shin-1さんの日記

 「今日から二日間広島県東広島市へ旅に出ます。明日は帰ります。御機嫌よう。 人間牧場主敬白」とメッセージを残して今朝早く家を出ました。毎日猛暑日の続く四国ですが、早朝の道はすがすがしく、冷房を切って窓を開け、戸外の風を取り込みながら高浜の松山観光港まで走りました。交通量の少ない早朝ゆえスムースに走れ、港までは1時間足らずで到着しました。本当は高速船に乗るのですが、東広島市の今岡さんから新採職員研修の資料を送られていて、研修に参加するメンバーからの私に対する質問に対する回答を、このところの忙しさにかまけて全て目を通していないため、フェリーだと適当な時間のため、あえてフェリーの便を選びました。

 船旅は実に快適で、船室の椅子にもたれての作業は順調に進み、音戸の瀬戸を通るころには、全てを終わっていました。

 少し甲板戸外に出て風に当たりながら知り人話しながら、のんびりゆっくりの船旅を楽しみました。宇品へは予定通り9時10分に着き、電車で広島駅を目指しました。比治山下経由の電車で約35分、さらに広島駅発西条方面行きの電車に乗り、インターネットで調べたとおり、10時45分に西条駅に到着し、昨年と同じく早坂さんの出迎えを受け中央公民館の人となりました。

 講演会は午後1時からなので課長さんや係長さん、それに今岡さんと私で、昨年と同じ店で食事をしました。

 1時からの研修会は午後の4時間全てが私の時間とあって、どのような組み立てをするか余り考えぬままアバウトな気持ちで話し込みました。今日のテーマは「若松さんの仕事が面白くなる話」だそうで、休憩を挟んでたっぷり2時間30分話をさせてもらいました。

 その後事前に送られてきていた参加者からの質問に答える形で進行しましたが、残念ながら質問と回答で1人5分を予定して話しましたが、3分の1はお話をしないまま時間切れとなってしまいました。

 いい質問が送られてきていただけに返す返すも残念ですが、この話の続きはメールでと断って時間切れ、話を終えました。

 その夜は谷川君からお誘いのあった若手職員の研修会に顔を出しました。コミュニケーションの取り方をワークショップ形式で学ぶもので、私も参加者になって学びました。朝が早かったためと、4時間に及ぶ長丁場の研修会が終わって緊張の糸が切れて少々お疲れモードでしたが、何とか若手について行くことができましたる

 その後は、近くの飲み屋に繰り出し会費制の交流会をやりました。参加した人たちも楽しい人たちばかりで、2時間があっという間に過ぎました。あくる日の研修会が午前中3時間、午後3時間と長丁場のため、10時ころ早々においとまし一人歩いて帰りましたが、帰り際隣の部屋で飲んでいた人たちと一緒になりました。私が余興で吹いたハーモニカが暖簾を伝って隣の部屋を巻き込んで、私の演奏に合わせて歌ってくれた人たちなのです。中には子どももいて嬉しくも寂しい別れとなりました。ああ今日も完全燃焼したようです。

  「海渡り 今日は海外 旅行かと 見まがうほどの 人に出会いて」

  「夜十時 気がつき早々 お暇を 東横インの ネオン頼りに」

  「この町は 二度目ことゆえ 知っている つもりが忘れ 右往左往す」

  「この町は 学生多く住むという 生かせばおもろい 町になるのに」 


                    

             

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shin-1さんの日記

○動く広告塔に電光掲示板

 私は自称「動く広告塔」と人から愛称をつけられ、自らもお遊び的に自分の名前をアメリカの顔だった高官と捩って、「愛媛のキッシンジャー」などといっていました。自分の町と自分の町に沈む夕日を徹底的に売り出すために、とにかく自分の町と夕日をまるで看板のように背負って歩きました。そして何処かまわず宣伝したのです。その結果双海町という下から数えた方が早かった町が随分有名になり、私自身もいつの間にかこんな顔でも覚えてもらうようになったのです。しかしふり返ればそれはなりふり構わぬほどで、時には道化師のような涙ぐましい努力の結果であることを知る人は少ないのです。

 今ではすっかり有名になった木になるカバンを提げて歩くパフォーマンスも、一日三枚のハガキを書くことも、また時には高座に上がって人を笑わせることも全てそんな止むに止まれるフットワークから生まれた成果なのです。そして今ではすっかり日々の暮らし溶け込んでいる、一日2本のブログを書いて自らが情報発信することも、元はといえば町を売り出す手段として始めた事なのです。

