shin-1さんの日記

○サギの被害に遭いました

 「わが家はサギに遭いました」と書けば、「えっ、ウソ~」とか、「えっ、本当?~」などと問い直され、「もしかして振り込め詐欺では」と言われそうですが、わが家が被害に遭ったのは詐欺ならぬ鳥サギの被害なのです。

 数日前の月曜日、娘たち家族が泊まりにやって来た折、倉庫の屋根に止まっている大きな鳥を見つけ大騒ぎをしていました。羽を広げれば1メートルもあるような娘たちにとっては見たこともない水鳥です。何年か前シーサイド公園の池の鯉がサギの被害に遭ったことを思い出し、どうも家の隅にある池の魚を狙っているようなので、石を投げて追っ払いました。多分この仕打ちに恐れをなしてもう来ないだろうと鷹を食っていたのです。ところが一昨日の朝そのサギが池に降り立ち、親父が朝晩餌をやって大切に育てていたフナ金10匹のうち7匹までが餌食に遭ってしまったのです。親父の落胆は相当なもので、後の3匹を守ろうと昨日は一日がかりで金網で池の蓋を作ったのです。金物屋へ金網と木枠の材料を買いに行き、朝からその作業に追われていました。しかしその作業中もサギは残った3匹のフナ金を狙い、金網の蓋ができる30分前、親父の目を盗んで残りの3匹を食べてしまい、どこかへ去って行きました。

 詐欺なら警察へ被害届を出すのですが、サギなので苦情窓口もなく自然の成り行きとして泣き寝入りするしかないのです。長年大切に育てていた大きな鯉が昨年、原因不明の病気にかかり死んだ時は、池まで潰して嘆き悲しんだ親父ですが、今回は買い始めてまだ1年足らずということもあって、以前ほどではないにしても、やはりショックはあるようです。

 前日やって来た息子に、別府養魚場でまた買い求めて欲しいと頼んでいました。詐欺ならいざ知らず鳥のサギも相当な悪者で、歳老いた親父のささやかな喜びを奪い取る行為は絶対許せないのです。今は主のいなくなった池の上に親父の作った金網の蓋がむなしく置いているのです。

 最近はシラサギなどの水鳥が沢山増えたような気がします。トラクターで田んぼを中耕している後ろでは、掘り起こされた土中から出たミミズを狙って臆することもなく群がっている光景を何度も見ましたし、アユが遡上するころになると、浅瀬で待ち構えて食べている水鳥をよく見かけます。またこれらの水鳥は淡水魚を食べるものとばかり思っていましたが、近頃は海辺にも集まって、カモメならぬ水鳥が小魚を啄んでいるのです。環境の変化を思わずにはいられないようです。

 人間が人間をだます振り込め詐欺も、日本全国では相当な数に上っていて、警察も強化月間を設けて高齢者が被害に遭わないよう本格的に取り組むようになりました。私も初期のころそのターゲットにされた経験がありますが、幸い未遂に終わりました。息子が交通事故を起こしたという想定で、息子は電話に出れないほど消沈していて、示談で済ませるからお金を振り込んで欲しいという犯人からの電話を聞いた時は、私もお金を用意しなければならないと思った程です。でもお金は妻が管理していて私は直ぐにお金を用意できないとワンクッション置いたお陰で難を逃れたのです。

 わが家は詐欺にも狙われ、今度はサギにまで狙われ人間より知恵が勝ったサギはものの見事に魚を奪って逃走して完全犯罪が成立しました。次回からは詐欺にもサギにも二度と会わぬよう備えを強くしたいと思いました。

  「詐欺ならぬ サギに魚を 食べられて 親父落胆 犯鳥逃走」

  「振り込めは 機転未遂で 良かったが サギの被害は これから先も」

  「このサギは 被害届も 出せぬので 結局最後 完全犯罪」

  「水鳥が 何故か増えてる 可笑しいな これも環境 変化と見るか」

 

