shin-1さんの日記

○オプショナルツアー

 昨夜は顔見知りであるにぎたつ会館の鈴木さんのご配慮で二次会の会場を確保していただき、みんなでワイワイ11時過ぎまで話し込みました。「朝まで語ろう」なんて豪語していた仲間も、長旅の疲れと友人に会ったことの安堵、それに酒が回り、加えて体力的な限界で早々の引き上げとなりました。でも浴衣掛けの気安さで、一次会では見せなかったもう一つの顔を見せながら賑やかに話をして旧交を温めました。谷川班長と小川さんからの酒の贈り物や松永さんのリンゴ、中井班長の鳥取梨などに舌づつみを打ちながら、お目当ての人の隣に居場所を移動したりしながら、まるで青年の船の狭いキャビンの中での語らいを思い出すような雰囲気でした。

(2次会の楽しい語らいのひと時)

 「朝6時に起きて道後温泉本館の外湯を楽しみましょう」と案内をしていたため、二次会で酒を飲み過ぎて起きれなかった2~3人を除いて殆どの人が浴衣掛けで早朝散歩を楽しみながら道後温泉本館まで10分ほど、さわやかな秋の風を受けながら歩きました。道後温泉本館は国の重要文化財であり、いわば国宝のお風呂を楽しめるのです。私が皆さんにご案内した案内状のハガキもこのアングルから私が撮影したものでした。

(宮崎駿の千と千尋のモデルとなった道後温泉本館、夏目漱石の坊ちゃん他多くの文人が訪れています)

 バイキングの朝食を済ませてロビーに勢ぞろいした皆さんで松下副団長を見送りました。松下副団長はこの日国立大洲青少年交流の家に向かわれるようで、早朝にもかかわらず所長さんと次長さんがにぎたつ会館まで出迎えに来ていました。副団長は交流機構の理事長をされていましたが、今度は大学の学園長になられたとのこと、お元気で嬉しい限りです。

(松下副団長との談笑)
(交流の家の主張さんと次長さんのおで迎えの車で大洲へ向かわれました)

 この日私たちは4台の車に分乗して子規記念博物館~松山城と予定していたオプショナルツアーに出かけました。内子や砥部、双海なども考えましたが、余りにも皆さんの動向が未定だったため、とりあえず午前中のは2か所にしました。正岡子規に触れていただくのも、松山のシンボル松山城や道後温泉もいいと思ったのです。

 松山城はロープウェーで登りました。少しカメラ散歩をしてみましょう。

(上り下りは全員でリフトに乗りました。私も久しぶりに乗りましたが快適でした)
(松山城は100メートルを越す城山の頂上にあって、文字通り松山の中心に位置しシンボルとなっています。市内には坊っちゃん列車や市内電車が走り、文学といで湯の町です)
(正岡子規が「松山や秋より高き天守閣」と詠んだ15万石の城下町です。気候温暖でミカンや魚も美味しく、文学にも度々登場し、いつも住みたい町のベストテン入りしている穏やかな町です)
(天守閣をバックに記念写真を撮りました。文学に登場する坊ちゃんやマドンナもボランティアガイドしてくれました)
(天守閣の内部は広く、全国でも木造建築のお城としては名城に一つに数えられています)
(この日は天気もよく、少々霞がかかって遠望はできませんでしたが、遠く石鎚の山々や瀬戸内海が一望できました)

 穏やかな秋の一日を城山を中心に散策し、北斗というレストランで昼食を済ませ、現地解散となりました。ある人は次の目的地を目指し、ある人は早々家路を急ぎました。またある人は再びリターンして坂の上の雲ミュージアムへ向かいました。私は井出さんと児玉さんと再びにぎたつ会館へ引き返して二人を送り、後片付けをしたり鈴木課長さんにお礼を言ったりしてみんなと合流し、空港へ残りの人を送りました。

(帰り人間牧場に立ち寄った林班長)

 その後実家に帰る林班長を乗せてわが家と人間牧場へ立ち寄り、わが家から1時間以上かかる八幡浜の実家へ林班長を送り届け午後7時過ぎにわが家へ無事帰りました。

 この日の準備を始めてから約半年、そんなにきついお世話でもないものの、林班長の援助を受けながらも一人で準備を進めなければならず、正直なところ気分的に少しだけ快よく疲れました。でも参加した皆さんとの30年ぶりの再開はそんな疲れを吹っ飛ばしてくれました。ブログにこの二日間の出来事を忘れないうちにメモし今晩は少し早めに床に就こうと思っています。

  「少しだけ 疲れた気分 察してか 妻は早めの 床の準備を」

  「温泉も 料理もないが ほっとする やはりわが家が 一番いいと」

  「思い出の アルバム増えて 今日もまた ブログに書きつ 記憶を辿る」

  「潮引きぬ つわものどもが 夢の跡 一人片付け 一人慰む」


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○第10回総理府派遣青年の船班長会の皆さんが愛媛県に集う