 先日三重県伊賀上野へ講演に出かけました。その模様や近鉄電車が故障して思わぬハプニングに会ったことはブログで詳しく紹介しましたが、その折大阪の街中をとっさな思いつきで、新居浜の加藤さんから国土交通省主催の観光カリスマ塾開催の折、人型パネル作製にちなんでいただいた名刺サイズの電光掲示板をこともあろうか、自分のネクタイに強力マグネットで着けて歩いたのです。普通ならこんな恥かしいことはしないのでしょうが、やはりこれも遊び心の表れでしょうか、胸を張って堂々と歩きました。

 電光掲示板には「『夕やけ徒然草』著者:若松進一 自費出版、定価500円 好評発売中」と出てくるのです。胸に何やら光る文字があると通行人は一応に驚き私の胸の当りに注目してショートコメントを読みながら横を通り過ぎるのです。そして通り過ぎざまに私の顔を一瞬「変わり者」という雰囲気で立ち去り、また振り返って私の姿を追いながら去って行きました。

 効果は抜群でした。多分私の奇抜なパフォーマンスを目の当たりにした通行人は、どこかで酒の肴にでもしながら、見知らぬ私の話しをしたに違いないと、してやったりの心境で愛媛に帰って来ました。私は町の観光協会事務局長を長年やりましたが、その折りもゼロ半ライダー観光宣伝隊というこれまた一風変わった宣伝隊を出して、世間をアッと言わせました。バイクの後に宣伝幟を立てて10台もが隊列を組んで街中を走り、時には繁華街の真ん中でハンドマイク片手に自分の町を宣伝しまくり派う夫レットやチラシを撒き散し、その足で放送局まで乗り込んでその日の夕方のニュースに飛び入りまでしたのですから、これはもう尋常ではないのです。今にして思えば顔から火の出るような恥かしい話ですが、それでも平常心のような顔をしてやったものです。

 今ではすっかり武勇伝となりましたが、その折「恥かしいから嫌だ」としり込みした新人職員に「嫌だったら役場を辞めろ。お前の変わりは幾らでもいる」と脅しまくり参加させました。驚いた事にその新人職員が今は町の観光の仕事をしているのです。

 恥かしいなんて気があったら、観光宣伝などやれぬしその成果も期待できません。要はやるかやらないかなのです。

  「電光の 掲示を胸に 大都会 知らぬ土地ゆえ 恥かしがらず」

  「夕日亭 大根心の 芸名で 作った本を ピーアールしつつ」

  「その昔 私愛媛の キッシンジャー 誰がつけたか 動く広告」

  「看板を 背負って歩いて 四十年 今じゃすっかり 有名になり」

 

 

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shin-1さんの日記

○上灘川の源流を求める小さな旅②

8p> 源流を見つけた帰り道、大きな木に出会いました、何という木の名前かは葉っぱが高いため分りませんでしたが、とにかく予にも珍しく根が道沿いにまるで大蛇のように10メートルも伸びているのです。根元にはこれまた珍しいサルノコシカケにも似た真っ白いキノコが生えて、木の直ぐ横に石で造った祠があって、何とも不気味な感じがしました。その木に寄り添うように山藤のこれまた太いツルが天に向って伸びているのです。この山藤もお見受けした所天然記念物級のようでした。

 上灘川の源流を探す小さな旅の楽しみは、途中で源流水を使って作ったうどんや素麺を食べる昼食です。民家近くの水場にテントを張ってスタッフの一団がうどんと素麺の準備をしてくれていました。手酌で水をすくって飲みましたが、やはり天然水の味は格別で、子どもたちも美味しい美味しいと飲んでいました。私も妻に作ってもらった弁当広げ、うどんや素麺に舌鼓を打ちながら子どもたちと一緒に食べました。

 子どもの一人が側溝の穴に落ちて小さなハプニングがありましたが、タンコブが出た程度で大事に至らずほっとしました。子どもたちに草笛を吹いたり、カズラを取って帽子飾りのリースを作ったりする遊びをちょっとだけ教えてやりましたが、子どもたちも真似をして遊んでいました。

(カズラで作ったリースを頭に被って得意げな大谷さん)

 昼食を終えた一行は翠小学校までマイクロバスで下りました。子どもたちは長靴に履き替えて川遊びです。折からの猛暑の中なので、子どもたちは川に入って歓声を上げました。約500メートル下流まで川の清掃です。この川はホタルの里なので随分綺麗に整備されていますが、川にはナイロン系のゴミもあって、私も沢山ゴミを拾いました。私はあいにく長靴を持っていないため、石の上を飛びながら渡ってゴミを拾いましたが、最後は子どもたちに捕まって川の中へ引っ張り込まれ、水をかけらてしまいました。