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shin-1さんの日記

○生協コープえひめ合併5周年記念講演会・祝賀会

 昨夕コープえひめ合併5周年の記念講演会並びに祝賀会に出席しました。これまでにも結婚式や祝賀会など華やいだ式典や祝賀会には何度も出席し、それなりの席をいただきそれなりの役目を果たしてきましたが、受付で「若松さん、あなたの御席は4番のテーブルです」と知らされたので、広い会場に入りお目当ての席を探しましたが、4番テーブルに私の名前は見当たりませんでした。そのうち次々と列席者が詰めかけ、困ったなあと思いつつウロウロしていると、顔見知りであるコープえひめの白川さんやコープしこくの梶原さんが一緒に探してくれましたが、私の席は4番ならぬ3番のテーブルだったのです。前に5列並んだ1~5番のテーブルは普通は来賓席、しかも3番は主賓席なので、間違いではないのかな?と身分をわきまえて思いましたが、固辞することもできず指定された御席へとりあえず着席しました。しかし同じ席には講演予定の日本生協連の山下会長さん、コープえひめ理事長の大川さん、愛媛県県民環境部長の長野さん、松山市副市長の岡本さん、松山大学長の森本先生、愛媛経済同友会代表幹事の稲葉さんなど、内外の顔ともいえるそうそうたる顔ぶれなのです。こんな高い席をいただく理由もなく、少し沈んだ心になりましたが、それでも「日本の生協の未来について」と題した日本生協連山下会長さんの話に熱心に耳を傾けました。山下会長さんの話は中国ギョーザ事件の真相に触れながら、日本や外国の食に関する様々な問題点をあぶりだして話されました。生協連トップの話など滅多に聞けないので、改正生協法や生協の未来について聞くことができとても参考になりました。ただ惜しむらくは1時間半の講演予定が講師の思い違いか確認ができていなかったのか、2時間に引き延ばされたことです。私は時間延長してでも聞きたい話でしたが、祝賀会も予定されていて少し白けた雰囲気は否めませんでした。

 結局予定されていた松本専務のコープえひめ近況報告はカットされ時間は引き戻されましたが、私は次の会議がセットされていて、僅か30分間祝賀会に参加しただけでやむなく席を立たなければならなくなりました。しかし上席をいただいたご恩には報いなければならないと、メーンテーブルの方々と名刺を交換し少し長めのお話をさせてもらいました。取るに足らない私のイラスト名刺の効果は抜群で、皆さんそれぞれ私のことや夕日でまちづくりをして実績を上げた双海町のことはよくご存じで、むしろ逢いたかったと盛んに会話を求めていただき、観光やまちづくりについて様々な意見を求められました。

 コープえひめの有識者理事に就任して2年4ヶ月が経ちました。その間慣れない役職に翻弄されながら、月に一度の理事会に出席したり、生協がらみの研修会に参加したり、また機関紙にエッセーなどを書いてきましたが、今更ながら生協運動や活動の奥の深さを噛みしめいています。幸い大川理事長さんや松本専務さん、それに理事さんたちの温かい人間性に触れて少しずつ前へ進んでいるようです。その意味で昨日の山下会長さんの話は新居浜出身ということもあってとても参考になりました。

 この日は地元密着をPRする四国・九州アイランドリーグの選手の皆さんも会場に来ていて、ロビーや会場で盛んにPRや交流をしていました。また会場には今回の祝賀会の主催団体であるコープえひめ虹の会の皆さんも沢山いて、何年か前虹の会で講演したことがきっかけで、あちらこちらに招かれて話した顔見知りの方もいて、嬉しい再会となりました。全日空松山ホテル南館を後にした私は、その足で仲間の待つ次の会場へ小走りで出かけ、10時過ぎにその会も終わって帰宅の途につきました。

  「東京を 舞台に動く 著名人 話の奥を 探すは自分」

  「高い席 俺に不相応 面映ゆく それでも仕事 交遊温め」

  「ああ夕日 あなたですかと 手を握り 逢いたかったと 追い打ちかける」

  「生協に 入って知らぬ 世界知る 未熟さもろで 赤面しばしば」

  

 

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shin-1さんの日記

○戦争を語った史談会

 私の町の史談会が立ち上がって3年になります。きっかけは町誌編さんでした。私が町の教育長の時マニフェストとして始めた町誌編さんは、合併まで僅か2年というタイムリミットがあったのでかなり切羽詰まり状態での編さん作業となりましたが、多くの方々のご協力をいただき何とか目標通りの成果物を出版することができました。その折集まった方々と少し歴史談義でもしようかと始めたのですが、事務局を担当していた中尾先生がウィーンの日本人学校へ赴任してしまい先行きが危ぶまれましたが、幸い歴史に詳しい元高校校長の磯田先生が事務局を引き継いでもらったため、2ヶ月に一回の例会も15人くらいが集まって勉強会が行われているのです。

 昨日は祠堂調査の進み具合について意見を出し合い、シリーズで行っている「戦争を語る」というテーマで二人の人が宅話をしました。

(戦争を語る梶原先生)

 最初に話したのは開業医の梶原先生です。大分県耶馬渓生まれの先生は学生時代に戦争を経験し、医大の前身である朝鮮の医専で医学の勉強をされ医者になりました。果敢な青春時代は戦争の真っ只中で、かなりの苦労があったようですが帰国後医者として熊本に赴任し、三机を経てわが町へ来られて開業し今に至っています。先生は長らく町の文化協会会長としてボランティア活動をされましたが、高齢になった今も元気で現役医者として活躍しています。

