shin-1さんの日記

○青年団の愉快な仲間たち

 私は18歳から26歳までの若いころ、地元の青年団に入っていました。その頃はまだ町内には昭和30年の合併で双海町が誕生して20年近くが経っているというのに下灘、上灘という二つの青年団があって連合青年団があってもお互い競い合っていました。私が双海町青年団長に就任した23歳のころは団員も100人を超えていて、それぞれの地域には支部と称する下部組織がこれまた活発に、祭りや盆踊りを請け負っていました。26歳の時に愛媛県青年団連合会の会長を務め、結婚したこともあって私の青年団現役活動は8年間で終わりましたが、その中の最後の2年間は教育委員会で社会教育をしながら青年団のインリーダーとアウトリーダーを兼ねていましたので、社会教育13年間を含めると19年間も青年団と深く関わったことになるのです。県内には青年団活動を長くやった人は沢山いますが、これほど長く関わった人は他にいないのではないかと思うのです。

 自らが活動体となった8年間も思い出は沢山ありますが、むしろ青年を育てる側に回った13年間の方がいい思い出がいっぱい残っています。その中でも極めつけは1年で10人、10年で100人の青年を日本一といわれる国内の先進地に派遣してリーダーを育てることを目論んだ、「人づくり10年計画」は忘れることはできないのです。

 昨晩その中の日本一高い山富士山と日本一南の沖縄に派遣した人たちの集いが、シーサイド公園の芋炊き会場であり招かれて出かけました。新潟、大洲と宿泊付きの長旅が続いて少々お疲れモードで、しかも遠来の客が来宅していて出席をためらいましたが、会場から再三の携帯電話での出席要請と、妻の強い勧めもあって出かけて行きました。

 陽がとっぷり暮れた午後7時に伺ったのですが、10人の参加者はもう既に出来上がっていて、鍋の芋を食べアルコールを飲みながら賑やかに旧交を温めていました。敬子ちゃんやはるみちゃん、照子ちゃん、純子ちゃんたち女性も顔を出していました。かつてはみんなの憧れだったマドンナたちも50歳の坂を越えてすっかり落ち着いたおばさんになっていました。また健ちゃん、秀和君、文和君、水本君、山下君、時さんも私より年齢が少し下だけなので60歳を目前に控えているようで、頭に白いものが目立っていました。

 楽しかった若い頃の思い出は時として鮮烈に蘇ってくるものです。日ごろの忙しい雑事に追われてすっかり忘れかけていた思い出を、彼ら彼女たちは鮮明に覚えていて、「あの時こんなことがあった」とか、「○○ちゃんは××ちゃんが好きだった」とか、他愛もないことと思いつつも、青春時代の思い出話に花を咲かせました。

 青年団という言葉はもう日本国中死語に近い存在で、かつて青年たちが自分の住んでいる町や村の将来を憂えたような逞しい姿は見る影もありません。またそうした青年を育てようとする人たちの姿も皆無に等しい状態です。何かが狂い、何かがおかしいと思いつつも、どうすることもできないもどかしさが、私自身にもあるのです。

 彼ら彼女たちは青年団に入ってよかったと口々に述懐しましたが、それは偽らざる言葉だと思うのです。確かに彼ら彼女たちは青年団で大きく成長しました。地元の郵便局長を務める青木君は人の前に出るとあがる赤面症でしたが、青年団の演劇で自信をつけ今は堂々として活躍しています。また山下君も今は立派な市役所の課長さんに成長しています。

 小さな田舎の青年団はもう心の中の青年団となりましたが、これからも彼ら彼女たちの生き方の縁になって欲しいと願い、再会を約束いて早々に会場を後にしました。

  「思い出を 芋と一緒に ごった煮し 過ぎ越し昔 懐かしみつつ」

  「赤面の 癖ある人が 堂々と 局長勤め 嬉し活躍」

  「賑やかな 青年団も 今はなく 少し寂しい 秋の夜長を」

  「好きだった あの子も今は オバタリアン みんなこうして 歳をとるのか」 

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shin-1さんの日記

○自然体験指導者養成研修会②

 昨夜は夜なべ談義がかなり盛り上がり、しかもその勢いをかって研修会の会場を青少年交流の家から人間牧場へ変更するという荒業を、所長さんや次長さんにお願いして認めてもらいました。