 もう32年も前の出来事です。昭和51年6月は私にとっても、今回愛媛県に来られた21人の皆さんにとっても忘れられない記念すべき年なのです。それは全国から選ばれた多くの日本青年、それにアメリカ・メキシコの青年を乗せたにっぽん丸が、建国200年のアメリカへ向けて旅立った思い出の日々なのです。

 「太平洋新時代に架ける橋」「青年の復元力を」をテーマのこの旅は、当時30歳だった私の心に大きな恩恵をもたらしたことはいうまでもありません。「もし私がこの青年の船に乗らなかったらどうなっただろう」と思うと、余りにも大きかった影響にただただ驚くばかりです。あれから30年間、当時の船の運営に深く関わった班長30名が組織した班長会は、多くの人の熱意によって団員を巻き込みながら今日まで延々と開催し続けてきたのです。残念ながら私はその30年間に僅か1回しか参加せず、仕事が忙しかったなどと言い訳しているものの、除名されても仕方がないような不義理をしてきたのです。

 ところが前年の集会で、「来ないのなら出かけてやろう」と、欠席裁判ともとれる痛いお仕置きをいただき、有無を言わせず愛媛県での開催が全会一致で決まったのです。据え膳食わぬ訳にもいかず、はてさて困ったものだと思いしぶしぶ本田班長からの電話で、受諾してしまったのです。

 昔の若いころならいざ知らず、通知を出したりホテルを予約したりする作業は、さすがにこの年齢になると煩わしく、悶々の日々となりました。6月には丸印の付いた方々に第一便の通知を出し、8月には第二便で申し込み依頼書を送りました。私のこれまでの行いにそっぽを向いたのか、来るハガキ来るハガキには欠席の所に○のついたハガキが帰るばかりで、音信さえ届かない人も沢山いました。それでも心ある人が遠くは岩手県花巻市の平藤さんはじめ21人も参加してくれることになりました。

 もともとこの集会は開催場所の班長が実行委員長としてすべてを仕切るのですが、愛媛には林富佐子班長さんもいるのです。しかし残念ながら彼女は現在横浜に住んでいるのです。それでも林さんは帰省を口実にして度々帰省し私の良き相談相手になってくれました。また今回の集会を手伝おうと前日から同じ班の滝田容子さんを伴って帰ってくれました。さらに愛南町内海柏に住む北原さんも駆けつけてくれてくれました。

 昨日の昼にはその準備をでき、皆さんが来る16時までは少し時間がるので、早く来た広島庄原市の松永さんを伴って歩いて10分ほどの四国88か所の名刹石手寺にお参りに行きました。こんなに近くに住みながら石手寺にお参りするのも久々とあって、境内にあるほの暗い洞窟まで見学させてもらいました。

 やがて三々五々一人また一人会場となったにぎたつ会館に参加者が集まってきました。なにせ私にとっては30年ぶりの再開ですから、自分の歳も顧みず寄る年波をまざまざと観察させてもらいました。確かに還暦を過ぎた人たちは見まがうほどになっていましたが、それでも昔の面影は懐かしく、握手の手のヌクモリガ0年の時の流れを埋め尽くしてくれたようです。

 16時から酒井班長さんの進行で会議が行われ、次年度の会議を守山市の住谷班長さんが担当することで決定しました。また3年後の2011年には兵庫で35周年の集いを、有村ご夫妻が中心になって神戸でやることも決定したのです。私も何とか出席したいと思っています。会議の後私が借りた青年の船の映画を上映しました。いきなり私や林班長、中井班長の感涙にむせぶ姿が大写しに映し出され恐縮してしまいました。また宴会の前に記念写真を撮影しましたが、その写真は夕方出来上がり皆さんにお配りさせてもらいました。


 松下副団長も相変わらず知的な笑みを浮かべて遠路出席していただき、参加者一同心からなる感謝をいたしました。皆さんの近況報告を聞いていると、現職の人、すでにリタイアしている人、再就職をした人、自由人となって悠々自適の人など様々ですが、皆さん幸せそうな人生を歩んでいられるようでした。

  「三十年 時の流れは 早いもの 人それぞれに 道は違えど」

  「久し振り 差し出す手と手 温もりが 伝わりジーンと 思わず涙」

  「少し老け 少しゆっくり 老いの道 所作や言葉に 気品漂う」

  「年とれど 変わらないのは 温かさ あいて気遣う 優し心根」  

 


 