 子どもたちが遊んでいる間、スタッフは近くのピザハウスでせっせとピザ焼きの準備です。小麦粉を練って捏ねたり天日で発酵させたり、男性はピザ釜に火を入れ、甘夏柑を半分に切って生ジュースを絞ったり、一生懸命です。私も初めて小麦粉を捏ねたり生ジュースを絞りました。

(生ジュース絞り)
(捏ねて発酵させた生地を伸ばす作業)

(ピザ釜に火を入れる作業)


 やがて川遊びでびしょ濡れになった子どもたちが帰って来ました。丁度焼き上がったピザを切り分けてもらい、一人2枚ずつ食べましたが、カレー味の手づくりピザは翠地区グリーンツーリズムの目玉だけに、絞りたてのオレンジジュースとともに格別な美味しさでした。

(焼きたてのピザを食べる子どもたち)

(ピザは子どもたちに大人気でした)


 クイズグランプリを楽しんだ後、予定通り支所前に到着し解散をしましたが、初めて経験した源流を探す子どもたちの小さな旅は、もう一度今度は下灘の豊田川の源流探しが予定されています。8月にはキャンプも予定されていて、子どもたちにとっても私にとっても楽しい夏になりそうです。

 このところの戸外での活動で、私の顔も腕も真赤に日焼けして、すっかり逞しくなってきました。昨日知人に会ったら私の日焼けした顔を見て驚い多様で、「若松さんお元気そうですね」と声をかけられました。

  「人知れず 山の中にも 記念物 自慢見せたい 叶わぬ夢か」

  「遊ぼうよ 水を掛けられ 川の中 童心帰り 全身ずぶ濡れ」

  「粉を練り 粉を捏ねつつ ピザつくり 今時子ども これを喜ぶ」

  「いつの間に ピザ釜造り ツーリズム 人気抜群 繁盛してる」


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shin-1さんの日記

○上灘川の源流を探る小さな旅①

 私たちの町には大小20もの川が目の前に広がる瀬戸内海に向って流れています。いつの頃からか定かではありませんが、人々はこの川沿いに暮らし、くぁの水の恩恵を受けながら生産と生活を営んできたのです。しかしその恵みの水が一体どんな道筋をたどって私たちの元に届くのかは知る由もなく、また知ろうともしないのです。もし明日からといわず今日からこの水が途絶えるとしたら、人々は大慌てに慌ててその原因を探るのでしょうが、そんな困窮をしても、水を貯める貯水施設や水道管、それに水を管理する人たちへの問い合わせくらいで、水の命を素人はしないはずです。

 私は常々自分たちが毎日使っている水が一体どんな場所で生まれ、どんな経路を経て来るのか知りたいし、そのことを子どもたちに教えてやりたいと思っていました。学校教育ではそれなりのカリキュラムがあってそんな余裕も口出しも出来ないため、幸い私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室のプログラムに「源流を探る」というメニューを加えたのです。

 このところの暑さで温度計はうなぎ上りの状態で、数日前に近隣の大洲では38度を越えてその日の日本一を記録するなど猛暑日が続いていますが、子どもたちは元気に出発しました。

(市役所支所ロビーでの開会式)
(何時もの事ながらスタッフも沢山集まりました)

 マイクロバスで下流域の灘町から上灘川に沿って上流域となる奥大栄を目指しました。車内では私と運転手を務める教育委員会の木曽さんがガイドを務め、子どもたちの関心を引くため、アドリブで川の長さや川に架かっている橋の数、目指す奥大栄の在宅戸数などをクイズとして出しながら山道を進みました。やがて麓に到着しバスを降り、いよいよ源流を目指して出発です。この集落も超々限界集落でかつては10戸以上ありましたが、今は在宅戸数は4戸であちこちに空き家や崩れし家が目立ちました。
(かつては棚田の美しい地区でしたが、今は田んぼも少なくなって、永年作物であるみかんも殆どなくなり、安定収入のキウイフルーツなどが栽培されているようです)
(大きな民家もこのように崩れしままとなって、余計寂しさを感じました)


 子どもたちにとっては、説明をしなければこの集落がどんな意味があるのか知る由もありません。源流域の人たちの地道な暮しが水源を守っているのだと説明してやりましたが、果してどう聞こえたのでしょう。

 私たちは森林の中を歩き、奥大栄の名所のひとつである花の石を目指しました。夏草に埋もれて行く道も分らないようになっていたそうですが、地元の人の協力で事前に道を刈り分けてもらっていて、随分助かりました。