 朝4時に起床して交流の家の窓から外を見ると一面大洲盆地特有の濃い霧に包まれていました。普通だとこの霧を見て雨を連想するところでしょうが、勝手知ったる大洲のことなので「今日は晴れるな」と確信して、再び床に入り本を読み始めました。このところ読書にふけっている本は童門冬二の小説二宮金次郎です。一時間ほど読んでいると東の空が明るくなりました。着替えて外に出て、下の駐車場を経て国道まで一気に坂を下り、再び上りました、結構いい運動になりました。

 その後シャワーを浴びさせ貰い、事務所で次長さんとお喋りや食堂で朝食を取り、バスでよいよ人間牧場へ出発しました。バスは見慣れ走りなれた道を五郎まで出て一気に肱川に沿って長浜まで約13キロの道を下って行きました。私は車内放送のマイクを持って五郎から双海町まで携帯電話対応の時間以外はずっと講義をし続けました。携帯電話は妻からです。人間牧場の鍵を途中で合流する場所まで持ってくるよう頼んでおいたためです。やがて下灘お信号にさしかかりましたが、妻が少し遅れて到着したため皆さんを待たせる結果となってしまいました。

 山道を縫うように走ること10分余り、さらにバスを降りて歩くこと5分で9時545分に到着です。見学の時間を10分ほど取っていよいよ人間牧場での私の講義を始めました。この日の講義は「自然体験プログラムの実際」ということで、「無人島に挑む少年の集い」と若者向けのイベント「夕焼けプラットホームコンサート」を取り上げました。

  ①無人島に挑む少年のつどいでヒットしたプログラム

   ・21世紀えひめニューフロンティアグループの結成

   ・天に向かつてブツブツ言うな雨の日には雨の日の仕事がある

   ・テントを使わない非日常生活

   ・メニューのない食事

   ・パロディ豊かなひょうたん型由利島共和国の建国

   ・ドラム缶の風呂

   ・丸木舟建造と瀬戸内海航海

   ・直径10mの竪穴式住居暮し

   ・島の郵便局

   ・メッセージ瓶流し

   ・飢餓体験

   ・埼玉県北本市との交流

   ・記録を残し作業

  ②夕焼けプラットホームコンサートでヒットしたプログラム

   ・まず一歩

   ・資金集め

   ・JR下灘駅のプラットホームを利用するという奇抜なアイディア

   ・公共の広報媒体利用

   ・マンネリ打破のために始めた夕焼け音楽祭

   ・行政巻き込み

   ・夕焼けトロッコ列車

   ・運営委員会の組織化

  ③ステップアップの7段階

  ④企画・立案に必要な5W2Hの法則

 まあおおまかこんな話をした後演習に入りました。その間私はボイラーで風呂を沸かし足湯ができる状態にして、各班ごとに足湯のサービスを行いました。限られた時間内での演習は中途半端になりましたが、皆さん元気にウッドデッキに陣取って熱のこもった話し合いをしました。12時片づけをして人間牧場を発ち交流の家に13時ちょうどに到着、遅い昼食を食べた後約1時間簡単な発表やまとめ作業を終え15時ちょうどに全ての講義を終えました。最初は長いと思われた二日間も終わってしまえばあっという間で、少し時間が足りなかったと詰めの甘さを反省しています。でも皆さんの感想はかなり良かったと、担当の韓さんから夕方お礼のメールが入りました。