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shin-1さんの日記

○友遠方より来るあり

 松山空港の近くにある垣生中学校での講演が終わって校長室で談笑していると、携帯に電話がかかってきました。友人の林富佐子さんからです。「東京から松山空港に着いたので迎えに来て下さい」というのです。予め昨日のスケジュールに入っていたことなので学校を早々にお暇して空港へ向かいました。それにしても昨日前半は「男時」でした。家を出てから信号はすべて青、途中自著本を頼まれていたのでえひめ地域政策センターに立ち寄りましたが、軒下の駐車スペースも、私が到着するとスーと一台の車が出て私の車に駐車場を譲ってくれたようでした。「うん今日は男時だ」と思って2階へ駆け上がりましたが、残念ながら清水研究員は外出中でしたが、小方主任と谷本研究員がいて、全国大会の話をすることができました。研究センターの隣には日本銀行松山支店があります。昨日の垣生中学校での講演依頼は日本銀行松山支店内にある金融広報委員会からですし、垣生中学校は私が友人を迎えに行く松山空港の本のすぐ近くにあるのですから、これ以上の「男時」はないなあと、幸運な一日を喜びました。

 空港に着くなり携帯電話で林さんに連絡すると正面玄関へ出てきました。横浜に住む林さんとは何度も出会っていますが、連れの女性は30数年ぶりの再会なのです。彼女たちは今日松山市で開かれる第10回総理府派遣青年の船の班長会に出席するため来県したのです。班長会は毎年一回班長だった人が持ち回りで全国各地で開催しているのです。私は回を重ねることもう30数回にもなるというのに東京で開かれたときたった一度しか出席していない不義理男なのです。別に敷居が高いわけではなくたまたま議会があったり、イベントがあったりと条件が整わなかっただけのことなのです。

 ところが意地悪い人がいて、出席しない若松班長の所でやったらどうかと欠席裁判にかけられ、有無を言わさず愛媛県での開催となったのです。今年は様々な全国大会が愛媛県で開催され、特に地域づくり団体交流研修大会が愛媛県で開催されその実行委員長をしていることもあって、少し慌てました。というのも今回の研修会は実行委員長兼事務局で準備万端、ホテルの予約、案内文発送、収受連絡、名簿作成と全て一人でやらなければならないのです。小さな集会と言いながらお金の伴うことでもあり慎重にやらなければと色々な策を巡らせ今日に至ったのです。

 林さんは現在横浜に住んでいますが、実家は八幡浜なので気心は知れていて、心配なのか度々電話をかけてくれました。70人にハガキを出しましたが、直前になってキャンセルなども数人あり、結果的には22人が出席することになりました。さて今日は30数年ぶりに出会う仲間が一体どんな顔をしているか、それはそれは楽しみです。返信はがきに書いたメッセージを読みながら指折り数えてこの日を待っていたのですから、思いきり楽しみたいと思っています。

 今日は私も久しぶりに道後のにぎたつ会館に泊まります。そのため朝から準備をして出かけますが、今日のノルマである2本のブログ記事も4時から起きて書き終わり、準備万端整いました。これから髭を剃って準備をします。

  「信号も 出会いの場所も 男時なり 全て順調 このままゴールを」

  「三十年 時の流れは 早いもの 俺は一体 どんなに変わり」

  「面影を 記憶の彼方 探しつつ 話をするも 思い出せずに」

  「さあ今日は 三十年ぶり 友人と 再開するぞ 嬉し恥ずかし」

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shin-1さんの日記

○物やお金の大切さを学ぶ

 昨日は愛媛県金融広報委員会の仕事で松山市の垣生中学校へ出かけました。松山空港への行き帰りによく通る道を通る度、点滅信号の所に「垣生中学校前」と表示をしているし、付近で登下校中の生徒さんを見かけることがあるので、「この辺りかな?」と思っていたため、一発で学校に到着しました。しかし正門が何処かも分からず門の前に着くと、門は門扉で固く閉ざされていました。降りて確認しましたが、不審者に間違えられても困るので、携帯電話で委員会から送られて持参した講師派遣依頼書で目の前の学校に電話をかけました。運よく松本京都先生が出て「直ぐに開けます」と出てこられました。松本教頭先生には何度かお会いしているようで、直ぐに打ち解け校長室へ案内されました。途中数人の中学生に会いましたが、度の生徒さんからも「今日は」と元気のいい挨拶がはね返り、まるで顔見知りのような対応についつい嬉しくなりました。特にカメラを忘れて車に取りに帰る途中で出会った生徒さんは、挨拶をしない下級生に「今日はと挨拶くらいしなさい」と注意してくれ、驚いてしまいました。

 中学校は普通50分授業なので講演依頼書にも13時45分~14時35分と書いていましたが、45分まで1時間構わないという事前のお話でしたのでそのつもりで話しました。

(講演が終わって壇上から340人の生徒を一枚撮りました)

 私のこの日の話の要点は、まず今日の新聞を読んで気がかりなことを5つぐらい話しました。

 ①世界同時株安・円高ドル安(自分に関係ないと思っているかも知れないが・・・・・)

 ②振り込め詐欺(あれは騙される方が悪いと思っているかも知れないが・・・・・・・・・)

 ③食品の安全性(給食でさっき食べた物が何処で、誰が、どんな思いで作っているか考えたことがあるか・・)