 花の石を後にした一行は沢まで下り森の中を源流を求めて沢沿いの道を上流へ歩きました。最初はかなりの水量だった沢もやがて水が殆どなくなり、源流を突き止めたのです。

(二本の丸木橋を渡って進む子どもたち)
(ここが源流と分り歓声を上げる子どもたち)


 空から降った雨の一滴はここから長い旅に出ます。気の遠くなるような時を越え、途中で取水されながら海まで注ぐのですが森は海の恋人とはよくいったものです。この日は都合で木を植えることが出来ませんでしたが、山の恵みに感謝するため是非次の機会にここへ木を植えたいとみんなで考えました。

  「源流を 求め旅する 子どもたち 水の尊さ 知ってくれたか」

  「降りし雨 長い旅路の その果てに 海まで注ぐ 感心しきり」

  「人住まず 崩れしままの 家寂し ここで生まれた 人はいずこぞ」

  「日々飲みし 水はここから 流れ来る それを忘れず 生きて行きたい」

 

 

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shin-1さんの日記

○隣町は今

 合併するまで近隣の市町村の位置はきっちり頭に入っていて、また隣町のニュースなどは競争という意識が強いのか、絶えず気を配っていました。特に同じ郡の同じような規模だった中山町や、同じ海を持つ長浜町、それに最も近い伊予市などは負けてなるものかと思いながら暮らしてきました。

 ところが合併してからの最近は市町の位置すらおぼろげで、また役所を退職してまちづくりの任から降りたため、何処かよそ事のような気がするのです。それでも昔の癖は治ることなく、時々頭を持ち上げるのですから染み付いているのでしょう。

 数日前八幡浜市保内町幼稚園へ講演を頼まれて出かけました。その帰りに長浜を通りかかりました。晴海工業団地に近づくと頭の上に立体的な道路が出来ているのに気付きました。工事をしていたころからこの道路は一体何処へ通じるのだろうと思っていました。ふと好奇心が頭を持ち上げ大きく左折してその道を走ってみました。案の定この橋脚の上を走る道は旧長浜町自慢の肱川嵐が展望できる公園へと通じていました。

 山道ゆえ曲がりくねった道を進んで行くと、見覚えのある嵐公園へ到着しました。この日は視界もよく展望台に上がると四方八方が一望できました。特に肱川河口に架かった新旧2本の橋が印象的に見えました。

 特に赤橋といわれる鉄橋は片勝鬨橋で日本でも珍しい近代化遺産の橋として注目されています。毎年10月下旬になるとこの橋を包み込むように靄が肱川嵐となって海上へ吹き出すのです。旧長浜町ではこれを地域資源ととらえ初嵐の日をクイズ形式で当てるコンテストなどをやっていますが、残念ながらその効果は上がっていないようです。というのもかなりの費用をかけて嵐を見るための公園を造ったものの、嵐は早朝に吹き出るため、また寒いため観光客には敬遠されて中々人が集まらないのが実態のようです。

 この日は公園に着くと見覚えのある人に会いました。役場に勤める豊茂の中田さんです。彼は今国土調査の仕事をしているらしく、私の時ならぬ来訪に驚いた様子でした。

 瀬戸内海に突き出たように見える展望台からは、坂本龍馬が脱藩の折ここを船出して渡ったであろう伊予灘の海が拓け、坂本龍馬が目指した山口県が雲にかすんで見えました。

(長浜町の埋め立て造成地はまだ空き地も見られましたが、遠望では大きな油タンクも見え、工業団地としてそれなりの成果を収めているようです)

(肱川の右岸には団地も沢山見えました)
 合併によってまちづくりの世界も大きく変容しています。これまで隣町を意識し、隣町に蔵が建ったら腹が立つといわれるほど競争した昭和の時代から平成の時代は終りを告げました。確かに競争はよくないことかもしれませんが、ある意味で競争は地域に元気をもたらしました。競争の消えた合併後は隣町がどんなことをしているのかさえも関心のない時代となっているようです。

 役場を去った私でさえもこうして東国原宮崎県知事のように「どげんかせんといかん」と思っているのですから、役所に務めている人はことさらに「何とかせんといけない」と危機感を持って生きて欲しいと思いました。