 少し疲れ、大いに楽しく、沢山のエネルギーをいただきました。皆さんお疲れ様でした。

  「ああ俺も あんな時代が あったっけ 若さ全開 俺にはとても」

  「バスの中 息も切らさず レクチャーす 眠りもできず 参加者・・・・」

  「5人づつ 車座になり 足入れて お湯を楽しむ 午前ひと時」

  「こんな場所 俺も欲しいと 言うけれど 並大抵で できる訳なし」



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○自然体験活動指導者養成研修会①

 昨日と今日の二日間、国立大洲青少年交流の家が主催する「自然体験指導者養成研修会」の講師として参加しました。一昨日新潟から帰ったばかりなので、休む暇もない忙しさです。新潟へ旅立つ前、私はこの忙しさを予想して、主催者の求めに応じレジメをインターネットで送っておきました。私はレジメに沿って話しすることが苦手で、普通はどんな研修会でもレジメを用意しないのです。むしろレジメを出せと強要する集会には行かないようにしているのです。というのも、私がよく行く行政がらみの行政マンの集会は、レジメを出すとメモも取らずにそのレジメを復命書に「別紙のとおり研修会に参加したので復命します」で報告になり旅費が出るようになっているのです。最もずるい人は研修会の最中ほとんど居眠りをしてもこのレジメがあればOKなのです。しかし今回は、北は青森から参加するという話を聞いていたため、また新潟の長旅の後で準備する暇がないことからよくよく考えて、レジメを用意したのです。

 私の出番は昨日の一日目は夕方19時から20時30分までの90分、二日目の今日は午前中9時から12時まで180分、午後は13時から15時までの120分、つまり全体では6時間30分の持ち時間なのです。「そんな長い時間何を話すの?」と首をかしげるほどの長時間を、しかも講義と演習テーマが「プログラムの企画・立案」というお硬いテーマなのですから、首をかしげるのも無理からぬことなのです。

 私の昨夜の講義は「いい企画をものにする方法」というテーマで、次の10項目について話しました。

 ①アンテナを高くして心の扉を開け

 ②潜在能力と顕在能力

 ③アイディアは日ごろの問題意識

 ④はじめの一歩が大事

 ⑤イメージを売るCI戦略

 ⑥物語をつくる

 ⑦情報加工が必要

 ⑧マンネリ化の防止

 ⑨よい企画をものにする三つのキーワード

 ⑩いい企画をものにする方法で夕日をものにした町

 北は東北青森から、南は九州大分まで20人余りの参加者が熱心に耳を傾けてくれました。

 21時からは会場を二階から三階に移し夜なべ談義が始まり賑やかな交流となりました。所長さんや次長さんんも参加して、交流の輪は次第に広がり、あくる日どうしても人間牧場へ行きたいという人が沢山出て、所長さんや次長さんがその要望を即決で受け入れてくれて、深夜にもかかわらずバスの手配、運転手の手配などに慌ただしく動きました。その結果談議はいやがうえにも盛り上がり、10時までの予定だった私も11時まで付き合いました。

 今回の参加者は老若男女という表現は少しオーバーかも知れませんが、私と同年代の人もいたりしてバラエティに富んでいて、それでなお積極的でいい刺激になりました。また若い人も自分の生き方を模索しようとする姿がありありでした。

 その夜は別棟の講師専用宿泊所で一夜を過ごしました。青少年交流の家で宿泊するのも一年ぶりのことなのでゆっくり休むことができました。

  「水テーマ 企画立案 講義する 夜というのに さすが熱心」

  「レジメ見て 話はするが その通り 話もせずに 講義終わりぬ」

  「牧場へ 明日は行きたい 口々に 本部掛け合い まるで交渉」

  「今日もまた 自宅を留守に 旅に出て 仮のお宿で 一夜を過ごす」

 

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○2014年問題

 最初「2014年問題」と聞いて私は残念ながらピンときませんでした。したがってその基調講演講師やパネルディスカッションパネリストとしての出演依頼を躊躇しました。しかしパネルディスカッションのテーマである「地域を元気づける国際観光の役割について」を聞いて少しお手伝いができるかも知れないと、ほくとう総研の清水女史からの打診を受諾しました。

 よく「0000年問題」といば、人口の将来推計問題などが取り上げられて議論されますが、私が分からないはずです。この「2014年」という年的に中途半端な数字は上越新幹線の利用促進の問題なのです。

 北陸新幹線の金沢延伸により、高崎以北の上越新幹線の本数削減と枝線化、そいて圏域の経済活動の低下が懸念される問題は新潟県の沿線市町村ほか関係団体が一致団結して取り組むため上越新幹線活性化同盟会が設立されていて、その問題を話し合うため県内で連続フォーラムを6回やる、その4回目が今回のフォーラムなのです。