 ④衆議院解散総選挙(政治は大人の問題だと思っているようだが・・・・・・・)

 ⑤年間自殺者が3万人(自殺する人は弱い人間だと思っているかも知れないが・・・・・)

 新聞やテレビはむしろ自分の好きなものを見たり聞いたりするが、もっと政治や経済や社会の動きに目を見開くことを勧めました。「物やお金の大切さ」は、そこから見えてくるものが多いと話しました。

 次に人間4つの願望についてです。

 ①幸せになりたい。

 ②お金持ちになりたい。

 ③健康で長生きがしたい。

 ④成功したい。

 この4つの願望を持った人間が社会の中に生きていて、お金持ちになりたい以外は心に強く念じれば願望は叶うものだと、私の経験を話しました。人間は目に見える事象だけにとらわれがちですが、サムシング・グレート(目に見えない偉大な力)があるので、想いを強くするとその方向に導かれるという理論を話しました。

 自分の一生に必要な①人間関係の貯蓄、②健康の貯蓄、③金銭の貯蓄、④知識の貯蓄、⑤感動の貯蓄という5つの貯蓄をしながら生きて欲しいとも話しました。

 最後は氷山の一角の図解しながら潜在能力を大きくする3つの方法と、潜在能力を顕在能力に変える3つの方法について話し締めくくりましたが、生徒の皆さんは驚くほど真剣に聞いてくれました。また質問コーナーも2人の生徒さんが手を挙げてくれ、最後の生徒会役員のお礼の挨拶も堂々として中身の濃いい研修会となりました。できるだけ具体的に話したつもりでも、私の話の全てが受け入れられるとは思っていませんが、何かのお役にたてれば幸せです。

  「物・お金 大切するよう 話したが はてさて子ども どんなに聞こえ」

  「今どきの 生徒しっかり しているね お礼挨拶 凄い迫力」

  「学校の 門が閉まって どうしよう 右往左往し 携帯電話」

  「不審者に よく似た私 門前で バツが悪そに 右往左往す」 

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shin-1さんの日記

○これが本当のエコバッグ

 最近は環境問題が大きなテーマになっていて、様々な取り組みがされています。しかし一方では使い捨ての空気も強く、それぞれの集会で出されるペットボトル入りのお茶も、お茶を沸かす手間やガスの出すCO2が問題なのか、今では一般常識化してきました。私などはあまりお茶を飲まないタイプなので、キャップを開けても余ったお茶の処分に困ってしまうのです。ペットボトルを配るとまたその空いたペットボトルの処分に困るのです。

 最近はどの職場も顔写真入りのネームを首から吊り下げられた人をよく見かけますが、殆どの人が無造作にぶら下げているため何を書いているのか全く分からず、時には裏返しで全く用をなさないものまで見受けられます。あれだったら昔のように胸のポケットに名札を書いた方がまだましなような気もするのですがいかがでしょうか。ペットボトルも名札も全て横並び現象の現れで、人がするからするといった感じが否めません。お金がないと二口目に言うのですから、マイお茶運動でも始めて欲しいと思うのです。

 先週10月11日から13日まで、西予市を主会場に第31回全国町並みゼミ卯之町大会が開かれました。私は仕事の都合で11日だけの参加となりましたが、その会場受付で思わぬ紙袋を手渡されました。何とそのバッグは新聞紙でできているのです。その存在は新聞で紹介されていて情報としては知っていましたが、手にとって見るのは初めてで、その出来栄えに驚きました。

 私たちはいつの間にか紙のバックは全て既製品だとばかり思って気にも留めず使っていたのです。お菓子を買っても、お店でちょっとした物を買っても紙バッグに入れてもらうため、わが家でさえ処分に困るほど紙のバッグは沢山あるのです。

 全国大会となると来訪者に少しでも格好良く見せたい、勢いきばって紙バックや封筒を印刷して作るものです。ところが今回の大会は地元の人たちを巻き込み、地元の熱意で大会を成功させようと頑張ったのです。でも紙バッグは全部どれ一つ同じ柄がないのですから、私にいただいたバッグは私だけのオリジナルなバッグなのです。こんなバッグを貰うと嬉しくなるもので、雨に濡らさなければ結構長持ちして、私は今、金融広報委員会の金融広報アドバイザーをしている関係もあって、このバッグを金銭教育に役立てようと、あちこちでこのバッグを持参しエコについて話をしているのです。この紙バッグ製作の裏にはいっぱい裏話があるのでしょうが、それも聞いてみたいものです。

 昨日この大会を誘致した友人の岡崎さんから電話がかかってきました。大会は最初様々な軋轢に悩まされ、大会を開くことすら危ぶまれていました。また関係の団体や機関の支援も受けられず文字通り前途多難な船出でした。でもそのことがかえって質素倹約や知恵を出す団結が生まれ、予想をはるかに超える大成功を導きました。これまでの行政支援に頼った時代は終焉を迎えたと実感しました。

