしたためかろうじてピーク時まで回復したそうですが、折込の多さにヘキヘキする時代はもう去ったようです。

 都会の人は新聞広告をよく見ます。幾つかのスーパーのチラシを比較検討し、安い商品があえばそこへ出かけて少量を買い求める、また特売日や夕方遅くなると20%OFFや半額のシールが張られるので、それを目当てに買い物をするという、何ともしたたかな消費行動なのです。わが町のように買い物もままならない所に住む人間にとっては羨ましい限りだし、一週間分まとめ買いをせざるを得ない遠隔地の不合理を恨んだりもするのです。

 毎朝新聞とチラシを隅々まで目を通して読む習慣は、例えインターネット新聞が普及しようとも、私の生活のリズムは変えようがありません。新聞から受ける知的エネルギーも随分取り込んできました。新聞が休刊日の日に受ける何か分らない欲求不満のようなものを感じなら、今朝もせっせと新聞を読んでいる私なのです。

  「今時の 若者新聞 デジタルで 世の中変わった 変らぬ俺は」

  「折り込みも 見方変えれば 大切な 経費節約 情報ありて」

  「朝だけで 飯が喰えると 思ってた 新聞仕事 これも大変」

  「新聞は 右肩下がりの 業種にて 跡継ぎさせぬ 寂し選択」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○漁師のストライキ

 漁師がストライキをするなんて話は今まで聞いたことがありませんが、一昨日の7月15日、漁業経営危機突破全国大会が東京で開かれ、そのイベントに呼応して全国の漁師さんが一斉に休漁となりました。私の町にも二つの漁協、三つの漁港(一つは形だけの漁港)がありますがが、15日は漁船全てが港に係留されていました。港も魚市場も人の姿が見られず、猫さえものんびり昼寝を楽しんで散閑としていました。

 漁港は普通船が出漁すると何やら広々として寂しく、逆に休漁の時は漁船がひしめいて活気を感じるので逆の感じがするものなのですが、この日は全国一斉休漁というニュースが1週間前から流れてその日を迎えただけに何処か寂しく、何処か考えさせられる一日でした。マスコミは相変わらず反応が早くいち早くこのニュースを取り上げていましたが、その主たる原因が世界を揺るがす原油高にあるので、こんな田舎の小さな漁船や漁民も国際化の波をもろに受けなければならない出来事に、何処か可笑しい感じさえするのです。

 私の町は伊予灘という瀬戸内の海ながら外洋性の高い漁場を持っています。冬の風浪の高い地域なので他地域のような養殖事業が皆無で、漁民は漁船漁業に頼って暮らしています。故に漁船は主に重油や軽油を使って遠くは佐田岬半島沖や山口県周防灘にまで出漁し生計を立てています。このところの原油の高騰は異常で、長く続いた安定期の油代の3倍というから尋常ではありません。今は5トン15馬力という底引き網の規格といえど、エンジンの性能がよくなったため油もよく使い、一回の出漁で1万5千円から2万円もの燃料代がかかるのです。これを単純に計算すると安く見積もって1万5千円とした場合でも出漁日数150日×1万5千円=2百25万円、高く見積もれば出漁日数150日×2万円=3百万円となりますが、毎日コンスタントに5万円の水揚げがあったとすると150日×5万円=7百50万円の水揚げとなるのですが、その5分の1.5若しくは5分の2が油代として消え、漁師さんの手取りは5百万から4百50万になります。そこから漁具資材代や漁船保険代などの必要経費をを差し引けば、夫婦や兄弟二人乗りの船の収入は押して測るべき小額になってしまうのです。

 今回のストライキの波紋は様々な漁業を取り巻く内情を垣間見ました。原油高という国際問題、仲買人との力関係、魚を巡る流通システムなど様々です。特に国民の魚離れによる消費の落ち込みと魚が飛行機やトラックに乗って運ばれ一次加工されないと食べられない流通システムは国民が選択支持しているだけに厄介な問題なのです。