(司会進行をしたほくとう総研の清水さん)

 上越新幹線は歴史をたどれば1971年に起工され、1982年に大宮~新潟間が開業しています。そして2005年には東京~越後湯沢間が時速240キロの高速運転開始となっているようです。

 新幹線も通っていないし、通る目途さえ立っていない四国からすれば、何と贅沢な悩みだろうと思うのですが、ご当地にはご当地の悩みがあるようです。

 私はそんなに高慢な話はできませんが、かつて廃線と噂さされていた予讃線海岸周りを夕日という一見何の関係もない地域資源で存続させた経験を持っています。またこれまた何の関係もないように見えるホタルで築76年の古い木造校舎を残し、環境省のエコ改修に持っていった話も同じような事例として紹介しながら、経済だけで物事は解決せず、むしろ沿線住民の地域づくりが地位kの魅力を作り出し、結果的に新幹線の必要性に結びつくと訴えました。

 四国には新幹線こそないものの、海を渡る橋のルートは3本もあるのです。その橋も全く同じような悩みを訴えているのです。橋の通行料金を安くしろという二口目にはいいます。

 離島振興法を作った民族学者宮本常一は提灯行列をして喜ぶ離島の人たちを見て「離島振興法があるから離島が良くなるのではない。離島振興法を必要とするとき島はよくなるのだ」と説いたそうですが、離島振興法を橋や新幹線に置き換えるとその崇高な理論は理解できるのです。

(議論を戦わせたパネラーの皆さん)

 他力本願の地域はいつまでたっても良くならないのです。新幹線の向こうに何があるか、それは利用する人たちにとって大切なことなのです。今新潟はNHK大河ドラマ「天地人」の決定に沸いていて、各地でその幟がはためく姿を見ました。また佐渡金山の世界遺産も目指しているようです。多くの大河ドラマや世界遺産が「こんなはずではなかった」と落胆の歴史を繰り返していることを思えば、もう少し地に足の着いた活動を望むのは、他の町の冷めた人間の意見だと叱られることを承知の上であえて冷や水をぶっかけて帰りました。「もっと明るく生き生きと輝こうよ」と締めくくられた長岡造形大学理事長豊口先生の言葉が印象的に残っています。

  「ほくほく線 乗ってみたいな 金沢へ どうなる静脈 少し気がかり」

  「新潟は 夕陽のきれいな 県ゆえに 酒とお米で 十分満喫」

  「良寛の 愛した夕日 もう一度 見たいもんだな この次はぜひ」

  「白熱の 議論期待し 乗り込むかが 時間なくなり 残念至極」


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shin-1さんの日記

○ちょっとした時間に東京カメラ散策

 台風の影響で一日早く東京入りしたため、少し時間があったので浜松町界隈と、東京駅から歩いて近い皇居前を散策しました。私は東京へ行くと空いた時間を割いてできるだけ歩くようにしています。ゆえにこの日も昼食時間をはさんで、携帯に内蔵している歩数計では一万六千歩も歩いていているのです。

 浜松町駅からは街の中にありながら海の玄関口竹芝桟橋y恩賜公園も近くにあり、ます。私はその方向とは逆の増上寺の方面、つまり東京タワー方面へ向かって歩きました。この付近では昔えらい目に遭ったことがあります。北海道へ研修会で出かける折、この付近で台風の大雨に遭い下水から噴き出した水害で水浸しの中、下半身水に埋まってしまったのです。そんな苦い思い出を思い出しながら、芝増上寺の山門をくぐりました。そこはまた別世界で、広い境内は人も少なく、荷物をベンチに置いて周辺を散策しました。

(山門入口付近に大きな西洋松があり、根元にアメリカ大統領グラント将軍が日本に来た時に植えた松という故事来歴が記されていました)

 手水で手と口を清めていると、歌碑が見えました。


 「池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」と書いていました。これは法然上人の名句です。人の心の変わりやすさを詠んでいますが、いい句にめぐりあいました。