 私などはこの大会の何のお役にも立てずむしろ傍観者の一人でしたが、彼らの勇気ある行動が町並みゼミという歴史ある大会に一石を投じたことは言うまでもありません。

 革新とは今を否定して生きることだとしみじみ思います。長い年月同じようなことを繰り返しているとそれが当たり前になります。それをマンネリというのでしょうが、私たちはもう一度その原点に立ち返り、何故、どうしてと自問しつつ革新を起こして行かなければなりません。本物と真心は必ず残るのです。手作りしたエコバッグを手に取りながら、「これぞ本物、これぞ真心」と思いました。

  「エコバッグ 新聞紙を 再利用 いやはや驚き 丈夫なものです」

  「何故ですか どうしてですか 自問する そこにアイディア いっぱいあって」

  「成功は 次なる力 蓄える 歩みを止めず ワンランクアップ」

  「マイお茶を 始めてみては 如何かと 思いめぐらし 俺が始める」

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shin-1さんの日記

○秋の夜長を楽しく

 このところ天気がよく、日中の気温は20度近くまで上がり汗ばむほどです。しかし季節はよくしたもので秋祭の話題があちこちで出始めると、さすがに朝晩は冷え込んで少し寒いくらいになりました。妻の配慮で寝間着も夏の薄手から冬の厚手に変わりましたが、起きて直ぐに書斎に入る時は寝間着の上に薄手のジャケットを一枚羽織るようにしています。

 今頃は日の出が6時半くらい、日の入りが5時半くらいになっていよいよ秋の夜長を感じさせる頃になりました。栗名月といわれる13夜の月を今年はまざまざと見て堪能しましたが、それ以来ずっと夕日も月も綺麗に見えて秋の深まりを感じさせてくれるのです。昨晩はその月を鑑賞しようと夜9時ころに散歩に出かけました。妻はテレビを見ながら友人から貰った手作りのゲームソテリアに夢中になっていて、私は一人で往復2キロの道のりを歩きました。15夜を過ぎたといいながら月の明かりは相当明るく、月がこんなに明るいとは久々の発見でした。私は忙しさにかまけて、こんな月明かりを楽しむ余裕さえなく暮らしていることに少し後悔しました。虫の音も、拭き渡る風も、時々通り過ぎる車のヘッドライトやテールランプも全てが月明かりの中で幻想的に感じました。

 月明かりを楽しんで帰ってから家庭サウナの電源を入れました。ここのところ温泉やサウナに行く暇もなく、草刈り以外は汗をかくことも少ないのでサウナで汗を流そうと思ったのです。このサウナは建築設計の仕事をしている息子がお客様から家を壊す際に貰ってきたもので、脱衣場の入口にデンと据えられています。時々夫婦や帰省した子どもたちが使うのですが、夏は無用の長物なのです。しかしこれから寒くなると電気代を気にしながら

家庭サウナを楽しむのです。

(わが家の小さな家庭用サウナ)

 まず電源を入れて少し温めてから私が入りました。家庭用なので温泉サウナのようにはいきませんが、その分低温でも十分発汗作用があって、汗をかいた後はゆっくり入浴し再び汗をかくという仕組みです。昨晩は妻も私の後でサウナに入りました。日ごろ余り目にすることのないバスタオルを巻いた妻の肢体も中々のお色気でしたが、妻もたっぷり汗をかいたようでした

(菓子箱と爪楊枝で作ったゲームソテリア)

 さて友人から貰ったというゲームソテリアですが、これが中々上手くいかず、妻は好きなサスペンスそっちのけで夢中になっていて、鼻で笑っていた私も誘い込まれ夢中になってしまいました。一本のピンを飛び越えると飛び越えたピンが抜かれるのですが、最後の一本まで飛び越えることができず、何本か離れて残ってしまうのです。最近菱加奈ブームを呼んでいるゲームソテリアは、当分の間わが家ではああでもないこうでもないと、夫婦の犬も食わぬもめ事のネタになるようです。

 秋の夜長は寝る時間が長く、妻は喜んでいますが、私はどちらかというと夜の長いのはあまり好きではありません。でもこれはお天道様のなさることなので、しっかりと秋の夜長を楽しみたいと思っています。

  「秋夜長 手作りゲーム 熱中し 犬も食わない 夫婦争う」

  「バスタオル くるんだ妻の 裸体見て 少しうっとり 少し幻滅」

  「月明かり 楽しみながら ウォーキング バックランプの 赤の幻想」

  「夜長く 読書パソコン 書斎入り 自分の世界 一人楽しむ」

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shin-1さんの日記

○わが家に展示している機関銃と魚雷エンジン

 昨晩双海町史談会から出されている宿題の「戦争を語る」というタイトルの原稿を書き始めました。400字詰め原稿用紙10枚以内ですから簡単に書けると思って構想を練りました。しかし昭和19年10月3日生まれの私に戦争の経験はなく、はてさてと思案しましたが中々筆が進まないのです。