 日本はいつの間にか魚よりも肉を好む国民になりました。故に外国から肉を輸入しなければならなくなり、BSEなどの問題が発生し社会に衝撃を与えました。港に上がった魚は地産地消どころか人間様も滅多に乗らない飛行機に乗ったり車に乗せられて都会を目指し市場や工場に運ばれ、まな板や包丁を持たない消費者に半調理若しくは調理されて店頭に並ぶのです。漁村でありながら港に揚がった魚を買い求めて食べることなど殆どできないのです。お百姓さんが作った野菜、漁師さんが獲った魚をお百姓さんや漁師さんが売り歩いた時代はもう遠い遠い昔の放しになってしまったのです。地元の周囲10キロ圏内で出来たものを食べると健康にいいという単純な願いはもう叶えられないのです。

 漁師さんの味方のような話ばかりを書いてきましたが、今回の止むに止まれるストライキをただ休漁すればいいのではなく、漁師さんもこの事に気付き何処か可笑しいこんな社会を変えるきっかけにして欲しいと思っています。

  「やるもんだ 漁師が何と ストライキ 油を安く だけではないぞ」

  「今頃に なって消費者 驚いて 魚見直す 日本は愚か」

  「魚消え 魚の値段 高くなり 逆に魚が 肉に変わりて」

  「今朝獲れた 魚飛行機 乗って行く 目指す所は 東京ですって」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○レジメを送ってください

 講演の依頼があって色々な所に出かけますが、前もって「プロフィールとレジメを送って下さい」という所が意外と多いのです。私はその都度抵抗します。「レジメはありません」と答えると、「えっ、レジメもないのですか」と反論されます。また準備物はと尋ねられると「ホワイトボードで結構です」といえば、「パソコンは使わないのですか」と問い直してきます。本人がないというのですからそれでいいと思うのですが、主催する担当者はレジメもパソコンもない講演会は不安なのでしょうか、文句をいいたそうで、多分「こんな講師で大丈夫だろうか?」と不安は募るばかりなのです。

 行政が絡む講演会にレジメを出すと、皆さんは講師の話しを余り聞きません。というのも会合に出張して帰ると復命書なる報告書を提出しないと旅費の清算が出来ない仕組みになっているのです。ところがレジメを出すと、たとえその講師の話が面白くなくて居眠りしても、講師の話の概要は聞いたような顔をして復命書に「別紙のとおり」と添付すればそれでOKなのです。ですから講演に身を入れて聞こうとしないのです。レジメがないと話しを聞いてメモしないといけないため熱心に聞くという算段です。

 最近はパソコンを使いスライドショーを見せながら講演をする人が増えてきました。参加者にとっては分り易いし、講演内容が一目瞭然視覚に訴えるのですからこれくらい便利なものはないのです。しかしこれもレジメと一緒で、薄暗くしてスライドショーをやりながら話すと、冷房や暖房の効いた薄暗さは格好のお昼寝演出になるのです。スライドに集中するとついつい話が単調になって中身が薄っぺらくなることもしばしばなのです。まあどちらがいいかはその人の判断ですが、私は余程でない限りレジメもスライドも使わずに話しをしています。

 さて、私のプロフィールで一番困るのは肩書きです。まず学歴がきます。私は普通学歴を書きません。ところが最終学歴を書けというのです。学歴を書かなければいけないのであればご辞退しますと居直れば、「いえそんなことは決してありません」というのですが、学歴で人の判断は出来ないと思うのです。私はその都度学歴と学習歴は違うと訳の分らぬ言い分を吹っかけているのです。

 私の肩書きは「元教育長」や「元地域振興課長」でもないのです。それはもう過去のことで今どうなのかが問題だと思います。「人間牧場主若松進一と書いてください」といえば怪訝そうに「人間牧場って何ですか?」と、レジメ、プロフィール、学歴、役職を説明しなければ講演には呼ばれないようです。情けないったらありゃしないのです。

 さて、今晩はある街の家庭教育学級に出かけます。「レジメは?」といわれたので「ありません」と答えました。「子供たちに豊かな体験を」というタイトルで話さなければなりません。レジメめはないのですが次のことを話すと思っています。