  「隣町 いつの間にやら 何処だっけ 何が起ころと 関係ないか」

  「ふるさとを 思う心を 持たずんば 国は滅びる 歴史が語る」

  「朝もやで 地域おこしを 考えた 見事外れて 寂し公園」

  「いや見事 長浜の町 橋風景 好きなアングル 皆に見せたい」

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shin-1さんの日記

○熊本県天草からのお客さん

 2007年1月15日に熊本県天草市経済同友会から講演の依頼があって車で出かけました。その日の前日娘が、切迫流産のの危険があるとかで緊急入院してしまい、孫の面倒を見なければならなくなったため、妻と二人で予定していた天草行きに急遽孫を連れて行く事になりました。孫は長い道中でしたが楽しかったことが忘れられず、一泊したホテル海心館の優しいもてなしや、講演のあったホテルアレグリア天草近くの水族館でのアザラシ、イルカなどとの出会いが忘れられず、未だに何かにつけて天草の話しをするのです。

 その後天草経済同友会の中川会長さんとのご縁も深まって、2007年6月25日に天草のご一行がわが町へ視察に来られ旧交を温めました。その同じ月には熊本県あさぎり町へ講演に行くなど様々な熊本との交流が進んだのは、多分松山と熊本を結ぶ天草エアラインの就航によるものだと、人や地域との交流にとってアクセスは大事だと痛感したものでした。

 あれから1年が経った先週7月16日、再び天草から視察団がやって来ました。今度は自治会の皆さんでしたが、中川会長さんから直接電話があったものですから、少し変わったプログラムを組んでお迎えしました。

 まず役場会議室で私の講義を1時間程度行いました。自治会のメンバーなので地域の自立について突っ込んだ話をしました。その後わが家と翠小学校、シーサイドでの昼食を挟んで人間牧場の案内です。これは中川会長さんの希望でもあったので、中型バスの乗り入れはギリギリなので気を揉みましたが、どうにか行くことが出来ました。

 まず翠小学校ですが、運良く校長先生がいらっしゃってご案内をいただきました。一行は窓を吹き抜ける爽やかな海風を感じながら今時の学校では珍しい和室で校長先生の話を聞きました。この学校が現役木造校舎では県下で一番古いこと、エコ改修の指定を受けて調査研究をしていること、この学校が地域のコミュニティづくりに果たしている役割、ホタルとのかかわりなど特色ある学校づくりについての説明に納得した様子でした。

 最近の学校は危険という名の元に門を閉ざし、心を閉ざしている学校が多いようですが、この学校は門こそ閉じていてもいつもオープンスタンスで迎えてくれます。子どもたちも先生たちもお客さんを意識せず常に自然体で迎えてくれるのです。人数的には児童数31名と小規模校ながら、やっていることや目指していることは大規模なのです。学校とは木が交わって学ぶとはよくいったものです。木はそれぞれ癖を持っていますが、木の癖組みこそが人間力を育むのだと思いました。

 人間牧場では主に限界集落のことや、住民自治、それに人間力とは何かを感じ取ってもらおうと思いました。時代が進歩する中でややもすると後退しようとしているのが今の地方の現状です。合併によって行政サービスが低下したと意識する住民、学校統合や限界集落などで将来への不安を感じている住民、住民自治といいながら高齢化と過疎の狭間で自治などやりようがないと宿命を感じ取っている住民、様々な問題が横たわっていて、これは日本全国を揺るがしているのです。

 一生懸命生きる、それでも駄目だったら潔く諦める、そんな生き方をしている私にとって、視察に来られる人に幾ら「頑張って下さい」といったって、それはもう自助努力の域を超えているのですから、「私はこんなに楽しい生き方をしています」と見せること以外ないのです。たった一度の人生だからみんな楽しく生きて行きましょう。

  「天草の 人と再び 面会す 私の生き方 素敵でしょうが」

  「漢字では 木が交わって 学ぶ書く 学校ではない 学校増えた」

  「空青く 海も深蒼 澄み切って 真夏の双海 客をもてなす」

  「俺に逢う 人が沢山 やって来る だから気張って 素敵生き方」

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shin-1さんの日記

○三津の渡し

 新幹線で大阪から東京まで3時間もかからない、こんなにスピードの速い世の中なのに、ゆっくりのんびりした世界があるものです。私の親友河野正彦さんは昨年市役所を定年退職しました。遊んでいるのも何だからと、再就職をしたのですが、その就職先は何と愛媛県松山市三津浜の運河を行き交う渡し舟の船長だと聞いて少し驚きました。彼は海技免除を持っているためその職につきましたが、何人かでチームを組んでその運行に当るのですが、行き交う船の数は相当多いようで、その中を縫うように走る渡し舟は、ゆっくりのんびりどころか朝7時から夕方まで、安全第一故に気の抜けない仕事のようです。

 この渡し舟は庶民の足として近所に住む人たちに長年親しまれてきただけに、財政難や行政改革、車優先の社会になった今、廃止について色々取りざたされているようですが当分は続くようです。