 戦争を語るにはまず経験が優先しますし、どんな切り口で語るかによってその意味合いも変わるのです。先日非rかれた史談会で梶原先生は医者になるために勉学に励んだ著線での思い出を話されました。また久保進さっは女学校に通うお姉さんが徴用先の今治で空襲にあい死んだことを話されました。いずれも体験談なので私の心に深い感動を与えてくれました。しかし私には僅かに戦後の混乱期に少年時代を過ごした経験しかなく、祖母や先輩から聞いた話ではとても書けないのです。

 そこで満月の夜だった昨晩、妻が外出しているので自分の部屋の掃き出し窓から外に出て、海の資料館海舟館のかぎを開けて中に入りました。そこには戦争に使ったであろう機関銃と魚雷のエンジンなどが親父の手によって常設展示しているのです。「そうだ。これらの武器について書こう」と思い、カメラを取り出して写真に収めました。夜でしかも展示室がガラス張りなので上手く撮れませんでしたが、何のとか表現だけは出来たようです。

(わが家に展示している紫電改の機関銃)

 機関銃の前には昭和50年ころ「無印文化財」という愛媛新聞のコーナーで紹介された記事が額に入れて飾られていました。その額を取り出して書斎に持ち帰り文章にしましたが、これが結構リアルに戦争を語っているのです。親父は2度も召集され大陸に戦争に行きました。戦争で腕に傷を負い傷痍軍人となりましたが、何故かこれまで戦争について語ろうとはしませんでした。それは自分の目で見た戦争の悲惨さや意志半ばで散った戦友への配慮だったのかも知れないと納得していますが、この記事には少しだけ親父の戦争に対する思いのようなものが感じられたのです。

 その記事の見出しに「紫電改の機関銃」と書いています。早速インターネットのヤフーで紫電改について調べてみましたが、その中には松山大空襲や、松山飛行場が紫電改の基地だったことなどなど、次から次へ戦争の知らない私の闇の部分が浮かび上がってきたのです。これを解読するためにはそれなりの時間と暇が必要だし、出所も明らかにしなければならず、下調べのつもりでプリントアウトすると20枚や30枚など驚くような膨大な資料が出てくるのです。結局昨晩はその程度にして混乱した脳ミソを休めることにしました。

 今朝はプリントアウトした資料に目を通しながら朝食を食べ、迷路に入った「戦争を語る」という本来の入口までやっと引き戻すことができたのです。さて昨晩書いた原稿を再びパソコンで呼び出しましたが、既に10.5ポイントの文字で3枚も書いていて、400字詰め原稿用紙10枚はもう上限まできているのです。これを少し整理して今週は忙しいので来週中に提出しようと思っています。戦争を自分でなく武器に語らせる作戦は果たして上手くいくかどうか、今も少し不安が付きまとっています。

(魚雷のエンジン部分)
(魚雷のプロペラ、手前は大砲の薬きょう)

  「戦争を 知らずに育つ 俺だけど 武器に語らす アイディアいいぞ」

  「わが家には 戦争伝える 武器がある 誰が作った こんな道具を」

  「青島の 沖に沈んだ 飛行機の 部品が語る 戦争の秘話」

  「戦友を 思えば語る 言葉なく 黙しこれまで 親父は生きた」

 

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shin-1さんの日記

○男の料理

 私は不名誉ながら「男子厨房に入るべからず」タイプの古い人間です。したがって家ではご飯を炊いたこともなく、幸か不幸か今日まで生き延びてきました。ご飯を作って食べるくらいなら食べずに我慢する方がましだと、今でも思っているのですから変な男です。でもそのくらい妻の料理を楽しみにし、妻に全幅の信頼を寄せているのです。ですから妻もそのことは百も承知で、出かける時は2日であれば2日分、3日であれば三日分作り置きして出かけるのです。

 妻は昨友、親しい友人たちとの食事会に出かけました。まもなく出かける頃下灘の親類から「お魚を取りにおいで」と電話がありました。ドレスアップまではしていませんが、お出かけモードになっている妻に頼まれ片道8キロの道のりを車を走らせました。そしてヒラアジや鯛、太刀魚などをトロ箱いっぱい貰ってきました。それを見るなり妻は、「帰ってからこの魚を処理するのは大変だから、構わない範囲で処理してくれない」とせがむのです。

 昨日は人間牧場の草刈り後で作業服を着替えていないこともあって仕方がないと思いつつ魚の処理に挑戦しました。退職後3年余りになりますが、魚の下ごしらえはずいぶん機会があって上手くなったような錯覚を自分自身持っているので、約1時間外の流し台で格闘しました。半分くらい処理したところで綺麗に水洗いして、妻は冷凍庫に入れて出かけてしまいました。