   子どもたちは今

 ①自分の居場所が分らない子どもたち

 ②親も地域も学校も過保護の子どもたち

 ③本当の友だちがいない子どもたち

 ④夢がない子どもたち

 ⑤遊びを知らない子どもたち

 ⑥感動経験がない子どもたち

 ⑦失敗経験が少ない子どもたち

 ⑧体力・気力がない子どもたち

 ⑨ふるさと意識をもてない子どもたち

 ⑩お金持ち・物持ちの子どもたち

  「レジメ出せ パソコン使うか 聞いてくる 何にもないと 突っぱねてやる」

  「学歴は 役職何と 聞いてくる 牧場主だ 偉くもないのに」

  「学歴は そんなにないが 学習歴 書けないほどに いっぱいあるぜ」

  「さて今日は どんな話に なるのやら 行き当たりばったり 顔見て話す」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○迷子の小鳥

 間もなく90歳になる親父は毎朝散歩を欠かしません。自分の体力と気力の差を少しでも埋めようとの思いでしょうが、その散歩の距離も往復5キロくらいだったのが少しずつ減って、今は往復2キロくらいになりました。余り無理をせず自分の体力に合った程度にするよう話しているのですが、ついつい昔の気力を思い出すのか少々長く歩いて、「今日は疲れた」と弱音を吐く事だってあるのです。

 昨日は、親父の洗濯物干し場の草削りをしました。かなりの草丈になっているので、「草を刈って欲しい」と頼まれていたのですが、ついつい伸び伸びになっていて、草刈機も人間牧場へ移動しているので、昨日は暑いさなかの午後3時から1時間程度草削りをやりました。親父は自分の部屋で時代劇水戸黄門から大相撲とテレビ観戦の途中でしたが、草削りの音を聞いて自分も手伝うと、私と同じように鍬で削り始めました。年中家庭菜園の雑草取りをしている親父は、驚いた事に私より作業のスピードが断然速いのです。しかも少し削るとフーフーいいながら吹き出る汗をぬぐって一休みする私を尻目にどんどん進んで行くのです。年齢さ27歳の若さの私としては負ける訳にはいかないと、馬力をかけてやるのですがさすがに疲れてダウン寸前となってしまいましたが、それでも親父に弱音を吐くこともできず、気丈に振舞いました。一段落ついたところで私は作業を止めましたが、親父はその後もトマトやキューリの下草を削りながら作業を続けていました。偉い体力です。

 昨日は親父を松山の県立中央病院へ歯科検診に連れて行きました。入れ歯の噛み具合が悪いようで、毎週の通院です。予約が午前8時30分だったため9時には処置を終わって病院を出ましたが、帰りに白内障の手術の経過を診てもらうため、伊予市の本宮アイクリニックに立ち寄りました。異常なしとの診断に親父も私も一安心しました。これまでどちらかというとほったらかしにしていた罪滅ぼしのつもりで親父の面倒を見てやりたいと思う「自称親孝行息子」なのです。

 今朝サロンパスを張りに隠居へ行きました。すると隠居の濡れ縁側に小鳥の篭が置かれていて、何やら鳥が入っているのです。私を見て驚いたのか小鳥は篭の中をバタバタ飛び跳ねました。親父に聞けば散歩の途中この鳥を見つけたそうです。親父はこれまでにもカラス、ハト、タヌキなど散歩の途中で傷ついた小動物を可哀想だからと拾ってきては世話をして、回復したら逃がしていますが、今回は自分の前をトントン歩いたり飛んだりして、結局わが家の窓の開いた施設公民館煙会所の中に飛び込んだのだそうです。少年の頃の本能が頭を持ち上げたのでしょうが、親父は素手でこの小鳥を捕まえて倉庫の鳥篭を取り出して中に入れたようなのです。

 週末にやって来る曾孫に見せてやりたいと、早速餌を与えていましたが、さて餌を食べるかどうか、また人になつくかどうか心配ですが、少し元気になったら放してやりたいといっていました。降って湧いた小鳥の世話に親父の顔も朝日に当り生き生きと輝いているように見えました。