 次に話したのは農業を営む久保進さんでした。久保さんは女学校に通うお姉さんが徴用先の今治で空襲に遭い死んだ話をされました。まさにもう一つの戦争です。当時小学校6年生だった久保さんはお父さんに連れられて、身元すら分からないように焼い弾で黒く焼け焦げたお姉さんの遺体と面会したそうです。焼け残った僅かなリュックの紐にお姉さんの名前が残っていて身元確認ができたそうですが、懇ろに弔ってくれた柳沢という人の思い出話はこれまた涙を誘うような話で、胸が詰まりました。

 私は昭和19年の生まれですから正直戦争の思い出などは全く皆無です。でもそんな時代に生まれたせいか、祖母や父から戦争の思い出は嫌というほど聞かされました。親父が戦地に赴いた銃後の暮らしは子だくさんだった故に祖母にとっても母にとっても筆舌に尽くし難い苦労の連続だったようですが、それでも必死に貧乏と戦いながら生きてきたのです。特に祖母は久保さんと同じように二人の娘を徴用先の大阪で戦火で焼け死なせているので、涙も枯れるほどの辛さだったようです。

 さて、皆さんの話で、来年の春までに自分の戦争体験手記を書くことになりました。400字詰原稿用紙10枚以内にまとめるよう指示がありましたが、戦争体験のない私にとって「戦争」を語ることは残念ながらできませんが、わが家の海の資料館「海舟館」に大切に保存している戦争の遺物について書こうかと今朝ひょっと思いつきました。資料館には特に珍しいとされる紫電改の機銃が展示されています。また魚雷のエンジン部分とプロペラもあります。機銃と魚雷の向こうには戦争相手であるアメリカを意識した敵が存在しており、武器の持つ破壊行動も見え隠れするのです。

 戦争を語り継ぐことは平和への大きな一歩ですし、戦争を知らずに育った人たちが多数を占めるようになった現代ゆえにその重みはあるのですが、武器という目に見える物体を通して戦争の愚かさを伝えることもよりリアルで、心を揺さぶられるのです。

 少し親父の話を聞いてまとめてみたいと思っています。

  「戦争の 話を聞く度 思い出す 涙を流す 祖母の姿を」

  「わが家には 戦争語る 武器ありて 平和を語る 親父健在」

  「戦争を 知らず育った 私だが 耳に残りし 戦争話」

  「過ぎ去りし 六十年の 時を超え 生々しくも 語る戦争」 

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shin-1さんの日記

○年金受給者の集いに招かれて

 65歳を過ぎると働いて収入を得ている人を除けば、多くの人が年金暮らしになります。今は段階的な措置で私のような昭和19年生まれの人間は62歳から年金が支給されましたが、これからの人は確実に65歳にならないと年金が満額貰えないのです。そのため60歳で一度退職してもそれぞれ新しい職を求めて再就職せざるを得ないのです。中には再雇用という形で古巣の職場に雇われたり、公務員などは社会の批判をよそに天下りしたりして経済をつないでいるのですが、中には給料が下がり、これまで部下だった人に馬鹿にされたりする軋轢に耐えかねてやめたりするケースもあるようです。

 幸い私は58歳で現職を退職し、60歳までの2年間は特別職の教育長という職をいただきましたが、合併を機に60歳で現職を退職し、念願の自由人になったのです。あれからもう3年半があっという間に過ぎ去りました。幸せなことに62歳から年金が満額支給されるようになって、妻の手助けパートの手助けを受け、そこそこ働けば何とか首をつることもなく暮らしているのです。

 それにしても世の中は有難いことで、65歳以上の人の約8割が年金で生活しているのです。自分がこれまでに支払っているのですから当然といえば当然ですが、この人たちに2カ月に一回のペースで死ぬまで年金を支給しなければならない日本政府の苦悩もまた理解できるのです。

 昨日はそんな年金受給者の研修会が八幡浜市民会館であり、講演を頼まれて出かけて行きました。年金受給者協会八幡浜支部の招きによるもので、会場となった300人収容の中ホールは満席で、椅子が足らなく入口までびっしりの盛況です。私はこれまでにも何年か前同じ集会に招かれ話をしていますが、幸せなことに年齢的に前に聞いた私の話を覚えているどころかすっかり忘れているようでした。それでも同じ話もできませんから終始ゆっくりとしたペースで、しかも大きな声で話すよう心がけて1時間話をさせてもらいました。

 この日のテーマは「新しい発想で生きる」でしたが、日頃はんしているような面白いネタを中心に笑いを誘う肩のこらないような話をして会場を爆笑の渦に巻き込みました。今年は11月に宇和島と西条の年金受給者協会支部へそれぞれ出かけなければならないので、いわば昨日は前哨戦でした。