 頭と鱗と内臓としっぽを取り除き水洗いする作業は、魚が氷詰めされていたため冷たく、戸外での作業だったため最後は体まで冷え切りましたが、どうにか下ごしらえが出来上がりました。平たいボールに入れてラップをかけ冷蔵庫に入れ、残飯の処理や包丁の研ぎ直し、まな板、水周りの掃除を行ってやっと一段落しました。少し魚臭くなった作業着を脱衣場の洗濯機に入れて風呂に入りましたが、来客を知らせるチャイムが3度も鳴って、私は右往左往しました。秋祭の神社の寄付や組費の集金など、相手が知っている顔なので失礼ながらバスタオルのままでの対応となってしまいました。

 今朝の新聞に昨晩調理した魚のことが載っていました。ここら辺ではひらあじという魚の学名は「かいわれ」というのだそうです。「かいわれ」とは貝割れを連想しますがその姿形で貝を割って食べることはできず、どうもカイワレ大根に由来しているのではないかというのです。尾びれも別に変っあ様子はなく言われてみればカイワレ大根に似ているような気もするのですが、とにかく煮付けにすると美味しい魚で、今晩の食卓が楽しみです。

 最近少しずつ家庭の仕事が板に付いてきました。妻が働き私が自由人という負い目を感じているからなのか、昔ほど家のことは縦にも横にもしない姿勢は影をひそめ、ゴミ出しや畑の除草など以前よりは随分成長したように自分では思うのです。妻も同感で「最近優しくなった」と認めています。食べた後の食器はまだ台所へ持っていく程度の片づけしかできませんが、これも以前よりかは凄い進歩なのです。

 近頃男の料理教室などが盛んに行われ私も誘われますが、わたしはまだそこまでの時間的な余裕がないのです。「そのうちお前が死んだら俺だって料理ぐらいはするぞ」と、裂きに逝くかも知れない自分のことを棚にあげてうそぶいています。できればそのうち、一品くらいは自分の自慢の料理も作れるようになりたいと思いながら包丁で魚の下こしらえをしたのです。10時過ぎ外出先から帰った妻は、全て下ごしらえした魚を見て驚き、「乙さんありがとう」(チュー)でした。

  「俺だって 魚の処理は できるのよ さらに一歩が 踏み出せないだけ」

  「まあ嬉し 外出帰った 妻の弁 妻の喜び 俺の喜び」

  「ヒラアジを 沢山貰い 体冷え 風呂に入ると チャイムで冷える」

  「自立する 人ごと思う これまでは これからめざす 自律と自立」  

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○大型の赤トンボ

 「はてさて今頃赤トンボ先生はどうしているやら」と、今晩ブログを書きながら気になって携帯電話を入れました。携帯電話とは左様に便利なもので、人間について動くため早速通じました。私が赤トンボ先生と呼んでいる元中学校校長の久保田さんはこの春学校を退職後、退職前の希望通り私と同じ自由人となって釣り三昧な日々を送っているようです。今日も釣りに出掛けたらしく釣果は親指くらいなサヨリを90匹も釣ったそうです。海の近くに住んでいるのに釣りなどしない私はいの向くままの先生の生き方に強く惹かれるのです。

 先生が竹で作る赤トンボづくりの名人であることはブログで紹介しましたが、私が教育長をしていた頃教育長室に飾っていた大きな大きな赤トンボが、退職時のドサクサで箱の中に入れられたままになっていましたが、数日前その箱を整理していて竹トンボが思わぬ恰好で出てきました。立派な羽根が2匹とも全て胴体から離れているのです。本物のトンボだったら死んで標本にもならぬのですが、せっかく思いを込めて作ってくれたトンボなので何とかならないか考えました。

 親父の倉庫から木工ボンドを持ち出し、羽根の根元に注入し固定をして乾燥させました。先日はその様子を目敏く見つけた孫二人が、私の目を盗んで遊び道具に使っているのです。「まだ本当に乾ききっていないのだから触るな」と叱ると、二人が「おじいちゃんに怒られた」と、おばあちゃんである妻の所へ言いつけに行きました。孫可愛さでしょうか妻は、そんな所へ置いておくからよ」と私を叱りました。まあそんなこんなの可愛いいざこざもありましたが、何とかボンドも乾いてバランスも良く修理が出来上がりました。今晩その赤トンボを見ながら無性に赤トンボ先生のことが思い出されたという訳です。

 何はともあれ先生の元気な声を電話で聞き安心しました。現職の頃頻繁にお付き合いしていた友人たちも、退職をすると気にもかけず声もかけずはよくある話です。勿論現職ですから忙しいのは分かりますが、ちょっとした声かけや気にかけは嬉しいものなのです。

 退職した私の友人が今病気にかかって入院しています。私が知り得た入院状態を現職の私の友人に話しました。早速見舞いにでも行って勢をつけて欲しいとお願いしました。あれからもう1ヶ月も経っていますが、昨日出会ったので、「見舞いに行ったか」聞けば、「忘れていた」とそっけない返事が返ってきてがっくりしました。「忙しくて行けなかった」ならしも「忘れていた」のです。仮にも退職したにせよ同じ職場で先輩後輩の間柄だったのですから「それはないだろう」と思いました。