 このところ、わが家への来訪者も多く、その都度愛飲しているオロナミンCと座布団を家の横の東屋まで運んできてくれる親父は、9月に90歳となりますが、周りにいた知人友人が逝って段々いなくなっていくのが寂しいようです。そしてわが家の畳の上で死にたいと時折弱音を吐きますし、特養施設には行きたくないとも話します。これまで手もかからず元気で過ごしてくれたのですから、そのくらいは息子の務めと覚悟して、親父の話し相手の時間を見つけようと思っています。自分の老いのためにも・・・・・。

  「少しずつ 向こう近づく 気がすると 弱音を吐くが 親父は元気」

  「俺よりも 体力あると 脱帽も 負けてたまるか ついついオーバー」

  「この家で 死にたい口癖 今朝も言う 心配するなと 勢付け話す」

  「曾孫見せ やりたいものと 鳥かごに 小鳥捕まえ せっせ餌やる」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○関定という人の健康と長生きの秘訣

 数日前、ご厚誼をいただいている元県庁職員の藤原茂さんから小さな一冊の本が送られてきました。僅か10ページの本には「八十五年の過去を顧みて」(昭和39年3月1日記)と、「私の人生」(昭和46年1月)という2種の文章が載っていますが、いずれも含蓄のある文章なので、特に(長生きの秘訣)というサブタイトルのついた「私の人生」について抜粋して紹介します。

 一、若い時には貴いエネルギーを惜しみなく大いに駆使し、自己の力量をテストする意気で、進んで重荷を沢山背負い、骨身押しまず体の続く限り奮闘する。これで心身の鍛錬が出来て成功の道が拓ける。

 二、夫れから年を取るに従って、体力の衰えることを考え、背負っている重荷を体力に応じて斬時軽減することが必要である。そのために若い時代の基礎造りが大切であるということになる。

 三、負担を軽くするということは色々あるけれども、一通り功がなったら、社会奉仕に余生をを捧げることである。私はこの道を選んだ。私利私欲を離れ、世のため、人のために尽くすことは、余り負担にならない。(後略)

 四、能く遊び、能く学べという名言もあるが私は青少年時代に、若い時には徹頭徹尾働け主義で能く働き、能けで行った、これには批判もあろうけれど、私は終始一貫して実践した。老境に入ってから悠々自適を勧める向きもあるが私が夫れが出来ない。宴会嫌いで、二次会は一度も味わったことがない。仕事に懸ったら他の何事も忘れ朝食と昼食は不定期で一食抜きの場合が多く家族を困らせることが多いので、夕食だけは誓って宅でということにして今日に至っている。

 五、家庭中心主義で、仕事を楽しむ以外娯楽趣味は皆無でゴルフ、マージャンなども無関心である。かかる私を他人は評して、損な人よ、馬鹿な奴よと笑うであろうけれど意に介せず、悔いもなく、来る日も来る日も愉快に日の経つのも忘れて働いている。

 六、私は二十歳の時ある動機で考えたことは、自分の貧しい才能で、他人に負けないためには、いかにすれば良いかということ。夫れはあらゆる力を一事に集中することだと悟った。爾来授けられた仕事を転職と心得、全知全能を捧げ、至誠をもって貫くことを堅く心に誓った。

 七、五十才までを一期として決意し夫を今尚続けていることは禁酒、禁煙は勿論、一切の道楽を排除し、ひたすらに仕事に励むことで、脇時は余暇を私塾に学び、郊外に出る場合は遠足、登山、神社仏閣詣でなど(後略)

 八、時に二十九才母の勧めで結婚と同時に独立営業を松山市で始め、爾来昭和二十二年に至る四十年間身を慎み、家業に励み、家を整えつつ事業を安定させ、後継者の養成にも意を用い強固な基礎を築き得たと確信したので、昭和二十二年(六十九才)事業を挙げて二世に譲り、その強固な基礎の上に立たせ、若人の貴いエネルギーを思う存分働かせ、重大責任を負わせて手放し、私は一切干与しないことにした(後略)

 九、七十才でお茶の道を楽しんでいた愚妻への奉仕と思ってお茶を始め、茶道精神に陶酔し、修養の糧としているが、作法の方は未だ初心そのままである。(後略)

 十、八十才にして俳句を、九十才にして絵画を始めたが、立派な達人でさえ、自然退歩する年代に始めたのであるから事の成否は問題ではなく始めてみようという元気と若さを自賛しているのである。