 私の話が終わればちょうど12時で昼食でした。少し雨模様の天気で秋になったとはいえ会場は汗ばむほどで、私は壇上で汗を沢山かきましたが、皆さんは支給された弁当を食べお土産を貰い、午後のアトラクションでは舞踊や大正琴などの演奏を聴くのだそうです。長閑なり長閑なりでした。

 早々にお暇した私は少しより道になるものの国立大洲青少年交流の家に立ち寄りました。施設に通じる急な山道沿いはもう秋の気配が漂い始め、メタセコイアの葉も少し黄色味を帯びてきているようでした。平日のため研修生の姿は殆ど見られず事務所も所長さんや次長さんは不在で散閑としていました。先日の研修会の食費を支払い、児玉係長や佐藤ふみさんと談笑しお暇しました。

 少しは早い時間でしたが急な思いつきでオズの湯に立ち寄り、八幡浜でかいた汗を流し少しリラックスしました。山口県、福井県と出張が続き、日曜日には大学生の相手をし、その夜は史談会があるので束の間の休息です。風呂では顔見知りも何人かいて楽しいお喋りをしながらの入浴となりました。

 白滝を横目に見ながら肱川沿いに長浜へ下り、海沿いの国道378号を走り無事わが家へ着いた頃、孫を連れた息子が帰ってきました。今日は松山の地方祭で職場は休みだそうで、私のパソコンの使い方を点検してくれましたが、写真の添付送付ができず何件か保留にしていたものもどうにか送ることができてほっとしているところです。

  「集まりし この人たちに 年金を すべて支給か? 金が要るなあ」

  「乗りの良い 参加者笑い 助けられ あっという間に 講演終わる」

  「弁当と 手土産貰い 講演と アトラクションで 受給者楽し」

  「温泉で 疲れを癒し われ帰る 急がし日々も 限度があるな」

 

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shin-1さんの日記

○パソコンが変わって一ヵ月

 長年使っていたソニーのパソコンが故障続きで使いにくくなったため、そろそろ潮時と早めの対応をして東芝のパソコンを○○万円で買い求めました。新しいパソコンが届いて娘婿の協力によってソフトを移し替える作業が順調に進んでいつでも使える体制になってからも、長年使っていたパソコンだけに愛着もあって、中々切り替えが難しくしばらくの間は使っていましたが、一念発起して新しいパソコンに切り替えました。今は机の上に居座り続けているものの、この一ヵ月間は開くこともなく置かれたままで、プリンターも電話回線接続コードも新しいパソコンにつなぎ変えられて寂しい感じさえするのです。このパソコンには随分お世話になりました。今はなくてはならない私の情報発信源であるブログ記事も全てこのパソコンで書いてきたし、デジカメで撮影した写真情報も全てこのパソコンの中に眠っているのです。

 このパソコンを買った頃、役場ではまだウインドウズXPなどのソフトが入ったものを持っている人は少なかったため、みんなが覗きに来たりもしました。しかし情報社会の技術革新は目覚ましく、既にXPも古くなってVisuta tm

が主流になっているのです。パソコンに弱い私は、先日大分県大分市佐賀関の渡辺さんと出会った時、会話の中で、「若松さん、パソコンを変えたようですがビスタですか」といわれ、その意味も分からず、恥ずかしいながらキョトンとしていたのです。 

 新しいパソコンは古いパソコンに比べ、最初は使い勝手が悪かったのですが、画面も明るく使うほどに馴れてきてまだまだ未知の分野が多いものの楽しく使っています。ところが先日の愛媛新聞社が運営しているサイトに連載している「自悠くらぶ」に記事を送るのに写真が送れなくなりました。今朝もその原稿を送ったのに写真がどうしても送れないのです。早速息子に電話をしていますが、息子は仕事が忙しいのか「そのうち秋祭りで休みの日に帰るから」とそっけない返事が返ってきました。多分担当の越智さんから「写真が添付されていません」とご指摘があるのでしょうが、故障でもなく使い方が分からないだけなので早く対応をしたいと思っています。

 プリンター接続も早くなって仕事がはかどっていますが、マニュアルを読んで対応する余裕もなくその場当たり的な対応でどうにか乗り切ってきたつけが今頃になって表れ始めているようです。

 新しいパソコンで原稿を書き始めました。私の所へは定期的なエッセイが毎月4~5本舞い込みます。また連載ものも少しあってそれなりに原稿書きも結構忙しいのです。加えて先日は17000字という少し長めの原稿も飛び込みました。私はパソコンでブログを書き始めてから、結構早書きになりました。早書きとは早めに書くことと筆が進む二つのことです。17000字は400字の原稿用紙に直すと42.5枚もになるのですから、直ぐには間に合わないのです。したがって暇さえあればパソコンに向かって書き始め締切り一ヵ月前に書き終えました。まさに早書きの効果です。