 荷物を持って本堂に入りました。かいがいしく働くお坊様に了解を得て本堂の写真を撮らせていただきました。外の喧騒が全く嘘のように本堂内は静まり返り、私も本尊に手を合わせて無心に旅の安全を祈りました。



 本堂を見返ると真赤な日本のシンボル東京タワーが増上寺の屋根の向こうに新旧対比のように見えました。私はそこから元来た道を折り返し、JR浜松町駅から東京駅へ向かいました。途中乗った若草色のラインの入った山手線の電車の車窓から新橋駅の駅前に置かれているSL列車が見え、カメラに収め、「♭汽笛一斉新橋を~♯」と口ずさんでみました。

 東京駅は何度か利用しますが、駅構内ではあの赤レンガの趣あるレトロは感じることもないので、久しぶりに外に出ました。改修工事の最中で工事用のフェンスの隙間から頭の部分だけを写真に撮りました。やはり古いもものはいいもので歴史の重さを感じました。

 今回の旅は長逗留のため少々荷物が重いため移動範囲は限られるとあって、東京駅からまっすぐ歩いて皇居前の噴水公園に出ました。水のオブジェもいいもので、すっかり汗ばんだ体を一辺に癒してくれました。

 若いカップルから記念写真らしくシャッターを押してくれとせがまれたり、水遊びする子供たちと談笑して皇居前の橋を渡りました。

 幾つかの橋や門や石垣、堀などをゆっくりと散策し、時折通る警察官ににわざと謂れを聞いたりしながら二重門前まで進みました。



 私はこの日まで二重門とは眼鏡のように映る上の写真だとばかり思っていました。ところが警備に当たっていた警察官の説明によると二重門とはさらに奥まった場所にかかっている橋だそうで、昔は上下に橋があったそうです。今は下の写真のように一重橋になっているそうです。


皇居の広場はそれは広く見渡す限り芝生と松の緑に覆われていました。まさに遠望のビルに囲まれた異空間でした。最近は日本人のような顔をしている者の外国語を話す人が多く見学に訪れているようで、警備の警察官も韓国語で説明しているようでし頼もしく思いました。

 ほんの束の間のたった一人だけの散策でしたが、心をリフレッシュすることができました。汗をかきながら別の道を東京駅まで戻り、上越新幹線の乗り場となったプラットホームで、今回の旅の同行者であるほくとう総研の清水女史と息もぴったり出会い、時ならぬ「とき」の人となりました。

  「東京は なんでこんなに 綺麗なの 日本の誇り 垣間見ました」

  「東京の 駅で会おうと 約束し 嬉しいことに ぴったり出会う」

  「束の間も その気になれば 有意義に 旅のだいご味 思う存分」

  「法然の 詠みし短歌に 感じいる 今も変わらぬ 心ありよう」  

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shin-1さんの日記

○長い旅を終えました

 愛媛~東京~新潟~東京~愛媛と4日間の長い旅を終えました。目的の集会は打ち合わせ時間を入れても僅か5時間程度なのに移動にこれほどの時間を使うのですから、狭いといいながら日本も広いものです。それでも考えようによってはその移動の時間が至福の時で、今朝は東京浜松町のホテルを早めに発ってモノレールで羽田まで行きました。

 一昨日高村さんからお土産に頂いたオカキ類を大事に持っての旅です。松山行きの全日空h午前9時25分発でした。羽田のゲートでは何人もの知人に出会い、搭乗手続きが始まるまで様々な話に花が咲きました。特に間もなくあるかも知れない衆議院議員選挙談議は情報が入り乱れ、こちらでいい顔の人があちらでは意外とぼろくそに言われてみたりごひいき筋がよく分かるような話で面白く聞かせてもらいました。

 早いものでもう来年は私の街も市長選やs議会議員選挙があるのです。水面下では早くも火花が散っているようで、何かにつけて日頃は縁遠いそれらの人が突如として集会の挨拶に来ていたり、面白い珍現象が見られます。また最近は冠婚葬祭への電報発信や、市内の至る所に事前運動ともとれる選挙を意識したお尋ね者用に似た顔写真ポスターが貼られ、「選挙近し」を感じさせてくれるのです。