 送られて来た本を読みながら、ここまで徹した生き方ができるのかと明治生まれの人の気骨さに驚嘆してしまいました。人間は長生きすればいいものではありません。また楽しければいいものでもありません。さらにお金持になるだけでもないのです。信念を持って強く生き、親から子へ、子から孫へと家を持続することも大切なことなのです。先祖に感謝し自分が生きること。自分が去りし後を受け継ぐ人を育てることなどなど、教えられることがいっぱいありました。小さな一冊の本でしたが私にとっては千金に値する本だったと思い紹介しました。

  「人間は 自分という名の 人間と 対話しながら 生きるものなり」

  「おいお前 しっかりしろよと いうように 小さな本が 道を示して」

  「もう一度 叩き直して 出直しだ 生き方変えて も少し立派に」

  「尊徳の 教えもいいが 関定の 教えに学ぶ ことも多かり」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○旧中山町を訪ねる

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科の学生18名と一緒に、フィールドワークの現地調査で旧中山町へ出かけました。学生たちは松山から列車に乗って中山入りしましたが、私は隣の町であるので学生とは別に峠を越えマイカーで出かけました。暑い時期なので学生たちの移動に車を使わなければならないと思い、あらかじめ伊予市役所中山支所へ車を置いて、中山駅まで歩いて出迎えに行きました。早朝の中山商店街は朝日と陰の部分がはっきりしていて爽やかでした。隣町というのにこの街の商店街は知人友人も多く、谷口商店の前まで行くと、双海町出身よし子ちゃんとばったり出会い、店の中でご主人や時折訪ねてくる人たちと懐かしい談笑を交わしました。目と鼻の先の上岡文具店のご家族が目に止り、ここでも立ち話です。上岡さんのご家族も穏やかな人たちで、いつもご厚誼をいただいているのです。目と鼻の先の宮野製麺ではこれまた懐かしい奥さんにお会いできて、旧中山町時代が懐かしく思い出されました。

 8時40分に松山駅を出発した各駅停車の列車が中山駅に着くのは9時31分です。列車は予定通りホームに入ってきました。先週が休講だったので2週間ぶりの懐かしい学生の顔ですが、どういう訳か班長の前田さんの姿が見えませんでした。後で連絡を貰ったのですが、来る途中事故に会って病院へ行っていたそうです。

 市役所中山支所の2階で研修は始まりました。上田地域振興課長以下4人の地域振興課職員が対応して微細な説明をしてくれました。特に北岡さんの中山町の合併前・合併後、そしてこれからの話は、この日のために作成した資料に基づいてとても分りやすく、学生も納得して聞き入りました。合併後の地域自治についてもいい研修が出来たように思います。


 午前中は2時間余りびっしり研修をしました。学生たちも全員質問したりそれに答えてもらったりしました。

 この日はとても暑い一日でしたが、支所のご配慮でホテルのバスを利用させてもらい、遊栗館でのバイキング昼食に舌鼓を打ちました。700円食べ放題の品揃えは抱負で、地産池消、しかも野菜中心のヘルシーな味に学生たちも我を忘れて何度もお変わりするなど食い入っていました。地域振興課の職員さんも全員昼食に参加していただき学生たちと懇談をしてもらいました。

 午後は花の森ホテルや野外ステージ、鹿牧場、フラワーハウスなど、栗の里公園の散策です。暑いさなかでしたが、学生たちは「暑い暑い」といいながらも元気に視察研修を行いました。

(鹿牧場)
(フラワーハウス)
(フラワーハウスには見たこともないような珍しい花々が咲いていました)
(お洒落な花の森ホテルのロビーにてくつろぐ学生。ホテルではアイスコーヒーまでご馳走になり、研修修了後中山駅まで送ってもらいました)

 研修を終え学生たちは15時44分発の列車に乗って中山町を後にしました。今回お世話になった上田課長さんは夢工房の仲間です。花岡さんは元社会教育で同じ鎌の飯を食べた間柄、米井さんは双海町出身、北岡さんは元社会教育、木曽さんは初めての出会いでしたが、それぞれ深いご縁を縁としてかゆい所へ手が届くような気配りの研修受け入れで、頭が下がる思いがしました。合併は必ずしもいい事ばかりではなく、むしろ他地域では不協和音も聞こえますが、上田課長さん以下地域振興課の皆さんの姿を見ていると、そんなことは微塵も感じさせず生き生きと働いていました。