 私はどちらかというと人の前で話すより書き言葉が得意です。書いて喋れて実践ができるマルチ人間を目指してきただけに、これからも書くこと、喋ること、実践することに磨きをかけなければなりませんが、新しくなって一ヵ月経ったパソコンをこれからも大切に使いこなしてゆきたいと思っています。

  「原稿は 送れたけれど 添付せず イライラ募る 今朝のパソコン」

  「少しずつ グレードあげて いるつもり だけど言うこと 聞かぬパソコン」

  「もう既に 俺の手となり 足となる 頭になったら 本間ものだが」

  「ブログ書く お陰で早く 書けるよに なった喜び これから先も」 


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shin-1さんの日記

○孫の成長

 土曜日に孫朋樹の運動会があって、妻は仕事を休み観戦に出かけたようです。私は福井へ出張していて残念ながら今年も見ることができませんでした。朋樹にとっては年長組なので今年が最後の幼稚園運動会なので妻は張り切って出かけたようですが、娘夫婦が観戦やビデオ撮影のために孫尚樹の子守りをする羽目となり、出番だけを見て、後はこもりに終始したため腰を痛めてしまい、今は悪戦苦闘しているようです。若いと思っていた妻の体もいよいよ老域で今までのような無理はできないようです。多分この子守りに加え日曜日の料理が堪えたようで、少なからず心配をしています。

 そんな矢先二人の孫を連れて日曜日の夕方娘が泊まりにやってきました。上の朋樹は来年小学校に入学する年齢になり、聞きわけもよく遊びもすっかり子ども的なことができるようになって、わが家に来るともっぱら虫取り籠と網を持ち、庭や畑を汗をかきながら走り回っています。昨日は稲刈りの終わった田んぼの隅で逃げ場を失ったタニシを見つけ、水を入れたバケツに入れて動く様子を観察していました。また今はバッタやコーロギなど秋の虫が沢山目にとまり、昨日は青いカマキリを捕まえ大騒ぎをしていました。

 昨日は菓子箱の蓋にガラスのコップで円を描き、そこをカッターナイフで切り取り、五枚のメンコを作りました。そのメンコにおとうさん、なおきくん、きしんくん、ともきくん、おじいちゃんとそれぞれ名前を書いて私が絵を加え、円盤遊びをしました。メンコの端に切り目をつけそこにゴムをひっかけて飛ばすと、面白いように円盤は飛んでゆくのです。朋樹はこの遊びが気に入って名前を書いた誰のが一番良く飛ぶか何度も何度も飛ばしていました。自分の名前を書いたのが遠くへ飛ぶと大喜び、逆だとしんみりとし、特に私の円盤が失敗すると大笑いをしておどけて見せるのです。

 一方尚樹はやっとよちよち歩きができるようになって、今では歩く姿もしっかりしていて、暇さえあれば戸外へ連れ出すよう私にせがむのです。まるで大人の遊び道具のように好き好きなどはもう首に手をまわしてしっかりと抱きついてみたり、「こんにちは」という動作も、「チュッポイ」もできて愛嬌たっぷりです。

 近所に犬を飼っているのが気になるらしく、靴をはかせるとさっさと急な坂をものともせず歩いて出かけるのです。今はまだ「わんわん」だけしか言葉を話せませんが、犬に噛まれた経験がないため恐れを知らず、犬さえ見れば喜んで近づいてゆくのです。

 女の子に比べ男の子の成長は少し遅いようですが、それでも一年四ヶ月で、ウンチも言葉はないもののしっかりと親に伝えるようになって、少しずつ成長しているようです。

 娘はこの子どもが女の子だったらと思うこともあるようですが、男の子の兄弟はこれも味があって、兄のしぐさを見ながら盛んに遊びも真似ているようです。

 汗疹もすっかり治り、これから秋も深まって寒くなって行きますが、風邪などひかず元気に育って欲しいと願っています。

  「孫を抱く どこか懐かし 匂いする 自分の子ども 以上に可愛い」

  「好き好きの ポーズで迫る 俺を抱け 嬉しいですね おじいメロメロ」

  「日々成長 孫に比べて この俺は 日々に老化の 一途を辿る」

  「円盤を 作って遊ぶ 爺と孫 知恵さえ出せば 金をかけずに」 

 

 

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shin-1さんの日記

○送られし2冊の本②

 財団法人山口県ひとづくり財団の大迫女史から今日送られてきた「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」を読んで宮本常一のもう一つの素顔が見えてきました。宮本常一の著書は「忘れられた日本人」など数多く読んでいますし、先日人間牧場で開催した年輪塾で浜田久男さんから色々と宮本常一に関する研究の成果を聞かされていましたが、この読み物には、考えながら旅をする、人をとろかすような笑顔、一枚の写真が多くを記録する、宮本写真に見る昔の大島、日本の庶民の文化を伝える、立ち止まって自分の目でよく見ることの大切さなどの小見出しで、宮本常一の魅力が鮮やかに描かれています。また常一の生涯についても、父から受けた10の精神、民俗学への道、生涯の師渋沢敬三との出会い、離島振興の父、地域と本気で向き合う、再びの旅を夢みペンを握って逝く、常一が残した旅の写真記録などの小見出しが示すような興味深い話が書かれていました。