 数日前私は広島へ行く機会がありました。折角だから彼の雄姿を一目見ようと途中立ち寄りました。7時からの運行にそなえ準備の真っ最中でしたが、対岸から私の姿を見つけ、お客さんもまだ姿を見せていないので、こちらの岸に舟を走らせてきました。聞けばこの渡し舟は不定期で時刻表がなく、お客がいれば運行するという面白いものです。手を挙げれば対岸まで迎えに来てくれるのですから、これこそ庶民の足というべき乗り物でしょう。

 ところでこの渡し舟の歴史は古く、1469年に遡るそうです。伊予の守河野通春が湊山城主であったとき、この渡しを利用したのが始まりといわれています。あの有名な小林一茶も1795年に乗ったという逸話もあるほどです。大正の初めは水竿で運行していましたが、その後は手漕ぎ櫓となり、昭和45年にエンジンがつけられ現在に至っています。

 現在の正式名称は松山市道高浜2号線と呼ばれる道の一部なのです。海の上を私道が走っている珍しいもので、運河の幅は妬く0メートルだそうです。


 私は何度かこの舟に乗った経験があります。漁師をしていた若い頃ヤンマージーゼルの会社が三津浜にあって、エンジンを修理にやって来た時、対岸の造船所からこの渡し舟に乗りました。未だその頃は手押し櫓漕ぎだったと記憶していますあ。いにくこの日は先を急いでいてこの渡し舟に乗ることは出来ませんでしたが、河野さんの運転する渡し舟に是非一度乗ってみたいものです。

  「時刻表 なくも運行 渡し舟 手を挙げすれば タダで迎えに」

  「のんびりと 港の景色 眺めつつ 対岸渡る 長閑けき渡し」

  「渡し舟 乗らず歩けば 三十分 それがたったの 五分で向こう」

  「長閑だが 客を乗せ行く 仕事にて 目と気配りを いつも忘れず」

   

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shin-1さんの日記

○真夏のレオマワールド

 妻と孫の三人で香川県へ一泊二日の旅をしました。孫にとっては迷惑な旅の同行に報いようと、夏休みになったこともあって、孫の希望を汲み入れてレオマワールドを目的地に選びました。レオマワールドは金毘羅さんから近い場所にあるテーマパークですが、一度経営破たんしたことがありました。その後食品メーカー加ト吉が経営に加わり再会されたようですが、今度はその加ト吉に疑惑が持ち上がりかなり苦労をしているようです。

 午前中善通寺で早々と霊場参りを終えたため、香川だったら名代讃岐うどんを食べて行こうと、とある店へ入りました。間もなく昼飯時とあって店内は少し混み合っていましたが待つこともなく店内へ案内されました。妻と孫は釜揚げうどん、私は大根おろしうどんの大を注文しました。どちらも何のトッピングもないシンプルなもので、特に私の大根うどんは下しガネで自分で下し大根を作らなければなりません。少し多めにすり下ろしてうどんの上に乗せ、そこへ生醤油をかけるだけなのですが、夏の大根はかなり辛くうどんの本当の味を楽しむことが出来ました。だし汁もなく生醤油だけでうどんを食べることなど愛媛では余り馴染みがないのですが、近頃はテレビの旅番組などで度々紹介されているので、一度は食べてみたかったのです。

(うどん屋の店先で記念撮影をする朋樹)

(孫はブロック館でブロックの組み立てをしたかったようですが、ここで抜いた

 腹も太っていよいよレオマワールドへ到着しました。園内は正午過ぎの最も暑い時間帯なのに夏休み最初の日曜日とあって沢山の車が詰め掛けていましたが、駐車場はまだまだ余裕があってそれ程の混雑ではありませんでした。この日園内では農機具展示会が催されていて、子どもに関係のないような雰囲気が漂い、日焼けした農家の人たちが広い園内を汗だくになって右往左往している姿をよく見かけました。



 私と朋樹は4種類の乗り物に乗りました。冒険ワールド、クルリン自転車、足漕ぎボート、観覧車です。孫はまだ乗り物が怖いようで、乗る度に気乗りがしないようでしたが、冒険ワールドは室内に作られた夢の世界を気球に乗って一周するもので、とても楽しい旅でした。クルリン自転車は空中を二人乗りの自転車タイプの乗り物で一蹴するもので、かなりスリルがありました。足漕ぎボートは妻も一緒にボートに乗って池を20分航海するものです。足の届かない孫は真ん中に乗ってもっぱら船長さん役で体力のない妻は殆どブレーキのようで、私一人が20分にわたって漕ぎました。お陰で私はまるで潮吹き鯨のように汗びっしょりになりました。