 飛行機は、台風13号以来の不安定な天気のため大阪上空辺りからかなり揺れが激しく、着陸のため下降を始める頃には、気分が悪くなるほど大揺れでした。特に機内放送で落雷にあったと放送された衝撃はやばいと思うほど体に堪えました。私はかつて船乗りだったため、たいがいな衝撃は平気なはずですが、海の上はたとえ船が沈んでも泳いで助かるという安心感があるのですが、空は落ちたら終わりという不安感のため恐怖が付きまとうものなのです。

 それでも飛行機は小雨が降る松山空港へ予定より少し遅れて午前11時に到着しました。空港には妻が迎えに来ていて、空港のはずれに待機していた車で再開です。たった4日間ぶりなのに、妻でありながらどこか懐かしく

感じました。車に乗ると妻は堰を切ったように4日間の空白を話してくれました。台風13号は被害がなかったものの一人で不安だったこと、誰と誰が亡くなって香典を包んで届けたこと、今朝はどしゃ降りの雨が降ったこと、今日は雨なのに市民体育大会が開かれると放送があったこと、今日はお地蔵様の縁日でお接待の赤飯を炊いたので朝から忙しく振舞ったこと、などなどを話してくれました。

 松山市内道後に住む娘の所へ立ち寄りましたが、娘と孫はレインボーハイランドへ出かけて留守、留守番の娘婿と孫もどこかへ出かけて留守でした。仕方なく入口に品々を置いて帰りました。帰る途中妻と一緒に温泉に出かけ、旅の汗とを流し無精ひげを剃り落としましたが、やはり地元愛媛へ帰るとホッとするものです。

 帰りの車で妻は私に、旅の思い出w聞きたがりました。新潟など行ったこともない妻にとって、私の思い出話が楽しいのでしょう。お酒を飲まなくなって、新潟では少し寂しかったことも、越後湯沢の温泉がとびきり気に入ったことも、この3日間素敵な女性と一緒だったことを話して聞かせてやりました。長い旅は終わりました。

  「ある人(女)と 一緒の旅の 思い出を 話すも妻は 驚きもせず」

  「留守守る 妻のお陰で 旅できる 感謝の気持ち 言葉じゃちょっと」

  「あの人も この人も亡く 留守中に 妻の説明 佳境に入りて」

  「ふるさとの 訛懐かし 空港で 選挙談議に 花を咲かせる」  

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shin-1さんの日記

○東京での一夜

 昨日は新潟県南魚沼市浦佐でのフォーラムが終わって、一便早い上越新幹線浦佐発ときに乗り込みました。フォーラムもそれなりに成果を収めたようで、ホッとした気分でした。ところが東京で人身事故があったらしく、新暗線ながら鈍行列車と同じで全ての駅でノロノロ運転とない、30分以上遅れて東京駅に着きました。東京から往復同行した清水女史と積もる話をしながらの旅だったので、とてもハッピーでした。清水女史は上司だった青木さんとともに秋田でのフォーラムで知り合い、5月15日にはお二人お揃いで人間牧場を訪問していただいたし、ほくとう総研の機関紙に寄稿したりして深いつながりとなっているのです。

(上越新幹線ときの車内で私が手を差し伸べてツーショットの写真を撮らせてもらいました。

 東京駅で清水女史と別れ、私はあくる日の飛行機便のこともあって浜松町に宿舎を予約いていたので、少し夜の街を歩き、東京タワーで待ち合わせていた政府のお役人と落ち合いました。久しぶりの出会いでしたが国のお役人も何かと忙しそうで、昔であれば中央の流れを聞き出そうと懸命にこちらが知恵を絞ったものですが、今はむしろ政府のお役人が、生き生きと輝いて生きている私たちのような地方人を見て羨ましいらしく聞き入り、地方の動きに関心があるようでした。