 その中で私が特に引かれているのは離島振興の父としての彼の業績です。

 宮本常一のすごさは、ただ旅をしただけではなく、旅の中で常に何かを成してきたことにあります。単なる資料集めにとどまらず、旅で学んだ知恵を多くの人々に伝え歩いたのです。1950年、対馬での民俗調査をきっかけに、常一は島々の窮状を目のあたりにし、離島振興法の制定に力を尽くします。当時島〃どこも貧しく、「火(電気)と水(水道)を島に」というのが常一のスローガンでした。その熱意が通じてか1953年、離島振興法が制定されます。彼は全国離島振興協議会の初代幹事長になりますが、地域振興にかける常一の思いは、ますます強くなりました。

 常一には、「離島振興法があるから島がよくなるのではない。島を良くしようと思う人々がいるとき、離島振興法が生きてくる」という有名な言葉があります。

 数えきれないほど離島や山村を旅して、地域振興に力を注いだ常一ですが、いつもアイデアを出すだけでなく、時には人々を真剣に叱りつけ、励まし続けました。

 宮本常一自身の本を読む限りこうした裏話や秘話は出てきませんが、前周防大島文化交流センター学芸員の木村哲也さんが語る宮本常一ゆえに宮本常一の人間像に迫れるのです。

 私は宮本常一を少しばかり知っているような顔をしていましたが、知れば知るほど奥の深い人であり、もっと勉強をせねば彼のメッセージは響かないのです。

 大迫女史から頂いた本は積読から乱読へ、乱読から熟読へと進化させ、瀬戸内海を挟んだ対岸山口県から多くのことを学びたいと思いました。

 来年の2月には昨年に続いて周防大島で開かれている宮本常一に関する勉強会に、私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の県外研修を計画していて、今から楽しみになってきました。

  「毎日の ように見えてる 大島に 偉大な巨人 常一生まれ」

  「念願の 火と水確保 して嬉し 島の人々 今は幸せ」

  「無人島 通ったゆえに 気にかかる 島の行く末 少し危なく」

  「昨日も 大学生に 常一を 話して聞かせ 業績しのぶ」

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shin-1さんの日記

○二冊の本①

 先日山口県教育委員会から社会教育委員研修会の講演を依頼され、美祢市と柳井市へそれぞれ出かけました。台風の進路が気になる二日間でしたが、懇親会で財団法人山口県人づくり財団の大迫女史とお会いしました。来年の2月に山口県で開かれる「第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口」への私の出演が既に決まっていて、事前打ち合わせを兼ねての交流となりましたが、その折別れ際「山口人物伝」という本を送るからと約束をしていました。

 約束通り今日その本が2冊送られてきました。山口県といえば吉田松陰、高杉晋作、金子みすず、伊藤博文など多くの著名人が名を連ねていますが、私が敬愛する民族学者宮本常一もまた山口県周防大島の人なのです。「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」VOL.1には狩野芳崖、柏木幸助、田島直人なども紹介されていて興味深く読ませていただきました。

 冒頭に紹介される人物はご存じ吉田松陰ですが、この本は中学生にも理解されるようにかなり分かりやすく書かれています。

 この年の11月、松陰はある行動に出ます。井伊直弼の意を受け、厳しい弾圧を続ける老中間部詮勝に憤り、その暗殺を企てるのです。松陰は藩の重臣にその意を伝え、武器弾薬を提供してほしいと訴え出ます。この過激な要求に驚いた藩は、松陰の身柄を拘束し塾の閉鎖を命じます。再び野山獄に投獄された松陰は、もはや藩に頼るのではなく、草の根に埋もれているような人々で日本を変革せねばならないと決意します。

 安政6年、松陰は江戸へ呼び出されます。その容疑は別の軽い事件のものでしたが、松陰は老中間部暗殺計画が知られたと思って、それを白状していまいます。自分の行動を「正義と信じていた彼らしい態度ですが、これで死罪は免れなくなりました。

 死を覚悟した松陰は、遺書ともいえる留魂録」を一夜で書きあげます。そこには、「私は30歳(数え年)でこの世を去るが、同志が私の志を継いでくれるなら、それが種となっていつか実るだろう」と、弟子たちに未来を託した言葉が残されています。安政6年10月27日(1859年)松陰は処刑されました。

 「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(門下生に向けた留魂録冒頭の辞世の句)

 「親思ふ 心にまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」(家族への遺言の中の辞世の句)