 また今日銀行へ立ち寄ったら先輩とばったり出会いました。「○○さんが病気で入院しています」というと、「わしの時に来てもらっていないので」とこれまたそっけない返事です。病院の病室ベットで苦しみながら病気と闘う友人のことを思うと、この世の中の切なさを思わずにはいられないのです。もっとも入院している友人の日ごろの付き合いの浅さが大きく影響していることも否めないのです。

 少なくとも私はいい友人に恵まれて幸せだとは妻の弁です。これから人を大事に生きてゆきたいと思っています。

  「お元気?と 電話をかける 電話口 友は喜び あらわに語る」

  「忘れてた いきなりこんな 言葉聞き 怒りとび越え こりゃあ駄目だ」

  「お見舞いに 来てくれないの 行かないの 堂々めぐり どっちもどっち」

  「竹トンボ 木工ボンドで 修理して 俺もまんざら 不器用じゃなし」


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shin-1さんの日記

○思い出の銀杏の木

 今朝人間牧場へ草刈りに行く途中母校である下灘小学校へ立ち寄りました。とっさの思い付きだったため、首には田舎のおじさんよろしくタオルを巻きつけ、作業着のままでの訪問です。学校の校門は不審者対策のため閉められていましたが、通用門を開けて中へ入りました。校庭で授業をしていた先生と児童は、私を不審者と思わずやり過ごしていただきました。運よく顔見知りの校務員さんがいて、校長室へ案内してくれました。この学校は5代続けて女性の校長さんで、今年の春に県教委から異動で赴任して来られた辻井芽美子先生です。 研修会や少年少女おもしろ教室で何度かお会いしたことがあるのですが、先生が来られてから学校へ来るのは初めてのような気がして、少し気が引けました。

(辻井校長先生)

 今日なぜ急に思いついて学校へ立ち寄ったのかは理由があるのです。まもなくの10月21日、この学校で第50回青少年赤十字研究会があって、私はこの日講演を頼まれているのです。前任の池田校長先生から一年前に頼まれていたので少し役不足の感がしますが、まな板の上に乗った鯉のように今はあきらめて何を話そうか迷っているところです。

 この下灘小学校は私の母校です。学び舎だった木造校舎も既になく、鉄筋コンクリートに生まれ変わっていますが、現在の校舎が落成した時が私の役場に入った年なので、落成式の手伝いにをしたりしたためよく覚えているのです。

(銀杏の木プロジェクトで見事息を吹き返したシンボルの樹)

 学校の脇門付近にシンボルともいえる大きな銀杏の木があります。私が子どもの頃は目線が低かったせいか、見上げるほど大木のような気がしましたが、今はそれほど大きくは感じられないのです。というのも数年前寄る年波とでもいうのか受精が衰え枯死寸前だったのです。学校や子ども、それにPTAなどが中心になって樹木医の指導を得て「銀杏の木プロジェクト」という事業を立ち上げ、「銀杏の木を救え」を合言葉に一生懸命取り組みました。根元を掘りそこにみんなで焼いた炭で土壌改良をしたりしました。その結果銀杏は主幹こそ弱ったものの脇芽がどんどん出て見事に樹勢を回復したのです。

 私は当時教育長をしていて色々と陰で応援しましたが、学校のシンボルであるこの銀杏はまさに木霊宿る樹なのです。

 私たちの子どもの頃はこの木が何となく邪魔でした。校庭の隅ならいざ知らず、見方によっては運動場の少し真中気味な所にあるので、ソフトボールの度にこの木にボールが当たるのです。下灘小学校ルールというのがあって、銀杏の木に当たると二塁打なのです。公民館のソフトボールにもこのルールが適用され、試合巧者なチームはこの特典を上手く使って勝ち進んだのです。

 久しぶりに見た銀杏の木は殊のほか元気で私を迎えてくれました。校長室でお茶を飲みながらお話を終えて帰るとき、校長先生に校門まで送っていただきました。この学校もまだ40年くらいしか経っていないのに老朽化が進んでいるようです。また子どもの数も50人程度で、私たちの時代の一クラスくらいなのです。少子化の波がここにも押し寄せているようで、寂しさを感じました。

 そういえば10月21はもう一週間後なのです。学校を訪問して初めて気が付きました。一週間後にはどんな気持ちでどんな話をすればいいのでしょう。地元は中々やりにくいものです。まあ何とかなるでしょう。

  「真っすぐを 思いつくまま 左折して 学校訪問 昔の母校」

  「コーヒーは 飲まない覚え 紅茶出る 懐かし人の 今も変わらず」

  「生き返る 銀杏の姿 嬉しくて 思わず写真 パチリ一枚」

  「少子化の 波が打ち寄せ 子ども減る 日本全国 寂しい限り」 


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