 最後の乗り物は観覧車でゆっくり動くのでそんなに怖くはありませんでしたが、さすがに一番上に上がった時下界を見渡すと足元が怖いような錯覚に見舞われました。怖いといっていた孫は、伊予鉄高島屋のスケールの大きい観覧車に乗った経験があるらしく、涼しげな雰囲気でした。

 手も顔も出ている体中に太陽が照りつけ少し疲れたので午後3時早々にレオマワールドを出発し、高速道路を使って帰路に着きました。途中温泉に入って汗を流し夕食は孫のリクエストに応えて回転寿司でした。3人で30皿も平らげました。

 その足で下灘港祭りの会場まで車を走らせ、対岸のコミュニティセンター裏で花火を見学しました。二十年に渡って主催者として港祭りの企画や運営にかかわって、花火など見学する余裕もなかった私にとっては考えられないようなひと時でした。



 昨年は台風がやってきて皆と祭りも花火も中止となっていたため、昨年度の予算を使ったためか何時になく見事な花火だと、見ている人は大きな口を開け夜空を眺めながら拍手や歓声をあげていました。

 孫にとっても私たちにとっても、この二日は久しぶりにリフレッシュした休日となりました。孫は今日午後、迎えに来た両親と弟に連れられて、帰りたくないのにしょんぼりと帰って行きました。カブトムシの世話は私に頼まれました。

  「小旅行 孫と過ごした 二日間 写真見ながら 回想楽し」

  「来年は 学校入る どうなるか 今年最後と 思い出つくる」

  「フィナーレは 孫と一緒に 花火見て 爺婆も 幸せ浸り」

  「又来ると 泣きべそかいて 帰る孫 カブト飼育は じいちゃん頼む」 


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shin-1さんの日記

○孫を連れて遍路旅

 今日は午前中観音寺と善通寺周辺のお寺さん6ヶ寺を巡ろうと、7時から食事をして8時に宿を出発しました。今朝は雲ひとつない快晴の朝でした。カーナビでお寺さんの電話番号を入力し最初のお寺は第68番札所神恵院と第69番観音寺のお寺が同じ敷地内にあるお寺にお参りしました。お参りする人間にとっては二つのお寺が一緒にあるのは便利ですが奇妙なことです。寺の縁起によると明治の神仏分離令により68番の本地仏を観音寺の西金堂に請来したことにより、一境内2札所となったようです。

(第68番神恵院)
(第69番観音寺)
(展望台から寛永通宝の大砂絵)

 寺の裏手の山を登れば寛永通宝の大砂文字や根上がりの松など見所も多く、私たちもせっかくだからと一方通行の急な坂道を車で登りました。孫朋樹にとってはこんな大きな昔のお金は理解し難く、何度も質問されおばあちゃんはタジタジでした。そこから第70番本山寺、第71番弥谷寺を経て善通寺市内へ入りました。どのお寺も印象深いのですが特に弥谷寺(いやだにでらと読む)の長い108段の鉄階段は孫にとっても階段を数えて登ったため思い出に残るお寺でした。

(第70番本山寺の五重塔)
(第71番弥谷寺の長い鉄段)
(第72番曼荼羅寺)
(第73番出釈迦寺)

 第72番曼荼羅寺と第73番出釈迦寺は目と鼻の先でした。残りは飛び飛びでお参りしているため、第75番善通寺へのお参りです。ここは真言宗善通寺派の総本山らしく、弘法大師ゆかりの寺らしく他のお寺にはない広大な敷地と威厳を感じさせてくれました。寺の縁起によると唐から帰朝した大師は先祖の氏寺を建立せんとして、父通郷から寺領として荘園四町余りを拝受し、そこにかつて学んだ唐の青竜寺に模した堂宇を建てました。寺号は父の名をとって善通寺と命名し、山号は背後の5つの山にちなんで五岳山と号したようです。

(立派な石橋)
(第85番善通寺)

 この日はお参りしませんでしたが、ここの地下には89メートルの戒壇めぐりがあり、お寺の名所となっています。

 午前中駆け足で回った香川西方六ヶ寺参りは空に力強い入道雲が湧き上がる暑さの中でしたが、カーナビのお陰で路に迷うこともなくスムースにお参りが出来ました。これで残りは川之江の三角寺と松山市内のお寺を残すのみとなりました。