 彼が死んで150年が経ちました。萩の町では今も彼を松陰先生と呼びます。それは、彼の志が今も色あせることなく生き続け、私たちの行く道を照らしてくれるからなのです。

 そんな時代だったといえばそれまでですが、吉田松陰は僅か29歳という若さでこの世を去っています。私などはその倍の長さを生きているというのに、社会や人の何の役にも立たず今もなお生きているのです。吉田松陰の凄さは彼の実行力と志が多くの若者を羽ばたかせたことです。そして「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備するとこあらん」(人はそれぞれ才能の違いはあるが、誰でも一つや二つは必ずいいところをもっている。それを伸ばすのが教育だ)、といわれるように若者たちの才能を発見しそれを伸ばしたのです。

 わが家の隠居の床の間には吉田松陰の掛け軸を吊るしていますが、松陰の強い生き方に改めて感動を覚えました。

  「送られし 人物伝を 一気読み 改め思う 名残し人々」

  「松陰の 辞世の句読み 俺などは ただ生きている だけに等しく」

  「密航を 企て松陰 降ろされる 俺は乗船 アメリカ目指し」

  「今日沈む 夕陽の辺り 萩と聞く 松陰の里 再訪したし」

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shin-1さんの日記

○雨の人間牧場

 普通は雨の日など余程のことがない限り、雨の日に人間牧場へ行くことはないのですが、今日は愛媛大学のフィールドワークの授業とあって、奥島観光の31人乗りのバスを借り切り人間牧場へ行きました。シーサイド公園で合流した学生たちは池久保の曲がりくねった山道をバスに揺られ、バスを降りてからは5分ほど舗装はしているものの緑陰の中を傘をさし、急な坂道を滑らないよう気をつけながら下って行きました。

 あいにくの雨で自慢の眺望は見えず残念でしたが、学生たちは人間牧場のロケ風呂や水平線の家のロフトに上がったりして見学をしていました。人間牧場界隈にはもう秋の気配が漂い、知らない間にススキの穂が沢山出ていて季節の移ろいを感じさせてくれました。

 学生たちに施設の概要や人間牧場への想いを語った後、夕日徒然草というテキスト本を配布し、約1時間半にわたって落伍ライブ形式の講義を行いました。捲りの演目が第5話「ハーモニカが吹けた」だったので、十八番を語り、学生たちにリクエストさせた第30話「病気で人生が変わる」を語りました。学生たちに落伍ライブをやるのは初めてでしたが、授業の一環とあって熱心に聞いてくれました。

 私は家業である漁師をしていた若いころ青年団活動に熱中し、酒と夜更かしと疲労で体を壊しました。そのことがきっかけで役場に入りました。酒を飲み過ぎて体を壊し公務員になれたのですからいい加減な転職です。でも年功序列の役場に入ってからは35年間滅茶苦茶働き、悔いなき存分な働きをしました。しかしここでも働き過ぎの疲労蓄積とストレスで胆のうを患い胆のう摘出手術で13キロも痩せた体となり、平成の大合併を機にセミリタイアしたのです。自分の人生は病気によって大きく生き方を変えざるを得ませんでしたが、私はその都度腐ることなくポジティブに物事を考え、強く強く生きてきました。失敗体験の少ない若い学生たちにとって私のような古い生き方はモデルにはならないと思いますが、それでも何かのヒントにはなるものと思うのです。

 また私が高座と呼んで座布団を敷き落伍をする高知県馬路村魚梁瀬産150年生の杉の切り株も、1年でわずか一つの年輪しか刻まない途方もない自然の営みをしっかりと学んで欲しいと思いました。

 今年のフィールドワークのテーマは「合併後のまちづくり」です。やっと予定していた4つの旧町の調査も終わりました。いよいよ次の授業からそのまとめと本当に住みたい町、本当に訪ねたい町の条件を描いてゆく後半戦へと入ってゆく予定です。

 人間牧場での研修を終えた私たちは、午後1時前にわが家へ帰ってきました。予め電話を入れていたため、妻の準備も万端整って少し遅めの昼食交流会となりました。親元を離れ日頃から食事を軽んじている学生たちにとって、わが妻手づくりの料理は感嘆に値するようだったようで、「美味しい」を連発しながらこちらが驚くほどのペースでむさぼり食べ飲んでいました。こうして大学生をもてなすのはもう6年も続いていますが、わが家わが妻にとっては初秋の恒例行事となってしまいました。




 学生たちに人気だったメニューはいなり寿司、カンパチの刺身、南蛮漬け、鳥と魚のから揚げなどでしたが、いもたきやお好み焼きをよく売れていました。そろそろ大学の授業もお暇をせねばならない年齢になってきましたが、私が関わる授業くらいはこのような人間的でありたいものだと、学生たちの喜ぶ姿を見て妻と話しました。