 昨夜は台風も海の彼方に去って、雨も上がり静かな夜でした。暗闇に東京の象徴である赤い東京タワーが浮かび上がり、ひと際美しく見えました。高層ビルが立ち並ぶ東京では次々と話題のビルディングが建ち、東京タワーは落ち目かと思いきや、昨晩はたくさんお若者や外国人が夜景お楽しもうと集まってかなり混雑していて、東京タワーに上り夜景を楽しむ目論見も、若者に交じって並ぶ勇気もなくもろくも崩れ、下から見上げる近所のガーデンに席を取って二人で話しこみました。彼はビールを大ジョッキで4杯も飲み干しましたが、呑むほどに饒舌となって、呑めない私は押され気味でした。彼とは九州博多の研修会で知り合い、これまでにも彼を通じて、東洋の人脈を広げてきました。

 彼以外にも「東京に来たら是非」とよく言われるのですが、「上客は来ず、中客は日帰り、下客は三日泊まり」といわれるように、嫌われてもと思い、私はその人脈に余り会うことをせず、東京は旅の通過点として上客に甘んじているのです。

 ホテルへ帰ると11時を過ぎていました。風呂で汗を流し木になるカバンからハガキを取り出し、この日のノルマである3枚のハガキをしたためました。20年余りもやっているハガキ3枚を毎日書く習慣は、私の凡事徹底なのです。相変わらずのまずい字も気にせず、その人のことを思って書きました。

 携帯電話に地域政策研究センターの清水研究員からメールが入っていました。彼には新幹線の車内で「明日が宮沢賢治の亡くなった日です」とメールを送っていたからです。清水女史から聞いた賢治の亡くなった日を清水研究員に伝えただけなのですが、奇遇とでもいうべき女性の清水さんと男性の清水さんの橋渡しをしました。

清水研究員は宮沢賢治に心酔している人なので、喜んでの返信でした。

 午前0時を回ったところで、「やばい」と思い東京での夢の世界へ入りました。

  「東京が 何故かだんだん 近くなる 月一程度 指折り数え」

  「タワーさえ レトロ感じる 歳になり 若者長蛇 列に入れず」

  「鉄塔を 下から見上げ 人間の 偉大な力 感心しきり」

  「東京は 部分かじりで アンチ感 奥の深さに ただ驚きて」

 

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shin-1さんの日記

○今日は台風一過よく晴れています。今日は大切なフォーラムに参加するためこれから出かけます。

 こう見出しだけをホテルのロビーに置いているインターネットに走り書きしてホテルを出ました。メールのやり取りは調査役の大関さんでしたが、この日私を迎え生にきていただいた方は佐藤次長さんでした。銀行の黒塗りの車に清水さんと乗り込み、午前中は南魚沼地方をご案内していただきました。

(越後湯沢は新幹線で来るとわずか1時間半余り、東京からも近く、バブル全盛時代に建てられたマンションが異様なほど林立していました)
(冬のスキーシーズンだけ開業するという珍しいガーラ湯沢駅)
(ガーラ湯沢駅から見返る越後湯沢の市街地)

 カメラで行った場所を少し追ってみます。①大源田キャニオンです。

(大源田の湖面)
(キャニオンにかかる釣り橋)
(キャニオンの入口)
(橋の下の湖面には無数の淡水魚が泳いでいました。餌付をしているため。橋上から餌をやると凄い量の魚が集まってきました)

②続いて鈴木牧之記念館を訪ねました。

(記念館の入り口、館内には代表作品北越雪譜など数多くの文筆作品が展示されていました。十返舎一九との親交も深かったようです)
(日本有数の豪雪地帯の様子がリアルに展示れていました)

③日本一の呼び声高い銘柄米魚沼産こしひかりの産地のJAを訪ねました。

(新米は10月1日から発売開始だそうです)

④富岡ホワイト美術館を訪問しました。

(富岡ホワイト美術館の入り口)
(新潟は花火で有名な場所がたくさんあり、作者富岡惣一郎の作風はホワイト絵の具、花火がキーワドのようで、とても新鮮でした)

(富岡ホワイトからの遠望は稲穂が黄色く色づきそれは見事でした。冬にはこの黄色が一面銀世界になるようです。遠望は八海山です)

⑤八海山神社を訪ねました。

(神社に通じる長い参道は古い杉並木が続いていました)
(八海山神社の本殿)
(赤滝という滝のすぐ傍に男根と女根の祀られた怪しげな場所があり顔を赤らめてお参りしました。