  「雲が湧き セミのしぐれや 寺めぐり 孫は迷惑 言いたげゾロリ」

  「木陰なく 汗を拭きつつ 心経を 唱えつお寺 次から次へ」

  「カーナビと いう文明の 力借り 迷うことなく お寺を巡る」

  「掛け軸に 独特書体 書く僧侶 汗などかかず 冷房部屋で」

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shin-1さんの日記

○プライベートな旅

 毎日小さな旅や大きな旅をし、特に大きな旅は旅先で泊まることが多いのですが、この2年ほどは殆どプライベートな宿泊を伴った旅はしていないことに気付いて、昨日と今日の二日間、四国霊場八十八ヵ所巡りを兼ねた小旅行に妻と孫朋樹を伴って出かけました。前にもブログで紹介しましたが、私たち夫婦はもう10年以上にわたってついで旅のついで遍路をしているのですが、私と妻の休暇予定が会わず、僅か八十八ヵ所のお寺さん参りなのに、未だに完結していないのです。私の退職を機に遍路旅を早く終わらせようと夫婦で相談したのですが、私の方が現職時代より忙しいのではないかと思うほどに忙しくなって、延び延びになってしまっていたのです。こんなことではバチが当るのも当然なので、後2日もかければ終わるので、何としても納経帳と掛け軸だけでも終わらせようと再び挑戦し始め、昨日今日のお参りとなったのです。

 昨日は妻の仕事が終わってからの出発なので午後3時でした。この時間だとお参りするお寺さんは納経所などは早々と店じまいしているので、宿の都合で金毘羅さんにお参りする事にしました。伊予のインターチェンジから高速に乗って善通寺までは、途中サービスエリアでトイレ休憩をしても2時間で到着です。

(門前をいざ出発です)

 この日は土曜日を含めると③連休とあって、金毘羅さんの門前もかなり沢山の人で混雑していました。相変わらず土産物屋さんの客引きにあい、土産物を千三百円以上買えば5百円の駐車料金がタダとあって、妻は早速子どもたちへの土産物を買ってからの出発です。西陽の傾いた午後5時とはいいながら梅雨の明けた太陽は容赦なく照りつけ、三人とも前身汗まみれになり、フーフーいいながら長い石段を、土産物やさんから借りた竹の杖をつきながら登りました。私たち夫婦より五歳の孫は元気で、石段の途中ではいつもトップで、「おじいちゃん、おばあちゃん早く早く」催促される有様なのです。

 私たちの生まれた漁村では、毎年夏になるとその年新造船を進水させた家では、海の神様といわれる金毘羅様か宮島様へ大漁幟を立ててお参りに行く風習がありました。親類や自分の家の船に乗ってお参りするのは、そんなに遠い所へ旅に出ることのなかった私たち子どもにとって、飛びっきりの楽しみであり、この石段は沢山の土産物が並んでいるまるで宝石箱の中を歩いているような夢の世界だったのです。最近は土産物事情も随分変わって、余り売れないと休憩のために立ち寄ったお店のおばちゃんはこぼしていました。

(境内にある凄く大きいスクリューの前での記念写真)

(讃岐富士を一望できる本殿、二人とも汗びっしょりです)

 本殿にお参りして、遠く讃岐平野を一望しましたが、讃岐富士や周りの山々、それに日本一多いといわれるため池が絵のように見えました。この風景は昔も今も変わらぬ見覚えのある風景なのです。お参りは予想以上に速いペースで僅か1時間ほどで元の駐車場へ帰って来ました。

(かんぽの宿では綺麗な夕日が出迎えてくれました)

 この日の宿はインターネットで調べて予約した観音寺にあるかんぽの宿です。カーナビに入力したとおりの道を40分ほど走りましたが、到着した時間は夕日が沈む時間で、高台の宿からは燧灘に沈む夕日がことの他美しく見えました。温泉で汗を流し午後8時からの遅い夕食となりましたが、孫は5歳以下で宿泊料は布団代以外タダで安い料金ながらサービスが行き届き、係りの人たちも皆さん親切でいい旅の思い出が出来ました。この夜は孫を真ん中にして私たち夫婦は川の字になって寝ました。孫との旅は想像以上に楽しいものです。来年からは小学生になるためこんな旅は出来ないかも知れないと思いました。

(孫朋樹君のために用意された豪華な料理)

  「金毘羅は 子どもの頃の 思い出が いっぱい詰まった 夢ある世界」

  「孫に負け 夫婦体力 下り坂 登りきらずに 下りを意識」

  「冷や汗は かかぬが大汗 かきました 孫と三人 お湯に浸かりて」

  「ホテル着く 迎えてくれた 夕日見て 遠く離れた ふるさと思う」

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