 帰り際学生たちは残ったいなり寿司やから揚げなどを、妻の用意したパックに詰め込んで雨の中を手を振りながら帰って行きました。

  「雨の中 傘の行列 一列に 並び畑中 路を下りぬ」

  「牧場に 吹く風秋の 気配して 揺れるススキの 少し寂しく」

  「学生を 前に落伍の ライブやる 十八番(おはこ)熱弁 久し快感」

  「あいにくの 雨にたたられ 部屋の中 若さムンムン 外が恋しい」

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shin-1さんの日記

○雨の中、学生たちがやって来る

 今日は天気予報を先取りしたかのような雨が、朝から静かに降っています。山口県、福井県と続いた長旅も終り、やっと一息といったところなのですが、今日は愛媛大学法文学部総合政策学科、つまり私の教室の学生がフィールドワークの授業でわが町へやって来るのです。この授業は私が大学の講師になってから5年間毎年行っていて、早くも今年で6回目となりました。今年はテーマを少し変えて「合併後の地域づくり」をテーマに、既に合併している旧中島町、旧中山町、旧長浜町と訪ね歩き、今日が最終回の旧双海町なのです。中島と中山は夏休み前、長浜は夏休み、双海は夏休み後とそれぞれ季節は移り変っていますが、一番いい季節を選んだはずの今日は運の悪いことにあいにくの雨となりました。でも一年中晴れた日ばかりはないので、「雨の日には雨の日の仕事がある」と思って張り切ってやるつもりです。

 さて今日の予定ですが、学生は午前8時30分大学に集合し、用意したバスに乗ってやってきます。最初は責任もあって私が大学まで迎えに行き大学まで送っていましたが、考えてみれば子どもでもなくいい大人なので、極力学生の自主性に任せようと考え、今が現地集合などをやっているのです。毎回一人くらい遅れたりする学生がいますが、それもまた仕方のないことだと考えてやっています。

 先ほど学生の代表である前田君から「まだ一人来ないのでもう少し待って出発する」と連絡が入りました。さて私はそれでいいのですが、今日のフィールドワークの楽しみは研修後のわが家での食事会です。毎年妻は学生たちのために工夫を凝らした料理でもてなすのです。そのため一週間前から準備にかかり特に昨夜は夜遅くまで料理の下ごしらえをしていたようです。どんな料理ができるか私も学生も楽しみです。妻はこれまでも私のために色々な料理をしてくれました。特にPTAとフロンティア塾では一人で50人分もの料理を作ってきました。私は高校PTAの会長を6年間やりましたが、その時は秋のお月見会をわが家で提灯を50個も吊り下げ(人数分)、屋外で楽しくやりました。またフロンティア塾は1年に4回、10年で40回という夜の塾生の夜なべ談義の料理を一手に引き受けて作ってくれました。これらは今でも仲間内の語り草になっているほど楽しい思い出なのです。

 昨晩「お父さんお味はどう」といなり寿司の味見をさせられましたが中々の出来でした。縁もゆかりもない人たちをこうして迎え入れてくれる妻に、面等向かってはい恥ずかしくて言えませんが、ただただ感謝するばかりです。

(枝豆、おにぎり、野菜サラダ、もう一つのテーブルには芋炊き、お好み焼き。フルーツが並びました)
(カンパチ、タコの刺身とから揚げ)
(夜から下ごしらえしていたいなり寿司と南蛮漬け)

 私も旅の疲れはあるものの、そんなこともいっておられず、朝から掃除機を使って部屋を掃除をしたり、納屋から机を出したりと準備に大忙しです。これをまた片付けるのかと思うと少し気が重くなりますが、妻のことを考えればそんな愚痴など禁句なのです。

 さて今日は雨です。予定していた屋外での見学は残念ながらできないので、人間牧場での授業が中心になるようです。この話は後でお話しします。

 ここまで書いて学生との待ち合わせ場所であるシーサイド公園へ迎えに行きました。これまで3回の現地調査は公共交通機関を使いましたが、今日は人間牧場への公共交通機関がないため、大学に無理を言ってバスを用意しました。バスの手配はバス会社に顔の利く地域政策研究センターの松本さんに無理を言ってお願いしましたし、大学構内へのバスの乗り入れ手続きも急遽岡本先生にしてもらい事なきを得ました。予期せぬ雨に少し翻弄されながらシーサイド公園~人間牧場~翠小学校~自宅・煙会所・海舟館をめぐりフィールドワークの授業を無事こなしました。

  「学生が バスに乗合い やって来る 私も妻も 準備てんてこ」

  「あいにくの 雨に翻弄 されながら 学生たちと 人間牧場」

  「連絡が 届かぬ人が 一人いて 私のブログ 読んで反応」

  「本当は 月曜授業 するのだが わが家の都合 合わせ変更」


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