(鉄分を含んだ水が流れる赤滝)
(台風一過のさわやかな初秋の風が吹いて、道端に桔梗が印象的に咲いていました)

 いやあ、実に楽しい、そしてリフレッシュできた半日でした。

  「風人(かぜびと)と なりて越後路 訪ねけり 桔梗一輪 われ向き咲きて」

  「八海山 雲を従え そびえけり 間もなく白い 衣に着替え」

  「幾人が 参道踏んだ 杉並木 静寂保ち われを迎えん」

  「赤滝の 水に手を漬け 涼をとる しぶき頭に 時々かかり」 

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shin-1さんの日記

○新潟県越後湯沢に来ています。高村秀夫さんに会いました。今日は魚沼市へ向かいます。

昨日までの二日間、ノロノロ迷走の台風13号に翻弄されっぱなしで少々疲れましたが、それでも台風13号と並走するような形で東京へ無事到着し、ほくとう総研の清水女史と東京駅で合流、上越新幹線で前泊予定の越後湯沢に着きました。越後湯沢駅でぽんしょ館社長の高村秀夫さんと談笑し、越後湯沢駅のお店を見学させてもらいましたが、さすが酒どころ新潟だけあって、100軒ほどの造り酒屋の酒がずらりと並び、呑み助にはたまらないような有名な銘柄のお酒がずらり並べられ、500円出せば5銘柄の酒がその場で楽しめるのです。

 ディスプレーも凝っていて、呑み助が一升瓶を枕に寝そべっている姿や、酔いたんぼが壁に持たれて物思いにふける姿は、どこか酒飲みだった昔の自分を思い出させるようで、どきりとして思わず吹き出してしまいました。その写真は帰ってから、このページに挿入しようと思っています。


 ニューオータニホテルへ今日の迎えの車がやってきて、午前8時30分に出発しなければなりません。ホテルのロビーに設置しているインターネットコーナーにここまで書き込んで、さあ出発です。

 昨日はここまで書いて出かけたのです。しかしよくよく考えてみれば、旅の目的地でもない越後湯沢に前泊のために立ち寄り、ほくとう総研の清水女史の紹介で知り合った高村秀夫さんという人物とどことなく気が合い、どことなく気になる人だと思うようになりました。というのも、その後日本政策投資銀行の佐藤次長さんの案内で南魚沼地方を散策している途中、高村さんから私に携帯電話が入り、私の講演を聴き行ってもいいかと、打診があったのです。高村さんからは前日会った折、近々愛媛県愛南町へ仕事で来るという話を、前もって聞いていたので余計親しみやすさがあったのかも知れません。

 高村さんは約束通り昨日、「2014年問題とこれからの新潟を考える」連続フォーラム、第4回南魚沼市会場となった、南魚沼市コミュニティホール「さわらび」にやってきて私の話を熱心に聞かれました。多分彼が手がけた上枚の写真を見れば彼のセンスの良さが分かると思うのです。

(この方がぽんしょ館の社長高村秀夫さんです。なかなかハンサムな男です
(ぽんしょ館の店内はかなり凝ったディスプレーが施されていました)
(新潟の100軒近くの日本酒蔵元の酒が利き酒できるすごい装置がお店に中にありました。ワンコインで盃杯の銘柄が楽しめるのです。
(この看板も気に入りました。味わう酒、浸る酒、浴びる酒、呑み込む酒、呷る酒とは驚きました)

 私は年中旅をして歩きます。そして行く先々でいろいろな人に会い、色々な名物を飲み食いしますが、体の都合で酒を絶ったことをこの日ほど悔んだことはないのです。でもその悔み分だけいい人に出会いました。同行したほくとう総研の清水女史は勿論のこと、銀行の佐藤次長さんや高村社長さんに会って新しい予感を感じさせてくれました。

  「悔やんでも 悔みきれない 今日だけは 酒断ち身にて 酒の本場を」

  「一升瓶 枕に寝てる ディスプレー 社長発想 これに参った」

  「新潟は 酒の国だと 聞いてたが 凄いもんだな ずらり壮観」

  「利き酒や 風呂に酒まで 酒ずくし 酒の国だと 感心しきり」  




 

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