  「合併後 テーマに研修 訪ねたが 人が生き生き 学生感心」

  「大盛りの ご飯を食べる 姿見て やはり若者 食べ方違う」

  「街中は ひっそり静か 灯が消えて 店に入ると 訛り懐かし」

  「旧友は あり難きかな 気配りの 数々感謝 別れを告げぬ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○調子の悪いわが家のFAX

 私が役場に勤めていた若い頃、文章の送付はもっぱら封書でした。故に東京や県庁などから文書の催促があると、「送ったのでもう間もなく着くと思います」などと嘘をついて、急いで文章を作り送ったものでした。公文書はタイプライターで打ち、計算はソロバンかぐるぐる回すタイガー計算機、複写はカーボンといった長閑な時代でした。ところがコピーや電卓、ワープロが導入されたり、電話回線で文字が送れるFAXが登場して、私たちの事務能力は一気に倍増し便利な世の中になったのです。そしてほんの数年前にパソコンがお目見えし、オフィスは一変したのです。当時を知る者にとっては隔世の感がしますが、最近はパソコン万能となって、FAXさえも時代遅れの感がして、FAXの利用が殆どなくなってしまったのです。

 それでもわが家には、FAXと電話併用が設置されていて、FAX愛好家に利用されているのですが、娘の勧めで一緒に購入したFAXが、新品の時から調子が今一で、送られた文章がローラーに巻きついたり、送られた文章の文字が薄く判読できにくいのです。

 昨日は外出先から帰ってみると、玄関に設置しているFAXの警告ランプがついていました。見るとFAXに紙が幾重にも巻きついて使用不能となっているのです。外蓋を開けて中に巻きついた送信文書を取り外したのですが、FAXのメッセージだと送信文書3件、〆て20枚未着と表示されていました。慌てて教師を補給しプリントアウトの状態にしましたが、出るわ出るわです。

 中でも北東総研の清水さんからの文書は原稿校正らしく、しかも校正締め切りが近づいているようなので、インターネットでメールを打ち、メールでゲラを送ってもらうよう手配しました。今日夕方外出先から帰ってメールを開き便利な世の中に感心しながら、ゲラ校正を行い送付しました。

 「FAXの調子が悪い」と妻にいえば、「まだ新しいのに」と、買い替えに乗り気でなく、私が一人で使っている道具でもあるし、またパソコンで用が足りるのではないかと言わんばかりで、相手にもしてくれない有様です。私もFAXは殆ど使わないため、どうしようか思案中なのです。多分近所の電気屋さんに修理に出せば、「買った方が修理するより安い」といわれそうで、悩みは深くなるばかりです。

 使い捨ての時代がやって来ました。わが家のテレビも間もなくアナログ終了の期限が迫ってきました。オーディオも修理不能ながらラジオ専用にして人間牧場で聞いていますが、これも間もなく電子ゴミです。パソコン専用のプリンターや息子のパソコンも倉庫で埃を被っています。あれ程高いお金を出して購入したものが、使われることもなく、ゴミ処理費用を上乗せしないと引き取ってくれないのです。勿体ない話ですがこれも世の中の定めでしょうか。

 今に人間も捨てられる時代が来るのでは?とふと子どもの頃に映画で見た楢山節孝のことを思ったりしました。どんなに時代が進んでも、例え賞味期限の切れる年齢になっても、せめて親だけは捨てることのないようにしたいものです。勿論子どもも同じです。

  「買い換える 話しに妻は 乗って来ず 宙に浮いたか ファックス話」

  「又ひとつ ゴミになるのか FAXも 電気屋さんも 買い替え勧め」

  「読めぬ文字 諦めメール 送ってと 頼むメールに 早速返事」

  「金の要る 事が続くと 渋い顔 リタイア身には 堪える反応」

 

 

[ この記事をシェアする ]